万象、紙に綴れば   作:Mebius217

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第25話:鮮烈なる赫と、遠ざかる空

 

 

 

「……ッ――折紙!!」

 

 

五条の放った『蒼』の強烈な引力によって、森の空高くへと投げ出された眞白。彼女は空中で吹き飛びながらも、一切の冷静さを失ってはいなかった。

 

腰に携えていた折紙の刀を引き抜き、空中で再度術式を発動する。刀は瞬時に五枚の手裏剣へと姿を変え、眞白はそのうちの二枚を足元の空中に固定して『足場』にすることで、空中で強引に姿勢を立て直した。

 

 

「やーーっ!久しぶりッ!!」

 

 

しかし、彼女が足場に着地した瞬間、頭上から聞き慣れた軽薄な声が降ってきた。

五条悟は瞬間移動で眞白の真上に現れると、ニヤリと笑ってそのまま拳を振り下ろし、眞白を容赦なく森の地面へと叩き落とした。

 

 

「グァッーーッ!!!!!」

 

ズドォォンッ!!

 

 

背中から地面に激突し、眞白は短い悲鳴を上げる。

しかし、彼女は痛みに悶える暇すら与えない。地面に叩きつけられると同時に、バネのように飛び跳ねて即座に立ち上がり、片手で刀印を作りながら腰を低く落とした。

 

 

「簡易領域:抜刀――」

 

 

先手必勝。躊躇せずに必殺のカウンターを叩き込む。

それは、この時のために眞白が日下部の技を模倣し、改良に改良を重ねて密かに考案していた『対・五条悟専用の初見殺し』だった。

 

――しかし。ターゲットは現代最強の呪術師。

いかに不可避の極超音速(マッハ)を誇ろうと、五条悟の纏う『無下限呪術』の前では、その蹴り足は不可視の壁に阻まれ、彼に届くことは永遠にない。

さらに、呪術の絶対的な理として、身を守るための「簡易領域」と、無下限を中和するための「領域展延」の同時発動は不可能である。

 

ならば、どうするか。

 

それは、極超音速の絶撃である『簡易領域:抜刀』を、あろうことか単なる『加速装置』として使い捨てるという、常軌を逸した荒業であった。

マッハの速度で振り抜かれた脚が、五条の絶対不可侵の空間に触れる、その数千分の一秒の刹那。

眞白は、自身の脳が持つ異常な演算能力の全てをその一瞬のタイミングのみに注ぎ込み、強制的な『領域の切り替え(スイッチ)』を行う。

極超音速の運動エネルギーと質量を完全に維持したまま、直前まで展開していた簡易領域を破棄。それと全く同時に『領域展延』を起動し、脚に纏わせて五条を打ち抜くのだ。

 

 

ドパァァァァァァンンンン!!!!!!

 

 

眞白の脚が空気の層を圧縮し、強烈な爆縮を引き起こす。

 

 

「――領域展延ッ!!!!」

 

 

極超音速の運動エネルギーを維持したまま、接触の瞬間に簡易領域を破棄し、展延で無限を中和して直撃させる。

それが、眞白が緻密な計算の末に導き出した、「最強」を打ち倒し得る理論上の『絶対手』だった。

 

 

――ズンッ。

 

「ッ!?――そんな!?」

 

 

しかし、理論はあくまで理論に過ぎない。

六眼をも出し抜くはずだった、極小フレームでの術式切り替え。その神業を完璧に成立させるには、呪術師としての経験も浅い眞白は、まだあまりにも未熟だった。

 

無限との接触、簡易領域の破棄、そして展延の構築。

その一瞬に己の脳へと強いた異常な演算負荷は、眞白の現段階の許容量(キャパシティ)を無情にも凌駕した。

 

演算処理のパンク。

切り替えのタイミングに生じた、ほんのコンマ数秒のノイズ。その結果は、残酷なほどの完全停止だった。

 

マッハの衝撃は五条悟の肉体に届くことなく、無下限の壁に阻まれて呆気なく、そして静かに静止した。

 

 

「ッ!――おっと」

 

 

過負荷によって焼け付くような脳の熱。

「ツゥー……」と、眞白の鼻から一筋の鮮血が流れ落ちる。彼女は自身の未熟さに、ひどく悔しそうに顔を歪めた。

 

 

「――ハァッ!!」

 

 

だが、最強への攻撃は当たらなかったものの、極超音速の移動で五条の間合いに入り込めた成果は大きい。眞白は脳の痛みを無視し、そのまま至近距離での打撃の応酬を開始した。

 

 

「ッ!――フッ!――おっと、ガッ!?……ぺッ、やるじゃんーーッ!!」

 

 

初めは余裕そうに眞白の攻撃をいなしていた五条だったが、彼女の底なしの呪力と異常な思考速度による連携によって、途中何度か重い攻撃が顔面や胴体に当たると、口の中に溜まった血を吐き捨てて素直に彼女の成長を褒め称えた。

 

 

「当然、ガハッ!?……です、グヘッ!?……グフッ!?――ちょっと!腕長すぎませんーー、ブハッ!?」

 

 

余裕そうに会話をする五条に、眞白も負けじと言い返そうとする。

だが、その度に五条の異様に長い腕と脚が、眞白の顔面や胴体に容赦なく叩きつけられ、言葉がまともに紡げない。

そもそもの話、長年の実戦で鍛え上げられた五条の屈強な肉体と、いくら呪力で強化しているとはいえ女子高生である眞白の肉体とでは、基礎ポテンシャルの差があまりにも明確すぎたのだ。

 

 

「はい――隙ありッ!」

 

 

五条はニヤリと笑うと、体勢を崩した眞白の死角から、渾身の掌底を彼女の顎先へとクリーンヒットさせた。

 

 

「ゴッ!?……ぅぁ」

 

 

完全に無防備なタイミングで顎を打ち抜かれた衝撃により、眞白の脳が激しく揺れた。彼女は視界を明滅させ、何も反応できないままフラフラと二、三歩後ずさる。

 

 

「コレで……お終いッ!!」

 

 

五条は勝負を決めるべく、無防備に後ずさる眞白の無防備な腹を目掛けて、最強の呪力を込めた渾身の右ストレートを繰り出した。

 

 

――ガガガガガッ!!

 

 

しかし、その拳が直撃する寸前。

眞白の隙を守るために、先ほど空中で作り出していた手裏剣が、五条の拳と眞白の腹を結ぶ線上に一列になって自動展開し、五条の拳を食い止めようとした。

だが、五条はそれを意に介することもなく、圧倒的な拳の勢いだけで金属の折紙を全て粉々に破壊し、そのまま眞白の腹部へと深々と拳をめり込ませた。

 

 

「――ゥアッ!?……ヒュッ」

 

 

手裏剣のクッションのおかげである程度の威力は殺せたものの、脳が揺れて呪力防御も無意識の範疇しか展開できていなかったため、そのダメージは甚大だった。

完全に無防備な状態で最強のストレートを受けた眞白は、少なくとも肋骨が数本ヒビが入り、内臓が圧迫によって傷つき、口から鮮血を吐き出しながら後方へと勢いよく吹き飛んでいく。

 

 

「――やっべ。あの手裏剣無かったら、もしかして腹貫通してたか?……まぁ、『本気でやって』って言ったのは眞白だから、僕は悪くないしッ」

 

 

吹き飛ぶ眞白を見ながら、五条は少しだけやりすぎたかと焦った様に呟く。だが、すぐに自分の行動を正当化し、トドメを刺すべく吹き飛んだ眞白の後を追って一気に距離を詰めた。しかし、五条が今もなお空中で吹き飛び続けている眞白を見ると、上空から巨大な鷲型の式神が猛スピードで滑空し、吹き飛ぶ彼女の背後に回り込んで、その柔らかな羽で彼女を優しく受け止めているのが目に入った。

 

 

「ぐうぅ――オッエェ……ありがとう……ッ!――折紙!!」

 

 

上空で巨大な鷲型の式神にふんわりと受け止められた眞白は、折れた肋骨の激痛に顔を歪め、口からゴボリと血塊を吐き出しながらも、鷲型の式神にポツリと礼を告げた。

しかし、休む間もなく、彼女の視界の端に恐るべき速度で迫り来る最強の男の姿が映り込む。

眞白は咄嗟に術式を再構築し、自身の足場としていた鷲型の式神へと即座に付与。巨大な鳥の姿を、一振りの鋭い凝縮された『刀』へと瞬時に変形させ、空中で彼を迎え撃つべく身構えた。

 

 

「――元気そうで良かったよ」

 

 

数メートル離れた位置にいたはずの五条が、空間を削り取るように一瞬で眞白の眼前へと転移してきた。彼はニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、無慈悲な拳を高く振りかぶりながら飄々と言い放つ。

 

 

「先生も……ッ、元気そうで何よりっ――ですッ!!」

 

 

眞白は迫り来る最強の拳を、首を紙一重で傾けることで間一髪かわす。風圧だけで頬が切れそうになる中、彼女はグッと腰を落とし、式神から変形させた刀を五条の胴体へ向けて横薙ぎに振るった。

 

 

「ククッ……それで、腕の長さがやっと『対等』って感じかな?」

 

 

五条は上半身を僅かに反らすだけで、眞白の刀身をミリ単位の余裕で躱し、腹立たしいほど軽薄な声で煽り立てる。

 

 

「お望み通り、同じ長さにしてあげますッ!!」

 

 

眞白は額に青筋をビキビキと浮かせながら、五条の煽りに乗るまいと必死に怒りを力に変え、息つく暇もない連続の斬撃を繰り出した。

袈裟斬り、逆袈裟、突き。重い呪力を乗せた白刃が空気を切り裂く。

 

 

「あっれれ〜?……その威勢の割には、なんだか動きのキレが悪くな〜い?」

 

 

しかし、五条はその怒涛の連撃を、まるで飛んでくる羽虫を避けるかのような圧倒的な余裕を残しながら、スイスイと躱し続けていく。

 

 

「――ッ!」

 

(くそッ……!身体の制御ならまだしも、刀に『領域展延』を纏わせる……いや、刀の形に合わせて展延を維持させるのに、脳の集中力が偏りすぎるッ……!)

 

 

眞白は内心で激しく舌打ちをした。

『領域展延』は、通常の呪力操作とは全く異なる、領域展開の高度な応用技術である。呪力であれば自由に形を変え、放出することも容易いが、展延はあくまで『自分自身だけを包む水のような結界』なのだ。呪力を結界へと転用し、さらにそれを領域へと昇華させる手順が必要なため、ただ刀の切っ先にまで伸ばして覆うだけでも、常軌を逸した桁違いの技量が要求される。

 

さらに言えば、今の眞白はそれだけでは終わらない。彼女が手にしているのはただの呪具や鉄の刀ではなく、自身の生得術式(折紙呪法)で作成した『式神の刀』なのだ。

 

本来、領域展延と生得術式の併用は絶対に不可能である。なぜなら、必中術式を中和するための空き容量である展延は、自身の術式すらも例外なく中和し、打ち消してしまうからだ。

普通であれば、展延を展開した時点で術式の発動すらできなくなるはずだが、眞白の術式の場合は少し事情が違った。彼女が術式を使用するのは『式神を作成する瞬間』だけであり、一度作ってしまえば、展延を発動しても体外に刻まれた術式は中和されない。

 

もっとも、それは展延の結界が『式神に直接触れなければ』の話である。

前述した通り、展延は自身の術式すらも中和してしまう。つまり、展延状態の結界が眞白の式神に少しでも触れた瞬間、構築された術式が解け、刀はただのペラペラの『紙』に戻ってしまうのだ。では何故、今この刀の式神が紙に戻らずに無下限を中和できる武器として成立しているのか。

 

それは、眞白の特出した……いや、呆れるほどにバカげた『呪力操作技術』が、その不可能を無理やり可能にしていたからに他ならない。

 

 

(――ハハッ。六眼で良く視て無かったら、僕でも勘違いしてたかもね)

 

 

五条は余裕で刀を避けながら、その六眼が捉えた異次元の光景に内心で舌を巻いていた。

 

 

(眞白のやってる『領域展延』ってのは、やはり生得術式とは併用できていない。その呪術の絶対的な理屈を、眞白は己の脳みそをフル回転させて、完全に『力技』で無理やりねじ伏せているんだ)

 

 

五条の目が、刀の表面を覆う薄い呪力の膜を解析する。

 

 

(術式で作った刀の表面に、展延がギリギリ触れない『数ミリ程度の空白の空間』を作って維持するなんていう、呆れる程のゴリ押し。コレはもはや、刀に展延を纏わせているとは言わない)

 

 

五条の口角が、教え子の異常性に歓喜して深く吊り上がる。

 

 

(刀の形をした領域を、自身が高速で振るう刀の動きに合わせて、展延が刀に絶対に触れない『空白の空間』を維持したまま、寸分も違わずに形を変え続けているッ!マジでイカれた演算能力だ!)

 

 

五条は自身の六眼に映るそのデタラメな情報処理を前に、眞白という存在の規格外さを改めて痛感していた。

 

 

「――何をニヤニヤ笑ってるんですかッ!!」

 

 

ふと、自分を見ながら気味の悪い笑みを浮かべている五条に気づき、眞白は怒声と共に刀での攻撃の手をさらに速めた。

 

 

「い〜や?……なんでも無いよ」

 

 

五条は眞白の怒りの刀身をヒョイヒョイと躱しながら、込み上げてくる笑いを必死に堪えて答える。

 

 

(まさか……もうこのカラクリがバレた!?いや、あんな六眼相手に、展延を解析する隙を与えすぎた私の落ち度ッ!)

 

 

五条の余裕の表情から、展延のネタが完全に割れたことを悟った眞白は、咄嗟に決断した。

 

 

(なら――!!)

 

 

眞白は攻撃の手を一瞬だけピタリと緩めると、両足で強く地面を踏み締め、自身の立ち位置を完全に固定した。

 

 

「――シッ!!」

 

 

直後。

眞白の刀閃が、先ほどとは全く次元の違うキレと速度で五条に襲い掛かった。

先ほどまでは、脳の処理領域が『足元の移動』と『展延の精密操作』に分散していたため、集中力が足りずに寸前で全て躱されていた。

しかし、今回は違う。

音を置き去りにした鋭い一閃が、五条の腹部を――直撃はしなかったものの、ギリギリで反応した五条の制服の生地を、浅くではあるが確かに切り裂いたのだ。

 

 

「……?――危な!?」

 

 

五条は目を丸くし、後方へ跳んだ。

 

 

「って……なるほどね。その土壇場で、よくそんな器用な『縛り』を……」

 

 

五条がギリギリで刀を躱し、眞白が自らに課したであろう『縛り』の内容を見抜いて口にしようとした、その瞬間。

 

 

「『展延中は、一歩もこの場から動かない』と言う縛りで、呪力操作の精度を限界まで上げていますッ――良っぅし!!」

 

 

五条に言われるよりも先に、眞白は自らの口で一息に全てを言い切った。

あえて縛りの内容を開示することで、その効果をさらに底上げする。僅かに領域の形成がやりやすくなり、脳の負荷が減ったことを確認した眞白は、嬉しそうに歓喜の声を上げた。

 

 

「――ククッ、随分と必死だねッ……」

 

 

しかし、五条は全く焦っていなかった。むしろ、獲物が罠にかかったのを見た狩人のように、悪辣に嗤った。

 

 

「そ〜れッ!!」

 

 

言うが早いか、五条は『蒼』の引力を利用した超高速移動で、姿勢を極限まで低くしながら一瞬にして眞白の懐深くへと潜り込んだ。

そして、固定された眞白の両足へ向けて、強烈な足払いを放った。

 

 

「――危なッ!?」

 

 

下段からの死角を突く攻撃。

眞白の身体は、思考よりも先に『生存本能』に従って反応してしまった。寸前で軽くジャンプし、その凶悪な足払いを空中で回避してしまう。

 

 

「はいっ、動いた……ドンマイッ!」

 

 

五条は足払いの姿勢のまま、空中に浮き上がった眞白を見上げて、意地悪く笑った。

自ら課した『一歩も動かない』という縛りを、本能的な反射によって自ら破ってしまった。その事実が、刀に纏わせた展延の精度を著しく崩壊させる。

 

 

「なッ!?――このぉッ!!」

 

 

自身の未熟な失態により、自ら課した『縛り』を破ってしまった眞白。刀に纏わせた領域展延の精度が乱れたことに激しく悔しがりながらも、彼女は空中で無理やり身体を回転させ、遠心力を乗せた渾身の踵落としを五条の頭頂部へ向けて振り下ろした。

 

 

「――はい、残念」

 

 

しかし、五条は全く動じることなく、寸前でスッと腕を上げ、なんの苦労もなく彼女の踵落としを無下限の壁で受け止めてみせた。

 

 

(――ッしまった!完全に姿勢が悪いッ)

 

 

空中で攻撃を防がれ、完全に体勢が崩れたことを眞白が悟った、まさにその瞬間。

主の意図を汲み取ったかのように、彼女が握りしめていた『刀の式神』が意思を持って動き、眞白の手を自らグイッと強く引っ張ったのだ。

 

 

「――逃すと思う?」

 

 

式神の機転によって空中で体勢を立て直し、素早く離脱しようとした眞白。しかし、五条の反射速度はそれをさらに上回っていた。

五条は電光石火の如く腕を伸ばし、逃げようとした眞白の細い足首をガシッと掴んだ。そして、彼女を軽々と逆さまに吊り上げると、空いたもう片方の拳を残酷なまでに高く振りかぶった。

 

 

「ッ!?――折紙!!……フヌゥゥゥウ!!!」

 

 

逆さ吊りの状態で、眞白の脳がフル回転する。

五条の必殺の拳が放たれる寸前。眞白は手の中の刀の式神を瞬時に『手裏剣』へと変化させ、自身の足首を掴んでいる五条の腕に向かって鋭く放った。

それと同時に、彼女は自身の脳の処理能力を『領域展延』に極振りした。手裏剣を覆うように、五条の腕を這わせるようにして極薄の展延の結界を展開し、彼を覆う無下限の防御を一瞬だけ強引に削り切る。

そして――無下限が剥がれた次の瞬間、展延を即座に解いた。

 

 

ザシュッ!!

 

 

展延の解除によって術式を取り戻した『式神の手裏剣』が、無防備になった五条の腕の皮膚を、その完璧なタイミングを逃すことなく浅く切り裂いたのだ。

 

 

「――ッ!?……いいね」

 

 

自身の腕を切り裂いた手裏剣の凶刃から逃れるため、五条は咄嗟に眞白の足から手を離し、後方へ大きく跳躍して距離を取った。

着地した五条は、制服の袖の裂け目から覗く、自身の肌についた僅かな切り傷と、そこから流れる一筋の血を見つめ、ボソリと呟いた。

 

 

(展延で無下限を完全に中和して、僕が無下限を自動で再発動する直前の『僅かなラグ』を狙ったのか。……眞白自身が身体に展延を纏って無下限を削りながら攻撃するのとは、技術の次元が全く違う)

 

 

五条は額に一筋の冷や汗を流しながら、六眼で眞白の異常な戦術を冷静に分析する。

 

 

(今の技術こそが、この間あの子が展開してみせた『術式を中和する領域』のコンパクト版か)

 

「良しッ!うまく行った!!……へ?」

 

 

一方、着地した眞白は、現代最強の術師に明確な『傷』を負わせたことに、パァッと顔を輝かせて喜んだ。

しかし、その歓喜も束の間のことだった。

 

 

「――グヘェ!!!」

 

 

五条が『蒼』の引力を利用して、瞬きする間もなく一瞬で眞白の目の前へと移動。油断した彼女の顔面に、容赦のない裏拳を叩き込んで吹き飛ばしたのだ。

 

 

「なに油断してるの?隙だらけだよ」

 

 

ゴロゴロと地面を転がる眞白を一瞥し、五条はそう言い捨てる。そして、シュゥゥゥと音を立てて反転術式を使用し、手裏剣で負った腕の傷を一瞬にして塞いでしまった。

 

 

「グゥ……なんで傷ッ!――いや、手裏剣は!?」

 

 

なぜ傷を治す前にわざわざ殴ってきたのか。眞白は顔面を押さえながら抗議の声を上げようとしたが、次の瞬間、ある重大な事実に気づいた。

つい先ほど五条の腕を切り裂き、彼女の近くを飛んでいたはずの『式神の手裏剣』が、なぜ五条の攻撃から自分を守ってくれなかったのか。

眞白は視線だけで周囲を素早く探り、目を丸くした。

 

 

「いやいや、そのままほったらかすわけでしょ。こんな危ないもの」

 

 

五条は片手でグシャグシャに握り潰した『紙くず』を、パラパラとゴミのように地面に落として見せた。彼が眞白を殴ったのは、彼女が喜んで油断している隙に、厄介な手裏剣の式神を完全に破壊するためだったのだ。

 

 

「――私の手裏剣ッ!?こうなったら……フン!!!」

 

 

大事な作品をあっさりとゴミ屑にされた眞白は、怒りに任せて両手で地面を強く突いた。無理やり姿勢を立て直すと、そのままクラウチングスタートの要領で大地を蹴り、弾丸のように再び五条へと肉薄する。

 

 

「あんなの見せられたら、簡単に近づけさせるわけないでしょッ!――『蒼』!!」

 

 

眞白が間合いに踏み込む直前。五条は手のひらを向け、高出力の『蒼』を発動し、強烈な引力で彼女を真横へと大きく吹き飛ばした。

 

 

「――領域展延……じゃ、中和しきれないッ!!」

 

 

眞白は空中で咄嗟に領域展延を展開し、五条の『蒼』を中和して無効化しようと試みた。

しかし、オートで発動している通常の無下限の防御壁と、意識的に高出力で発動した『蒼』とでは、中和できるエネルギーの限界値が全く異なっていた。

展延の結界は容易く押し負け、眞白は強烈な引力に為す術もなく流されるように、木の葉のように宙を激しく舞う。

 

 

「……ん?なんだコレ、針……いや、雑草?」

 

 

眞白を吹き飛ばした後。五条は、自身の周囲に再発動させていた無下限の壁の表面に、見慣れない『何か』が引っ掛かっているのに気づき、目を細めた。

 

 

「うわァァァァァァアア!?!?!?!!!!」

 

 

そんな五条の思考を他所に、『蒼』の引力によって空中に飛ばされ、まるで見えない巨大な洗濯機の中に放り込まれたようにグルグルと回転させられ続けている眞白が、情けない悲鳴を上げ続ける。

 

 

「う〜ん。あと十周くらい回してやろうかな……いや、もういっか」

 

 

五条は『蒼』の引力を指先で器用に操作し、自身の頭上の上空でぐるぐると凄まじい勢いで円を描いて回っている眞白を見上げながら、実に楽しそうに呟いた。

 

 

「どっ――セイッ!!……お?」

 

 

五条は『蒼』を操作し、回転する眞白の軌道を強引に変更して、自身の真正面へと猛スピードで飛んでくるように誘導した。そして、彼女が迫る完璧なタイミングを見計らい、渾身の一撃を眞白の鳩尾へと深くめり込ませた。

 

 

「グゥゥウウ!!――お返しですッ!」

 

 

しかし、眞白もただではやられない。

自らの鳩尾に深く沈んだ五条の拳を、彼女は両腕で死に物狂いでガシッと抱え込むように掴んだ。そして、全身全霊の『領域展延』を強烈に発動しながら、五条の身体に自身の両足を蛇のように絡みつかせたのだ。

そのまま彼女は自身の身体を空中で無理やり錐揉み回転させることで、一本背負の要領で五条の巨体を地面に叩きつけようと試みる。

 

 

「――なかなか、怖いこと考えるじゃんッ!」

 

 

眞白の捨て身の柔術に対し、五条はニヤリと笑った。

彼は、展延を全力で発動して組み付いている眞白ごと、さらに強力な『無下限』の力で包み込んだ。二人の身体は、地面に激突する寸前の、すれすれの空中でピタリと浮遊状態になって静止した。

 

 

「うぇ?そんなのアリで――むぐッ!?」

 

 

地面すれすれで宙に浮いた状態のまま、眞白は目を白黒させて驚きの声を上げた。しかし、その声は五条の手によって強引に塞がれる。

 

 

「もう一回――お空の旅に行っておいでッ!!」

 

 

五条は眞白の顔面を片手でアイアンクローのように鷲掴みにすると、絡みついていた彼女の身体を強引に引き剥がし、そのまま大空へ向かってロケットのように思い切りぶん投げた。

 

 

「うぎゃァァァァァァアア!?!?!?!!!!」

 

 

強烈な頭の痛みと、唐突な目隠し状態での急激な浮遊感。視界と平衡感覚を同時に奪われた眞白は、空高く放り投げられながら情けない叫び声を上げた。

 

 

「――術式順転『蒼』ッ!!」

 

 

地上から見上げる五条が、容赦なく追撃を放つ。空中で体勢を崩し、無防備に宙を舞う眞白へ向けて、あえて詠唱によって出力を底上げした『蒼』を撃ち放ったのだ。

 

 

「――ッ!?しまったッ!」

 

 

空中で目を開けた眞白の視界を、圧倒的な引力の渦が埋め尽くす。

 

 

「――避ける術が……ッ!!」

 

 

空中に放り出されている今の彼女には、踏み込んで回避するための足場がない。五条の凶悪な『蒼』を前にして、回避の手段が見つからず絶望的な焦燥に駆られた眞白は、何かないかと必死に周囲を見渡した。

その時、森の影から彼女に向かって一直線に飛んでくる、一つの黒い影が目に入った。

 

 

「鷲さんッ!!ありが――あぁ、そんな!?」

 

 

それは、森の木々の影に潜み、五条へ奇襲をかける完璧なタイミングを伺っていた『最後の鷲型の式神』だった。

主の絶対絶命の危機に呼応した式神は、自ら盾となるべく飛来し、空中にいる眞白を強引に横へと突き飛ばしたのだ。

その捨て身の体当たりによって、眞白自身を『蒼』の致死範囲外へと押し出すことには成功した。しかし、身代わりとなった鷲型式神は圧倒的な引力の渦から逃れることはできず、そのまま『蒼』に吸い込まれ、悲鳴を上げる間もなく無残に散り散りになって消滅してしまった。

 

 

「よそ見みッ――厳禁ッ!!」

 

 

愛しい作品の死に息を呑んだ直後、眞白の耳元で氷のように冷たい声が響いた。

式神の犠牲によって間一髪で『蒼』を回避した眞白だったが、消滅する鷲型式神に一瞬の視線を送ってしまったため、五条本人への警戒が致命的に疎かになっていたのだ。

別の『蒼』による高速移動で空中の眞白の背後へと回り込んでいた五条に、彼女は再び、その顔面を大きな手でガシッと掴み取られてしまった。

 

 

「――むぐッ!?ガハッ!!!!!」

 

 

顔を完全にホールドされた眞白は、自由落下の勢いに五条自身の膂力と加速を乗せられ、そのまま隕石のごとく森の地面へと情け容赦なく叩きつけられた。

 

 

ドゴォォォォォンッ!!!!

 

 

地面が大きく陥没し、土煙が爆発するように舞い上がる。

 

 

「……参った?」

 

 

濛々と立ち込める土煙の中。

地面に叩きつけられ、激しいダメージに咳き込む眞白。五条は彼女の両足を自身の足で体重をかけて踏みつけて完全に押さえ込み、顔を未だ掴んだまま、激しく呼吸を繰り返す眞白の耳元へと顔を近づけて、ひどくサディスティックに囁いた。

 

 

「ハァ……ハァ……ッ!――折紙ッ!!!」

 

 

しかし、眞白の闘志は全く折れていなかった。

彼女は空いている手で、顔の横に生えていた近くの雑草をむしり取るように掴み取ると、瞬時に術式を付与。ただの雑草を鋭い『針』へと変化させ、至近距離から五条の顔面へ向けて無数に飛ばしたのだ。

 

 

「――ッ!……おっと」

 

 

不意打ちの凶刃に対し、五条はわずかに目を見開くと、眞白の顔からパッと手を離して素早く後方へと距離を取った。そして、常時展開している無下限の防壁で、飛来する針型の式神を容易く弾き落として身を守る。

 

 

「領域展延ッ!!」

 

 

拘束が解けた一瞬の隙を突き、眞白は両手を頭の横に置いて地面を弾くようにバネを使って飛び起きた。そのままウサギのように跳躍して五条の懐へと飛び込み、展延を纏わせた両足で強烈なドロップキックを放つ。

 

 

「グッ!――お返しッ!!」

 

 

眞白の重いドロップキックを腕でガードし、その衝撃によってわずかに宙へ浮いた五条。しかし彼は、その浮いた身体を空中で滑らかに捻り、遠心力を乗せた重い回し蹴りを目の前の眞白の胴体へと叩き込んだ。

 

 

「ぐあッ!?――ッ!そう何度も、やられませんッ!!」

 

 

五条の神速のカウンターに反応できず、眞白は数メートル後方へと激しく吹き飛ばされる。しかし、彼女は空中で無理やり姿勢を立て直し、着地と同時に地面を蹴り飛ばした。高速で追撃してくる五条を真正面から迎え撃つべく、両の拳を固く握り締めてインファイトの近接戦闘へと雪崩れ込む。

 

 

「それはどうかなッ!?」

 

 

五条は不敵に嗤いながらそう呟いた。

眞白から怒涛の勢いで繰り出される拳や蹴りを、五条はまるで遊ぶように適当にいなしていく。そして、眞白の攻撃が彼に一発当たるたびに、その倍の数の重い拳と蹴りを彼女の身体へと正確にお見舞いして削っていく。

 

 

「ガッ!?――こんのッ!!」

 

 

実力差をあからさまに見せつけるような五条の余裕の態度に、眞白は激しく苛立った。彼女は血を吐き出しながらも、右の拳を大きく後ろに振りかぶり、五条の顔面を目掛けて自身の全呪力を乗せて勢いよく突き出した。

 

 

「ッ!――よっと」

 

 

だが、五条は顔に迫ってくる眞白の渾身の拳を、いとも容易く、咄嗟に手のひらでガシッと受け止めて掴んでしまった。

 

 

「――ッ!……『悪手』!!」

 

 

腕を完全に掴まれ、動きを止められた眞白。しかし彼女は焦るどころか、逆に五条が『自分の腕から離れられなくなった』ことをいいことに、ニヤリと笑って反対側の左拳を大きく振りかぶった。

 

 

「……それが――悪手ッ!」

 

 

五条の声が、冷たく響く。

彼は眞白の右腕を掴んだ手とは反対の手で、迫り来る彼女の左拳をあっさりと払い落とした。そのまま眞白の顔の前へと腕を突き出すと、パチンと指を鳴らす。

直後、眞白の周囲の空間を取り囲むように、小さな『蒼』の球体が同時に五つ、不気味な音を立てて顕現した。

 

 

「ヤバッ!?……ッ!!」

 

 

ゼロ距離での多角的な引力の暴力。眞白は今もなお五条に片腕を固く掴まれているため、後方へと距離を取って回避することができない。

死の予感に顔を真っ青にしながらも、眞白は咄嗟の機転で、掴まれている五条の腕を『支柱』にしてその場に高く飛び跳ねた。空中で身体をアクロバティックに捻りながら、迫り来る五つの『蒼』の軌道を死に物狂いで回避しようと試みる。

 

 

「グゥゥゥウウ!?!?!?!!!!」

 

 

しかし、神業のような体捌きで四つの『蒼』を躱すことには成功したものの、最後の一つが眞白の横腹を掠めた。

制服の生地が空間ごと削り取られ、同時にその下の白い皮膚と肉が抉られるようにしてごっそりと消滅する。領域展延で必死に防御力を底上げしてもなお、中和しきれない純粋で凶悪な空間の暴力。その激痛に眞白は顔を歪め悶えるが、彼女は決して止まらなかった。

 

 

「――むぐ?」

 

 

至近距離で『蒼』を撃ち込み、決着がついたと思ったのも束の間。五条は意表を突かれた。

眞白は横腹を抉られる痛みに悶えながらも、自身を掴む五条の腕に猿のように強く抱きついたのだ。そのまま両足を使って五条の頭を首締めのようにぐるりと巻き取るようにして強く挟み込み、ゼロ距離から全力の領域展延を発動して、五条の頭部を覆う無下限のバリアを中和しにかかった。

 

 

「折紙ッ!!!!!」

 

 

五条の頭に執拗に絡みついたまま、眞白は空いている手を近くの巨大な樹木の幹へと当て、術式を付与した。

途端に、樹木の上部に生い茂る無数の葉と、根本に群生する雑草の全てが、鋭利な金属の『針』の形へと一斉に変異する。それらは意思を持った蜂の群れのように、五条の死角から彼を目掛けて一斉に殺到した。

 

 

「あっぶな!?」

 

 

流石の五条も、無下限を中和されかけているこの状況での全方位からの刺突は危険だと判断した。彼は頭に喰らいついて離れない眞白ごと、その場から大きく跳躍して無数の針の雨を回避する。

そして空中で、五条は自身に巻き付く眞白の首根っこを大きな手でガシッと掴むと、力任せに自身の身体からベリッと引き剥がし、そのまま地面へ向けて激しく投げ飛ばそうとした。

 

 

「――フヒッ!」

 

 

五条の手によって空中に投げ出される寸前。

眞白は、不気味に歪んだ笑みを浮かべていた。

 

(……なんだ?一体、何をするつもり――ッ!?)

 

 

その捨て身の笑みに微かな違和感を覚えた五条だったが、次の瞬間、その答えが彼の六眼にハッキリと映し出された。

空中に放り出された眞白が、自身の胸の前で、五条でさえ今まで見たことのない『掌印』を硬く結んでいたのだ。

 

 

「……領域展――ッ!?」

 

 

眞白がその奥の手を唱えようとした、その時。

最強の術師が、それを悠長に許すはずもなかった。

 

 

「――オラッ!!」

 

 

五条は眞白が言葉を言い終わる寸前、『蒼』の引力を利用して空中の自身の身体の位置を微調整し、完璧なフォームで眞白の腹部へ向けて強烈な蹴りを叩き込んだ。

 

 

「グゥッ!?」

 

 

腹部に五条の強烈な蹴りをまともに食らい、眞白の小さな身体は砲弾のように森の奥へと吹き飛んだ。

ドゴォッ、バキバキバキッ!と、進行線上にある何本もの太い樹木に次々と激突し、それらをへし折りながらも、恐るべき勢いは一向に減速しない。眞白は土煙を巻き上げながら、無様に地面を転がり続けて深い森の暗がりへと消えていった。

 

 

「…………っぱ、そうくるよねッ!――『蒼』ッ!!……チッ!」

 

 

五条は追撃の手を緩めず、視界から消えた眞白の出方を警戒するように森の奥を鋭く睨みつけた。

直後、鬱蒼とした木々の影から、大量の葉を元にした無数の式神が、五条の視界を完全に覆い尽くすようにして群れを成して向かってくることに気づく。

五条が舌打ちと共に『蒼』の引力で目障りな葉の式神たちをまとめて吹き飛ばすと、その吹き飛んだ葉の影から、眞白が『先ほど空中で結んでいたのと同じ掌印』を固く結びながら、真っ直ぐにこちらへ向かって凄まじい速度で突進してきているのが見えた。

 

(領域展延のゴリ押しをやめて、大技である『領域展開』に舵を切ったのは、単純に使える式神の在庫が切れたのと、僕に対する一発ネタがもう通じなくなったから。……そしてわざわざ、僕の至近距離まで近づいて領域を展開しようとするのは、単純に広範囲に広げる分の呪力消費を抑えるため。この間の二の舞を演じないため、って感じかな)

 

五条は六眼で捉えた眞白のこれまでの行動と呪力の流れを鑑みて、瞬時に彼女の意図と戦術の理由を正確に推測した。

 

 

「――領域……ッ!」

 

 

五条の間合いに踏み込んだ眞白が、必殺の言葉を紡ぎにかかる。

 

 

「バカの一つ覚えみたいに――やらせるわけないでしょッ!!」

 

 

だが、五条は眞白の詠唱を力ずくで遮るように両手を前に突き出した。指先を弾く。

瞬間、突進してくる眞白の周囲を囲むように、八つの小さな『蒼』が同時発生した。空間そのものが削り取られる暴力的な引力の球体が、眞白を八方から圧殺しようと迫る。

 

 

「――ッ!!!」

 

 

眞白は咄嗟に掌印を解き、猫のようにしなやかな身のこなしで後方へ大きく飛び退くことで、自身の身体が削り取られるのを間一髪で躱した。

 

 

「――ッと……これでできないでしょ?」

 

 

だが、飛び退いた眞白の着地地点に、五条は『蒼』の引力を利用した高速移動で既に先回りしていた。

五条は眞白の片腕を万力のような握力でガシッと掴み上げ、強引に彼女の身体を拘束して、絶対に掌印を結ばせないように封じ込めた。

 

 

「……フフッ――ベェ〜ッ!」

 

 

腕を掴まれ、万事休すかと思われた眞白だったが。

彼女は、なんとしてでも領域を発動させまいとする最強の術師の『必死さ』に愉快そうに笑うと、五条に掴まれている自身の腕の『掌』をパッと開き、子供のように煽るように舌を出してみせた。

 

 

「あぁ?――ッ!」

 

 

ナメ腐った眞白の顔を見て、五条の額に一瞬だけピキッと青筋が浮かぶ。しかし、五条の視線が眞白の開いた『掌』へと誘導された瞬間、今日一番の驚愕と、背筋を這うような悪寒が五条の脳髄を突き抜けた。

 

 

(掌に、自らの血で直接描いた呪印ッ!まさか、掌印の『省略』かッ!?)

 

 

五条の六眼が、眞白の手のひらに刻まれた術式のパスを読み取り、戦慄する。

 

 

「領域展かッ!――ブッ!?」

 

 

眞白はニヤリと笑い、五条に掴まれていない反対側の手のみで中途半端な片手印を結ぶと、強引に詠唱を再開した。

 

 

「――シッ!!」

 

 

しかし、いくら術式を省略しようとも、現代最強の反射速度の方が僅かに上回っていた。

五条は眞白が必殺の呪詞を言い終える直前、拘束していない方の手で鋭く拳を振り抜き、眞白の顔面を容赦なく殴り飛ばした。

脳を揺らされた眞白の詠唱が強制的に中断され、五条はその僅かな隙を見逃さず、彼女から大きく後方へと跳躍して距離を取った。

 

 

「コイツ……俺が『領域を展開できないこと』わかってやってんなぁ?」

 

 

十分に離れた位置に着地した五条は、不敵に笑ってこちらの様子を伺っている眞白を睨みつけ、忌々しそうに口に出した。眞白は、五条悟と領域の押し合いをすれば、精度と経験の差で確実に負けることを前回で痛いほど理解している。

しかし、五条の領域『無量空処』は、展開した時点で相手の脳に無限の情報を流し込み廃人にする、『必中』であり『必殺』の領域である。故に、五条はいくら本気の戦闘とはいえ、自身の生徒である眞白を殺すような真似は絶対にできない。つまり、眞白が領域を展開してきた場合、『本気』の五条は自身の領域の『必殺』をなくした中途半端な領域で上書きすることができず、外側から眞白の領域をなんとか退けることしかできないという明確な『縛り』を背負わされているのだ。

眞白は、その五条の『手札の制限』を完全に理解し、逆手にとって煽っているのである。

 

 

「なら――ヤり方を変えるかッ!!」

 

 

五条の表情から、先ほどまで浮かべていた余裕の笑みが消え去り、代わりに肉食獣のような獰猛な笑みが浮かび上がった。

領域という搦め手が使えないなら、純粋な『暴力』で叩き潰す。

五条は『蒼』を発動すると、目にも止まらぬ神速で、一瞬にして眞白の懐深くまで入り込んだ。

 

 

「ッ!?――ガッ!?!?!」

 

 

五条のあまりの速さに全く反応できず、眞白は完全に無防備な顔面を重い拳で殴り飛ばされた。

 

 

「――まだまだァッ!!!」

 

 

吹き飛ぶ眞白の身体。しかし、五条は彼女が地面に落ちるよりも早く、再度『蒼』を使った超高速移動で彼女を追い抜き、先回りして反対側から容赦なく殴り飛ばす。

 

 

「ガッ!?――グギッ!?」

 

 

まるでピンボールのように空中で弾かれる眞白。

それを二回、三回、四回と、五条は一切の情けをかけずに繰り返した。純粋な物理的暴力の連続が、眞白の身体を確実に破壊していく。

 

 

「ほらほらぁ――もう限界ッ!?」

 

 

五条が再度、空中で為す術もなく無防備になっている眞白を殴り飛ばした際、サディスティックにそう口に出した。

 

 

「グゥ……ッ――ハァァァァァアアッ!!!!!」

 

 

しかし、眞白はその五条が勝ち誇って話しかけてきた『僅かな隙』を逃さなかった。

空中で無理やり姿勢を立て直した眞白は、落下エネルギーと自身の全呪力を乗せ、眼下の地面に向かって全力の踵落としを叩き込んだ。

 

 

バゴッ!!!!!

 

 

すさまじい轟音と共に、地面が爆弾を埋め込まれて破裂したかのように大きく弾け飛んだ。大量の砂煙や、巨大な土塊が眞白の周囲を囲むようにドーム状に浮かび上がる。

 

 

(これで、直線を移動する不用意な高速移動はできないはずッ)

 

 

眞白は激しく息を吐きながら、自身を中心に無数の『障害物』を作り出すことで、五条が『蒼』を使って一直線に自身に近づけないように即席の防壁を構築したのだ。

 

 

「はい、30点。柄にもなく焦りすぎ」

 

 

だが、土煙の向こう側から、五条のひどく冷静で、絶対的な強者の声が響いた。

 

 

「――ッ!」

 

 

眞白が自身の戦術の『失敗』に気づき、血の気が引いた時には、すでに遅かった。

 

 

「術式順転『蒼』ッ!!」

 

 

五条の声と共に、障害物ごと全てを呑み込む破滅の球体が放たれた。

眞白に向かって一直線に進む巨大な質量の『蒼』が、森の地面を深く抉り、先ほど眞白が防壁として作り上げた巨大な土塊ごと全てをブラックホールのように吸収し、逃げ場のない圧倒的な暴力となって迫り来る。

 

 

「領域展延ッ!!!!!」

 

 

眞白は強大な『蒼』の引力に呑み込まれまいと、悲鳴のような声で叫びながら、己の全呪力を振り絞って全力の領域展延を展開した。

結界で引力を中和しながら、その場から弾かれるように跳躍して直撃を回避する。しかし、『蒼』の圧倒的な引力によって引き寄せられた無数の砂利や木片が、散弾銃の弾丸となって彼女の小さな身体を容赦なく襲った。

 

 

「ハァ……ハァ――グッ!?ッガ!?……ッ!」

 

 

全身を打つ鋭い痛みに、眞白が空中で体勢を崩す。

しかし、現代最強の術師が、その致命的な隙を逃すはずもなかった。

 

 

「――フッ!……オラッ!!」

 

 

瞬きする間もなく眼前に現れた五条が、眞白の無防備な顔面や胴体へと、怒涛の連撃を叩き込む。

 

 

「――ブッ!?……やるぅ!!」

 

 

だが、一方的な蹂躙では終わらない。眞白もまた、血反吐を吐きながらも折れることなく、反撃の拳を五条の頬へとねじり込んだ。

二人は、これが互いにとってのラストスパートだと言わんばかりに、自身の持てる全てを出し切るように身体の全てを使ってぶつかり合う。重い打撃音が連続して森の木々を揺らし、二人は激しい肉弾戦を繰り広げながら、森の斜面を駆け上がっていく。

 

 

「そー……れッ!!!!!」

 

 

そして、五条の放った渾身の右ストレートが、防御のために重ねられた眞白のガードごと完全に突き破った。

 

 

「ガッ!?――ゥァァァァァァアアアアア!!!!!!」

 

 

ガードを貫かれた衝撃で、眞白の身体はボールのように吹き飛ばされた。

ドバキバキバキッ!!と、彼女は森の木々を何本も破壊して転がりながら吹き飛び続け、最後に高専郊外の森と敷地を隔てる分厚い白壁を派手に粉砕し、その向こうの石畳の道へと激しく転がって、力なく仰向けに倒れ伏した。

 

 

ガラガラガラッ……!

 

「うわッ!?何!びっくりしたッ――」

 

 

たまたま近くの石畳の道で待機していた歌姫は、突如として粉砕された白壁と土煙に、驚いて大きく飛び退いた。

そして、土煙が晴れた後に倒れている人影を見て、さらに目を剥く。

 

 

「って、眞白ちゃん!?」

 

 

倒れているのは、先ほどまで圧倒的な力を見せつけていた一年生だった。

 

 

「って、ボロボロじゃない!?は、早く硝子のとこに――」

 

 

全身血まみれで、ピクリとも動かない眞白の痛々しい姿を見て、歌姫は慌てて彼女の側へ駆け寄ろうとした。

 

 

「馬鹿がッ!――早く離れるぞ!!……ほら、来いッ!」

 

 

しかし、その背後から猛烈な勢いで走ってきた日下部が、通り過ぎざまに荒々しい声で怒鳴りつけた。彼の背中には、血と焦げ跡だらけになった京都校の三年男子生徒が背負われている。

日下部は足を止めることなく、空いた片手で歌姫の腕を力強く引っ張り、そのまま無理やり危険地帯から引き離して避難を急いだ。

 

 

「うん?……今のは日下部さんと歌姫?まぁ、離れたならいっか」

 

 

崩れた白壁の上空から、五条がゆっくりと降りてきた。

彼は逃げていく二人の背中を一瞥してそう呟くと、音もなく石畳の上へと着地した。

 

 

「ハァ、ハァ、ハァ――ゴホッ!……ふぅ」

 

 

五条の着地とほぼ同時に、倒れていた眞白が両手を震わせながら石畳につき、なんとかふらふらと立ち上がった。しかし、不意に口からどす黒い血がゴボリと溢れ落ちる。

 

石畳の広場。数メートルの間を開けて、両者は再び静かに見つめ合った。

 

五条は制服こそ破れ、血や土で汚れているものの、反転術式による回復が完璧に間に合っており、無傷の状態で息一つ乱さずに立っている。

一方の眞白は、服はズタズタに破れ、血と土で汚れきっていた。未熟で微弱な反転術式では到底傷の治療が追いつかず、未だに頭や脇腹、身体の至る所から生々しい血が流れ続けている。

 

 

『おいッ五条!逃げ遅れた生徒の避難は全員終わったぞ!』

 

 

そこで不意に、森の遠く離れた場所から、先ほど離脱した日下部の大声が響き渡った。

 

 

「あ?……あー、そういえばそんなこと頼んでたな」

 

 

日下部の報告を聞き、五条は「すっかり忘れてた」とでも言いたげに適当に聞き流した。だが、彼の六眼は、目の前で満身創痍のまま立つ眞白から決して視線を外そうとはしなかった。

 

 

「は、ハハッ――フヒッ!」

 

 

ふと。

血まみれの眞白が、肩を揺らして気味悪く嗤い始めた。

 

 

「…………?」

 

 

五条はその異様な様子に、微かな違和感を覚えた。

そして次に彼が目にしたのは、眞白が胸の前で、最後の力を振り絞るようにゆっくりと『掌印』を結ぶ姿だった。左手の人差し指をスッと立て、それを右手で包み込むように固く握りしめる――『智拳印』。

先ほどのように至近距離ではない。五条は彼女の意図を瞬時に推測する。

 

 

(なるほど。もう呪力消費のことを考えるのをやめて、前回ように『巨大な領域』に僕を閉じ込めて、無下限を中和しながら術式なしの純粋な肉弾戦に持ち込もうとしているわけだ)

 

 

その証拠に、五条の六眼は、眞白の周囲には勿論のこと、特に『両足』に対して膨大な呪力が流れ込んでいるのをはっきりと視認していた。領域展開と同時に、一気に間合いを詰めてくる気なのだ。

 

 

「はぁー、わかったよ」

 

 

五条は大きなため息をついた。

 

 

「僕って優しいから、最後くらいは無下限なしで真っ向から殴り合おうか」

 

 

五条は掌印を結ぶ眞白を見ながら、呆れたように、そして少しガッカリしたような様子で後頭部を掻きながら、余裕たっぷりに声をかけた。

 

 

「フフッ……アハッ!――アハハハッ!!」

 

 

しかし、眞白は五条のその言葉を聞いて、さらに口角を吊り上げ、狂ったように嗤ったのだ。

 

 

「それが、あなたの『弱点』ですよ。……五条先生」

 

 

眞白の口から放たれたのは、先ほど彼女自身が指摘した言葉。

それを合図にしたかのように、先ほどまでとは比にならないほどの絶大な量の呪力が、眞白の小さな身体から爆発的に溢れ出し、周囲の空間を分厚く覆い尽くしていった。

 

 

「は?」

 

 

五条は、完全に想定外の事態に思わず間抜けな声を漏らした。

 

 

「――領域展開」

 

 

眞白はそう呟きながら、両足に溜め込んでいた呪力を爆発させ、全力で飛んだ。

五条の待つ『前方』へ向かって、ではない。

五条とは『反対方向』の、森の奥深くへ向かって――つまり、逃げるように背を向けて跳躍したのだ。

 

 

「なッ――」

 

 

あまりの速度に、眞白の声が遠ざかる。五条の耳には、領域展開の『続きの言葉』を聞き取ることすらできなかった。直後、辺りの空間から漆黒の結界がドーム状に現れた。

次の瞬間には、眞白を起点として、森全域をすっぽりと包み込むほどの超巨大な結界が形成され、バキンッ!と音を立てて領域が閉じた。

 

領域の外に、五条悟だけを完全に残して。

 

 

「…………」

 

 

五条は目の前に展開された、異様なほど巨大な黒い領域を見上げながら、顎に手を当てて思案する。

 

 

(眞白のやつ、一体何をしている?領域の距離感をミスった?それとも、さっき僕が頭を殴りすぎたせいでおかしくなったか?)

 

そんな考えを巡らせるが、あの計算高い教え子が意味のない行動をとるとも思えなかった。

 

 

「まぁ、いいや。何をやろうとしてるかは知らないけど、外から壊しちゃえば関係ないでしょ」

 

 

そう言って五条は、ふわりと重力を無視して宙に浮き上がり、巨大な領域全体を見下ろせる高度まで一気に上昇した。

 

 

「――術式順転『蒼』ッ!!」

 

 

五条の指先から、空間を抉る強烈な引力の球体が放たれる。五条の計算では、いくら眞白の領域といえども、これほど巨大に引き伸ばされた領域であれば、その分外殻は薄くなり、外側からの攻撃には通常の領域よりもめっぽう弱くなっているはずだと考えた。

しかし――巨大な『蒼』が領域の黒い外殻に激突した瞬間。

領域はヒビ一つ入ることなく泰然と鎮座し、反対に、絶対的な破壊力を持つはずの『蒼』の方が、薄いガラスに当たって弾ける様に霧散して消えてしまったのだ。

 

 

「――ッ!……『蒼』で破れなかった?」

 

 

五条の六眼が見開かれる。

 

 

「いや、これは。……まさか!」

 

 

五条の天才的な頭脳が、眞白の常軌を逸した『考え』に行き着いた瞬間。

巨大な漆黒の領域は、役目を終えたかのように霧散し、ゆっくりと朝靄のように解けていった。

そして、晴れていく結界の中から姿を現した眞白が、五条の思考の続きを説明する様に、上空へ向かって誇らしげに口を開いた。

 

 

「……そうです。この領域は『内側と外側の領域の性質』、つまり『内から外に誰も逃げられないようにする』という本来の仕様を、完全に逆転させた結界です」

 

 

眞白の淡々とした口調が響く。

 

 

「更に、領域内に意図的に『人を入れず』、必殺の縛りをあえて無くすことで、外側からの攻撃に対して極限まで強度を上げ、領域の範囲を広げました」

 

 

淡々と解説しながらも、自身の練り上げた『奥の手』が無事に機能し、あの現代最強の術師を完全に欺いたことに対して、眞白はその声に隠しきれない喜びを滲ませていた。

 

 

「は、ハハ……アッハハハハッ!!」

 

 

五条は顔を覆い、こらえきれないといった様子で腹を抱えて大笑いした。

 

 

「――誰も入れない領域!?……そんな使い方したの、呪術界の歴史上でも眞白が初めてでしょ!?」

 

 

五条は、自身の生徒がひねり出したその『規格外の狂気』に、心底嬉しそうに歓喜の声を上げた。

 

 

「むふッ」

 

 

眞白はそんな五条を見上げながら、「やってやった」と言わんばかりの、なんとも可愛らしいドヤ顔を晒している。

 

 

「ククッ――ハハッ!」

 

 

五条は眞白のその得意げなドヤ顔を見て、微笑ましそうにしながら更に口角を広げた。

 

 

「ってことは、さっきから僕の至近距離にわざわざ近づいて領域を展開しようとしてたのは、全部『ブラフ』ってこと?僕を領域の中に『入れないため』の」

 

 

先ほどの目まぐるしい戦闘のやり取りを思い出しながら、五条が感心したように口に出す。

 

 

「はい、正解ですっ」

 

 

眞白は花が咲いたように、ひどく嬉しそうに声を上げた。

 

 

「そして、領域という絶対的な安全圏の中で、領域内の術式効果対象に対し術式を必中させ、ゆっくりと『コレ』を作るための時間稼ぎ……です」

 

 

眞白が背後を指し示す。

そこから現れたのは、掌よりも遥かに小さい、無数の折り紙の式神たち。それが、数えるのも億劫になるほどの莫大な量の群れとなり、まるで巨大な『雲』のように眞白の背後を不気味に漂っていた。眞白自身も、その式神の一部が密集した塊の上に乗り、ふわりと宙に浮いている。

 

 

「――ハハッ。それ、見てて心痛まないの?」

 

 

五条は呆れたように息を吐いた。

 

 

「流石の僕でも、ちょっと引いちゃうかも」

 

 

そう言って五条は、先ほどまで眞白の領域に包まれていた眼下の森を見下ろした。

そこは、先ほどまでの青々とした夏の森の面影など一切ない。領域内の全ての草葉が強制的に式神の素材として徴収され、まるで真冬の枯れ森のように、丸裸になった不気味な幹だけを晒す異様な光景が広がっていたのだ。

 

 

「……痛む?なぜですか?」

 

 

しかし、眞白は全く理解できないというように、コテッと可愛らしく頭を傾けて言った。

 

 

「確かに自然の森は美しいですが、私の『作品』ほどではないですよ?」

 

「イカれてる」

 

 

五条は眞白に聞こえないほどの小さな声量で、しかし、極上の才能を見つけた芸術家のように、ひどく嬉しそうに恍惚と呟いた。

 

 

「ふふん。では行きましょうか。私のとっておきの自信作」

 

 

眞白が指揮者のように両手を広げると、彼女の背後で雲のように漂っていた何十万、何百万という大量の式神の群れが、恐るべき呪力を放ちながら巨大な『一塊』になるように集束し始めた。

 

 

「来るかッ!」

 

 

五条は獰猛に口元を吊り上げ、この日一番の期待を胸に抱きながら、圧倒的な呪力を練り上げて迎え撃つ構えをとった。

 

 

「そう、名付けるならッ――行って!『雲龍(うんりゅう)』!!」

 

 

眞白が夜空を割るような声で叫び、宙に浮かぶ五条の方へ向けて真っ直ぐに手をかざした瞬間。

眞白の背後で巨大な雲のように漂っていた無数の式神の集団が、意志を持ったようにうねりを上げ、一匹の長大な『龍』の姿を象りながら、最強の呪術師へと向かって一直線に襲いかかった。

 

 

「――ッ!?………ぁ」

 

 

その光景を見た瞬間、五条悟の動きがピタリと止まった。

空を泳ぐ巨大な龍の姿。そして、それを誇らしげに操る術師の姿。

五条の六眼は、その瞬間に『別の何か』を幻視していた。かつて彼の隣で肩を並べて笑い合っていた唯一の親友と、彼が使役していた巨大な龍の姿が、目の前の紙の群れと重なったのだ。五条は思わず瞳を大きく見開き、その場で一瞬だけ完全に硬直してしまった。

 

そのコンマ数秒の隙が、致命的な遅れとなる。

次の瞬間、巨大な雲龍の顎が五条の目の前に迫り、五条の視界の全てが白く舞い散る無数の式神によって完全に包み込まれた。

もちろん、五条の周囲に常時展開されている『無下限呪術』が、接近する全ての式神の動きを不可侵の壁でピタリと止めている。しかし、その壁の表面を覆い尽くす式神の数が余りにも多すぎるが故に、五条は外の景色を全く見ることができず、光が微かに差し込むだけの狭く閉ざされた暗闇の空間が広がっていた。

 

 

――ガガガガガッ!

 

 

暗闇の中、眞白が『領域展延』を使って五条の無下限の壁をゴリゴリと削り取る、耳障りな音が響き始めた。

当然、視界が式神で完全に包まれていようとも、五条の持つ六眼は壁の向こう側で必死に展延を押し付けてくる眞白の呪力を完璧に視認している。

しかし、五条は何もしなかった。

いや、正確には『何もできなかった』のだ。

 

今、無下限の出力を強く保ち、式神ごと弾き飛ばそうとさらに広げようとしても、その隙を突いて眞白が領域展延で着実に距離を縮めてくる。

かといって、その逆――無下限を一度完全に消して、眞白と直接的な肉弾戦を繰り広げることも不可能だった。五条の周囲を球状に覆い尽くしているこの無数の式神たちは、先ほどの『手裏剣』と全く同じく、全てに拡張術式『鉄漿紙』が付与されているのだ。無下限を解いた瞬間、五条は文字通り数百万の刃によって蜂の巣にされるだろう。

 

ならば、術式『蒼』で全てを一掃するか?それも選択肢には入らない。

『蒼』を使おうとすれば、術式の並行使用により、少なからず身を守る無下限の防御力が弱まってしまう。眞白はその僅かな隙を決して見逃さず、展延の刃で首を刈りに来るだろう。そして『蒼』も同様に、中途半端な出力で生成すれば、それを外へ打ち出す間もなく眞白の領域展延によってそのまま貫かれ、無効化されてしまう。

 

――詰み、だった。

 

五条悟の唯一の弱点と、自身の強みを完璧に引き出し、最悪の盤面を作り上げた、眞白の完全な『計算勝ち』である。

 

 

「…………フフッ」

 

 

暗闇の極小空間の中で、五条は密かに笑みを溢した。

故に五条は、まだ教え子に見せるつもりではなかった――本来であれば、見せる必要など全くないだろうと考えていた『手札』を切る決断を下した。

 

 

「――ッ!」

 

 

眞白の研ぎ澄まされた感覚は、その微かな変化を決して見逃さなかった。

壁の向こうの五条の無下限の出力が、ほんの僅かに弱まっていることに気づいたのだ。だからこそ、眞白は自身の領域展延をさらに強く保ち、これでトドメだと言わんばかりに全身の呪力を込めた。

 

 

(これで倒せる。私の勝ちだ)

 

 

眞白の胸の内に、爆発的な歓喜が沸き上がる。

 

 

(このまま展延で殴り飛ばして無下限が不安定になったところを、私が完全に無下限を削り切り、再発動する前に、数百万の式神と共に叩き潰す!)

 

 

眞白は心の底から歓喜に震えていた。目の前の自分を拾い上げてくれた大恩人に、最強の力を持つ孤独な男に、

 

『貴方はもう一人ではない』と、堂々と宣言できるであろうこの奇跡の瞬間に。

 

 

――違和感。ふと、壁の向こうの五条が、こちらに向けてまるで『蒼』を撃つような仕草をとっていることに気づく。

 

――違和感。そういえば。先ほど五条先生は、『蒼』を撃つ時にわざわざ『順転』と、そう詠唱していたではないか。

 

――違和感。眞白の背筋を、氷のような冷や汗が流れ落ちた。

 

 

(私は今まで、根本的な勘違いをしていたのではないか?)

 

 

例え、高専の書庫にある資料を全て暗記したからと言って、呪術の全てを知ったと勘違いしていたのではないか?と。それこそ、己が今身にまとっている『領域展延』がいい例だ。

 

 

「眞白。ここまで、よく着いて来れたね」

 

 

式神の壁の向こう側から、五条のひどく穏やかな、それでいて心底嬉しそうな笑顔の声が響いた。

 

 

「正直言って、ここまで僕に本気を出させるとは思ってなかったよ。ここ数年で、ここまで心が躍ったのは他にない」

 

 

死を目前にした静寂の中で、最強の術師からの最大級の称賛が贈られる。

 

 

「あ、だからって『本気じゃなかった』わけじゃないよ?眞白が死なない程度には、ちゃんと本気を出したつもり」

 

 

フッと五条が息を吐く気配がした。

 

 

「だから、そんな頑張った眞白に……新しい『課題』として、ご褒美代わりにコレを贈ろう」

 

 

見えないはずの五条が、六眼越しに眞白の目を見て、優しく笑いかけているのが分かった。

そして、五条の指先に現れたのは、全てを引き寄せる『蒼』とは正反対の、全てを弾き飛ばす赤い光――。

 

瞬間、眞白の身体が、自分の意志とは全く関係なく、圧倒的な力によって『外側』へと押し出されていくのを感じた。

 

 

(違う、そんなはずない。嫌だ。ダメ、信じない。見たくない!)

 

 

眞白の心が絶叫する。

 

 

(あんなに考えて、こんなに頑張ったのに。先生を出し抜くために、全てを懸けたのに……まだ、こんなにも遠いなんて!)

 

「――術式『反転』:赫」

 

 

五条が、指を弾いた。

その瞬間、眞白の視界に広がったのは、全てを白く塗り潰すほどに鮮烈に輝く『赫』の光だった。

 

膨張する巨大なエネルギーが周囲の空間を満たした瞬間。眞白の視界は、五条の姿から猛烈な速度で遠ざかっていく。どれだけ手を伸ばしても、何度も何度も彼に向けて手を伸ばしても、もう届かない。

 

 

――ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!!

 

 

そうしている内に、背中に大木が砕け散るようなすさまじい衝撃を感じて、眞白の意識は完全に暗転した。

 

土煙が晴れた後。

五条の目に映ったのは、大量の砂埃を立てて、森の木々を薙ぎ倒しながら一直線に抉られた『一本道』だった。

その遥か先、えぐれた大地の果てで、ぴくりとも動かず、静かに瞳を閉じている眞白の姿があった。

 

五条はそんな眞白の横にフワリと降り立つと、ボロボロになった小さな身体を、ゆっくりと両腕で横抱きにして持ち上げた。

先ほどまで恐ろしいほどの気迫で忙しなく動き回っていた時とは違い、今の彼女は微動だにせず、ただ眠った様に安らかに目を閉じている。そう、まるでベッドで眠っているかのように、全身血まみれの状態で完全に気絶していた。

 

 

「…………」

 

 

五条は自身の腕の中で眠る生徒の寝顔を数秒見つめた後、急に顔色を変えた。そして、急いで上空へ飛び立つと、高専の校舎の方へ向かって情けない声で叫び声を上げた。

 

 

「硝子ォォォォォォーー!!やりすぎたっ!マジでやばい!!!助けてッ!!!!!」

 

 

最強の術師の焦燥に満ちた叫び声が、夏の青空に虚しくこだまする。

 

これにて。

京都姉妹校交流会第一試合:団体戦(?)――終了。

 

 

 






感想と評価嬉しい…
2年の男子叩かれすぎて可哀想になってきた。

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