あっという間にやってきた、本戦当日の朝。
雲一つない青空。やけに日差しが眩しい。
アカデミーに隣接する闘技場の中庭には、続々と選手たちが集まってくる。観客席には各国の要人や商人がふんぞり返り、里の至る所に屋台が並んでいる。焼きイカの焦げた醤油の匂い。行き交う人々の笑い声。祭りのような浮かれた空気が、そこら中に充満していた。
だが、俺の心臓は嫌なリズムで脈打っている。
何も知らない表の騒ぎが大きくなるほど、裏の静けさが不気味に際立つ。俺たちが敷いた、バカみたいにでかい罠。
今、この人混みの中には、私服姿の警務部隊が完全に溶け込んでいる。うちは一族の滅亡により、色んな一族の猛者や前線を退いたベテランを集めて作り上げた、木ノ葉の新しい盾だ。
林檎飴を売る隻眼の男。客引きをする傷だらけの老婆。彼らが殺気を消し、見えない防壁として観客席や通路の要所を完全に押さえていることを、大蛇丸も砂の連中も知らない。
それに仕込みも終わっている。
波の国のシラカワ商会を経由し、木ノ葉に大量のダミー任務を発注させた。外から見ればいつも通り「木ノ葉の主力は任務で出払っている」ように見えるはずだ。
政治的に中忍試験を中止できない以上、敵を油断させるための特大の撒き餌。
インカムからは、ノイズ混じりの報告が絶え間なく入ってくる。
『こちら西側警戒網。シスイ隊長指揮の元、三個大隊百九十二名、配置完了。異常なし』
猟犬本部では今頃、トンボとシモンが結界班と一緒に感知水球を睨みつけ、十二名の事務員が随時やってくる情報を処理しているはずだ。俺が注ぎ込んだ資金と政治力。作り上げた組織が、今この瞬間、裏側で確実に機能している。
俺はインカムを指で叩いた。
「俺とタシが率いる北側警備六十四名も、予定通り所定の位置につく」
全ては、これから起こる被害を最小限に抑え込むためだ。
控え室へ向かう選手たちの列。その中に、見慣れたジャージの背中を見つけた。
「シノ」
呼び止めると、あいつは静かに足を止め、振り返った。
「俺はこれから里の北側を警備することになった。……お前の試合は、見てやれない。すまない」
口の中がカラカラに乾いていた。大蛇丸の標的になる闘技場に、教え子を残していって良いのか今でも迷っている。
ただ、シノは何も言わなかった。何となくだが、サングラスの奥で、俺の言葉の裏にある「異常事態」を正確に読み取っているようにも見えた。
俺は話すと何か言ってしまいそうで、無言で一歩近づき、軽く右拳を握った。
トン、と。シノの胸元に拳を当てる。
それだけだ。言葉はいらない。
シノはしばらくそのままでいたが、やがてスッと指先で眼鏡の位置を直し、背を向けた。
その後ろ姿に迷いはなかった。
俺はシノを見送りつつ、観客席を見上げた。
原作とは異なり重症には至らなかったヒナタの姿があった。あの子の目は闘技場ではなく、観客席のあちこちを静かに見据え、白眼を細めている。予選で負けはしたが、心は折れていない。私服の警務部隊の死角を、その眼でカバーしているのだ。
少し離れた場所では、キバが赤丸と並んで周囲を嗅ぎ回っている。試合前の興奮を装いながら、観客に紛れた砂や音の忍の怪しい匂いを洗い出している。
この二人には今回何か起きるかもしれないと伝えていた。正確には、猟犬に出入りしているため、どこかで聞いてしまい話さざるを得なかっただけだが。
(……頼んだぞ)
声に出さず、喉の奥で呟く。
隣に立つタシが、静かに頷いた。
俺は踵を返し、北の防衛ラインに向かって駆け出した。
*
北側の高台。木ノ葉の外縁を見渡せる小高い丘の上に、偽装された水撃砲台八基が等間隔に設置されていた。
砲台の周囲には、二人一組の運用チームを配置している。水遁による高圧噴水で弾体を打ち上げる役と、内蔵された指向性起爆札の起爆を担う観測役だ。彼らは先日まで波の国で訓練を重ねてきた十六名。
砲台の前に立つ彼らの表情に怯えはない。やるべき作業が分かっている人間の顔だった。
少し離れた場所では、棘糸テッセンが率いる傀儡部隊二小隊が八体の鳥型傀儡に最後の調整を施している。
各傀儡の腹部には口寄せの術式が書かれており、術者の操作により起爆札のついたクナイが射出される。 また、尾に当たる部分には閃光弾が二つ着けられている。
テッセンは指先を動かして傀儡の関節を確かめ、チャクラの流れを点検していた。
「テッセン、傀儡の状態は」
「問題ない。いつでも」
短い答えだった。テッセンらしい。
「トクマ」
そばにいたトクマが、こめかみに青筋を浮かべて白眼を展開したまま応じる。
「北側の接近経路、全域をカバーしています。現時点で異常な動きはありませんが、森の奥に大きな気配の塊があります。チャクラの密度が高い。かなりの数が集まっています」
「ムタ」
蟲の感知担当として北側の末端に配置されているムタが、インカム越しに応じた。
『はい、隊長。蟲を前方に展開しています。大規模な部隊が移動中です。数はまだ正確には把握できていませんが、かなりの規模です。蟲が地面の振動を感知しています』
「分かった。引き続き報告を続けろ。蟲を下げるな」
『了解です』
直後、インカムにザザッとノイズが走り、猟犬本部に詰めているトンボの声が割り込んだ。
『隊長、こちら本部。感知水球にも反応が出始めた。やはり北側に大部隊が集中している』
「了解した。これより先は感知水球の対象範囲を里内に絞ってくれ」
通信を切り、隣に立つタシへ視線を向ける。
「タシ」
タシが手元の報告書から目を上げた。
「各大隊、配置完了を確認しました。西側はシスイ大隊長、ホヘト大隊長、ダエン大隊長の三大隊が展開中。こちら北側は我々の直轄として、ムタ、トクマ、アオバの各中隊が配備されています。全員、定位置についています」
タシが手元の書類を一枚めくった。
「医療班は後方の待機場所に配置済みです。チャクラ切れの隊員への対処を優先するよう伝えてあります」
「よし。連絡系統の最終確認を」
「各中隊長との通信、全て正常です。インカムの予備も全員が携行しています」
「分かった」
俺は懐から折り畳んだ報告書を取り出し、最後にもう一度目を通した。乾燥した紙とインクの匂いが鼻を突く。
この戦争を俺が確信したのは、忍の勘などという曖昧なものではない。明確な数字だ。
三ヶ月前から、田の国と風の国での食料品の取引価格が高騰していた。それは通常の需要変動を少し上回る程度の上昇幅だ。だが、兵糧丸に使う穀物の価格が跳ね上がっている。
戦地に送る兵糧を大量に買い付ければ、必ず市場に出回る量が減る。価格はそれを正直に反映する。
さらに止血剤と包帯の大量買い付けが、複数の商人を通じて行われていた記録がイズミの調査網に引っかかっていた。
それも一か所からではなく、複数の国にまたがった買い付けだ。一つの里や組織が密かに調達しようとすれば、必ずこういう形になる。
決定的だったのは、音隠れと砂隠れに対して、波の国の商人として投げたダミーの護衛依頼だ。上忍以上の派遣ではなく、下忍を中心とした忍ばかりに受注された。主力が別の作戦に割かれている何よりの証拠だ。
最悪の可能性が、完全に当たったとみるべきだろう。
「タシ、各方面からの報告を随時上げてくれ。総数の把握を優先しろ。あとこちらが先に手を出さないように徹底させてくれ」
「了解しました」
俺は報告書を懐に収め、北側の森を見据えた。
*
会場に異変が起きたのは、サスケと我愛羅の試合が佳境を迎えた頃だった。
インカムから聞こえていた会場の熱狂が、砂嵐のようなノイズと共に急激に静まり返った。不自然な静寂。北側の高台にまで届いていた微かな歓声が、まるでスイッチを切ったように消え失せる。
「……始まったか」
直後、インカムにシカクさんの低い声が割り込んできた。
『ヨフネ。こちらで動きが出た。大規模な睡眠幻術だ。観客席の連中が次々と眠らされている』
シカクさんはVIP席で今の惨状を目の当たりにしているはずだ。
「一般客の解術はどうします」
『後回しにする。数千人の一般人がパニックを起こして逃げ回る方がリスクが高い。眠っている間は少なくとも流れ弾に当たる確率は減る。異論はないな』
「同感です。里内は任せました」
通信を切った瞬間、隣にいたトクマが白眼を剥き出しにして声を上げた。
「隊長! 里の中央、火影邸の屋根に巨大な結界が展開されました。紫色の炎が立ち上っています。……四紫炎陣です。三代目様が、中に閉じ込められました」
トクマの報告を聞き、俺は里の中央を睨みつけた。ここからでは建物の影になって炎そのものは見えないが、空が不気味な紫色に染まっていくのが分かった。
(……嘘だろ。あんなに警告したのに。暗部もつけたはずなのに)
視界が歪むような感覚。胃の底が冷え切っていく。波の国で兵器を揃え、経済を操り、最強の部隊を作り上げた。それなのに、結局あの人は一番最悪な形で敵の術中に落ちた。
自分の無力さが、冷たい泥のように全身にまとわりつく。絶望感で喉の奥が詰まりそうになった。
だが、その感傷をタシの声が強引に引き剥がした。
「隊長、報告をまとめます! 西側ゲートに三つの頭を持つ巨大な蛇が接近。里内でも砂と音の忍が活動を開始しました。敵の総数はおよそ二千。内訳は北側八百、西側千、里内二百です」
「……最悪の数が来たな」
俺は奥歯を噛み締め、無理やり思考を戦場へと戻した。
絶望している暇はない。俺がここで崩れれば、北側の防衛線は一瞬で瓦解する。そうなれば、里の中はさらに悲惨なことになる。
「北側八百。……こっちは六十四名で受ける。西側はシスイたちに任せろ。里内はシカクさんと警務部隊が対処する。各位、予定通りに動け」
インカムを通じて、猟犬の隊員たちに冷徹な声を飛ばす。
「水撃砲台、全機起動。射角固定。傀儡部隊は展開を急げ。一兵たりとも、この丘より先には通すな」
『『『了解!』』』
隊員たちの返唱が重なり、砲台の金属部がカチャカチャと音を立てて稼働し始める。
北側の森の木々が揺れる。その木々の間を抜けるように、無数の人影が姿を現す。
砂隠れと音隠れの連合軍。
俺は一歩前に踏み出し、懐から雷刀の柄を握りしめた。
「……来いよ。ここからは、俺たちのやり方で戦わせてもらう」
目の前の森が割れ、敵の殺気が津波のように押し寄せてきた。
*
同時刻、西側防衛線。
「こちら西側。敵の先陣が巨大な蛇を口寄せしました」
『シスイ、任せたぞ』
「了解」
インカムのスイッチを切り、俺は西側ゲートに迫る巨影を見据えた。
三つの頭を持つ巨大な蛇。屋敷ほどの頭部が木々をなぎ倒しながら進んできている。
通常の忍ならこの質量に圧倒されるだろうが、今の俺たちに焦りはない。
西側に展開する敵の総数は約千。まともに正面からぶつかれば、いくら猟犬でも被害が出る。俺の役割は、このバカげた巨体が里を覆う壁を破る前に処理し、敵の足並みを完全に崩すことだ。
俺は両目に写輪眼を発動させる。三つの巴が高速で回転し、蛇の巨大な瞳を捉える。
「……敵は反対側だ。蹴散らせ」
チャクラを練り、視線越しに強力な幻術を叩き込む。
意思を奪われた巨大蛇の瞳が、写輪眼と同じ不気味な赤色に染まった。進軍を止めた巨体が、その場でくねりながら向きを変える。
巨体ゆえに、方向転換だけで周囲の森が破壊され、千の軍勢が陣取っていた後方へとその牙が向けられた。
味方であるはずの口寄せ獣が、突如として猛然と自陣へ突撃していく。想定外の事態に、森の奥で敵の悲鳴と怒号が上がった。
巨大蛇が自軍を蹂躙し、敵の本隊は大混乱に陥っている。だが、その混乱を抜けて、死に物狂いで突撃してくる砂隠れの第一陣、およそ百名がゲートへ向かって殺到してきた。
ここからが、隊長と俺達で作り上げた「猟犬」の本領発揮だ。
「『目』、座標を」
ホヘトの白眼が、森の煙や木々に紛れた敵の位置をすべて暴き出す。座標情報は精神伝達を通じて、全隊員の脳内へリアルタイムで共有された。
「『脚』、封鎖しろ」
指示と同時に、土遁班が一斉に術を放つ。地面が激しく隆起し、敵の進路を塞ぐ壁と、足を捕らえる泥濘が瞬時に形成された。逃げ場を失い、袋小路に追い込まれた敵が顔を歪める。
「『牙』、掃射」
座標通り、寸分の狂いなく雷遁と起爆札が撃ち込まれた。
悲壮な叫びを上げる暇すら与えない。白眼で見透かされ、土遁で逃げ場を奪われ、手順通りに命を刈り取られていく。個人の勇猛さなど関係ない。ただ、効率的に敵をすり潰していく作業だ。
俺はその光景を見届けながら、第一陣の最後の一人が沈んだことを確認した。
かつての俺は、この眼の力だけで、個人の自己犠牲によって里の平和を背負おうとしていた。だが、そんなものは脆く危うい。
隊長は個の能力の必要性を認めながらも、誰もが己の役割を果たすだけで巨大な暴力を粉砕できる、この仕組みを作り上げた。
だからこそ、俺はあの人を誰よりも信頼している。
「巨大蛇を敵本隊へ放逐。および、突撃してきた敵第一陣をすべて排除しました。西側、防衛線を維持しています」
インカム越しに、北側の丘にいるヨフネへ報告を入れる。
『……上出来だ。警戒を維持しろ』
相変わらず冷え切った、安堵の一切混じらないヨフネの声が返ってくる。
その一切ブレない司令官のトーンに、俺は口元に微かな笑みを浮かべた。
「了解」
俺は短く応じ、残りの敵が蠢く西側の森を再び睨み据えた。
*
北側の高台。
遠くに見える斜面を埋め尽くす八百の軍勢が、一斉にこちらに駆けてきていた。
その圧倒的な数による圧迫感に対し、俺はただ冷静に作戦を口にした。
「テッセン。六体で両翼を削り、中央へ誘導しろ。残りの二体は閃光弾だ」
「了解」
テッセンの指示で傀儡部隊が動き、八体の鳥型傀儡が風遁で空へ舞い上がる。そして、敵の忍術が届かない高度から、六体の傀儡が敵陣の左右の端をなぞるように起爆札付きのクナイを投下した。
森の木々が吹き飛び、左右から凄まじい爆風と土煙の壁が立ち上がる。逃げ道を失った砂と音の忍たちは、爆風から逃れるようにして自然と中央の開けた斜面へと密集し、隊列の横幅を極端に狭めていった。
そこへ、残る二体の傀儡が急降下し、強力な閃光弾を炸裂させた。
網膜を焼く白い光が、突出していた先頭集団を直撃する。視界を奪われた戦闘集団は本能的に足を止め、そこへ止まりきれない後続が次々と激突した。
「水撃砲台、全基斉射。出し惜しみはするな」
俺の号令で、十六名の運用チームが一斉に水遁を発動させる。そして、高圧の空気が抜けるような頼りない音が八回重なった。
腹に響く轟音ではない。殺傷能力など微塵も感じさせない、間の抜けた音。その音と共に、八つの弾体が敵の術など絶対に届かない遥か上空へと撃ち上げられた。
砲弾に気づいた敵兵の何人かが、空を見上げて呆けた顔をしたのが見えた。
だが、その頼りなさは一瞬で終わる。
指定高度に達した弾体が、指向性起爆札の連鎖によって頭上で爆ぜた。
空を裂く炸裂音。直後、上空で解放された数万発の鋼の球が、音速を超える散弾の雨となって、密集した敵の頭上へ垂直に降り注いだ。
逃げる場所も、防ぐ術もない、完全な一方的暴力。
岩のような強固な土遁を張った者もいたが、上空から絶え間なく叩き込まれる質量と速度の雨は、その防壁を瞬時に削り取り、ただの砂利へと変えた。
チャクラで肉体を硬化させた者も、数秒と持たずに全身の肉を抉られ、血の霧へと変わる。
阿鼻叫喚の叫びすら、鉄球が地面と肉をミンチにする凄惨な破砕音にかき消された。
わずか数秒。弾雨が収まった後、そこにあったのは丘の斜面を埋め尽くしていた敵兵の姿ではない。
全てが均一に削り取られ、原形を留めない赤い大地だけが広がっていた。
「第一射、完了。敵の先鋒、完全に消滅しました。……ですが、後続の圧力が止まりません」
タシが戦況を報告する。敵は恐怖よりも、後ろから押し出される千人規模の物理的な圧力によって、強制的に死地へと歩かされている。
「分かっている。防衛ラインを十メートル下げろ。次の着弾ポイントへ誘い込む」
俺たちは水撃砲台を牽引しながら、少しずつ高台の後方へと下がっていく。
「弾数は各砲台十発しかないが、温存は考えなくていい。出し惜しみなしだ。傀儡部隊は引き続き敵の侵入経路を限定しろ。第二射撃て!」
運用チームは凄惨な光景に目を背けることもなく、淡々と次の弾を装填し、八基が一斉に弾を打ち上げる。
前進すれば砲火に削られ、立ち止まれば爆撃を浴びる。敵軍にとって、この北側の丘はもはや彼らの知る戦場ではなくなっていた。
*
一方、闘技場の観客席裏。
不自然な静寂の中、ヒナタとキバは救助作業にあたっていた。
「キバ君、子供たちはこのまま眠らせておきましょう。目を覚ましてパニックになると、音で敵に気づかれます」
「ああ、分かってる。親だけ起こすぞ」
ヒナタとキバは目を覚ましている親たちの肩に少量のチャクラを流し込んだ。
ハッとして飛び起きた親たちに、ヒナタは落ち着いた、しかし絶対に逆らわせない静かな威圧感のある声で告げた。
「静かにしてください。子供たちは安全な術で眠っているだけです。皆さんは子供を抱え、指示に従って避難を。騒げば敵に見つかって、全員死にます」
その言葉の重みに、親たちが息を呑む。
キバと赤丸も同様に親の目を覚ましていく。
「おっちゃん、騒ぐんじゃねえぞ。子供の命がかかってんだ。いいか、俺の後に続け。足音は立てるなよ」
子供を人質に取られているに等しい状況で、親たちは恐怖を押し殺し、キバの指示に必死に従った。ヒナタが白眼で警備の薄い動線を探り、キバがその鼻で待ち伏せの気配を察知する。
「北西の通路、今は誰もいません。一気に抜けます」
ヒナタの合図で、眠った子供を抱えた一団が、影のように会場を脱出していく。
混乱を広げず、しかし着実に。教え子たちもまた、自分たちができることを着実にこなしていた。
*
会場の異変に最初に気づいた一人が、油女シノだった。
白い羽根が空から舞い落ちてきた瞬間、シノはすでに解術の印を結び終えていた。
ただの羽根ではない。羽根の形をしたチャクラの塊だ。体内に飼う何万もの蟲たちが、外部からの異質なチャクラに反応し、ジリジリと羽音の周波数を変えて警告を発していた。
ヨフネが叩き込んだ幻術の感知訓練。羽音の変化によって敵の術を察知するそのシステムが、今この瞬間に役立っている。
己の感覚など信じるな。ただ、積み上げた準備と理屈だけを信じろ。
師の言葉が、冷たい事実としてシノの脳裏をよぎる。
観客たちが次々と糸の切れた操り人形のように座席へ崩れ落ちていく中、シノはサングラスの奥の視線を闘技場へと向けた。
試合は中断された。闘技場の中央では、傷ついた我愛羅を両脇から抱え上げるようにして、カンクロウとテマリが壁を蹴り、外の森へと逃走を図っている。それをサスケが単独で追跡していくのが見えた。
シノの蟲は、すでにカンクロウの纏うチャクラの匂いを正確に記憶している。油女一族の蟲だからこそ感知できる、微細なチャクラの痕跡だ。
本戦の第一回戦。シノの対戦相手はカンクロウだった。だが、奴は直前で試合を棄権した。手の内を隠し、この作戦を完遂するためだったのだろう。
(なるほど。だからヨフネ先生は、あえて外の警備に回ったのか。……妥当だ)
師の先読みの深さに静かに納得しながら、シノは己の行動を決定した。
俺の対戦相手が逃げた。そして奴らは里の敵だ。ならば、追う理由は十分にある。
傀儡師は近距離での戦闘が極端に苦手だ。通常であれば、傀儡との間合いを詰めさせず、蟲を使って遠距離から一方的にチャクラを喰い尽くすのがセオリーとなる。
だが、今のシノにはヨフネから与えられた課題の答えがある。蟲装岩拳。そして、幻術。修行で積み上げた新たな手札を、実戦で切る時が来た。
シノは足音を完全に消し、先行して索敵する蟲を放ちながら、サスケと砂の三姉弟が消えた森の入り口へと歩き出した。
入り口の暗がりに差し掛かった時、背後から小さく声がした。
「……シノくん」
振り返ると、ヒナタが立っていた。
その腕には、眠らされた見知らぬ子供がしっかりと抱きかかえられている。ヒナタの目の周囲には血管が浮き出ており、白眼が展開されたままだった。その眼は、すでに見通しているのだろう。
避難誘導の手を一瞬だけ止めて、ヒナタは真っ直ぐにシノを見た。
「気をつけて」
短い言葉の中に、猟犬の教え子として互いの役割と覚悟を理解し合う、確かな信頼があった。
「ああ」
シノは短く頷き、乱れた息一つ立てることなく、薄暗い森の中へと消えていった。
*
北側の戦線が、じりじりと削られ始めていた。
砲撃と爆撃で先陣を粉砕することには成功した。だが、森の奥から敵の後続部隊が次々と補充されてくる。数の差は完全に埋まらない。
左翼の陣形が限界に近づいていた。アオバが怒鳴りながら立て直そうとする声が、インカム越しに聞こえてくる。
「アオバ、左翼を下げるな。一歩引いたら決壊するぞ」
『分かってます、でもここは数が……!』
「ムタ、左翼の足元を重点的に頼む」
『蟲を回します。ただし、他が手薄になります。蟲の数も足りなくなってきています』
早く戦力を動かさなければ、左翼が崩れる。左翼が崩れれば陣形全体が瓦解し、俺たちは散り散りになって各個撃破される。
「タシ」
「見えています」
タシが静かに答えた。声に焦りはないが、状況の深刻さは共有されている。
「レールガンを使う。敵の後続部隊の指揮官を狙う。頭を一つ潰せば、後続の統率は乱れる」
「了解しました」
爆撃が始まった直後に前線から下がり、俺の指揮補佐に回っていたトクマが背後に立った。いまサンタはいないため、トクマが白眼を展開し、俺の視覚の代わりとなる。
「右斜め奥。後続部隊の中心にチャクラの強い個体が三。指揮官クラスです」
トクマが白眼で見極めた情報を口にし、俺の肩に手を置いて微調整の指示を出す。俺は雷刀を構え、刀身に雷遁のチャクラを極限まで収束させていく。
「……今」
トクマの声と同時に、俺はレールガンを放った。
雷光が空気を焼き切り、轟音と共に一直線に森の奥へ突き刺さる。
「命中です。目標のチャクラ反応消失。……ただ、敵の進軍が止まりません」
トクマの報告に、俺は舌打ちした。大蛇丸が直接指示を出している以上、指揮官の狙撃による機能不全も織り込み済みだったのだろう。即座に別の者が代理で指揮を執り始めているようだ。
次弾を装填しようとした直後。
敵の背後にあたる森の奥が、突如として深い霧に包まれた。
ただの水蒸気ではない。濃密なチャクラが混じっている。木々の輪郭が消え、人影が飲み込まれ、森全体が一瞬にして白い壁に変わった。視界を遮り、音を吸収し、方向感覚を狂わせる異常な濃さ。
敵の撹乱か。前線に立つ全員がそう疑った瞬間、敵軍の後方から短い悲鳴が上がった。
一つ、また一つ。くぐもった悲鳴が上がり、それがすぐに不気味な静寂へと変わる。
悲鳴が静寂に変わる意味。それは奇襲。
背後の異変に気づき、前線で戦っていた敵兵たちの動きが一瞬止まった。北側の戦線全体の時間が凍りついたような空白。
その隙を猟犬は逃さない。アオバが声を張り上げ、崩れかけていた左翼の陣形を強引に立て直す。ムタが蟲を再び敵の足元へ広げ、後方からインカムで全体へ指示を飛ばす。押し込まれていた戦線が、息を吹き返した。
「霧隠れの忍です」
トクマが白眼を細め、霧の中の惨状を報告する。
動きが速く、音がない。霧の中で完全に気配を消し、一人が現れたかと思うと次の瞬間には消えている。そして消えた場所の近くで、敵の兵がまた一人、音もなく地面に崩れ落ちる。
派手な忍術はない。ただ霧の中で確実に喉を掻き切る技術。霧隠れ特有の無音殺人術が、そこには凝縮されていた。接触した瞬間に仕留める。その反復作業だ。
前方からは猟犬の砲撃と爆撃。後方からは霧の暗殺者。逃げ場を失った敵軍の統率が、急速に崩れ始めた。一人が踵を返し、それを見た隣の者が続く。組織的な抵抗が崩壊していく。
俺は雷刀のチャクラ収束を解いた。次弾を撃つ必要はなくなった。刀身の熱がゆっくりと引いていく。
「タシ」
「……来ましたね」
タシが静かに呟いた。その声には、確かな安堵と確認が混じっていた。
「ああ。このまま、霧隠れと連携して後続を完全に封じ込める。誤射はするな。トクマ、霧隠れの位置を前衛に共有しろ」
「了解」
「砲台は引き続き後続を狙え。傀儡も続けろ。前後から挟まれた敵に逃げ場はない」
指示を飛ばしながら、俺は北側の戦場を見渡した。
波の国での準備は、水撃砲台の調達だけではなかった。あの一件の裏で、照美メイと接触し、クーデター派の霧隠れの忍、約百名を援軍として呼び寄せていたのだ。報酬は、忍刀の三振り。
俺のレールガンの轟音は打ち合わせをしたわけではないが、結果として彼らにとって狩り開始の完璧な合図となった形だ。理想的な挟撃が成立し、敵の数はすでに半数近くまで削られている。
インカムにシカクさんからの連絡が入った。
『北側の状況は』
「制圧中です。霧隠れが背後から後続を封じ込めています。組織的な抵抗は終わりに近い」
『了解。……援軍が来たのか』
「はい。予定通りです」
『……なるほどな。それがお前の仕込みか』
「波の国で少し貸しを作っておいただけです。里内の状況は」
『掃討を進めているが、予測よりも早く決着しそうだ。自来也様が里内の主要な敵をあらかた片付け、今まさに三代目の元へ向かっている。しかし、三代目は……まだ戦っている』
一瞬、通信の向こうで沈黙が落ちた。シカクさんも、屋根の上の死闘を意識している。この里の誰もが、あの炎の壁の中を意識しながら、それぞれの持ち場で戦っている。
「分かりました。北側は引き続き維持しますが、早めに援軍を下さい」
『分かった』
通信が切れた。
俺は空を見上げた。抜けるような青空は変わっていない。だが、会場の方向から、四紫炎陣の不気味な熱がここまで伝わってくるような気がした。あの炎の壁の中で、今も三代目が戦っている。
あの人は、自分が盾として散ることを完全に受け入れていた。あの日、屋上で俺の話を聞いた後に見せた、あの穏やかで揺るぎない覚悟の目。退かない決意が、穏やかな笑いの奥に根を張っていた。
(……頼む)
声に出すつもりはなかった。だが、その一言だけが頭の奥で繰り返された。
自来也がいる。カカシがいる。ガイがいる。里の上忍たちが、今この瞬間も戦い抜いている。俺には、彼らを信じる以外の選択肢がない。
俺の戦場はここだ。ここで外の敵を完全に抑え込めば、里を守るという三代目との約束は果たせる。
眼下では、霧がゆっくりと、さらに深く戦場を飲み込んでいく。
北側の戦線から、悲鳴の数がまた一つ、減った。