五条が去り、静寂が戻った校庭。
日下部は「めんどくせーけど始めるか」と呟きながら、背負っていた竹刀袋から一本の竹刀を取り出した。
「……竹刀、ですか?」
眞白が疑問の声を上げると、日下部は気怠げに、しかし手慣れた様子で素振りを一度した。
「ああ。シン・陰流は元々、刀術を前提に作られた型だからな。……お前も何か武道を習っといた方がいいぞ。なんなら刀使うか? 簡易領域の指導は俺の管轄外(門外不出)だが、刀術なら教えられるぞ」
「本当ですか!よろしくお願いします」
「刀術、刀ですか……すこし、見ていてください」
眞白は少し考え込み、手元のコピー用紙の束から数枚を取り出した。
「折紙呪法・『折紙(おりがみ)』」
彼女が呪力を込めると、数枚の紙が複雑に折り重なり、一振りの「白い刀」となって彼女の手に収まった。
刃渡りから鍔(つば)、柄に至るまで精巧に再現された、紙の刀だ。
「へぇ……式神以外も作れんのか」
日下部が感心したように眉を上げる。
「いえ、刀の形をしていますが、中身は『式神』ですよ。」
言いながら、眞白は手元の紙刀から手を離した。
刀は落下することなく、その場にふわりと浮遊し続ける。
「こんな風に、浮遊させることも可能です」
「なるほど。紙がなけりゃ何にもできねぇが、逆に紙さえあれば何でも作れるってか」
「はい。折紙呪法は、紙に対して私が形を決めて、機能をインプットすることで式神として完成させます。なので、形自体は生物、非生物関係なく作ることができます」
眞白は淡々と説明し、最後にニヤリと笑った。
「――よし。これで『術式の開示』の条件は達成ですね!」
「……あー、なるほどね。思ったより強か(したたか)だな……」
日下部は少し引いたように呟いた。
術式の情報を自ら晒すことで、リスクと引き換えに術式効果を底上げする「縛り」。それをこの短時間で、会話の流れに紛れ込ませて成立させたのだ。
見た目は大人しそうな少女だが、中身はしっかりと呪術師らしい狡猾さを持ち合わせている。
日下部が耳を澄ますと、少し離れた木陰から「あははは! 引っかかったー!」と五条の愉快そうな笑い声が聞こえてきた。どうやらあのバカ教師は、生徒の成長(悪知恵)を楽しんでいるらしい。
「あぁ……じゃあ準備は完了ってことでいいんだな?」
日下部が諦めたように尋ねると、眞白は一瞬固まり、それから覚悟を決めたように大きく頷いた。
「はい!」
「よし、じゃあ始めるぞ。先手は譲ってやる」
日下部は竹刀を中段に構え、眞白に攻撃を促した。
「はい! 行きます!」
眞白は五条から受け取ったコピー用紙の束に手をかざした。
開示による出力上昇(バフ)が乗った呪力が、紙の束へと伝播する。
「折紙呪法・『折紙』!」
バサバサバサッ!!
束の半分ほどを残し、数十枚の紙が一斉に舞い上がる。
それらは空中で複雑に組み合わさり、瞬く間に二体の「獣」へと姿を変えた。
「――行けッ!」
眞白が合図を出すと、二体の『犬型式神』が弾かれたように日下部の元へと駆け出した。
「へぇ……見た目は本物と遜色ねぇな」
日下部は冷静に観察しながら、迫り来る白い獣を見据えた。
(……図体の割に素早いのは、中身が紙で軽いからか。しかも、この動き……)
「グルルッ!!」
右の犬が正面から飛びかかり、日下部が竹刀で迎撃しようとした瞬間、左の犬が死角へと回り込んでいた。
(式神同士で連携してんのか)
日下部は軽く舌打ちしつつ、竹刀の軌道を修正して右の犬を牽制、そのまま流れるような足捌きで左の犬の噛みつきを躱した。
ガッ、ブンッ!!
竹刀が風を切り、式神を弾き飛ばす。
だが、紙特有の軽さと柔軟性で衝撃を殺したのか、式神たちはすぐに体勢を立て直し、再び波状攻撃を仕掛けてくる。
「……チッ、鬱陶しいな」
日下部はボヤきながらも、その表情には余裕があった。
所詮は物理攻撃。動きも直線的だ。
だが、眞白の狙いはそこではない。
(……くっ、これじゃ決定打どころか、簡易領域すら使ってくれない……!)
眞白は焦りを覚え、歯噛みした。
五条の課題は「簡易領域を見て、体験し、習得すること」。
相手が本気を出してくれなければ、そのスタートラインにすら立てない。
「……なら、無理やりにでも引きずり出す! これならどうですか!!」
眞白は覚悟を決め、手元に残っていたコピー用紙の束――その全てを鷲掴みにした。
「行けッ!!」
彼女は残りの紙を一気に宙へと放り投げた。
数百枚の紙がバラバラと舞い散り、視界を埋め尽くす白い紙吹雪となる。
「折紙呪法・『折紙(おりがみ)』!!」
眞白の呪力が奔流となって紙片に伝播する。
舞い散る紙吹雪を目隠しにし、彼女は高速で複数の術式を同時展開した。
大半の紙は鋭利な刃を持つ「手裏剣」へと変化させる。
だが、それだけではない。
この白い嵐に紛れ込ませ、彼女は密かに二種類の『伏兵』を折り上げていた。
「拡張術式・『鉄漿紙(カネノカミ)』!」
「はあぁっ!!」
眞白の気合いと共に、空中に展開された大量の手裏剣が黒く硬化し、唸りを上げて日下部へと殺到した。
「おっと、手裏剣かよ」
日下部は呆れた声を上げつつも、竹刀を振るって迎撃を開始した。
キンッ、ガガッ!!
まるで鉄礫を弾くような重い音が響く。
日下部は一歩も引かず、全ての攻撃を呪力で強化した竹刀で正面から叩き落としていく。
だが、その最中、日下部の脳裏にふと疑問が過ぎった。
(……変だな。あれだけ派手に散らした割に、飛んでくる数が合わねぇ)
散布された紙の総量と、目の前の手裏剣の数が合わない。
残りの紙はどこへ消えた?
その答えに気づいたのは、次の瞬間だった。
「――よし、いける! そのまま拘束して!」
眞白の叫びと共に、日下部の背後から殺気が膨れ上がった。
先ほどの紙吹雪に紛れて作成し、紙の薄さと柔軟性を活かして地面を這わせ、日下部の死角に忍び寄らせていた巨大な「蛇型式神」。
それが鎌首をもたげ、日下部の背中めがけて飛びかかった。
(……背後(うしろ)かッ!)
死角からの奇襲。しかも拘束狙い。
左右にはまだ体制を立て直した「犬」が虎視眈々と隙を窺っている。
もしこの「蛇」に拘束されれば、左右から「犬」に喰いつかれ、逃げ場を失う。
詰み(チェックメイト)に近い布陣。
その瞬間、日下部の雰囲気が一変した。
気怠げな教師の顔が消え、研ぎ澄まされた刃のような「術師」の空気が爆発する。
そして、眞白は「視た」。
(……来るッ!)
日下部の体から、微かだが明確な違和感が放たれる。
それは領域発動の前兆。
空間を断絶し、己が領域を確定させるために練り上げられた、結界術特有の呪力の「起こり」。
高密度の呪力が、彼の足元を中心に波紋のように広がるのを感じ取った。
日下部は右足を強く踏み込み、竹刀を腰だめに構えた。
「シン・陰流 簡易領域――抜刀」
ズンッ!!
空気が震えた。
日下部を中心に、不可視の結界が展開される。
次の瞬間、日下部の竹刀が閃いた。
バシュッ!!
「……!?」
背後から迫っていた蛇型式神が、一瞬で輪切りにされて弾け飛んだ。
それだけではない。
同時に左右から襲いかかろうとしていた二体の犬型式神も、領域に触れた瞬間に超高速の剣閃で両断され、紙屑となって散った。
「……あー、しんど」
日下部は残心を示しつつ、竹刀を構え直した。
(……やった。使ってくれた!)
眞白は目を見開いた。
今の迫力、今の空気の揺らぎ。間違いなく『簡易領域』だ。
「……これが、簡易領域……」
彼女は興奮で震える指先を抑えながら、温存していた「最後の一手」を発動させた。
まだだ。まだ終わっていない。
蛇と犬は囮。
本命は、日下部が「凌いだ」と安心したこの瞬間にある。
「――まだです!!」
眞白が叫ぶと同時、日下部の上空から殺気が降り注いだ。
あの紙吹雪の際、手裏剣や蛇と共に作成し、最初から上空に待機させていた切り札。
「拡張術式・『隠形紙(おんぎょうし)』」
それは、『鉄漿紙』による金属化の応用技術。
紙の質感を極限まで薄く、滑らかなフィルム状に変化させ、光の屈折率を操作することで背景に溶け込ませる透明化の拡張術式。
それによって生成された透明な「鷲」が、音もなく急降下を開始した。
視覚情報はゼロ。タイミングも完璧。
完全に隙を突いた必殺の一撃。
「もらった!!」
眞白は勝利を確信した。
だが。
「……悪くねぇ手だが、甘い」
日下部は空を見上げもしなかった。
ただ、構えを解かず、領域を維持したまま、無造作に竹刀を跳ね上げた。
バシュッ!!
「……え?」
透明な鷲が領域内に侵入した、その瞬間。
日下部の竹刀が、人体構造を無視したような超反応で振り抜かれた。
見えないはずの鷲は、正確無比な一撃で両断され、細切れのフィルム片となって虚空に散った。
「……うそ!?」
眞白は愕然とした。
わざわざ新しい拡張術式で透明化させ、完全に死角から奇襲したのに。
なぜ、見てもいない攻撃に対処できたのか。
「……くっ、悔しい……!」
眞白は唇を噛み締めたが、すぐに思考を切り替えた。
悔しがっている場合ではない。今目の前で起きた現象こそが、五条の言っていた「教材」であり、盗むべき技術なのだ。
(……解析しろ。今の動きを、理屈を)
眞白は脳をフル回転させ、日下部の『簡易領域』の構造を解き明かしにかかった。
(見たところ、足元を中心に呪力を円形に広げることで結界に転用し、領域の外郭を作っている……)
(そして、簡易領域内部にのみ呪力感知を極限まで集中させている……)
ここまでは教科書通りの「領域対策」としての簡易領域だ。
だが、あの反応速度は異常だ。
最後の『透明な鷲』。あれは見えていなかったはずだ。にも関わらず、領域に入った瞬間に迎撃された。
なぜか?
(……領域展開の『必中効果』。それを自分自身(竹刀)に乗せて、領域内に入った敵を自動的に迎撃している?いやあくまで『簡易領域』、術式もなしに必中効果なんてないはず……)
眞白の中で、パズルのピースが組み合わさっていく。
人間が視覚や聴覚で情報を得て、脳で処理し、筋肉に命令を送るまでには、どんなに鍛えてもコンマ数秒のラグが生じる。
だが、さっきの日下部の動きにはその「思考のラグ」がなかった。
(……そうだ。彼は自分の意思で斬ったんじゃない)
(領域内に侵入した『呪力を持つ物体』に対し、思考を介さず反射的に迎撃行動を取るように、肉体に命令(プログラム)を組み込んでいるんだ)
『全自動迎撃プログラム』。
領域内への侵入=即迎撃。
思考のプロセスを省略し、感知から迎撃までの回路を直結させることで、人間の反射神経の限界を超えた反応速度を実現している。
だからこそ、見えない攻撃だろうが、死角からの攻撃だろうが、関係なく斬れるのだ。
(……なるほど。そういうことですか)
眞白が納得の表情を浮かべると、日下部は構えを解き、竹刀を肩に担いだ。しかし、眞白が『視る』限り簡易領域が解かれた感じはしない。
「……ま、今の攻撃は悪くなかったぞ。妙に硬かった手裏剣といい、最後の透明な式神といい……拡張術式か? 使い所含めてよくできてた」
日下部は淡々と評価した。
だが、次の瞬間、その眉がつり上がった。
「だがな! 攻撃前に大声出す馬鹿がどこの世界にいる!」
「……へ?」
「『まだです!』とか『いけっ!』とか、そんなもん敵に『今から攻撃しますよ』って教えてるようなもんだろうが! 奇襲が台無しだ!」
日下部の至極真っ当な、教師らしい叱責。
言われてみればその通りすぎる指摘に、眞白は顔を真っ赤にして直立不動になった。
「は、はい! すみません!!」
考えなくても分かる初歩的なミス。
アニメや漫画の影響か、あるいは気合を入れるためか、無意識に叫んでいた自分を呪いたい気分だ。
「はぁ……ま、実戦経験がないなら仕方ねぇか。これから直していけ」
日下部はため息をつくと、竹刀を正眼に構え直した。
「じゃあ、次はこっちの番だ」
ダンッ!!
日下部が地面を蹴った。
速い。
術式による加速ではない、純粋な身体能力と呪力強化による突進。
眞白との距離――約10メートルが、瞬きする間にゼロになる。
「せっかくだ。さっき作ったその『紙の刀』に、硬くなる拡張術式を使って応戦してみろ!」
日下部の怒号と共に、竹刀が振り上げられる。
(……来る!)
眞白は『折紙の刀』を構えた。
だが、動かない。
迎撃のために踏み込むことも、回避のために下がることもせず、ただその場で刀を構えたまま静止している。
「……?」
日下部は違和感を覚えた。
(こいつ、何を狙ってる……?)
恐怖で固まっているのか? いや、ビビってはいるが目は死んでいない。何かを待っている目だ。
その思考が巡るよりも早く。
ビュンッ!!
日下部の背後から、殺気が迫った。
(……なに!?)
日下部の意思とは無関係に、彼の『簡易領域』が反応する。
『自動迎撃』発動。
振り下ろそうとしていた竹刀が強引に軌道を変えられ、背後へと振るわれる。
ガギンッ!!
硬質な音と共に弾かれたのは、黒く硬化した「手裏剣」だった。
「手裏剣!? これはさっき弾いたやつか!?」
日下部は驚愕した。
先ほどの攻防で、自分が弾き飛ばし、地面に落ちていたはずの手裏剣。
それが、まるでブーメランのように背後から戻ってきたのだ。
(……こいつ、俺が弾いた後の手裏剣まで、術式効果を維持していたのか……!)
眞白が折紙に込める命令は、彼女自身にも言語化できない純粋な「イメージ」の塊だ。
「パチンと弾く感じ」や「周囲に誰も寄せ付けない空気」といった、言葉になる前の原始的なイメージ。それを紙にぎゅっと押し込めることで、式神は主の意図を汲み取る自律的な存在へと昇華される。
ゆえに、日下部の背中という「隙」を捉え、自律的に行動したのだ。
日下部が致命的な自身のミスに気づいた、その瞬間だった。
眞白は、手裏剣に反応して背後を向いた日下部を見て、確信した。
(……やっぱり! あの簡易領域は私の手裏剣と同じで『自動迎撃機能』がついてる!)
(だから、背後からの攻撃にも勝手に体が反応してしまう!)
眞白は完全に背を向けた日下部に対し、一歩踏込んだ。
(いくら自動迎撃でも、正面と背後からの攻撃は同時に対処できないはず!)
彼女は折紙の刀を高く振り上げた。
日下部はまだ、背後の手裏剣への対処で体勢が崩れている。
今なら、届く。
(――今!)
先ほどの叱責が脳裏をよぎる。
『攻撃前に大声出す馬鹿がどこの世界にいる!』
だから、眞白は叫ばなかった。
声に出さず、心の中で叫びながら、渾身の力で刀を振り下ろした。
(……クソッ、詰んだか!)
日下部は眞白の策略に気づき、悟った。
体が勝手に、背後から飛来し続ける手裏剣に対応させられている。この「自動迎撃」の仕様(バグ)を突かれた。
もちろん、今ここで簡易領域を解除すれば、体の自由は戻り、眞白の刀を弾くことなど造作もない。
だが、そうすれば背後の手裏剣に対する防御が消える。簡易領域の再展開は間に合わず、手裏剣に背中を穿たれることになる。
前門の虎、後門の狼。
彼は自身の敗北を覚悟し、眞白の手によって背中を切り裂かれる未来を待った。
しかし。
ブンッ!!
「…………」
背中に走るはずの衝撃が来ない。
代わりに、空を切るような虚しい音が響いただけだった。
手裏剣の攻撃もようやく止み、静寂が訪れる。
「……?」
日下部が恐る恐る背後に目線を向けると。
そこには、折紙の刀を振り下ろした体勢のまま、茹でたタコのように顔を真っ赤にしてプルプルと震えている眞白がいた。
刀の軌道は、日下部の体から数十センチも横に逸れていた。
「…………」
眞白は何も言わなかった。いや、言えなかった。
限界まで張り詰めた緊張と、動く標的を斬るという慣れない動作。
そして何より「当てなきゃ」という焦りが、彼女の剣筋を大きく狂わせていたのだ。
完全に無防備な背中に対し、まさかの空振り。
あまりの恥ずかしさに声も出ず、ただ俯いて震えている。
その様子を見て、日下部は呆気にとられ、そして大きく息を吐いた。
「……はぁ。……今度、刀の振り方教えてやるよ」
日下部は竹刀を下げ、呆れつつも、どこか楽しげな声で言った。
その言葉を聞いて、眞白は羞恥に悶えながら、さらに顔を赤くした。
「……ありがとう、ございます……」
だんだんと声が小さくなり、最後には蚊の鳴くような声になった。
折紙の刀がカサカサと音を立てて崩れ、元の白い紙に戻っていく。
朝からもうすぐ、昼になる時間。
初夏を告げる日差しがさす校庭に、一人の男の爆笑が轟いた。
「ブッ……アーッハッハッハッハッハ!!」
一部始終を見ていた五条悟が、腹を抱えて地面を転げ回っている。
「ヒィーッ!! 見た!? 今の見た!? 完璧なチェックメイトからの空振り!! 傑作すぎるでしょアッハッハッハ!! ヒーッ、お腹痛い!!」
特大の大爆笑。
涙を流して笑い転げる五条の声が、平和な空にどこまでも響き渡っていった。