万象、紙に綴れば   作:Mebius217

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第20話:密室の誓いと、開戦の合図

 

 

 

朝の柔らかな光が差し込む高専の食堂には、焼き魚と出汁のホッとする香りが漂っていた。

 

 

「ん、……ゴクン。――そういえば、硝子先生とこうやって朝食をご一緒するのも久しぶりですね」

 

 

眞白は温かい味噌汁を飲み込むと、向かいの席に座る家入に向けてふと口を開いた。先日の授業と乱闘から数日が経ち、高専にはすっかりいつもの穏やかな空気が戻ってきている。

 

 

「あぁ、そうか。こうして朝食を取るのも、あの反転術式の授業以来か」

 

 

家入は箸の先で小突いていた卵焼きから視線を上げ、眞白の方へと目を向けた。その目の下には、少しだけ疲労の色が見え隠れしている。

 

 

「はぁ……全く持って最近は忙しすぎる」

 

 

家入は深いため息を一つ吐き出した。

 

 

「夏が本格的になると、更に呪いが普段より増えて怪我人も増える。所謂、繁忙期ってやつだ。――今年は例年より何故か長い」

 

 

繁忙期の億劫さと、日々の仕事の疲れがまだ抜けきっていないのか、家入は気怠そうに肩を落とす。

 

 

「へぇ、繁忙期……。確かに最近は土砂降りの雨が続いて、気分も下がってしまいますからね」

 

 

世間の人々の鬱屈とした感情が呪いを生む。眞白はその理屈に納得したようにこくりと頷き、再び味噌汁を啜った。

 

 

「そういや眞白は、私の授業の日から反転術式の進展はあったのか?」

 

 

ふと気になったのか、家入が思い出したように問いかけた。

 

 

「あ、えっと――」

 

 

その質問に、眞白はピタリと動きを止めた。途端に居心地が悪そうに視線を泳がせ、明後日の方向を見つめて沈黙する。

 

 

「フフッ……そうか」

 

 

その分かりやすすぎる反応が面白かったのと、現在の進捗状況を正確に察した家入は、口元に小さな笑みを浮かべた。

 

 

「うぅ……」

 

 

図星を突かれた眞白は、へこんだ様な情けない声を出してしゅんと俯いてしまう。

 

 

「まぁ、そんなに急がなくても、ゆっくりやっていけば良いさ」

 

 

家入は、落ち込む眞白に対して優しい声色で慰めを投げかけた。

 

 

「お前は呪術師になってまだまだ一年――それどころか半年も経ってないんだからな」

「……ありがとうございます」

 

 

家入の温かい慰めの言葉に、しょぼしょぼとしていた眞白は少しだけ気を取り直して顔を上げた。

 

 

「あッ!――でも聞いてください!私の中途半端な反転術式ですけど、別の方向で進展があったんですよ!」

 

 

眞白は何かを思い出したように急に声を上げ、良い報告ができることが嬉しいのか、パァッと表情を明るくした。どうしても家入に聞いてほしいらしく、身を少し前に乗り出して熱弁を振るい始める。

 

 

「あの日、あの後、五条先生と組み手をして分かったんですッ!」

 

 

眞白は興奮気味に両手で小さな握り拳を作る。

 

 

「条件こそ厳しめで中途半端な出力ですが……頭がスッキリするおかげで、思考速度が前と比べて速くなったんですッ!しかも、その影響で呪力操作の精度も少し良くなったんですよ!」

 

 

自身の成長を家入に褒めてもらいたい一心で、眞白は嬉しそうに語り続ける。

 

 

「あと少しで、油断してる五条先生の顔を殴れそうだったんですからッ!」

「へぇ、そりゃすごい」

 

 

家入は眞白の興奮した様子を微笑ましく思いながら聞いていたが、ふとある疑問に行き当たり、会話を止めて質問した。

 

 

「――けど、そんなに呪力操作の精度を上げて、実際意味あるのか?別に眞白の術式は、五条の術式と違ってそんなに呪力消費は激しくないんだろ?」

「うッ、それは――そうなんですが」

 

 

家入の的確すぎる指摘に、眞白はギクッとして言葉を詰まらせた。

 

 

(確かに……)

 

 

実際、眞白が使う現状の『折紙呪法』は、紙を折り、そこに式神の機能を付与するだけの術式である。現実の物理法則にある程度沿った物質的なアプローチであるため、五条の無下限呪術のように「仮想の無限級数を現実に強制的に作り出し、維持するために世界のルールを上書きし続ける」といったデタラメな行使とは異なり、実現させるために必要なコストがそもそも格段に低いのだ。

 

 

「あッ!でもでも、呪力操作が上手いとこんなこともできる様になるんですよ!」

 

 

痛いところを突かれた眞白は、あからさまに話を逸らすように声を上げた。両手をテーブルの上に出し、そこに呪力を出力していく。淡い光を放つ呪力は、だんだんと明確な輪郭を持ち、ひとつの形を象っていった。

 

 

「ん?――おぉ、これは……雀か」

 

 

目の前に現れた、純粋な呪力だけで精巧に作成された一羽の雀。家入はその出来栄えに驚きを隠さず、まじまじと観察する。

 

 

「ふっふっふ……。さらに、こんなこともできます!」

 

 

眞白が得意げに合図を送ると、テーブルの上の雀がパタパタと羽ばたきだし、家入と眞白の周囲を本物の鳥のように飛び回り始めた。

 

 

「へぇ、よくできてる。――ふむ」

 

 

眞白の生み出した呪力の雀に一通り感動した家入は、見よう見まねで自身の呪力を手のひらに集め、自分にも同じことができるか試そうとし始めた。

 

 

「むッ……っぱ、私じゃ無理か」

 

 

初めこそ何か形を作ろうとしていた家入だったが、すぐに集中力が切れたのか、手のひらの呪力は一気に霧散してしまった。

 

 

「まず呪力を雀の形どころか、思い通りの形にできる時点で、お前の呪力操作技術は化け物だな」

 

 

家入は呆れたように息を吐くと、眞白の呪力でできた雀をもう一度感心した様に覗き込んだ。

 

 

 

「ば、化け物……褒め言葉として頂いておきます……」

 

他意がないことは分かっているものの、年頃の少女として「化け物」と言われたことに密かにショックを受けつつ、眞白はなんとかそれをポジティブに受け取ろうと苦笑いした。

 

 

「そうだっ!他にも、呪力操作の技量が上がるにつれて、前から練習してた結界術の応用が――ん?」

 

 

再び何かを思い出し、身体を前のめりにさせた眞白だったが、ふと廊下から近づいてくる足音に気づいて視線を移した。

ガラッ、と食堂の扉が開き、そこには見知らぬ巫女姿の女性が立っていた。

 

 

「あれ?――歌姫先輩じゃん」

 

 

扉の開いた音に反応して視線を向けた家入が、少し驚いた様な声を上げた。

 

 

「あ!いたいたッ!――久しぶりね硝子!」

 

 

入り口から家入の姿を見つけるなり、女性はパァッと顔を綻ばせ、嬉しそうに手を振りながら眞白たちのいるテーブルへと近づいてくる。

 

 

「お久しぶりです」

 

 

家入は箸を置き、軽く会釈を返した。

 

 

「……こっちに来たのは任務か何か――あぁ、そういえば今日でしたね」

 

 

家入はなんの用事があったのかを聞こうとした瞬間に、ふとカレンダーの予定でも思い出したのか、一人で納得した様に口を開いた。

 

 

「な〜に?……もしかして忘れてたの?」

 

 

女性は家入の向かい、眞白の隣の席あたりに立ち止まると、家入の顔を覗き込むようにして眉を下げた。

 

 

「もう……忙しいのは知っているけど、ちゃんと寝れてる?休めてる?」

 

 

家入のおっとりとした反応と、目の下の濃い隈を見て、体調が優れないのではないかと心配そうな声色で問いかける。

 

 

「もう繁忙期ですよ。逆に寝れてると思います?」

 

 

家入はどこか遠くを見て、完全に悟りを開いたような顔で聞き返した。

 

 

「しょ、硝子……こんな隈作っちゃってッ!」

 

 

その言葉に胸を痛めたのか、女性は家入の頭を心配そうに抱き寄せ、まるで壊れ物を扱う様に優しく、よしよしと撫で始めた。

 

 

(……この巫女さん?初めて見る方だけど、呪術師の方かな?)

 

 

一方、完全に二人の親しげな空間から外れてしまった眞白は、一人寂しそうにその光景を眺めていた。

 

 

(それに……硝子先生とすごく仲良さそう)

 

 

少しの疎外感と手持ち無沙汰を紛らわせるように、眞白のテーブルの下の指先が、無意識に微弱な呪力を捏ね始める。手遊びの延長で、淡い光を帯びた小さな『呪力の鳥』が一羽、また一羽と生み出されていった。

 

 

「そう言えば、寝るで思い出したんですが」

 

 

女性に頭を撫でられながら、家入はふと先月に開催した飲み会での出来事を思い出したように口を開いた。

 

 

「歌姫先輩はあの後、ちゃんと帰れたんですか?私は翌日の仕事が早かったので先に抜けましたけど」

 

(歌姫先輩……硝子先生の先輩ってことは、卒業生の方かな?)

 

 

眞白はこっそりと二人の会話に耳を傾ける。

 

 

「あの後?……あぁ、先月冥さんと3人で飲んだ時のことね。私、途中で酔っちゃって記憶あんまりないのよね〜」

 

 

学生の頃から付き合いのある3人――歌姫、家入、そして1級呪術師である冥冥での飲み会。歌姫と呼ばれた女性は、自身の失態を思い出したのか少し恥ずかしそうに笑う。

 

 

「覚えてないって、それ大丈夫なんです?」

 

 

家入が、少し呆れたような態度で声をかける。

 

 

「そんな心配しなくても、ちゃんとこっち来てから泊まってたホテルで目が覚めたから大丈夫よ」

 

 

歌姫は謎の自信に満ちた顔で、心配ないと言い張った。

 

 

「それに、いつのまにか私の口座から冥さん宛に出金されてたし……」

 

 

歌姫はスッとどこか遠くを見るような目になり、「私の少ない給料が……」と悲哀に満ちた声でぼやいた。

 

 

(……何それ怖い。本人確認は?)

 

 

会話の外でひっそりと聞いていた眞白は、その一般社会ではあり得ない呪術界の闇(物理的な口座からの引き出し)に心の中で震え上がった。

不安や恐怖といった負の感情が連動し、いつの間にかに眞白の手元で作られていた呪力の鳥が増殖している。数羽の鳥たちがパタパタと飛び立ち、眞白の肩や頭の上にちょこんと乗って留まり始めた。

 

 

「まぁ、それなら安心ですね」

 

 

家入は、ある種『冥冥』という守銭奴の人物に対して、金の絡むことなら絶対の信頼があるため、心底安心した様に呟いた。

 

 

(え?……何が?今のどのあたりが?)

 

 

家入と歌姫のズレた感覚を聞いて、眞白はさらに困惑し、怯えを加速させる。

ポンッ、ポンッ、と無意識下で更に呪力の鳥が生み出され、気がつけば眞白の頭の上は、淡く光る鳥たちがひしめき合う『鳥の巣』のような状態になっていた。

 

 

「それで――」

 

 

ふと、歌姫は家入から視線を外し、朝食の残りの塩おにぎりに一人寂しくかじりついている眞白へと顔を向けた。

 

 

「この子が噂の、綴眞白ちゃんね」

 

 

歌姫は優しく微笑みかけようとして――眞白の頭の上で大量の鳥がチュンチュンと遊んでいるのを見て、少しだけ表情を引き攣らせた。

 

 

(――って、何か愉快なことになってるわね)

 

 

どこか含みを持たせながら、愉快なビジュアルになっている眞白を観察する歌姫。

 

 

(――へぇ。あのバカが気にいるわけね。呪力操作が並じゃないわ。……というより、ちょっと不気味なレベルね。頭の上の鳥は術式かしら?)

 

 

歌姫は頭の中で、眞白が纏う呪力の恐ろしいまでの繊細さに感心するとともに、呪術を知ってからたった2ヶ月の素人の技量ではないことに、内心冷や汗を流して驚愕していた。

 

 

(なんか、すごく変な目で見られてるような……)

 

 

頭の上に鳥を乗せたまま、自身をじっと観察してくる歌姫に対し、眞白は居心地が悪そうに人見知りを発動させ、スッと目を逸らした。

 

 

「は、初めまして……1年の綴眞白と言います……」

 

 

この奇妙な空気感に観念したのか、眞白は緊張で少し肩を強張らせながら簡単な自己紹介をした。

 

 

「あら、初めまして」

 

 

緊張して固まっている眞白に微笑ましいものを感じたのか、歌姫は可愛い小動物でも見るように優しく挨拶を返した。

そして、椅子に座っている眞白に近づくと、スッと腰を折って目線を合わせ、ホッとしたように口を開いた。

 

 

「あのバカが担任だって聞いて一体どんな子かと思ったら、あのバカと違ってちゃんと礼儀正しい良い子じゃない」

 

「あ、あのバカ……?」

 

「五条のことよ」

 

「あぁ……」

 

 

眞白は深く納得し、頭の上の鳥たちも同意するようにコクコクと首を縦に振った。

 

 

「ねぇ、綴ちゃん?貴方、一般家庭の出身なんでしょ?」

 

 

歌姫は少し顔を近づけ、呪術界という文字通り狂った世界に踏み込み、よりにもよってあの頭のおかしい教師の唯一の生徒になってしまった一人の少女を、大人として心底心配するように尋ねた。

 

 

「高専に来て、辛いこととか痛いこととかされてない?それこそ、あのバカに虐められたりとかしてない?」

 

「え?い、いえ」

 

 

眞白は目を瞬かせた。

 

 

「辛いことは――全く無いとは言い切れませんが、ここにきてから、楽しいことの方が圧倒的に多いです」

 

 

歌姫のストレートな優しさに少し戸惑いながらも、眞白は誤魔化すことなく、自身の素直な気持ちを口にした。

 

 

「最初こそ、ここにいる生徒は私1人だけって言われてすごく緊張しましたけど……五条先生は私にすごく期待してくれますし。夜蛾学長は厳しいですが、それ以上に私をいつも気にかけてくれたり、パンダさんはよく話し相手になってくれます」

 

 

眞白は、自身を囲む少し変わった、けれど温かい日常を思い浮かべる。

 

 

「そ、それに……」

 

 

眞白は少し照れくさそうに、向かいに座る家入の方をチラリと見た。

 

 

「硝子先生は忙しいので会える頻度こそ多くは無いですが、すごく優しいですし、面倒もよく見てくれて。……少し恥ずかしいですが、年の離れた姉のような感じで。今日みたいに一緒に朝食取ってるだけですごく落ち着くというか、安心するんです」

 

 

頬を薄く朱に染めながらも、眞白はまるで自身の得た『宝物』を語るように、心の底から嬉しそうな笑顔でそう締めくくった。

 

 

「…………」

 

 

家入は眞白の真っ直ぐすぎる告白に、何か眩しいものでも見るかのように目を細め、静かに頬杖をついて口元を緩めた。

 

 

「――グスッ」

 

 

不意に、横から鼻をすする音が聞こえた。

見れば、歌姫が両手で口元を覆い、ボロボロと大粒の涙をこぼしているではないか。

 

 

「良い子よ。間違いなく良い子よ……!」

 

「えっ、歌姫先輩?」

 

「こんな良い子を、あのバカの生徒にしとくのがもったいないわ!今からでもうちの子にできないかしら!」

 

 

歌姫は感動で目尻に溢れた涙を拭うと、ガバッと眞白を抱き寄せ、その頭をよしよしと情熱的に撫で回した。

 

 

「――うぇ!?」

 

 

突然のハグと頭皮へのダイレクトな愛情表現に、眞白は困惑して声を上げた。頭の上にいた呪力の鳥たちは驚いて弾け飛び、淡い光となって霧散していく。

それでも、歌姫の撫でる手があまりにも優しく温かかったため、眞白は抵抗することなく、されるがままに大人しく受け入れた。

 

 

「本当に大丈夫?辛いことがあったら、すぐ私に言うのよ。私があのバカにお灸をすえてやるからね」

 

 

呪術界では稀に見る『本物の純粋な良い子』に出会えた感動と、これから彼女が背負うであろう過酷な運命を思い、歌姫は過保護すぎるくらいに心配し、眞白を強く抱きしめ続ける。

 

 

「……辛いと言えば、寮生活なのでやっぱり……両親と会う機会がめっきり減ったことですかね。電話こそ毎日してますが、こればっかりはまだ慣れないです」

 

 

ここ最近、直接顔を見れていない両親の温かい笑顔を思い出しながら、眞白は少し寂しそうにポツリとこぼした。

 

 

「うんうん。そうよね。私も高専に入学した始めの頃は、よくホームシックになっていたわ」

 

 

歌姫は眞白の背中をポンポンと優しく叩きながら、大袈裟に深く頷いて同調し、さらに続きを促す。

 

 

「あとは……そうですね。やはり五条先生のイタズラが多くて。勿論面白いイタズラもあるんですが、時々生きた心地がしないことがあるくらいですね……」

 

 

少し困ったように苦笑いで話した瞬間――歌姫の放つ空気が、明確に一変した。

 

 

「――ッ!ぁんのっバカがッ!こんな良い子に酷いことするなんて!頭沸いてんじゃないの!?」

 

 

先ほどの眞白に対する慈しむような優しさとは打って変わって、歌姫は怒気を露わにして立ち上がり、バッと声を荒らげた。

 

 

「おぉ……」

 

 

急変した歌姫の剣幕に目をパチパチさせて驚きつつも、眞白は「初対面の私のためになのに、ここまで怒ってくれるなんて」と少し感動していた。

しかし同時に、唐突に眞白の頭に『ある天啓』が降りてきた。彼女は、伏せた顔の裏側でニヤッと悪戯な笑みを浮かべる。

 

 

(普段、飄々として軽薄なあのバカ……五条先生に、今こそ仕返ししてやる絶好のチャンス!)

 

 

眞白は内心で嬉々としつつも、さながら悲劇のヒロインを演じるように、指先で目元の涙を拭うような痛々しい仕草を作って語り始めた。

 

 

「――あッ!痛いことと言えば……。この前なんて、私『試験だ』って言い張られて、先生にボコボコにされたんですよ!」

 

「ボッ、ボコボコ!?――見損なったわ!あいつも一応教師になったって言うのに、生徒に――ましてや女の子に対してそんなバカみたいなことするなんて!?それで、大丈夫だったの!?硝子がいるからよっぽどがない限り大丈夫だとは思うけれど――」

 

 

眞白の言葉を聞き、歌姫の五条に対する怒りのボルテージは一気に跳ね上がった。しかし、それ以上に眞白への心配を忘れず、オロオロと身体の無事を確認しようとする。

 

 

「――聞いて下さいよ!五条先生ってば、私を校庭の端から端まで殴り飛ばしたり、空中から地面にクレーターができるほどの威力でお腹をパンチしてきたんですよ!!しかもあろうことか、あの『蒼』とか言う暴力の塊を私に向かって撃ってきて……危うく塵になるとこだったんですから!」

 

 

先日の試験で五条にされたエグすぎる仕打ちを、大袈裟に、だが『紛れもない事実』として歌姫に訴えかける眞白。

 

 

「な、なんてこと――しょ、硝子!この子を疑うわけではないけど、本当なの!?」

 

 

あまりにも無慈悲で信じられない内容に、歌姫は慌てて家入に確認を取る。

 

 

「え?……まぁ、嘘はついてないですね。私もいましたし、他にも夜蛾センとパンダも見てましたよ」

 

 

咄嗟にそう口に出すと、家入はチラリと眞白を見た。

 

 

(眞白も、随分と呪術師らしく……いや、五条達に似て逞しくなってきたな〜)

 

 

そんな場違いなことを考えながら、家入は眞白の悪戯に乗るようにニヤッと意地悪く口角を上げ、さらに口を開いた。

 

 

「――しかも、この子最後には穴という穴から血を吹き出してぶっ倒れたんですから。私がいなかったら死んでましたよ。確実に」

 

 

家入も面白くなってきたのか、大袈裟に、だが『紛れもない事実』をニヤニヤしながら歌姫に付け加えた。

 

 

「死ぬかと思いましたー」

 

 

眞白は明後日の方向を見ながら、あえて感情の籠もっていない棒読みで家入の言葉をフォローする。

 

 

「――プッ」

 

 

眞白の唐突な棒読みに思わず吹き出しそうになった家入だが、口を手で覆ってなんとか誤魔化す。

 

 

「そ、そんな……」

 

 

顔に手を当て、絶望したような表情で何やらぶつぶつと呟き始める歌姫。

しかし数秒後。

 

 

「――なーんて。貴方達……ちょっと私を揶揄いすぎよ?いくらあのバカでも、流石にそこまでしないわよ。全身から血なんて盛りすぎよッ……全く。――やっても、校舎を吹き飛ばすくらいでしょ!」

 

 

歌姫はフッと吹き出すように笑い始め、タネ明かしは済んだとばかりに手を振った。

 

 

(冗談ではないんですが……)

 

 

眞白と家入は、揃って全く同じことを考えた。しかし、これ以上は流石に可哀想でイタズラがすぎるかと二人は顔を見合わせ、フッと小さく笑い合うに留めた。

 

 

「まぁ何はともあれ、高専での生活が問題ないようで安心したわ」

 

 

歌姫は本心から安心したような、ホッとした表情と仕草で眞白を見た。

 

 

「――女の子には色々厳しい世界だから、何か困ったらすぐ私に言ってね。勿論、硝子でも。最悪、あのバカでも良いわ」

 

 

彼女にとって大切なことなのか少し声を低くして真剣に伝えた後、歌姫はすぐに先ほどのような優しい声色に戻した。

 

 

「色々気にかけて下さってありがとうございます。その時は、硝子先生と一緒に頼りにさせていただきます。……ええと、歌姫さん?」

 

 

眞白は本心からの感謝を伝えると同時に、未だに直接名前を聞いていなかった彼女の名前を、先ほどの家入との会話から導き出して呼んだ。

 

 

「あら、私としたことが、自己紹介を忘れていたわ」

 

 

歌姫は軽く居住まいを正し、少し身だしなみを直して口を開く。

 

 

「私の名前は庵歌姫。硝子とは高専時代の先輩後輩の関係で、もう1人、冥さんっていう先輩とでよく飲みに行ったりしているわ。高専を卒業してからは一時期フリーの呪術師をしていたけれど、今は京都校の教師をしているわ。よろしくね」

 

 

歌姫は丁寧に、自身の経歴を含めた自己紹介をした。

 

 

「庵歌姫さん……すごく綺麗なお名前ですね。こちらこそよろしくお願いします。庵先生」

 

 

眞白は少し畏まった様に姿勢を正し、お辞儀をした。

 

 

「ありがと。それと、硝子と同じで『歌姫先生』でいいわよ。眞白ちゃん」

 

 

歌姫は笑顔ではにかみながら、親しみを込めて眞白のことを呼び捨てで呼んだ。

 

 

「――では、歌姫先生!」

 

 

眞白は嬉しそうに、その新しい名前を呼んだ。

 

 

「うんうん。本当に良い子ね〜。うちの生徒も見習ってほしいくらいよ」

 

 

歌姫は、目の前の素直な眞白と、一癖も二癖もある自身の受け持つ生徒たちを比較して、ふうと項垂れた。

 

 

「うちの生徒――そう言えば、さっき『京都校の教師』って仰られていましたが……呪術高専って東京以外にもあったんですね」

 

 

歌姫の自己紹介の中の単語を反芻し、眞白はふと疑問に思ったことを素直に口に出した。

 

 

「……えっ?」

 

「……え?」

 

 

歌姫と家入の、心底驚いたような素っ頓狂な声が見事に被った。

 

 

「――ちょっと待って、うん?……え?どう言うこと?――しょ、硝子?」

 

 

眞白の言葉の意味が理解できず、歌姫は激しく動揺しながら隣の家入に助けを求めるように声をかけた。

 

 

「っえ?……いや、私に聞かれても――てっきり知ってるものだと……」

 

 

家入も歌姫と同様に、目を丸くして動揺している。

 

 

「京都校があるなら、私がわざわざ1人で寂しく高専生活を送る必要ってなかったのでは?……いや、それだと硝子先生や夜蛾学長、パンダさんとも知り合えてなかった可能性が高いですし……知り合えたとしても、こんな私じゃ仲良くなれたかはわからないような……」

 

 

混乱している歌姫と家入を完全に蚊帳の外に置き、眞白は今更どうでもいいタラレバの仮定について、ブツブツと一人で自己完結し始めていた。

 

 

「……?……あれ?お二人ともどうしたんですか?そんなに挙動不審になって」

 

 

思考の海から戻ってきた眞白は、ようやく様子のおかしい家入と歌姫の姿が目に入り、首を傾げた。

 

 

「じょ、冗談よね。さ、さっきの続きかしら?あ、あはは……もう、あんまり揶揄わないでよね」

 

 

歌姫は冷や汗をダラダラと流し、変な引き攣った笑い方をしながら眞白に聞き返す。

 

 

「いえ、今回……というか前回も一応冗談ではありませんが……」

 

 

なぜこの二人がそんなに慌てているのか全く分からず、眞白は少し心配そうに答える。

 

 

「ん?……前回?――いえ!そんなことは今はどうでもいいの!」

 

 

眞白の放った『前回も』という不穏な言葉に引っかかった歌姫だったが、頭をブルブルと振ってすぐに思考を強制的に本題に戻した。

 

 

「ほ、本当に京都校を知らないの!?……ってことは、もしかして今日の……『交流会』のことも――」

 

 

歌姫が眞白の両肩をガシッと掴み、顔を近づけて詰め寄った、まさにその瞬間だった。バタンッ!食堂の扉が勢いよく開き、その音が室内に大きく響き渡った。

 

 

「――ハロー!グッモーッッ――――ニングッ!!!」

 

ジャァァァァン!!バンバンバーーン!!!!

 

 

開け放たれた扉の向こうから現れたのは、なぜか両手に金色に輝く本格的なシンバルを持ち、それを爆音で打ち鳴らしながら可笑しなテンションで挨拶をキメる五条悟だった。

 

 

「……?……朝からうるさいですね。おはようございます」

 

 

突如として現れた騒音の権化に、眞白は思わず両手で耳を押さえた。顔を顰めながらも、一応は教師である彼に対して文句と挨拶をセットにして口にする。そして、どこか様子のおかしい五条に、眞白は微かな違和感を覚えた。

 

 

「いやー、探したよ。そう言えばこの時間は朝食だったね」

 

 

五条はシンバルを脇に抱え、満足げにウンウンと頷きながらテーブルへと歩み寄ってくる。

 

 

「早起きはいいことだよ!……僕の寝起きドッキリの準備は無駄になったけど……」

 

 

一人で勝手に納得して笑っていたかと思うと、五条は急にボソボソと呟き、あからさまに肩を落として凹み始めた。

 

 

「寝起きドッキリ?」

 

 

眞白のピコーンと立ったアンテナが、その不穏な単語を拾い上げる。

 

 

「……まさか、私が寝てる間にそのシンバル持って私の部屋に不法侵入して、叩き起こそうとか――思っていませんよね?」

 

 

額にピキリと青筋を浮かばせながら、眞白はニコリと完璧な笑顔を作って五条を問いただした。

 

 

「あー……まさか!これはアレだよ!ほら、パズーもやってるアレ!新しい朝が来た的な?」

 

 

教え子から放たれる明確な殺気を感じ取ったのか、五条は慌てて両手を振り、全く筋の通っていない訳のわからない言い訳を口走る。

 

 

「……パズーはトランペットですが」

 

 

眞白は冷ややかな目で、五条の無茶苦茶な物言いを冷静に訂正した。

 

 

「それは……ほら、誤差だよ誤差!――五条悟バージョンッ!ハトと呪術師!いや、名前の相性的にカラスと呪術師?」

 

 

五条は眞白のツッコミを軽々といなし、一人で勝手に話を広げていく。

 

 

「それおもっきし冥さんじゃん!お金払ったらやってくれるかな?」

 

 

誰に同意を求めるわけでもなく、五条はシンバルを軽く鳴らしながら一人で楽しそうに盛り上がり始めた。

 

 

(((何言ってんだこいつ)))

 

 

眞白、家入、そして歌姫。その場にいた三人の心は、言葉を交わさずとも一つに結束していた。口にこそ出さないが、心底呆れ果てながら全く同じことを考えている。

 

 

(……なるほど、疲れてるのか。さっき硝子先生が言ってた『繁忙期』ってやつかな)

 

 

眞白は、いつも以上にテンションが高く、言動が支離滅裂な五条をじっと観察し、ある結論に至った。

 

 

(徹夜明けのテンションというか、いつもより騒がしいのは深夜テンション的なアレだな、うん)

 

「――って……おい五条ッ!アンタ、この子に今日の『交流会』のこと何も言ってないの!?」

 

 

五条の奇行のせいで危うく忘れるところだったが、歌姫は先ほどの眞白とのやり取りを思い出し、再び怒りを露わにして五条に詰め寄った。

 

 

「あれ、歌姫じゃん。……急に何キレてんの?更年期?」

 

 

突然自分に怒りの矛先を向けられた五条は、心底不思議そうな顔をして首を傾げると、息を吐くように無意識のノンデリ発言をかました。

 

ピキィィィン、と。食堂の空気が凍りついた音がした。

 

 

「……コロス」

 

 

歌姫の表情が一瞬にして地獄の鬼の形相へと変わり、その手にはどす黒い呪力が立ち上り始める。

 

 

「っと、そんなことはどうでもよくて――硝子!眞白借りてくね〜!」

 

 

殺気を放つ歌姫を完全にスルーし、五条は家入に向かって言いたいことだけを一方的に告げた。

 

 

「昼にはちゃんと指定の場所に連れて行くから!夜蛾センにも言っといてね!――じゃ!」

 

 

言葉を言い終えるが早いか、五条は眞白の細い腕を強引にガシッと掴んだ。

そして、そのまま食堂の出口に向かって猛ダッシュを開始する。

 

 

「え、急になんですかァァァァァアアアアアア!?!?!?」

 

 

五条の呪力強化によるジェットコースターさながらの急加速に巻き込まれ、眞白の身体は宙に浮いた。

 

 

「あばばばばばばっ」

 

 

と頭をガクンガクンと前後に激しく揺らし、悲鳴と絶叫を上げながら、眞白は五条と共に一瞬で食堂から引きずり出されて姿を消した。

 

 

「クォラァァァァァァアアアアアアア!――待ぁて五条ォォオ!!!」

 

 

残された歌姫は、頭に血を上らせ、怒りを凄まじい声量に変えて吠えた。そして、巫女服の裾を翻し、五条の後を追って嵐のように食堂から飛び出していった。バタンッ!と再び勢いよく扉が閉まり、食堂には急に静寂が訪れる。

 

 

「……はぁ、朝から騒がしいな……全く」

 

 

台風が三つ同時に通り過ぎたような空間の中、ただ一人残された家入は、いつもと変わらぬマイペースな手つきで椀を持ち上げ、一人静かに温かい味噌汁をすするのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

食堂で眞白、歌姫、そして嵐のように現れた五条と別れた家入は、白衣のポケットに両手を突っ込み、のんびりとした足取りで歩いていた。

向かった先は、高専の敷地内に広がる深い森の入り口近くにある、石畳の広場である。初夏を思わせる日差しが木々の隙間から降り注ぎ、風が青葉を揺らす静かな空間だった。

 

 

「――む?……硝子か」

 

 

腕を組み、生徒たちの到着を待っていた夜蛾が、石畳を歩いてくる家入の姿に気づき、低く落ち着いた声をかけた。

 

 

「……お、いたいた。おはようございます、夜蛾――学長」

 

 

いつもの癖で「夜蛾セン」と呼びかけそうになった家入だったが、夜蛾の背後の影に、見知った――しかし東京校には似つかわしくない、しわがれた老人の姿を見つけ、咄嗟に言葉の語尾を直した。

京都校学長、楽巌寺嘉伸である。

 

 

「お久しぶりです、楽巌寺学長」

 

 

家入は一度立ち止まると、気怠げな雰囲気を少しだけ引き締め、丁寧に頭を下げて挨拶をした。

 

 

「……ふむ、家入女医か。久しいな」

 

 

楽巌寺は家入に気づくと、閉じていた目を開き、静かに視線を向けた。

 

 

「今日明日は交流会。学生同士の競い合いとはいえ、怪我人が出る懸念もある。忙しいところ悪いが、今日も頼りにしているぞ」

 

「えぇ、もちろん。それが私の仕事ですから」

 

 

家入は淡々と肯定しつつ、ふっと息を吐いた。

 

 

「――ですが、できれば怪我をしないでくれるのが、こちらとしては助かるんですけどね」

 

 

学生たちの無事を祈る良き医師としての言葉――に聞こえるが、その本音の大部分は「治療の手間が面倒くさいから」である。家入はそれを微塵も悟られないよう、至って真面目な顔で言い切った。

 

 

「それは、東京校の生徒によるだろうな」

 

 

楽巌寺は顎から長く伸びた白い髭をゆっくりと撫でながら、興味深そうに夜蛾と家入を交互に見た。

 

 

「五条が直々にスカウトしたとかいう一年の小娘が、うちの生徒五人相手にどこまでできるか……」

 

 

楽巌寺の言葉には、特級呪術師が見出した才能への警戒と、純粋な疑問が混じっていた。

 

 

「――しかし、呪術師は万年人手不足だとは言うが、儂とて一般家庭の少女にまでそこまで無理をして欲しいとは思っておらん。出来れば、穏便に運びたいものだ」

 

 

呪術界の保守派筆頭である楽巌寺だが、今は厳しい教育者というよりも、ただの好々爺のような態度で、未知の世界に引き込まれた少女・眞白の身を案じるように語った。

 

 

「……眞白、あの子なら大丈夫でしょう」

 

 

家入は特に心配する素振りも見せず、事もなげに言った。

 

 

「そうでなければ、夜蛾セ――学長も許可しませんよ」

 

 

言い直しながら夜蛾をチラッと横目で見ると、夜蛾もまた、腕を組んだまま無言でコクリと顎を引いた。

 

 

「ふむ、それもそうだな。では、儂は期待して見定めるとしよう。新たな仲間を――な」

 

 

家入の言葉にわずかな不安を払ったのか、楽巌寺は少し楽しそうに、されど一人の呪術師の先輩として、真剣な眼差しで期待を込めた。その穏やかな空気を引き継ぐように、夜蛾が家入に向き直る。

 

 

「――それで、硝子はどうしてここへ?お前は忙しいだろうと、特に集合はかけていないはずだが」

 

 

不思議そうに尋ねる夜蛾に対し、家入は肩をすくめた。

 

 

「いえ、今日はそんなに忙しいわけではないので、余裕があれば交流会を観戦しようと思いましてね。それと――あのバカから、伝言を預かってまして……」

 

 

家入の口から『あのバカ』という単語が出た瞬間、広場の空気がピリッと強張った。

 

 

「伝言?……このタイミングで――悟からだと?」

 

 

すでに何か最悪の事態を悟ったのか、夜蛾はこめかみに青筋を浮かべ、大きな手で頭を抱え込んだ。

 

 

「はぁ、全くあの小僧は……嫌な予感しかせん」

 

 

楽巌寺も同様に、深く目を閉じて項垂れる。

 

 

「『眞白を借りていく』とのことです」

 

 

家入は、先ほどの食堂での嵐のような出来事を思い出しながら、面倒くさそうに呆れ声で伝えた。

 

 

「開始時間には指定の位置に直接連れていくと言っていたので、まずここ(集合場所)に来ることはないかと……」

 

 

その報告を聞いた夜蛾の顔が、怒りで真っ赤に染まった。

 

 

「ガッッデムッ!!あの馬鹿が!!どうしていつもいつも、予定調和が守れないッ!!」

 

 

森の静寂を切り裂くような夜蛾の怒号が響き渡る。

 

 

「……相変わらずの傍若無人じゃな。歴史ある交流会を一体なんだと――」

 

 

楽巌寺は怒りを通り越し、完全に呆れ果てていた。

 

 

「夜蛾、いくら五条家当主とはいえお前の教え子だろう。家入女医も同期なのだから、もう少し手綱を握れないのか?」

 

 

楽巌寺の尤もな問いかけに、夜蛾はズレたサングラスを中指で押し上げながら、怒りを必死に腹の底へ抑え込んだ。

 

 

「……はぁ、手綱が握れるもんなら、とうの昔、高専時代に握っています」

 

 

夜蛾の言葉に、隣に立つ家入も「全くもってその通りだ」と深く共感するように首を縦に振った。

 

 

「せめて、時間くらい守って欲しいものだが――」

 

 

楽巌寺はせめてもの願いを口にしたが、それが絶対に叶わない願いであると理解しているのか、遠く青い空を見上げて静かに口を閉じた。すると、森の奥から何やら数人の足音と、若者らしい賑やかな話し声が近づいてくるのが聞こえた。夜蛾たちはそちらへ顔を向ける。

 

 

「……あれは京都校の生徒たちか。あの子たちには申し訳ないが、綴との対面は試合中になるな」

 

 

こちらへ向かってくる京都校の生徒たちの姿を確認し、夜蛾は申し訳なさを滲ませながら視線を移した。

しかし、その集団を眺めていた夜蛾は、ある異変に気づく。

 

 

「――む、歌姫の姿が見えませんが、何か聞いていますか?」

 

 

京都校の生徒たちを引率しているはずの庵歌姫がいないことに気づき、夜蛾は楽巌寺に疑問を投げた。

 

 

「あの子は確か――家入女医に会いにいくと言っておった気がするが……」

 

 

楽巌寺は思い出すような仕草をして、家入へ顔を向ける。その視線を受けた家入は、少し気まずそうに、どこか遠くの虚空を見つめながら答えた。

 

 

「あ〜、歌姫先輩は――五条にキレて、後を追いかけて行ったきり見てないですねぇ」

 

「「…………はぁ」」

 

 

夜蛾と楽巌寺の二人は、今日一番の深いため息を見事に同調させて吐き出した。

重苦しい空気が漂う中、家入はただ誤魔化すように、「あはは……」と乾いた笑いをこぼすしかなかった。ちょうどそこへ、石畳の小道を抜けてきた京都校の生徒五人が、夜蛾たちの前へと揃って歩み寄ってきた。

 

 

「おはようございます。先生方、今日はどうぞよろしくお願いします」

 

 

集団の先頭を歩いていた京都校の三年生らしき女子生徒が、三人の教師陣に向けて立ち止まり、綺麗に背筋を伸ばして礼儀正しい角度で深々とお辞儀をした。

 

 

「あぁ、よろしく頼む。君は確か……京都校の今年で三年の子だったな」

 

 

夜蛾は真っ直ぐな女子生徒に挨拶を返し、記憶の隅にある顔と照らし合わせて静かに話しかけた。

 

 

「はい。任務や、京都校でのお仕事の際に何度か挨拶をさせて頂きました」

 

 

女子生徒は微塵も姿勢を乱さず、ハキハキとした声でしっかりと受け答えをする。

 

 

「ふむ。礼儀正しく受け答えもしっかりできて、何より時間に遅れない。……君のような生徒を持つ歌姫が、羨ましい限りだ」

 

 

夜蛾は、自由奔放すぎる特級呪術師の顔を脳裏にチラつかせながら、本心から羨ましそうに目の前の優秀な生徒を褒め称えた。

 

 

「あ、ありがとうございます……光栄です」

 

 

あまりにも真っ直ぐな称賛に女子生徒は少しだけ狼狽えたが、すぐに周囲を見回して不思議そうに尋ねた。

 

 

「それで――歌姫先生は、こちらにいらっしゃらないのでしょうか?」

 

 

女子生徒がそう尋ねた、まさにその時。

タタタタタッ!と、森の奥から石畳を猛ダッシュで駆けてくる足音が聞こえた。足音の主――巫女装束を乱した歌姫が、こちらへ向かって全速力で走ってくるのが見える。

 

 

「む、噂をすれば――というやつだな」

 

 

夜蛾は女子生徒に声をかけながら、必死の形相で迫ってくる歌姫を視界に収めた。

 

 

「――すッ……すみませーんッ!遅れましたぁあ!!」

 

 

歌姫は青ざめた顔で、ぜえぜえと肩で息をしながら、夜蛾たちの元へなんとか辿り着いた。

 

 

「……大体の事情は聞いている」

 

 

夜蛾は厳しい顔つきで、新米教師である歌姫を見下ろした。

 

 

「――が、お前にも全く非がないというわけではない。公私の区別はつけなさい。次回以降は気をつけるように」

 

 

上の立場として、そしてかつての恩師として、夜蛾は毅然とした態度で叱咤した。

 

 

「それで、その様子だと捕まえられなかったみたいですね。あのバカ(五条)は」

 

 

膝に手をついて呼吸を整えている歌姫に近づき、家入が呆れ混じりに聞いた。

 

 

「――えぇ。あのバカったら、眞白ちゃんを引きずりながら速度上げて走るもんだから、眞白ちゃんが空中で『鯉のぼり』みたいになっちゃって……」

 

 

歌姫は額の汗を拭い、忌々しそうに振り返る。

 

 

「それをバカにしたバカに怒ったのか、途中から眞白ちゃんが無理やり五条の手を振り解いて、今度は二人で追いかけっ子を始めたんだけど――ハァ」

 

 

肩で大きく息をしながら、歌姫はふうと一息ついた。

 

 

「あの子……足――早いのね……」

 

 

目を細めて青空を見上げながら、歌姫は心底悔しそうにぼやいた。

 

 

「追いつけなかったんですね……」

 

 

家入は可哀想な先輩に心から同情し、その肩にそっと手を置いた。

 

 

「眞白ちゃんが想像以上に足が早くて、それに合わせて五条も速度を上げて。さらに二人してパルクールみたいな動きで屋根にまで登り始めたせいで、私……完全に置いてけぼりになっちゃったのよね……」

 

 

自身の運動不足を痛感したのか、歌姫はガックリと肩を落としながら情けない顛末を語った。

 

 

「……屋根?二人揃って何やってんだ」

 

 

朝っぱらから元気に屋根を飛び回る特級呪術師と一年の少女を想像し、家入は深く呆れ果てた。

 

 

「それにしてもあの二人、思っていたより随分仲良いのね。少し安心したわ」

 

 

歌姫はふと思いついたように語り、少し安心した様に胸を撫で下ろした。

 

 

「あの二人が……ですか?……確かに、仲が悪いと言うことはないと思いますが――」

 

 

なんだかんだ言って、五条の無茶苦茶なイタズラに律儀に付き合ってあげる眞白の姿を思い出し、家入は首を傾げる。

 

 

「そう?だって、二人して笑ってたわよ?」

 

 

歌姫は、屋根の上を跳ねていた二人の残像を思い出す。

 

 

「五条はいつもの揶揄い混じりの笑みだとは思うけど……眞白ちゃんに至っては、満面の笑みでね」

 

 

本当に楽しそうに五条を追いかけていた眞白の姿を思い出し、歌姫は少し微笑ましく思いながらそう語った。

 

 

 

 ***

 

 

 

「時間だな」

 

 

夜蛾は自身の腕時計を確認すると、周囲に集まった京都校の生徒たちへと視線を回し、重々しく口を開いた。

 

 

「――では、ひと通り揃ったところで、今回の団体戦のルールを発表する」

 

「――はい。質問よろしいでしょうか?」

 

 

夜蛾が一拍置いたまさにその瞬間、先ほどの三年女子生徒が一歩前に出て、真っ直ぐに手を上げた。

 

 

「いいだろう」

 

 

夜蛾は一瞥すると、特に不満もなく質問を許可した。

 

 

「ありがとうございます。……では。先ほど『揃った』と仰られましたが……五条特級術師と、そちらの――東京校の生徒の方が見受けられません」

 

 

女子生徒は周囲をぐるりと見回し、本来ここにいるはずの「開催校の生徒」が一人もいないという異常事態を的確に指摘した。

 

 

「……その生徒と五条悟は、諸事情により席をはずしている」

 

 

夜蛾は、教師の立場としてその原因がひどく言い辛いのか、言葉を軽く濁しながらも端的に事実のみを答えた。

 

 

「――はぁ?五条悟来ねぇのかよ」

 

 

京都校の集団の中から、顔に火傷痕のある少し柄の悪い三年男子生徒が大袈裟に、それでいて不満そうに声を上げた。

 

 

「静かに。今私が質問しているところだ」

 

 

女子生徒は男子生徒をキッと鋭く睨みつけ、叱るようにピシャリと注意をした。

 

 

「……ッチ」

 

 

男子生徒は女子生徒を不満げに一瞥すると、気まずそうに視線を逸らして小さく舌打ちをした。

 

 

「失礼しました」

 

 

女子生徒は男子生徒の無礼な態度に対して夜蛾に短く謝罪すると、その『諸事情』がどうしても気になったのか、当たり障りのない態度で夜蛾に食い下がった。

 

 

「……もしよろしければ、その諸事情についてもお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 

「…………」

 

 

夜蛾は言い辛そうに少しだけ間を置いた後、先ほど家入から伝えられたありのままの状況を、諦めたように口にした。

 

 

「……東京校の生徒・綴眞白が、五条悟に拉致られて現在行方不明だ。開始時刻には戻るとの連絡があった。以上」

 

「……?…………???」

 

 

女子生徒は、まるでキツネにつままれたような顔をして固まった。

 

 

(担任が、自校の生徒を拉致して行方不明……?)

 

 

内容があまりにもカオスすぎて、優等生の彼女の脳髄では処理が追いつかない。しかし、すぐにキリッとした表情に戻すと、内容自体は全く理解できていないが、せめて返答だけは返さないと失礼に当たると感じ、なんとか言葉を捻り出した。

 

 

「……なるほど」

 

「……物分かりが良くて助かる」

 

 

そのぎこちない反応を見た夜蛾は、自身でも何を言っているかわからない理不尽な内容に対して、懸命に理解に努めようとしてくれる真面目な女生徒の心意気に、本心からの深い感謝の言葉を口にした。

 

 

「――特級術師と聞いてどんな奴かと思ってみれば、集合時間すら守れないガキかよ」

 

 

その時、柄の悪い三年男子生徒が、吐き捨てるように小声で口に出した。しかし、静かな森の広場では、その言葉は彼自身の想定以上に大きく響いてしまった。

夜蛾の鋭い視線が、サングラス越しに男子生徒を射抜く。

 

 

「おい。それはわからんでもないが口を慎め。学長達の前だぞ」

 

 

三年女子生徒が振り返り、「気持ちは痛いほど分かるが、今は我慢しろ」と暗に同意しながらも、代表としてピシャリと注意をした。

 

 

「ッチ……なんだよ。お前は納得できるのか?」

 

 

男子生徒はイライラと頭を掻きむしり、隠しきれない不満を曝け出した。

 

 

「去年の交流会は東京校の人数不足で中止。今回は実質、俺たち三年には最初で最後の機会だろ。それを、特級術師様の我儘な独断で不意にするってか?」

 

「それは――そうだが。さすがにその物言いは口が過ぎる」

 

 

女子生徒も全く同じことを少なからず考えていた。だからこそ強くは否定できなかったが、教師陣の目の前で吐くべき言葉ではないと、困ったように眉を寄せた。

 

 

「しかも聞くところによれば、その特級術師様は御三家?の当主だって言うじゃねぇか。全部その御三家とやらの特権で、実はやりたい放題の裸の王様なんじゃねぇのか?あぁ?」

 

 

ヒートアップしてきたのか、男子生徒の不満は止まらず、ありもしない戯言まで並べ立て始めた。

 

 

「それに――『現代最強』だなんだってのは、ただの噂の独り歩きで、本当にそんな大層な実力あんのか?……てか特級ってなんだよ、単独で国家転覆?漫画の読みすぎだろ」

 

 

自分は日々命懸けで真面目に呪霊を祓っているのに、特権階級の得体の知れない奴がふんぞり返っているのが気に入らない。そんな嫉妬と不満がないまぜになった感情を、男子生徒は地面に唾を吐くように吐き捨てた。

 

 

「――せ、先輩!ちょっと言い過ぎですよ!」

 

 

その後ろに控えていた二年の男子生徒が、慌てたように二人の間に割って入った。

 

 

「先輩は一般家庭の出身で知らないかもしれませんが、五条悟というのは、僕たちとは文字通り次元が違うお方だと……」

 

「あぁ?そういうお前は見たことあんのか?その特級術師様が戦うところをよぉ」

 

 

三年男子生徒は振り返り、二年男子と顔を合わせると、ドスを効かせて威圧する様に詰め寄った。

 

 

「そ、それは……」

 

 

図星を突かれ、二年男子は弱々しく口篭る。

 

 

「……ッチ、お前もどこぞの由緒ある分家だかなんだかしらねぇが、実際に見たこともねぇことを当然のように語るんじゃねぇよ」

 

 

三年男子生徒は鼻を鳴らすと、少しだけ声のトーンを落とした。

 

 

「それにいつも言ってるが、お前も実力はあるんだ。そんなナヨナヨせずに腹から声出せって言ってんだろッ!」

 

 

バシッ!と、三年男子生徒は一応褒めているつもりなのか、二年男子生徒の背中を勢いよく引っぱたいた。

 

 

「ぐへっ!?……そ、そんなこと言われても……」

 

 

実力を褒められたことに少し照れながらも、背中への強烈な衝撃に驚き、二年男子はむせながら口篭った。

 

 

「それに、今回の東京校の生徒は中坊上がったばっかだって言うじゃねーか。しかも一般家庭出身!――てことは、呪術を学んでまだ二ヶ月しか経ってねぇじゃねーか!」

 

 

まるで話にならないとでも言うように、三年男子生徒は大袈裟に両手を広げた。

 

 

「こちとら、そんな素人のおままごとに付き合ってる暇なんてねぇんだよ。その一年には悪いが、早いとこ決着つけて、その『現代最強』様の実力とやらを拝ませてもらいたいんだけどねぇ」

 

 

男子生徒は、ここにはいない五条を露骨に挑発するように、夜蛾たち教師陣へ向かって不敵に笑いかけた。

 

 

「――あなた、少し口が過ぎるわよ」

 

 

それまで黙って聞いていた歌姫が、見ていられないというように苛立ちを隠さずに口を挟んだ。

 

 

「うるせぇなぁ……俺と同じ『準一級』のくせに、偉そうに教師ぶってんじゃねーよ」

 

 

しかし、三年男子生徒は全く怯むことなく、歌姫に対しても粗暴な態度をとった。

 

 

「おいッ!なんて口を!」

 

 

それを聞いた三年女子生徒は、あまりの無礼な態度に堪忍袋の尾が切れたのか、大きな声を上げて男子生徒を睨みつけた。

 

 

「――静かにしろ」

 

 

その直後。森全体を震わせるような、深く重い声が響いた。

 

 

「お前に発言を許可した覚えはない。わかったなら、その口を閉じろ」

 

 

ここまで黙って見守っていた夜蛾が、一級呪術師としての圧倒的な威圧感を放ちながら、柄の悪い男子生徒に冷たく命令した。

肌を刺すような本物のプレッシャーに、男子生徒は息を呑む。

 

 

「……わーったよ、夜蛾一級術師様」

 

 

数秒の沈黙の後、男子生徒は鼻につくような忌々しい言い方で、なんとか強がって口を閉じた。

 

 

「……だが、お前の言い分もわからない訳ではない」

 

 

夜蛾は威圧感をスッと収めると、教育者としての静かな顔に戻った。

 

 

「お前らの代はタイミングが悪く、交流会の中止などで、あまり昇級の機会を与えられていないのは事実。それでも腐らずに己を磨き、なお準一級へと上り詰めたお前には、賞賛を送るレベルだ」

 

 

夜蛾は教師らしい真摯な態度で、男子生徒の努力を素直に褒め称えた。

 

 

「もし、この団体戦で好成績を収めることができたのなら。私の可能な範囲で、何かしらの便宜を図ろう」

 

 

あくまで淡々と、約束を交わすように夜蛾は言った。

 

 

「おッ!アンタ話がわかるじゃねーか!」

 

 

その言葉に、男子生徒の顔がパァッと明るくなる。

 

 

「それなら俺が望むのは当然ッ……」

 

 

男子生徒は思いがけないチャンスに胸を躍らせながら、声を大にして叫んだ。

 

 

「五条悟と戦わせろ!俺が望むのはそれだけだ!」

 

 

堂々と『現代最強』と言われる五条悟との模擬戦を望むと、声高々に宣言した。

 

 

「…………………いいだろう。後で本人に伝えておく」

 

(面倒なことを……)

 

 

夜蛾は心の中で深くため息をついた。少し呆れたようにサングラスを指で押し上げながらも、(上を知ることは良いことだ)と教育者としての視点も忘れずに頷いた。

 

 

「――よっしゃ!」

 

 

五条との対戦を取り付けた男子生徒は、興奮して力強くガッツポーズをした。

 

 

「なッ!?それは――よろしいのですか!?」

 

 

横で聞いていた三年女子生徒が、あまりの展開に驚いて夜蛾に聞き返す。

 

 

「最終的な判断は悟になるが、まぁ問題ないだろう」

 

 

夜蛾は静かに肯定した。

 

 

(面倒ごとを極端に嫌う悟だが……これも今回、時間を破った罰だ)

 

「で、では!もし私が、コイツより好成績を取れたら……!」

 

 

女子生徒も一歩前に進み出ると、恐る恐る、しかし少し興奮した様子で夜蛾に尋ねた。

 

 

「無論、誰に関わらず、好成績を収めた者には何かしらの便宜を図ろう」

 

 

夜蛾は女生徒の意欲的な姿に軽く微笑みながら、はっきりと肯定した。

 

 

「ありがとうございます!」

 

 

優等生の彼女も、この時ばかりは元気よく腰を折って感謝し、年相応にはしゃいだ声を出した。

 

 

「なんだよッ、お前もやんのか……」

 

 

隣の男子生徒は、強力なライバルの参戦に嫌がるそぶりを見せて顔を引き攣らせた。

 

 

「――っは、足をすくわれないようにするんだな!」

 

 

女子生徒は男子生徒に近寄ると、ビシッと指を突きつけて下から覗き込むように挑発した。

 

 

「お前ッ、一応今日は『団体戦』だからな!?」

 

 

味方であるはずの女子生徒からの宣戦布告に、男子生徒は驚いて後ずさる。あくまで団体戦だということを必死に強調した。

 

 

「……お二人とも、盛り上がるのはいいんですが。まだ肝心なルールが発表されていないの、忘れていませんか?」

 

 

白熱する三年生二人に対し、一歩引いた位置から二年男子生徒が恐る恐る、少し呆れ気味に指摘した。

 

 

「その通りだ」

 

 

夜蛾は二年の言葉に同調し、口を開く。

 

 

「それに、競うこと自体は問題ないが、あくまで同じ呪術師の『仲間』であることを忘れるな」

 

 

夜蛾は仲間であることを強く強調した。先ほどまでのギスギスとした雰囲気とは違う、学生相応の活気ある空気感に、夜蛾の口元に少しだけ微笑みが浮かぶ。

 

 

「では、早速ルール説明をする。一度しか言わないので、しっかりと聞くように」

 

 

周囲が静まり返ったところで、夜蛾は一度「ゴホン」と咳払いをして喉の調子を整えた。そして、よく通る声量で説明を始める。

 

 

「姉妹校交流会、一日目・団体戦!!!『チキチキ呪物争奪猛レース』!!!!」

 

 

無駄にテンションの高いタイトルコールが森に響く。

 

 

「制限時間は二時間。指定された区域内に隠された、複数の『仮想呪物』をより多く集めたチームの勝ちとなる!!」

 

 

夜蛾はルールを端的に伝えた後、鋭い視線で生徒たちを見回した。

 

 

「勿論、相手への妨害や相手の呪物を奪うことも可能な訳だが……交流会は、競い合いの中で仲間を知り、己を知るためのものだ。相手を殺したり、再起不能の怪我を負わせることのないように」

 

 

殺し合いではないという絶対のルールを念押しし、夜蛾は話を締めくくった。

 

 

「以上。開始時刻の正午まで、解散ッ!」

 

 

 

 ***

 

 

 

「良し……ここらでいいかな」

 

 

高専の敷地内にある建物の廊下を颯爽と駆け抜けていた五条は、軽く周囲を見渡すと、適当な空き部屋にヒラリと滑り込み、独り言をこぼした。

 

 

「――はい!眞白ちゃんストップ〜」

 

 

五条はパッと後ろを振り返り、自身の背後から猛烈な勢いで追いかけてきている眞白に向かって、パンッと手を叩いて声をかけた。

 

 

「ーーフンッ!」

 

 

しかし、眞白は五条の静止の声に対して完全に聞こえないふりをし、助走の勢いを乗せたまま五条の顔面に向けてストレートパンチを放った。

 

 

――が、当然のようにその拳は、五条の展開する『無下限呪術』の目に見えない壁に阻まれ、あと数センチのところでピタリと停止させられる。

 

 

「……あれ、僕ストップって言ったよね?」

 

 

教え子のあまりにも躊躇いのない殺意の乗った行動に、五条はわずかに冷や汗をかき、口角を引き攣らせながら聞いた。

 

 

「――ッチ……すみません。聞こえませんでした」

 

 

無下限に防がれた自身の拳を見て、眞白は忌々しそうに舌打ちをした。そして、あっけらかんとした態度で、さも何事もなかったかのように明後日の方を向き、口を尖らせて拗ねたように答える。

 

 

「あ、そう」

 

 

五条はシュンと悲しそうな顔を作る。

 

 

「……まっ、いいや!」

 

 

数秒後、五条は再びパンッと手を叩いて空気を変え、改めて眞白の視線を自分に向けさせて本題に入ろうとした。

 

 

「……で。わざわざこんな空き部屋に引きずり込んで、一体なんのようです?」

 

 

眞白は五条を心底訝しむ様に、ジト目で半目に見つめた。

 

 

「ま、まさかッ!――この密室に連れ込んだ可憐な教え子に、一生逆らえないような理不尽な『縛り』を強制的に結ばせて、永遠に先生の雑用とパシリをさせる気ですね!?私の便利な『折紙呪法』を完全に私物化して呪力が枯渇するまでこき使い、最後にはボロ雑巾のようにこの狂った呪術界の闇に葬り去ろうと……!?」

 

 

眞白のクリエイター気質特有の「ネガティブな想像力」が突如として爆発し、彼女は自分の肩を抱いてブルブルと震えながら、凄まじい早口で被害妄想を口走った。

 

 

「おっ、それひさびさに見た!」

 

 

五条は否定するどころか、嬉しそうにパンッと手を叩いて眞白を指差した。

 

 

「うっ……すみません。別のことに集中力を割いたせいで、また勝手に被害妄想が口に出ちゃいました……」

 

 

ハッと我に返った眞白は、自身の頬を両手でムニムニと揉みほぐしながら、シュンと項垂れた。

 

 

「それでも、入学した最初よりかはだいぶ減ったでしょ。それ」

 

 

五条はへこむ眞白に対して、気にするなと言う様に明るく話しかける。

 

 

「……そうですかね?確かに一ヶ月前あたりまではだいぶ落ち着いてたんですが、最近は『コレ』のせいで勝手に色々考えちゃうんですよね……」

 

 

眞白はウンウンと唸りながら、自身の頭を指差して考える仕草をした。無自覚な反転術式による脳の冷却と、それに伴う思考速度の異常な加速が、ネガティブな想像力にまで拍車をかけているようだ。

 

 

「被害妄想も、全く役立たないってわけじゃないから問題のうちには入らないでしょ。上出来、上出来」

 

 

五条はケラケラと笑いながら眞白を褒めた。事実、彼女の被害妄想は「最悪の事態を瞬時にシミュレーションする」という点において、呪術戦闘における不意の攻撃に対して非常に相性が良いのだ。

 

 

「まぁ、使いどきさえちゃんと見極めれば、これと言った問題はないですが……」

 

 

眞白は五条の言葉に渋々肯定しつつ、話を本筋に戻す。

 

 

「……それで。なぜ、こんなところに?」

 

 

改めて五条に問いかけ、小首を傾げる。

 

 

「よくぞ聞いてくれました!」

 

 

五条は嬉しそうに両手を広げ、大仰な仕草を作った。

 

 

「今日はなんと、年に一回のビッグイベント!『姉妹校交流会』が開催されますッ!!!」

 

 

五条は声を張り上げ、ファンファーレでも鳴り響きそうな勢いで発表した。

 

 

「姉妹校交流会?――ってもしかして先程、歌姫先生がおっしゃっていた『京都校』に関係するお話ですか?」

 

 

眞白は、先程の食堂での歌姫の言動を思い出し、五条に聞き返した。

 

 

「そうそれ!その京都校の二年三年と、東京校の二年三年が『交流会』と称して試合形式で競い合うのが姉妹校交流会」

 

 

五条は嬉しそうに、説明口調でスラスラと語る。

 

 

「へぇー……」

 

 

眞白は最初こそ興味ありげに聞いていたが、すぐにある事実に気づく。

 

 

「って、それ私関係なくないですか?私、一年ですし」

 

 

交流会の対象が「二、三年」だということを聞き、眞白はあくまで他人事のように淡々と答えた。

 

 

「いや?関係あるよ。例年、両校の二、三年の数が合わない時は、一年を『数合わせ』に使ったりするし」

 

 

五条は人差し指をピンと立てて、飄々とした態度で解説した。

 

 

「数合わせ……」

 

 

眞白は顎に手を当てて、何かを考えるように視線を落とす。

 

 

「――って、数合わせ以前に東京校、私一人しかいませんよ!?」

 

 

自身の孤独な学生生活を思い出し、眞白は慌てて顔を上げて五条にツッコミを入れた。先輩が一人もいないのだから、数合わせも何もない。

 

 

「そう!だから頑張ってね!」

 

 

眞白の真っ当な反応に全く意を介さず、五条は爽やかな笑顔で親指を立て(サムズアップ)、明るく応援した。

 

 

「――頑張ってね!?その口ぶり、私が出ること確定してるじゃないですか!?――しかも、たった一人でッ!!」

 

 

眞白は大慌てで「一人」という絶望的な事実を強調しながら、五条に猛然と問いただす。

 

 

「ちなみに相手は五人ね」

 

 

五条は、パニックに陥る大慌ての眞白に対して、さらに補足という名の特大の爆弾を投下した。

 

 

「〜〜〜ッ!!ぅぁぁああああああ!!!!!!」

 

 

一対五。その絶望的な構図を理解した瞬間、眞白の全身からチリチリと呪力が迸った。極限まで膨れ上がった理不尽な怒りをどうにか抑え込もうと、眞白は頭を抱えながら唸り声を上げた。

 

 

「アッハッハッ!!相変わらずいい反応するね〜!毎度見てて飽きないよ、ほんとッ!」

 

 

五条は眞白の素晴らしいリアクションを見て、心底楽しそうに腹を抱えて笑い出した。

 

 

「〜〜〜ッ!……………………」

 

 

荒ぶっていた眞白だったが、数秒後――急に「スン……」と真顔になり、無言でスゥッと五条を見つめた。

 

 

「……え?何、こわい」

 

 

急激すぎる眞白の温度差と違和感に気づき、本能的な恐怖を感じたのか、五条はピタリと笑いを止めて少しだけ距離をとった。

 

 

「――もうっ、そういうのは早めに言ってくださいって、いつも言ってるでしょう?全く、仕方のない人ですね」

 

 

先程の真顔から一転、眞白はニコニコと何かキラキラとしたオーラ(のような幻覚)を纏いながら、聖母のような慈愛に満ちた笑みで、まるで愚かな赤子をあやすように五条に語りかけた。

 

 

「は?何、こわ」

 

 

本心からの恐怖と困惑で口元を引き攣らせながら、五条はさらに一歩、タジタジと眞白から後ずさる。

 

 

「は?怖いってなんですか?怖いのは、こんな重要なことを当日に平然と言う五条先生の頭ですよ」

 

 

次の瞬間、眞白の柔らかく上がっていた口角がガクンと急降下し、絶対零度の軽蔑の目と共に氷のような悪態をついた。

 

 

「おぉ!いつもの眞白だ!」

 

 

その容赦のない悪態を聞き、いつものめんどくさい眞白に戻ったことに、五条はなぜかホッとして嬉しそうな声を上げた。

 

 

「はぁ、全くこの人は……」

 

 

呆れ果て、眞白はこめかみを押さえながら深いため息を吐く。

 

 

「で、今の何なの?」

 

 

五条はウキウキと、さながら未知の生態を観察する学者のように興味津々で眞白に聞いた。

 

 

「……何って、アンガーマネジメントですが」

 

 

眞白は目を細め、腕を組んでブスッとした顔で答えた。

 

 

「……アンガーマネジメント?」

 

 

先ほどの『聖母の微笑みからの絶対零度の悪態』という情緒不安定すぎる眞白の姿を思い出し、五条は自身の知っているアンガーマネジメントの概念と全く違う気がして、頭の上に大きなはてなマークを浮かべた。

 

 

「アンガーマネジメントとは、一九七〇年代のアメリカで提唱された、自身の怒りと上手く付き合うための心理的――」

 

 

眞白は急に真面目なトーンで、教科書通りの解説を始める。

 

 

「それぐらい知って――って、一九七〇?そんな前からあるの?ってそうじゃなくて!いくらなんでもさっきの様子はおかしいでしょ!?」

 

 

一瞬頭がバグってチグハグなことを口走ってしまった五条だが、すぐに冷静になり、的確に眞白の異常性へツッコミを入れた。

 

 

「……反転術式の練習の産物です」

 

 

未だに反転術式を満足に使えないことへの苛立ちもあるのか、眞白は少し言いづらそうにブスッと返した。どうやら、正のエネルギー(ポジティブな感情)を無理やり引き出そうとした結果の、強引な感情コントロールの成れの果てらしい。

 

 

「反転……?あぁ、なるほどね。『アレ』の副産物か……」

 

 

五条は眞白の脳の特異な構造を思い出し、納得した様子でひどく面白そうに彼女を観察した。

 

 

「そんなことはいいんです。早く、その交流会の詳細を教えてください」

 

 

眞白はジロッと急かすような鋭い視線を五条へ送る。

 

 

「はいはい。もぉー、せっかちさんなんだか……らッ!」

 

 

五条は眞白の額を人差し指でツンと小突き、わざともったいぶるような態度をとった。

 

 

「……………」

 

 

その人を小馬鹿にした態度に、眞白は額にピキピキと血管を浮かばせ、口角をピクピクと痙攣させながらも、無言で耐え続ける。

 

 

「――まぁ、ざっくり説明すると。さっき言った通り、東京校と京都校の生徒たちの試合形式の『交流イベント』」

 

 

五条は眞白の額を突いた指をそのまま上へ向け、ようやく説明を始めた。

 

 

「なるほど、親善試合のようなものですか……」

 

 

眞白は少し警戒を解き、納得したように頷く。

 

 

「――って言うのは建前で……生徒同士のガチンコバトル!!殺されないように気をつけてね!」

 

 

五条は突然、両手をぐわっと眞白に向けて驚かすように叫んだ。

 

 

「――コッ……殺!?」

 

 

急なホラー展開に、眞白はビクッと肩を震わせて驚く。

 

 

「って言うのも冗談で。好成績を収めた者は、滅多にない『昇級のチャンス』が与えられるかも。って感じかな」

 

 

眞白の怯えた反応を見て大満足したのか、五条はニコリと笑い、ようやく真面目なトーンで説明し直した。

 

 

「…………」

 

 

またもや振り回された眞白は、ブスッとした態度で五条を無言で見つめた。

 

 

「あれ?拗ねちゃった。ごめんごめん、冗談だよ」

 

 

五条は苦笑いし、拗ねた眞白を宥めるように頭をポンと叩いた。

 

 

「流石に、京都校の子の中に後輩を殺そうとしてくるほどイカれたやつはいないよ」

 

(……どちらかと言うと、今回気をつけるのはその逆(眞白がうっかり殺しかねない)なんだけどね)

 

 

五条は心の中でそっと呟いた。

 

 

「……で。昇級のチャンスというのは?」

 

 

比較的機嫌がなおった眞白が、五条の言葉の中から気になる単語を拾い上げて聞いた。

 

 

「いい質問ダネ!」

 

 

五条はなぜかテレビショッピングの司会者のような謎のテンションで指を鳴らす。

 

 

「じゃあ、呪術師の『昇級のシステム』から話そっか」

 

 

五条は近くの壁に寄せられていたパイプ椅子を二脚引き寄せると、一脚には自身が座り、もう一脚に眞白が座るように促した。

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

眞白は素直に感謝を述べ、椅子にちょこんと座る。

 

 

「まず、基本的に呪術師が昇級するには、上層部と自身より等級が上の術師の判断が必要になるんだ」

 

 

五条は長い足を組み、解説を始めた。

 

 

「準三級から二級は、直属の上司や管理者の術師の評価、そして最後に総監部への申請と認可が必要になる」

 

「眞白の場合、直属の上司や管理者ってのは、僕と夜蛾学長のことね」

 

「で、ここの評価ってのは、日々の任務の達成度合いや戦闘力のことを言うよ」

 

「日々の任務……」

 

 

高専に入学してからまだ二ヶ月。一度もまともな任務に就いたことがない眞白は、その言葉に少し不安そうに呟いた。

 

 

「そして、準一級と一級術師に昇格するには、さっきの直属の上司や管理者以外の『一級術師二名』の推薦が必要になる。要は、身内贔屓を防ぐための措置だね」

 

 

五条は指を二本立てて、さらに上の階級の話を続ける。

 

 

「その後に、準一級に上がる場合は推薦者以外の術師との同行任務。一級の場合は単独での一級相当の任務に就いてもらって、その結果次第で昇級する。って流れになる」

 

「まぁ、ざっと聞いてみてわかったと思うけど、ものすんごいめんどくさいんだよね〜」

 

 

五条は心底めんどくさそうな顔と声質を作り、大袈裟に肩をすくめた。

 

 

「特に、準一級以上に上がる時に必要になる、直属の上司以外の術師探しとかさ」

 

「……なるほど。それで、今回の『交流会』ですか」

 

 

眞白は五条の意図を察し、ポンと手を打った。

 

 

「そうッ!」

 

 

五条は嬉しそうに身を乗り出す。

 

 

「眞白相手だとテンポよく進むからいいよ。話してて気持ちいいし。好きだよ、僕」

 

 

教育者としての一面か、それともただの素か。五条は本心からの褒め言葉を真っ直ぐに投げかけた。

 

 

「…………」

 

 

突然のストレートな言葉に、眞白は少し恥ずかしがるように身を捩った。

 

 

「――で、話は戻って、僕が眞白を無理やり交流会に捩じ込んだ理由だけど――」

 

 

五条は一度言葉を区切るように間を開け、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 

 

「眞白にはこの交流会で、準一級、あるいは一級に上がってもらいたいんだよね」

 

「一級!?」

 

 

五条の言葉に、眞白は一瞬の間を開けてから素っ頓狂な声を上げた。

 

 

「――む、無理ですよ!しかも私って、確か今の等級は『三級』ですよね!?それに、そんな飛び級みたいな真似できるんですか!?」

 

 

学生における最高ランクへの急なジャンプアップに、眞白は目を白黒させる。

 

 

「そんなに驚かなくても大丈夫でしょ。僕が見る限り、眞白はすでに一級術師とタメ張れる実力はあるよ」

 

 

五条は、さも当然の事実であるかのように断言した。

 

 

「まぁ、呪霊祓除の経験がないから、心配するならそこかなぁ」

 

「……あと、飛び級に関しても。最近は見ないけど、一応制度としてはあるよ」

 

 

五条は昔を思い出すように、いつの間にか背もたれに体重を預け、リラックスした姿勢で楽しそうに語り始めた。

 

 

「まさしく僕がその例で、僕は高専入る前から一級だったし。あと、眞白と同じ一般家庭出身だった『傑』も、二年に上がる頃には一級になってたし。……硝子は後方支援だからあんまそういうのなかったか」

 

(……傑?)

 

 

眞白は、その聞き慣れない名前に少しだけ頭を巡らせた。

 

 

(前に聞いた夏油さんのことかな?)

 

「ってことだから、そんなに心配しなくてもいいよ!」

 

 

一通り話し終わった後、五条は眞白を安心させるようにポンと肩を叩いた。

 

 

「この交流会は、手っ取り早く眞白を昇級させるためってのと――僕の『お気に入りの生徒』のお披露目って意味合いくらいだしね」

 

 

五条は平然と、またしても眞白にとってひどく恥ずかしい言葉を口にした。

 

 

「……お、お気に入り!?」

 

 

最強の術師が、自身のことを明確に「お気に入り」と思っていた事実に、眞白の顔はボンッと音を立てて赤く染まった。

 

 

「ククッ……あの糞ジジイども、眞白を見たらどんな顔するかなぁ」

 

 

眞白の羞恥をよそに、五条の意識はすでに保守派上層部へと向かっていた。

 

 

「驚いて入れ歯飛び出たりしたら見ものだね!場合によってはショック死しちゃったり?いやー、直接見れないのが残念でならないよ」

 

 

常識を打ち破る自身の教え子が、呪術界の凝り固まった価値観を粉砕する光景。それを想像し、五条は一人で心底楽しそうに妄想にふけるのだった。

 

 

「……前から思ってたんですが。五条先生って、上層部の方々のこと、すごい嫌ってますよね」

 

 

ふと、眞白は五条の言葉の端々に滲む棘を感じ取り、思い切ってそう尋ねた。これまでの五条の言動や、上層部に対する辛辣な物言いを聞いていれば、その嫌悪感は隠しきれるものではない。

 

 

「……ん?当然でしょ。あの脳みそ腐ったミカンのやつら、どうやったら好きになれるかって話」

 

 

五条は声のトーンを落とし、心底呆れたように吐き捨てた。

 

 

「く、腐ったミカン……ですか?」

 

 

さすがに呪術界のトップ層に対する例えとしては酷すぎるのではないかと思い、眞白は少し戸惑いながら聞き返した。

 

 

「そう、腐ったミカン。言い得て妙でしょう?」

 

 

五条はくつくつと喉の奥で低く笑うと、目隠しを外し、疲れたように瞼の上から眼球を指で揉み解した。

 

 

――その瞬間だった。

 

 

ゾワッ、と。

密室の空気が、急激に重く、冷たく変質した。

日々の過酷な任務の疲労と、普段は決して他人に曝け出すことのない深淵の感情。それが抑えきれずに呪力となって漏れ出し、空間そのものを深海のように圧迫し始めたのだ。眞白は急に息苦しさを覚え、本能的な警鐘がガンガンと脳内で鳴り響く。

 

 

「眞白も呪術界の歴史は勉強したでしょ。その典型を更に煮詰めた連中だ」

 

 

五条の声から、いつもの軽薄さが完全に消え失せていた。

指の隙間から覗く蒼い瞳は、人間らしい感情が一切抜け落ちた無機質な光を宿している。

 

 

「保身馬鹿、世襲馬鹿に高慢馬鹿。あげたらキリがない。一番虫唾が走るのは、あいつらが『安全圏から絶対に一歩も出ないこと』だね。天元様に守られた結界の奥、カビ臭い畳と薄汚い御簾の奥……自分たちは絶対に血を流さない場所にふんぞり返って、僕ら前線の術師をただの使い捨てのコマとしか思ってない」

 

「知ってる?あいつらの手は綺麗なんだよ。呪霊の返り血も、仲間を看取った時の冷たい感触も、自分の内臓が飛び出しかけるような痛みも、何一つ知らない。泥水すら掬ったことのないような皺だらけの綺麗な手で、平気で若者の死にハンコを押す」

 

 

コツ、コツ、コツ。

五条は無意識のうちに踵を床に打ち鳴らし、貧乏ゆすりを始めていた。はたから見ても、彼が激しい怒りと苛立ちに苛まれているのは明らかだった。不規則なその音が、静まり返った部屋に不気味に響く。

 

 

「『名誉ある死だった』?『呪術師に死は付きものだ』?――っは、笑わせるなよ。あいつらが言うそれは、ただの『怠慢の隠れ蓑』だ」

 

 

五条の纏う空気が、みるみると冷え込んでいく。

 

 

「情報収集をサボって、俺の後輩を上半身だけの肉塊にしたのは誰だ?」

 

「あの子が死んだ時、金蔓の存在を黙認し、あの外道どもを野放しにしていたのは誰だ?」

 

 

ギリッ、と五条の奥歯が鳴った。

 

 

「………アイツの。優しさに付け込んで、乾いた雑巾を絞るような真似して、使い潰して……追い詰めて――あんなマネさせたのは………誰だ?」

 

 

それは、腹の底から這い上がってくるような、絶対零度の冷酷な声色だった。

眞白はガタガタと震える自身の肩を強く抱きしめながらも興味深そうに見つめる。目の前にいるのは、いつもの飄々とした恩師ではない。人間の皮を被った、理不尽で圧倒的な『災害』そのものだ。

 

 

「全部、あの御簾の奥にいる『顔も見せない老害ども』だ」

 

「あいつらは、呪術界と言うシステムに寄生しているだけの蛆虫なんだよ。御三家だの、血統だの、伝統だの。そんなカビの生えた理屈を並べ立てて、自分たちは権力と保身を守ることにしか頭にない。才能ある若者が出れば『出る杭』として打ち、御しやすい無能だけを周りに置いて安心する」

 

「僕のことが怖いくせに、僕がいなきゃ自分たちの命も、このクソみたいな呪術界のシステムも維持できない。完全に僕に依存しきっているくせに、僕を縛りつけようと必死に鎖を巻きつけてくる。その狡猾さと言ったら、吐き気がするよ」

 

 

五条は自嘲するように、短く、ひどく冷たい笑い声を漏らした。

 

 

「僕が軽く術式を放てば、あのカビ臭い部屋ごと、あいつらの無駄に長い人生も、くだらないプライドも、一瞬でチリにできる」

 

 

蒼い瞳が、確かな『殺戮のビジョン』を見つめて細められる。

 

 

「『あ、間違えちゃった。手が滑りました』って笑いながら、全員の首を物理的にへし折ることなんて、息をするより簡単だ」

 

 

凄惨な光景を幻視しているかのように、五条はうっとりと狂気を孕んだ笑みを浮かべた。

 

 

「あいつらが一番恐れているのはそれだよ。自分たちの権力も伝統も、僕の、特級術師の『圧倒的な暴力』の前では、何の役にも立たないって、心の底では理解しているから」

 

 

その声は、耳元で悪魔が囁くように、眞白の脳髄に直接響き渡った。

最強であるがゆえの、絶対的な暴力の肯定。彼がその気になれば、今日にでも皆殺しにできる。それが揺るぎない事実であると、眞白にも痛いほど理解できた。

 

しかし。

 

 

「……でも殺さない」

 

 

ふと、部屋を覆い尽くしていた深海のような圧が、嘘のようにスッと霧散した。五条はゆっくりと顔を上げる。

 

 

「殺してしまえば、僕が一番嫌悪している『力による支配』を自ら体現することになる。僕が独裁者になれば、結局はあいつらと同じだ。誰もついてこない。何も……変わらない」

 

 

五条は握りしめていた拳をゆっくりと開き、深く息を吐き出した。

 

 

「……だから僕は、あいつらが最も嫌がる方法で、あいつらの首を真綿で締めてやることにしたんだ」

 

 

五条の口角が、ゆっくりと吊り上がっていく。

 

 

「あいつらの手の届かないところで、あいつらの言うことを聞かない、僕と同じくらい強くて厄介な連中を育て上げる。そうして古い血を完全に抜き取って、あの腐ったミカン箱を内側から丸ごとひっくり返してやる」

 

「あいつらが大事に大事に守ってきた既得権益が、僕の育てた生徒たちに踏み荒らされ、崩壊していく様を……一番の特等席で見て、笑ってやるんだ」

 

 

五条は残酷な未来を心底嬉しそうに語る。

 

 

「だから、それまではせいぜい美味しいお茶でも飲んで長生きすればいい。僕の生徒に、その汚い指で触れない限りはね」

 

「……五条せん――」

 

 

あまりにも重い覚悟と執念に、眞白は震える声で思わず呼びかけようとした。しかし、その言葉は五条の声に遮られる。

 

 

「――だからさ、強くなってよ。僕に置いていかれないくらい」

 

 

先ほどまでの背筋が凍るような冷酷な声色からは想像もできないほど、優しい声。それでいて、眞白の未来に絶対の期待を込めた、力強い声色で囁いた。

 

眞白は、まだ微かに震える両手を強く握り締め、深呼吸をしてから、五条の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

 

「……私は、先生の過去も、背負っているものの重さもわかりません」

 

 

眞白は圧倒的な恐怖を振り払うように、優しく、けれど芯のある声で口を開いた。

 

 

「…………」

 

 

自身の重すぎる感情を否定されたのかと思い、五条はわずかに口を閉じ、目を伏せる。

 

 

「でも、あなたを一人にはさせません」

 

 

紡がれたのは、五条の予想を裏切る言葉だった。

 

 

「……え?」

 

 

五条は驚き、顔を上げた。

 

 

「先生がどれだけ遠くに行こうとしても、私が勝手に隣にいます。最強で、誰も追いつけなくて、先生が孤独だっていうなら……私がしがみつきます。絶対に、先生を一人ぼっちになんてしません」

 

 

眞白の瞳には、一切の迷いがなかった。先ほどまで殺気を当てられて怯えていた少女とは違う、一人の呪術師としての強い意志がそこにあった。

 

 

「何せ、五条先生にはご恩がありますから」

 

「恩?僕に?」

 

 

五条は不思議そうに聞き返す。

 

 

「はい。あなたは、一人ぼっちの私を見つけてくれた」

 

 

眞白は、自身の特異な才能を認め、導いてくれた目の前の最強の術師に向けて、柔らかく微笑んだ。

 

 

「だから私は、あなたを一人ぼっちにはさせません」

 

 

その言葉は、どんな強力な縛りよりも重く、温かく響いた。

 

五条は少しの間、ぽかんとした顔で眞白を見つめていたが……やがて、フッと小さく息を漏らして笑った。

 

 

「……いいね。そういうシンプルなのは、わかりやすくていい」

 

 

五条の顔からは、先ほどまでの澱んだ疲労感も、狂気を孕んだ憎しみも完全に消えていた。代わりに浮かんでいたのは、本心から安堵したような、どこか照れくさそうな、最強の男のとても人間らしい柔らかな笑顔だった。張り詰めていた密室の空気が、ふっと緩み、初夏の日差しが差し込むような穏やかなものへと変わっていく。

 

 

「ずいぶんとお疲れの様でしたね。……硝子先生も言っていましたが、繁忙期ってやつですか?」

 

 

眞白は緊張の糸を解き、いつもの調子に戻って軽く首を傾げた。

 

 

「まさにそれ。ちょっと最近働き気味で、知らないうちに鬱憤が溜まってたみたい」

 

 

五条は肩をすくめ、照れ隠しのように軽く手を上げた。

 

 

「僕としたことが、教え子に愚痴っちゃうなんてね。ごめんね」

 

 

素直に謝罪を口にした五条に対し、眞白は小さく首を横に振った。

 

 

「いいえ」

 

 

眞白は背筋を伸ばし、清々しい表情を見せた。

 

 

「五条先生がなぜ私にそんな期待をするのか、その理由が分かりましたので……俄然、やる気が出ました」

 

 

呪術界の古い体制を壊すため。そして何より、孤独な最強の隣に立つため。明確な目標を得た彼女の瞳には、力強い光が宿っていた。

 

 

「……じゃあ、今回の交流会で負けるわけにはいかないよ」

 

 

五条は立ち上がり、パンッと両手を叩いて気合を入れた。

 

 

「みんなが見てる。僕の自慢の生徒として、京都校の連中も、上のジジイどもも、全員の度肝を抜いてやるんだ」

 

「もちろんです」

 

 

眞白も椅子から立ち上がり、自信に満ちた笑みを浮かべた。

 

 

「たかだか人数差、五対一だろうと関係ありません。私の『折紙呪法』に死角はありませんから!」

 

「そう、その調子!」

 

 

五条は嬉しそうに頷き、指を一本立てた。

 

 

「それに、等級ってのは『僕との差』を視覚的に測れる絶好の物差しだからね。一級になれば、もう立派な一人前だ」

 

「はい。今回の交流会で必ず昇級して、確実に距離を詰めていきますから。楽しみにしておいてください」

 

 

眞白は五条を真っ直ぐに見据え、力強く宣言した。

 

 

「よし!じゃあ、開始時刻は正午丁度。その前までには指定の場所に移動してもらうから、そのつもりで準備運動でもしておいて!」

 

 

五条は腕時計をちらりと確認し、ポンと眞白の肩を叩いた。

 

 

「あ、あと。今回、眞白のために『特別なプレゼント』もそこに用意しておく手筈だから、楽しみにしておいてね!」

 

 

五条は思い出したように、悪戯っぽく片目をつむった(ウインクをしたつもりだが、目隠しのせいで眞白には全く見えていない)。

 

 

「プレゼント……ですか?」

 

 

唐突な単語に、眞白はきょとんとする。

 

 

「そう!と言っても、別に変なものじゃないよ」

 

 

五条はニヤニヤしながら、わざともったいぶるように声を潜めた。

 

 

「眞白の『強み』を最大限に生かすものだよ。……って、ここまでいうとプレゼントが何なのかは簡単に想像できちゃうけど!」

 

「私の強み、ですか……」

 

 

眞白は顎に手を当て、自身の能力を省みる。膨大な呪力、繊細な呪力操作、そして紙を媒体とする折紙呪法。それらを最大限に活かすものとなると――。

 

 

「……ところで」

 

 

思考を巡らせていた眞白だったが、ふと、もっと根本的な疑問に行き当たり、五条を見上げた。

 

 

「交流会が何なのか、どうして私が出るのかは理解しましたが……肝心の試合中、一体何をするんですか?」

 

 

五条はピタリと動きを止めた。

 

 

「あれ、まだ言ってなかったっけ?」

 

 

五条はきょとんとした顔で首を傾げる。

 

 

「…………一切聞いてないです」

 

 

眞白はジト目で五条を睨みつけた。

 

 

「いやー、うっかりうっかり。一番大事なことを忘れてたね」

 

 

五条は頭をかきながら、テヘッと笑ってごまかそうとする。

 

 

「ええとね、今回の試合のルールは……」

 

 

五条は一拍置き、とびきりの笑顔で告げた。

 

 

「相手チーム全員の、制圧ダヨ!」

 

 

「………………」

 

沈黙。

眞白の額に、ピキリと太い血管が浮き上がった。

 

 

 






お久しぶりです。
不定期投稿です。

矛盾をあまり出したくないので、交流会を一旦最後まで書き上げようとしたら想定以上に長くなっちゃいました。

というか京都側のキャラがたくさん出るせいで口調とか性格と加味して展開を考えるのが大変すぎて書いて消してばっかでしたね。

ちなみに、京都校生徒はあくまでモブですので交流会が終わった後はもう出ない予定です。
何かしら体よく使える場面があったら使うかもしれませんが。

今回は計7話を書き上げており、一気に投稿するとそれはそれで次回のわくわく感が薄れるかなと思い、3・2・2話ずつで今週の月・水・金と上げていこうかなと考えています。
それ以外に特に理由はないです。
次回の投稿も気分次第で投稿の仕方が変わるかもなので、どうか悪しからず。

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