勇者だと勘違いされているただのコスプレイヤーです 作:PPP
異世界生活も二週間が経過した。
田中誠一の日常は、驚くほど安定していた。
朝は好きな時間に起きる。太陽が中天に差し掛かろうが、誰も文句を言わない。「勇者様は英気を養っておられる」の一言で、すべてが許される。
食事は質素だが美味しい。最高級の食材を使った、しかし胃もたれしない軽めの料理。誠一の希望が完璧に反映されている。
午前中は城内を散策するか、工房で職人たちと過ごす。週に一度の「講習会」は城中の話題になっており、誠一の「コスプレ製作技術」は「聖装創造術」という仰々しい名前で呼ばれるようになっていた。
午後は謁見があればこなし、なければ自室で次の製作物の設計を練る。
夜は温泉に入って就寝。
「平和だなぁ……」
誠一は朝食のテーブルで、焼きたてのパンをかじりながら呟いた。
窓から差し込む朝日が、大広間を柔らかく照らしている。向かいの席ではリーナ王女が優雅に紅茶を飲み、壁際ではメイドたちが控えめに待機している。
どこからどう見ても、平和な朝の光景だ。
勇者として祭り上げられている状況は相変わらずだが、実害はない。むしろ、日本にいた頃より良い生活かもしれない。
満員電車もない。残業もない。佐藤課長の小言もない。
毎日温泉に入れて、美味しいご飯が食べられて、趣味の製作もできる。
(このまま平和に暮らせれば、異世界生活も悪くないかも……)
そんな淡い期待を抱いていた、その時だった。
バァン!
大広間の扉が、勢いよく開け放たれた。
「リーナ様、勇者殿、緊急の報せです!」
飛び込んできたのはガルドだった。
普段は冷静沈着な騎士団長の顔が、明らかに強張っている。額には汗が滲み、息は荒い。全力で走ってきたのだろう。
「ガルド殿、何があったのですか」
リーナ王女がカップを置き、立ち上がった。
「国境付近のエルドラ村から、救援要請が届きました」
ガルドが一枚の紙を差し出す。リーナ王女がそれを受け取り、目を通す。
その顔が、みるみる青ざめていった。
「魔王軍の……先遣隊……」
「はい。約五十体の魔物が、村を襲撃しているとのこと。すでに被害が出ている模様です」
「五十体……」
リーナ王女の手が、わずかに震えていた。
誠一は、その様子を見て嫌な予感を覚えた。
「あの、先遣隊って何ですか?」
「魔王軍の斥候部隊です」
ガルドが答えた。
「本格的な侵攻の前に、敵の戦力を探り、民に恐怖を与えるために送り込まれる部隊。通常は下級の魔物で構成されますが、数が揃えば騎士団でも苦戦します」
「つまり……」
「魔王が、動き始めたということです」
その言葉が、誠一の脳内で反響した。
魔王。
この世界に召喚された理由。自分が「倒す」ことを期待されている存在。
今まで漠然とした概念でしかなかった。おとぎ話の悪役のような、現実味のない存在だと思っていた。
しかし今、その魔王の軍勢が、実際に人々を襲っている。
「被害は……どの程度なのですか」
リーナ王女が、絞り出すような声で尋ねた。
「詳細は不明ですが、すでに数名の死者が出ているとのこと。村の自警団が応戦していますが、苦戦しているようです」
「そんな……」
リーナ王女が、唇を噛んだ。
誠一は、その姿を見て胸が痛んだ。彼女は本当に、民のことを思っているのだ。
ガルドが一歩前に出た。
「騎士団の精鋭五十名を、直ちに派遣いたします。本日中に出発すれば、二日後には村に到着できるでしょう」
「お願いします、ガルド殿」
「はっ」
ガルドが敬礼し、踵を返そうとした――その時だった。
「私も参ります」
リーナ王女が、毅然とした声で言った。
「リーナ様!?」
ガルドが振り返る。その顔には、驚愕と困惑が入り混じっていた。
「民が苦しんでいるのです。王族として、この目で確かめなければなりません」
「しかし、危険です! 前線には魔物が――」
「承知の上です」
リーナ王女は、一歩も引かなかった。
「私が安全な城の中にいて、民だけが苦しむなど、あってはならないことです。たとえ危険があろうとも、この目で現状を確かめ、民を励ましたい」
その目には、強い決意が宿っていた。
ガルドは言葉を失った。主君の決意を前にして、反論できなくなったのだろう。
「……分かりました。ただし、リーナ様の護衛には最精鋭の騎士をつけます」
「感謝します、ガルド殿」
リーナ王女が微笑んだ。そして――誠一を見た。
「それと」
「はい?」
嫌な予感が、全身を駆け巡った。
「勇者様にも、ぜひご同行いただきたいのです」
「……は?」
誠一は、自分の耳を疑った。
今、何と言った? 同行? 前線に? 魔物がいる場所に?
「勇者様が前線にいらっしゃるだけで、民の士気は上がります」
リーナ王女は、真剣な表情で続けた。
「戦っていただく必要はありません。視察という形で、ご同行いただければ十分です。勇者様のお姿を見れば、民は希望を持てるでしょう」
「いや、でも俺――」
「もちろん、勇者様の安全は騎士団が全力でお守りいたします」
ガルドが膝をついた。
「どうかご安心を。勇者殿には指一本触れさせません。この命に代えても」
「いや、そこまでしなくても――」
「勇者様」
リーナ王女が、誠一の手を取った。
その手は小さくて、温かくて、そしてわずかに震えていた。
「お願いいたします。民のために……どうか」
誠一は、その目を見て――何も言えなくなった。
リーナ王女の瞳には、不安と、懇願と、そして信頼が込められていた。
彼女は本気で、誠一を頼りにしている。勇者として。英雄として。
断ることは、簡単だった。「危険だから」「戦えないから」と言えばいい。今まで何度もそうしてきた。
でも――
あの瞳を見て、「嫌です」とは言えなかった。
「……分かりました」
その言葉が、口をついて出た。
リーナ王女の顔が、パッと明るくなった。
「ありがとうございます、勇者様!」
「ただし、本当に視察だけですからね。戦うとか、そういうのは――」
「もちろんです! 勇者様には、安全な場所から見守っていただくだけで結構です!」
リーナ王女が、誠一の手を握りしめた。
その笑顔を見ながら、誠一は心の中で絶叫していた。
(何で承諾しちゃったんだよ俺ぇぇぇぇ!!)
自分でも信じられなかった。
あんなに平和を望んでいたのに。危険を避けて生きてきたのに。
なぜ、あの瞳を見た瞬間、断れなくなってしまったのか。
「では、出発は本日正午といたします。勇者殿、ご準備をお願いいたします」
ガルドが立ち上がった。
「えっ、今日!?」
「一刻を争う事態です。準備ができ次第、出発いたします」
「ちょ、ちょっと待って――」
「勇者様、私が荷造りをお手伝いいたしますわ!」
リーナ王女が、誠一の腕を引っ張った。
「え、いや、あの――」
「さあ、参りましょう! 時間がありませんわ!」
誠一は、されるがままに大広間を後にした。
振り返ると、メルティがこちらを見ていた。
その顔には、複雑な表情が浮かんでいた。呆れているような、興味深そうな、そして――どこか心配しているような。
「……やれやれ」
メルティの呟きが、誠一の耳に微かに届いた。
「本当に行くつもりなの、あの男」
その言葉の意味を考える暇もなく、誠一はリーナ王女に引きずられていった。
出発まで、あと数時間。
誠一の心臓は、すでにバクバクと鳴り始めていた。