木ノ葉隠れの里、猟犬部隊本部の隊長室。
俺と現在のこの部屋の主人であるシスイと共に、カカシとサスケを迎え入れた。
「術後の経過は良好みたいだな」
俺は手元のカルテに視線を落とし、淡々と告げた。
「疑似経絡の定着に問題はない。だが、俺のように無理をする必要はない。ゆっくり体を慣らせ」
「俺はもう動ける。すぐにでも新しいチャクラの出力を試したい」
サスケが食い下がるように一歩前に出た。だが、俺はカルテから目を離さず、冷徹にその言葉を切り捨てた。
「前も言った通り、今のお前の未熟なチャクラコントロールで、疑似経絡を発動させても自滅するだけだぞ」
サスケがギリッと奥歯を噛み締める。その焦燥感を煽るように、俺は隣に立つカカシへと視線を向けた。
「カカシ。お前はこの一ヶ月、こいつに『螺旋丸』の訓練をさせろ。疑似経絡で術を練り上げるというなら、極限の形態変化であるあの術くらいできてもらわないと困る」
「螺旋丸……ナルトの技か」
サスケが、微かに悔しそうな、だが強い対抗心を含んだ声で呟いた。
「ナルトの奴は、影分身を使って複数人で強引にチャクラを練り上げているらしいな」
俺はあえて、サスケのプライドを突き刺すように言葉を続けた。
「だが、純粋な才能とセンスを持つお前なら、分身などという力技を使わずとも、一人で完結させられるはずだ」
「……当然だ」
サスケの黒い瞳に、明確な闘志の炎が宿る。
「あんなウスラトンカチの真似なんてしなくても、俺なら一人で完璧に制御してみせる」
「頼もしいことだ。……さて、綱手様からの辞令だ」
俺は手に持っていた一枚の書類をカカシに向けて机に滑らせた。
「カカシ、お前は修業期間に入るにあたって、外交局の護衛中隊から外れる。今後は前線を転々としながら人脈作りをさせられそうだな。霧隠れでの一件で、実績作りの方は達成したからな」
「次は何でも屋として飛び回るってわけだ」
カカシは飄々とした態度で書類を手に取った。 その時、座っていたシスイが、立ち上がった。
「前線で戦い続けるということは、その左眼……『万華鏡写輪眼』を使う機会も増えるということですよ、カカシさん」
シスイの声は、普段の温厚さを消し去り、うちは一族の実力者としての重く真剣な響きを持っていた。
「うちは一族でないあなたがその眼を使うのは、通常の写輪眼以上にリスクを伴います。使えば使うほど視力を奪い、いずれは失明します。そのリスクだけは、決して忘れないでください。発動時のチャクラの使い方、視神経への負担を散らす方法……私の知る限りのノウハウはすべてお教えします」
「助かるよ」
カカシは右目だけでシスイを見つめ、静かに頷いた。そして、少し困ったように頭を掻く。
「でも、俺がシスイの講義を受けてる間、サスケの体力作りは誰が見るんだ?」
「心配ない。猟犬の施設において泊まりがけで行えるよう、すでに手配済みだ」
俺が答えると同時、執務室の重い防音扉が開いた。
「失礼します!」
部屋に入ってきたのは、猟犬の古参隊員であるトンボだった。包帯で全てを見ることはできないが、彼の口元には、まるで獲物を見つけた肉食獣のような、恐ろしい教官の笑みが張り付いていた。
「サスケ。お前は幼少期から、たまに俺たちの訓練に参加していたな」
トンボが首の骨をボキボキと鳴らしながら、サスケの肩に重い手を置く。
「客人として随分と『甘やかして』きたが……今日からお前は一時的とはいえ俺たちの部下だ。覚悟しろよ?」
その言葉を聞いた瞬間、サスケの顔からスッと血の気が引いた。
(……あれで、甘やかしていただと……?)
過去の猟犬の地獄のような訓練風景を思い出したのだろう。天才と謳われるうちはの末裔が、絶望に顔を青ざめさせて硬直する。俺はそんなサスケを横目に、新しく部屋に入ってきたもう一人の男へと向き直った。
「カカシの代わりとして、外交局の護衛中隊に参加してもらう男だ」
俺の紹介を受け、木ノ葉の額当てをした真面目な顔つきの男が一歩前に出た。
「イダテさんの救出任務以来ですね、ヨフネ局長。カカシ先輩もお久しぶりです」
その男とは暗部出身のヤマトだ。護衛中隊はあくまで外交局長を護衛する部隊であり、俺が直接現場で指揮を執るわけではない。経験豊富で有能な彼が来てくれたのは、純粋にありがたい戦力補強だった。それに――。
(ヤマトがいれば、いずれ復活する『三尾』を木遁で抑え込むことも可能かもしれないな……)
俺は頭の中で未来の状況を整理し、自分にとって都合の良い手駒が揃ったことに内心で冷たく笑った。
「さっそくですが局長。今度の外交の目的地はどこでしょう?」
ヤマトが、事務的な口調で尋ねてくる。 俺は机の上の書類を揃え、淡々と告げた。
「『草隠れの里』だ。あそこには片付けておきたい事案と、しておきたい仕込みがある」
*
国境の森を抜け、俺たちは草の国へと足を踏み入れた。
視線の先に広がるのは、豊かな森と水源に恵まれた火の国とも、無機質な岩肌が延々と続く土の国とも違う、どこか中途半端で乾いた景色だった。
今回は一応交流のある草隠れであり、友好団としての訪問のため、護衛中隊全員を連れては来なかった。無駄に警戒させる必要もない。護衛はヤマトを小隊長として、山中フー、日向ネジ、サイの四名だ。
そして、草隠れから技術協力の名目で、医療忍術に詳しい者を連れてきてほしいとの要請があったためタシの医療小隊を連れていくことにした。
残ったメンバーは、猟犬の元で連携の訓練を積んでいることだろう。
俺と医療班を中心に、警戒陣形を敷き、一定のペースで荒野を進む。上空にはサイの放った墨鳥が旋回し、日向ネジが『白眼』で岩陰や地中の死角をカバーしていた。俺も念のため、分裂したコン平を周囲に展開させている。
「火の国と比べると、随分と殺風景な場所ですね」
隣を並走しているヤマトが、周囲を見渡しながら静かに呟いた。元暗部としての警戒を解いていないのか、その目は常に周囲の地形や、奇襲の死角となる岩陰を品定めするように細められていた。
「この草の国は、地政学的に見て極めて厄介な位置にあるからな。火の国と土の国という二つの大国に挟まれた、いわゆる『緩衝地帯』だ。過去の忍界大戦、特に神無毘橋の戦いなどに代表されるように、この国は常に大国同士が激突する際の最前線として蹂躙されてきた歴史を持つ」
「ええ。私が暗部にいた頃も、草の動向には常に目を光らせていました。大国の間で板挟みになり、生き残るために必死な小国……というのが、一般的な認識です」
「だが、だからといって草隠れの連中が、大国にただ怯えてへりくだるだけの弱者かといえば、決してそうではない」
俺の言葉に、ヤマトが微かに首を傾げ、少し後ろを歩いていたタシも顔を上げた。
「むしろ彼らは、この『緩衝地帯』であり続けることに、ある種の誇りすら抱いているのさ」
俺は歩調を緩めず、淡々と説明を続ける。
「木ノ葉や岩隠れのどちらかに付けば、猛反発を招き、最前線の盾として使い潰される。だからこそ奴らは、決定的な従属を避け、双方にいい顔をして天秤にかけるんだ。大国の顔色を窺いながら、その実、大国同士を牽制させることで自分たちの独立を維持し、双方から支援や技術をかすめ取る。力ではなく、情報を駆使して生き残ってきたことこそが、草隠れの忍たちの誇りであり、小国としてのプライドだ」
「なるほど……。コウモリのように振る舞うことを、恥ではなく武器としているわけですか」
ヤマトが感心したように、しかしどこか呆れたように息を吐く。
「そういうことだ。そして、そんな狡猾な連中が今回、木ノ葉の外交局長であり、波の国にも影響を持つとされる俺の訪問を諸手を挙げて歓迎している。それには明確な理由が三つある」
俺は歩きながら、指を一本立てた。
「一つ目は当然、経済的な利益だ。資源の乏しい草隠れにとって、忍界の経済に多大な影響を持ち始めた波の国からの支援は喉から手が出るほど欲しい。俺を国賓級の扱いで接待し、機嫌を取ることで、医療資材やインフラ整備支援の仲介を依頼するつもりだろう」
「二つ目は何でしょう?」
タシが冷静な声で先を促す。
「情報の獲得だ。草隠れの忍は昔から、他国の術や技術を研究し、模倣することに長けている。彼らが医療施設を俺たちに視察させようとしているのは、単なる自慢話じゃない。木ノ葉の優秀な医療忍者を招き入れ、その技術やノウハウを間近で観察し、盗み出そうという下心を持っていても不思議ではない」
タシが不快そうに眉をひそめた。
「……なるほど。私たちが『視察する』のではなく、彼らが私たちを『観察する』ための舞台というわけですか。悪趣味ですね」
「そして、そんな真似を可能にする強気な背景が、草隠れにはある」
俺はヤマトへ視線を向けた。俺の意図を察したヤマトが、低く重い声で答える。
「……『鬼灯城』ですね」
「鬼灯城……罪人を収監する監獄ですか?」
タシの疑問に、ヤマトが静かに頷いた。
「ええ。一般的に、抜忍や重罪人は各里が自国で収監します。しかし、里を跨いだ重罪犯など、他里が収監していては証拠隠滅を図る恐れがある場合、第三者として草隠れが収監を引き受ける。そのための監獄が鬼灯城です」
ヤマトは暗部時代の記憶を辿るように、目を細めて語り続ける。
「鬼灯城の城主は、厄介なチャクラ封印術を使うという話です。術式を刻まれた囚人は、チャクラを練ろうとすれば体が内側から炎に焼かれ、城から一定距離離れても焼け死ぬ。これがある限り脱獄は不可能。……ですが、草隠れが罪人の取り扱い規則を清廉潔白に守っているとは、我々暗部も考えていませんでした」
「各里もそれは暗黙の了解として捉えているんだ」
俺はヤマトの言葉を引き継ぎ、冷たく鼻を鳴らした。
「他国の重罪人を預かることで恩を売り、同時に人質としても機能させる。波の国とはまた違った形で価値を示し、他里から侵攻されにくいシステムを作っている。大義名分を盾にした、見事な防衛装置だ。そして、それを持っているからこそ、こうやって外交団を呼びつけることができている」
「……随分と厄介な手札を持っているんですね」
タシがため息をつく中、俺は三本目の指を立てた。そして、声を一段落とし、張り詰めた空気を漂わせる。
「だが、彼らにとっての最大の本命であり、俺が今回、直接この里に足を運んだ最大の理由は別にある」
俺はヤマトの目を見据え、はっきりと告げた。
「大蛇丸との繋がりを隠蔽するための、強固なアリバイ作りだ」
その名が出た瞬間、歩みを進める三人の間の空気が急速に冷え込んだ。ヤマトの目に鋭い殺気が宿り、タシも僅かに息を呑む。周囲を固める隊員たちにも一瞬の緊張が走ったのが気配でわかった。
「監獄という、外部の目が届かず、訳ありの人間がいくらでもいる都合の良い設備。それを、あの実験狂の大蛇丸が見逃すはずがない」
「大蛇丸が、草隠れと繋がっていると……!? 証拠はあるのですか」
ヤマトが顔を険しくする。俺はゆっくりと首を振った。
「草隠れの上層部が大蛇丸と繋がっているという、決定的な証拠はない。契約書や書簡など、尻尾を掴まれるようなものは一切残していないはずだ。狡猾な連中がそんな初歩的なミスを犯すとは思えない。だが、金や物資の流れを調べ、状況証拠を積み上げれば、答えは真っ黒に近いグレーだ」
大蛇丸が求める使い捨ての実験体や隠れ家の需要。そして、草隠れが求める目先の利益や強力な後ろ盾の供給。これらが完全に一致している以上、里の上層部が裏で取引していることは疑いようがない。
「草隠れには現在、二つの派閥がある。過激派である『草の実』と、穏健派の『草の花』だ。この二つの派閥の権力争いは激化しており、現状、大蛇丸に接触し、監獄の利権を利用していると見られるのは『草の実』の方だ」
「……なるほど。大蛇丸は現在、木ノ葉にとって最重要の手配犯であり、忍界全土にとっても危険な抜け忍。もし草隠れが裏で大蛇丸と手を組んでいることが明るみに出れば、木ノ葉は容赦なくこの里を叩き潰すでしょう」
ヤマトが俺の言葉の意図を正確に読み取り、拳を握りしめた。
「もしそうなれば、岩隠れも指を咥えて見ているとは考えづらく、最悪の場合、第三次忍界大戦の時のように、草隠れは再び火の海になります」
「だからこそ草隠れの上層部……特に『草の実』の連中は、木ノ葉の要人である俺を大々的に迎え入れる必要があった」
『我々は木ノ葉隠れの里との友好を第一に考えている。やましいことなど一切ない』
俺は草隠れの連中の思考を代弁するように、皮肉げに唇を歪めた。
「そう内外にアピールする隠れ蓑として、俺という存在を利用しようとしているのだ。表では木ノ葉と握手を交わし、裏では大蛇丸に実験体やアジトを提供して禁術の恩恵に預かる。大国も抜け忍も手玉に取っていると錯覚している、風見鶏の極致とも言えるな」
「……浅知恵で全員を操っているつもりだろうが、随分と舐められたものだ」
俺は荒涼とした進行方向の景色を睨みつけ、低く吐き捨てた。
彼らの生存戦略そのものを否定する気はない。小国には小国の戦い方がある。
だが、俺を隠れ蓑にして甘い汁を吸い続けられると思っているのなら、それは計算違いだ。証拠がなくても構わない。彼らの薄汚い腹の底を暴き、その傲慢なプライドごと、徹底的にへし折ってやる必要がある。
それに、この先の交渉次第だが、草隠れには今後を見据えていくつか『仕込み』をしておきたい。可能なら、あの赤い髪の少女も大蛇丸に見つかる前に保護しておきたいところだ。
頭の中でこれからの算段を立てていると、自然と口角が吊り上がった。
「……局長、顔が怖いですよ」
不意に、横を歩いていたヤマトが真面目な顔で引き気味に指摘してきた。
「そうか? これからの外交交渉に向けて、愛想笑いの練習をしていたんだが」
「さっきから殺気が漏れてますよ。ほら、医療班の人たちが引いてます」
後ろから聞こえたタシの呆れたような声に、俺は小さく肩をすくめた。意図的に張り詰めていた空気を解き、表情を引き締める。
やがて荒涼とした道を抜け、巨大な岩肌が眼前に迫ってくる。岩山をくり抜くようにして作られた草隠れの里の正門が、ついにその姿を現した。
門の周囲には、すでに大仰な出迎えの準備を整えた草隠れの幹部たちらしき集団が、もみ手をするようにして待ち構えているのが見える。
俺は足を止め、タシとヤマト、そして頼もしい護衛中隊の面々に視線を向けた。
「着いたぞ。さあ、楽しい茶番の始まりだ」
*
草隠れの幹部に案内され、用意されたという迎賓の施設へと向かう道中だった。
突如として、前方の通りが騒がしくなった。血と土埃に塗れた草忍たちが、何人もの負傷者を担いで慌ただしく駆け込んでくる。
「何かあったのですか?」
俺が短く問うと、案内役の幹部が苦虫を噛み潰したような顔で頭を下げた。
「お見苦しいところをお見せしました。北の砦で少数一族が集まった武装集団と戦がありまして、少々負傷者がかさんでいるのです」
「なるほど。ならば、予定を前倒しして病院を視察させてもらおう。我が木ノ葉の誇る医療班の手を貸す」
俺の提案に、幹部の目が一瞬だけギラリと卑しく光った。木ノ葉の高度な医療忍術を間近で観察できる絶好の機会だと踏んだのだろう。
「それは……大変助かります! どうぞ、こちらへ!」
*
野戦病院と化した施設は、消毒液の匂いと濃密な血の悪臭、そして負傷者たちの呻き声で満たされていた。
「タシ。技術の漏洩には気をつけろ。高度な術は見せるな」
「わかっています。基本の止血と縫合、チャクラによる治癒促進のみで回します」
タシ率いる医療小隊は即座に状況を把握し、草隠れの医療忍者たちを押し退けるようにして迅速な治療を開始した。俺も医療忍術の心得がある。タシたちのサポートに回り、次々と運ばれてくる軽傷者の処置を引き受けた。
木ノ葉の医療班の動きは、草隠れのそれとは次元が違った。高度な秘伝を一切使わずとも、傷の深さを見極めるトリアージの速度、的確な止血、無駄のないチャクラコントロール。その圧倒的な手際の良さに、草隠れの忍たちは唖然として見入るしかなかった。
「そこ、ぼーっとしない! 次の患者の包帯を準備して! あなたは止血帯を強く押さえてなさい!」
いつの間にか、タシが草隠れの医療忍者たちにまで的確な指示を飛ばし、完全に現場の指揮を執っていた。誰もそれに文句を言う余裕すらなく、ただ彼女の圧倒的な統率力に従っている。
やがて、重傷者たちの容態が落ち着き始めた頃だった。
「……きゃああああっ!」
同じ病棟の奥にある病室から、突如として少女の悲鳴が響き渡った。
手を洗っていたタシがピクリと反応する。だが、ここは病院だ。運ばれてきた身内の死を知り、嘆き悲しむ声だと最初は誰もが思った。
しかし、少し様子がおかしい。
悲鳴が唐突に途切れ、しばらくすると、その病室の扉が開いた。
中から出てきたのは、一人の草忍の男だった。つい先ほどまで重傷を負って運び込まれたはずの男だ。しかし、彼の着ている服は血と泥に塗れて破れ果てているというのに、その下の肉体は傷一つなく、完全に治癒している。
男は首をポキポキと鳴らしながら、満足げな顔で俺たちの横を通り過ぎていった。
男が出て行った後の病室から、まだ微かに、シクシクと泣く声が聞こえてくる。
怪訝な顔をしたタシが、ゆっくりとその病室へ近づき、開け放たれた扉の中を覗き込んだ。俺とヤマトもその後ろに続く。
薄暗い病室の中。ポツンと置かれたベッドの上に、赤い髪の少女が一人、こちらに背を向けて座り、肩を震わせて泣いていた。
「……大丈夫? 身内の人が亡くなったの?」
タシが静かに声をかけ、少女の背中にそっと手を伸ばす。
ビクッと怯えるように肩を揺らした少女が、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、タシの顔からスッと血の気が引いた。俺も、ヤマトも、言葉を失う。
ボロボロの衣服を纏った少女の細い腕や肩、首筋には、隙間がないほど無数の痛々しい『歯型』が刻まれていた。今しがた噛みつかれたばかりの真新しい傷口からは、まだジワジワと血が滲んでいる。
「これは……」
タシの声が震えた。医療忍者として、命を救うために研鑽を積んできた彼女にとって、それは絶対に許容できない光景だった。
「おい!そこは勝手に入ってもらっては困る!」
背後から、案内役の幹部が血相を変えて飛んできた。
「彼女は我々のものだ!余計な口出しは――」
ドンッ、という鈍い踏み込みの音。
普段は温厚なタシが、目にも留まらぬ速さで幹部との間に割って入った。両手にはジジジ……と青白く発光する『チャクラメス』が展開され、幹部の喉元にピタリと鋭い刃を突きつけている。
「……次その子を道具扱いしたら、喉笛を切り裂くわよ。虫ケラ」
静かで、底冷えのする声だった。猟犬として死線を潜り抜けてきたタシから放たれる濃密な殺気に、幹部は恐怖で顔を引き攣らせ、無様に腰を抜かして後ずさる。
タシはチャクラメスを収めると、ベッドの上で震える少女を自身の胸に優しく抱きかかえ、温かい治癒のチャクラを流し込み始めた。
「な、何をするのです! 彼女は我が里の所有物だ!」
腰を抜かしたまま、幹部が喚き散らす。
「いくら木ノ葉の要人とはいえ、明らかな内政干渉だぞ! 彼女は即座に兵を戦線復帰させるための重要な回復薬なのだ!」
喚く幹部を、俺は一切の感情を排した冷徹な目で見下ろした。背後ではヤマトとネジ、サイが完全に臨戦態勢に入っている。
「所有物、だと? 己の治癒能力も高められぬ無能な医療体制のツケを、一人の子供の命を削って補う。……それがお前たちの誇る『優れた医療』の正体か」
幹部が一瞬、言葉に詰まる。俺はタシの腕の中で震える少女へ視線を向けた。
「よく見ろ。その特異な治癒能力と、赤い髪。……彼女は『うずまき一族』の血を引いている。初代火影の妻の出自であり、木ノ葉とは古くから強固な同盟を結んだ一族の末裔だ」
「う、うずまき……? だからなんだと言うのだ! 彼女は草の国が面倒を見てやっている余所者だぞ!」
俺は幹部の言葉を無視し、赤い髪の少女を見下ろした。
「お前はどうしたい。このままここで生きたまま食らい尽くされるか、俺たちと共に来るか。自分で選べ」
少女の虚ろな瞳が、ゆっくりと俺の顔に向けられる。
血の気を失った彼女の細い指先が震えながら伸び、俺のコートの裾を弱々しく掴んだ。
「たす……けて……」
「わかった」
俺は冷たく鼻を鳴らし、幹部へと視線を戻した。
「木ノ葉の遠縁にあたる一族の遺児を、人道にも悖る道具として搾取し続ける。……これは、木ノ葉隠れの里に対する明確な『敵対行為』とみなす。よって、彼女は我々が保護する」
有無を言わさぬ大義名分。外交という力学において、大国から敵対行為のレッテルを貼られることは、小国である草隠れにとって死刑宣告に等しい。幹部は顔面を蒼白にし、絶望に唇を震わせた。
*
香燐の意識は、限界を迎えて白く明滅していた。
全身を支配する激痛と、チャクラを搾り取られる喪失感。だが、今はそれ以上に、自分を抱きしめてくれる女性の温かさが心地よかった。
霞む視界の先で、大柄な草隠れの幹部たちを冷徹な言葉と威圧感だけでねじ伏せている男の横顔が見える。
(……あ……)
香燐はそのチャクラに、見覚えがあった。
中忍試験での、死の森。巨大な獣に襲われ、死を覚悟した瞬間。凄まじい爆発の余波が獣を吹き飛ばし、彼女の命を救った。
土煙が晴れた後、香燐の『神楽心眼』が捉えたのは、大蛇丸という強大なバケモノを相手に、部隊を指揮する男の姿だった。チャクラの絶対量こそ少ないものの、その場で誰よりも密度が高く、凛々しく、鋭く輝いていたチャクラ。
あの時見た瞳と、目の前の男の瞳が、ピタリと重なる。
(あの時の……)
私を地獄から引き上げてくれたのは、またあの人だった。
香燐はコートの裾を握る手に微かな力を込めると、タシの温かい腕の中で、今度こそ安堵とともに深く意識を手放した。
*
血の匂いと悲鳴が渦巻いていた地下病棟から一転し、通された応接室には、高級な茶葉の香りが漂っていた。
タシと、彼女の腕の中で眠りについた香燐は、すでにヤマトの部下たちと共に安全な別室へと待機させている。俺は上座のソファに深く腰を下ろし、ヤマトは俺の座るソファの横に立って待機していた。
対面に座る草隠れの幹部たちは、冷房が効いているにもかかわらず、額から滝のような冷や汗を流している。
「ヨフネ局長……いくら何でもやりすぎだ。こちらの忍の任務について口を出す権利は貴方には無いはずだ。それに、あのような形での引き抜きなど、目の前で許すわけにはいかないだろう!」
幹部の一人が、震える声で抗議の声を上げた。俺は出された茶に口をつけ、ゆっくりとカップをソーサーに戻す。
「木ノ葉の同盟一族に対する非人道的な搾取。これを見逃すことはあり得ません」
静かに、だが明確な圧を込めて告げる。幹部たちがビクッと肩を揺らした。
「……ですが、この要求がすんなり通るとは思っていません」
俺はふっと口角を上げ、先ほどまでの高圧的な態度から、『外交官』の笑みへと表情を切り替えた。
「幸い、ここは外交の場です。お互いの利益をすり合わせる交渉の余地はあると思っていますが、いかがでしょうか?」
突然の態度の軟化に、幹部たちは困惑して顔を見合わせる。
「そちらの現在の要求は、資金援助と、北の砦を占拠している武装集団の討伐を含めた武力の提供。対して、我々木ノ葉の要求は、あの赤い髪の少女の身柄と……大蛇丸に関するすべての情報提供です」
その名を出した瞬間、幹部たちの顔色が一瞬にして土気色に変わった。
「あなた方が大蛇丸に人体実験の隠れ家や、資金洗浄のルートを提供していることはすでに把握しています。中忍試験で大蛇丸が木ノ葉で行ったテロを考えるなら、貴方達の行動は木ノ葉への明確な『敵対行為』だ」
「ば、馬鹿な! 我々があの抜け忍と繋がっているなどと、でたらめだ!」
代表格の幹部が立ち上がり、声を荒げた。
「中忍試験のことを言うなら、我が里の下忍たちがあの男に殺され、顔を奪われている! それが何よりの証拠だろう!」
俺は鼻で笑い、組んだ指の上に顎を乗せた。
「確かに、中忍試験で死んだ三人は草隠れの忍でした。ですが、彼らは穏健派である『草の花』の所属だ」
幹部の喉が、引き攣る音を立てた。
「大蛇丸と接触し、鬼灯城などの利権を利用して裏取引を行っているのは、過激派である『草の実』……つまり、今ここに座っているあなた方のはずだ。違いますか?」
里内部の派閥争いと、その裏の繋がりまで完全に見透かされている。その事実を突きつけられ、幹部たちは言葉を失い、完全に身を硬くした。
「ですが、今ここで大蛇丸に関するすべての情報……アジトの場所、取引の帳簿、連絡網を提供し、今後一切の繋がりを断つと約束するなら、これまでの不正は『なかったこと』にして差し上げましょう。一切の追及はしません」
青ざめる幹部たちを見据え、俺は冷徹に最後通牒を突きつける。
「ただし、一つでも隠し立てをすれば、木ノ葉は草隠れを大蛇丸の同盟国とみなし、天地橋以南の国境を完全封鎖します。……選んでください」
国境封鎖は、物流に依存する小国にとって死を意味する。だが、大蛇丸を裏切ることもまた、狂人からの凄惨な報復を意味していた。究極の二択を迫られ、幹部たちは絶望的な表情を浮かべた。
「……その代わり、あなた方が大蛇丸を切り捨てるというのなら、北の砦を占拠している武装集団の幹部をすぐにでも討伐して差し上げます」
俺は逃げ場のない彼らに、甘い見返りを提示した。
「草隠れの監視役を同行させて構いません。我々が出向き、即座に仕留めてご覧に入れましょう。砦を取り戻せば、岩隠れに対する最低限の防衛線は再構築できるはずです」
武力支援の提案に、幹部たちの目がすがりつくように揺らいだ。
ふと視界の端で、ソファの横に立つヤマトの顔が引きつるのが見えた。彼の視線が、信じられないものを見るように俺に向けられている。無理もない。そもそも北の国境付近で暴れていた抜忍たちを、意図的に見逃しつつ草隠れの砦へと誘導したのは、他でもない俺が指示して『猟犬部隊』に実行させたのだから。
自分で放った火の消火役を買って出て、恩を売りつつ相手の首根っこを掴む。さらには監視役を同行させることで、草隠れに木ノ葉の暴力を間近で見せつけ、完全に逆らう気を削ぐつもりだ。暗部上がりのヤマトには、このマッチポンプがすぐに理解できたのだろう。
「し、しかし……」
幹部の一人が、乾いた唇を舐めながら縋るように声を絞り出した。
「砦が戻っても、我が里の財政は火の車だ。国を回していくための資金援助がなければ、結局は立ち行かなくなる……」
「木ノ葉も復興の最中であり、資金の直接援助はできません。ですが、『情報』なら提供できます」
俺は懐から一枚の封書を取り出し、テーブルの中央へと滑らせた。
「数ヶ月以内に波の国の市場を中心として、ある物資の価格が急激に高騰します」
「ある物資……?」
「ええ。新品種の発表に伴い、相場が荒れます。草隠れには、相場が跳ね上がる正確なタイミングと、波の国に用意させたシラカワ商会の極秘の買い付けルートをご提供しましょう」
俺は背もたれに深く寄りかかり、幹部たちを見据えた。
「この情報を使って事前に底値で買い漁り、高騰した市場で売り抜けて莫大な利益を得るか、それとも指を咥えて見ているかは、あなた方次第だ」
圧倒的な情報の暴力、軍事力の誇示、そして逃げ場のない飴と鞭。
「……どうです? 大蛇丸という危険な爆弾を抱え続けるよりも、木ノ葉と手を結ぶ方が、よほど確実で実入りの良い『商売』だと思いませんか?」
応接室に、重苦しい沈黙が降りた。
草隠れの幹部たちは、完全に俺の手のひらの上で踊らされていることを悟っていた。だが、目の前に垂らされた蜘蛛の糸にすがりつく以外に、彼らに残された選択肢はなかったのだ。
やがて、幹部の代表が震える両手を押さえつつ承諾の意思を示した。
「……分かり、ました。大蛇丸の件、我々が『独自に調査した情報』をお渡しいたします……」
絞り出すような声と共に、彼らは深く頭を下げた。
「賢明な判断です。これからの末長いお付き合い、期待していますよ」
俺は穏やかな、しかし感情の一切こもっていない笑みを浮かべた。
これで、大蛇丸は重要な手駒と隠れ家を一つ失い、俺は優秀な感知忍と莫大な政治的優位を手に入れた。
用意させていた巻物を広げ、速やかに両者の署名が交わされる。そうして覚書には以下の文言が記された。
一つ、草隠れは独自に集めた大蛇丸の情報を木ノ葉に提供する。
一つ、草隠れは『保護』していたうずまき一族を木ノ葉に引き渡す。
一つ、木ノ葉は相場の情報について、草隠れに提供する。
一つ、木ノ葉は草隠れの北砦にて武力を一時的に提供する。
「これで、両国の関係はこれまで通り友好的な関係が継続されます。……ああ、あとこれは忠告です。相場の情報はお伝えしますが、過分な欲は身を滅ぼしますのでご注意を」
冷や汗を流す幹部たちを冷徹に見下ろしながらそう言い残し、俺は静かに席を立った。
*
草隠れからあてがわれた待機部屋に戻ると、俺はすぐさまサイを呼んだ。
「サイ。シラカワ商会のイズミ宛てに通信を頼む」
「はい。内容は?」
「『逃亡を許可。確認後封鎖開始』それだけで良い」
「分かりました」
サイは理由を一切問うことなく、手元の巻物に筆を走らせた。彼が描き出した一羽の墨鳥が、紙面からふわりと飛び立つ。
この墨鳥は、指定した目的地にある専用の巻物へ飛び込むことで、文字となり情報を伝える仕組みだ。極めて秘匿性が高く、かつ迅速な通信手段である。
窓から飛び去る墨鳥を見送った後、俺は部屋に集まった中隊の面々に、これからの行動方針を告げた。
「これより部隊を二手に分ける。ヤマトとタシの医療小隊、そして保護した香燐は、このまま木ノ葉の里へ帰還しろ。俺とサイ、日向ネジ、山中フーの四人は、草隠れの監視役を連れて北の砦へ向かう」
「そ、そんな四人だけで向かうつもりですか!」
ヤマトが驚きに目を見開き、抗議の声を上げた。
「何、面の割れている奴を仕留めるだけだ。この三人がいれば問題ない。ヤマト、お前はみんなを頼むぞ」
「しかし……いくら局長でも、相手は一つの砦を占拠している武装集団ですよ……!」
なおも食い下がるヤマトに、俺はニヤリと口角を上げた。
「忘れたのか? 俺は木ノ葉の死神らしいぞ?」
「っ……」
その言葉に、ヤマトは息を呑んで言葉を失った。暗部上がりの彼に余計な説明は不要だ。俺は視線を外し、選抜した三人の部下へ顎でしゃくった。
「行くぞ」
*
数刻後。
草の国の北側に位置する、武装集団が占拠した北の砦。その全容を見下ろせる切り立った崖の上に、俺たちは到着していた。
「ほ、本当にこんな少人数で……それに、ここからどうやって攻め入るおつもりで……?」
背後で、同行させた草隠れの監視役が尋ねてくる。俺はその疑問には答えず、横に立つフーへ視線を向けた。
「フー。繋げ」
「はっ」
山中一族のフーが印を結び、俺と、その隣に立つネジの肩にそれぞれ手を置いた。
「『心伝身の術』」
直後、俺の脳内にネジの視界と知覚が直接流れ込んでくる。
「白眼」
ネジが瞳の周囲に葉脈を浮き立たせ、眼下の砦を凝視した。分厚い石壁を透過し、五つの標的を捉える。
観測手であるネジの白眼と、山中一族の術による脳内リンク。射撃地点を特定された時の空への逃亡手段としてのサイ。これこそが、この三人を選んだ最大の理由だ。
『座標、確認しました。距離一千二百、風速三』
脳内に直接響くネジの声に、俺は短く応え、腰に付けた鞄から弾丸を取り出した。
「十分だ」
崖の先端に立ち、手にチャクラを集中させる。
標的は五人。狙いは、頭でなくていい。まだ連携の浅いこの三人であれば、当てやすい胴体が安牌。
白眼から得た情報を頼りに撃ち放つ。
空気を劈く轟音と共に、崖の上から閃光が眼下の砦へ向かって迸った。
光の筋は分厚い砦の石壁を紙のように貫通し、ネジが捉えた幹部の胴体に大穴を開けた。
そして、敵が気づく前に一人ずつ、指揮官とエース級の実力者を淡々と貫いていく。
文字通り「瞬きする間」に失った武装集団は、何が起きたのかすら理解できず、瞬く間に混乱へと陥っている。
「な、な……っ!?」
背後で、草隠れの監視役が腰を抜かし、地面にへたり込む音が聞こえた。
彼は恐怖で見開かれた目を砦と俺に交互に向け震えている。無理もない。自国の軍隊が手こずっていた砦が、たった一人の男から放たれた光によって、一瞬にして瓦解したのだ。
「任務完了ですね。あとはそちらにお任せします。……帰るぞ」
俺は眼下の惨状を一瞥することなく背を向け、静かに言い放った。
鬼灯城(ほおずきじょう)
『劇場版 NARUTO -ナルト- ブラッド・プリズン』にて登場。
絶海の孤島にそびえ立つ、脱獄不可能とされる絶望の監獄。各里の抜け忍や重罪人を収監しており、草隠れの里が管理・運営している。
BORUTOのアニメにおいても、主要なエピソードの舞台として登場するらしいです。
しかし、各里が抜忍などを他里に預けるとは考えづらく、本作では設定を少し変えました。
『草の花』『草の実』についても同作に出てきます。