「ブッ……アーッハッハッハッハッハ!!」
春のうららかな陽気に包まれた校庭に、特大の笑い声が響き渡っていた。
「あーもうだめ! 腹が! 腹が捩れる! 死んじゃうよー!」
少し心配になるほどの大声で涙を流し、五条悟は校庭の端にある大きな桜の木陰で地面を転げ回っていた。
普段身につけている高価そうな服が土で汚れることなど一切気にせず、腹を抱えて悶絶している。
その隣で見守っていた家入硝子も、最初こそ「ぶっ」と吹き出していたものの、あまりにも狂ったように笑い続ける隣のバカ(五条)を見てスッと真顔に戻り、無言で口をつぐんでいた。
一方、校庭の中央。
「……ぷるぷる……」
眞白は、何も言い返すことができず、その場で顔を真っ赤にして蹲りながら、小動物のように震え続けていた。
「あー……その、なんだ」
あまりの居たたまれなさに、日下部が頭を掻きながら慰めの言葉をかけようと口を開いた。
「まさか、あの完璧な流れから外すとは思わなくてな。いや、悪かった……」
「ヒィーッ! ハッハッハッハ!!」
日下部がフォローを入れようとした矢先、止みかけていた五条の爆笑が再び校庭に響き渡る。
「う〜……っ!」
その声を聞いた眞白は更に身を固くし、羞恥に悶えながら顔を膝に埋めて唸り声を上げた。
「……チッ、あのバカが」
自分の言葉選びのせいで眞白の傷を抉ってしまったと察し、日下部は気まずそうに咳払いをした。
そして、気を取り直すように表情を少し引き締め、改めて先ほどの戦闘訓練の講評を始めた。
「……気を取り直して、真面目な話だ」
日下部の声のトーンが、気怠げなオジサンから「教師」のものへと変わる。
「お前の今の実力は、すでに2級……いや、術式の汎用性も考慮すれば『準1級』はあると考えていい」
「……え?」
蹲っていた眞白が、驚いて顔を半分だけ上げた。
「特に、俺の『簡易領域』の自動迎撃システムを、初見の攻防だけで暴いたその思考力と観察眼。あれはダントツで評価できる」
日下部は淡々と、しかし確かな称賛を込めて言葉を紡ぐ。
「手加減していたとはいえ、あの盤面で完全に手詰まりにされたのは事実だ。弾かれたあとのあの手裏剣の動き……見事に意表を突かれたよ」
「……日下部先生……」
「最後の空振りみたいな失敗は、ちゃんと反省して次に活かせ。だが、あの盤面を作り上げた成功体験は、呪術師として素直に喜べ。……よくやった」
教師として、生徒の現在地を正確に測り、褒めるべき点を的確に褒める。
その真っ当すぎる指導に、眞白は心がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ほ、ほんとですか? ……ありがとうございます、日下部先生」
眞白は立ち上がり、少し照れくさそうに見上げながら礼を言った。
「その……今度よければなんですが、刀の振り方、教えてもらってもいいですか?」
「ああ、構わねぇよ。これでも一応教師だからな、生徒の頼みは断れん」
日下部は、気怠げながらも優しく微笑んで答えた。
(……日下部先生、めちゃくちゃいい先生だな……)
眞白は心からそう思った。
そして反面、チラリと視線を木陰へと向ける。
そこには、未だに地面でヒクヒクと笑い転げている白髪の男の姿があった。
(なんで私の担任は、あんななんだろう……)
心の中で深々と愚痴をこぼす。
その冷ややかな目線に気づいたのか、五条はようやく笑いを我慢するように口元を手で覆いながら立ち上がり、家入と共にこちらへと歩いてきた。
「プクク……いやぁ、眞白。初戦闘にしては大健闘だったよ。一級術師相手にね……ブフォッ」
五条は肩を震わせ、今にも吹き出しそうな声を必死に押し殺しながら眞白に声をかけた。
「おい五条。いい加減にしろ」
見かねた家入がジト目で注意する。
すると五条は、子供のように口を尖らせて反論した。
「そんなこと言って、硝子だって眞白が盛大に空振った時、ブフッって吹き出してたじゃん!」
「家入先生まで!?」
味方だと思っていた大人の裏切りに、眞白が悲痛な叫びを上げる。
「い、いや。あれは突然で……不可抗力だ。あんな完璧な流れから外すとは思わないだろ」
家入が気まずそうに視線を逸らして言い訳をする。
「そ、そんな〜……」
眞白は肩を落とし、露骨にどんよりと落ち込み始めた。
家入はこれ以上この話題はまずいと判断し、咄嗟に話題を切り替えた。
「ま、まぁ、色々あったにせよ、初めての戦闘で怪我がなくて良かったよ」
「家入せんせ〜っ……」
その優しい言葉に、感情の行き場を失っていた眞白はポロポロと涙を流し、家入に縋り付くように抱きついた。
「あー、よしよし。泣くな泣くな、目が腫れるぞ」
家入は苦笑しながら眞白の背中を撫で、白衣のポケットからハンカチを取り出して渡した。
少しだけ空気が落ち着きを取り戻しかけた、その時だった。
「あーそれにしてもさ」
空気を読まない男、五条悟が再び口を開いた。
「日下部さんは後ろ向いてたから見えなかっただろうけど……硝子、見た?」
五条はニヤニヤと笑いながら、眞白の方を指差した。
「眞白がさ、自信満々に日下部さんの背中を斬ろうとした時の、『キメ顔』!」
「……ッ!!」
眞白の肩がビクッと跳ねる。
「あの瞬間は流石の僕も、『おおっ、ここまで善戦できるのか!』って感心して驚いてたわけよ。そしたら……スカって! 刀が空切って! 外した後の眞白のあの間抜け顔ってば!!」
五条は腹を抱え、再び大声で笑い始めた。
「もうサイコーに笑えて! 黒閃の次は、僕を笑い殺す気!? アッハッハッハッハ!!」
完全に笑いが再燃した五条を見て、家入と日下部は「あーあ」と呆れ返り、どう眞白に声をかけようかと苦笑いをして顔を見合わせた。
――その瞬間。
校庭の空気が、凍りついた。
「……っ!?」
日下部と家入の背筋に、ゾッと冷たい氷水を流し込まれたかのような錯覚が走った。
空気が重く、粘度を持ったように錯覚するほどのプレッシャー。
肺に酸素が入ってこないような、本能的な恐怖。
(なんだこの異常な呪力は……特級呪霊か!? 高専にこんなもんけしかけてくる狂人なんて、一人しかいねぇぞ……!)
日下部は気怠げな態度を完全に捨て去り、瞬時に戦闘態勢へと移行した。
竹刀を握る手に力がこもり、呪力感知を極限まで広げて、この莫大な呪力の発生源を探す。
そして、日下部は気がついた。
呪力の発生源は、どこか遠くではない。
自分の目の前だ。
「家入、離れろ! この呪力の発生源は、綴だ!!」
日下部の鋭い警告の声に、圧倒的な呪力圧で放心状態になりかけていた家入がハッと我に返った。
「綴!? 一体何をするつもりだ!」
家入はすぐ近くで俯いている眞白の顔を、慌てて覗き込んだ。
そして、家入は見た。
俯いたまま、ハンカチを握りしめている眞白の顔を。
彼女の瞳には、一切の光がなかった。
ただただ純粋で、濃密な、ドス黒い「殺意」だけが、大口を開けて笑い転げている白髪の男――五条悟ただ一人にのみ、真っ直ぐに向けられていた。
すべてを察した家入は、すっと表情を無にして立ち上がり、眞白から距離を取った。
「……日下部さん、大丈夫だ」
「あ? 大丈夫って、この呪力は異常だぞ!?」
「いいから。私たち『は』、離れよう」
家入は日下部の袖を引っぱり、五条をその場に残したまま、足早に校庭の端へと避難を開始した。
家入と日下部が避難し、校庭に残されたのは二人だけだった。
莫大な呪力の発生源となっている眞白と――いつの間にか黒い目隠しを外し、その美しい「六眼」を晒している五条悟。
彼の顔には先ほどのふざけた笑いは消え、代わりに底知れぬ期待を込めた笑みが浮かんでいた。
「……五条先生の言う通りですね」
ドス黒い呪力を立ち昇らせながら、眞白が静かに口を開く。
「私の脳(エンジン)は、知識というガソリンがあって初めて稼働する」
言いながら、眞白は自身の周囲に渦巻く呪力をボコボコと変形させていく。
彼女は今から自分が何をしようとしているのか、まるで確認するように説明し始めた。
「資料庫で領域について調べている時に、気づいたんです。領域展開に対抗できる『簡易領域』は、目的は違えど理論は同じなんじゃないかって」
「……」
「日下部先生の簡易領域を見て、確信しました。簡易領域は、領域展開の必中効果を中和……いえ、擬似的な領域同士の押し合いをすることで相手の領域内の必中効果に抵抗し、弱めてるんじゃないかって。だからこそ『簡易』領域。……ですよね?」
眞白の問いかけに、五条はニヤリと笑って頷いた。
「そうだよ。眞白の考えは合ってる。……簡易領域をただの一回見ただけで、よくそこまで考え至ったね」
五条は感心したように眞白を褒めながら、今もなおボコボコと整形され続けている呪力の塊を見つめる。
「じゃあ、こんなの目を閉じてもできるほど簡単ですよ。ただ、呪力で『箱』を作るだけなんて」
眞白がそう言い放つと同時、波打っていた呪力が彼女を中心に綺麗な球体へと整形され、空間に固定されていく。
五条はその光景を見ながら、初めて眞白と出会った、あのカフェでの出来事を思い出していた。
(あの時、テーブルの下で隠れるように『作っていた』、呪力の塊でできたあの『小鳥』。……あれだけ緻密で繊細な呪力操作ができる眞白にとって、ただの箱を作るだけの作業なんて、確かに簡単すぎる。日下部さんの簡易領域という『ピース』を見ただけで、領域のガワを作る構造を一瞬で理解したんだろうね)
眞白の頭の中は今、新しい技術への純粋な好奇心と、目の前でニヤついている不審者を絶対に殴り倒すという決意だけで満たされていた。
掌印すら結ばない。ただイメージをそのまま現実に押し付けるように、彼女はたった一言、言葉を放つ。
「領域展開」
ドプンッ、と。
水に潜るような重い音が響き、視界が反転する。
外界から完全に隔離された、漆黒の閉鎖空間が完成した。
「やっぱ君、サイコーだよ、……眞白!」
五条は、見たこともない新しいおもちゃを貰って喜んでいる子供のような顔をして、歓喜の声を上げた。
呪術の極致たる『領域展開』。それを初見の理屈だけで構築してみせた教え子に対し、最強の術師は胸を高鳴らせる。
どんな恐ろしい必中効果が襲い掛かってくるのか。
無数の紙の刃が空間を埋め尽くすのか、それとも巨大な式神が闇からぬっと現れるのか。五条はワクワクしながら、全神経を研ぎ澄ませて「その瞬間」を待った。
しかし――。
1秒経過。
3秒経過。
10秒経過。
……何も、起きない。
嵐の前の静けさなどではない。殺気も、呪力のうねりも、必中必殺の脅威も、何一つ存在しない。
ただただ、無音の、何もない真っ暗な空間が広がっているだけだった。
極限まで張り詰めていたシリアスな緊張感は、風船が割れたように跡形もなく消え去り、圧倒的なまでにシュールな「虚無」へと変貌する。
領域が完成してから十数秒後。
両者は共に、完全に言葉を失い、ただ突っ立っていた。
いたたまれない静寂が訪れる中、眞白はキョロキョロと自身の作った領域の内部を見渡した後、ポカーンと放心している五条の方へ顔を向ける。
「あの……五条先生……」
眞白は顔を真っ赤にして、ひどく恥ずかしそうに、言い辛そうに質問をした。
「……術式って、どうやって付与するんですか?」
五条の耳にその質問が届き、脳が意味を理解した瞬間。
「ブッ……アハハハハハハハ!!!」
大爆笑。眞白の完成させた、本来ならば必中術式が渦巻くはずの領域内部は、何一つ危険のない五条の笑い声によって満たされた。
「あんなもったいぶって! あんなカッコつけて!『領域展開』って言って! できた領域が真っ暗! なぁーんにもない! こんな空っぽの領域、初めて見たよ!」
腹を抱え、呆れ果てて顔に手を当てようとした五条は――ふと、違和感に気づいた。
自身の手を覆っているはずの、いや、常に全身に纏っているはずの「それ」がない。
「あれ、無下限が……」
呟き、五条は再度、無下限呪術のバリアを展開してみる。
発動自体は、できる。
しかし、展開したそばから、バリアがシュウゥゥと音を立てて削り取られるように霧散していくのだ。
維持ができない。出力された術式が、空間そのものに即座に中和・無効化されてしまっている。
(……なるほど!? 術式が付与されていない純粋な『呪力だけの空間』だからこそ、中和の働きだけが際立って、僕の術式を吸い取って打ち消しているのか……!)
五条が自身の異常と、この未完成な領域の予期せぬ効果に気づいた、まさにその瞬間だった。
目の前に、莫大な呪力が込められた眞白の拳が迫る。
「あっぶね!」
五条は咄嗟に首を逸らして拳を躱し、そのまま眞白から大きく距離を取った。
自身の渾身の一撃を躱されたのを認識した眞白は、先ほどの羞恥に染まった顔から一転、少し意地悪な笑みを浮かべていた。
「あれ? 五条先生、何で避けたんですか?」
ニヤニヤしながら、じりじりと距離を詰めてくる。
その顔を見た五条は理解した。自身がたどり着いた「術式の中和」という答えに、眞白もたどり着いているのだと。
「いや〜、良くできたね! さっすが眞白だよ! よっ、1000年に1人の天才術師! いや、絶世の美少女!!」
五条は突然、大仰な身振り手振りで眞白を煽て始めた。
「えっ!? て、天才なんてそんな……しかも、び、びび美少女なんて……っ!」
急にベタ褒めされた眞白は、生来の気弱さと被害妄想が激しく発動し、顔を真っ赤にしてパニックに陥った。
(な、なに急に!? 何か裏があるの!? それとも私を油断させて新手のイジメをする気!?)
頭の中でぐるぐると最悪の想像が渦巻き、モジモジと体をよじらせて硬直してしまう。
その僅かな隙を、最強の術師が見逃すはずがない。
「よし! 今だ!」
五条は脱兎のごとく、眞白からさらに距離を取り、駆け出した。
「あ……待て! やっぱり逃げる気ですねー!!」
まんまと煽てられて隙を作らされたことに気づいた眞白は、さらに顔を赤くして激怒し、五条の後を追う。
ここに、呪術界史上初であろう『領域展開の内部での鬼ごっこ』が開幕した。
*
数分後。
「はぁ……はぁ……っ」
眞白は五条を視界に捉えながらも、常にギリギリの距離を保って逃げ続ける大人気ない教師に腹を立てつつ、息を切らしていた。
ふらふらと足元がおぼつかなくなり、最後には四つん這いになって動けなくなる。
「あれ、眞白ってばもう終わり? 体力少ないんじゃない?」
五条は余裕の足取りで眞白の前まで近づき、見下ろして笑う。
「次の課題は決まったね」
「体力……が……はぁ、ないのは確か……っ! ……ですけど、この領域の維持に……呪力がものすごい取られて……」
眞白は肩で息をしながら、必死に抗弁した。
「まぁそれもそうだね。無駄にこんな大きな領域で、しかも初めてなんだから、いくら眞白の呪力量でも長時間の維持はきついよ」
五条は納得したように頷き、そして口元に笑みを浮かべたまま、眞白から数歩離れた。
「よし! じゃあ、ここまで自力で領域を展開できた眞白にご褒美あげる」
五条はスッと右手を上げ、中指と人差し指を交差させる特有の掌印を結んだ。
「この前、機会があったら領域展開を見せてあげるって言ったよね? それが今」
六眼が、妖しく、そして美しく輝く。
「ちゃんと見ててね、眞白」
静かな、しかし絶対的な力を持った声が、空間に響き渡る。
「領域展開・『無量空処(むりょうくうしょ)』」
五条悟のその一言と共に、世界が反転した。
眞白が不完全な呪力のみで構築した、漆黒で無音の「空っぽの箱」。
それが、まるで薄いガラス細工が内側から弾け飛ぶかのようにパリンと甲高い音を立てて砕け散り、圧倒的で濃密な別の領域によって一瞬にして塗り替えられていく。
次に眞白の視界に広がったのは、果てしなく続く宇宙空間のような、深淵なる光景だった。
足元には水面のように揺らぐ波紋と共に銀河が広がり、見上げれば、どこまでも吸い込まれそうなほどの深い闇の中に、無数の星々が瞬いている。
本来であれば、知覚と伝達を無限に強制し続け、対象の脳を焼き切って廃人にするという、呪術界において最も恐ろしく、最も完成された必中効果を持つ領域。
しかし今の眞白は、脳を焼かれることもなく、ただその神秘的な空間の中心に立っていた。
「……きれい……」
眞白の口から、無意識に感嘆の吐息が漏れた。
先ほどまでの、五条を絶対に殴り倒すというドス黒い怒りも、初めての領域展開による疲労も全て忘れ、ただ目の前に広がる圧倒的な「美」に完全に心を奪われていた。
「どう? これが僕の領域、『無量空処』だ」
宇宙空間にポツンと立つ五条が、得意げに両手を広げてみせた。
「今回は必中効果をつけてないから、眞白に危害はないし安心していいよ。まぁ、長居するような場所でもないし、見学はこれくらいで……って、あの様子じゃ聞こえてないかな」
五条は解説の途中でピタリと口を止めた。
目の前の教え子は、解説する自分の顔など一切見ておらず、ただ夢中のように星々を見上げているのだ。
「ほーら! 眞白ちゃーん? もうお家帰る時間よ〜」
五条は少し呆れたようにため息をつきながら、眞白のすぐ近くまで歩み寄り、パンパンと顔の前で手を叩いて見せた。
「……ハッ!」
その大きな音でようやく我に返った眞白は、ハワハワと慌てた様子で五条の袖口にすがりついた。
「も、もう少しだけ! もうちょっとだけ見せてください! こんなきれいな光景、プラネタリウムでも見たことないです! 初めて見たんです!」
目をキラキラと輝かせ、満天の星空を見上げる子供のように懇願してくる教え子。
(いや、せっかく必殺の領域展開を見せてあげたのに、景色に見惚れるって……この子、やっぱりどこかズレてるなー)
流石の最強も、自身の領域をただの「綺麗な景色」として消費されたことに少しばかり複雑な気分になりながら、苦笑してパチンと指を鳴らした。
「はい、時間切れー」
その合図と共に、無限に広がる宇宙空間が嘘のように掻き消える。
視界に再び広がったのは、見慣れた高専の校庭と、先ほどまでと変わらない春のうららかな陽射しだった。
「あー……! 終わっちゃった……」
眞白は露骨に肩を落とし、まるで夢から覚めてしまったかのようにどんよりと落ち込み出す。
そんな彼女の様子を見て、五条はポンポンと軽くその頭を撫でながら、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「いやー、久しぶりに領域展開したよ。いくら僕でもやっぱり少しは体力使うね、これ。この『術式が焼き切れる感覚』も、久しぶりだ……ね」
言いながら、五条は無防備に伸びをしようとして――ピタ、とその動きを完全に停止させた。
今、自分はなんと言った?
『術式が焼き切れる』。
領域展開という大技を発動した直後の術師には、一時的に自身の生得術式が使用困難になる「焼き切れ」というダウンタイムが必ず発生する。
それはつまり、現在の五条には、常に全身を覆っているはずの絶対防御――『無下限呪術のバリア』が出せないということを意味していた。
(……あっ)
五条の背筋に、嫌な汗が伝う。
先ほどまで息も絶え絶えだったはずの教え子は。
「……ふぅ」
いつの間にか先ほどの落ち込みから立ち直り、一つ深呼吸をしていた。
領域展開という大技の余韻と、一時的な休息によって、彼女の体力はある程度回復してしまっている。
(……やばい)
五条は冷や汗をかきながら、顔に引きつった笑みを貼り付けたまま、ジリ……ジリ……と、眞白に気づかれないようにゆっくりと後ずさりを始めた。
「あ、あのー、眞白チャン? ほら、今日の授業はこれくらいにして……硝子たちも待ってるし……」
五条の言い訳がましい声は、途中で遮られた。
「……」
スクッ、と。
眞白が立ち上がったのだ。
俯いていた顔が、ゆっくりと五条の方へと向けられる。
その瞳には、先ほどの宇宙空間への感動など微塵も残っていなかった。
あるのは、最初の「鬼ごっこ」の時と同じ――いや、それ以上に濃密で純粋な、ドス黒い殺意。
「……五条先生」
眞白の背後に、残存していた莫大な呪力が集まり、ボコボコと音を立てて無数の巨大な「何か」の形を成していく。
「先生……今、『術式が焼き切れてる』って言いましたよね?」
地を這うような低い声。
「あ、いや、それはその……冗談! ジョークだよジョーク! アメリカンなやつ!」
「じゃあ……」
眞白は両手の拳を強く握り込み、そこにドス黒い呪力をバチバチと集中させながら、一切の慈悲もなく言い放った。
「2回戦目、始めましょうか」
「ギャアアアアアア!! 硝子ォオオ! 日下部さァアアン! 助けてェエエエ!!」
春の穏やかな空に、最強の呪術師の情けない悲鳴が響き渡る。
五条はクルッと踵を返すと、なりふり構わず校庭の端へと向かって全速力で逃げ出す。
「あ! 待てーっ!!」
顔を真っ赤にして激怒した眞白が、呪力を込めた両拳を振り上げ、ものすごい形相でその後を追って走り出す。
怒れる教え子と、術式を失った不審者の、血で血を洗う(?)第2ラウンドの追いかけっこが、平和な高専の校庭でいつまでも続いていた。
*
そのドタバタ劇を、校庭の端の安全圏から遠目で眺めていた二人の大人。
「はぁ……一時はどうなるかと思ったが、まぁ、いつも通りで安心したよ」
家入が白衣のポケットに手を突っ込んだまま、呆れたような、けれどどこか安堵したようなため息を吐く。
「……これが、いつも通りなのか?」
その言葉を聞いた日下部は、とんでもない非日常を見せられた疲労感と共に、ひどく面倒くさそうに顔をしかめた。
「あ、綴がこけた」
家入がぽつりと呟く。
視線の先では、怒りに任せて走っていた眞白が足をもつれさせて派手に転び、それを見た五条が「ブハッ! ダサっ!」と腹を抱えて揶揄おうと近づいていく姿があった。案の定、五条は起き上がった眞白から呪力のこもった蹴りを食らいそうになっている。
そのくだらないやり取りを見つめながら、家入の脳裏にふと、遠い昔の記憶が蘇った。
青い春の真っ只中。くだらないことで意地を張り合い、よく校庭で取っ組み合いの喧嘩をしていた二人の親友の姿。
「……この感じ、懐かしいな」
家入は目を細め、春の陽射しに包まれた校庭を見渡しながら、ふと黄昏れるように呟いた。
「時代が変わっても、高専は変わらないなぁ」
しかし、その裏で。
校庭に突如として現れた「莫大な呪力」と、一瞬だけ感知された「特級クラスの領域展開」の痕跡に対し、「敵襲か!?」と高専全体がパニックと大混乱に見舞われているのは――。
また、別の話。
これで今回は最後です。
続きも不定期になりますが投稿しますので気長におまちください。
あと、皆さん感想をたくさん書いてくださってありがとうございます。
いろいろな感想、意見があり私も楽しみながら拝見させていただいております。
良ければこれからも書いてくださると投稿の励みになりますのでどうぞよろしくお願いします。
また、感想に対して返信しようか迷っているのですが、皆さん様々な考察等をしてくださっており、これに返信しようとするとこれからの展開のネタバレが口から滑りそうなのでとりあえずは控えておきます。しかし、考察含め感想はとてもありがたいのでとても助かります。
また、今回のお話含め原作キャラのキャラ崩壊等が懸念されますのでご注意ください。
にわかなのでお手柔らかにお願いします。
2026/02/21:一部修正