ザワッ……と。
風もないのに、森の木々が一斉に不気味なざわめきを立てた。
「ッ!?」
大の字で寝転がっていた三年男子生徒は、肌を粟立たせるような異様な気配に弾かれたように上半身を起こした。空気が重い。まるで冷たい泥の底に沈められたように、肺に酸素が入ってこない。
(……何だ、この呪力は……まさか特級レベルの呪霊か?)
彼は本能が鳴らすけたたましい警鐘に従い、いち早くこの場から離脱しなければならないと悟った。
「チッ、おい!早く逃げるぞ!これは俺たちの手に負えな……」
立ち上がりかけ、隣の後輩に声をかけようとした彼の言葉は、唐突に途切れた。
「うッ……オェェエエエエ!?!?!?!!!!」
隣で先ほどまで普通に軽口を叩いていた後輩の様子が、明らかに尋常ではなかった。
突如として込み上げた極限の恐怖と、内臓を直接鷲掴みにされたような吐き気。二年の男子生徒は白目を剥き、地面に四つん這いになってガタガタと激しく痙攣しながら、口から大量の胃液を嘔吐していた。
「なッ!?おい、どうした!!……一体何が、ッ!?」
後輩の背中をさすろうと手を伸ばした三年男子は、直後、その『呪力の発生源』がすぐ真横の茂みまで迫っていることに気づき、心臓を鷲掴みにされたように息を詰まらせた。
ザッ……ザッ……。
乾いた落ち葉を踏みしだく、ゆっくりとした足音。
「…………」
薄暗い森の奥から、無言で現れた一つの人影。
それは、つい先ほど校舎へ向かって歩いていったはずの眞白だった。
彼女は緩やかな足取りで、音もなくこちらへ近づいてくる。
「…………ッ」
(コイツは、やばい……ッ)
三年男子は、額から噴き出す冷や汗を拭うことすらできなかった。
(以前遭遇した一級呪霊以上の、圧倒的な圧……!クソッ、足の震えが止まらねぇ……!)
こちらへ向かってくる眞白に対し、彼は震える膝を必死に叩き、どうにか立ち上がろうとするが、ガクガクと震え続ける脚はまるで自分の身体ではないように言うことを聞かない。
「……ど、どうしたんだ?家入先生を、呼びに行ったんじゃ……」
彼は後ずさりしながら、ひきつった笑みを浮かべ、震えの止まらない身体を無理やり抑え込んで何とか言葉を紡ぎ出した。
「…………」
眞白は彼の問いかけに一切答えない。ただただ、無言のまま、一定の歩幅で近づいてくる。
「おいおい、一体どうしたんだよ。そんな怖え顔して…………?」
そこまで言って、彼はようやく一つの致命的な『事実』に気がついた。
近づいてくる眞白の視線は、彼に向かって話しかけられているにも関わらず、彼の顔を『一切』捉えていなかったのだ。
彼女のどす黒く濁った瞳は、ただ一点のみを――彼の後ろで蹲り、胃液を吐いて痙攣している『後輩』だけを、獲物を逃さない爬虫類のように執拗に凝視し続けていた。
「……冗談だろ?……何のつもりだ?」
彼は背後の後輩と、目の前の眞白を交互に見比べた。
眞白の常軌を逸した殺意が、全て一点、後輩にのみ向けられていること。そして、後輩がその濃密な殺意を一身に浴びた結果、恐慌状態に陥り嘔吐していることに気づいた。
しかし、彼にはその後輩が殺意を向けられる理由が全くわからなかった。だからこそ、喉の渇きに耐えながら、眞白本人にその理由を聞き出すしかなかった。
「……そこの俗物を殺すだけです」
ポツリと。眞白の口から紡がれたのは、氷のように冷たく、それでいて一切の迷いがない処刑宣告だった。彼女の顔には、先ほどまでの純粋な笑顔とは似て非なる、歪で不気味な笑みが張り付いている。
「自分の感性の貧しさを、さも私の作品の欠陥の様に語る、その虫けらを」
絶対零度の視線を後輩に突き刺したまま、眞白は顔の筋肉一つ動かさずに言い放った。
「ヒッ!?」
眞白の視線の先で、二年の男子生徒は恐怖に顔を歪め、地面に蹲りながら情けなく悲鳴を上げた。
「……殺す、だと?……何を言ってんだ」
三年男子は耳を疑い、声を荒げた。
「さっきまで確かに死に物狂いで戦っていたが、アレはあくまで『交流会』だ。俺たちは仲間だぞ!?それに、アレはただコイツの口が滑っただけで、本心じゃない……はずだ。……というか、軽く貶されただけで殺すとか、いくらなんでもどうかしてるぞ!?」
眞白の極端すぎる言葉に理解が追いつかない彼は、必死に後輩を弁明した。そして、嘔吐して蹲る後輩を守るように、眞白と後輩の間に両手を広げて立ち塞がり、どうにかこの狂気を止めようとした。
「……『軽く』、ですか?」
ピタリ、と。
眞白の足が止まった。
ゆっくりと視線を上げ、後輩を庇うように立ち塞がった三年男子の顔を見つめる。
「あなたは、泥棒が家に入って宝石を盗んでいっても、『たかが石ころが盗まれただけ』だと、そう宥めるんですか?」
眞白は血走った瞳を向けながら、ひどく静かな、だが確かな怒気を孕んだ声で問いかけた。
「あ?……どう言う意味だ」
唐突な例え話の意味がいまいち理解できず、三年男子は怪訝そうに首を傾げた。
「あの俗物がやったのは、私の『魂の惨殺』ですッ」
ギリッ、と眞白の奥歯が鳴る。
「理解する脳も持たない獣風情が、土足で私の聖域を荒らし、その汚物のような言葉を吐き散らしたッ!どうかしているのは私ではなく、この男を生かしておこうとするあなたの倫理観の方ですッ!!」
眞白の呼吸が荒くなり、声のトーンが次第に高ぶっていく。
「神聖なキャンバスに唾を吐く者がいれば、即座に殺して処分する。それだけのッ、……あまりに静かで当然の摂理ですよ」
理解が追いつかない彼に対し、眞白は背後で震える後輩をビシッと指差し、熱に浮かされたように早口で捲し立てた。その瞳の奥には、絶対に譲れない自身の『芸術の神髄』が狂気となって燃え盛っていた。
「……何を言ってるのかいまいちわからねぇが。お前がコイツを、本心から殺そうとしていることだけはわかった」
彼は額の汗を手の甲で拭うと、低く重心を落とした。
「……なら尚更、こいつの先輩としてここを通すわけにはいかねぇ」
彼は深く息を吸い込み、限界を迎えていた肉体に鞭を打ち、なけなしの呪力を再び身体の隅々へと巡らせ、覚悟の表情を見せた。
「そこで惨めに震えている俗物は、私の命の根源を否定しました。私の全てを否定したんです。……そんな男に、明日を迎える資格なんてあるわけないでしょう?」
眞白は心底不思議そうな顔で小首を傾げる。
「どうして、そんな簡単なことがわからないんですか?」
本気で彼が理解できないというように、眞白は静かに説得を試みようとする。
「…………」
三年男子は答えない。ただ、自身の呪力を静かに練り上げ、両手を構えた。その固い意志を見た眞白は、フゥッと短く息を吐いた。
「退いてください」
眞白はひどく静かな声で言った。その声には、怒りよりもむしろ悲哀に近い響きが含まれているように聞こえた。
「あなたは、私の折紙を『かっこいい』と言ってくれました。だから、私があなたを害する理由はありません」
眞白の濁った瞳が、彼を真っ直ぐに射抜く。
「……ですが、もし。退いて頂けないなら、あなたもそこの俗物と同類として、ここで一緒に間引くことになります」
それは、間違いなく『最後の警告』だった。
「……ダメだ。ここを退くことはできない」
彼は、恐怖で震える奥歯を噛み締め、全身の呪力を限界まで練り上げた。
「……コイツは、俺の後輩――」
そう続きを言おうとした、その時だった。
彼の網膜に映っていた『景色』が、唐突に消失した。
「――簡易領域:抜刀」
微かな呟き。
二本の指を立てる刀印を目の前に掲げた眞白の姿が、コマ飛びしたように右足を空中に浮かべた不自然な姿勢へと切り替わっていた。
「……ハ?」
彼が間抜けな声を漏らした次の瞬間。
テレビのチャンネルを切り替えたかのように、彼自身の視界が天地ごと一瞬で吹き飛んだ。
――ドパァァァァァァンンンン!!!!!!
空気が破裂したかのような、耳を劈く凄まじい爆発音(ソニックブーム)が森全体に轟き渡った。
眞白の展開する『簡易領域:抜刀』は、もはやシン・陰流のそれとは似て非なるものである。
日下部篤也の用いる『自動迎撃』を参考に編み出された、不可避のカウンター。領域に触れた標的に対し、膨大な呪力の出力と極めて緻密な操作工程を『全自動化(オート)』することで、術師本人の知覚や反射神経すらも置き去りにした一撃を放つというものだ。
当然、これほどの神業には代償が伴う。複数の縛りの中で特に異彩を放つ、「一度の簡易領域の展開につき、発動できる迎撃は一度きり」。この絶対的な『縛り』を課すことで出力の異常な底上げを図り、ようやくこの技は完成された。
結果、自動で振り抜かれる彼女の脚の最高速度は『秒速一千七百メートル超』――即ち、マッハ5の極超音速(ハイパーソニック)に達する。
静止状態(ゼロ)から一瞬にして最高速へと至るその一撃は、相手の網膜に動作の過程を一切映さない。まるでコマ落ちした映像のように『直撃の事実』だけを強引に押し付け、容易く空気の壁を打ち砕き、文字通り鼓膜を破る爆発を引き起こすのである。
「安心してください。直接当ててはいません。ただ、爆風で吹き飛ばしただけですから」
眞白はそう言いながら、脚を下し、先ほどの極超音速の蹴りによって発生した突風に巻き込まれ、地面に転がっている二年男子を冷ややかに見下ろした。
「さて、邪魔者はいなくなりましたね」
眞白はゆっくりと視線を落とし、足元で蹲る二年の男子生徒を見下ろした。
「……私は優しいので、ご家族やご友人方に、何か一つくらい言い残す時間程度は待ってあげますよ」
「ハァッ、ハァッ……」
二年の男子生徒は過呼吸を繰り返し、自身の頼みの綱であった先輩が一瞬にして吹き飛んでいった方向へ視線を向けながら、ガタガタと未だに震え続けている。言い残す言葉すら紡げないほど、恐怖で完全に心が砕け散っていた。
「……言葉には、責任が伴います」
眞白は蹲る彼の真横に立ち、腰の刀を鞘からゆっくりと引き抜いた。
「これは、真の芸術を理解する知性を持たず、ただ己の快不快だけで他者の魂を貶めた、あまりにも重い代償です」
チャキ……と。
眞白は刀を高く振り上げ、彼の首を断ち切る『介錯』のような冷酷な形で構えた。
そして――刀を無慈悲に振り切ろうとした瞬間。
離れた場所から、血を吐くような声が轟いた。
「結界を張れェェェェェェエエエエエ!!!!!」
それは、遠くからでも鼓膜を打つ、三年男子の渾身の叫びだった。
先ほどの眞白の一撃による爆風と衝撃で、彼は全身血まみれになり、片腕は脱臼して力無くダラリと垂れ下がっている。それでもなお、残された片手に、彼の残存する全ての呪力が異常な密度で集束していた。
まさしく、火事場の底力。可愛い後輩を救うため、縛りを複数取り付け、なんとか実現した捨て身の最後の切り札。
彼はその限界を超えた呪力に、今、術式を着火させた。
ボォォォォォォォォッッッ!!!!
それは、眞白の視界を覆うには十分すぎる量の、圧倒的な爆炎だった。森の木々すらも一瞬で呑み込もうとする凄まじい勢いで、荒れ狂う炎の波が眞白とその後輩へと迫り来る。
「じゅ、術式展開ッ!!」
先輩の決死の声が聞こえた瞬間、二年の男子生徒はなけなしの呪力を振り絞り、自身の周囲に最低限の範囲で防御結界を張った。
(希望が見えた。……これさえ耐え抜けば、僕は助かる。僕は死なないッ!)
彼は結界の中で、歓喜の涙を流した。
――しかし。現実はどこまでいっても弱肉強食。世界は残酷なのだ。
「ふぅ………シッ!!」
眞白は構えていた刀を流れるような動作で一度鞘に戻し、静かに深呼吸をした。そして、凄まじい呪力を刀身に込め、低く腰を落とした。
迫り来る死の爆炎。
それを前にしての、神速の『抜刀』。
ドバァァァンッ!!
それだけで、絶対的な『格付け』は完了した。
先ほどまで眞白と彼の視界を覆い尽くしていた巨大な爆炎は、眞白がそれらを遥かに上回る呪力を込めて放った『刀の一閃』によって発生した呪力を纏った斬撃の風圧で、為す術もなく完全に吹き飛ばされ、霧散してしまったのだ。
「ハ、ハハハ……。化け物……」
炎が晴れた後。目の前で無傷で立つ眞白を見上げ、二年の男子生徒は完全に心が折れた。彼の絶望した心情を表すかのように、展開していた結界がパラパラと解れ、虚しく消えていく。
遠くには、呪力を全て使い果たし気絶したのか、大木にもたれかかって後ろへ倒れ込む三年男子生徒の姿があった。
「では、今度こそ。さよならです」
眞白は無感情に告げると、再び刀を高く掲げ、今度こそ迷いなく彼の首筋へと振り下ろした。
――しかし。
その白刃は、彼の首の数センチ手前……まるで『見えない壁』に阻まれたかのように、空中で不自然にピタリと静止した。
「いや〜、危ない危ない。ギリギリセーフってとこかな?」
鼓膜を打つのは、この絶望的な極限状況にはおよそそぐわない、拍子抜けするほど能天気な声。
土壇場で現れ、眞白の刀と後輩の首の間に絶対不可侵の『無限』を差し込んだ五条悟が、いつもと変わらない軽薄な笑みを浮かべて立っていた。
「……何のご用ですか?まだ試合は終わっていないはずですが」
眞白は眉間に深く皺を寄せ、刀を押し込む手に力を込めながらも、突然の乱入者に対して少し躊躇いつつ言葉を返した。
「何でって、そりゃ眞白が一番わかってるでしょ?交流会で『殺しは無し』だって、ちゃんと言ったはずなんだけどな。……それと、呪力操作が随分と雑になってるよ?」
五条は眞白の真正面に立ち塞がると、言葉の軽さとは真逆の、射抜くような冷徹な視線を向けた。目隠しを指先でスッとずらし、六眼の輝きを覗かせながら、背の高い彼が上から見下ろすように言い放つ。
「ッ…………」
五条の絶対的な強者の視線に射竦められ、眞白の身体が一瞬だけビクンと震えた。
彼女は舌打ちを飲み込み、怒りに任せて森中に撒き散らしていた禍々しい呪力を無理やり引き戻すと、まるで高密度の鎧のように自身の身体の周囲だけへきつく纏わせ直した。
「ほらほら、黙ってないで何か言ったら?大丈夫、先生怒らないから」
五条はアイマスクを元に戻し、再びニヤニヤと笑いながら煽る。しかし、態度は軽薄でも、そこには絶対的な強者として眞白を上から押さえつけるような抗いがたい圧が存在していた。
「ハッ、ハッ……助かったッ。に、逃げないと……」
五条の背後で、自分が死の淵から引き上げられたことをようやく理解した二年の男子生徒が、浅い呼吸を繰り返しながら這いずり始めた。眞白から放たれていた呪力の重圧が解かれたことも相まって、四つん這いの無様な姿勢のまま、一刻も早く五条の背後から、そして眞白の視界から逃れようと必死に土を掻く。
「……ッ!」
その惨めな背中を、眞白が見逃すはずもなかった。
ドンッ!と地面を蹴り飛ばし、五条の脇をすり抜けるようにして一息で逃げる二年の背後へと肉薄する。再び高く振り上げられた白刃が、無防備な首筋へ向けて容赦なく振り下ろされた。
「ヒッ!?」
背後に迫る死の呪力を感じ取り、二年の男子は再び地面に蹲って頭を抱える。
「はい、残念」
しかし、そこには当然のように先回りした五条が立っていた。眞白の振り下ろした刀と二年の首の間に、再び指一本で『無限』を挟み込み、その凶刃を軽々と停止させる。
「…………」
刃を止められた眞白は、目の前に立ち塞がる五条を声もなくただ冷たく睨みつけた。
「あー、君。……名前なんだっけ?まぁ、どうでもいいけどさ。死にたくなかったら、僕の後ろから絶対に離れないでね」
五条は眞白から視線を外すことなく、背後でガタガタと震えながら蹲っている二年に向かって声をかけた。
「は、はいッ!」
二年の男子生徒は、泣き出しそうな声で必死に返事をした。
「……どうして、その俗物を庇うんですか?」
眞白はギリッと奥歯を噛み締め、苛立ちを隠そうともせずに五条を睨み上げる。
「どうして……って、そりゃあ僕も一応教師だし?安易に生徒を殺させるのを見逃すわけにはいかないからね~」
五条は空いた手で後頭部をポリポリと掻きながら、適当に言葉を選ぶように言った。
「……その男は、私の作品を貶したんですよ!?何でそんなゴミを庇うんですか!?」
五条のふざけた態度に、眞白の抑え込んでいた感情が爆発した。
「怒ってくださいよ!先生は私の作品を知ってるでしょ!?私を見つけてくれたでしょ!?私が殺したいって言ったら、『そうだね』って言ってくださいよッ!」
それは、まるで親に理解を求める子供の癇癪のような、ひどく感情的な叫びだった。
「……うん、それで?」
五条は、必死に訴えかける眞白のその姿を、氷のように冷たい声で何でもないことのようにあっさりと切り捨てた。
「――ッ!」
眞白は息を呑んだ。五条が何を言っているのか、なぜ自分に同調してくれないのか、一瞬理解できなかった。
いや、彼女の冷えた脳の片隅では、本心では理解しているのだ。五条は背後の生徒を守るため、眞白の怒りの矛先を意図的に『自分自身』へと向けさせようとしているのだと。
しかし、それでも腹の底で煮え滾る怒りは収まらない。森全体に呪力を広げることこそしなくなったものの、彼女の身体から溢れ出す呪いは、行き場を失ってさらに高密度に、ますます純度の高い黒い呪力となって出力されていく。
「うーん、そんなにこの子を殺したいの?」
五条は、眼の前の殺意の塊となっている眞白を観察しながら、顎に手を当ててわざとらしく考え込んだ。
「はい」
眞白は一切の躊躇なく、即答した。
「……良し。じゃあ、いいこと思いついた。僕と『縛り』を結ぼうか」
五条はポンッと手を叩き、名案を閃いたというような顔で提案した。
「なるほど……それで、設ける内容は?」
自身の望みを通すための『縛り』という呪術的な取引の手段には納得したのか、眞白は目を細めて訝しげに聞き返す。
「僕ら二人で戦って、気絶するか戦闘不能になった時点で負け。もし眞白が負けたら、この子を殺すのはきっぱり諦めてもらう。もちろん、同じ理由で後から痛めつけるのも無しね」
五条は背後に庇っている後輩を親指で指差しながら、眞白の顔を覗き込んだ。
「ダメですね。私がそれに従うメリットが一つもありません」
眞白は五条の目を真っ直ぐに見返し、即座にその提案を切り捨てた。
「第一、私が今ここで五条先生と正面から戦う理由がありませんし。もし戦うことになったとしても、先生の相手は適当に式神に任せてけしかければ良いだけです。その程度の隙なら、問題なく作ってそこの男の首を落とす自信がありますから」
「お、言うね〜。頼もしいよ」
眞白の生意気な物言いに、五条は不快になるどころか、心底嬉しそうに笑った。
「さっき観戦室でモニター越しに見てたけど、生徒の成長は教師として嬉しいもんだよ。それに、他のみんなもすごく驚いてたよ。文字通り、顎が外れるくらいね」
五条は本心からの称賛を込めて、彼女の戦闘を褒め称えた。
「……え、ほ……本当ですか?」
先ほどまでの殺伐とした空気が嘘のように、眞白の表情からスッと怒りが抜け落ちた。この極限の状況で唐突に自分の実力を褒められると思っていなかったこと、そして何より、自身の『強さ』を周囲の大人たちが認めていたという事実に、彼女の承認欲求が強烈にくすぐられたのだ。
「ホントホント。歌姫なんて、画面に釘付けになって『何者なのこの子!?』とか、ギャーギャーうるさく叫んでたくらいだし」
五条は両手を大きく広げ、少し大袈裟な身振り手振りで先ほどの観戦室の様子を語る。
「……え、えへへ」
五条の言葉にすっかり照れてしまったのか、眞白は先ほどまで刀を握りしめていた両手を胸元に当て、顔を隠すように俯きながら嬉しそうな声を漏らした。頬が微かに赤く染まっている。
「じゃあ、これで『縛り』の内容も問題無しでオッケー?」
眞白の表情が完全に緩み、警戒が解けたその絶好のタイミングを見計らい、五条はしれっと先ほどの不利な契約の話を戻した。
「それとこれとは別問題です」
スンッ、と。眞白は一瞬で元の冷酷な表情に戻り、キッパリと断絶の言葉を突きつけた。
「だよね〜。流石にそこまでチョロく流されないか」
五条は誤魔化すように片手で頭の後ろを掻きながら、ニヤニヤと笑う。
「……もしかして、私のこと舐めてます?」
そのへらへらとした余裕の態度に、眞白は自分がおだてられて弄ばれたことに気づき、少しイラッとしたように声を低くした。
「うん?そりゃ舐めてるよ」
五条はあっさりと肯定した。そして、とうとう両手を頭の後ろで組み、眞白の目の前で完全な無防備状態になってみせた。
「だって正直、今の眞白が僕に勝つ確率なんて『100%ない』し。絶対に僕が勝つんだから、眞白が勝った時のメリットなんかをわざわざ真面目に決めてもな〜って感じだしね」
「…………わかりました。その縛り、受けましょう」
頭の中で猛烈な速度で思考を巡らせたのか、眞白は一瞬だけ返事を遅らせた。そして、何かを決心したような鋭い眼差しで、五条の不平等な縛りの内容を受け入れた。
「あれ、怒った?」
五条は、罠に嵌った眞白の様子にさらに追い討ちをかけるように、わざとらしく小首を傾げて煽る。
「怒ってませんッ!……その代わり、本気で戦ってください」
眞白は一瞬だけ声を荒げたが、すぐに深く息を吐いて調子を戻し、刀の切っ先を真っ直ぐに五条へと向けた。
「『あの時』は手も足も出ませんでしたが、今は違います」
「へー。要するに、眞白が今求めるのは僕との『リベンジマッチ』ってことだ。いいじゃん、受けて立つよ。せいぜい、その積み上げた自信を僕にへし折られない様に頑張ってね」
眞白の要求に対し、五条は感心したような素振りを見せつつも、終始彼女を格下として舐め腐った態度を崩さなかった。
(……良し。第一段階成功)
目隠しの奥で、五条は密かに口角を吊り上げた。
眞白の底知れない怒りの対象を、背後で震える後輩の生徒から『自分』へと上手くすり替えることに成功した。
(あとは……いつも通り、眞白を組み手でボコボコにして、頭を冷やさせるだけだね)
余裕の笑みを浮かべたまま、五条は交渉の最終段階に入る。
「……『縛り』の内容は。私と五条先生が戦い、私が勝った場合、五条先生は『私が後ろの男を殺すことを黙認すること』。そして、戦いが終わるまで、私は『その男に一切の危害を加えないこと』」
眞白は刀の切っ先を下げ、淡々と自身の勝利条件と制約を口にした。
「僕が勝った場合は、眞白は『今回の件を綺麗サッパリ水に流すこと』。今回の件を理由に後ろの子を殺すことも、危害を加えることも『永劫に禁止』」
五条も自身の勝利条件を提示し、最後に眞白の要求を一つ呑む形で付け加えた。
「そして、僕は『本気でこの戦いに臨むこと』。……これで文句ない?」
「はい」
淡白に。それでいて、絶対に退かないという確かな覚悟の籠った返事が森に響く。
「良し!じゃ〜、開始の合図は僕が『よーいドン』って言うから、それで……え?」
五条がいつも通りの軽薄な調子で合図の説明をしようとした、まさにその刹那だった。
――ギガガガガガガガガッ!!!!
五条の周囲に常時展開されている絶対不可侵の空間、『無下限呪術』。
決して何者にも触れられることのないはずのその見えない壁が、まるで分厚いコンクリートの塊を大型重機で無理やり破砕するかのような、鼓膜を劈くけたたましい異音を立てて『削り取られていった』のだ。
(ッ!?なに――)
五条がその異常事態に気づき、六眼で目前の現象を捉えようとした時には、既に遅かった。
不可侵の壁を削り割り、完全に『突破』した眞白の小さな右拳が、五条の眼前にまで迫っていたのだ。
ドゴォォォォォンッ!!!!!
「ブハッ!?!?!?!!!!」
鈍い破裂音と共に、眞白の拳が五条の左頬にクリーンヒットした。
無下限を隔てていない、純粋な物理的直撃。最強の術師である五条悟の身体が、いとも容易く宙に浮く。
凄まじい衝撃により、五条は錐揉み回転しながら森の木々をへし折り、さらにその向こうの森の入り口まで届きそうな勢いで、弾丸のように真っ直ぐに吹き飛ばされていった。
ズザザザザザッ……!!!と、遠くで大木がへし折れ、土煙が舞い上がる音が響く。
「――やった!やっぱり思った通りだッ!これなら五条先生とも戦えます!!」
圧倒的な静寂が訪れた森の中。
自身の右拳を見つめ、眞白はパァッと顔を輝かせた。
殺気立っていた先ほどまでの様子はどこへやら、彼女は自分の生み出した力が最強の盾を打ち破ったという純粋な喜びに打ち震え、子供のように「えへへっ」と笑いながら、ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねた。
「……あ、あと。『縛り』の内容に『試合開始の合図を待つこと』なんて含まれていませんでしたよね?隙を見せた先生の落ち度です」
眞白は五条が吹き飛んでいった遥か遠くの方向を見ながら、ニコニコと笑って言い訳のように付け足した。
「……って、あそこまで飛んでいったら聞こえないか」
「……ヒッ!?」
不意に。
背後で蹲っていた二年の男子生徒の口から、恐怖に引き攣った短い悲鳴が漏れた。
ぴょんぴょんと飛び跳ねていた眞白が、クルリと振り向いたからだ。
その瞬間。眞白の顔から、先ほどの子供のような無邪気な笑顔が、まるで能面のようにスッと消え失せた。
「…………」
見下ろす瞳は、極寒。
一切の感情が読み取れない、虫けらを観察するような絶対零度の視線が彼を射抜く。
「……よかったですね、守ってもらえて」
眞白は抑揚のない淡白な声で、氷を吐き捨てるように言った。
「……私の戦いが終わるまで、絶対に『逃げないで』くださいね?」
それはお願いではなく、呪いのような命令だった。
「は、ハイッ!!」
逃げれば即座に殺される。本能でそう理解した二年の男子生徒は、眞白の機嫌をこれ以上損ねないように、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら素早く、そして必死に返事をした。
「……さて。先生、どこまで飛んでいったかな?」
眞白は彼を視界から完全に追い出し、興味を失ったように森の奥へと向き直った。
「あの吹き飛び方と方向だと、森の入り口あたりかな?」
彼女は首をコテッと傾け、普段の穏やかな女子高生の顔に戻って呟いた。
「……よっと。じゃあ、あっちまでお願いね」
バサッ!!
眞白の呼びかけに応え、上空から巨大な『鷲型の式神』が静かに舞い降りてきた。
彼女は軽やかな動作で式神の背に飛び乗ると、吹き飛ばした五条悟にトドメを刺すべく、森の入り口へ向けて音もなく上空へと飛び立った。
***
「ご、五条!?アンタが一体どうして!?」
歌姫の悲鳴のような問いかけに対し、五条は服についた土をパンパンと払いながら立ち上がった。
「うん?どうしてって、見ての通りだよ。……って、そんなこと言ってる暇ないよ。生徒回収する人は早く行って、用事ない人は早く離れた方が良いよ。じゃないと眞白が……っと、噂をすればってやつだね」
五条が上空を見上げる。そこには鷲型の式神の背に立ち、彼を見下ろす眞白の姿があった。
「…………流石ですね。あの一瞬で呪力防御が間に合うなんて」
空から見下ろす眞白は、感心したように口を開いた。
「……それに、その様子だとダメージもあまり残っていない様に見えます」
眞白の視線の先で、五条の身体から反転術式特有の白い呪力がシュゥゥと音を立てて消えていく。
「傷こそ治ってるけど、まだ脳みそが揺れてる気がするよ。……それに、さっきのやつ『領域』でしょ。領域を身体に纏ってる」
五条はゆっくりと立ち上がりながら服の汚れを払い、ニヤッと不敵に笑った。そして、指をかけてアイマスクをスッと外し、宝石のような『六眼』を露わにして眞白を観察する。
「……ふふ、やはりその六眼相手だと、開示による底上げはできませんね。私が言う前にバレちゃいました」
眞白もまた、反転術式の副作用による狂気じみた笑顔を浮かべながらも、それとは別の純粋に楽しそうな笑い声を上げ、全身に濃密な呪力を纏い始めた。
「いいね。その考え方、随分と呪術師が板についてきたんじゃない?」
眞白の返答に五条もニヤリと笑みを深める。彼も同様に戦闘準備を開始し、膨大な呪力を練り上げた。特級と規格外の一年――二人の呪力が衝突し、特有の重い圧が場を完全に支配する。
「そうですか?……では、ついでに言わせてもらいますと。五条先生の弱点、私わかっちゃいました」
眞白は五条の放つ圧に全く負けることなく、口元に手を当ててニヤッと笑い、空から彼を見下ろして言い放った。
「弱点?……僕に?」
その言葉に、五条はわざとらしく小首を傾け、困惑したように表情を崩した。
「五条悟は誰もが疑うことのない、現代最強の呪術師です。それは先生本人も知っています。知っていますが……『理解』はしていません」
眞白は静かに語り始める。
「その六眼はあらゆる呪力や脅威を完璧に視認し、無下限呪術はすべてを自動で弾き返すでしょう。ですが、唯一その六眼にも捉えられず、無下限呪術で弾き返すことができないものがあります」
「へー。……言ってごらん?」
五条は眞白の物言いに何かを感じたのか、少し面白そうに先を促した。
「自身の中に生まれる『慢心』と『油断』です」
眞白は冷酷な言葉の刃を突きつける。
「先生は生まれながらに最強であるが故に、最悪を想定して相手を疑ってかかると言う弱者の執念……私風に言えば『被害妄想』を知りません。圧倒的な力への絶対的信頼が、皮肉にも最大の防御の隙を生み出している。自分は最強だと、誰にも疑われずに生きてきた。何年も呪術師をやっているにも関わらず、未だその隙があると言うことは――悲しいことです」
風が吹き抜け、森がざわめく。
「誰も貴方を理解しようとしなかったんですね。何も失ったことがないんですね。……だからその隙が、慢心と油断が、未だ貴方を『孤独』にする」
静かに、それでいて急所を正確に抉るような言葉で、眞白は先手を取る様に五条を煽り立てた。
「……………」
五条は眞白を見上げたまま、口を開こうとしなかった。ただ、蒼い六眼がジロリと、獲物を品定めするように彼女を見つめている。
「図星ですか?」
その五条の沈黙を見て、眞白は嬉しそうに声を上げた。
「……ククッ。そうだね、今のはグサっときたよ。……こう、背中から串刺しにされた気分だ」
五条は笑い声を漏らすが、その声色はひどく低い。
「……でもさ、これでも色々背負ってるものはあってね。『何も失ってない』――ってのは、否定させてもらうよ。……って言うか眞白も言う様になったね。ちょっとイラってきちゃったかも」
笑ってはいるが、彼の周囲の空間がミシミシと軋みを上げ、呪力の圧が際限なく強くなっていく。
「それは良かったです。ぼっちの最強さんには、本気を出すのに丁度いい理由じゃないですか?」
眞白はニパッと満面の笑みを浮かべ、さらに煽る。
「……それに忘れてないですか?私も今、先生と『同じ気持ち』なんですよ」
自身の作品を貶された怒り。眞白の声もまた低く沈み、纏う呪力の圧が周囲の木々を揺らした。
「ハハッ!一丁前に舐めたこと言うじゃん。……呪術師二ヶ月のガキンチョが」
五条は手を顔に当てて、高らかに声を上げて笑った。そして顔から手を退かすと同時に、いつもの軽薄な仮面が完全に剥がれ落ちた。絶対零度の声があたりに響き渡る。
それが、二人の死闘の開始の合図だった。
「……フヒッ!!」
眞白は足場の式神を蹴り飛ばし、落下の勢いを利用して弾丸のように五条へと急接近する。
「僕相手に馬鹿正直に正面から突っ込むなんて、文字通り馬鹿でしょッ!」
五条は拳に呪力を込めると共に術式『蒼』を発動し、強烈な引力を拳に纏わせた。
「……フンッ!!」
「……オラァ!!」
ドゴォォォォォンッ!!!!
眞白の重い拳と五条の拳が真正面から激突する。あたりに凄まじい衝撃波が走り、二人が立つ石畳が蜘蛛の巣状に砕け散った。
「へぇ!それ、なかなか便利だねッ!」
五条が目を丸くする。眞白が身体に纏った簡易領域が、五条の無下限の防御と『蒼』の引力を無理やり中和し、衝撃とダメージを緩和していたのだ。
「まだまだ、ですッ!!」
ダメージは緩和したものの、最強の拳の勢いそのものは殺せず、数歩後ずさった眞白。彼女は即座に体勢を立て直し、一歩も動いていない五条に再び肉薄して無下限を中和しながら拳を振るおうとした。
「させると思う?……『蒼』ッ!」
眞白が目の前に迫った瞬間、五条は手を前に突き出して、引き寄せる『蒼』を眞白の『後方』に作り出した。
「ッ!……あれッ!?うぅわァァァァァァ!?!?!?!!!!」
五条が手を向けて『蒼』と叫んだ瞬間、眞白は正面からの攻撃に備えて全力の呪力防御をした。しかし目の前には何もなく、困惑した直後、自身の身体が後方へ強烈に引っ張られ、ものすごい勢いで森の奥へと吹き飛ばされていった。
「……やっぱそれ、オートで出してる出力低めの無下限なら中和できるけど、こっちのはそうでもないみたいだね。……って聞こえてないか。っよっと」
飛んでいく眞白を見送りながら、冷静に分析をする五条。彼は次の瞬間には、両手を合わせる様な掌印を結び、その場からフッと姿を消した。
二人の怪物による嵐が去り、森の入り口に静寂が戻る。
「………何あれ、こっわ」
少し離れた位置で、頭を抱えながら小さく縮こまっていた歌姫が、震える声でこぼした。
「……同感だ」
その近くの太い木の裏で、刀を胸に抱いて息を潜めて隠れていた日下部も、ひきつった顔で歌姫の言葉に同意する。
「これは、いい金になりそうだね」
離れた位置でカラスを操りながら、一人ほくそ笑む冥冥。
「……おい、夜蛾」
楽巌寺が、『模範に沿った良い生徒』という聞いていた話と全然違うぞ、と非難の視線を夜蛾に向ける。
「申し訳ありません……」
夜蛾は滝のような冷や汗を流しながら、楽巌寺に深く頭を下げた。
「…………」
家入だけは一人、五条が消えた空間を静かに見つめていた。