勇者だと勘違いされているただのコスプレイヤーです 作:PPP
異世界生活三日目。
田中誠一は、極上の眠りの中にいた。
夢の中で、彼は東京の満員電車に揺られていた。汗臭い車内、押し合いへし合いの地獄絵図。毎朝の苦行が、脳裏に焼き付いた記憶として再生される。
ところが――不思議と、不快ではなかった。
むしろ懐かしい。あの日常が、もう永遠に失われてしまったのだと思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
佐藤課長の小言も、経理部の山積みの書類も、休憩室で繰り広げられる他愛もない雑談も――すべてが遠い世界の出来事になってしまった。
「勇者様」
誰かの声が聞こえる。
「勇者様、朝食の時間でございます」
声は次第に大きくなり、夢の世界を侵食していく。満員電車の景色が歪み、溶けるように消えていった。
「んん……」
誠一は薄らと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、絹のような天蓋。そうだ、ここは異世界の城だ。自分は勇者として祭り上げられ、王族用の客室に泊まっているのだった。
「……今、何時」
呟きながら、誠一は上体を起こした。
窓から差し込む光が、やけに眩しい。東の空から昇ったばかりの朝日――ではなく、すでに太陽は天頂近くまで上がっていた。
「え」
思わず声が漏れる。
寝坊だ。盛大な、完膚なきまでの寝坊。
「やばいやばいやばい……!」
誠一は布団を跳ね除けて立ち上がった。心臓がばくばくと鳴っている。寝坊の恐怖は、異世界に来ても変わらない。
部屋の扉を開けようとした瞬間――
扉の向こうから、勢いよく人が飛び込んできた。
「勇者様っ!」
リーナ王女だった。
白銀の髪を振り乱し、紫の瞳を潤ませている。その顔には、焦りと、申し訳なさと、自責の念が入り混じっていた。
「申し訳ございません! 我々の配慮が足りませんでした!」
「へ?」
「勇者様は、魔王との決戦に備えて英気を養っておられたのですね。それを我々が無神経にも起こしてしまうとは……!」
深々と頭を下げるリーナ王女。その背後には、同じく頭を下げるメイドたちの姿がある。
誠一は状況が理解できなかった。
寝坊した自分が怒られるならまだ分かる。しかし今、なぜか王女の方が謝っている。
「いや、あの、普通に寝坊しただけなんですけど」
「ご謙遜を!」
リーナ王女が顔を上げた。その目は、感動に満ちている。
「勇者様がそのようにおっしゃるのは、我々に気を遣ってくださっているからですね。なんとお優しい……」
「だから、本当にただの――」
「以後、勇者様のお目覚めは、勇者様ご自身のタイミングにお任せいたします!」
リーナ王女は力強く宣言した。
「我々は勇者様のお支度が整うまで、いつでもお待ちしております。どうか、十分な休息をお取りください!」
「えぇ……」
誠一は言葉を失った。
寝坊を咎められるどころか、好きな時間に起きていい権利を得てしまった。
ありがたい――のだろうか。いや、確かにありがたいのだが、その根拠があまりにも間違っている。英気を養っていたのではなく、単にベッドが気持ちよすぎて起きられなかっただけだ。
「あの、本当に――」
「さあ、朝食の準備は整っております! お召し替えをなさったら、大広間へお越しくださいませ!」
リーナ王女は聞く耳を持たなかった。
満面の笑みを浮かべて、彼女は部屋を出ていく。残された誠一は、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
「……なんなんだ、この世界」
呟きが、誰もいない部屋に虚しく響いた。
◇ ◇ ◇
大広間に足を踏み入れた瞬間、誠一は目を見張った。
長いテーブルの上に、所狭しと料理が並んでいる。
丸焼きにされた鶏――いや、この世界では何という鳥か分からないが――が皿の中央に鎮座し、その周りを色とりどりの野菜が彩っている。魚のムニエルからは香ばしい匂いが立ち上り、スープは湯気を漂わせている。パンは籠に山盛りで、バターと蜂蜜が添えられている。デザートには、見たこともない果物のタルトまであった。
「勇者様、お待ちしておりました」
テーブルの向かい側に、リーナ王女が座っていた。
「今日の朝食は、勇者様のために料理長が腕によりをかけました。王族と同じ食事でございます」
「お、王族と同じ……」
誠一は冷や汗をかいた。
王族と同じ食事。つまり、この国で最高級の料理ということだ。間違いなく美味しいのだろう。
しかし――
(これ、絶対胃もたれするやつだ……)
誠一は庶民育ちである。
実家は東京郊外の平凡な一軒家で、父は中小企業のサラリーマン、母は専業主婦。贅沢とは無縁の環境で育った。
社会人になってからも、食事は基本的にコンビニ弁当か牛丼屋。たまの贅沢が、近所の定食屋で食べる刺身定食だった。
そんな胃袋に、王族の食事は重すぎる。
見ているだけで、胃がもたれてくる気がした。
「あの……」
誠一は恐る恐る口を開いた。
「もう少し、軽いものってないですか」
「軽いもの……でございますか?」
リーナ王女が首を傾げる。
「はい。えーと、パンと、スープと、あと野菜があれば十分なんですけど」
「パンとスープと野菜……」
リーナ王女の表情が変わった。
眉がハの字に下がり、瞳が潤み始める。まるで感動的な物語を聞いたかのような、そんな顔だ。
「勇者様……」
「え? な、なんですか?」
「なんと……民と同じものを召し上がりたいと……」
「はい?」
「勇者様は、庶民と同じ食事をすることで、民の暮らしを忘れまいとなさっているのですね……!」
リーナ王女が立ち上がった。椅子が勢いよく後ろに倒れる。
「慈悲深きお心、感服いたしました……!」
「いや、単に胃もたれが――」
「以後、勇者様のお食事は、庶民の食事を基本といたします!」
リーナ王女は高らかに宣言した。
「ただし食材は最高級のものを使用いたしますので、ご安心ください! 庶民と同じ質素な食事でありながら、王国最高の味をお届けいたします!」
「ちょ、ちょっと待って――」
「料理長! 勇者様のお食事について、新たな方針を伝えますわ!」
リーナ王女は脱兎のごとく大広間を飛び出していった。
残された誠一は、テーブルの上の豪華な料理と向き合うことになった。
「……どうしてこうなるんだ」
呟きながら、誠一は椅子に沈み込んだ。
結果的に、軽い食事が出されることにはなった。それ自体は誠一の望み通りだ。
しかし、その理由があまりにも違う。
胃もたれが嫌だっただけなのに、「民を思う慈悲深き勇者」として評価されてしまった。
誠一の意図は伝わっていない。伝わっているのは、勝手に解釈された「美しい意図」だけだ。
微妙に話が通じているような、通じていないような。
そんな奇妙な感覚を抱えながら、誠一は目の前の料理に手を伸ばした。
せめて、冷める前に食べよう。それだけは、間違いなく正しい判断のはずだ。
◇ ◇ ◇
午後。
誠一は、ガルドに連れられて訓練場を訪れていた。
「勇者殿、お体がなまっておられるでしょう。軽い訓練でもいかがですか」
訓練場は、城の中庭に設けられた広い空間だった。
騎士たちが剣を交え、弓を射り、槍を振るっている。その動きは素人目にも洗練されており、一朝一夕で身につくものではないことが分かる。
誠一は冷や汗をかいていた。
訓練。つまり、戦う練習。剣を振ったり、的を射たりする、あれだ。
無理だ。絶対に無理だ。
誠一が最後に運動らしい運動をしたのは、高校の体育の授業だ。それから十四年、デスクワークと引きこもり趣味で体はすっかりなまっている。
剣なんて振ったこともない。振り方すら知らない。
「いや、遠慮しておきます」
誠一は精一杯の平静を装って断った。
「左様ですか……」
ガルドが残念そうな顔をした。
その表情に、誠一は罪悪感を覚える。きっとガルドは、純粋な好意で訓練を提案してくれたのだろう。戦えない体をほぐそうと、気を遣ってくれたのだ。
しかし、だからこそ断らなければならない。
「すみません、今日は――」
「いえ」
ガルドが手を挙げて、誠一の言葉を遮った。
「謝る必要はありません、勇者殿」
「え?」
「成る程、そういうことでしたか」
ガルドの目が、急に鋭くなった。
しかしそれは、疑念の目ではない。むしろ――納得と、敬意の目だ。
「我々ごときに手の内を見せるわけにはいかない――そうおっしゃりたいのですね」
「全然そういう意図じゃ――」
「いえ、お気持ちはよく分かります」
ガルドは深く頷いた。
「魔王軍にも間諜がいるやもしれません。この城の中にも、敵の目があるかもしれない。勇者殿の戦い方が知られれば、魔王軍は対策を練るでしょう。それを防ぐために、あえて力を隠しておられる――」
「だから、そうじゃなくて――」
「流石でございます」
ガルドの声が、感嘆に満ちていた。
「私は勇者殿を試すような真似をしてしまった。深くお詫びいたします」
「試すとか、そういうのじゃ――」
「聞け!」
ガルドが訓練場に向かって声を張り上げた。
騎士たちの動きが止まる。数十人の視線が、一斉にガルドと誠一に集まった。
「勇者殿の戦い方は最高機密だ!」
ガルドの声が、訓練場に響き渡る。
「今後、勇者殿に訓練を勧めることは禁ずる! また、勇者殿の戦い方について詮索することも許さん! これは騎士団長命令だ!」
「「「了解!」」」
騎士たちが一斉に敬礼した。
誠一は、その光景を呆然と見つめていた。
訓練を断っただけなのに、「戦い方を隠している策士」として評価されてしまった。
しかも、今後は誰も訓練を勧めてこないという。つまり、自分が戦えないことを隠し続けてしまう――
勇者は戦い方を隠している。だから訓練しない。だから誰も詮索しない。
完璧な論理の輪ができあがってしまった。
「勇者殿」
ガルドが誠一に向き直った。
「私は、今日のことを深く反省しております。今後は、勇者殿のお気持ちを第一に考えて行動いたします」
「いや、本当に気にしないでください……」
「お優しいお言葉、痛み入ります。さあ、城内をご案内いたしましょう。訓練場以外にも、勇者殿にお見せしたい場所がございます」
ガルドは誠一の肩を叩き、訓練場を後にした。
騎士たちの敬意のこもった視線が、誠一の背中に突き刺さる。
誠一は、何も言えなかった。
言っても、どうせ伝わらない。この世界の人間は、誠一の言葉を聞いてはいるが、理解はしていない。
彼らが見ているのは「伝説の勇者」であり、「田中誠一」ではないのだ。
◇ ◇ ◇
その夜。
誠一は、与えられた豪華な客室で一人、頭を抱えていた。
天蓋付きのベッドは相変わらず雲のようにふかふかで、窓からは王都の夜景が見える。メイドが用意してくれた紅茶は、今まで飲んだどの紅茶よりも香り高い。
客観的に見れば、夢のような環境だ。
しかし誠一の心は、少しも晴れなかった。
「なんでこうなるんだよ……」
呟きが、静かな部屋に染み込んでいく。
何もしていないのに、評価だけが上がっていく。
朝寝坊しても、「英気を養っている」と称賛される。少食を訴えても、「民を思う心」と感動される。訓練を断っても、「戦い方を隠す策士」と敬われる。
すべてが、好意的に解釈される。
いや――好意的に誤解される。
誠一は何も特別なことをしていない。むしろ、平凡を通り越して怠惰ですらある。
それなのに、この城の人間は誠一を「勇者」として見る。最初から「勇者」だと決めつけて、すべての言動をその枠組みの中に押し込んでいく。
「このままじゃ、いつかボロが出る……」
誠一は紅茶を一口すすった。
今日は、寝坊と少食と訓練拒否でなんとか乗り切った。しかし、いつまでもこのままでいられるはずがない。
魔王軍が攻めてきたら、どうする。
実際に戦わなければならなくなったら、どうする。
剣の一振りもできない自分が、「伝説の勇者」として戦場に立たされたら――
「考えるな。考えたら負けだ」
誠一は頭を振った。
今考えても仕方ない。明日のことは明日の自分が考える。社会人として学んだ、数少ない生存戦略だ。
ベッドに潜り込み、目を閉じる。
ふかふかの布団が、疲れた体を包み込んでいく。
「明日こそは、普通の一日になりますように……」
祈りにも似た呟きを残して、誠一は眠りに落ちた。
窓の外では、異世界の月が静かに輝いていた。