「あいにく、ここにいるのは猟犬じゃない。ただの鬼だ」
俺のその言葉を合図にするかのように、立ち上がった四代目水影・やぐらの足元から、赤黒く変色した高密度のチャクラが泡立つように噴き出した。
それはもはや、人間の放つ殺気などという生易しいものではない。人柱力によってコントロールされた「災害」の顕現だった。手にした異形の杖を構えるやぐらの小さな体躯を、尾獣の衣が覆い尽くす。
大気中の水分が沸騰し、執務塔の最上階に設けられたバルコニーの空間そのものが歪ませていくような感覚を覚える。
彼が足を踏み出しただけで、足元の頑強な石床が強烈な毒性によって溶解し、赤黒い泥となって崩れていく。背後に控える若手たちの呼吸が、恐怖によって完全に凍りついたのが気配で分かった。
日向ネジとヒナタの白眼は、やぐらの内側で渦巻く底なしのチャクラ量に戦慄し、サスケの写輪眼は、大蛇丸すら凌駕する理不尽な化物の力そのものを視認してしまっている。
極限の実戦をくぐり抜けてきた彼らの精神力をもってしても、本能が「あれと対峙すれば死ぬ」と警鐘を鳴らし、全身の筋肉を硬直させていた。
「眼を逸らすな」
俺は一歩も引くことなく、背後の部下たちへ向けて冷徹な声を落とした。
「あれが、五大国が保有する最終兵器だ。個人の力など及ばない、軍事力の結晶そのものだ。……だが、俺たちは相手にするためにここにいる」
その言葉で、サスケたちがハッと我に返り、震える手でクナイを握り直す。俺は前方のやぐらを視界に収めながら、脳内で即座に戦術の切り替えを行っていた。尾獣の衣を纏った人柱力に対して、通常の体術や忍具は一切通用しない。シノの寄壊蟲やトルネのナノサイズの毒蟲による暗殺術も、対象に接触した瞬間にあの高熱と毒性を持つチャクラの衣によって阻まれ、完全に無力化されてしまう。
相性が悪すぎる。こちらの持つ手札の大部分が、あの圧倒的な暴力の前では意味を成さない。
「戦術目標を変更する。敵の殲滅から、遅滞戦闘による時間稼ぎへ移行しろ。第二小隊は直ちに後退し、若手と医療班の護衛へ回れ。前衛は俺とカカシ小隊で支える」
俺の指示と同時だった。
やぐらが獣のような前傾姿勢を取り、バルコニーの石床を爆発的に蹴り飛ばした。
大気が軋む音がした。
視認することすら困難な速度で跳躍したやぐらが、前衛に立つカカシの眼前へと迫る。やぐらの右手が振り下ろされ、そこから不気味な形状の珊瑚が急速に増殖し、カカシの身体を拘束しようと襲い掛かった。触れた箇所から相手の動きを封じる『珊瑚掌』の術式。
「……流石に速いな」
カカシが写輪眼を限界まで駆動し、右手に極限まで高密度に圧縮した雷遁の刃『雷切』を纏わせる。カカシは珊瑚の増殖を雷の刃で削り落とすように相殺し、紙一重の体術で致命傷を避けながら後方へと跳躍した。
その僅かな隙間を縫い、サスケが印を結び終える。
「火遁・豪火球の術!」
極限まで圧縮された灼熱の火炎が、やぐらの顔面へと直撃する。だが、尾獣の衣は炎の熱量すらも容易く弾き返した。しかし、サスケの狙いはダメージを与えることではない。炎がやぐらの周囲の水分を急激に蒸発させ、大量の水蒸気爆発を引き起こした。高密度の煙幕が、人柱力の視界を一時的に奪う。
そのコンマ数秒の間に、俺自身は雷刀を構え、弾丸を二振りの刀の間へと装填する。狙うのはやぐらの身体。水蒸気を突き破って再び突進してくるやぐらの軌道上へ、放つ。
しかし、驚くべきことにこの距離で、三尾の衣を纏ったやぐらは音速を超える弾丸に反応してみせ、衣を纏った手で弾いてみせたのだ。
それでも、巨大な手は後ろに弾き飛ばされそうになり、突進を止めることはできた。
その隙を見逃さず、次弾を発射しようとすると、やぐらは反対の手をバルコニーに叩きつけた。その衝撃で足元の石材が広範囲にわたって崩壊し、戦いの舞台は、重力に従って眼下の広場へと落下しながら移行していく。
崩落する瓦礫と共に、俺たちはすり鉢状の広場へと着地した。
周囲では、結界の崩壊に乗じて突入してきた反乱軍と、水影派の暗部たちが血みどろの市街戦を繰り広げている。怒号と悲鳴、忍術の衝突による閃光が飛び交う混沌とした戦場。
やぐらは、周囲で戦う他の反乱軍には目もくれなかった。彼は獣のような瞳で、自らの突進を防いだ俺を明確な標的として捉えていた。
やぐらの口元に、赤黒いチャクラと高密度の水遁が混ざり合った、歪な球体が圧縮され始める。簡易的な尾獣玉と呼ぶべき、絶対的な破壊の塊。
それが向けられているのは、前衛の俺ではない。後衛で護衛に回りながらも必死にクナイを構えるサスケやネジ、ヒナタたち次世代の若者たちだった。 直撃すれば、俺たち猟犬の防衛陣地ごと、背後の部下たちを塵一つ残さず消し飛ばす理不尽な超火力だ。回避は不可能。俺が迎撃の準備に入ろうとした、その時。
「……させないよ」
俺の前方に、再びカカシが割り込んだ。
*
カカシの脳内では、思い出したくない凄惨な光景が劇的にフラッシュバックしていた。
血の匂い。
自らの雷切が貫いた、少女の柔らかな身体の感触。
そして、彼女の体内に無理やり封じられ、暴走しかけていた『三尾』のチャクラの記憶。
目の前にいる水影が纏うものと、全く同じ禍々しい力だった。
(三尾……ッ!!)
呼吸が乱れ、左目に移植された友の眼が、かつてないほどの激痛とともに脈打つ。
やぐらの放とうとする絶対的な破壊の射線上にいるのは、サスケやヒナタ、そしてヨフネだ。
かつてのオビトやリンのように。また自分の目の前で、仲間が、三尾の理不尽な暴力によって消し飛ぼうとしている。
(……それだけは、絶対にさせない……!!)
「カカシ……?」
俺の背後で、同期であるヨフネの戸惑うような声が聞こえた。俺の左目に移植された三つ巴の写輪眼が、俺の思いに反応するかのように動いた。
実際、カカシからは見えないが、写輪眼は不気味な風車のような万華鏡の紋様へと劇的に変化し、どす黒い血の涙を溢れさせていた。限界を超えた精神的負荷と、強烈なトラウマのフラッシュバック。それが鍵となり、万華鏡の力が、悲鳴を上げるように強制的にこじ開けられたのだ。
次の瞬間、視線の先、やぐらの口元で圧縮されていた尾獣玉の周囲の『空間そのもの』が、雑巾を絞るように強引に捻じれ、渦を巻いた。
「神威……ッ!!」
ギリギリと空間が千切れる異音と共に、絶対的な破壊力を持つはずの尾獣のチャクラの塊が、捻じれた空間の彼方へと丸ごと吸い込まれ、跡形もなく消滅した。
*
「……なっ!?」
俺は思わず驚愕に目を見開いた。
空間が抉り取られた!? まさか、万華鏡写輪眼の瞳術か! 原作の知識では、もっと後になってから修行で使えるようになるはずの代物だ。極限の死地とトラウマの連鎖が、あの術をここで暴発させたというのか。
だが、その代償はあまりにも重かった。
直後、カカシが糸の切れた傀儡のように、その場に崩れ落ちた。万華鏡写輪眼の強制発動は、彼の体内のチャクラを一瞬にして完全に枯渇させていたのだ。呼吸すらままならず、左目を押さえて痙攣するカカシは、深刻なチャクラ切れを起こし、もはや指一本動かせない状態に陥っていた。
『医療班!カカシの受け入れ準備!サスケはカカシを担いで下がるんだ』
フーを介してそう言い放つとともに、俺はカカシの前へと歩み出た。
カカシの決死の一撃は、やぐらの最大火力を完全に無力化した。やぐらは自身の尾獣玉が虚空へ消え去ったことに一瞬だけ動きを止めている。
あれほどの質量を持つ攻撃を回避することは不可能だ。防壁を築いたところで紙屑のように吹き飛ばされる。ならば、撃たれるより早く、俺の手持ちの中で最大の火力を叩き込んで相殺するしかない。
だが、相手は尾獣の力を解放した人柱力。このままメイ達がここまで来なければ、泥沼の長期戦になることは目に見えている。
(……一滴のチャクラも無駄にはできない)
俺は体外へ流出するチャクラのロスを完全に防ぎ、効率を極限まで高めるため、自らの意思で胸の奥深くに刻み込んでいた新術式『疑似経絡』を起動しながら、後方にいるテンテンに指示を出す。
『テンテン!風船を出せ!』
この場でレールガンを撃つには隙がデカすぎる。そのためテンテンに言って、収納させていた酸素と水素の詰まった巨大な風船を出させ、タシの風遁で三尾の前まで一気に飛ばす。
そして、俺は風船とすれ違いながら後ろへ下がる。
ーー狐火
風船が三尾の射程内に到達し破られる直前に俺は起爆させた。三尾にダメージを負わせられることはできないかもしれないが、その爆風で足止めは可能だろう。
そして、着火した瞬間に俺たちの前には土遁による半球状の壁ができていた。事前の打ち合わせ通りシノが素早く動いたようだ。
爆風が吹き荒れる中、俺は壁の内側でレールガンの発射体勢に入る。手の甲に巻いた包帯に書いてある術式から、普段よりも圧倒的に大きな人の頭ほどの弾丸を口寄せする。
そして、冷静にいつもよりもチャクラを込めながら、発射の行程を踏んでいく。
だが、その瞬間だった。
俺の胸の奥深くに刻み込んでいた『疑似経絡』の術式が、俺の意思に呼応して、一気に脈を打ち始めた。
「……ッ!?」
血が沸騰するように熱くなり、激痛が全身を駆け巡る。
胸の中心から両腕の指先へ向かって、黒い幾何学的な回路のような線が、皮膚の下を這い回るように浮かび上がった。
計算外だった。
漏れ出すチャクラを留めるために起動させたはずの疑似経絡。だが、二本の線は俺の想定を大きく超え、暴走気味に倍以上のチャクラを一気に注ぎ込んでしまったのだ。
腕に擬似経絡の呪印に沿って火傷の跡のような水ぶくれができた。チャクラが腕の中で爆発する寸前。
暴風が止み、目の前の壁が崩れた。
俺は悲鳴を噛み殺し、強引に照準を定めた。
「……撃ち抜けェッ!!」
俺の咆哮と共に、雷刀から砲弾が放たれた。
それはもはや、俺自身の予測すらも遥かに超えた、超火力だった。
大気が瞬時にプラズマ化し、一条の雷光が瞬時にやぐらへ到達。
遅れてやってくる轟音。
やぐらの身体は砲弾のように後方へと弾き飛ばされ、広場を取り囲む分厚い石壁を何枚も貫通して、遥か遠くまで押しやった。
俺は腕を押さえ、その場に片膝を突いた。
予想外に出力が上がりすぎた代償として、俺の体内にあるチャクラは一瞬にして底を突き、ほぼ枯渇していた。
気を強く持たなければ、すぐにでも意識を失いそうだ。
(……チャクラを、補充しなければ)
俺は霞む視界の中、震える足を叱咤し、すぐ傍の瓦礫の下で気絶して倒れていた水影派の暗部の襟首を掴んだ。
この『疑似経絡』は本来、他者のチャクラを強制的に奪い取る吸収機能がその目的だ。奪えば、回復できる。
俺は右手を暗部の心臓に強く押し当てた。
「吸え……!」
俺は薄れゆく意識を集中し、術式のトリガーを引こうとする。
だが次の瞬間、掌がバチッと火花を散らすような激痛を放ち、即座に霧散して空気中へと消え去ってしまった。
不発。
暗部からのチャクラの吸収は、全く行われなかった。
「……クソッ」
俺は思わず毒づき、気絶した暗部の身体から手を放す。術式がまだ完全に身体に馴染んでいなかったのか、それとも吸収を起動するための理論が根本的に間違っていたのか。理由は分からない。だが、一つだけ確かなのは、この場においてこの新術式は『全くアテにならない未完成品』だったということだ。
計算が狂った。指揮官である俺自身が、カカシに続いてただの一撃で完全に使い物にならなくなったのだ。
俺が膝を突いている間にも、戦況は目まぐるしく動いていた。瓦礫の山に深く突き刺さったやぐらを庇うように、生き残っていた水影派の暗部たちが数百人規模で広場へとなだれ込み、俺たちとの間に分厚い肉の壁となって鉄壁の防衛陣形を敷いたのだ。彼らは主君を守るため、無機質な眼差しで一斉にこちらへ武器を向けている。
だが、戦況はすでに俺の手を離れ、次なる局面へと繋がっていた。
やぐらが吹き飛ばされ、巻き上がった大量の粉塵。その煙を強引に押し流すように、強酸性の巨大な泥の波が広場の外縁部の壁をドロドロに溶かし、ぶち破りながら雪崩れ込んできた。
そして、溶解する石畳の向こうから、一人の女性が姿を現す。
照美メイ。
そして、その後ろには、眼帯をした中年の男・青や、得物を持たず鋭い視線を向ける若き長十郎。さらには、波の国から合流していた断刀『首斬り包丁』を担ぐ桃地再不斬と、長刀『縫い針』を携えた白。そして、爆刀『飛沫』を肩に担ぐ満月と、身軽な姿の水月という鬼灯兄弟。反乱軍の最高戦力が精鋭部隊を引き連れて堂々と進み出てきた。
「ヨフネ、後は任せなさい」
メイが、周囲の惨状と俺の姿を一瞥し、妖艶に、しかし確かな覚悟を持った笑みを浮かべる。俺は震える脚を立て、額に脂汗を浮かべながらも虚勢を張った。
「囮の役目は十分に果たした。後は任せる」
そう告げると、同時に俺はいつの間にか支えてくれていたタシに目をやる。そして、タシは手に持った兜割をメイたちの集団へ向けて無造作に放り投げた。
「おっと!」
放物線を描いた兜割を、嬉々とした表情で空中でキャッチしたのは、水月だった。彼は己の身の丈ほどもある武器の重心を確かめるように軽く振るった。満月がその横で、弟の様子に静かに頷いている。
「これで、役者は揃ったな」
俺は、前方を塞ぐ水影派の数百の暗部たちを顎でしゃくった。
「里の象徴たる忍刀が、悪しき水影を討つために集った。……群衆に、誰が霧の正当な後継者かを見せつけてやれ」
俺の言葉に、再不斬が包帯の下で凶悪な笑みを浮かべた。
「ハッ、他里の奴に指図されるいわれはねェが……露払いは任せておきな」
再不斬が巨大な首斬り包丁を肩から下ろす。水月が兜割を乱暴に振り回し、満月が飛沫の刃身に巻物状の起爆札を滑らせて装填した。白は音もなく縫い針の切先を下げ、冷たい闘気を立ち昇らせる。
「行くぞ!」
再不斬の号令と共に、霧隠れの誇る四人の忍刀使いたちが、暗部の分厚い防衛陣形へと真っ向から突撃した。
「水遁・豪水腕の術!」
先陣を切った水月が右腕を異様に肥大化させ、兜割の巨大な槌を振り下ろす。防壁として立ち塞がった暗部たちの水陣壁ごと、強烈な物理的質量で完全に粉砕し、陣形の正面をこじ開けた。
「そこです」
陣形が崩れた僅かな隙間へ、白が舞うような身のこなしで飛び込んだ。長刀『縫い針』から伸びる鋼糸が、瞬きする間に十数人の暗部たちの身体と影を次々と縫い合わせ、文字通り一網打尽にして身動きを封じていく。
「吹き飛べ」
鋼糸で縫い留められた死に体の中央へ、満月が滑り込む。彼が爆刀『飛沫』を横薙ぎに振り抜いた瞬間、無数の起爆札による絶え間ない大連鎖爆発が巻き起こり、水影派の部隊が吹き飛ばされ、巨大な風穴が開いた。
その血路のど真ん中へ、再不斬が鬼のような形相で飛び込み、巨大な首斬り包丁で残った敵の陣列を次々と両断していく。 圧倒的だった。首斬り包丁、縫い針、飛沫、兜割。長らく失われていた霧隠れの象徴たる忍刀が四振りも並び立ち、反乱軍の先頭に立ってやぐらまでの道を切り開いている。
彼らが集結し、暴れ回るその光景は、広場の周囲で様子を窺っていた民衆や一般の忍たちに、「メイの側こそが霧隠れの正統な後継者であり、正義である」という事実を、視覚的に訴えかける完璧なデモンストレーションとなっていた。水影派の分厚い防衛線は、ものの数十秒で完全に切り刻まれ、崩壊した。
俺はその様子を見てタシに支えながら、医療班のいる後衛へと真っ直ぐに退避した。これ以上、最前線に立っていても足手まといになるだけだ。今の俺は、自力で歩くことすら綱渡りの状態なのだから。
忍刀使いたちが切り開いた道の奥。 瓦礫の山が吹き飛び、再び赤黒い尾獣のチャクラを纏ったやぐらが咆哮を上げて立ち上がった。
「一番強い者が水影になる。それが、この里の絶対的な掟よ」
メイが単身で、瓦礫の中から立ち上がり再び咆哮を上げるやぐらの前へ進み出た。ここからは、霧隠れの因縁の決着をつけるための頂上決戦だ。
やぐらが地を蹴り、強大な水遁と尾獣のチャクラを混合させた巨大な水龍を放つ。圧倒的な水圧と熱量を持った破壊の奔流が、広場の石畳を抉りながらメイへと殺到する。
それに対し、メイは一切退かなかった。印を結び、口から高熱の溶遁の粘液を吐き出し、強固で分厚い防壁を築き上げる。水龍が溶遁の壁に激突し、凄まじい熱量によって大量の蒸気が発生する。
互いの持つ理不尽な火力が真っ向からぶつかり合い、爆発的なエネルギーとなって広場を蹂躙し始めた。 防がれたことに対し、やぐらは一切の感情を見せない。尾獣の衣を纏った彼は、そのまま溶遁の防壁の隙間を縫うように超高速で肉薄し、術を発動させる。
するとメイの目の前に水が鏡のように形成され、メイの姿を映し出す。
『水遁・水鏡の術』
鏡の中から、メイと全く同じ動き、同じ溶遁の術を持った水塊の分身が飛び出し、オリジナルへと襲い掛かった。
「小賢しい真似を!」
メイは自らの写し身に対し、息を吸い込んだ。
「沸遁・巧霧の術!」
メイの口から吐き出されたのは、溶遁よりもさらに致死性の高い、強酸性の霧。触れたものを瞬時に溶け崩れさせるその霧は、水鏡から飛び出した写し身を、水鏡ごとドロドロに溶かして霧散させた。
だが、やぐらの攻撃は止まらない。彼は酸の霧の中で尾を地面に突き立て、尾獣のチャクラを大地へと直接流し込んだ。
地鳴りと共に、メイの足元から巨大な珊瑚の棘が全方位に向けて爆発的に成長した。広場全体を覆う巨大な珊瑚の森が、酸の霧を強引に突き破りながら隆起し、メイの退路を完全に断つ。
珊瑚の森の中から、やぐらが獣のような四つん這いの姿勢で跳躍した。尾獣の衣が限界まで濃縮され、その背後には三本の巨大な尾が顕現していた。
純粋なチャクラによる暴力的な打撃が、メイを攻撃しようと迫る。メイは両腕を交差させ、腕にチャクラを纏わせて防御したが、その規格外の衝撃を殺しきれず、隆起した珊瑚の壁へと激しく叩きつけられた。
「グッ……!」
メイの口から血がこぼれる。だが、彼女は痛みを押し殺し、着地と同時に足元の地面に向けて溶怪の術を放った。広場の地形そのものを全てを溶かす地帯へと作り変える。珊瑚の棘が触れる度に溶解し、やぐらの追撃を防ぐ。
豊富なチャクラと血継限界による環境支配。地形そのものを書き換える怪獣大決戦だ。俺たちとクーデター派は、周囲の暗部たちを牽制し、メイの戦いに水を差す者がいないよう外周の防衛に徹していた。だが、このままではメイはジリ貧となる。
やぐらは人柱力だ。このまま削り合いが続けば、いずれ生身の人間であるメイに限界が訪れる。俺は荒い息を吐きながら、フーに声をかけ、後方で控えているメイの側近、青へ向けて思念を飛ばした。
『青、落ち着いて聞くんだ。水影やぐらは何者かに操られている。こちらは白眼で確認した。お前の右眼でも見えるはずだ。頭部をよく見てみろ』
俺の言葉に、青が驚きながらも頷き、右目に掛けられていた眼帯を乱暴に外した。その下から現れたのは、白く濁った瞳。日向一族の血継限界である『白眼』だった。青が印を結び、瞳の周囲に青筋を浮かび上がらせる。
「……えっ?」
俺の傍で護衛についていたヒナタが、信じられないものを見るような声を漏らした。
「なぜ、霧隠れの忍が……日向の白眼を……?」
他里の忍が、決して外部に流出しないはずの木ノ葉の秘伝の瞳術を持っている。彼女が驚愕するのも無理はない。だが、戦場においてその疑問に丁寧に答えている暇はなかった。
「過去の戦争の戦利品というやつだ。今は出処を気にしている余裕はないぞ、ヒナタ」
俺が静かに制すると、ヒナタは何か言いたそうにしながらも前方の警戒へと意識を戻した。青は素早く動く二人を何とか視界に収めながら確認できたようだ。こちらに向かって頷いた。
『この術をメイ殿に繋ぐ。そちらから直接伝えるんだ』
『水影にはバレる心配はないということだな。助かる!』
俺たちだけが知っている状態では、後々に何を言われるか分からない。そこで、青に情報共有し、彼が確認することが重要だった。
メイのチャクラを捕捉していたフーがすぐさま繋いでくれた。
『メイ様! 聞こえますか?青です!今木ノ葉の助けを借りて伝えています!』
『なに?!手短に伝えなさい!』
メイはそう言いながら、防戦している。こちらが思っている以上に追い詰められているようだ。
『白眼で確認しました!水影は幻術で操られています。頭部にチャクラを流して幻術を解除して下さい!』
『簡単に言わないでちょうだい!衣は溶遁で一時的に剥がせるかもしれない。でも近づくのは至難の業よ』
ここは間接的に手助けさせてもらおう。
『メイ殿、ヨフネだ。隙を作ればできるんだな?』
『っ!そ、そうよ』
メイは俺の声に一瞬驚きながらも、できると言った。
『そちらが到着する前の爆発を見たか?』
『ええ』
『その爆発を生み出した風船を左の側面からそちらに送る。奴は警戒して避けるだろうから、そこで仕掛けろ』
『私ごと吹き飛ばさないでよ?』
『あくまで陽動だ。俺たちは風船をそちらに送るだけだ』
『ではすぐやってちょうだい!あまり余裕がないの』
返答を聞いて、すぐさまテンテンに視線を向けるとすでに風船を呼び出していた。賢い子だ。タシも当然のように印を結び合図を待つだけだ。
『では、すぐ飛ばす!』
『早いわね?!』
『すぐと言ったのはそちらだ。行くぞ。3秒後に到着だ』
タシは術を発動し、風船が突風と共に凄い勢いで飛んでいく。
やぐらは飛んでくる風船が見えたのか、一瞬攻めていた動きをとめ、メイと見比べ、回避を選択した。
しかし、その一瞬の隙を見逃さず、メイは力を振り絞り、溶遁の酸の霧を限界まで濃くして、回避先に展開させた。
そこに飛び込む形となったやぐらは、尾獣の衣が酸によって急激に溶かされる。そのコンマ数秒。メイは自らの身体を弾丸のようにして、酸の霧を突き破り、やぐらへと肉薄した。
やぐらの防衛反応が働き、周囲から無数の珊瑚の棘がメイへ向けて射出される。鋭利な珊瑚が彼女の腕を掠め、皮膚を裂いて鮮血を散らすが、メイは痛みを無視し、意に介さず右手にチャクラを極限まで集中させた。
「……これで、終わりよッ!!」
メイの一撃が、やぐらのこめかみに突き刺さる。 物理的な打撃と共に、メイのチャクラがやぐらの脳を刺激し、長年彼を縛り付けていた強固な幻術の楔を、内側から強引に粉砕した。
その時、俺の感覚が瓦礫の広場の外縁へと弾かれるように引き絞られた。
視界の端。崩れた石壁の陰に、一瞬だけ、あまりにも異様な色彩の「何か」が映った。
この血生臭い戦場には場違い極まりない、奇妙な巨大なハエトリグサのような植物の葉。それが、地面に溶けるようにスーッと地中へと沈み込み、音もなく消え去っていったのだ。
(……ゼツ……!)
俺は奥歯を噛み締めた。奴らはこの戦場を、特等席で監視していたのだ。だが、今の俺たちに深追いする力はない。
やぐらの身体から、赤黒い尾獣のチャクラが急速に霧散していく。力が抜け、広場の石畳に力なく膝を突くやぐら。彼の瞳からは獣のような光が消え、人間としての明確な理性が戻っていた。
幻術が解け、我に返ったやぐらは、己の両手を見つめ、そして周囲の血の海に沈んだ里の惨状を、ゆっくりと、ひどく静かに見回した。
彼の顔に浮かんだのは、己の意志を取り戻したことへの安堵などではない。
「……ああ。ようやくこれで……」
やぐらの口からこぼれ落ちたのは、空洞のように虚ろな声だった。
「己の手で血塗れになっていく里の景色が、音のない夢のように映っていたよ……。本当に、酷い夢だ」
己の手で同胞たちを無数に虐殺し、里を腐敗のどん底へ突き落とした罪の重さ。それを理解した彼の小さな背中は、あまりにも凄惨な絶望に押し潰されていた。
メイが、静かに彼を見下ろしている。かつての主君であり、里を正しく導くはずだった長。その取り返しのつかない罪と、音のない悪夢に苛まれ続けた苦悩を前に、メイは冷静だった。
ここで彼を生かしておいても、里が変わるには障壁となってしまう。新しい時代を迎えるためには、自らの手で、過去の象徴を断ち切らなければならないのだ。
「四代目。理由はどうあれ……いえ、なにを言っても詭弁ですね。これからは全て私が背負います」
悲哀と覚悟の入り混じった声。 メイは自らの手で、静かに、そして確かな力で、やぐらへ致命の一撃を放った。引導を渡されたやぐらは、抵抗することなくそれを受け入れ、安らかな顔で崩れ落ちた。
戦場である広場に、深い沈黙が落ちた。暗部たちも、反乱軍の忍たちも、すべての戦いを止めてその光景を見届けていた。
やがて、誰からともなく声が上がり、それは瞬く間に地鳴りのような鬨の声となって、霧隠れの空へ響き渡った。
長きにわたる血霧の時代が、今この瞬間、終焉を迎えたのだった。