火の国・大名府でのクーデター騒動を解決し、財務大臣ダンゴウとの交渉で莫大な「正式な予算」を手に入れた俺たち猟犬部隊は、一月後,波の国へと帰還していた。
「……随分と活気のある港だな」
船を降りた、仕立ての良い高級な官服に身を包む男が、周囲の喧騒を見回して目を細めた。
こいつは、ダンゴウとの密約で火の国から派遣されてきた、身分偽装の文官だ。頭は極めてキレるが、上層部に忖度なしの正論をぶつけるため中枢から左遷されてきたという厄介なエリートである。
「ああ。ウチの部隊だけじゃなく、最近は木ノ葉の一般部隊や他里の忍も、商人の護衛任務でこの島に頻繁に出入りするようになったからな。すっかり一大経済圏だ」
俺がしれっと答えると、文官の男は不満げに鼻を鳴らした。
「ふん。どうせ田舎のどんぶり勘定の帳簿だろう。三日だ。三日で完璧に作り直して、私の有能さを火の国に証明してやる」
俺とシスイは顔を見合わせ、肩をすくめた。プライドの高いエリート様がどこまでその自信を保てるか、見物である。
そのまま港を歩き出そうとした俺たちの前に、凛とした涼やかな声がかけられた。
「やはり、波の国にいらしたのですね。ヨフネ殿」
振り返ると、褐色の肌に銀色の髪をまとった切れ長の目をしたくノ一が立っていた。雲隠れの雷影の側近であり、雷の国の御用商人の護衛としてこの島を訪れていたマブイだ。
「マブイさんか。久しぶりですね。そっちの商会も儲かってますか?」
「ええ、おかげさまで。……ですが、景気が良いのは貴方の方でしょう。木ノ葉の猟犬部隊長殿の元には、各国の有力者や重鎮から見合いの釣書が山のように届いていると噂に聞きますが」
マブイが、少しだけ探るような視線を俺に向けてきた。確かに部隊が表の予算を得てから、うちの婆様経由でやたらとそういう話が舞い込んできているのは事実だ。
「あー……全部婆様の所で断ってもらってます。面倒ですし。それに、他の五大国からのような断れない様な話は来てないみたいなんで」
俺が肩をすくめて苦笑すると、マブイの涼やかな瞳がスッと細められた。
「……貴方に見合う話は来ていないと?」
「いや、そういう高慢な意味じゃない。ただ、こんな世の中だけど、話したこともない知らない相手は好きになれないというか……」
俺が素直な心情をこぼすと、マブイは一瞬だけ言葉を止め、やがて何かを閃いたように口元を微かに綻ばせた。
「……なるほど。話したことがある人物なら良いと」
「ま、まあ」
「ありがとうございます。……少しやる事ができました。雷の国の商人の方々、いくつか予定を追加して視察しましょう」
マブイはとても美しい、しかしどこか凄みのある微笑みを残し、戸惑う商人たちを引き連れて足早に去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は首を傾げた。
(……なんか、急にやる気出してたな。まあいいか)
隣では、シスイがやれやれといった顔でため息をつき、文官の男が「おい……今のは雲隠れの忍じゃないのか? お前、一体他国とどういう繋がりを持ってるんだ……?」と、すでにドン引きの表情を浮かべていた。
俺たちは港の一等地にある『シラカワ商会』のビルへ入り、執室の重いドアを開けた。
室内に一歩足を踏み入れた瞬間、むせ返るようなインクの匂いと、紙の擦れる音が押し寄せてきた。
そこには、天井まで届きそうな書類の山に埋もれて完全に死んだ魚の目をしているうちはイズミと、彼女の指示のもと手足となって走り回っている船渡し組合の長・カジをはじめとする地元民たちの姿があった。
「カジさん、B海運の関税の計算が合ってないです! こっちの香辛料の在庫と海上保険の掛け金も……ああもう、1と7の区別がつかない……!」
フラフラと揺れる足取りで書類をめくるイズミは、完全に過労死寸前のブラック企業の社畜そのものだった。
「イズミ、よく生きててくれた! ほら、大名府から『内政のプロ』を連れてきてやったぞ!」
俺が文官の男の背中を押して前に出すと、イズミの濁りきった目に、パァッと狂気じみた希望の光が宿った。
「えっ……? あなたが、この地獄の現場責任者を引き受けてくれるんですか……!? 神様……!」
「地獄? 誇張が過ぎるぞ、小娘。どれ、私が田舎商会の帳簿を……な、なんだこの数字の桁は!?」
机の上の分厚い帳簿を覗き込んだ文官が、目をひん剥いて素っ頓狂な声を上げた。
「小さな国の国家予算レベルの金が動いているじゃないか! お前たち、一体この島で何をやった!?」
「ただの需要と供給のコントロールさ。この島を世界の『物流の要衝』にしただけだ」
俺が事もなげに言うと、イズミが書類の束を抱えたまま、ふらふらと立ち上がって口を挟んだ。
「……隊長、口で言うのは簡単ですよ。『すべての商人を保護しろ』とか『取引内容の漏洩は死罪にする掟を作れ』とか、丸投げされた私の身にもなってください……。カジさんたち組合の皆さんに手伝ってもらいながら、血の気の多い各国の商人にそれを説明して回るのが、どれだけ胃が痛かったか……」
イズミがげっそりとした顔で文官に訴えかける。
「隊長の思いつきのせいで、ここは地獄なんです。数ヶ月前に最初の成功者を演じさせて大商人の射幸心を煽ったせいで、港の許容量は限界突破。さらに帳簿決済の仕組みを作ったり、海上保険のシステムまで導入しようとしたせいで……この島に落ちる各国の富の計算処理が、完全に私の脳の許容量を超えてるんです!」
「ま、待て」
文官の顔が、驚愕で引き攣っていた。
「帳簿決済だと……? 各国の商人に島で口座を持たせ、帳簿の書き換えだけで取引させているのか!? しかも海上保険まで……そんなことをすれば、他国の富がこの島の帳簿に集約される。もし他国がこの島を攻撃すれば、自国の経済界が大パニックに陥るじゃないか!」
「ご名答。こちらを攻撃すれば自国も滅びる『道連れ』の仕組みだ。物理的な城壁よりも硬い、最高の盾だろ?」
少し話を聞いただけで、そこまで気づけるとは、確かにこの男は優秀なようだ。俺がニヤリと笑うと、文官はフラフラと後ずさった。
「お、お前……意図的に世界中の富と商人を一つの島に集めて、強引に『誰も手出しできない経済要塞』を作り上げたというのか……?」
「最初は真っ当な商人なんて来なかったからな。数年前、俺がここに『商品の出処を問わない』というグレーな市場を作ったのが始まりだ」
俺の言葉に、船渡し組合のカジが、当時の記憶を呼び起こすように深く息を吐いた。
「……ああ。あの頃、俺たちは海賊を倒してくれた木ノ葉の忍に、ただすがりついて甘えようとしてた。だが、ヨフネの旦那は俺たちを冷たく突き放して、泥を啜ってでも自立しろと言ったんだ」
カジの顔には、長年の畏怖と、深い感謝が入り混じっていた。
「当時、島を守るためだって言ってたけどよ……ヨフネの旦那。本当は最初から、この小さな島国を,世界の経済の中心に作り変えるつもりで動いてたってのか?」
「言ったろ?あの時は第一段階だって」
俺は真顔になり、静かにカジたちを見据えた。
「かつて、木ノ葉の同盟国だった『渦の国』が滅ぼされた時……大国の理不尽な侵略に怯えた大名や上の連中は、民を見捨ててさっさと逃げ出した。……俺は、二度と同じ悲劇を繰り返させない。逃げ出した大人たちの代わりに、この島で生まれ育つ子供たちの未来を、大国の暴力から完全に守り抜く。そのための、絶対に誰も手出しできない『防壁』だ」
それは、転生者として血塗られた歴史を知る俺の、絶対に譲れない覚悟だった。
その言葉に、カジの目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ヨフネの旦那……っ」
カジたち地元民が、嗚咽を漏らしながら深く頭を下げる。
ドン引きしていた文官の男も、俺がただの金の亡者ではなく、途方もない覚悟でこの島を背負っているのだと悟り、息を呑んで黙り込んだ。
「さて、優秀なお役人さん。話は終わりだ」
俺は彼に向き直り、肩をポンと叩いた。
「俺たちが作り出したこの仕組みの管理を、手伝ってくれ。……決済の効率化と、火の国への資金洗浄。そして最後の仕上げとして、各国のバラバラな長さや重さ、契約書のルールを波の国基準の『標準規格』として統一させろ。大国はルールの変更を一番嫌がるからな。規格を握る者が、世界を握るんだ」
「冗談じゃない……! 大国を相手にした命懸けの交渉じゃないか! 誰がこんな恐ろしい仕事を……」
「やれ」
俺とシスイが、一切の感情を排した猟犬の冷徹な目で彼を見下ろした。
文官は息を呑んで硬直した後、震える手で机の上の帳簿をめくり始めた。
その視線が膨大な数字の羅列を追うにつれ、恐怖で引き攣っていた顔つきが、徐々に実務家としての熱を帯びていく。
「……や、やります。やらせてください。ああくそっ、複雑怪奇だが恐ろしいほど理にはかなっている……! 私の手で、より完璧な物に作り上げてみせるさ」
文官の男が半泣きになりながらも、官僚としての血を騒がせて猛烈な勢いでペンを走らせ始めたのを見て、イズミとカジたちがボロボロと歓喜の涙を流した。
*
数時間後。波の国の海岸沿い。
「はぁ〜……! 潮風が最高に気持ちいい……!」
うちはイズミは、完成間近の巨大な橋の建設現場を見上げながら、両腕を大きく広げて背伸びをした。
地獄の事務仕事をすべてあの有能な「神様」に丸投げし、久しぶりに現場へ視察に出ることができた彼女の顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「おや、イズミのお嬢ちゃんじゃねえか。随分と機嫌がいいな」
足場の上から、大工の棟梁であるタズナが声をかけてきた。手には図面を握っている。
「タズナさん! ええ、ついに私を解放してくれる有能な助っ人が来たんです。これでやっと人間らしい生活に戻れます!」
イズミが笑って答えると、タズナも豪快に笑い、そして少しだけ顔を曇らせた。
「そいつは重畳だ。お嬢ちゃんには、これまでうちのカジや若い衆をこき使って……いや、指導してくれて本当に感謝してるんだぜ。あんたら猟犬がいなきゃ、この橋は絶対にここまで形にならなかった。……特に、最近のガトーの嫌がらせは目に余るからな」
タズナの視線の先には、波の国と対岸の大陸を結ぶ、途方もなく巨大な『大橋』の姿が描かれた図面があった。血霧から引き抜いてきた大工たちの技術もあり、工事は予想を遥かに超えるスピードで進んでいる。
「ガトー……昔は、あんなに愛想の良い善意の商人の皮を被ってたのにな」
タズナが忌々しげに吐き捨てる。
「海賊がいなくなった後も、自腹で私設警備隊を出して、島民から救世主みたいに崇められてた。だが、この橋の建設が本格化して、あんたらの商会が島の経済を牛耳り始めてから、あいつの化けの皮が一気に剥がれ始めた。環境保護だのなんだのと難癖をつけて工事を妨害し、裏でチンピラをけしかけてきやがる」
「焦っているんでしょうね」
イズミは少し大きめの色眼鏡の位置を直し、海風に目を細めた。
「陸路が繋がれば、彼の海運の独占は完全に崩れますから」
色眼鏡は、波の国の強い日差しを避けるという建前だが、本当の理由は別にある。彼女の感情が昂って不意に出る『写輪眼』を、無闇に他国の人間に晒さないためだ。
(……隊長は、最初から全部見えていたのかな)
イズミは海を見つめながら、そっと胸に手を当てた。
今から三年前。十三歳だったイズミは、シスイに幻術をかけられ、無理やり木ノ葉の里から連れ出された。
島に到着して数日後。彼女の元に、木ノ葉から信じられない凶報が届いた。
『うちは一族、イタチの手によって全滅』。
もしあの夜、イズミが里に残っていたら、どうなっていたか分からない。ヨフネは、彼女とシスイを惨劇から生かすために、あえて無理やり波の国へ逃したのだ。自分の命を救ってくれたヨフネには、どれだけ終わりのない帳簿整理を押し付けられようとも一生頭が上がらない。
(イタチ君……)
一族を手にかけ、抜け忍となった少年の顔が脳裏をよぎる。彼がどれほどの闇を背負ってあの決断を下したのか、今のイズミには完全に理解することはできない。
だが、イズミの元には、数ヶ月に一度、宛名も差出人も書かれていない短い手紙が届くことがあった。
彼が世界のどこかで生きている。そして、イズミの無事を気にかけてくれている。それだけで、イズミは前を向いて生きていくことができた。
「おい、そこのネエちゃん。邪魔だぜ」
不意に、下品なダミ声がイズミの回想を断ち切った。
振り返ると、手甲や刀で武装した人相の悪い男たちが、十数人で固まって歩いてきていた。ガトーカンパニーの息がかかった、地元のチンピラや用心棒のならず者たちだ。
「ここらは俺たちの管理地だ。邪魔をするようなら、痛い目見てもらうぞ」
先頭のチンピラが、イズミの色眼鏡を見て下卑た笑いを浮かべた。
「おいおい、そんなおもちゃみたいな眼鏡かけて、忍のつもりかよ? とっとと帰ってママのおっぱいでも吸ってなァ!」
チンピラたちが下品な笑い声を上げる。タズナが顔色を変えて「やめろお前ら!」と前に出ようとした。
だが。
「……ふふっ」
イズミの口元から、思わず邪悪な笑みが漏れた。
「……ちょうどよかった」
イズミは首をコキコキと鳴らし、色眼鏡をかけたまま両手の拳を強く握りしめた。
「私、最近ずっと事務仕事ばっかりで、体が鈍りきってたんです。ものすごくイライラしてて……」
「あ? 何言ってんだこの眼鏡アマ……」
チンピラが凄もうとした、その瞬間。
空気を裂く鋭い風切り音と共にイズミの姿が掻き消え、次の瞬間には先頭のチンピラの顎に、下からカチ上げる強烈な一撃が突き刺さっていた。
「ごべばっ!?」
男の巨体が宙を舞い、白目を剥いて地面に叩きつけられる。
「なっ……!?」
「て、てめえ! やっちまえ!!」
残りの十数人が一斉に刀を抜いて襲いかかってきた。
だが、彼女は木ノ葉のくノ一であり、終わりのない帳簿整理で極限まで精神を研ぎ澄まされた彼女の動きに、ただのならず者がついてこられるはずがない。イズミは色眼鏡の奥の瞳を細め、水流のように滑らかな体術で男たちの刃を次々と躱していく。
「このっ、領収書の束ァ!!」
振り抜かれた拳が男の腹部を捉え、その言葉と共に巨体をくの字に折り曲げて数メートル後方へと吹き飛ばす。
「関税の計算ミスゥ!!」
流れるような回し蹴りが別の男の側頭部を撃ち抜き、コマのように回転させながら宙を舞わせる。
「有給休暇をよこせェェェ!!」
日頃の過酷な労働の恨みを乗せた最後の一撃が、残る男たちをまとめて空中へと跳ね飛ばし、海風の中に悲痛な叫びを響かせた。
わずか数十秒後。大橋の建設現場には、口から泡を吹いて気絶した十数人のチンピラたちが、綺麗に積み上げられていた。
「……ふぅ。スッキリしました!」
イズミは色眼鏡の位置を軽く直し、満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり実戦って最高ですね! さあタズナさん、仕事に戻りましょう!」
「お、おう……お嬢ちゃん、おっかねえ……」
タズナは積み上げられたチンピラの山を見て、引き攣った笑いを浮かべるしかなかった。
*
その頃。
波の国の裏社会を牛耳る海運王ガトーは、薄暗い自室で、部下からの報告を受けて顔を真っ赤に怒張させていた。
部屋には、苛立ちと共に吐き出された葉巻の煙が不気味に立ち込めている。
「……なんだと? 俺の若い衆が、商会の小娘たった一人に半殺しにされただと……!?」
ガトーは葉巻を噛みちぎり、忌々しげに吐き捨てた。
六年前のあの日から、彼は善意の商人の皮を被り、住民の支持を集めて波の国を裏から完全に支配するつもりだった。だが、あのシラカワ商会が築き上げた異常な経済システムが、ガトーの理解と許容量を完全に超え、彼の計画を木っ端微塵に粉砕しつつある。
そして、極め付けの大橋の建設。これが完成すれば、ガトーの生命線である海運の独占は完全に崩壊する。だからこそ、彼はなりふり構わず本性を剥き出しにし、武力による妨害工作を強行していたのだ。
「……もう限界だ。あの小賢しい商会も、タズナのジジイも、まとめて潰す」
ガトーは背後に控える側近に、純粋な殺意と憎悪に満ちた冷酷な声で命じた。
「裏社会のツテを全部使え。金に糸目はつけねえ……島をうろついてる木ノ葉どもを皆殺しにできる、とびきりの暗殺者を連れて来い。血の匂いの染み付いた、本物の『怪物』をな」
最強の経済防壁を築き上げた波の国に、最大の暴力というイレギュラーが迫りつつあった。