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エイレーネ・コロニーは地球から百光年先にある。
百光年。この距離を実感できる人間はいない。光が百年かけて走る距離だと言われてもピンとこないし、太陽系から見てこと座の方角に約九四六兆キロメートルと言われても余計にピンとこない。人間の脳は六桁を超える数字に対して急速に興味を失う生き物であり、光年だの兆だのという単位はほぼ詩の領域に属している。
だから、みくがエイレーネに到着したときの感想も至って平凡なものだった。
「おなかすいた」
高速航路で十二日間の船旅。量子圧縮航法の船内は快適だったが食事は最悪だった。宇宙船の食事がまずいのは西暦二千年代のSF映画の描写そのままであり、四千六百年の技術革新はこの問題だけは見事に解決し損ねていた。栄養は完璧、味は壊滅的。これもまた人類の本質のひとつかもしれない。
コロニーの到着ロビーに足を踏み出すと、窓の外にケプラー442bの巨大な夜面が見えた。地球より一回り大きい惑星が、薄い大気の向こうで静かに光を反射している。大気の層が複雑に光を屈折させて惑星の輪郭が青紫色に滲んでいるのが特徴的だった。
みくは少しだけ足を止めた。
きれいだと思った。それからコロニー内のバスに乗って、学生寮に向かった。バスの車内には商店街の広告が貼ってあり、ラーメン屋の新装開店と電子書籍の新刊フェアが告知されていた。百光年先にラーメン屋の広告があるという事実は、人間の生態の堅牢さを示す最も力強い証拠であろう。
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エイレーネ・コロニーでの学生生活は、みくの想像よりずっと地味だった。
宇宙植物学プログラムの学生は同期が二十三名。地球出身が九名、火星が五名、木星衛星圏が三名、太陽系外コロニー出身が六名。人類の拡散と定住がこれほど進んだ時代にあっても大学の教室はどこか似たような空気を纏っていて、前の席に座る学生のノートの取り方が気になったり隣の学生の貧乏揺すりが耳障りだったりする。六千九百年が経っても人間の小さな苛立ちは変わらない。
みくの日課はこうだった。午前中は講義、午後はラボ、夕方は論文を読み、夜は寮の共有キッチンで地球から持ってきたインスタント味噌汁を飲む。味噌汁は百光年を越えても味噌汁の味がした。当然のことだが、これが結構な慰めになった。
入学から三ヶ月後、最初のフィールドワーク遠征が組まれた。行き先はティルヴァス。
エイレーネからティルヴァスまでは低速航路で約一週間。学生には予算がないので低速航路だ。だが一週間の退屈を差し引いても、ティルヴァスの地表に立ったときの光景は言葉を奪った。
紫。
地表を覆う薄紫色の靄の中に、結晶樹の森が立っている。
高さ三十メートルに達する半透明の幹が紫の大気を透かして光を屈折させ、一本一本が薄い虹を纏っているように見えた。枝から伸びる板状の結晶が風に揺れて互いにぶつかり合い、硝子を叩くような音が森全体に反響している。
植物ではない。鉱物でもない。その中間にあるものが、地球の樹木と瓜二つの形でそこに立っている。
みくはしゃがみ込んで結晶樹の根元に触れた。指先にひんやりとした硬質な感触が伝わる。無機物の冷たさだ。だが内部では光化学反応が進行しており、結晶格子の奥で光のパルスが明滅するのが透けて見えた。
──つめたい。
そんな自身の声が不意に浮かんだとき、みくの指が止まった。
誰かの頬に触れたときの感触が一瞬だけ蘇る。
みくは手を引いた。立ち上がって、靄の向こうの結晶樹の森を見渡した。
百光年の彼方だ。ここには桂川も渡月橋もない。銀色の髪も、灰色の瞳もない。
みくは息を吐いた。白い息にはならなかった。ティルヴァスの大気はそういう組成ではないのだ。
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椎名透はみくの隣の席に座っていた。
正確に言えば、入学初日にたまたま隣になっただけだ。だが大学というのは不思議なもので、最初の一週間の席順がその後の四年間の人間関係を決定することが往々にしてある。透はティルヴァスのフィールドワークでもみくと同じ班だった。
二十歳の日本人。黒い髪、黒い目。特別に端正というわけでもなく、特別に目立つわけでもない。強いて特徴を挙げるなら、人の話をまっすぐに聞く癖があった。みくが結晶樹の収斂進化について三十分しゃべり続けたとき、透は一度も遮らなかった。
「椎名くんって地球環境工学からの転向だよね。なんで宇宙植物学に?」
コロニー内のカフェで、みくが訊いた。
「工学って結局、問いを立てる前に解が決まっている学問だったんだよね。橋を架けるなら荷重計算、大気を浄化するならフィルタ設計。でも結晶樹は違う。問いそのものがまだ見つかっていない」
「わかる」
みくは深く頷いた。
「何がどう分かってるかは答えづらいけど、椎名くんが何を言いたいのかはなんとなくわかる」
透は笑った。穏やかな笑い方だった。意味もなく笑うタイプではなく、面白いと思ったときだけ笑う。みくはそれを好ましいと思った。好ましいと思ったことに、少しだけ後ろめたさを感じた。
後ろめたさの正体をみくはまだ言語化できなかった。
◆
一年が経ち、二年が経った。
みくと透の距離はゆっくりと縮まった。フィールドワークの移動中に並んで歩くようになり、ラボで遅くまで残っているときに二人で食堂に行くようになり、休日にコロニー内の公園を散歩するようになった。
透はみくに好意を持っていた。
それはみくにも分かっていた。分かっていて、みくは何もしなかった。透が一歩踏み込もうとするたびに半歩だけ退く。逃げているわけではない。ただ、踏み込めない場所がみくの中にあったのだ。
渡月橋。
銀色の髪。灰色の瞳。
「……みく」
あの声は今もみくの耳の奥に残っている。八年間ただ一度だけ呼ばれた自分の名前。それが何を意味するのか、みく自身にも分からなかった。分からないまま百光年の距離を越えてきた。距離が答えをくれると思っていたのかもしれない。だが百光年は百光年でしかなく、答えは落ちていなかった。
ニヴィスは来なかった。
一年が経っても、二年が経っても。
至高天の民にとって百光年は瞬きの距離だろう。行こうと思えばいつでも行ける距離だ。しかしみくはそれを知らない。
みくはニヴィスがそういった存在だと言う事を毛ほども知らないのだ。
◆
二年目の晩秋に、変なことが起きた。
エイレーネ・コロニーの気候制御系統に不具合が生じたのだ。コロニーの気候は中央管理システムが一括制御しており、気温も湿度も降雨も風速も精密にプログラムされている。住人が傘を持たずに外出する程度には信頼性の高いシステムだった。
そのシステムがある日突然、雪を降らせた。
十一月末のことだった。コロニー内の中央公園に白い粒が舞い始め、三十分ほどで芝生の上にうっすらと積もった。管理局は即座に原因調査に入ったが、結論は「不明」だった。気候制御の全パラメータは正常値を示しており、降雪指令を出したログも存在しない。にもかかわらず雪は降った。
翌日には溶けた。管理局は不具合の修正パッチを当てた。住民は「珍しいこともあるね」で終わった。
ところが翌年も降った。
同じ時期に、同じ場所に、同じように。管理局は二度目の修正パッチを当てた。今度はシステムの根幹にまで踏み込んだ大規模な診断を行ったが、やはり異常は見つからなかった。降雪に関与する制御モジュールはすべて正常に動作しており、問題は「存在しない」のに雪だけが降るのである。
管理局は報告書にこう書いた。「原因不明。ただし降雪以外の気候制御機能に異常は認められず、コロニー運営への実害はないため、引き続き監視を継続する」
つまり、お手上げだった。原因が分からないものは直しようがない。しかし雪が降る以外に問題はないのだから、まあ、いいか──というのがコロニー管理局の公式見解だった。人間はだいたいのことには慣れる。三年目にはもう誰も驚かなくなり、「エイレーネの初雪」は季節の風物詩として受け入れられるようになった。
◆
ところでみくにとって、この雪は違う意味を持っていた。
最初の年。
ラボの窓から見えた白い粒に、とある少年の姿を重ねた。
そして二年目。
雪が降り始めたとき、みくは廊下の窓際に立っていた。
白い粒が落ちてくるのをぼんやりと眺めて、それからふう、と息を吐いた。胸の奥が痛むような感覚はあったが、痛みは少しはマシになっていた。
透が隣に来た。
「また降ったね」
「うん」
「不思議だよね。原因不明の雪」
みくは窓の外を見たまま、小さく頷いた。
「……不思議だね」
不思議と言ったのは雪のことではなかった。自分がこの雪を見るたびに渡月橋を思い出すことが不思議だった。百光年を越えてきたのに、白い粒がちらつくだけで十歳に戻される。
三年目。
みくはまたもや展望デッキにいた。
コロニーの外壁に設けられた展望窓からケプラー442bの夜面が見える。惑星の輪郭が青紫色に光り、その向こうには散開星団の微かな光が散らばっていた。デッキの天窓から、今年も白い粒が静かに落ちてきている。
三度目の雪を見ながら、みくは不思議なほど穏やかだった。
雪がコロニーの人工芝の上に積もっていくのを、展望窓の暖かい側から眺めている。
透の研究発表があった日だった。結晶樹の光化学反応における量子コヒーレンスの持続時間に関する中間報告。みくには半分くらいしか理解できない物理寄りの内容だったが、透が嬉しそうに話しているのを見るのは好きだった。
好きだった。
その言葉がみくの中で響いたとき、同時にもうひとつの瞳が浮かんだ。
灰色の瞳。
──『……大きく、なった』
あのとき、ニヴィスは何を見ていたのか。
みくは展望窓の前で目を閉じた。窓の外では雪が降り続けている。
ニヴィスの瞳を思い出す。渡月橋の上で自分を見下ろしていた灰色の瞳。あの目は──何を映していたのだろう。
同時に、透の目を思い出す。今日、発表のあとにみくを見つけて「どうだった?」と訊いてきたときの黒い目。
二つの瞳が脳裏で並んだ。
そして──ずれた。
透の目はみくを見ていた。みくという人間を。二十一歳の、結晶樹に夢中な、味噌汁が好きな、ときどき方向音痴を発揮する、等身大のみくを。視線の高さが同じだった。同じ地面に立って、同じ方向を見て、同じものに笑う。
ニヴィスの目は違った。
見下すのではない。そうではない。見下すためには相手を認識する必要があり、ニヴィスの目にはそもそも「下」がなかったのだ。上も下もない。ただ、位置が違う。
どう表現すればいいのかみくには分からない。分からないが、一番近いのは──水族館で深海魚を見ている人の目だ。深海魚のことを嫌いなわけではない。踏みつけたいわけでもない。ただ、硝子一枚を隔てた向こう側にいる。硝子は永遠に消えない。深海魚が何を考えているか知りたいと思うかもしれない。だが深海魚と恋はしない。
三年分の雪が、みくの中で静かに溶けた。
雪の中からあらわれたモノを感得するみく。
そして──
──違う。
と思った。
そう、違うのだ。恋ではなかったのだ。
みくは展望窓から離れた。窓の外ではまだ雪が降っている。来年も降るだろう。管理局には悪いが、みくはもうこの雪を嫌いではなかった。
翌日、透がいつものようにコロニー内のカフェでみくを待っていた。
「みく、週末空いてる? コロニーの南区に新しくできた植物園があるんだけど」
みくは透を見た。黒い目が真っ直ぐにみくを見ている。この目は知っている。この距離は知っている。同じ地面に立っている人間の目であった。
「うん」
みくは答えた。
十八歳のとき渡月橋の上に置いた小さな石ころを静かに拾い上げて、ポケットにしまいながら何となくみくは思う。
もし。もし
果たして自分は、透の目をこれほどまっすぐ見る事ができただろうか、と。
◆
それから十年が経った。
十年を一息に飛ばすのは乱暴だが、人生には語るべき十年と語らなくてよい十年がある。みくにとってエイレーネでの十年は後者だった。穏やかで、地味で、着実で、何かに脅かされることのない十年。劇的な事件は一つも起きなかった。
みくは二十八歳になっていた。
宇宙植物学の研究者として一人前になり、エイレーネ・コロニーの研究機関に正規のポストを得た。専門はティルヴァスの結晶樹。収斂進化の問題に対して「光合成効率と構造安定性の物理的制約が形態空間を収束させる」という仮説を提唱し、六つの地球外生態系で比較データを集めた論文が学術誌に掲載された。結晶樹研究の一角を担う若手研究者として、みくは静かに名前を知られつつあった。
透は隣にいた。
研究者としても、それ以外の意味でも。二人の関係をここで詳しく語ることは控えるが、コロニー内の住居区画で二人分のコーヒーカップが台所に並んでいるという事実だけ記しておけば十分だろう。
ニヴィスのことはもう考えなくなっていた。
忘れたわけではない。ただ自然に、京都の記憶が堆積物の下に埋もれていった。
渡月橋の手触りも桂川のにおいも、銀色の髪の冷たい輝きも。消えたわけではない。地層の下に静かに在る。掘り返せば出てくるだろう。だが掘り返す理由は今のところないし、今後もないだろう。
まあ乱暴に埋めたなら、何かの拍子で埋めたものが露わになってしまう事もあるかもしれないが。しかしとても綺麗に、丁寧に埋められたそれらは今後も地表にあらわれる事はないはずだ。
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西暦六千九百三十三年。みくが二十八歳の秋のことだ。
ケプラー442b星系の小惑星追跡システムが、一つの天体の軌道異常を検出した。
テミス2990。直径四百メートルのケイ酸塩小惑星。この星系の小惑星帯に属する特に珍しくもない岩塊だったが、軌道計算によればエイレーネ・コロニーから約八万キロの距離を通過する予測が出されていた。八万キロは宇宙的には至近距離であり、万が一の軌道変動に備えてコロニー管理局は「注意報」を発令した。
結果から言えば何も起きなかった。
テミス2990は予測された軌道を逸れ、ケプラー442恒星の重力圏に捕らえられて周回軌道に遷移した。コロニーの至近を通過するどころか、恒星の方へ落ちていったのである。コロニー管理局が発動した避難計画はキャンセルされ、住民は「ああ、そうですか」程度の反応で日常に戻った。
管理局の事後報告書にはこうある。「当初の軌道計算モデルでは恒星重力圏への遷移確率は〇・〇四パーセントとされていたが、星系内の微小天体との重力相互作用が予測を超える規模で生じたものと推定される。なお、本事象は自然現象の範疇であり、人為的介入の形跡は認められない」
〇・〇四パーセント。ちなみに後日の精密再計算では、テミス2990が当初の軌道を維持した場合、エイレーネ・コロニーとの最接近距離は約三千二百キロまで縮まる可能性があったという。三千二百キロは「注意報」ではなく「非常事態宣言」の閾値だ。さらにごく低確率ではあるが直撃のシナリオも排除されていなかった。
が、まあ──そうはならなかった。
小惑星は恒星に落ちた。コロニーは無傷だった。みくの論文は締切に間に合い、透は新しいコーヒーメーカーを買い、南区の植物園では新種の火星蘭が咲いた。
宇宙の天気予報は地球のそれと同じくらい当てにならない。〇・〇四パーセントの方に転がることもある。たまたま。偶然。天体力学のちょっとした気まぐれである。
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プルーウィアが「あら」と言った。
ここは至高天が住まう星でも地球でもない。何だったら宇宙ですらもない──いうなれば、何処でもない場所だ。
彼女はそこが好きだった。なぜなら、静かだから。
全宇宙のあらゆる場所に存在するというのはプルーウィアの愛すべき個性であるが、それゆえの悩みもある。
だからこそ分かるのだ──ふ、と冷たい風が吹いた事が。
吹けばどうなるかまでは彼女にはわからない。
もしかしたら宇宙がなくなってしまうかもしれないし、最近贔屓にしている地球がいきなり爆発してしまうかもしれない。
そうなってはさすがにプルーウィアも困る──というか、嫌なのだが至高天にも
でも、とプルーウィアは思う。
「悪い事にはならないでしょう、多分」
と。
なぜなら彼女は『銀河万象があの愛すべき弟にとっての
ならば、きっと──。
(第三部・完)
王子様編はこれで終了です。まあまた何か思いついたら続きを書きますので、完結表記にはしないでおきます。良かったとおもってくださったらブクマ、評価のほどお願いします。