灯り一つない、底冷えするような薄暗い密室。
部屋の四方を囲むように立てられた四枚の障子だけが、背後から当てられた和蠟燭の薄ぼんやりとした灯りを頼りなく透過させている。
その部屋の中心、四枚の障子に囲まれるような形で、東京校学長である夜蛾正道と、京都校学長である楽巌寺嘉伸が、重苦しい沈黙の中で控えていた。
「――では。綴眞白を『一級術師』に認定することに対し、反対意見のある者は発言を」
四枚の障子のうちの一枚。仕切り越しに姿を見せない老人の、腹の底に響くような仰々しい声が密室に響き渡った。
今回の交流会において、規格外の実力と異常性を見せつけた一年生・綴眞白の昇級審査。それが、この緊急会議の目的であった。
「まだ、十六歳であろう。それに一般家庭の出身だ。相応の実力があるとは言うものの、些か昇級を急かしすぎではないか?」
別の障子の奥から、比較的落ち着いた、理知的な声色が上がる。性急な判断を諫めるような、穏健な響きがあった。
「何事も、手は多い方が良い。歳や経歴など、勘定に入れる必要などない。重要なのは呪霊を祓えること。……それ一点のみだ」
また別の障子から、傲慢さを隠そうともしない横柄な声が吐き捨てた。
「しかし、未だ公式な任務での『祓除の実績』がないことも事実だ」
淡々と利益を計算するような、冷徹な声が懸念を述べる。
「その通りだ。現状のまま一足飛びに一級に上げてしまえば、すぐに殉職する恐れもある」
先ほど昇級を急ぎすぎだと指摘した穏健な声の主が、生徒の死を現実的なリスクとして危惧し、同調した。
「それに何の問題がある?」
傲慢な声の主が、鼻で笑った。
「術師には死がつきものだ。死ぬ覚悟など、それを理解して本人も高専に来たのであろう。本人も昇級を望んでいると聞いておる。我々のために任務で死ぬのなら本望だろう」
命をただの駒としか見ていない冷酷な発言。夜蛾の眉が微かに動いたが、彼は口を開かず、ただじっと畳を見つめていた。
「しかし、彼女の才や成長速度を加味し、ゆっくりと下地を積ませれば、将来的に我らの『大きな財産』となる。禪院か加茂あたりの受け皿になれば更にな」
冷徹な声の主は、隣の障子から漏れる下品な引き笑いに目を細め、鬱陶しそうな態度を隠しながらも、自身の利益を至極真っ当な正論の形で告げた。
「ふむ……。例えどれだけの才があろうと、あの『折紙呪法』とやらの術式自体は、歴史に名があるだけで取るに足らんものだ。しかし、あの『呪力量』と『呪力操作技術』には、確かに目を見張るものがある」
最初に会議を進行した老人が、貴重な標本でも見つけたかのように、興味深げに声を弾ませながら話す。
「才?力量?さらには成長させるだと?」
その時、傲慢な声を上げていた障子の奥から、ギリッと歯ぎしりする音が聞こえた。
「貴様ら、あの時『壁越し』にすら肌を刺した『あの禍々しい呪力』をもう忘れたのか!?あのような規格外の怪物が、もし我々に牙を剥いたらどうするつもりだ!同じことが再び繰り返された時、私が、我々が生きている保証が何処にある!?」
保身と恐怖からくる、見当違いな怒り。周囲の悠長な反応に、彼は怒気を隠しきれずに吠えた。
「はっ。だからこそ、早いうちに首輪を繋いでおこうと?……臆病者め」
穏健な声の主が、みっともなく騒ぎ立てる同僚の態度に呆れ、面白くないと言うような声色で小馬鹿にするように吐き捨てた。
「なんだとッ貴様!?」
臆病者と呼ばれた老人は、隣の障子から聞こえた誹謗に対し、唾を飛ばす勢いで激しく噛み付く。
「……彼女は一般家庭の出身なのだろう?やりようは幾らでもある」
冷徹な声の主は、二人の言い争いを横目で見ながら、あくまで自身の利益のために淡々と話を前に進めた。
「その通りだ。やろうと思えば、我々の権力でいつでもどうにでもできる。そう焦る必要もあるまい」
進行役の老人もまた、先ほどのやりとりに呆れたようにため息をつき、話をまとめるように言った。
「それに、下手に手を出して、あの『五条』の反感を買う必要もない」
穏健な声の主が、眞白への不用意な干渉を避けるように、明確な抑止力としてこの場にいない五条悟の名前を出した。
「五条だと?」
その名前が出た瞬間。臆病な老人は腹の底から煮え滾るような怒気と共に、呻くように言葉を漏らした。
「……どうして、あそこまでの実力者を、我々の手の届かないところでここまで放置していた?」
周囲の学長たちを軽蔑するように、怒りと恐怖で声を震わせる。
「しかも何故、よりにもよって何故……『五条の倅』が一番にあの娘を見つけた!我々が放っている『窓』は、一体何をしている!!」
ドンッ、ドンッ!と、障子の中で、彼が手元の杖か何かを畳に激しく打ち付けながら怒鳴り散らす音が響いた。
「声を荒げるな、騒々しい。例えあの娘が五条の下にあろうと、その五条自身は『我らの下』だ」
穏健な声の主が、ヒステリックな騒々しさに呆れ返りながら、これ以上の強硬な決定を下させまいとなんとか諫める。
「それの何処に安心しろと言うのだ!?五条があの娘を手駒にして、いつ我々の寝首を掻きに来るかもわからんのだぞ!?」
同僚の言葉を耳を疑うように聞き返し、さらに声を荒げる。
「ふん。あやつにその様な真似をする度胸はない……はずだ。我らを殺して今のシステムを壊しても、結局その後の処理で一番困るのは、当の本人なのだからな」
進行役の老人が、やれやれといったため息混じりに、五条悟の性質を分析するように話した。
「おい。くだらん言い争いで時間を無駄にするな、話が逸れているぞ」
冷徹な声の主が、障子の奥から厳しい口調で同僚たちを諫めた。そして、室内の中心で押し黙っている二人の学長へと顔を向ける気配がした。
「……楽巌寺、夜蛾。現場を預かるお前たちの意見を聞かせろ」
水を向けられ、楽巌寺がゆっくりと閉じていた目を開いた。
「私としては、優秀な術師には相応の等級を与えるべきだと考えております。これからの呪術界を支える若い世代には特に」
楽巌寺は淡々と、されど至って真剣な声音で言葉を発した。
「しかし、経験が浅いのもまた事実。……故に、一つ下の『準一級』から始めることによって、必要な経験を積ませる期間を与えるのはどうでしょう?」
彼は上層部の『下地を積ませる』という意見の一つをつまみ上げ、それに同調するように現実的な折衷案を提案した。
「ふむ。夜蛾はどうだ?」
冷徹な声の主は、その提案に気分を良くしたのか、賛同を期待するような声色で夜蛾にも問いかけた。
「私も概ね同意見です」
夜蛾は姿勢を正し、無礼を働かないように最大限の敬意を表面上は保ちながら、生徒を思う一教師として真面目な声で答えた。
「先ほど仰られた通り、本人も昇級を望んでいます。私の生徒でもある以上、可能な限り生徒の思いに寄り添いたくはあります」
夜蛾は一度言葉を切り、重々しく続けた。
「しかし、いくら『窓』が事前に調査をすると言っても、実際の任務では何が起こるかわかりません。故に、どのような不測の事態においても最善を選んで任務を遂行する……元を正せば、それが一級昇級の条件でもあります。そのため、楽巌寺学長と同様に、まずは下の等級での経験を積むことが適切かと存じます」
「なるほど、道理だな。お前たちの意見と懸念は理解した」
冷徹な声の主は、思いの外好印象な様子で頷く気配を見せ、他の上層部の反応を伺った。
「私はそれで構わないが、他はどうだ?」
「問題なし。我々としても、彼女の昇級をそこまで急かす理由もないしな」
進行役の老人が同意する。
「私も問題ない」
穏健な声の主も、生徒の生存率を上げるための期間が設けられたことに安堵したように短く同意した。
「では、決定だ。綴眞白を『準一級術師』として認定する」
他二人の同意が取れたことを確認し、冷徹な声の主は満足そうに一度頷いて結論を下した。
「待てッ!私はまだ何も言っておらんぞ!?」
唐突に、すぐ横の障子から、怯えと怒りに満ちた老人が納得がいかないと言うように叫び声を上げた。
「何を言っている?」
冷徹な声の主は、深い大きなため息を吐き、鬱陶しい羽虫を追い払うかのように冷たく突き放した。
「今出席している四人中、三人が賛成したのだ。誰もお前の意見など求めていない」
「――貴様ッ!?」
自尊心の琴線に触れたのか、老人が障子の向こうで激しく身を乗り出す影が揺れた。
「では、夜蛾」
進行役の老人が、すぐ横で起こっている見苦しい騒ぎを完全に無視しながら、夜蛾に話しかけた。
「貴様の判断で、頃合いを見て綴眞白を一級審査にかけろ。そうだな……いくら経験を積ませると言っても、そう長くする必要もあるまい。期限は『今年中』までとする」
「承知致しました」
夜蛾は深く頭を下げ、その決定を了承した。
「ちゃんと自分の生徒の面倒は見ることだ、夜蛾」
穏健な声の主が、障子の奥からジロリと横目で夜蛾を睨みつけるような気配と共に、釘を刺すように言った。
「あのような特異な才能は、使い方を間違えれば呪術界にとっての大きな損失となる。……『夏油』の二の舞など以てのほか。そして、未だにその死刑執行役を無視し続けている『五条』の身勝手も同様だ。……分かっているな?」
それは単なる嫌味ではなく、生徒を導く立場の者としての責任を重く問う、含みのある言い方だった。
「……もちろんです」
かつての教え子たちの名前を出され、夜蛾の返事は少しだけ遅れたが、それでも確かな決意を持って答えた。
「では、これにより綴眞白の昇級査定会議を終了する」
進行役の老人が、形式的な淡々とした声色で宣言した。
「何か質問のある者は?」
「一つ、私からよろしいでしょうか?」
楽巌寺が、周囲の様子を伺いながら静かに発言した。
「良かろう」
進行役は、特に不満げな様子もなく許可する。
「綴眞白について……『天元様』は、何か仰られていましたか?」
楽巌寺は、核心に触れるように慎重に言葉を選んで尋ねた。
あれほどの規格外の呪力と異常な成長速度。呪術界の要である天元が、何も干渉してこないことに微かな疑問を抱いていたのだ。
「……直近で天元様にお会いしたのは、お前だったな」
進行役の老人は、片眉を上げるような気配を見せ、隣の障子――穏健な声の主へと口を開いた。
「何か仰らていたか?」
「…………」
穏健な声の主は、すぐには答えなかった。
沈黙が降りる。彼は障子の奥で眉間に深い皺を寄せているのか、言い辛そうに、どこか重苦しい含みのある声で吐き捨てた。
「……いや、何も」
「そうか。では、これにて解散とする」
それで終わりだと判断した進行役が、短く終わりを宣言する。
フッ……と。
次々に、障子の背後を照らしていた和蠟燭の明かりが消されていく。
重苦しい密室は、完全な暗闇と静寂の中に沈んでいった。
***
月明かりが、窓から柔らかく保健室の床に差し込んでいる。
五条との規格外の死闘から目を覚ました眞白は、すでに高専入学以来すっかり常連となっている、清潔なシーツの敷かれたベッドの上で横たわっていた。
「……あぁ、またコレか」
全身を走る鈍い痛みと共に目を覚ました眞白は、見慣れた白い天井を見つめてポツリと呟いた。
「背中に追いつくくらいは出来たと思ったのになぁ」
眞白は、昼間の戦闘の圧倒的な結末を思い出し、どこか寂しげに呟く。
「無下限には、ある程度対応できた。……でも、無下限がなくても、五条先生は『最強』だった」
眞白が自ら編み出した領域展延によるゴリ押しで、不可侵の無下限呪術にこそ対応できた。しかし、術式が無くとも、純粋なフィジカルと体術の基礎ポテンシャルの差で、終始五条に圧倒されボコボコにされていたことを、眞白は悔しそうに思い出す。
「……そして、最後のあの『赤い光』。あれはどう見ても『蒼』じゃない」
眞白は意識が途切れる寸前に見た、全てを白く塗り潰すような鮮烈な光景を思い出して呟く。
「あの時感じたのは、間違いなく『正の呪力』。そして、五条先生が言った『術式反転』という言葉……」
「……ダメだ。私には出力が足りない」
眞白は、自身の術式に『正の呪力』を流し込んだ結果が『術式反転』なのだと推測し、ベッドの上で実際に自身の術式に正の呪力を流そうと試みた。しかし、眞白の微弱な反転術式の出力では、術式はうんともすんとも言わない。
「ッ……痛い。やめよう。今は大人しく寝ないと、硝子先生に怒られそう」
無理をしたせいで、一瞬、視界が白く弾けるような痛みが警告として眞白の脳を襲った。彼女は小さく呻き、すぐに術式の探求を中断した。
「……術式反転か。私の『折紙呪法』を反転させたら、一体どんな効果なんだろ」
眞白は天井を見つめたまま思考を遊ばせる。
「言葉をそのまま捉えるんなら、普段の効果の『逆』……あ、そっか。だからあの時、私は五条先生からものすごい勢いで『吹き飛ばされた』のか」
『蒼』の引力(収束)に対する、反転の引力(発散)。
「収束の反対は発散。じゃあ、私は?」
そう言って考えるが、眞白の術式は『紙を折り、式神として操る』というものだ。その反対の効果と言われても、すぐにはパッと思いつかない。
「……五条先生の六眼なら、私の術式反転の答えもわかるのかな?次会ったら、聞いてみよ。それまでは一旦保留かな」
眞白は小さく息を吐いた。
「反転術式の出力は、一朝一夕の訓練でどうにかなるものじゃないと思うし。当分は『肉体面』の強化かな。いくら術式や小細工があったとしても、五条先生に並ぶためには、どうしても基礎的なフィジカルが足りない」
無下限を突破した直後の、五条との圧倒的な近距離での肉弾戦を思い出し、己の非力さを痛感する。
「…………」
ふと、何か別のことを思い出したのか、眞白は沈黙した。
「……………う」
だんだんと顔が赤くなっていき、シーツを握りしめる手から情けない声が漏れる。
「うぅ……うわぁぁぁあああああああ!!!!!」
唐突に、眞白は静かな保健室の中で大絶叫した。
「――ッ!?なんだ!どうした眞白!!」
バンッ!と音を立てて、眞白からちょうど見えない位置の机に突っ伏して寝ていた家入硝子が、驚いて勢いよく飛び起きた。
「おわッ!!びっくりした!!なになに!?!!」
さらに、家入と同様に丸椅子に座って壁にもたれかかって寝ていた五条悟までが、ビクッと驚いて飛び起きた。
「――ッ!硝子先生に五条先生!?いたんですか!?」
まさか部屋に人がいるとは思っていなかった眞白は、自身の大声で起きた二人を見て、さらに驚いて目を剥いた。
「……いたんですか、って。五条は加害者だから当然として、私が重傷の怪我人をほったらかすような、薄情な奴に見えるのか?」
家入は驚く眞白にやれやれと呆れながら、目をこすりつつ眞白のベッドの横へと近づいてきた。
「いやいや、何言ってるのさ。どう見ても今回は『僕が被害者』でしょ?」
五条が後ろから、心外だと言わんばかりに両手を広げて大袈裟にアピールする。
「…………」
家入は無言のまま、ベッドの上で重傷を負って包帯まみれで横たわっている痛々しい眞白と、服に汚れ一つなくピンピンしている元気そうな五条へと、ジト目で交互に視線を行き来させた。
「なんだ、そういうことですか……」
家入の言葉から、二人が自分を心配してずっとそばについていてくれたのだと悟り、眞白は少し嬉しそうにしながら納得したように微笑んだ。
「今回はお前から喧嘩売ったんだって?」
家入は腕を組み、半目で眞白をジトっと見下ろした。
「ギクッ」
一番痛いところを突かれたせいか、眞白の口から思わず漫画のような声が漏れる。
「だからそう言ってんじゃん!僕は被害者だって!だから正真正銘『正当防衛』でしょ!!」
五条がここぞとばかりに家入に強く主張する。
「いや、過剰防衛だろ」
家入は、包帯でぐるぐる巻きになったミイラのような眞白の姿を見ながら、呆れ果てた声でツッコミを入れた。
「…………」
五条は自身の反撃を棚に上げ、包帯まみれの眞白と自分を交互に見比べて、気まずそうにスッと黙り込んだ。
「……って言うか、眞白はなんで叫んでたの?久しぶりにゆっくり寝てたのに、寝起きドッキリくらった気分だよ」
五条はおもむろに話題をすり替え、先ほどの眞白の絶叫について興味津々に尋ねた。
「おっと、そうだった。……怪我は『罰』として最低限しか治していなかったが、何処か痛みでもしたか?」
家入も表情を和らげ、医者としての心配そうな声で眞白の様子を伺った。
「ふぇ?……い、いえ。確かに痛みはしますが、そうではなく……というか、『罰』?」
眞白は家入の治療方針に疑問を浮かべつつも、自身の叫んだ理由を思い出し、再び顔を真っ赤にして恥ずかしそうに俯いた。
「ふむ。なーるほど?」
眞白の真っ赤な表情から全てを察したのか、五条はひどく意地悪な顔でニヤッと笑った。
「んんッ!……『私分かっちゃいましたッ。五条先生の弱点ッ!』」
五条はわざとらしく軽く咳払いをして喉の調子を整えると、不自然なほど高い裏声で、明らかに大袈裟に誇張して、昼の戦闘中にドヤ顔で眞白が言い放った『あのセリフ』を真似し始めた。
「何してんだお前?」
隣で急に裏声でおかしくなった五条を見て、家入がドン引きして一歩引く。
「うばァァァァァアアアアアアアア!!!!」
その横のベッドで、顔をタコのように真っ赤にした眞白が、自身の黒歴史を本人に掘り返された羞恥心で身体をビターン!と勢いよくベッドに叩きつけて発狂した。
「うば?」
明らかに様子のおかしい眞白の奇声に、家入が首を傾けて繰り返す。
「『それがッ、五条センセッの弱点です……よッ!ドヤァ』」
五条は家入の困惑を無視し、ノリノリでさらに誇張してセリフの真似を続ける。
「カハッ!?」
眞白はついに羞恥心で限界を迎え、口から血を吐き出してベッドの上でビクビクと痙攣し始めた。
「……大丈夫か?」
家入が、少し引き気味になりながらも眞白の顔を覗き込んで心配する。
「あれ、トドメ刺しちゃった?」
声の調子を元に戻した五条が、面白そうに眞白の顔を覗き込む。
「…………」
眞白は魂が抜けたように完全に放心し、無表情のまま虚無の瞳で天井を見つめ続けていた。
「おーい、しっかりしろー」
魂が抜けたようにベッドの上で放心する眞白の顔の前で、家入が手をひらひらさせる。
「うぅ……」
眞白の口から、消え入りそうな情けないうめき声だけが虚しく響いた。
「ずいぶん調子乗ってた割に、最後はボロボロになっちゃったもんね〜」
五条がニヤニヤと笑いながら、丸椅子に深く腰掛けて足を組み、弱り切っている眞白へ向けて容赦なく追い討ちの言葉の刃を振るう。
「ぐぅ」
一切の反論ができず、眞白はシーツを強く握りしめて本物の『ぐうの音』を漏らした。
「……でも、それで終わりじゃないでしょ?」
しかし。
五条は先ほどまでのおふざけのような態度から一変し、真っ直ぐに眞白を見つめ、ひどく期待に満ちた顔でニカッと笑ってそう言った。
「ッ……もちろんですッ!」
その五条の言葉と眩しい笑顔に当てられ、眞白は痛む身体も忘れて勢いよくベッドから前のめりに身を乗り出した。
「今回は無様に負けましたが、次こそはそうはいきませんよ!」
眞白の瞳に、先ほどまでの羞恥を吹き飛ばすような、強烈な負けん気と光が宿る。
「……ククッ……良いね、それでこそ眞白だ!」
五条は深く満足そうに頷き、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、さっさと怪我治して、明日からまた修行しなくちゃね!」
「はい!もっともっと強くなって、次こそ目にもの見せてあげますから!」
「そうこなくちゃ!」
二人はすっかり意気投合し、まるでスポーツの試合後のように爽やかな空気で盛り上がっている。
「おい。強くなるのは良いが、怪我はほどほどにしてくれよ?」
その暑苦しい空気に水を差すように、家入が心底呆れた顔で大きなため息をついた。
「お前がこいつに抱えられて運ばれてきた時、血まみれすぎて流石の私も冷や汗出たんだからな?全く……これで何度目だ?」
「う、いつもお世話になっています……」
眞白はシュンとして、申し訳なさそうにペコペコと頭を下げた。
「そうだ、それで思い出したけど。眞白、呪力の核心は掴めた?」
五条がポンッと手を軽く叩き、何かを思い出したような仕草をして眞白に尋ねた。
「ほら、一応今回の戦いで、眞白はまた『死にかけてた』じゃん」
「え、今回も私、死にかけたんですか?」
眞白は五条の軽すぎる言葉に、ぞわっと冷や汗をかいた。意識を飛ばされた瞬間の記憶がないため、実感が全く湧いていないのだ。
「……その反応ってことは、今回もダメそうか」
五条は少し残念そうに肩をすくめた。
「あれだろ。五条が昔覚醒した時は、確かジワジワと意識が消えていく感じで死にかけてたんだろ?」
家入が腕を組み、医者としての冷静な視点で二人の死にかけ様を客観的に俯瞰して考察する。
「ってことは、実際に『死を実感するための時間の余裕』が必要になる訳だ。だから今回みたいに、一撃で一気に瀕死になって気を失ったら、反転術式のトリガーにはならないんじゃないか?」
「なるほど、死を意識する時間か。確かに一理あるね」
五条は顎に手を当てて、ふむふむと納得したように頷く。
「え、なんですかその目」
不意に。
五条が、まるで実験動物を見るようなひどく不気味な目でこちらをじっと見つめていることに気づき、眞白は背筋を凍らせてベッドの奥へと身を引いて距離を取った。
「いや別に。流石の僕でも、大事な生徒にわざとそんなひどいことするほど性格悪くないよ?」
五条はニコニコと笑いながら言う。
「ただ、次の組み手の時からは、ギリギリまで意識を飛ばさないように気を付けてみようかなって」
「おい」
家入が真顔でドスを効かせる。
「冗談だよ冗談」
五条はヒラヒラと手を振って笑って誤魔化した。
「…………」
眞白は半目で疑うような視線を向ける
「……あ!そう言えば、五条先生に聞きたいことがあるんでした」
ふと、眞白は何か思い出したようにパッと表情を明るく変え、再び五条を見た。
「ん?なになに?」
「最後のアレについてです」
眞白は身を乗り出し、少し食い気味に尋ねた。
「アレ?……あ〜、アレね」
五条は一瞬何を言っているかわからないような素振りを見せたが、すぐに思い当たったのか、得意げにニヤリと笑った。
「アレ?アレってなんだ?」
一方、現場を見ていなかった家入は全く見当もつかないのか、不思議そうに首を傾げる。
「アレって言えばアレだよ、硝子。……アレ」
五条はそんな家入に対して、わざとらしい顔をしてふざけるように繰り返した。
「ちょっと!変にふざけないでください!そう言う意味で言ったんじゃありません!」
話が進まないことに苛立ち、眞白は家入を揶揄う五条にプリプリと怒った。
「ごめんごめん、術式反転のことでしょ?」
五条は笑いながら両手を上げて降参のポーズをとる。
「反転?あ〜、それのことか」
家入は納得したように頷き、五条を見た。
「というか、お前まだ反転術式のこと教えてなかったのか?私としてはそっちの方が驚きだ」
「変にあっちこっち手を出すより、まずは基礎的な技術を完璧に固めてほしくてね」
五条は教師らしいもっともな理由を口にした。
「……で、術式反転の何が聞きたいの?」
「……そもそもの話なんですが。自らの生得術式に『正の呪力』を流した結果が『術式反転』でいいんですよね?」
眞白は真剣な表情で確認する。
「その通り。通常の呪力(負)と反対の性質を持つ『正の呪力』を術式に流し込むことで、術式も本来とは反対の結果を齎すんだ」
五条は丁寧に説明を始める。
「僕の場合は、順転が『収束』。反転が『発散』って感じにね」
そう言いながら、五条は立てた人差し指の先に術式を発動させ、見本として低出力の『蒼(青い光)』と『赫(赤い光)』を交互に実演してみせた。
「なるほど、やはりそういう理屈ですか」
五条の指先に代わる代わる現れる二つの光を見て、眞白は自分の推測が正しかったことに深く納得した。
「では、単刀直入にお聞きするんですが。私の『折紙呪法』の術式反転の効果って、一体なんですか?」
眞白は、自身の未知なる新たな可能性に対してワクワクするような表情を浮かべ、キラキラとした期待の眼差しを五条へと向けた。
現代最強の『六眼』を持つ五条ならば、自身の術式が反転した際の効果もすでに見抜いているはずだと確信して。
「……さぁ?」
しかし、五条はそんな眞白の期待を呆気なく裏切るように、とても軽く肩をすくめてみせた。
「さぁ?……って、わからないんですか?」
眞白はポカンと口を開ける。
「いや?」
五条はそれにニヤッと意地悪く笑って否定した。
「は?」
わかっているのに教えてくれない。揶揄われているのだと確信し、眞白の額にピキッと青筋が浮いた。
「え?何怒ってるの?」
五条がわざとらしく不思議そうな顔をする。
「………その六眼に、私の術式……術式反転がどう写っているのかお聞きしているんですけど?」
眞白はドス黒いオーラを放ちながら、地を這うような低い声で尋ねた。
「もう、何怒らないでよ。ちゃんと説明するからさ」
五条は苦笑いしながら片手をひらひらと振った。
「まず、眞白は根本的に勘違いしてるようだけど。大前提として、僕の目には眞白の『術式の詳細』までは視えないよ。顔に取扱説明書が書いてるわけじゃあるまいし」
はじめに、眞白が勘違いしているであろう『六眼の仕様』について、五条は真面目に説明を始めた。
「あれ?そうだったんですか?」
眞白はきょとんとして、小首を傾げた。
「まぁ、結果的には大した違いはないんだけどね」
五条は続ける。
「実際は、相手の呪力が『術式に通された際』に、どういう呪力の流れで、どういう理屈で、どういう効果がもたらされるのかが『詳細に視えて解析できる』ってわけ」
五条は六眼を指差した。
「だから、よく勘違いされるけど。相手が実際にその術式を『使わない限り』、流石の僕でも詳細な効果まではわからないんだよ」
「ふむ、なるほど。それでも十分、異常なくらい便利ですね」
眞白は納得して頷く。
「といっても、見たい対象の呪力以外にも、周囲の環境の呪力やその他諸々の無駄な情報まで、四六時中全部見えすぎちゃうせいで……目が疲れすぎちゃうっていう特大のデメリットもあるんだけどね」
五条は少しだけ疲れたように笑った。
「…………それで、その黒い目隠しをいつも付けてるんですね」
眞白は少し含みを持たせた間を開けて、彼を見つめた。
「そう、これがちょうどいい感じに無駄な視覚情報を絞ってくれるから、僕にとって絶対に手放せない必需品なんだよね」
五条は自身のアイマスクをトントンと叩く。
「あくまで、六眼は直接相手の術式そのものを看破、即ちダウンロードしているわけではなく、周辺環境と呪力の流れを精密に観察することで、『何が起こっているか』を正確に推測できるということですか」
眞白は自身の思考の整理も兼ねて、六眼の性能を反芻する。
「そういうこと。だから六眼だけ持ってても、それを瞬間的に解析して活用できるだけの『頭の良さ』がないと意味がないんだよね〜コレが」
五条はふふんと鼻を鳴らし、暗に自分の天才っぷりをアピールした。
「……なるほど」
眞白は布団の上で、膝を抱えながら深く考え込んだ。
(……過程は違う、けど結果は私とどこか似てる。それに、五条先生の言う『周りが見えすぎる』ってのには、私にも覚えがある)
眞白は少し前の記憶を思い返す。
(だいぶ前に、家入先生に頭に反転術式をかけてもらった時に感じた異常な情報処理能力。それと、試験の時に私が撃った黒閃の、前後に感じたあのゾーンのような感覚に……)
彼女はブツブツと小さく呟きながら、自身の脳の奇妙な感覚と、六眼の情報を無意識のうちに結びつけようとしていた。
(……良いね、気づいたかな?)
五条は、ブツブツと考察を深める眞白の様子を六眼越しに観察しながら、密かに口角を吊り上げた。
(……眞白の持つ、眞白自身が思っている以上に異常で規格外な才能(脳の処理能力)に)
「……まぁ、ちょっと脱線しかけたけど」
五条は自身のアイマスクをポンと叩き、わざとらしく明るい声を出して話を元に戻した。
「この六眼で何度も眞白の術式を目の前で見て、嫌ってほど精密に観察させてもらった僕から言わせてもらうと。ズバリ、折紙呪法の『術式反転』の効果は〜」
五条はニヤニヤと笑いながら、ベッドの上の眞白へとグッと顔を近づけ、ひどくもったいぶるように間を開けた。
「効果は?」
眞白はゴクリと唾を飲み込み、現代最強の術師が導き出した『答え』に期待して身を乗り出す。
「内緒〜」
五条はニヤッとイタズラげな顔で笑って、あっさりと眞白を揶揄った。
「……は?」
眞白は期待を裏切られ、またもや額にピキッと青筋を浮かべた。
「一応聞くけど、本当に知りたいの?って言っても、僕も実際に眞白の術式反転を見た訳じゃないから、あくまで順転の効果からの『推測』になるけどね」
五条はわざとらしく小首を傾げ、一応確認を取るように眞白に聞いた。
「当然じゃないですか!先生の推測だとしても、それ次第でこれからの私の『修行の方針』が決まるんですよ!?」
焦らされ続けた眞白は、声を荒げながら五条に詰め寄った。
「……しょうがないなぁ」
五条は少し悩んだような素振りを見せた末、ため息交じりにそう言葉をこぼした。
「じゃあ、発表します!眞白ちゃんがこれから習得するであろう、術式反転、その効果!自分の将来を左右しうる、可能性のその……」
五条はそこでわざとらしく言葉を区切り、両手を広げて「ドロドロドロドロ……」とドラムロールのような無駄に長い溜めを作った。
そして、ババーン!と効果音でもつきそうな妙に高いテンションで言い放つ。
「……最大のネタバレッ!!」
言葉の一音一音を、これ以上ないほど大袈裟に強調して。
「え?」
五条の予想外の言葉選びに、眞白は一瞬思考が完全に停止した。
「いやー、もう一回聞くけど本当に今聞いちゃう?これって眞白の呪術師としての成長における、言わば『超特大のスポイラー』だよ?映画で開始五分で犯人の名前教えられるようなもんだよ?」
五条は人差し指を振りながら、本気で心配しているような顔をしてまくし立てる。
「い、いや、こっちは今後の修行の効率化のために聞いてるんであって、別にエンタメとして楽しんでるわけじゃ……」
眞白は困惑しながら反論しようとするが、五条のペースに完全に飲まれていた。
「いいの!?将来、強敵を前に死線を超えて『覚醒したぞオラー!』ってなるはずの、眞白の最高にクールな見せ場がだよ?ただの『あ、五条先生が言ってたやつだ(笑)』になっちゃうんだよ!?僕としては、可愛い生徒の輝かしい未来の感動を奪うのは心苦しいというか、もったいないというか……」
五条はわざとらしく天を仰ぎ、まるで悲劇の主人公のような芝居がかった大げさなため息をついた。
「あ、やっぱりいいです」
眞白はスッと真顔になった。
そのあまりにも勿体ぶった、あからさまに「聞くな」と言わんばかりのうざったい態度。ニヤニヤと楽しそうにこちらを見下ろす目隠し越しの視線を見て、眞白の中でスッと冷静な声が響いたのだ。
「……えっ?」
急に引いた眞白に、今度は五条がわざとらしく間の抜けた声を漏らす。
「自分で考えます。というか、絶対に言わないでください。なんか急に、今ここで先生から聞いたら『負け』な気がしてきました」
眞白は五条のわざとらしい困惑に顔を顰めながら、スススッとベッドの奥へと身を引いた。
「えー!?ほんとにいいの?結構えぐいというか、すっごい面白い効果になりそうなのに!ちょっとだけヒント言っちゃおっかなー!」
五条が身を乗り出して、教えたがりの子供のように迫ってくる。
「やめてください!ネタバレ厳禁です!」
眞白が慌てて両耳を強く塞ぐのを見て、五条は「作戦成功」と言わんばかりに、満足げに肩を揺らして声を出さずに笑っていた。
「……ククッ……じゃあ、ヒントじゃなくて『アドバイス』をあげよう」
ひとしきり揶揄って満足したのか、五条は急に笑いを収めると、打って変わって真面目で静かな声になった。
「……アドバイス、ですか?」
眞白はまだ五条の様子に警戒しつつも、両耳からゆっくりと手を離して聞き返した。
「そう、アドバイス」
五条は、教え子の未来に期待するようにそっと優しく囁いた。
「それはね、自身の術式を『より深く理解すること』」
「理解……ですか?」
眞白はポカンとする。
「眞白の肉体に初めから刻まれている『折紙呪法』。……その『本質』はなんだと思う?」
五条は六眼越しに、眞白の深淵を覗き込むように問うた。
「本質……?そりゃあ、『紙を式神にする』……ですか?」
眞白は一番シンプルで当たり前の答えを返す。
「――本当に?」
五条は眞白をまっすぐ見据え、頭の芯に響くような低い声で囁いた。
「え?」
「なるほど、紙から式神を作る術式。それなら、紙を式神にして自在に操る『折紙操術』って名前が妥当じゃない?」
五条はわざとらしいほど論理的に疑問を投げかける。
「……そこ、名前なんてそんなに重要なんですか?」
眞白は納得がいかないように顔を顰める。
「名前は大事だよ。名は体を表すとはよく言ったものだけど、呪術にとっても『名前』それは非常に重要なファクターだ」
五条は諭すように言う。
「……それは、確かに」
言霊の存在を知る呪術師として、眞白もその真理には頷かざるを得ない。
「それに今日さ、僕の見間違いじゃなかったら、眞白は戦いの中で『紙以外(雑草や木の葉)』も式神にしてたよね?」
五条は決定的な矛盾を突いた。
「……なんですか、それじゃあ折紙呪法の本質に『紙』……『折紙』は関係ないってことですか?」
自身のアイデンティティであり、自身の愛する作品の要である『折紙』を否定されたように感じ、眞白は不満そうに口を尖らせた。
「あぁ、違う違う。そうじゃなくてさ」
五条はひらひらと手を振り、教え子の誤解を解くように優しく言葉を継いだ。
「術式反転を習得するには、自分の術式の『本質』を知るのが一番手っ取り早いってだけだよ。僕は眞白の折紙そのものを否定してるわけじゃない。それに、眞白のその折紙は間違いなく立派な『術式順転』の効果だ。それは最強の僕が保証するよ」
「…………」
その言葉を聞いて、眞白はホッと胸を撫で下ろし、強張っていた肩の力を抜いた。自身のアイデンティティである『折紙』を最強の術師に肯定され、心底安心したのだ。
「じゃあ、先生は何が言いたいんですか?」
眞白は少しだけ首を傾げた。
「折紙呪法は昔から歴史にあって、残っていた資料にも『紙から式神を作る』ってハッキリ書いてあったんですよね?」
「……禪院家の相伝術式の一つにね、『投射呪法』ってのがあるんだ」
五条は唐突に、御三家の一つである禪院家の術式の話を切り出した。
「は?……投射呪法?」
聞き馴染みのない単語に、眞白は目を瞬かせる。
「術式効果は、1秒を24分割することで、あらかじめ視界内で作った『24個の動き』を寸分違わずトレース……つまり再現するっていう能力」
五条は指で四角いフレームを作り、それをパラパラと動かすような仕草をした。
「酷く『現代的』だと思わない?特に1秒を24分割……要は、映像作品の『24fps(フレームレート)』っていう解釈がさ。もちろん、これには現代の使い手の解釈が色濃く混ざってはいるんだけどね」
「はあ……」
「例えばだけどさ。もしこの術式の概要が一番理解しやすい、妥当な名前を付けるとしたら、眞白ならどんなものが思いつく?」
五条は試すように問いかけた。
「……『投射』でも十分理解はできるとは思いますが……強いて言うなら、『アニメ』?とか、『パラパラ漫画』……呪法?」
眞白は少し呆れたような顔で答えた。
「ククッ……そうだね。それだとすごくわかりやすい。めっちゃダサいけど」
五条は肩を揺らして笑った。
「じゃあ、なんで最初からそういう名前にしなかったと思う?」
「そりゃあ、相伝なんて言うくらい昔からある術式ですし……そんな大昔の時代に、『アニメ』なんてないでしょう?」
眞白が当たり前の事実を口にした瞬間。
「まさしくそれだよ」
五条はパチン、と指を鳴らした。
「それを表現する言葉、あるいは『概念そのもの』が、術式が生まれた当時は存在しなかったんだ。だから仕方なく、当時の人間が一番想像しやすい、一番近い名前にした」
五条の六眼が、アイマスクの奥から眞白を真っ直ぐに見据える。
「『折紙呪法』も、その一つだとは考えられない?当時の人間の知識や概念では、どう考えても『折紙』としか表現できなかった……とかさ」
「――ッ」
眞白の脳内に、雷が落ちたような衝撃が走った。
「つまり、何を言いたいんですか……?」
眞白はベッドのシーツを無意識に強く握りしめ、身を乗り出した。自身の術式の根幹を揺るがすかもしれないその答えを求めて。
「さっき言ったでしょ?これは『アドバイス』だって。ここからは自分で考えな。これ以上言うと、それこそ僕からの最大のネタバレになりかねないしね」
五条は唇の前に人差し指を立てて、悪戯っぽくウインクをして見せた(アイマスクのせいで見えない)。
「折紙呪法の、本質……」
眞白は自身の両手を見つめ、ブツブツと反芻する。
「まぁ、難しく考えすぎないことも大切だよ」
五条は丸椅子から立ち上がり、軽く背伸びをした。
「自身の脳に術式が刻まれているからと言って、最初から使い方の『全部』がわかるわけじゃない。自分の感覚で実際に使ってみて、仕様や限界を探るのも、立派な修行の一つだ」
五条はベッドの脇に立ち、眞白の頭をポンと軽く撫でた。
「かと言って、無理に昔の仕様通りに従う必要はないよ?例え全く同じ術式を持っている二人がいたとしても、術師の『解釈』や『世界観』次第で、効果は大きく変わる場合があるからね」
「世界観?なんですかそれ。考えるだけ無駄ってことですか?」
眞白は撫でられる手を受け入れながら、上目遣いで尋ねた。
「術式ってのはね、『術師の心(脳)を現実に投影するもの』なんだ」
五条の静かな声が、夜の保健室に響く。
「ベースとなる能力が同じでも、術師本人が『これをどう捉えるか』という解釈次第で、結果は大きく変わる。……要は、眞白が『何をしたいのか』が一番重要だってこと。それ次第で、術式も必ず応えてくれる」
「術式が、応えてくれる……」
「今はまだ、急ぐ必要はない。ゆっくりと、眞白がやりたいことを考えていけば良いさ」
「私の、やりたいこと……」
ドクン、と。
眞白の脳が、自身の本能が、何かを強烈に訴えかけるように熱く脈打った。
自分が本当に作りたいものは何か。自分の芸術の行き着く先はどこか。
「ふわぁ〜……話は終わったか?」
その時、部屋の隅から大きな欠伸の声が響いた。
五条の話に眠気が耐えられず半分寝ていた家入が、眠そうな目を擦りながらのっそりと顔を上げる。
「終わったなら早く寝ろ。今、何時だと思ってるんだ?」
「げっ、しまった。もうこんな時間か。ついつい長話になっちゃったよ」
五条が壁掛け時計を見て、大げさに肩をすくめる。
「……え、夜中の2時!?」
時計の針を見た眞白は驚いて声を上げた。
「もうこんな時間って……あ、私、ずっと気絶してたんだった……」
「そういうことだ。お前はぐっすりだったかもしれんが、私は……ふわぁ、まだまだ全然寝足りない」
家入は首をポキポキと鳴らしながら、だるそうに立ち上がった。
「ああ……すみません。私が急に叫んだりしたせいですよね……」
眞白は申し訳なさそうに小さくなった。
「じゃあ、僕もいくら反転術式で脳を常にリフレッシュしてるとは言っても、流石に眠いもんは眠いし、ここらで帰らせてもらうね」
五条はヒラヒラと手を振り、ドアへと向かって歩き出す。
「じゃ、おやすみ〜。明日からまたしごいてあげるから覚悟しといてね、眞白」
「おう、おやすみ。じゃあ、私も自室のベッドに戻るが……」
家入は五条を見送った後、眞白の方を振り返ってニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「眞白は一晩安静に……いや、『罰』として最低限の治療しかしてないから、その状態で『反転術式の訓練』だと思って朝まで一人で頑張れ」
「えっ……私これから、痛みのせいで数時間寝れないってことですか……?」
眞白の顔から血の気が引く。
「お前、さっきまでぐっすり寝てただろうが。それにさっき『罰』だって言ったろ?自分の不始末は甘んじて受け入れろ」
家入は白衣を翻し、容赦なく保健室の照明のスイッチに手をかけた。
「じゃあな。おやすみ〜」
パチン。
非常灯の薄暗い緑色の光だけを残し、家入も足早に部屋を去っていった。
「…………」
一人、暗く静まり返った保健室のベッドに取り残される眞白。
全身の骨と筋肉がミシミシと痛み、ズキズキとした痛覚が脳を刺激して、確かに全く眠れそうにない。
「…………」
ザワザワ……と。
夜の風が窓をガタガタと叩く音や、森の木々を揺らす音だけが静かに聞こえてくる。
「…………」
チクタク、チクタク。
壁掛け時計が、無機質に時間を刻む音が響く。
「…………ぐぅ」
3時間後、入眠。
***
「んぅ……ふわぁ〜……あ、もう朝か……」
保健室の窓から差し込む、少し眩しい晩夏の陽光。眞白はベッドの上でもぞもぞと寝返りを打ち、ゆっくりと重い目蓋を開けた。
「はぁ……。寝る寸前までずっと、反転術式回してたせいであんまり寝た気がしないや」
眞白は小さく欠伸をしながら、自身の身体の具合を確かめる。
「でも、心なしかいい夢が見れた気がするし、まぁいっか」
眞白はベッドから降りると、「うーんッ!」と大きく背伸びをして全身の関節を鳴らした。
「ん〜……っと、よし。痛いところもないし、身体は問題なさそう」
包帯の下の傷は綺麗に完治しており、昨日の死闘のダメージは嘘のように消え去っていた。
「今何時だろう?まだ余裕あったら、二度寝でも……」
眞白は壁掛け時計に目をやり、ピタッと動きを止めた。
「ってもう11時だ。流石に寝過ぎたかなぁ?」
眞白は頭を掻く。
「交流会は二日間あるって言ってたけど……結局、今日は何をするんだろう。特に何も言われなかったし、誰か迎えに来るまで、とりあえず顔洗ってストレッチでもしよっかな……」
ガラッ。
眞白が洗面台へ向かおうとしたその時、保健室の扉が横に開いた。
「ん?硝子先生かな?」
***
一方その頃。高専のとある教室には、京都校の生徒たちと引率の歌姫が集まり、待機していた。
「おはようございまーす……」
そこへ、白衣姿の家入が、徹夜明け特有の気怠げな足取りでフラフラと教室に入ってきた。目の下にはくっきりと濃いクマが刻まれている。
「おはようございます!」
教室で待機していた京都校の生徒たちが、各々席から立ち上がったり軽く頭を下げたりしながら、家入に向かって挨拶を返す。
「おはよう硝子。昨夜は遅くまで看病してたみたいだけど……あなたはちゃんと寝れたの?」
歌姫が、家入の疲労困憊といった様子と目の下のクマを見て、心底心配そうな表情を浮かべて歩み寄った。
「まぁ……それなりには?」
家入は、昨夜の深夜に及んだ五条と眞白の『術式反転談義』と、五条の果てしなく面倒くさいウザ絡みを思い出し、ひどく遠い目をして投げやりに答えた。
「全くもう……。仕事が終わったら、今日はもう早めに寝た方がいいわよ?」
歌姫は家入の肩を軽く叩き、労うように声をかける。
「言われなくても……ふわぁ……そのつもりです。ベッドに入ったら明日の朝まで一歩も動く気はありませんよ」
家入は口を大きく開けて無防備な欠伸を一つ零し、気怠そうに首を鳴らした。
「なら良いけど……。そうだ、眞白ちゃんは大丈夫そうだった?」
歌姫が、あの惨状を思い出したように少し眉を下げて気遣うように聞いた。
「えぇ。本人も反転術式が使えるのもあって、今朝あいつがスヤスヤと寝ている間に確認したら、嘘みたいに問題なく完治していましたよ。若いって羨ましいですね」
家入は白衣のポケットに両手を突っ込み、淡々とした口調で答える。
「そ、そうなの?あの状態から一晩でって……流石、微弱ながらも反転術式ね。なら良かったわ。こっちの子達も、昨日治療してもらってからほぼ丸一日経ったし、もう後遺症もないみたいよ。本当にありがとうね、硝子」
歌姫は一年生の規格外の回復力に驚きつつも、胸を撫で下ろして安堵の笑みを浮かべた。
「いえ、それが私の仕事ですからね。……そう言えば、冥さんはいないんですか?」
家入は何やら用があるのか、キョロキョロと教室の周囲を見渡して冥冥の姿を探す素振りを見せた。
「あぁ、冥さんなら『ちょっと仕事がある』って言って、朝早くにもう出ていっちゃったわよ。多分またどこかで小銭稼ぎでもしてるんじゃないかしら」
歌姫は呆れたようにため息をつく。
「……まぁ、用事は後でメールでもしておけば良いか」
守銭奴め、と家入が心の中でぼやきながら視線を窓の外へ向けた時。
ガラッ。
静かだった教室の扉が開き、夜蛾と楽巌寺が重々しい足取りで連れ立って入ってきた。
「おはよう。硝子、綴の容体はどうだ?」
夜蛾が教室に入るなり、真っ先に自身の生徒の安否を気にかけて尋ねる。
「おはようございます。あいつにはお灸を据える『罰』として最低限の治療しかしてやりませんでしたが、今朝見たら問題なく自分の反転術式で完治できてましたよ。ピンピンしてます」
家入が苦笑交じりに報告する。
「そ、そうか。……まぁ、ほどほどにな」
夜蛾は、家入の相変わらずスパルタな治療方針に少し苦笑いを浮かべた。
「分かってますよ。……ところで、昨夜は上層部と何をお話ししていたんですか?」
家入が夜蛾に一歩近づき、声を潜めて尋ねた。
「あぁ、そのことか。なに、綴の『昇級』について話していたんだ。近いうちに本人にも直接伝えるつもりだ」
夜蛾は少しだけ表情を緩め、誇らしげに答える。
「なるほど、それは本人が泣いて喜びそうな話ですね」
家入は眞白のドヤ顔を想像したのか、クスリと笑みをこぼした。
「……なぁ、お前なんでさっきからずっと震えてるんだ?」
教室の隅。京都校の三年女子が、隣の席で肩をガタガタと震わせている二年男子を不思議そうに突っついた。
「……い、いえ!な、なんでもないです!」
京都校二年男子は、ガタガタと小刻みに震えながら、引きつった裏声を出した。教師たちの会話の中に、昨日自分を言葉通り『恐怖のどん底』に叩き落とした怪物の名前が出たことに気づき、本人はこの場にいないにも関わらず、ひどいトラウマのフラッシュバックに襲われていたのだ。
「あー……。昨日、あんなことがあったもんなぁ。まぁ、あの場で殺されなかっただけで儲けもんだろ。あんまり気にするなよ」
同じく昨日その場にいた三年男子が、豪快に笑いながら後輩の肩をバンバンと力強く叩く。
「……次あいつに会ったら、お前、ちゃんと地面に額擦り付けて謝れよ?」
「…一体何があったんだ?」
事情を全く知らない三年女子が、深刻そうな顔で首を傾げる。
「さぁ?」
他の生徒たちも、顔を見合わせて首を横に振った。
ガラッ。
その時、再び教室の扉が乱暴に開かれた。
「おい、五条見なかったか?」
日下部が、苛立たしげに眉間にシワを寄せて顔を出し、教室の中を見回した。
「さぁ、私は見てないですね。どうせどこかでサボってるんじゃないですか?」
歌姫が冷ややかな声で首を振る。
「同じく、私も見てないです。昨日の夜中は保健室にいましたけど」
家入も続く。
「クソッ、何処行きやがったあの野郎……」
日下部がギリッと歯を食いしばり、忌々しそうに悪態をつく。
「日下部。まだ五条は見つからないのか?」
夜蛾が厳しい顔つきで尋ねる。
「えぇ。頼まれた通り、この集まりに連れてこようとあちこち探していたんですが、どこにも見当たらず。……すみません」
日下部はバツが悪そうに謝罪した。
「気に病むことはない。どうせまたふざけてサボっているんだろう、悪いのは全てアイツだ」
夜蛾は額に青筋を浮かべながら深く大きなため息をついた。
「……では、仕方ない。あの馬鹿抜きで話を始めるとしよう」
夜蛾がそう言いかけ、全員の視線が集まった、まさにそのタイミングで。
バーーーンッ!!!
教室の扉が、外れるのではないかというほどの勢いで豪快に開け放たれた。
「おっ待たせしました!!!」
太陽のように満面の笑みを浮かべた五条悟が、ひどく上機嫌な声を上げながら教室へと足を踏み入れた。
――まだ痛々しい包帯がまかれた状態の眞白を、まるで米俵か何かのように無理やり小脇に抱え込んで。
「ウヘェ……」
五条に容赦なく振り回され、強制的に連れ回された眞白は、完全に白目を剥いて口から魂を出し、ぐったりと力なく垂れ下がっていた。
「五条ッ!?」
歌姫が信じられないものを見るように目をひん剥く。
「おいバカ何やってる!?怪我人をそんな風に扱うな!」
家入が慌てて駆け寄り、五条の腕の中から眞白をひったくるように奪い取って床に下ろし、甲斐甲斐しく介護する。
「う゛え゛ェ゛ェ゛ン゛!!硝子先生ぃ゛〜〜!!」
地面に降ろされた眞白は、ようやく解放された安心感からか、涙目で家入にすがりつき、ヒシッと強く抱きついた。
「あーよしよし、泣くな泣くな。酷い目に遭ったな」
家入は面倒くさそうにぼやきながらも、眞白の頭をポンポンと優しく撫でてやる。
「…………」
歌姫は、五条のあまりの非道っぷりと無神経さに、汚物を見るような軽蔑しきった『ゴミを見る目』を向けた。
「ちょっと!?なにその目!?っていうか眞白のそれ『嘘泣き』でしょ!!僕が完全に悪者になってるじゃん!?」
五条が心外だとばかりに、大きな声を上げて両手をジタバタと振って眞白に近づく。
「ッフン!!」
家入の腕の中で、眞白は一瞬だけ五条の方を振り返り、思い切り拳を振りぬいた。
「あっぶね!?今の見た!?完全にわざとだよね!?」
五条は眞白の拳を寸前で躱し、大げさに騒ぎ立てる。
「……チッ!大人しく休んでいた私を無理やり引きずり出しておいて、『自分は悪くない』と、そう言うんですかぁ?」
眞白は家入の背後に隠れるようにしながら、舌打ち混じりに五条をジロリと鋭く睨みつけた。
「休んでたって、もう怪我は綺麗に治ってるじゃん!?今も超元気そうだしッ!!」
「はい?この全身包帯まみれの痛々しい姿の、一体何処が『元気そう』だと?」
シュッシュッ、シュッ!と。
眞白は鋭い息を吐きながら、キレッキレの滑らかな動きで五条に向かって素早いシャドーボクシングを幾つも繰り出してみせた。
「言動と行動が全く噛み合ってないでしょ!?」
五条がすかさず的確なツッコミを入れる。
「はぁ、おふざけもその程度にしとけ」
家入が呆れ果て、調子に乗ってシャドーボクシングを続ける眞白の頭に、容赦のないチョップをコツンと落とした。
「あ、イテッ!」
眞白が涙目で頭を押さえる。
「五条に無理やり連れてこられたとは言え、私はお前に『安静にしとけ』って言ったよな?」
家入がジト目で眞白を冷たく見下ろす。
「えっと〜……それは、その……」
眞白は気まずそうに視線を泳がせ、モゴモゴと言葉を濁した。
「プ!怒られてやんの!」
五条が子供のように指を差して、意地悪く笑い声を上げた。
「おい、悟」
ゴッ!!と。
背後から音もなく歩み寄った夜蛾の硬い拳骨が、無下限を張っていなかった五条の頭頂部に容赦なくクリーンヒットした。鈍い音が教室に響く。
「え?イダッ!?」
五条が情けない悲鳴を上げ、両手で頭を抱え込んでしゃがみ込んだ。
「仮にも教師が、自分の生徒を無駄に煽ってどうする」
夜蛾が腕を組み、仁王立ちになって低い声で凄みのある説教をする。
「プ!そっちも怒られていますよ〜。いい気味ですねぇ」
眞白が今度は五条を指差して、意趣返しとばかりに腹立たしい笑顔で笑い返す。
「……案外、この二人『似たもの同士』なのね」
その一部始終のコントのような光景を見ていた歌姫が、深い疲労感を滲ませながらポツリとこぼした。
「はぁ……」
日下部はこれからの呪術界の未来を思い、手で顔を覆って深く長いため息をついた。
「……もう、良いか?」
騒ぎが落ち着くのをじっと目を閉じて待っていた楽巌寺が、ついに重い口を開いた。
「む、申し訳ありません」
夜蛾がコホンと咳払いをして姿勢を正し、学長としての威厳を取り戻す。
「京都校の学長をしておる、楽巌寺だ」
楽巌寺は眞白の方へ真っ直ぐに向き直り、静かに、しかし力強い声で告げた。
「昨日の試合はモニターで見させてもらった。……もちろん、一部だが『その後のこと』もな」
「う……」
眞白は五条との『予定外の戦闘』を思い出し、一気に冷や汗を流して身構えた。最悪、ここで処罰されるかもしれない。
「お主のような実力者は稀だ。これから同じ呪術師として、よろしく頼むぞ。……大いに期待している」
楽巌寺は、予想に反して眞白の実力を正当に評価し、深い皺の刻まれた顔を少しだけ和らげて激励の言葉をかけた。
「は、はい!お騒がせしてしまい、本当に申し訳ありませんでしたっ!」
眞白は予想外の言葉に驚きつつも、慌てて深く、直角になるほど頭を下げた。
「あのっ……」
その時。教室の隅にいた京都校の二年男子生徒が、意を決したように震える足取りで眞白へと近づいてきた。
「僕も、昨日のことを謝らせてください。……あなたの式神を、何も知らないで悪く言ってしまい、本当に申し訳ありませんでした……ッ!」
二年男子は涙目になりながら、眞白に向かって深々と、震える声で頭を下げて謝罪した。
「…………」
眞白は無言のまま、冷ややかな瞳でちらっと彼の頭頂部を見下ろした。
ゴクリ……。
周囲の生徒たちが、眞白がまた怒り狂って暴れ出すのではないかと固唾を呑んで様子を伺う。教室に異様な緊張感が走った。
「…………」
眞白はそのまま彼からスッと視線を外し、何もなかったかのように完全にスルーして、夜蛾の方へと向き直った。
「それで、私は五条先生に無理やり連れてこられたんですが。そもそも、この集まりはなんなんですか?」
眞白は何食わぬ顔で、平然と夜蛾に尋ねた。
(……完全に無視された…)
二年男子は、殺されなかったことに安堵しつつも、見事に存在を無いものとして扱われたことに、ある種の絶望的な精神的ダメージを受けてその場に立ち尽くした。
「あ、あぁ。今から次の『個人戦』について説明を行おうとしていたところだ」
夜蛾が気を取り直し、本来の目的を説明し始める。
「なるほど、団体戦の次は個人戦なんですね。……しかし、私が言うのもあれですが、京都校の皆さんも連戦でお疲れのようですし、何より呪力も心許ないのでは?」
眞白が、周囲の生徒たちの疲弊した様子を見回しながら、もっともな疑問を口にする。
「その通りだ。そして、東京校側の事実上唯一の戦力であるお前も『こんな有様』な以上、これ以上の負担を強いて参加させるわけにはいかないと言う教師陣の判断でな」
夜蛾は包帯まみれの眞白を一瞥し、一同を見渡して重々しく告げた。
「今年の二日目の交流会は『中止』という運びとなった。故に、今日は全員『自由時間』となる」
「わざわざ集まってもらって悪いが、これにて交流会は全日程終了とする。全員、今日はゆっくり身体を休めるように」
夜蛾が代表して締めくくりの言葉を述べると、教室を包んでいた張り詰めた空気が一気に弛緩した。
「……五条先生。暇なら、私と組み手しません?もちろん術式無しですよ」
そんな穏やかな空気が流れ始めた中、一人だけ目をギラギラと輝かせた眞白が、すぐ横に立つ五条の袖をクイッと引いて声をかけた。
「お、自分から言うなんて珍しいね」
五条は少し驚いたようにアイマスク越しの目を丸くし、普段は自分から鍛錬を申し出ることの少ない教え子の珍しい提案に、ひどく興味を惹かれたように口角を上げた。
「ちょっと、術式や小細工無しでも、五条先生のように『素のフィジカル』を鍛えようかなと。昨日のリベンジです」
眞白は包帯まみれの腕でファイティングポーズをとり、フンスと鼻息を荒くして、全身から並々ならぬやる気を漲らせている。
「いいね。じゃあ、さっそく校庭いこっか」
五条も面白そうに同意し、二人が揃って意気揚々と教室の出口へと踵を返そうとした、その時。
「おい待て。どこに行こうとしてるんだ?」
背後から、絶対零度の冷たさを孕んだ家入の声が重く響き渡った。
「え、どこって……校庭ですが」
眞白はポカンと口を開け、一体何を言われているのかわからないといった様子で不思議そうに振り返った。
「お前が行くのは保健室のベッドだ。私の話聞いてたか?」
家入は白衣のポケットに手を突っ込んだまま、地を這うような低い声で眞白を睨みつけた。徹夜明けの彼女の眼差しには、一切の反論を許さない凄烈な凄みがある。
「あ」
眞白はピタッと動きを止め、背中に氷水を浴びせられたかのような悪寒と共に、タラリと冷や汗を流して完全に硬直した。
「おっと、流石の僕も今の硝子には分が悪いや」
五条はひらひらと両手を振り、これ以上巻き込まれるのは御免だとばかりに、あっさりと教え子を見捨てて一歩後ずさる。
「おい、もとはと言えばお前が眞白を完膚なきまでにぶっ飛ばしたからだろ?何を他人事みたいに言ってんだ」
家入の怒りの矛先が、当然のように逃げようとする五条へも向く。
「あ!ちょっと急な用事思い出したから、僕はこれで……」
五条はわざとらしくポンと手を叩き、脱兎のごとく教室から逃げ出そうとした。しかし。
「なんだ、俺ぁてっきり『忘れてるモン』だと思ってたぜ」
教室の扉の前に立ち塞がるように、日下部が腕を組んで立っていた。彼は逃げようとする五条の襟首をガシッと力強く掴み、有無を言わさず強引に引き止める。
「え」
五条の軽快だった足取りがピタリと止まり、その背中からあからさまな動揺が滲み出した。
「この後の交流会諸々の後処理。……特に、綴とお前の『戦闘被害』についての職員会議。忘れてねぇよなぁ?」
日下部は忌々しそうに眉間に深いシワを寄せ、ドス黒いオーラを放ちながら五条に詰め寄った。あの森の惨状を思い出すだけで、今から胃が痛くてたまらないのだ。
「は、はは。もちのロンさ」
五条は額に嫌な汗を浮かべ、完全に逃げ道を塞がれた引きつった笑いを浮かべた。
一方、教室の反対側。京都校のグループでは、奇妙な光景が広がっていた。
「いつまで頭下げてんだお前?」
京都校の二年男子の一人が、隣で直立不動のまま頭を深く下げ続けている同級生をツンツンと小突いた。先ほど眞白に謝罪し、完全に見無視されたあの男子生徒である。
「スルーされるほどって、お前一体あの子に何やったんだよ」
もう一人の二年男子が、微動だにしない彼を見て心底呆れたように尋ねる。
「見たかあの目。直接視線向けられてるわけじゃないのに、横顔だけで冷や汗出たぞ……。鳥肌やばい……」
最初に彼を小突いた方の二年男子が、自らの腕をさすりながら、先ほどの眞白の冷徹な一瞥を思い出してブルッと身を震わせた。
「お前は一体何やらかしたんだ?」
クールな顔立ちの三年女子が、そのただならぬ雰囲気に呆れ半分で首を傾げる。
「いえ、なんでもないです……。僕の命は、持って来年までですかね……」
頭を下げていた当の男子生徒はようやく顔を上げたものの、この世の終わりを見たかのような虚無の表情を浮かべ、力なく首を振った。
「本当に大丈夫か?」
三年女子が怪訝な顔をする。そして、今度はそのすぐ隣で、巨体を揺らして妙にソワソワしている同級生の三年男子へと視線を向けた。
「で、お前は何をそんなものを持って、何をソワソワしているんだ?」
「何って……『色紙』だが。昨日の夜、わざわざ買ってきた」
火傷の跡が残るの三年男子は、大切そうに抱えた真っ白な無地の色紙を誇らしげに見せびらかす。
「その用途を聞いているんだが」
三年女子が冷ややかな目を向ける。その視線の先で、三年男子は教室の出入り口付近で日下部に捕まっている五条の方へと、並々ならぬ熱い視線を送っていた。
「なんでって、あの現代最強の『五条悟』だぞ?そんな人が目の前にいて、サインを貰わない選択なんてないだろ」
彼は、自分たちを圧倒した怪物を、さらに圧倒的な暴力で捻じ伏せた五条の隔絶した力に、純粋な尊敬と憧れの念を抱いていたのだ。
「………待て、私も行く」
三年女子は少しだけ迷った素振りを見せた後、あっさりと手のひらを返して彼に追従するように歩き出した。ミーハーな心には抗えなかったようだ。
「ほら、予備やるよ。シャツに直接書いてもらうのもアリかもしれねぇがな」
三年男子は豪快に笑い、持っていたもう一枚の色紙を気前よく彼女に手渡す。
「流石にシャツは……アリか?」
三年女子は色紙を受け取りながら、ひどく真剣な顔つきで自身の制服のシャツを見下ろして思考を巡らせた。
「あ、そうだ。昨日先輩から聞いたけど、お前、動物園行きたいんだって?」
残された二年男子の一人が、暗く沈んでいる同級生を元気づけようと意図的に話題を変えた。
「あ、はい。どうせ東京に来たなら、上野に行きたいなと思いまして……」
「良いね、行く行く。俺も生でパンダ見てぇ」
もう一人の二年生が明るい声を上げて賛同する。
「じゃあ、決まりだな。後で先輩達も誘うか」
「……そう言えば、パンダならさっき廊下で見かけましたよ?」
震えていた男子生徒が、ふと思い出したようにポツリと言う。
「……何言ってんだオメェ?」
同級生は冗談を言っているのかと疑い、真顔でツッコミを入れた。
「今日はゆっくり休め、まだ疲れてんだよ、お前」
過労で幻覚を見ているのだと判断され、彼は可哀想なものを見るような温かい目で見つめられた。
教室の中がそれぞれの日常を取り戻していく中、夜蛾が再び口を開いた。
「綴、報告がある。悟もこい。……例の件だ」
夜蛾は眞白と五条を手招きし、周囲の喧騒から少し離れた場所へと二人を呼んだ。
「はいはーい」
日下部から一時的に解放された五条が、軽い足取りで夜蛾の元へと近づく。
「例の件?」
眞白は不思議そうに小首を傾げた。
「昨夜、上層部の決定により、総監部から正式にお前の『昇級』が認められた」
夜蛾が厳かな顔つきで、ハッキリと告げる。
「昇級!もしかして!」
眞白の顔にパァッと花が咲いたように明るい光が宿り、その瞳が期待に大きく輝いた。
「そう!来年から、眞白は正式に『一級術師』になります。はい拍手!」
五条がパチパチパチと大げさに手を叩いて、自分のことのように祝う。
「や、やった!……って、来年?今日じゃなくて?」
無邪気に喜びかけた眞白だったが、そのスケジュールの遅さに引っかかり、思わず聞き返した。
「本当は今日からの予定だったんだけど、眞白ってまだ一回も正式な任務に行ってないじゃない?だから、当分は相応の現場経験を積むまでお預けってこと」
五条が人差し指を立てて、上層部の決定の裏側をわかりやすく説明する。
「私の判断により、今年中には正式に一級への昇級試験を行うことになった。それまでは『準一級術師』の扱いになる。……と言っても、実質的な昇級には変わらんがな。おめでとう、こんなことは滅多にない快挙だ」
夜蛾はそう言って、眞白のこれまでの努力と実力を労うように、深く小さく頷いた。
「本当だよ!実質、実力だけは一級として完全に認められてるからね。あの上層部の連中がこんなにあっさり認めるなんて、流石の僕も驚きだよ」
五条はそう言いながら、自身のポケットから真新しいカードを取り出した。
「はいこれ、準一級の学生証。て言っても、またすぐに一級用に更新することになると思うけどね」
五条から手渡された新しい学生証を見て、眞白の胸に確かな達成感と喜びが広がった。
「ありがとうございます!」
眞白はカードを両手で大切にしっかりと握りしめ、夜蛾と五条に向かって深く頭を下げた。
「てことで、明日。十一時に原宿集合ね」
五条が唐突に、全く関係のない話題へと切り替える。
「明日?」
「そう、行かないの?せっかくの昇級のご褒美に、美味しいスイーツ奢ってあげようと思ったのにな〜」
五条はひどく残念そうに大げさなため息をつきながら、わざとらしく両肩をすくめてみせた。
「行く!行きます!私のスイーツ!」
眞白は食い気味に顔を上げ、即座に誘いに食いついた。
「よし!僕の厳選おすすめスイーツのハシゴ旅!朝ごはんは絶対抜いてきなよ?」
「今日の晩御飯も抜きます」
眞白は両拳をギュッと握り締め、己の並々ならぬ決意を示すように真剣な顔つきで力強く宣言した。
「眞白、夜の腹は空けとけよ。一日中甘いもんばっかじゃ胃がムカムカするだろ」
二人のやり取りを聞きつけた家入が、呆れ果てたように口を挟む。
「夜は歌姫先輩と冥さん誘って、旨いご飯食べに行くぞ」
「本当ですか!?やった!ご飯!」
眞白は今日一番の満面の笑みを見せて、子供のように飛び跳ねて喜んだ。
「え、僕はハブ?」
五条が露骨に口を尖らせ、不満そうな顔をする。
「なんだ、女子四人の中に一人だけノコノコ来るつもりか?悪目立ちするぞ」
家入が冷たい視線を送り、すげなくあしらう。
「日下部さーん!明日の夜暇?飯行きましょ!」
五条は家入の冷遇を完全に無視し、教室の出口にいた日下部に向かって大声で叫んだ。
「なんでそんな騒がしそうなところに、俺がわざわざ行かなくちゃなんねぇんだよ」
日下部が心底嫌そうに眉根を寄せ、露骨に顔を顰める。
「オッケー参加ね!」
五条は日下部の明確な拒否権をあっさりと無視して、有無を言わさず強引に決定した。
「夜蛾センは?」
「そうだな。せっかくの教え子の昇級祝いだ、私も参加させてもらおう」
夜蛾は少しだけ口元を緩め、穏やかな表情で頷く。
「よっしゃ!後誰誘う?」
五条はすっかり幹事気取りになり、楽しそうに教室の中を見回す。
「誘いすぎじゃないか?そんな急に大人数で入れる店なんてあるのか?言い出しっぺのお前が責任持って予約しろよ」
家入が面倒くさそうに長いため息をつきながら釘を刺す。
「いいじゃない!せっかくの機会なんだから、パーっといきましょパーっと!」
歌姫が珍しく上機嫌な声を上げ、両手を叩いて賛同した。
「よっし、伊地知と七海にメール送信っと!」
五条は素早い手つきでスマホを取り出し、高速で画面をタップして連絡を飛ばす。
「楽巌寺学長はどうですか?」
歌姫が、教室の隅で静かにこの喧騒を見守っていた楽巌寺に丁寧に声をかけた。
「ワシは、遠慮しておこう。若いもの同士、大いに楽しんできなさい」
楽巌寺は静かに首を振り、微かに目を細めて穏やかに立ち去っていった。
「わかりました。あなたたちはどうする?せっかくなら交流会の打ち上げってことにして、みんなで一緒にご飯食べましょ!」
歌姫は京都校の生徒たちへと向き直り、明るい笑顔で提案した。
「あー、せっかく誘って頂いたところ悪いんですけど、俺ら別で予定あるんでやめときます」
京都校の生徒たちは、これ以上東京校の厄介な面々(主に眞白)と関わりたくないという本音を隠し、揃って愛想笑いを浮かべながら辞退した。
「そう?気が変わったら言ってちょうだいね」
歌姫は少し残念そうに微笑んだ。
「お、伊地知くるって。七海も『当分任務代わってくれるなら』って条件付きで言ったら、速攻で参加の返信きた!」
五条がスマホの画面を高く掲げて見せびらかしながら、嬉しそうに歓声を上げる。
「なら、人数はとりあえず決まりだな。後は店探しだが……ん?冥さんからメールだ」
家入の白衣のポケットの中でスマホが短く震えた。画面を開いた彼女は、少し驚いたように目を丸くする。
「『私オススメのお店、すでに予約しといたよ』。……だってさ」
「さっすが冥さん!仕事が早い!」
五条が感心したように大げさに拍手する。
「い、一体どこから見て……はっ!」
歌姫が気味悪そうに教室の中を見回し、ふと窓の外へと視線を向けた。
「カァー!」
窓枠の手すりに停まった一羽の真っ黒なカラスが、真っ赤な目で教室の中を覗き込み、自身の主の有能さを示すように短く鳴いた。冥冥の監視用式神である。
「言い出しっぺの私が言うのも何だが……こんなに高専の戦力が一箇所に集まって、任務の割り振りは問題ないのか?一応、終わりに差し掛かってるとはいえ繁忙期だろ」
家入がふと我に返り、医者としての現実的な懸念を口にする。
「大丈夫大丈夫!なんて言ったって、僕らには心強い新人ちゃんが新たに参戦するんだよ!?」
五条は眞白の肩をバンバンと力強く叩き、これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべた。
「これから眞白の休みが暫くなくなるだけで、逆に僕たちは超楽になるまであるよ!やったね!」
「……え、休みがなくなる?」
眞白の顔から、一気にスゥッと血の気が引いていく。
「よっし、じゃあ明日の夜はお店に各自集合ね!眞白は十一時に原宿だから!はい、かいさーん」
五条がパンッと手を高く打ち鳴らして、軽快に解散を宣言する。
その言葉を合図に、ある者は足早に、ある者は眞白のこれからの過酷な労働環境に心底同情するような気まずそうな顔をして、全員が次々と教室から出ていく。
「………え?ちょっと、待って……」
眞白はあまりの急展開に頭の処理が追いつけず、呆然とその場に立ち尽くして手を伸ばした。
「そうだ、忘れるところだった。綴、後で職員室に来なさい」
誰もいなくなった教室で、最後に残った夜蛾が、振り返りざまに背後からドス黒いオーラを放ちながら告げた。
「しょ、職員室に!?……わ、私、何かしました!?」
眞白はビクッと肩を大きく震わせ、泣きそうな顔で後ずさる。
「『何かしました』……だと?」
夜蛾の額に、太い青筋がピキリと不気味な音を立てて浮かび上がった。
「ひ……ひぇ……」
「高専郊外の森を、あそこまで無残に破壊した罰だ。たっぷり、その頭に常識という名の説教を叩き込んでやろう」
夜蛾はそう言い残し、地響きがしそうな重い足取りで教室を去っていった。
「……………」
一人、冷たい風が吹き込む教室に取り残された眞白。
昇級の喜びも束の間。ブラック企業顔負けの過重労働の宣告と、数時間に及ぶであろう学長からの説教の確定。
彼女は自分の犯した罪の重さと、これから待ち受ける現実に、ただ一人、ガタガタと震え続けることしかできなかった。
***
「ふふ、思っていたより馴染めているじゃないか」
東京校の地下深く、巨大な結界の最奥に位置する『薨星宮』。
白く広がる神秘的な空間の中心で、天元は外界の様子を俯瞰しながら、静かに湯呑みを傾けていた。
「……呪術師とはいえ、特に個性的な面々ばかりだから少し心配したが。これなら問題なさそうだ」
天元の脳内には、日本全土に張り巡らされた結界を通して、高専内で起こる様々な事象が断片的に伝わってきている。五条悟と激闘を繰り広げ、その後も家入硝子たちと共に何やら騒がしく過ごしている一年生――綴眞白の気配を感じ取り、天元は小さく笑みをこぼした。
「本人も楽しそうにしていることだし、私の心配ごとは杞憂だったかな」
ズズッ、と温かいお茶をすすりながら、天元は少し前の記憶――今日の交流会が終わった直後に行われた、上層部の一人との密談を思い返していた。
「――では、あの綴眞白という少女について、特級認定どころか『審査すら行わない』と、天元様はそう仰るのですか?」
薄暗い空間に、上層部の一人の、困惑と焦りを孕んだ声が響いた。
「その通り。現段階で、彼女が国家転覆を可能とするレベルに到達しているかは定かではない。だが、下手に『特級』という重荷を負わせる必要もないのは確かだ」
天元は静かに、しかし断固とした口調で答えた。
「しかし、あの少女の……あの『式神の群れ』の戦力は計り知れません。それこそ、かつての『夏油傑の後釜』に据えることも可能かと思いますが」
上層部の男は、呪術界の戦力増強とシステムの安定化のために食い下がる。
「ダメだ」
天元は即座に切り捨てた。
「……それは、一体何故ですか?」
「仏の顔も三度までと言うが……あの子が、その『三度目の仏』に該当するかどうかが、私にもわからないからだ」
「……」
男は眉をひそめた。
「……あの『五条の小僧』の力は、確かに恐るべきものです。それこそ、現代最強と言う称号を欲しいままにしている」
「だからと言って、五条悟個人の機嫌取りと、呪術界……ひいては『日本の未来の安全保障』とは、全く別の問題です」
「正しくその通りだ。君の危惧は尤もである」
天元は一度肯定した。
「しかし、君は一点だけ『致命的な勘違い』をしている」
「……!申し訳ありません。恐れながら、その勘違いとは一体なんでしょうか」
「私は、五条悟のことを言っているのではない」
「……では、あの『少女』が、日本の未来を根底から揺るがしかねないと?」
男の顔に、明確な緊張が走る。
「然り。特級術師の存在とは即ち、その時代の分かれ目……『特異点』に等しい」
天元は重々しく語り始めた。
「個で国を制圧し得る、圧倒的な力。その者の『選択』により、世界の未来は如何様にも姿を変える。九十九由基然り、五条悟然り、夏油傑然り。……そして、綴眞白然り、だ」
「…………」
男は息を呑み、沈黙した。
「君は感じなかったか?今日の交流会で、あの子が放った『呪い』を」
「……確かに、凄まじい呪力と悪寒を感じ、一時は特級呪霊の襲撃かと勘違いをして警報を鳴らしそうになるほどでしたが……」
男は冷や汗を拭いながら当時のことを思い出す。
「それが問題なのだ。人間と呪霊を比較する……いや、『比較できてしまう』ことこそが」
「……?」
「呪霊とは、存在そのものが人々の負の感情、即ち『呪いの塊』に等しい。それを、たった一人の人間の呪力と勘違いするなど、本来なら到底あり得ないことだ」
天元の言葉に、男の顔が青ざめていく。
「例えばそれが、特定の式神が放つ呪いや、夏油傑の呪霊操術のような『指揮下にある呪霊の群れの気配』ならまだ納得できる。しかし……」
天元は言葉を区切り、ひどく真剣な声音で告げた。
「たった個人の術師をそう勘違いさせるほどの、『膨大な負の感情を含んだ呪いそのもの』を全身から発するなど……そのような異常な術師を、私は過去の長い歴史の中で『一人』しか知らない」
「…………ッ」
その言葉の意味する真の恐ろしさに、上層部の男は言葉を失った。
「ゆめ気を付けろ。彼女の扱いには細心の注意を払え。御三家、特に禪院や……お前を除く、上層部の連中は特にな」
天元は厳しく釘を刺した。
「御意」
男は深々と頭を下げた。
「千年前と同じ轍を踏むことは、決して許されない」
カチャッ。
天元は飲み終えた湯呑みを、ゆっくりと木製のテーブルに置いた。
「……星漿体の同化が失敗したあの日から、この世界の運命の歯車は大きく狂い、全てが変わってしまった。あの子の存在も、その『狂った因果の一端』かも知れぬ」
天元は、外界と隔絶された白い空間を見上げながらポツリと独り言をこぼす。
「今はただ、彼女がこの世界にとっての『災い』にならないことを願おう」
彼女の抱える巨大な呪いと狂気が、正しき道へと向かうことを祈りながら。
「それにしても、何度見ても不思議でならない」
天元は自身の顎を撫でながら、千年以上の時を生きる己の知識と照らし合わせても、未だ奇異に感じてならないあの少女の『存在』に思考を巡らせた。
「………あの子が気に入りそうだ。」
この閉ざされた空間から、あの異端の少女がどのような未来を創り出すのか。
天元は、久方ぶりに訪れたこの『予測不能な未知の観測』を、少しだけ楽しみにしている自分に気づいていた。
***
月明かりすら届かない、カビと埃の匂いが立ち込める古びたアパートの一室。
薄暗い豆電球の灯りだけが照らすその部屋で、額に『不気味な縫い目』をあしらった一人の女性が、少し古風な封筒を丁寧に開封していた。彼女――いや、その皮を被った『何者』かは、中から数枚の便箋を取り出す。
そこに記されていたのは、高専に入学したばかりの一年生、『綴眞白』に関する詳細な調査報告書であった。
「フ、フフフ……」
便箋に目を落とした女性の口から、およそその外見には似つかわしくない、低くねっとりとした歓喜の笑い声が漏れた。
「まさか、『五条悟』以外にこんなの術師が現代に生まれるとはね。……ふふっ、やはり長生きはするものだ」
女は報告書に記された異常な呪力量と、先ほどの交流会で観測されたであろう未知の結界術の情報を指先でなぞりながら、ひどく満足げに目を細めた。
「あぁ、だが惜しい。実に惜しいよ。……もう少し、あとほんの少しでも早く生まれてきてくれれば、君を盤上に上げて、もっともっと『面白いこと』ができたろうに」
女はまるで、極上の芸術作品を前にして手を出せないコレクターのように、深く長い感嘆の息を吐いた。しかし、すぐに自らを戒めるように頭を軽く振る。
「気をしっかり持つんだ、私。どれほど極上の誘惑があろうとも、今更計画の変更はない。なんと言っても……一〇〇〇年もかけた悲願なんだからね」
千年という途方もない時間をかけて編み上げてきた、自身の呪術の極致。その成就の前に、一個人の才能に目を奪われている場合ではないと、女は冷徹な理性を保ちながら便箋をめくった。
「それにしても、まだ一年生か。順当にいけば……『アレ』の先輩になるのかな?」
女はふと、自身の腹を痛めて産み落とした『器』の顔を思い浮かべ、口角を三日月のように吊り上げた。
「あぁ、それもいいな。呪いの王たる宿儺を前にした時、この狂気を孕んだ子は一体どんな変化を起こすんだろう。そして、あの宿儺は彼女を見てどんな反応をするんだろうね……」
想像するだけで胸が躍る。混沌の渦中に彼女を放り込めば、どれほどの連鎖反応が起きるのか。女の脳内で、無数の残酷なシミュレーションが駆け巡る。
「……惜しい。本当に惜しいなぁ。でも、こればかりはしょうがない。私には、死滅回游の準備を筆頭に、まだやらなくちゃいけないことが山ほどあるからね」
女は名残惜しそうに報告書から目を離し、天井を仰いだ。
しかし、どうしても抑えきれない知的好奇心と執着が、女の心をざわつかせる。
「……あークソ、もったいない。もったいないが仕方ない。……いっそのこと、計画に組み込んで『死滅回游』に巻き込むか?」
女は苛立たしげに自身の額の縫い目を指でなぞりながら、ふとそんな狂気的なアイデアを口にした。だが、千年を生きる狡猾な思考が、すぐにそのリスクを弾き出す。
「うーん。……いや、やめておこう。三年後、この子がどれほどの術師に育っているか、その成長幅が全く想定できない。途中で絶対に、計画の致命的な『邪魔』になる」
女は冷静に首を横に振った。特異点は、五条悟ただ一人で十分すぎる。
「それに、これほど『結界術』に富んでいると来た。後々の天元との同化や結界のハッキングを考えれば、天元側の強力な結界術師は、早めに潰しておくにかぎる」
女の瞳から先ほどまでの歓喜の色がスッと消え失せ、底知れぬ漆黒の殺意が宿った。
「そうだな。今年中……いや、来年の何処か、一番都合の良い頃合いを見て……彼女には死んでもらおう」
残酷な死の宣告を、まるで明日の天気を決めるかのように淡々と呟く。
だが、再び報告書に目を落とした女の顔には、好奇心を抑えきれない子供のような、ひどく無邪気で不気味な笑みが浮かんでいた。
「でも、その前に……」
女は暗闇の中で、極上の玩具を見つけたように目を細めた。
「少しばかり『刺激』を与えてみるくらいなら……構わないよね?」
ボウッ――!
女がそう囁いた瞬間、手元にあった便箋が青黒い呪力の炎に包まれた。
綴眞白の個人情報の書かれた紙が、音もなく一瞬にして燃え上がり、チリチリと灰になってアパートの床へと崩れ落ちていく。暗い部屋の中、燃え尽きる呪力の微かな光に照らされた『羂索』の笑顔だけが、狂気に満ちた凄惨な影を落としていた。
はい、今回の不定期投稿はここまでとなります。
楽しんでもらえていたらすごくうれしいのです。
しかし、残念なことに私の筆が遅すぎるために次回の更新もだいぶ間が開いてしまいそうです。
ちなみに次回からの展開は、五条とスイーツはしご旅とみんなで眞白の昇級祝いのお話、その次からは初任務とかを書いていけたらなと思います。
五条とスイーツはしご旅については何となく原宿にしましたが、あんまり東京詳しくないのでちょっと端折ったりするかもです。
しばらく任務と高専での日常を書いて、1年の最後に大きめなイベントとか書いたら次は2年に行っちゃおうかなって思います。
秤ときららどうやって書こうか悩むなぁ。
投稿時期は気分次第で今回みたいにだいぶ開くかもしれませんが、個人的には少なくても原作までの展開は考えていますのでやめるつもりはありません。
では、また次回お会いしましょう。
ぜひ読んでくださるとうれしいです。
というか交流会って勝手に7月あたりだと思ってたけど、あれ9月らしいね。夏終わるじゃん。どうしよ。
いっそのこと今年だけの特例として添えるか…
いや、家入の授業から1ヶ月と少し経ってたということにすれば今回の話の時期が9月初旬って言われてもギリ納得できるか?
……よし、それで行こう。てことで、ちまちま矛盾を修正していきます。