今日も今日とて日は昇り、初夏の少し強くなり始めた陽射しが、眞白の自室の薄いカーテンをすり抜けて部屋を明るく照らしていた。
「……うぅ……っ」
ベッドの上で、眞白は重い呻き声を漏らしながら目を覚ました。
ここ一週間、彼女にとって朝目覚めることは、そのまま「全身を駆け巡る凄まじい筋肉痛との対面」を意味する日課となっていた。
日下部との戦闘訓練の日から毎日、五条と日下部による特訓を欠かさずに行っている。特に体力増強のための地獄のランニング、そして日下部からの刀術の指南(という名目の、ただの過酷な筋トレ)による疲労が鉛のように体に蓄積しており、目が覚めたものの、布団を捲る気力すら湧いてこない。
「……今日は日曜日……私の輝かしい青春の休日は、ベッドの上で完結する運命なのね……」
今日は授業が休みだ。だからこそ、このまま布団のぬくもりに包まれてお昼まで二度寝を決め込もうと、眞白は再び重い瞼を閉じた。
しかし――。
『ぐきゅるるるるる……』
静かな部屋に、自身の腹の虫が盛大に鳴る音が響き渡った。
「うっ……お腹、すいた……」
ぽつりと独り言をこぼす。流石にこの本能的な食欲には勝てなかったのか、眞白は「いたた……」と痛む体に鞭を打ちながらのそのそとベッドから這い出し、重い足取りで身支度を始めた。
*
身支度を終えた眞白は、朝食を摂るために高専の食堂へと足を運んだ。
配膳口で食堂のおばちゃんから和食の乗ったお盆を受け取り、ふと見渡すと、そこには見慣れた白衣の人物が座っていた。
家入硝子だ。
「……家入先生。おはようございます」
眞白は筋肉痛のせいで生まれたての子鹿のようにぎこちなく震える足取りで、家入の向かいの席へと移動した。
「今日は朝食、ゆっくり食べられてるんですね」
最近になってようやく、この高専の専属医がどれだけ激務でブラックな労働環境に置かれているかを理解し始めていた眞白は、少し驚きつつも、彼女がしっかり休息をとれていることにホッと安堵の表情を見せた。
「おう、おはよう。昨夜は珍しく急患が来なくてな。この通り、ゆったり朝飯にありつけてるよ」
家入はマイペースに味噌汁を啜りながら答え、向かいに座る教え子の、あまりにもぎこちないロボットのような動きを見てふっと口角を上げる。
「にしても、お前、さっきから随分と動きが硬いな。どうした?」
「そ、それが……最近の実技訓練のせいで、筋肉痛が酷くて……」
眞白が気合いで体を動かして椅子に腰掛けながら情けない声で答えると、家入は「あー」と納得したように頷いた。
「そういえば、最近やたらとお前が走らされてたり、重りを持たされて筋トレしてる姿を見かけるな」
「そうなんですよ!」
家入が話を振ってくれたのをいいことに、眞白の中に溜まっていた鬱憤が一気に爆発した。
「聞いてくださいよ〜! この前の日下部先生との訓練の日から、私の体力の無さに気づいた五条先生が、延々とグラウンドを走らせてくるんですよ! しかも、私が倒れるまで終わるのを許してくれなくって……まさに鬼畜の所業ですよ!
それに! 日下部先生は『刀の振り方を教えてやる』って言ってくれたのに、いざ始まってみたら筋トレばっかりで、まともに教えてくれないんです!」
プンプンと擬音が聞こえてきそうな勢いで、箸を握りしめたまま不満を並べ立てる眞白。
遠慮なく愚痴をこぼす彼女を前に、家入は呆れるでもなく、どこか面白そうに喉を鳴らして笑った。
「倒れるまでってのはやり過ぎだが、お前みたいな運動能力の無さは、呪術師にとっては致命的だからな。やり過ぎではあるが、別に間違った指導じゃないさ」
家入は小鉢のおひたしに箸を伸ばしながら、至極真っ当な正論で眞白を宥める。
「それは、そうなんですけど……」
自分でも頭では理解しているからこそ、家入の正論に返す言葉がなくなり、眞白は不満げに唇を尖らせて黙り込んだ。
「まぁ、それだけあいつらはお前に『死んでほしくない』って思ってるんだよ」
家入の口から出たその決定的な一言に、眞白の動きがピタリと止まった。
五条のふざけた態度や、日下部の気怠げな態度の裏にある、自分を死なせないための不器用な必死さ。
それを誰よりも近くで見ている家入だからこその言葉に、眞白は少しバツの悪そうな顔をしてから、ぽつりとこぼした。
「……納得、とまではいきませんけど……もう少しだけ、頑張ってみます」
その素直な返答に、家入は満足そうに短く相槌を打った。
少しの間、食器が触れ合うささやかな音だけが食堂に響く。やがて、家入がふと思い出したように話題を変えた。
「で、今日は授業は休みだろ? お前の場合は任務もないからな。特にやることがないんじゃないか?」
「はい。本当はお昼ごろまで疲れを癒そうかとも思ったんですが……この前できた『術式を付与しない領域展開』について、少し模索してみようかなって思ってます。最近は運動ばっかで、技術面はあまりこなしていませんでしたから」
眞白は白米を頬張りながら、今日の予定を語る。
「術式を付与しない領域展開ね。あの、五条の無下限バリアも中和できるとか何とか言ってたやつか」
「はい。でも……」
眞白は箸を置き、少し悔しそうに肩を落とした。
「そっちもいいが、術式を付与する方の領域展開はできたのか?」
「できなかったです……」
家入の問いかけに、眞白は力なく首を振った。
「あの時、五条先生の領域展開を見せてもらったんですが、流石に一回見ただけじゃよくわからなかったです。呪力だけで空間を作るのはなんとかなりましたけど……『術式を領域に満たす』っていう感覚が、全然掴めなくて」
眞白は、心底意味がわからないといった様子で眉間にシワを寄せる。
「しかも、よくよく考えてみたんですけど……私の場合、領域展開自体、あまりメリットがなくて困ってるんですよね」
「メリット? 領域展開って呪術の極致なんだろ? 五条みたいに、展開したら勝ちみたいな感じじゃないのか?」
家入は純粋な疑問をぶつけた。領域展開といえば、呪術戦において必殺必中を約束する最大の切り札のはずだ。
「私も、五条先生みたいな強烈な必中効果なら良かったんですけど……ほら、私の術式って『紙を折って式神にする』術式ですから。たとえ領域を展開できたとしても、式神の攻撃そのものが必中になるわけじゃないんですよね」
眞白は手元で架空の折り紙を折るような仕草をしながら説明する。
領域に付与されるのは、あくまで生得術式そのもの。眞白の術式は「紙を式神にする」というプロセスであり、必中になるのはその『紙を式神にする』という行為までだ。生み出された式神の物理攻撃が、必ず相手に命中するわけではないという、術式の性質上の欠陥だった。
「なるほどな。あくまで必中効果は、『領域内の紙を式神にする』ってだけか」
家入は顎に手を当て、眞白の術式の不便さに深く納得したように頷く。
「なので、わざわざ莫大な呪力を使ってまで領域展開をする必要性がないんですよ。外した後の『術式の焼き切れ』のリスクも大きすぎますし……」
複雑そうな顔でため息をつく眞白。そして、「それに」と少し呆れたような口調で続けた。
「私がそのことを五条先生に相談したら、『将来に期待だね』とか言ってて。術式が変わったりするわけでもないのに、なんだか変なこと言ってるんですよ」
「へー……将来ね」
眞白の困惑した顔を見ながら、家入はスッと目を細め、心の中で呆れ半分に思考を巡らせた。
(今後の術式の解釈を広げることに期待ってことか。それか、術式順転の出力が頭打ちなら『術式反転』ってことかな。……ってあいつ、まだ眞白に術式反転について教えてないのか)
何も知らない教え子と、肝心なことを出し惜しみしている同級生(バカ)の顔を思い浮かべながら、家入は冷めたお茶を静かに啜った。
「まぁ、そういうことで。今は術式を付与する領域展開より、付与しない方の領域の『応用』を考えようと思いまして」
箸を器用に動かしながら、眞白は話を最初の軌道へと戻した。
術式を付与できずとも、あの「空っぽの空間」にはまだ使い道があるはずだと彼女は踏んでいるのだ。
「あれは、あれで完成じゃダメなのか?」
家入が小首を傾げて問う。無下限呪術すら中和できる空間なのだから、対人戦においては十分すぎるほどの切り札になり得るはずだ。
「一応、使えなくはないんですけど……如何せん呪力の消費が激しいので、もう少し燃費がいい感じにしたいんです。単純に結界を狭くして節約しようとしても、五条せん……っ、敵を領域内に閉じ込めるのが難しくなりますし」
「……」
今、明らかに『五条先生』と言いかけた。
領域内に閉じ込める対象のデフォルトが担任教師になっていることに、家入は密かに肩を震わせて笑いを堪えた。
「って、ここで考えてもしょうがないですね!」
眞白は思考を切り替えるようにパチンと両手を合わせると、先ほどから止まっていた手を再び動かし、少し冷めかけた朝食を美味しそうに頬張り始めた。
「午前中は、資料庫で似たような文献がないか探してみます。その結果次第で、午後に領域の訓練をするか、術式の訓練をするか決める事にします」
「ま、あんまり根を詰め過ぎるなよ。お前は非術師の普通の家庭から来て、まだ高専に入学してから一ヶ月しか経ってないんだ。これからゆっくり成長していけばいいんだよ」
家入は、すっかり呪術師としての思考に染まり、何やら焦っているように見える教え子を優しく宥めるように言った。
「そうですけど……それじゃあ、明日の『試験』が心配で。今のうちにやれることをやっておきたいんですよ」
ご飯を飲み込んだ眞白が、たちまちどんよりとした顔つきになって被害妄想を垂れ流し始める。
(ただでさえ五条先生のやることだし、絶対に普通のテストじゃない……! 急に崖から突き落とされたり、呪霊の群れに放り込まれたりするんだわ……!)
「ん? 試験ってなんだ?」
そんな恐ろしい予定などカレンダーになかったはずだが、と家入が眉をひそめて聞く。
「日下部先生との戦闘訓練の日に、五条先生が言ってたんです。『眞白も高専に来て一ヶ月と少したったから、どれだけ成長したかテストするから覚悟しといてね』って。……そういえば、あの時家入先生はいなかったですね」
「へー、テストねぇ。そんなの初めて聞いたが……まぁ、怪我はするなよ」
家入は気休め程度の言葉をかけながら、心の中で(また悟のやつが何かくだらないちょっかいを出す気か)と呆れ返った。
「はい! じゃあ私、資料庫行ってきます!」
眞白はエネルギーを補充したことで元気よく返事をすると、勢いよく椅子から立ち上がった。
――ピキッ。
「うぐっ!?」
次の瞬間、全身の筋繊維が悲鳴を上げ、眞白は変なポーズのまま完全に硬直した。
「うぅ……そう言えば、全身筋肉痛だったんだ……」
生まれたての小鹿のようにプルプルと震えながら悲しそうな声を出す眞白を見て、家入は「はぁ……」と深いため息を吐いた。
「こっちこい」
家入は手招きして眞白を近くに寄せると、彼女の体にそっと手を当てた。
そして、負荷がかかって危ない『脳』には絶対に干渉しないよう細心の注意を払いながら、筋肉痛が酷い四肢を中心にして、ふわりと温かい反転術式を流し込んでいく。
「わぁ、すごい! 痛みが引いていく……! 反転術式って、本当に何でも治せるんですね!」
先ほどまでの痛みが嘘のように消え去り、眞白は目をキラキラと輝かせて感心した。
「まぁ、今回は気休め程度に治してやるから、あとはちゃんと自分でストレッチするんだぞ」
「はい! ありがとうございます!」
家入の優しい言葉に、眞白は深く頭を下げると、自分のお盆を片付けて足取り軽く食堂を出て行った。
パタパタと遠ざかる足音を聞きながら、家入は温かいお茶の入った湯呑みを手に取る。
(被害妄想が激しいのは相変わらずだが……入学当初のビクビクした気弱な性格は、多少マシになってきたな)
高専という異常な環境と、少し(いや、かなり)変わった大人たちに揉まれながらも、彼女なりにたくましく図太く成長しているのだろう。
そんなことを思いながら独り言をこぼしていると、突如、ガラッ! と乱暴な音を立てて食堂の扉が開いた。
「何だ、忘れ物でもしたか?」
家入は、てっきり先ほどの眞白が戻ってきたのだと勘違いして声をかけた。
「おっ疲れサマンサーーーッ!!」
朝の静かな食堂の空気を一撃で粉砕する、鼓膜が震えるほどの無駄に突き抜けたハイテンションな叫び声。
バァン! と両手を広げて無駄なポーズを決めながら現れたのは、見上げるほど背の高い白髪の不審者――五条悟だった。
「やぁやぁ硝子! 今日も朝から麗しいね! ちょっと僕のお願い、聞いてくれない!?」
「……何だ、お前か」
全くこちらの都合など考えていない、嵐のような五条の物言いに、家入はあからさまに嫌そうな顔をして深いため息を吐いた。
「やるかどうかは内容を聞いてからだ。知っての通り、私は多忙だからな」
「明日さ、僕が眞白をボコボコにするから、眞白の治療をお願いしたいんだよね!」
五条は、あまりにも物騒な内容を「今日のランチ何にする?」とでも言うような軽いノリで言い放った。
「は? ボコボコって……まさか、眞白が言ってた『テスト』ってそれのことか!?」
一瞬、五条が何を言っているか理解できなかった家入だが、先ほどの眞白の言葉を思い出し、目を見開いて問い詰める。
「あれ、言ってなかったっけ? そうそう、それのこと」
五条は悪びれもせずにサラリと肯定し、ヘラヘラと笑っている。
「お前……正気か? それになんの意図がある」
家入は胡乱な目で五条を睨みつけた。いくら才能があるとはいえ、相手は入学してまだ一ヶ月の少女だ。最強の呪術師が自ら「ボコボコにする」など、ただのイジメでしかない。
「眞白のためだよ。今でこそ任務は受けてないけど、近いうちに呪霊と戦う機会は必ずくる。だから、今のうちに呪術師としての『芯』を作ってもらわないといけない。例え最悪な状況に陥っても、自身で決断できるようにね」
ここまでの飄々とした空気が嘘のように、五条はひどく静かな、真面目なトーンで告げた。
その言葉の奥にある深い意図を察し、家入は黙って先を促す。五条は少しだけ視線を落とし、まるで自分自身に言い聞かせるように言葉を紡ぎ始めた。
「それさえできれば、眞白は確実に化ける。順調に成長して少なくとも1級……いや、術式反転まで辿り着けば、特級は確実だ。……そしたら、傑みたいに……僕の、隣に……」
いつものふざけた五条からは想像もつかない、ひどく脆く、消え入りそうな呟き。
最強になってしまったあの日から抱え続けている、決して埋まらない孤独。かつてただ一人、自分と同じ目線で笑い合っていた親友を止められなかったという、血を吐くような後悔。
圧倒的な力を持つ者がもう一人いれば、誰も置いてけぼりにならずに済むのではないか。もう二度と、大切な人間が壊れて離れていくのを見送らなくて済むのではないか。
規格外の才能を持つ眞白の背中に、かつての青い春の幻影を重ねるような、ひどく切実で縋るような響きだった。
五条自身、その最後の言葉まで家入に聞かせるつもりはなかったのだろう。
しかし、それが聞こえた途端。
ガタッ! と、家入は乱暴に椅子を蹴立てて立ち上がり、五条の目の前へと詰め寄った。
「……あいつは、夏油じゃない」
家入は苛立ちと、五条に対する複雑な感情を隠そうともせず、低く鋭い声で五条を睨みつけた。
「……何言ってんの? 当然でしょ? 性格なんて似ても似つかないよ」
五条は一瞬だけハッと目を見開いた後、数秒間の痛いような静寂をおいてから、カラカラとわざとらしく笑って見せた。
「ってことで! 眞白の治療してもらうから明日はお願いね!」
言うだけ言うと、五条はそれ以上踏み込まれるのを拒絶するようにクルリと背を向け、そそくさと食堂を出て行った。
バタン、と扉が閉まり、再び食堂に静寂が訪れる。
誰もいなくなった空間で、家入は一人、深く息を吐き出した。
「あいつが手加減なんて、できるわけないよな……。綴も、下手にあいつに通用する手札を持っているし」
教え子と最強の術師がぶつかり合う明日の光景を想像し、家入は心配そうに呟く。
「五条だけじゃなく、私も夜蛾センもお前に期待してるんだ。……こんなところで、潰れてくれるなよ」
冷めかけたお茶を見つめながら、教え子の無事を祈るように呟いた後、家入はふと、視線を誰もいない虚空へと向けた。
「……夏油が残っていれば、あいつもあんなに焦らずに済んだのかな」
脳裏に浮かぶのは、かつて三人で並んで歩いていた青い春の記憶。
口から出たのは、やり場のない静かな怒りと、ほんの僅かな寂しさだった。
「……今どこで何やってるんだよ。クズはクズを止めるのが仕事だろ」
煙草の匂いがしない空間に、彼女の呆れたような、けれどどこか祈るような響きを持った呟きだけが溶けていった。