万象、紙に綴れば   作:Mebius217

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第10話:反転の余波と、見えざる境界

 

 

 

小鳥のさえずりが爽やかに響く、春の朝。

しかし、綴眞白の部屋だけは、どんよりとした雨雲のような空気に包まれていた。

 

 

「……うぅ……あぅ……」

 

 

ベッドの上で、布団の塊が芋虫のように蠢いている。

眞白は死にそうな顔で、天井を見上げていた。

 

昨日の夕暮れ時、資料室で五条悟から告げられた爆弾発言。

『シン・陰流の使い手との戦闘訓練』。

しかも相手は「五条が認める一番のやり手」。

 

その言葉が呪いのように脳内を駆け巡り、眞白の豊かな想像力は、一晩中フル回転で「最悪のシミュレーション」を生成し続けていた。

 

 

(……一撃で骨を折られる私。白目を剥いて倒れる私。保健室で全身包帯巻きにされる私……)

 

 

これまで喧嘩一つしたことのない、正真正銘の箱入り娘である。

対人戦はおろか、呪霊とまともに戦った経験すらない彼女にとって、いきなりの「実戦形式」は死刑宣告に等しい。

 

 

「……無理。絶対無理。お腹痛いって言って休もうかな……」

 

 

弱気な独り言を漏らしながら、眞白は重い体を起こした。

体感重量が倍になったかのように体が重い。鏡を見なくても分かる、顔色は最悪だろう。

このまま部屋にいても悪い想像しかしない。少しでも気分を変えようと、彼女はタオルを掴み、ふらふらと部屋を出た。

目指すは学生寮にある大浴場。熱いシャワーでも浴びれば、少しはマシになるかもしれない。

 

          *

 

早朝の寮内は静まり返っている。

廊下をゾンビのような足取りで歩いていると、前方から白衣姿の女性が歩いてくるのが見えた。

家入硝子だ。彼女もまた、当直明けか何かで気怠げな様子だったが、眞白の姿を認めると片手を上げた。

 

 

「あ、おはよう綴。今日は早いんだね」

 

「……あ、家入先生。おはようございます……」

 

 

眞白が力なく挨拶を返すと、家入はギョッとしたように目を見開いた。

普段は日焼け一つない白磁のような肌をしている眞白の目元に、墨で塗ったような濃い(くま)が刻まれていたからだ。

 

 

「……おいおい、なんだその隈は。パンダの親戚か?」

 

「……笑えません……」

 

 

家入は呆れたようにため息をついた。

 

 

「私が言えた義理じゃないが、夜更かしは肌に悪いぞ。……何かあったのか? 幽霊でも見たような顔してるが」

 

 

家入が尋ねると、眞白は「幽霊の方がマシです……」と涙目で訴えた。

 

 

「実は……昨日、五条先生から『シン・陰流の使い手』と戦闘訓練をするって聞かされまして……」

 

「戦闘訓練?」

 

「はい。私、文字通り一度も戦闘なんてしたことないんです。五条先生の言う通り、今日は一日中ボコボコにされ続けるんだって考えたら、怖くて眠れなくて……」

 

 

彼女は深々と頭を下げた。

 

 

「だから家入先生、今日はたくさんお世話になると思うので……よろしくお願いします」

 

 

その悲痛な「予約」を聞いて、家入はようやく合点がいった。

 

 

(……あいつ、今日一日予定空けとけって言ってたのはこれのことか。あのクズ野郎が……)

 

 

まだ戦ってもいない生徒を、初めから保健室送りにする前提でスケジュールを組むとは。

家入は呆れつつも、目の前の怯える少女に同情を禁じ得なかった。

 

 

「……はぁ。分かったよ。とりあえず、その顔色のままじゃ戦う前に倒れるぞ」

 

 

家入は手招きし、近くの長椅子に眞白を座らせた。

 

 

「ちょっとこっち来て、頭を預けな」

 

「は、はい……」

 

 

眞白が素直に従い、家入の方へ頭を傾ける。

家入は彼女の頭を優しく支えると、右手を眞白の瞼の上にかざした。

 

 

「じっとしてろ。少しスッキリさせてやる」

 

 

次の瞬間。

家入の手のひらから、温かく、それでいて清涼感のある不思議なエネルギーが流れ込んできた。

反転術式のアウトプット。

正のエネルギーが、眞白の眼球と、その奥にある脳神経へと直接染み渡っていく。

 

 

(……あ、これ……あったかい……)

 

 

泥のように重かった頭が、急速に軽くなっていく。

目の奥の痛みが消え、凝り固まっていた思考が溶け出し、全身がふわふわとした心地よい感覚に包まれていく。

 

 

「……よし、こんなもんかな」

 

 

数十秒後、家入は手を離し、満足げに眞白の顔を確認した。

そこにはもう、死相のような隈はない。血色の良い、健康的な顔に戻っていた。

 

 

「待たせたね、終わったよ」

 

 

家入は声をかけた。

いつものように、疲れた生徒に少しだけサービスをしてやったつもりだった。

 

しかし。

 

 

「…………」

 

 

眞白からの返事がない。

彼女は虚空を見つめたまま、微動だにしなかった。

 

 

「……綴? おい、大丈夫か? ……おーい」

 

 

家入が不審に思い、目の前で手を振る。

するとようやく、眞白の焦点が合い、ゆっくりと口が開かれた。

 

 

「……家入、先生」

 

「おう、なんだ。気分はどうだ?」

 

 

眞白は、夢見心地のような、あるいは何かに憑かれたような瞳で呟いた。

 

 

「……なんか、頭がスッキリするのを通り越して……世界が、変わって見えます」

 

「は?」

 

「空気の流れ、壁のシミの数、廊下の向こうの足音……全部が、手に取るように分かります。……すごい。私の脳みそ、こんなに軽かったんだ……」

 

 

その言葉には、普段の気弱な彼女からは想像もできないような、理知的で冷徹な響きが含まれていた。

家入は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

 

(……なんだ? ただの反転術式だぞ? 睡眠不足を解消させてやっただけなのに、なんでこんな……)

 

 

家入はいつも通り、他の患者にするのと同じ処置をしただけだ。

なぜ、ここまで劇的な変化が起きているのか。

彼女は記憶を巡らせ、そして――入学初日に五条が語っていた「仮説」を思い出した。

 

 

『彼女は無意識のうちに、自分自身に強烈な縛りを課している』

『脳内に溢れるイメージを排出し続けなければ、脳が焼き切れて死ぬ』

『その生存本能(排熱処理)のために、彼女の脳はずっとフル稼働している状態だ』

 

 

そして、五条はこうも言っていた。

 

 

『もし彼女が反転術式を覚えたら、脳が焼き切れるデメリットが消えて、メリットだけが残る』

 

(……まさか)

 

 

家入は戦慄した。

 

 

(普段の彼女は、脳のスペックの大部分を「焼き切れないための排熱処理」と「セーブ機能」に使っている……。だが今、私が反転術式で脳の疲労を強制的にリセットし、焼き切れるリスクを一時的にゼロにしてしまったことで――)

 

 

彼女の無意識下の生存本能が、「今はブレーキをかけなくても死なない」と判断してしまったのではないか?

 

 

「……生存本能によるリミッターが外れて、脳の処理能力が100%……いや、120%解放されてるのか?」

 

 

今の眞白の状態は、いわば「脳内処理特化版・六眼」の完全覚醒状態。

五条悟が常時行っている「反転術式で脳を回し続ける」という離れ業を、疑似的に再現してしまったのだ。

 

 

「……これは、まずいかもしれん」

 

 

家入は焦った。このままでは、彼女の脳が暴走しかねない。あるいは、この過剰な処理能力に精神が追いつかず、何かしらの弊害が出るかもしれない。

 

家入は懐から携帯電話を取り出し、素早く短縮ダイヤルを押した。

 

 

『やあ硝子! おはよー! 朝から僕に電話なんて珍しいじゃん!』

 

 

電話の向こうから、耳を塞ぎたくなるようなハイテンションな声が響いてきた。

 

 

「……もしもし五条。単刀直入に言うぞ。なんか眞白が寝不足だったようだから反転術式をかけたんだが、眞白がおかしくなった」

 

 

家入は早口で事情を説明した。

すると、電話の向こうの五条の雰囲気が、ふっと変わったのが分かった。

 

 

『……ふーん。なるほどね』

 

 

先ほどまでのふざけた調子とは違う、冷静で静かな声。

 

 

『多分、大丈夫だよ。一時的に硝子の反転術式で、彼女の「縛り」のデメリットが無くなったせいで、脳がびっくりしてるんだと思う』

 

「……大丈夫なのか?」

 

『うん。しばらくしたら反転術式の効力も切れて、脳も落ち着いていつも通りの眞白になるはずだよ。むしろ良い準備運動になったんじゃない?』

 

 

五条があっけらかんと言うのを聞いて、家入は大きく息を吐き出した。

 

 

「……はぁ。びっくりしたー。心臓に悪いよ全く」

 

 

そして、目の前で静かに佇む眞白を見る。

 

 

(……このまま一人にするのは危険だな)

 

 

覚醒状態とはいえ、中身はいつもの眞白だ。どこかにふらふらと歩いて行ってしまうかもしれない。

 

 

「……行くぞ、綴」

 

 

家入はそう言って、眞白の手を取った。

眞白は何の抵抗もせず、引かれるがままに歩き出す。その瞳はまだ、どこか遠い世界を見つめているようだった。

 

 

          *

 

 

朝の静かな廊下を、二人は手をつないで歩いた。

家入に引かれ、眞白は機械的に足を動かす。

その間も、彼女の脳内では膨大な情報の奔流が渦巻いていたのだろう。

 

そして、食堂の前に到着した時だった。

 

 

「ッ……!!」

 

 

唐突に、眞白が短く息を呑んだ。

彼女はバッと顔を上げ、キョロキョロと周囲を見回した。

 

 

「……え、あれ? ここは……食堂の前の廊下?」

 

 

眞白は呆然と呟いた。

 

 

「さっきまで大浴場に向かおうとしてて……あれ?」

 

 

焦点の合った瞳が、自分の手を引いている白衣の女性を捉えた。

 

 

「……あ、家入先生?」

 

「おはよう。やっとお目覚めか」

 

 

家入は眞白の手を離すと、すぐさま医師の顔つきになり、手際よく眞白の状態を確認し始めた。

脈拍、瞳孔の反応、顔色。

 

 

「……よし、なんともないね。寝不足も完全に治ってる」

 

「あ……本当だ。身体が、すごく軽いです」

 

 

眞白は自分の手を見つめ、数回握ったり開いたりして、反転術式の万能さに感動の声を上げた。

先ほどまでのゾンビのような倦怠感が嘘のようだ。

 

 

「家入先生、ありがとうございます! すごいですね反転術式!」

 

「……まあな。それより綴、私が反転術式をかけた後のこと、覚えてるか?」

 

 

家入が探るように尋ねると、眞白は首を傾げた。

 

 

「あのあと……えっと……」

 

 

眞白は記憶を手繰り寄せるように視線を宙に彷徨わせた。

 

 

「あの時は……なんか頭がすごくスッキリして……うーん。なんて言えばいいんでしょう」

 

 

彼女は少し考え込み、ポツリと言葉を紡いだ。

 

 

「なんだろう、何か夢を見ている時みたいな……すごく懐かしい光景を見たような……そんな気がします」

 

「……懐かしい光景?」

 

 

家入は眉をひそめた。

 

 

「まさか走馬灯とか言うんじゃないだろうな」

 

「あはは、まさか。でも、本当に不思議な感覚でした」

 

 

眞白は屈託なく笑った。

その様子を見て、家入は心底ホッとしたように息を吐いた。

どうやら、五条の言った通り一時的な「覚醒」だったらしい。

 

 

「……まぁ、無事ならいいか」

 

 

家入はいつもの調子に戻り、食堂の扉を指差した。

 

 

「ボーッとしてたお前をあのまま廊下に放置するのは気が引けたからな。ここまで連れてきたんだ」

 

「えっ、そうだったんですか? すみません、反転術式までかけていただいたのに、そんなことまで……わざわざありがとうございます」

 

 

眞白は恐縮して深々と頭を下げた。

 

 

「いいよ。私ももっと気をつけるべきだったからな」

 

 

家入は軽く手を振り、眞白の背中を押した。

 

 

「さ、早く食堂入って朝食とるぞ。戦うにはエネルギーが必要だ」

 

「はい!」

 

 

眞白は元気に返事をし、食堂の扉を開けた。

その背中を見送りながら、家入は小さく呟いた。

 

 

(……懐かしい光景、か)

 

 

彼女の脳裏に焼き付いた「何か」。

それが、彼女の術式の深淵に関わるものなのか、あるいは単なる夢なのか。

今はまだ分からないが、彼女の才能が底知れないものであることだけは、確かなようだった。

 

 

          *

 

 

家入硝子と共に食堂で朝食を済ませた眞白は、戦いの舞台となる校庭へ移動していた。

春の陽気は穏やかだが、眞白の心臓は早鐘を打っている。

 

 

「……はぁ。やっぱり五条、遅刻か」

 

 

校庭の端にある大きな桜の木の下。

家入は呆れたように空を見上げた。

 

 

「……もう慣れました」

 

 

眞白は家入の隣で膝を抱えて座り込み、手元でカサカサと紙を動かしていた。

来るべき「処刑(戦闘訓練)」に備え、武器となる折り紙を量産しているのだ。

 

 

「へぇ、やっぱり上手いもんだね。その手裏剣、私も小さい頃に折った記憶があるよ」

 

 

家入が感心したように、眞白の手元を覗き込む。

 

 

「家入先生も、折り紙を折ってたんですか?」

 

「そりゃあね。紙さえあればできる、子供向けのお遊戯の代名詞だろ? 鶴とか(やっこ)さんとか、一通りは通る道だ」

 

「ふふ、確かにそうですね。私が初めて折り紙を折ったのも、幼稚園のお遊戯の時間でした」

 

 

眞白は完成した手裏剣を積み上げながら、懐かしむように目を細めた。

ただの遊びだった折り紙。それがいつしか、自分の世界を守るための「術式」となり、今こうして特級術師の担任に振り回される日常に繋がっている。人生とは分からないものだ。

 

そんな穏やかな時間を切り裂くように、校庭の向こうから脳天気な声が響いてきた。

 

 

「おっまたせ~! 良い子にしてたかな~?」

 

「……来た」

 

 

眞白が顔を上げると、そこには手を振る五条悟と、もう一人――いかにも気怠そうなトレンチコートの男が立っていた。

 

 

「……あの人が、五条先生が認める実力者……?」

 

 

眞白は小声で呟いた。

遠目に見ても、覇気がない。やる気もない。ただの疲れたサラリーマンのように見える。

 

 

「ああ。確かにあいつは『一級術師最強』と五条が認めるほどの実力者だ」

 

 

家入が短く肯定すると、眞白は「えっ」と息を呑んだ。

 

 

「い、一級術師……最強……!?」

 

 

予想以上の肩書きに、眞白は尻込みしそうになる。

そんな彼女を見て、家入はフッと笑い、ポンと肩を叩いた。

 

 

「でも、お前も五条に認められた『将来の特級術師』だろ?」

 

「……!」

 

「胸を張って行ってこい」

 

 

その言葉に、眞白の瞳に力が戻る。

彼女はギュッと拳を握りしめ、「よし!」と気合いを入れた。

 

 

「家入先生、ありがとうございます! 私なりに頑張ってきます!」

 

「ああ、その調子だ」

 

 

家入に背中を押され、眞白は五条たちの元へと駆け出した。

 

 

          *

 

 

二人の前まで来ると、眞白はピンと背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。

 

 

「綴眞白です! 今日はご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」

 

 

体育会系顔負けの元気な挨拶。

しかし、顔を上げると、目の前の男――日下部篤也は、やはり気怠げにポケットに手を突っ込んだままだった。

 

 

(……なんか、思った感じと違う。もっと怖い人かと思ったけど……覇気がないというか、普通の人……?)

 

 

そのギャップに眞白が少し困惑していると、日下部は五条の方を向いてボソリと言った。

 

 

「おい五条。なんか聞いてた印象と違うんだが」

 

「あはは、緊張してるんだよ。可愛い生徒でしょ?」

 

 

五条は笑って流すと、眞白に向き直り、ビシッと日下部を紹介した。

 

 

「紹介するよ眞白! 彼は日下部篤也(くさかべ あつや)さん。シン・陰流の使い手にして、一級呪術師だ」

 

「一級……!」

 

「そして驚くべきことに! 彼は生得術式を持っていない!」

 

 

五条が高らかに宣言すると、眞白は目を見開いた。

 

 

「術式が、ない……?」

 

「そう。呪術師としての才能(術式)を持たずに、呪力操作と剣技、そして基礎的な結界術だけで一級まで上り詰めた努力の人! ある意味、僕なんかよりよっぽど参考になる『教科書』だよ」

 

「……へぇ……!!」

 

 

眞白の眼差しが、畏敬の色に変わる。

自分のような恵まれた術式があっても四苦八苦しているのに、この人は「武器なし」で修羅場を潜り抜け、一級という地位を築き上げたのだ。その技術の厚みは計り知れない。

 

 

「……余計なこと言ってんじゃねぇよ」

 

 

日下部は五条を睨むと、ふぅと大きなため息をつき、ポリポリと後頭部を掻きながら口を開いた。

 

 

「あー、俺が日下部だ。これでも去年は4年の担任をしてたんだが……今年は1年はお前一人なんだろ? 俺も一応教師だからな、何かあったら相談しろ」

 

「えっ、教師の方だったんですか!?」

 

 

ただの五条の知り合いかと思いきや、まさかの同業者。

眞白は慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げた。

 

 

「失礼しました! 改めて、一年の綴眞白です。よろしくお願いします!」

 

 

元気よく挨拶をする眞白だが、その声は少し震えていた。

いざ対面し、これから戦うのだと意識すると、胃の底から冷たい緊張感が溢れ出してくる。

 

 

「ほらほら眞白、元気なのはいいけどさ。そんなガチガチに緊張してたら、出来ることも出来なくなっちゃうよ?」

 

 

五条が茶化すように言うと、眞白は涙目で睨み返した。

 

 

「だって……戦闘なんて初めてですし……」

 

 

その言葉に、日下部がピクリと反応した。

 

 

「は? ……戦闘が初めてって、もしかして呪霊とも戦ったことがないのか?」

 

「はい。五条先生が『眞白はまだまだ未熟だから任務は早い』って言ってて……任務はまだ一度も行ったことないです」

 

「……」

 

 

日下部は絶句した。

 

 

(未熟だと……?)

 

 

一級術師である日下部の目は誤魔化せない。

目の前の少女が纏う呪力の揺らぎは、極めて静かで、それでいて密度が高い。ただ立っているだけで、無意識のうちに高度な循環が行われているのが分かる。

これで「未熟だから任務に行かせていない」というのは、明らかに不自然だ。

 

 

「おい五条。どういうことだ」

 

 

日下部が訝しげに問い詰めようとすると、五条は「待って待って、その話はあとで!」と強引に遮った。

そして、背後に隠していた『何か』をドスンと眞白の胸に押し付けた。

 

 

「はいこれ! 眞白の術式に使う用の紙ね!」

 

「うおっと……!?」

 

 

渡されたのは、文房具屋でよく見る「コピー用紙」の束だった。

しかも500枚入りの未開封パックだ。ずっしりと重い。

 

 

「こ、こんなにいいんですか!?」

 

 

眞白は目を丸くした。

普段、彼女が使っているのは市販の折り紙パックだ。多くても数十枚入りのそれをちまちまと使っている彼女にとって、500枚という物量は単純に圧倒的だった。

 

 

「いいのいいの。安くて丈夫だし、練習にはもってこいでしょ?」

 

 

五条が笑って答えると、横で見ていた日下部が不思議そうに眉をひそめた。

 

 

「コピー用紙? お前の術式は『折り紙』を使うって聞いてたが……専用の千代紙とかじゃなくていいのか?」

 

 

日下部の認識では、折り紙といえば色とりどりの正方形の紙だ。

無骨なA4サイズの事務用紙が術式の媒体になるとは思えないのだろう。

 

それに対し、眞白はコピー用紙の束を大事そうに抱えながら答えた。

 

 

「はい、基本的に紙ならなんでも大丈夫なんです。大事なのは、それが『折れるかどうか』ってことなので」

 

「……なるほどなぁ」

 

 

日下部は顎をさすりながら呟く。

 

 

「じゃあそういうことだから、眞白はこの紙を使って日下部さんと戦ってみて」

 

 

五条はパンと手を叩き、さらに言葉を続けた。

その声色は、いつになく真剣な響きを帯びていた。

 

 

「――って言っても、今回の目的は勝敗じゃないよ」

 

「え?」

 

「今回の真の目的は、眞白が日下部さんの『簡易領域』を間近で見て、体験すること。そして可能なら――習得することだ」

 

「しゅ、習得……!?」

 

 

眞白は驚愕した。

昨晩、資料室で「門外不出の秘儀」だと学んだばかりの技術だ。それを、この初戦闘の中で盗めというのか。

 

 

「ま、眞白ならすぐできるでしょ」

 

 

五条は何でもないことのように気楽に言った。

その軽さが、逆に眞白への絶対的な信頼(あるいは無茶振り)を物語っている。

 

 

「じゃ、準備出来次第始めてね。僕は硝子のところにいるから」

 

 

五条はヒラヒラと手を振ると、家入が待つ桜の木陰へと歩いていった。

残されたのは、コピー用紙を抱えた眞白と、気怠げに竹刀を竹刀袋から取り出す日下部。

 

嵐の前の静けさが、校庭を包み込んだ。

 

 

 

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