昼過ぎ。太陽が一日で最も高い位置に昇り、春の暖かな日差しが校庭を照らしつけている。
「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ!」
広大なグラウンドのトラックでは、一人の少女がひたすらに走り続けていた。
あの後、五条との(一方的な)命懸けの鬼ごっこを終えて昼食をとった眞白は、現在、絶賛『新しい課題』をこなしている真っ最中であった。
課題の内容は至ってシンプル。術式なしの領域展開という大技で露呈した『圧倒的な体力不足』を補うための、地獄のランニングである。
「はぁ……きつ……っ、でも……!」
ふらふらになりながらも、眞白は懸命に足を動かし続けている。
そんな彼女の姿を、少し離れた木陰の石階段から眺めている二人の大人がいた。
五条悟と、日下部篤也だ。
ちなみに、家入硝子は昼食後に「急患だ」と言い残し、すでに医務室へと戻っている。
「……で。説明してもらおうか」
タバコを取り出そうとして家入に没収されたままだったことを思い出し、日下部は面倒くさそうに頭を掻きながら、隣に座る五条へ詰め寄るように問いかけた。
「ん? え、何のこと?」
「とぼけるな。綴がまだ一度も任務に行ってないことについてだ」
五条が飄々とした態度で聞き返すと、日下部は鋭い視線を向けた。
「お前はあいつを『未熟だから』って理由で誤魔化してるみたいだが、どう考えても不自然さが残る。まぁ、実戦経験がゼロで未熟だってのには同意するが……少なくとも、手加減していたとはいえ一級術師の俺を、あそこまで追い詰めたヤツがだぞ?」
昼前の戦闘訓練。そして、その後感知された異常な呪力のうねりと領域展開の痕跡。
あれだけの出力とセンスを持ち合わせておきながら、任務にすら出していないというのは、呪術師の人手不足が常態化している高専において異常事態と言えた。
「んー……」
五条は少し考えるような素振りを見せた後、隣に座る日下部を値踏みするようにチラリと横目で見た。
「まぁ、日下部さんにならいいか。絶対内緒だよ?」
「……ああ」
五条は組んでいた足を解き、グラウンドを走る教え子を見つめたまま、静かに口を開いた。
「大きく分けて、理由は2つある。1つ目はね……まだ上層部に、眞白の存在を知られたくないから」
「……」
「アレの能力は特異すぎる。もし奴らに知られれば、間違いなく自分たちの都合のいいように利用されるか、最悪、手に余ると判断されて潰されるか分かったもんじゃない」
日下部も、腐りきった呪術界の上層部のやり口は嫌というほど理解している。
「……だろうな」と、短く同意の相槌を打った。
「そういうこと。せっかく僕が見つけた逸材を、わざわざ渡してたまるかって話」
――その瞬間。
「それも、あの『クソ溜めの連中』共に」
五条の口から漏れた最後の言葉には、隠しきれない濃厚な殺気と怒気が混じっていた。
最強の術師から無意識に放たれたプレッシャーに、周囲の空気がビリッと震える。
「お、おう。……そうだな」
自分に向けられた殺気ではないと頭では分かっていても、日下部は本能的な恐怖を感じ、少しだけ五条から距離を空けながら引きつった顔で肯定した。
「……ふぅ」
五条は自らの熱を冷ますように、短くため息を吐いた。そして、先ほどの刺すような苛立ちを霧散させ、再び真剣なトーンへと戻る。
「2つ目は……今の眞白に『命の駆け引き』ができるかどうか、僕にもまだ判断できなかったから」
「命の駆け引き、ね」
日下部は顎をさすりながら呟く。
「そういや、あいつは高専に入る前、呪霊に対してどういう対応をしてたんだ?」
「一人で呪霊に怯えながら、ひたすら徹底的に『無視』してたそうだよ。周りに自分と同じように呪霊を認識できる存在なんて、一人もいなかったからね」
五条の淡々とした説明に、日下部は納得したように息を吐いた。
「なるほどな。呪霊に対抗できる力を手にしたからといって、長年染み付いたその恐怖を簡単に克服できるわけじゃないってことか。下手に本物の呪霊の前に立たせたりしようもんなら、恐怖で腰を抜かして、せっかくの才能を発揮できずに一方的に嬲られる可能性もあるか……」
今日の戦闘訓練での眞白の姿を思い出し、日下部は重い言葉をこぼした。
「そうだね。その可能性も十分にある」
だが、五条はそこで言葉を切ると、かつてないほど真剣な眼差しで日下部を見据えた。
「……でも、僕が一番懸念してる点はそれじゃないんだ。これも完全にオフレコでお願いするけど、彼女……」
五条はグラウンドを走る眞白の小さな背中を指差した。
「無意識下で、自分自身に強烈な『縛り』を課してる」
「……無意識の縛りだと?」
「そう。彼女の脳は生まれつき少し特殊でね。頭の中に、高精細なイメージの濁流が常に溢れ返り続けてるんだ」
五条は自身のこめかみをトントンと指で叩く。
「眞白が暇さえあれば折り紙を折ったり、呪力をこねたりしてるのを見たでしょ? あれ、ただの趣味や手遊びじゃないんだよ。脳内に溢れる情報を、呪力操作とモノ作りによって常に外部へ『排出』し続けてるんだ」
「排出……?」
「もしそのアウトプットを止めたら、情報の熱負荷によって脳がオーバーヒートを起こして……死ぬ」
「なっ……!?」
日下部が息を呑む。
自分の意思とは関係なく、常に呪力とイメージを外に出し続けなければ脳が焼き切れて死ぬ。そんな残酷で過酷な制約を、あんなか弱そうな少女が背負っているというのか。
「彼女の呪力操作の精度、異常だったでしょ。アレは、その過酷な縛りによる恩恵……というか、『死』を回避するための生存本能によって、脳と呪力回路が極限まで進化・最適化された結果なんだ」
五条は自身の『六眼』を示すように、目元を軽く指でなぞった。
「本来なら、僕の『六眼』を持ってなきゃ不可能なレベルの原子単位に近い呪力操作を、彼女は脳の圧倒的な演算能力だけで強引にカバーしてる。僕の目が『情報の視認』に特化しているなら、彼女の脳は『情報の処理と出力』に特化してる」
五条の口角が、少しだけ上がる。
「言うなれば、『脳内演算バージョンの六眼』ってとこかな」
その説明を聞き、日下部は目を剥いて驚愕した。
「お前の六眼並みの呪力操作だと!?」
「そう。そして、その異常な脳の処理能力ゆえに、彼女の被害妄想は常に最悪のシミュレーションを脳内で再生し続ける。まぁ、だからこそ今日、日下部さんを出し抜けたとも言えるけどね。ある意味、この被害妄想も才能の一つだよ」
五条はクスッと笑い、すぐに表情を引き締めた。
「おっと、話がズレたね。まぁ何が言いたいかというと……今でこそ眞白は色んな呪術の知識を学んだから、たとえ最悪の状況下になったとしても様々な選択肢を選べる。だけど、もしその選択肢がなかった場合、眞白の脳は何をしでかすかわからない」
五条は、先ほどよりもさらに真剣さを増した声で告げる。
「……何をしでかすかわからない、ね」
日下部は、五条にその先を話すよう促すように答えた。
「さっき、眞白が領域展開をする前に放出した呪力を思い出してよ」
五条は、昼休みの直前に起きた出来事を例に挙げて話を続ける。
「あの時は、領域を展開するためだったから直接的な害はなかったけど……」
五条はそこで一度言葉を切り、もったいぶるように間を置いた。そして、日下部を脅すような低い声で尋ねる。
「もし、あの呪力全てが、絶体絶命での最後の手段として、『攻撃の意思』を持って放たれていたら?」
「……ッ!」
日下部の背筋に悪寒が走る。
あの時、校庭で眞白の規格外の呪力に包まれた際の、息が詰まるような恐怖。もしあれが純粋な殺意として放たれていたら――その先を想像し、日下部の額から冷や汗が流れ落ちた。
「眞白のあの化け物級の呪力量に、『絶望』という負の感情が更にプラスされたものが放たれれば……少なくとも周辺は更地になるだろうね」
五条は少しふざけた調子で、「ボーン」と口で言いながら手で爆発のジェスチャーを作ってみせた。
「一体何で眞白はあんな呪力量をしてるんだろうね。僕がここ最近の家系を調べた限りは、特に目立ったところとかなかったんだけどな〜。突然変異とか?」
先ほどの真剣さとは打って変わって、五条はどこか楽しそうにケラケラと笑いながら話す。
「お前な……」
あまりの温度差に、日下部は呆れたように深くため息を吐いた。
「ま、その心配はもうないから大丈夫だよ」
五条はグラウンドでふらふらになりながらも走り続ける少女を見つめた。
「さっきも言ったけど、もう周辺を爆破なんてさせなくても、他の手段はたくさんあるからね。知識を詰め込んで選択肢は増やした。次の課題は……極限状態でも、いかに正しくその選択肢を選べる『精神状態』を保てるか、だね」
五条は少し気乗りしない感じだが、絶対に必要になることも分かっているため、少し複雑な表情で話す。
「眞白の場合は、あの過剰な被害妄想の件があるからなぁ。ここらで一度ポッキリと心を折って『呪術師としての芯』を作っておかないと。いざって時に恐怖で動けませんでした、じゃあお話にならないからね」
その言葉の裏にある、指導者としての残酷なまでの責任感。
それを感じ取った日下部は、ふと息を吐き出して隣の最強の呪術師を見た。
「……お前も、損な役回りをするんだな」
「ん?」
「今のお前は、俺が今まで見てきた中で一番『教師』らしいぜ」
本心からの評価だった。
しかし、五条はパッといつものおちゃらけた顔に戻り、大げさに肩をすくめてみせる。
「何それー。まるで今までの僕が教師らしくなかったみたいに聞こえるんだけど?」
「自覚がなかったことに驚きだよ」
「ひどっ! ……まぁでも、本当は今日、簡易領域を見せるついでに日下部さんにボコボコにしてもらって、心を折ってもらおうと思ってたんだけどさ」
五条はニヤニヤと笑いながら、わざとらしく日下部を小突いた。
「誰かさんが油断して負けちゃうから、予定が狂っちゃったよ」
「はぁ!?」
日下部は目を見開き、五条に詰め寄った。
「お前、俺に初対面のガキをボコさせようとしてたのか!?」
「まぁまぁ、落ち着いてってば」
五条はひらひらと手を振り、キャンキャン吠える日下部をあしらう。
「と言っても、交流会まであと1ヶ月しかないからねぇ。来週あたりにはやらないと……」
五条は顎に手を当て、空を見上げながら独り言のように呟いた。
「は? 交流会? お前それまさか、姉妹校交流会のこと言ってんのか?」
聞き捨てならない単語に、日下部の動きがピタリと止まる。
「うん。そうだけど?」
まるで「今日の晩御飯はカレーだよ」とでも言うような、あまりにも軽すぎる肯定。
「そうだよ、じゃねぇ! 綴はまだ一年だろ!?」
日下部が「何言ってんだこいつ」とばかりに声を荒げた。
「例年なら人数の数合わせって名目がなきゃ参加自体できねぇし、今年に限っちゃ東京校はあいつ一人だけだぞ!? 普通なら去年みたいに中止にするのが妥当だろうが。ましてや、今年の京都校は2年が2人と3年が3人……しかも、そのうち1人は準1級術師がいるんだぞ! そこに素人のガキ一人を放り込む気か!?」
「もう夜蛾学長に許可取ったから、そんな詰め寄っても無駄だよ〜。それに日下部さん……たかが人数差くらいで、眞白が負けると思ってるの?」
五条は一切の不安を感じさせない、絶対的な自信に満ちた笑みを浮かべて日下部を見下ろした。
「夜蛾さんが!?」
あの厳格で常識人であるはずの学長が、そんな無茶苦茶な提案に判を押したという事実に、日下部は絶句する。
「そう、夜蛾学長も眞白の実力は認めてるってこと。僕の見立てに狂いはないからね」
教え子の才能を確信している五条の胸を張る姿は、どこか嬉しそうでもあった。
「それに、交流会の参加は、眞白の『お披露目会』って名目もあるからね」
「お披露目? さっきお前、上層部にバレたくないから任務を受けさせてないって言ってなかったか?」
つい数分前の発言との矛盾に、日下部は訝しげに眉をひそめる。
「まぁ、いつまでも隠し続けられるわけじゃないからね。どうせバレるなら、ここで一発、あいつらの度肝を抜いてやるんだよ! 僕に比類する才能でね!」
五条は、これから起こるであろう大波乱を想像してワクワクが抑えきれない子供のように、口元をニヤリと歪めた。
「それに、今の眞白にはもう十分な自衛手段があるからね。少なくとも、あの上層部のジジイ共が表立って手出ししてくることはないでしょ」
「十分な自衛手段っていうと……あの手裏剣か」
日下部は、自身の隙を作るきっかけになったあの厄介な手裏剣を思い出し、苦々しい顔で頷いた。
「そう。さっきの戦闘訓練の時は少し運用方法が違ったけど、あれでほぼ日下部さんの簡易領域の『自動迎撃機能』と同じようなことができるよ」
「俺と同じ……しかもあれは簡易領域の展開すら必要としない。常にポケットにでも忍ばせておけば、よっぽどなことが無い限り隙を突かれる事もないってわけか」
日下部は、あの少女が無意識の縛りで組み上げたシステムの完成度の高さに、改めて舌を巻く。
「そういうこと。だから何も心配することはないよ」
五条の言葉には、確かな裏打ちがあった。
「なるほどな。それにしても……今回の件だけで、お前が何で綴をあんなに特別に扱ってるのかわかった気がするよ」
「え、何のこと?」
五条がきょとんと首を傾げる。
「自覚ねぇのか? お前が教師になってからはある程度鳴りを潜めていたが……最近はまるで、高専時代のお前が戻ってきたみたいだったぞ。俺以外にも、夜蛾さんや家入も似たようなこと言ってたしな」
日下部は、やれやれと呆れたように肩をすくめてみせた。
その言葉を聞いた瞬間、五条の動きがピタリと止まった。
目隠しの上からでもわかるほどに目を見開き、そのまま、よく晴れた初夏の空を見上げて少しの間、完全に放心する。
「……ははっ、そうかな? ……いや……そうかもね」
やがてこぼれ落ちたのは、少し照れくさそうな、それでいて胸が締め付けられるほどに悲しそうな、微かな呟き。
吹き抜ける生温かい風が、五条の白髪をふわりと揺らす。
目隠しの下で細められた六眼は、もうここにはいない、たった一人の親友の背中を探すように虚空を彷徨っていた。
昼下がりの初夏の校庭。
耳を澄ませば青葉を揺らす木擦れの音が響き、どこまでも高く広がる空が視界を覆い尽くしている。
馬鹿みたいに笑い合い、ただ二人でいれば最強だと信じて疑わなかった『あの頃』からは、残酷なまでに随分と長い時が経ってしまったというのに。
見上げるこの空の青だけは――あの日の青春と何も変わらず、今も憎いくらいに澄み渡っていた。