勇者だと勘違いされているただのコスプレイヤーです 作:PPP
第1話「俺、異世界に来ちゃいました」
夏の終わりの東京は、まだ蒸し暑さを残していた。
国際展示場駅から続く人の波に揉まれながら、田中誠一は大きなキャリーケースを引きずって歩いていた。時刻は午後六時を回ったところ。西の空が茜色に染まり始め、ビル群のシルエットが長い影を落としている。
今日は年に一度の大型コスプレイベント「ワールドコスサミット」の最終日だった。
誠一の全身を包んでいるのは、銀色に輝く精緻な鎧。胸部には複雑な紋章が刻まれ、肩当てからは白銀のマントが風になびいている。腰には装飾過多な長剣を佩き、額には翼を模した王冠。
傍目には、ファンタジー世界から抜け出してきた騎士そのものだ。
「あっつ……死ぬ……」
しかしその口から漏れるのは、およそ英雄らしからぬ呻き声だった。
三十二歳。中堅機械メーカーの経理部に勤める、どこにでもいる平凡なサラリーマン。それが田中誠一という男の正体である。
趣味はコスプレ――正確に言えば、コスプレ衣装の製作だ。
既製品では満足できず、素材の選定から縫製、塗装に至るまですべて自分の手で行う。今着ているこの鎧も、構想から完成まで八ヶ月を費やした自信作だった。
素材は軽量なEVAフォームと3Dプリンターで出力したパーツの組み合わせ。見た目は金属そのものだが、実際の重さは三キロ程度に抑えてある。それでも真夏の炎天下で一日中着ていれば、サウナスーツを着て走り回るようなものだ。
「コンビニ……コンビニ……」
誠一は朦朧とした意識の中で、ひたすらその言葉を唱えていた。
炭酸飲料。できれば凍らせたやつ。それを首筋に当てて、溶けたところを一気に飲み干す。その光景だけが、彼の足を動かす原動力だった。
駅前のコンビニが見えてきた。
自動ドアの向こうに、冷気に満ちた別天地がある。誠一は最後の力を振り絞り、その扉へと手を伸ばした。
その瞬間――
「……は?」
足元から光が溢れた。
最初は、地面に投影されたプロジェクションマッピングかと思った。駅前でよくやっているイベントの類だ。しかしその光は急速に輝きを増し、誠一の視界を白く塗り潰していく。
立っていられなくなった。
体が浮遊する感覚。上下左右の感覚が消失し、自分がどこにいるのかわからなくなる。
――え、ちょっと待って。何これ。何が起きてるの。
叫ぼうとしたが、声が出ない。というより、声を出すための空気がない。真空の中に放り出されたような、奇妙な窒息感。
やがて、その感覚も曖昧になっていった。
意識が、遠のいていく――
◇ ◇ ◇
冷たい。
それが、最初に感じたことだった。
背中に触れる硬い感触。滑らかで、ひんやりとした石の床。誠一はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、高い天井だった。
アーチ状の天井には、見たこともない文様が描かれている。淡く発光する青白い線が複雑な幾何学模様を形成し、その中心から柔らかな光が降り注いでいる。
「……え?」
誠一は上体を起こした。
そして、固まった。
彼を取り囲むようにして、数十人の人間が跪いていた。
全員が中世ヨーロッパを思わせる衣装を身につけている。ローブを纏った老人たち、甲冑に身を包んだ騎士たち、きらびやかなドレスの貴婦人たち。
誰もが頭を垂れ、身じろぎ一つしない。
まるで――神殿で神に祈りを捧げるかのように。
「あ、あの……」
誠一が声を発した瞬間、空気が震えた。
跪いていた人々が一斉に顔を上げる。その目には、畏怖と歓喜が入り混じった感情が浮かんでいた。
最前列にいた一人の少女が、ゆっくりと立ち上がった。
歳は十代後半だろうか。白銀の長い髪が腰まで流れ、深い紫色の瞳が潤んでいる。純白のドレスには金糸の刺繍が施され、その額には小さなティアラが輝いていた。
誰が見ても――王族。
少女は震える足取りで誠一に近づき、その場に膝をついた。
「おお……おお……!」
その声は、嗚咽に近かった。
「伝説の勇者ロードリック様……ついに、ついにお戻りになられたのですね……!」
「は?」
誠一の口から、間の抜けた声が漏れた。
ロードリック? 伝説の勇者?
何を言っているのか、まったく理解できない。
しかし少女は誠一の困惑などお構いなしに、涙を流しながら言葉を続けた。
「三百年……三百年もの間、この世界は魔王の脅威に怯えてまいりました。ですが、もう大丈夫。あなた様がお戻りになられた以上、我々はもう恐れることはありません……!」
三百年。魔王。
単語の一つ一つが、誠一の脳内で警報を鳴らしている。
「ちょ、ちょっと待ってください」
誠一は両手を振って、少女の言葉を遮ろうとした。
「俺、田中っていうんですけど。田中誠一。東京に住んでる普通のサラリーマンで――」
「タナカ・セイイチ……」
少女は恭しく頭を垂れた。
「成る程。三百年の封印の代償として、記憶を失っておられるのですね」
「いや、記憶は普通にあるんですけど」
「ご安心ください。記憶がなくとも、あなた様が勇者ロードリック様であることは間違いありません」
少女は立ち上がり、誠一の全身を指し示した。
「その白銀の鎧。胸に刻まれし聖王国の紋章。額の『天翼の冠』。腰に佩かれた『黎明剣』――すべてが、伝説に記された勇者様のお姿と完全に一致しております」
誠一は自分の姿を見下ろした。
コスプレ衣装が、そこにあった。
今朝、気合を入れて着込んだ自信作。ゲーム『クロニクル・オブ・セイクリッド』に登場する「聖騎士ロードリック」の完全再現コスチューム。
胸の紋章も、額の冠も、腰の剣も――すべて誠一が八ヶ月かけて手作りした小道具だ。
「いや、これはコスプレで――」
「コスプレ?」
少女が小首を傾げる。
誠一は必死に説明しようとした。
「えーと、つまり、衣装というか、仮装というか……本物じゃないんです。俺が作った偽物で――」
「偽物……?」
少女の目が見開かれた。
そして次の瞬間、感極まったように微笑んだ。
「なんと謙虚なお方……! ご自身の聖なる武具を『偽物』とおっしゃるとは……!」
「いや、本当に偽物なんですって! 素材はEVAフォームっていうスポンジみたいなやつで、塗装はアクリル絵具で――」
「イーヴイエー・フォーム……アクリル……」
少女は真剣な顔で何度か頷いた。
「古代の神聖言語でございますね。我々凡人には理解が及びませんが、きっと深い意味があるのでしょう」
「神聖言語じゃなくてホームセンターで買えるやつなんですけど!」
「ホーム・センター……」
少女の目に、さらなる敬意が宿る。
「やはり、異界の地には我々の知らぬ聖地があるのですね……」
駄目だ。話が通じない。
誠一は天を仰いだ。頭上のアーチ天井が、無情に光り続けている。
「申し遅れました」
少女が居住まいを正した。
「私はリーナ・フォン・クレスティア。このクレスティア王国の第三王女にして、召喚の儀の執行者でございます。勇者様――いえ、タナカ・セイイチ様をこの世界にお呼びしたのは、私の魔術によるものです」
召喚。
その単語が、ようやく誠一の頭の中で意味を成した。
「まさか……異世界召喚……?」
「ご理解いただけましたか」
リーナ――王女は嬉しそうに微笑んだ。
「はい。こちらはクレスティア王国。あなた様がかつてお暮しになっていた世界とは、異なる世界でございます」
異世界。
本当に、異世界に来てしまったのか。
誠一の頭が、ゆっくりと状況を理解し始める。
コンビニに行こうとしていた。足元が光った。そして気づいたらここにいた。
つまり――
「俺、帰れるんですか」
思わず口をついて出た言葉だった。
リーナ王女の表情が、一瞬だけ曇る。
「申し訳ございません。召喚の術は一方通行にて……元の世界にお戻りいただく術は、今のところ発見されておりません」
「え」
「しかしご安心ください。勇者様には、この城で最高のおもてなしをさせていただきます。お部屋も、お食事も、何なりとお申し付けくだされば――」
「いやいやいや、ちょっと待ってください」
誠一は頭を抱えた。
帰れない。
あのワンルームマンションに帰れない。会社にも行けない。月曜の朝イチで提出しなきゃいけない月次レポートも、上司の佐藤課長の小言も、全部なくなった。
……あれ? それは別にいいのでは?
いや、よくない。よくないはずだ。三十二年間生きてきた世界がまるごと消えたのだ。もっと悲しむべきだ。もっと取り乱すべきだ。
しかし現実問題として、誠一の心は妙に凪いでいた。
あの狭いワンルームも、毎朝の満員電車も、理不尽な残業も、もう経験しなくていい。
「……いや、そうじゃなくて」
誠一は頭を振った。
今はそんなことを考えている場合ではない。
「あの、俺、本当に勇者じゃないんです。戦えないし、魔法も使えないし――」
「ええ、存じております」
リーナ王女があっさりと頷いた。
「え?」
「召喚された直後は、勇者様といえども力を失っておられる。これは伝説にも記されていることです。ご安心ください。この世界で過ごされるうちに、かつての力は必ず蘇ります」
「いや、だからかつての力とかないんですって――」
「お疲れでしょう。まずはお部屋でお休みください」
リーナ王女が手を叩くと、騎士たちが一斉に立ち上がった。
「ご案内いたします、勇者様」
屈強な騎士が、誠一の前で片膝をついた。
その眼差しには、純粋な敬意が込められている。子供が憧れのヒーローを見るような、あの眼差しだ。
「あ……はい……」
誠一は、もはや抵抗する気力を失っていた。
こうして彼は――ただのコスプレイヤーは――伝説の勇者として、異世界での生活を始めることになったのである。
いったい、この先どうなってしまうのか。
誠一自身にも、まったくわからなかった。