肌に張り付くような湿気が、今日もまた不快指数を跳ね上げている。この島の空気は重い。海風は磯の香りを通り越して、どこか鉄錆のような、古びた血の生臭さを孕んでいるように感じられた。
俺は廃屋の崩れかけた壁に背を預け、ぬるくなった水筒の水を口に含んだ。喉を通る液体すら、この島の淀んだ空気の一部のように思えて、不快感が胃の腑に落ちていく。
「……またか」
隣で飛竹トンボが低く唸った。
包帯で覆われたその顔が、海の方角へ向く。彼の「耳」と「勘」が、不吉な風切音を捉えたのだ。
視界を奪われている分、彼の聴覚は研ぎ澄まされ、波音の向こうにある微細なチャクラの乱れすら聞き分ける。
「数は三。……いや、四か。隠密行動か?チャクラの波長が微弱だ」
「了解。……サンタ、繋げ」
俺が短く指示を出すと、山中サンタもだいぶ慣れてきた手つきで印を結んだ。心転身の術の応用系、感覚伝達のラインが開く。
脳内にノイズが走り、他者の視覚情報が流れ込んでくる感覚。慣れはしたが、決して心地よいものではない。他人の眼球を借りて世界を見ているような、奇妙な浮遊感と吐き気がつきまとう。
「位置、捕捉しました」
日向ホヘトの声が脳裏に直接響く。
彼の白眼は、鬱蒼とした森の向こう、海岸線に上陸しようとする影を正確に捉えていた。白黒の反転した視界の中に、チャクラの経絡系が炎のように揺らめいている。
これが、俺たちの日常だった。
あの日、味方を「処分」するテストに合格して以来、俺たち「ヨフネ小隊」はこの島に張り付けにされている。
任務は単純明快。来る日も来る日も繰り返される、他国からの威力偵察の迎撃と排除。最初のうちは、雲隠れと霧隠れの双方が、まるで示し合わせたかのように交互にやってきていた。
だが、ここ数週間で潮目が変わり始めていた。
「最近、雲の連中を見かけないな」
戦闘後の短い休息時間、泥に汚れたクナイを布で拭きながらサンタが呟いた。
焚き火は厳禁だ。月明かりさえ届かない森の奥深く、冷え切った缶詰を皆で囲みながら、俺たちは息を潜めている。
「ああ。代わりに霧の頻度が増えた。……それも、露骨にな」
俺は硬いビスケットを齧りながら答えた。口の中の水分が奪われていく感覚に顔をしかめる。
「西の国境……林の国と霜の国の方で、戦況が動いているらしい」
トンボが水筒の水を一口だけ含み、湿らせた唇で語る。彼は目が見えない分、里からの定期連絡や風の噂を誰よりも敏感に収集していた。
「雲隠れと木ノ葉は陸続きだ。向こうは今、激しい消耗戦を繰り広げているそうだ。……挟撃を避けるため、木ノ葉の上層部は霧隠れへの逆侵攻を計画している」
俺の言葉に、三人の視線が集まった。暗闇でも、その瞳に宿る動揺がわかる。
「攻撃は最大の防御、とは言うがな。……理屈は通ってるが、正気じゃない」
俺はため息混じりに言い捨てた。原作知識というアドバンテージがあっても、この大戦の全体像は複雑怪奇だ。歴史の教科書には載らないような、現場レベルの悲劇が無数に転がっている。
確かなことは一つある。俺たちがこの島で防波堤として機能している間に、本隊は血なまぐさい決断を下そうとしているということだ。
「……なぁ、隊長」
ホヘトが不意に、改まった声を出した。
彼は手元のクナイを強く握りしめ、俺の方を真っ直ぐに見ている。
「俺、決めたっすよ。この戦争が終わっても、俺は隊長について行きます」
俺はそのフラグめいた言葉に、俺は眉をひそめた。
「酔狂だな。……俺についてきても、待っているのは汚れ仕事だけかもしれないぞ」
「それでもいいんです」
ホヘトの声に力がこもる。
「白眼使っていると本当によく見えるんだ。敵の顔までハッキリと。殺される恐怖、痛み、上の命令に従うしかない絶望……。どいつもこいつも、将棋の駒みたいに使い捨てられて死んでいく」
彼は一瞬言葉を切り、そして続けた。
「でも、隊長は違う。隊長だけは、俺たちのことを『駒』として見てない。さっきの戦闘だって、一番危険な場所に自分が飛び込んで、俺たちを庇った」
「……効率の問題だ。お前らに死なれると戦力が減る」
「そういうことにしておきますよ」
ホヘトはニカっと笑った。
「だから俺は、これからも隊長の『眼』になります。あなたのためなら、俺は命を張れる」
その真っ直ぐな信頼が、今の俺には少し重く、そして痛かった。だが、部下にここまで言わせておいて、否定するのも野暮というものだろう。
「……背中は任せるぞ」
俺が短く答えると、ホヘトは満足そうに頷いた。
*
変化は、唐突に訪れた。
雲隠れの海路侵攻が鳴りを潜め、木ノ葉の霧隠れ侵攻計画が現実味を帯び始めた頃――。
霧隠れが、動いた。
「――来るぞ!!」
トンボの叫び声と同時に、海岸線に仕掛けてあった起爆札が一斉に炸裂した。水柱と共に砂煙が舞い上がる。
だが、後続の敵は止まらない。爆炎を突き破り、異様な殺気を放つ集団が雪崩れ込んできた。
「数が違う……! これまでの比じゃない!狙撃じゃ追いつかない数です!」
サンタの悲鳴に近い報告。俺は背に帯びた双刀――先の任務で霧の忍刀七人衆、黒鋤雷牙を討ち取って奪った戦利品、雷刀“牙”を抜き放ち、前線へと疾走した。俺の雷遁と極めて相性の良いこの刃は、狙撃だけではなく近接戦においても欠かせない武器となっている。
「トンボとサンタは俺たちの後方から援護!ホヘトは俺と一緒に近接戦だ!」
森の中を駆け抜けながら、俺は敵の姿を視界に捉えた。額当てのマークは霧隠れ。だが、その装備も、雰囲気も、今までの敵とは明らかに異質だった。
「ヒャハハハ! 踊ろうぜ、木ノ葉の腰抜け共ォ!!」
狂気じみた笑い声を上げ、白髪の少年が突っ込んでくる。自分の骨を引き抜き、それを剣として振るう姿。かぐや一族だ。
俺は雷刀で骨の剣を受け止めた。重い。骨同士がぶつかり合うような硬質な音と共に、腕に痺れが走る。小柄な体躯からは想像もできない膂力だ。
「へえ、いい反応だ! お前、名前は!?」
至近距離で覗き込んでくる瞳孔が開いた目。まだ声変わりもしていないような子供が、殺戮を楽しんでいる。
「ここで名乗ったって良いことはないだろっ!」
俺は雷遁のチャクラを流し込んだ。高圧電流が骨を伝い、少年の体を駆け巡る。
「ガァッ!? ……ククッ、いい刺激だァ! 脳が震えるぜ!」
普通ならショック死する電圧だ。だが、こいつは止まらない。痛覚が麻痺しているのか。俺は距離を取ろうとバックステップを踏んだが、少年は全身の皮膚を突き破って無数の骨の槍を乱立させ、そのままコマのように回転しながら突っ込んでくる。
だが、洗練された技の冴えはない。ただ純粋な殺戮衝動に身を任せただけの、凶悪な狂気の乱舞だ。周囲の木々が容易くなぎ倒され、砕けた骨の破片が散弾の雨となって俺を襲う。
「死ね」
一瞬の隙を突き、俺はかぐや一族の少年の懐に潜り込み、雷刀で心臓を一突きにした。致命傷だ。だが、少年は喀血しながら、満面の笑みを浮かべた。
「あぁ……最高だ……!」
少年は俺の刀を掴んで離さない。逃がさないために。その目が、恍惚に見開かれる。
「俺の骨と共に、綺麗に咲こうぜぇぇッ!!」
「なッ!?」
こいつ、自分で――!
俺は雷刀を手放し、チャクラを足裏に集中させ、全力で後方へ跳んだ。
少年の肉体が内側から弾け飛び、鋭利な骨片が手榴弾のように周囲を薙ぎ払う。
自爆だ。死を悟った末の悪あがきではない。最期の瞬間、自分という兵器を最大火力で起爆させることに、至上の喜びを感じていやがった。
「……イカれてやがる」
土煙の中、俺は片膝をつきながら呻いた。耳鳴りが止まらない。だが、本当の地獄はそこじゃなかった。
「ひ、ひぃッ! ま、待ってくれ! 俺はまだやれる!」
視界の端で、トンボの土遁で足を負傷した氷遁使いの男が叫んでいた。その視線は、俺たち敵ではなく、自分たちの後方へ向けられている。
「ホヘト! 後方に何がいる!」
俺が叫ぶと、ホヘトが血走った白眼で敵陣深くを睨みつけた。
「……います! 後衛に三名、手印を結んだまま動かない部隊が! 奴らの周囲を、霧の暗部が固めています!」
俺が視線を戻した瞬間。命乞いをしていた氷遁使いの胸部が、どす黒く発光した。
「嫌だ、嫌だぁぁぁッ!!」
ドォン。
乾いた破裂音と共に、男の上半身が消し飛んだ。
自爆ではない。遠隔操作による「処理」だ。
「……なんだ、これは」
戦場を見渡せば、同様の光景が至る所で繰り広げられていた。かぐや一族のように狂喜乱舞して自ら弾け飛ぶ者。そして、負傷し、戦力外と判断された瞬間に、ゴミのように処理されていく一般の忍たち。
「督戦隊か……!」
霧隠れの忍たちは、ただ命令されて突撃しているのではない。背後から銃口を突きつけられた状態で、地雷原を走らされているようなものだ。だから彼らは死に物狂いになる。後ろにいる味方に「まだ戦える」と証明するために。
「ふざけるな……!」
俺の中で、熱い怒りが湧き上がった。だが同時に頭は冷えていた。感情に任せて突っ込めば、俺もあの爆弾の餌食になるだけだ。
『どいつもこいつも、将棋の駒みたいに使い捨てられて死んでいく』
ホヘトの言葉が脳裏をよぎる。そうならないよう、俺は味方を守るために、敵の駒を盤面から排除する。冷徹に、確実に。
「ホヘト、監視役の位置を正確に教えろ。それと、その直線上にいる『盾』の位置もだ」
「え? ……は、はい! 監視役の前方5メートル、氷遁使いの負傷者が盾として配置されています!」
「上等だ」
俺は忍具袋から、レールガン用に特注した鉄の弾丸を取り出し、回収した雷刀“牙”の刀身に添えるようにセットした。
「隊長? まさか、ここから狙う気ですか!? 間に爆弾にされてる奴らもいますよ!」
サンタが驚愕の声を上げる。
「味方の損害を抑える方が大事だ」
俺は雷遁チャクラを練り上げる。バチバチと青白い火花が刀身を走り、弾丸が唸りを上げて振動し始めた。
「トンボ、周囲の雑音を少し消してくれ。集中する」
俺の意図を察したトンボが、息を呑みながらも即座に行動に移る。
「……風遁・静寂の帳」
視界が開け、戦場のノイズが遠のく。
白眼の視界を共有するホヘトのガイドが、脳内に照準を合わせる。
ターゲットは、森の奥深く。監視役の術者。そして、その前に立ち尽くす、胸に起爆術式を埋め込まれた霧の忍。
(……悪く思うなよ)
俺は誰にともなく心の中で呟いた。照準の先にいるあの氷遁使いの忍は被害者だ。彼にも帰りを待つ家族がいるかもしれない。だが、ここで俺が前世の倫理観に囚われて躊躇すれば、確実に背後のサンタやトンボが死ぬ。
天秤にかけるまでもない。俺の手は、すでに血に塗れている。今更『向こう側の平和な世界』の人間には戻れないのだ。味方を守るためなら、俺は喜んで修羅になる。
冷徹な決断と共に、俺は引き金を引くように、練り上げたチャクラを一気に解放した。
「超電磁砲!!」
轟音と共に、オレンジ色の光条が森を切り裂いた。
音速を超えた弾丸が、空気を焼き焦がしながら一直線に突き進む。
射線上にいた霧の忍――人間爆弾にされた男の胴体が、一瞬で消失した。そして、その背後にいた監視役の術者が、驚愕の表情を浮かべる間もなく、上半身を吹き飛ばされた。
直後、破壊された「人間爆弾」が誘爆し、周囲の暗部たちを巻き込んで巨大な火球となった。
「……着弾、確認。監視役、沈黙しました」
ホヘトの声が震えている。
俺は静かに雷刀を納めた。焦げ付いた鉄の臭いが、鼻を突く。
「……酷い」
サンタがポツリと呟いた。非難の色はない。ただ、圧倒的な暴力と、それを躊躇なく行使した俺の判断に対する、畏怖が混じっていた。
「これで、少しはマシになるはずだ。……だが、戦況は変わらん。撤退準備だ」
俺は努めて冷淡に言い放った。腕に残る痺れが、俺が奪った命の重みを伝えていた。被害者ごと敵を穿つ。それが俺の選択だ。
*
日が落ちる頃には、海岸線の拠点は完全に制圧されていた。俺たちは内陸の森深く、第二防衛ラインまで下がることを余儀なくされた。
「……海岸線、奪われたな」
仮設テントの中で、俺は地図を見下ろしながら呟いた。赤いバツ印が、また一つ増える。
「本隊からの増援は期待するな。……どの戦線も手一杯だ」
重苦しい沈黙がテントを支配する。遠くで、散発的な爆発音が続いていた。
だが――ふと、その音が止んだ。
「…………」
突然の静寂。今まで聞こえていた森のざわめきすら消えたような、真空のような静けさが場を包んだ。
「……おい」
トンボが、震える手で自身の耳に触れた。顔色が、見る見るうちに蒼白になっていく。
「どうした、トンボ」
「音が……消えた。虫の声も、風の音も。……鳥たちが、一斉に北へ逃げていく羽音だけが聞こえる」
トンボの声が掠れる。
「来るぞ。……とてつもなくデカい、何かが」
その予言めいた言葉が終わるか終わらないかのうちに、テントの入り口が乱暴に開かれた。通信班の忍が、転がり込むように入ってくる。
「報告ッ!!」
その声の切迫さに、全員の空気が凍りついた。ただの敗戦報告ではない。もっと致命的な何かが起きたのだと、直感で理解できた。
「た、只今入った情報によりますと……く、雲隠れが!」
「雲がどうした。撤退したんじゃなかったのか」
トンボが問いただす。
「逆です! 雲隠れの大部隊が、国境を越えて侵攻を開始! 湯の国を経由し、この島の北東部へなだれ込んでいます!!」
一瞬、テント内が静まり返った。誰も言葉を発せない。情報の意味を咀嚼するのに時間がかかったのではない。そのあまりの絶望的な内容を、心が拒絶したのだ。
「……は? なに言ってるんですか」
サンタが引きつった笑みを浮かべた。
「間違いでしょ? だって雲隠れは、霜の国で……」
「間違いではありません! 複数の監視所から同時に緊急入電! 規模は……推定五千以上!」
「五千!?」
悲鳴のような声が上がる。現場の指揮系統はパニックに陥っていた。
「……陽動か」
俺は乾いた唇から言葉を絞り出した。雲隠れの沈黙は、撤退ではなかった。力を溜め、最大の好機を窺っていたのだ。
本来なら相容れないはずの雲と霧。だが、憎き木ノ葉の戦力を削り、自国の優位を確立するという一点において、彼らの利害は完全に一致している。
霧隠れのこの狂気的な攻勢も、自国の忍を捨て駒にしてまで俺たちの目を引きつけるための、雲と一時的に手を組んだ上での大規模な陽動だったとしたら?
「嘘でしょ……」
サンタが頭を抱えて座り込む。まだアカデミーを出たばかりの彼の顔から、生気が抜け落ちていく。五千の軍勢。小隊規模の俺たちなど、蟻のように踏み潰されるだけの数だ。
前門の霧、後門の雲。この島が、二つの巨大な牙によって噛み砕かれようとしていた。俺は雷刀の柄を強く握りしめた。金属の冷たさだけが、高ぶる動悸をわずかに鎮めてくれる。
「……立て、サンタ。トンボもだ」
俺は恐怖で震えそうになる膝を必死に押さえ込み、あえて冷徹なまでに響く低い声を出した。
「ここでパニックになれば、俺たちは確実に死ぬ。五千が来ようが関係ない。俺たちの任務は偵察と迎撃だ」
「たい、ちょう……」
「死なせはしない。俺の小隊を、こんな場所で無駄死にさせる気は毛頭ない。生き残るための策を練るぞ」
絶望の淵にあっても、俺は前を向くしかなかった。
原作の知識? そんなもの、今はクソの役にも立たない。ここにあるのは、理不尽な死と、逃げ場のない現実だけだ。
終わりの見えない夜が、また始まろうとしていた。
飛竹トンボ
顔の大半を包帯で覆っており、目の部分に額当てを巻いている。
アスマや紅、シズネ、ガイ、エビス、イビキと同期
原作においては、中忍試験の際にナルトを壁に打ちつけていた。