ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか   作:kursk

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星々の集結

ライラの加入から一月が経つ頃には、アストレア・ファミリアの名はオラリオの街角でますます頻繁に囁かれるようになっていた。

 

闇派閥の下部組織を叩いた一件は、冒険者たちの間で瞬く間に広まった。特にガネーシャ・ファミリアとの合同巡回で、これまで掴めなかった闇の構成員を次々に炙り出す手腕は、正義を掲げるファミリアとして確かな実績を積み重ねていた。

 

そして、その名声を聞きつけて、門を叩く者が増え始めた。

 

最初にやって来たのは、ノイン・ユニックだった。

こげ茶色の髪をした、まだあどけなさの残るヒューマンの少女。けれども、その瞳には芯の通った静かな決意があった。

 

「孤児院で育ちました。ずっと、誰かを守れる人になりたかったんです」

 

ノインは朴訥な口調でそう言った。

杏寿郎はその言葉の重さを正確に受け止めた。守りたいという願いは、守れなかった経験の裏返しであることが多い。

 

「よく来た。歓迎しよう!」

 

杏寿郎が手を差し出すと、ノインは緊張で震える手でそれを握った。

 

ノインの加入から数日後、今度は門の前に二人の少女が並んで立っていた。

銀色の髪と褐色の肌を持つ狼人のネーゼ・ランケットと、アマゾネスのイスカ・ブラ。

二人は以前から組んでダンジョンの浅層を探索していたが、所属するファミリアに嫌気がさして、改宗したいと申し出た。

 

「わたしたち、ファミリアの他の人たちと仲が悪くて、ずっと二人で冒険してきたんです」

 

イスカが正直に告げた。ウェーブのかかった髪をポニーテールにまとめた、陽の気を纏う娘だった。

 

「……この街で正義を掲げるファミリアは少ない。闇派閥と本気で戦う気概のあるところは、もっと少ない」

 

ネーゼが低い声で言った。狼人特有の鋭い瞳が、杏寿郎を射抜くように見据える。

 

「私たちは力で貢献できる。試してくれればいい」

 

その日の午後、杏寿郎はネーゼとイスカの実力を見定めるために手合わせをした。

ネーゼの獣じみた瞬発力と、イスカの荒削りだが破壊力のある拳撃は、二人がこれまで苛酷な環境で生き延びてきた証だった。

 

ほぼ時を同じくして、小柄なドワーフの少女、アスタ・ノックスがふらりと現れた。

茶色の髪を腰の下まで伸ばした、ドワーフの常識に反するような可憐な容貌だが、その腕力と頑強さは種族の名に恥じなかった。

 

「わたし、鍛冶はできないけど、盾なら誰にも負けないよ」

 

アスタは自分の身体ほどもある大盾を軽々と持ち上げて見せた。

 

「おお、見事な盾だ!」

 

杏寿郎が目を輝かせた。前衛で盾を構える仲間は、パーティの生存率を大きく上げる。

 

魔導士も加わった。

 

リャーナ・リーツ。

亜麻色の髪を丁寧に編み込んだ、勝気な雰囲気のヒューマンの女性だ。

杏寿郎より少し年上で、落ち着いた物腰と冷静な眼差しを持っていた。

しかし、その奥底には、静かに燃える炎があった。穏やかに微笑む口元と、時折覗く鋭い瞳のギャップが、彼女の歩んできた道の複雑さを物語っていた。

 

リャーナは、アストレアとの面接で、自らの過去を隠さなかった。

 

「私は、魔法王国アルテナの出身よ」

 

アルテナ。

その名を聞いた瞬間、居合わせた輝夜の眉が微かに動いた。

魔法こそが至上の価値であるという信条のもと、魔力の高い者が支配し、魔力の低い者は虐げられる。

そんな国だった。

 

「アルテナでは、魔法は支配のための道具です。敵を焼き、反逆者を滅ぼし、他国を威圧するための力。私の魔法も、そのために鍛えられました」

 

リャーナの声は淡々としていたが、その言葉の一つひとつに、深い痛みが宿っていた。

 

「けれど、私は――もっと良いことのために、魔法を使いたかった」

 

リャーナは一度、視線を落とした。編み込んだ亜麻色の髪の先が、揺れた。

 

「アルテナの指導部は、私の考えを危険思想と見做しました。魔法は秩序を維持するためのものであり、弱者のために使うものではない、と。繰り返し警告を受け、最後には――放逐されました」

 

 

眼鏡をかけた中性的な風貌のエルフの少女が、ふらりと星屑の庭の前に現れたのは、それから一月のことだった。

セルティ・スロア。

わずか十一歳。ファミリアでは断トツで最年少になる。

 

「……正直に言えば、闇派閥が怖くないわけじゃない。でも、怖いからこそ、誰かが立ち向かわなきゃいけないと思うんです」

 

セルティが眼鏡の奥の瞳に知性の光を宿して言った。

 

最後に加わったのは、マリュー・レアージュだった。

おっとりとした雰囲気のヒューマンの女性で、ファミリアで最年長だった。

垂れ目がちの穏やかな容貌は、どことなくアストレアに似た空気をまとい、誰からも慕われる性質を持っていた。

 

「……わたし、戦うのは苦手なんですけど、傷ついた人を放っておけないんです」

 

最初の面接でマリューが恥ずかしそうに言うと、アリーゼが笑って彼女の手を取った。

 

「回復役がいるのといないのとじゃ天と地の差なの! 大歓迎よ!」

 

マリューがレベル1にして発現した回復魔法『レア・ヴィンデミア』は、全体回復魔法だった。

範囲内の味方全員の傷を同時に癒す、極めて稀有な魔法。

戦闘の最中に仲間全員を支えることができるその力は、小規模ファミリアにとっては何物にも代えがたい宝だった。

 

 

こうして、アストレア・ファミリアは杏寿郎を団長として、アリーゼ、輝夜、ライラ、ノイン、ネーゼ、イスカ、アスタ、リャーナ、セルティ、マリューの総勢十一名となった。

 

アストレアは一人ひとりに恩恵を授け、その背中に刻んだ。

 

「素敵な子たちが集まったわ」

 

アストレアは目を細めた。

嬉しかった。そして、同時に胸が締め付けられるように不安だった。

この子たちを、守り切れるだろうか。

杏寿郎の顔を見た。若き団長は、新しい仲間たちと笑い合っていた。

あの眩しい笑顔が、陰ることがないように――。

アストレアは、静かに祈った。

 

 

団員が増えたことで、ファミリアの戦力は飛躍的に向上した。

だが、それ以上に変わったのは、ライラの情報網がもたらす機動力だった。

 

ライラは新しく加入した団員たちの適性を瞬時に見抜き、特にノインとネーゼを情報収集に多用した。

ノインは目立たない容姿と控えめな性格が、聞き込みに適していた。

ネーゼは狼人としての嗅覚と聴覚に優れ、人間の五感では到底辿り着けない情報を嗅ぎ取った。

 

「情報は鮮度が命だぜ。あたしを含めて三人体制でやれるなら、異変の兆候に気付きやすくなる」

 

ライラは自作の情報整理表を壁に貼りながら説明した。

闇派閥の動向、ダンジョンの異変、他のファミリアの動き。それらが色分けされた印で地図上に記されている。

 

成果はすぐに現れた。

闇派閥の末端が市民を脅して上納金を巻き上げている現場を、事前に特定して急襲。

密輸ルートの中継点を潰し、違法な魔道具の流通を止めた。

いずれも、ライラの分析がなければ到底辿り着けなかった成果だった。

 

「今まではモグラ叩きだった。出てきた敵を叩くだけ。でも今は違う。モグラの巣穴がどこにあるか分かるようになった」

 

杏寿郎がファミリアの報告会で言った。

 

「ライラのおかげだ」

 

「あたしだけじゃないさ。ノインとセルティが足で稼いだ情報がなきゃ、分析もへったくれもない」

 

ライラは素っ気なく返したが、栗色の瞳がわずかに柔らかくなっていた。

 

しかし、団員の増加は嬉しい悲鳴ももたらした。

『星屑の庭』は、もはや十一人が暮らすには手狭だった。

朝の鍛錬で中庭が人で溢れ、食事は三回に分けなければ全員が座れず、寝室に至っては雑魚寝に等しい状態だった。

 

「このままじゃ、鍛錬の質が落ちる。生活の質が落ちれば、判断力も鈍る」

 

輝夜が淡々と指摘した。

 

「北地区に売りに出ている屋敷がある。元は中堅ファミリアの本拠だったが、ファミリアが解散して空き家になってる」

 

ライラが地図を広げた。

 

「広さは今の三倍以上。中庭は訓練場に使えるし、大広間もある」

 

「いくらなの?」

 

 アリーゼが恐る恐る聞いた。

 

「一億ヴァリス」

 

――沈黙が落ちた。

 

「い、一億!?」

 

アリーゼが叫んだ。

 

「ダンジョンの稼ぎを全力で突っ込めば、半年で返せる。いや、返さなきゃいけない。このファミリアの成長速度を考えれば、今の拠点じゃ話にならないんだ」

 

ライラの試算は的確だった。

ファミリアの収入源は主にダンジョンでのドロップ品と魔石の売却だが、闇派閥との戦いに時間を割いている分、他のファミリアに比べて探索時間が短い。

新しい拠点を得るためには、ダンジョン探索の効率を格段に上げる必要があった。

 

「だからこそ――」

 

ライラは全員を見回した。

 

「杏寿郎のランクアップが急務なんだ」

 

 

 

その夜、ライラは杏寿郎、アリーゼ、輝夜の三人を集めて、自分の分析を開陳した。

 

「まず、杏寿郎のスキル【守護炎心】について、あたしなりの考察を話す」

 

ライラは羊皮紙に書き込んだ図表を広げた。

杏寿郎、アリーゼ、輝夜のステイタスの推移が、時系列で記録されている。

 

「このスキルは、守護対象がいる場合に杏寿郎の全能力値に超高補正がかかる。守護対象には、戦場にいる民間人だけじゃなく、ファミリアの仲間も含まれてる。つまり、ファミリアで一緒に戦ってるだけで、杏寿郎のステイタスは大幅に底上げされてるんだ」

 

「ああ、その通りだ。仲間がいるときの方が、明らかに身体が軽い。力が湧く感覚がある」

 

杏寿郎が頷いた。

 

「加えて、【全集中】のスキルで、戦闘中の能力値はさらに高められている。もともと高い能力値が二重に底上げされるわけだ」

 

ライラは図表の数字を指で追った。

 

「で、ここからが核心。杏寿郎のスキルで高められた能力値のうち、力と耐久は一定の割合で周囲の仲間に加算配分されてる。つまり、杏寿郎が強くなればなるほど、仲間全員への加算値が増える」

 

輝夜が目を細めた。

 

「……なるほど。だからこそ、杏寿郎のランクアップが最優先というわけか」

 

「その通り。重要なのは、味方の能力を割合で上昇させるのではなくて、杏寿郎の能力値を『加算』するという一点だ。杏寿郎がLv. 4になれば、基礎能力値が跳ね上がる。【守護炎心】と【全集中】で底上げされた値はさらに大きくなり、結果として仲間全員の力と耐久に上乗せされる加算値も格段に増える。ファミリア全体の戦闘能力が一気にアップするんだ。とくにファミリアに入りたてのレベル1やあたしみたいに弱い奴にとって、加算の恩恵はとんでもなくでかい」

 

ライラは拳でテーブルを叩いた。

 

「これをうまくつかえば、他の団員がそれぞれの実力に見合った難敵を倒せるようになる。ランクアップの連鎖を起こせるんだよ」

 

「理屈は分かった。しかし問題は『偉業』だ。Lv. 3からLv. 4への『偉業』ともなると、相応の格の敵を倒す必要がある」

 

杏寿郎が腕を組んだ。

 

「そこで、ゴライアスだ」

 

ライラが言った。

空気が変わった。蝋燭の炎が揺れ、壁の影が一瞬大きく揺らいだ。

 

――ゴライアス。

迷宮十七階層に出現する階層主で、全高七メートルの灰褐色の巨人だ。推定能力値はLv. 4相当。

 

「ゴライアスの定期討伐は、リヴィラの街の住民にとっても必要なことだ。街への通行の妨げになるからな。だから、リヴィラの街で討伐の権利を買うことができる。値は張るが、今後を考えれば必要な投資だ」

 

「それに」とライラは続けた。「ゴライアスのドロップ品は『ゴライアスの硬皮』。高値で売れる。借金返済の足しにもなる」

 

「まずはファミリア総出で討伐して経験を積む。慣れたら、杏寿郎が単独で挑む。単独でLv. 4相当の階層主を討伐すれば、偉業としては十分だ」

 

杏寿郎は黙って考えた。

自分は今Lv. 3だが、【守護炎心】と【全集中】の補正があれば、Lv. 4に匹敵する戦闘能力は出せる。

階層主との戦いは未知の領域だったが、不可能とは思えなかった。

 

「――やろう」

 

杏寿郎が言った。その声に迷いはなかった。

 

「まずは全員で挑む。仲間の命を無駄に危険に晒す気はない。だが、初戦で相手の力量を見極め、次からは俺一人でやる。必ずやり遂げてみせる」

 

「それで構わない。一点、補足すると――」

 

輝夜が口を挟んだ。

 

「アリーゼや私にとっては、集団戦であっても、ゴライアス討伐は『偉業』になり得る。Lv. 2から見れば、Lv. 4相当の階層主を倒すのは十分な『偉業』だ。初戦では、余裕があれば、アリーゼに止めを刺させる形にすべきだろう」

 

「え、あたしが止めを?」

 

アリーゼが目を丸くした。

 

「副団長のステイタスはとっくにランクアップ圏内だ。足りないのは『偉業』だけだ。ゴライアスの討伐に大きく貢献すれば、Lv. 3への道が拓けるだろう」

 

輝夜を引き継いで、ライラが戦術を説明する。

 

「順序としてはこうだ。初戦でアリーゼがランクアップ。二週間後にリポップしたゴライアスを、今度は杏寿郎が単独で討伐してランクアップ。二段階でファミリアの戦力を跳ね上げる」

 

「私はどうなる?」

 

輝夜が聞いた。

 

「お前の番はその次だ。杏寿郎がLv. 4になれば、加算値が大きくなる。その恩恵を受けて、もう少しステイタスを上げてから、勝負したほうが良い。お前は一撃は強くとも、アリーゼほどの継戦能力はないからな」

 

輝夜は薄い笑みを浮かべた。

 

「……気に食わんが、合理的だな」

 

ライラが肩をすくめた。

 

 

リヴィラの街で、アストレア・ファミリアはゴライアスの討伐権を購入した。

決して安くはないが、ドロップ品の『ゴライアスの硬皮』は高値で売れるし、下層に行けるようになれば、あっという間に元がとれる。そういう計算だった。

 

街の元締めであるボールスは、杏寿郎たちの顔を見て豪快に笑った。

 

「アストレア・ファミリアか。噂は聞いてるぜ。闇派閥を叩き回ってるっていう正義のファミリア。――ゴライアスの相手は初めてだろう? 甘く見るなよ。中層最強のモンスターだ」

 

「承知している。だが、我々は必ず勝つ」

 

杏寿郎が力強く答えた。

 

十七階層。『嘆きの大壁』。

巨大な壁面が、通路の奥に広がっている。

壁面そのものがダンジョンの産室であり、ゴライアスはここから生まれ落ちる。

 

杏寿郎たちが到着した時、壁には既にひび割れが走っていた。

次産間隔からの計算で、ゴライアスの出現が間近であることは分かっていた。

 

「全員、配置につけ!」

 

杏寿郎が号令をかけた。

 

ライラの立てた作戦はこうだった。

前衛第一陣は杏寿郎。ゴライアスの注意を一身に引きつけ、最大の攻撃力で正面からぶつかる。

前衛第二陣はアリーゼと輝夜。杏寿郎の左右から側面を突き、ゴライアスの体勢を崩す。

 

盾役のアスタは杏寿郎の背後に控え、ゴライアスの攻撃が前衛を突き抜けた場合に受け止める。

中衛にはネーゼとイスカ。ゴライアスの足元を狙い、機動力で翻弄する。

後衛にはリャーナとセルティの魔導士二人。詠唱を開始し、隙を見て魔法攻撃を叩き込む。

マリューは最後方で回復に専念。

 

ノインはマリューの護衛と、周辺から湧く中層モンスターへの対処。そしてライラ自身は全体を俯瞰する位置で指揮を執る。

 

「あと、忘れちゃいけないのが雑魚だ」

 

ライラが注意を促した。

 

「ゴライアスはモンスターを呼び寄せる。ヘルハウンドやミノタウロスが大挙して襲ってくるかもしれない。特にヘルハウンドの火炎放射は厄介だ。後衛が潰されたら立て直しが効かない。ノインとアスタは常に後衛の安全を確保してくれ」

 

「了解」

 

ノインが静かに頷いた。握りしめた剣の柄が、汗で湿っていた。しかし、瞳は揺れていなかった。

 

「任せて!」

 

アスタが大盾を構えた。ドワーフの少女の足元に、ずしりと重い音が響いた。

 

リャーナは後衛の位置で、杖を構えていた。

心臓が速い。呼吸を意識的に整えなければ、詠唱が乱れる。

アルテナで学んだ魔法の基礎が、今ほど役に立つ時はなかった。呼吸を律し、魔力の流れを安定させる。手先の震えを止めるのではなく、震えを含めて制御する。

 

隣にセルティがいた。

眼鏡の奥の瞳が、壁を凝視している。

十一歳の少女の顔は蒼白だった。

しかし、杖を握る手は離さなかった。

 

「セルティ」

 

リャーナが、静かに声をかけた。

 

「は、はい」

 

「怖い?」

 

「……はい」

 

「私も怖い」

 

セルティが驚いたように、リャーナを見上げた。アルテナ仕込みの精鋭魔導士が、怖いと言った。

 

「でもね、怖いから集中できるの。恐怖は、魔力を研ぎ澄ます。アルテナでは、そう教わった」

 

リャーナは微笑んだ。穏やかな、しかし芯の強い微笑みだった。

 

「あなたの魔法は風。私の魔法は炎。私が硬皮を焼いて脆くするから、あなたはそこに風を叩き込む。練習した通りよ」

 

「……はい!」

 

セルティの声に、わずかだが力が戻った。

リャーナは杖を握り直した。

アルテナを追われてから、正義のために魔法を使うと誓った。その誓いを果たす時が、今ここにある。

魔炎の起源は絶望と戒め。しかし、その炎を向ける先は、もう故郷への怨嗟ではない。仲間を守り、悪を退ける正義の炎に変えるのだ。

 

壁が、脈動した。

全員が息を呑んだ。壁面に走るひび割れが広がり、砕けた岩片が飛び散る。

壁の奥から、巨大な手が突き出た。灰褐色の指が石壁を掴み、引き裂く。もう一方の手が現れ、壁を砕く。やがて、全高七メートルの巨人が、産声にも似た咆哮を上げて、壁から這い出た。

 

ゴライアス。迷宮の孤王(モンスターレックス)。

その巨体は、杏寿郎でさえ見上げるほどだった。灰褐色の肌は岩のように硬質で、筋肉の隆起が異常なまでに発達している。小さな瞳は赤く燃えて、眼前に並ぶ冒険者たちを見下ろしていた。

 

空間全体が、巨人の存在に圧されていた。呼吸すら重くなる。壁のように厚い殺気が、見えない手のように全員を掴もうとしている。

セルティの膝が震えた。杖を握る手から力が抜けそうになる。故郷の森で聞いた、モンスターの恐ろしさ。その話が、今、目の前で現実になっている。

 

その時、前方から炎が噴いた。

杏寿郎だ。

 

背後に十人の仲間がいる。守るべき者たちがいる。その認識が、杏寿郎の熱を高める。

 

「心を燃やせ――【炎の呼吸】」

 

力と耐久の超過分が、見えない炎の波動となって周囲の仲間に流れ込む。

 

セルティは、温もりを感じたような気がした。

身体の中に、温かいものが流れ込んでくる。恐怖が消えたわけではない。

しかし、恐怖に負けない力が、杏寿郎から伝わってくる。膝の震えが、止まった。

 

「――来い!」

 

杏寿郎が叫び、真正面からゴライアスに突進した。

 

「伍の型――炎虎!」

 

深紅の炎が虎の形をとり、巨人に突っ込む。

煉獄の業火が、嘆きの大壁を赤く染め上げた。

 

「硬い――だが!」

 

杏寿郎は体勢を立て直し、今度は炎を纏った斬撃を叩き込んだ。炎の熱が、硬皮の表面を焼き焦がす。

ゴライアスが咆哮を上げた。

 

「アリーゼ! 左から!」

 

「任せて!」

 

アリーゼが地を蹴った。

 

「【花開け(アルガ)!】」

 

【アガリス・アルヴェシンス】が発動し、茜色の炎が全身を包みこんだ。

 

ブーツに収束した炎が石畳を爆砕し、爆発的な加速を生み、アリーゼは宙を舞った。

そのまま、一瞬でゴライアスの左脇腹に到達し、炎を纏った剣を叩き込んだ。灰褐色の硬皮が焼け焦げ、深い切創が刻まれる。

 

「――効いたわ!」

 

同時に、右側面から白い閃光が走った。輝夜だ。月白の太刀が、ゴライアスの右膝の裏を正確に切り裂いた。巨人の体勢がわずかに崩れる。

 

「足を止める。好機を逃すな」

 

輝夜の声は氷のように冷静だった。

ゴライアスが怒りの咆哮を上げ、左腕を横薙ぎに振るった。壁のような腕が、前衛を薙ぎ払おうとする。

 

3人が素早く回避すると、ゴライオスの体勢が崩れる。

その隙を、ネーゼとイスカが衝いた。ネーゼが獣の速度でゴライアスの足元に潜り込み、短剣で足首の腱を狙う。

イスカは跳躍して巨人の膝に拳を叩き込んだ。

 

「ネーゼ! 右!」

 

「わかってる!」

 

ネーゼが狼人の嗅覚でゴライアスの次の動きを察知し、イスカの腕を掴んで跳び退いた。一拍遅れて、ゴライアスの足が地面を踏み砕いた。砕けた石畳の破片が、二人のいた場所を穿った。

 

その時、通路の奥から不穏な唸り声が響いた。

 

「来たぞ、雑魚だ!」

 

ライラが叫んだ。

ヘルハウンドが三体、暗闇の中から飛び出してきた。仔牛ほどの大きさの黒い犬。『放火魔(バスクビル)』の異名を持つ、中層の厄介なモンスターだった。黒い毛皮の下に赤い炎が透けて見え、口腔から熱気が噴き出している。三体が同時に口を開き、火炎放射を放った。

 

「させない!」

 

ノインが後衛の前に立ち塞がった。剣でヘルハウンドの一体を切り払い、火炎放射を横に逸らす。

恩恵を受けたばかりの彼女の技量は未熟だったが、杏寿郎から流れ込む力の加算が、その不足を補っていた。

剣を振るうたびに、自分でも驚くほどの力が腕に宿る。

 

しかし残りの二体の炎が、詠唱中のリャーナとセルティに迫った。

 

「セルティ!」

 

アスタが素早く大盾を翻し、炎を受け止めた。盾の表面が赤熱するが、アスタは微動だにしなかった。

 

「ありがとう、アスタ!」

 

セルティが詠唱を続ける。声は震えていたが、途切れなかった。

リャーナもまた、セルティの横で詠唱を続けていた。

詠唱は長い。しかしその分、集束率が高く、威力が格段に上がる。

魔炎を制御するには、これだけの精度が必要なのだ。

 

石畳を焦がす他者の炎の熱を感じながら、リャーナは自分の内なる炎を練り上げていた。

 

さらに通路の奥から、ミノタウロスが一体、轟音と共に突進してきた。全高二メートルを超える牛頭の怪物。中層の強敵だった。

 

「ミノタウロス!」

 

「あたしが行く!」

 

イスカが跳躍し、ミノタウロスの頭上から拳を振り下ろした。アマゾネスの膂力が生んだ一撃が、ミノタウロスの頭蓋を陥没させる。怪物が膝をつき、イスカは着地と同時に追撃を加えて止めを刺した。

 

「ナイスー、みんな!」

 

アリーゼがゴライアスと戦いながら叫んだ。

 

前線では、杏寿郎がゴライアスの猛攻を真正面から受け止めていた。

巨人の拳が迫る。杏寿郎は炎を纏った刀で迎え撃ち、拳の表面を切り裂きながら斜めに流す。

ゴライアスの怒りは増すばかりだった。

目の前の小さな人間が、自分の攻撃を捌き続けていることが、階層主の本能を刺激していた。

 

「リャーナ! セルティ! 今だ!」

 

ライラが叫んだ。

詠唱を完了した二人の魔導士が、同時に魔法を解き放った。

リャーナの魔炎【イリヴュード】がゴライアスの胸を直撃した。赤黒い魔炎が灰褐色の硬皮を焼き、触れた箇所に炎痕(スティグマ)が浮かび上がった。

ゴライアスの硬皮の質感が変わった。岩のような硬さが、わずかに脆くなっている。

 

その一瞬を、セルティは逃さなかった。

セルティの雷砲が、リャーナの魔炎で脆くなった硬皮を正確に衝いた。

リャーナの下降付与(デバフ)が先行したことで、砲撃は硬皮の奥深くまで到達した。

 

リャーナが敵を弱体化し、セルティがその弱点を突く。練習で幾度も繰り返したコンビネーションが、実戦で見事に嵌った。

 

「やった……!」

セルティが小さく叫んだ。

 

ゴライアスが体勢を大きく崩した。胸の傷口から、巨人の内部にある魔石がかすかに光っているのが見えた。

 

「アリーゼ! 今! 止めを!」

 

杏寿郎が叫んだ。

アリーゼは、すべてを賭けた。

炎が、燃え盛った。身体を包む茜色の炎が、紅蓮に変わり、燃え広がる。

アリーゼは地を蹴り、天を翔けた。フェイントを織り交ぜながら、ゴライアスの魔石に向かう。

 

ゴライアスが最後の力を振り絞り、両拳を振り下ろした。巨人の全力の一撃が、アリーゼに迫る。

 

「【煉獄】!」

 

杏寿郎が奥義をまとい、炎の刀でゴライアスの右腕を吹き飛ばす。

同時に輝夜が左腕の手首を切断した。

 

道が拓けた。

アリーゼは剣を両手で握りしめ、ゴライオスの胸元に突撃した。

 

炎が白熱する。

 

――【炎華(アルヴェリア)!】

 

爆散鍵(スペルキー)が解き放たれた瞬間、アリーゼの剣から超高熱の炎の爆発が生まれた。炎がゴライアスの胸を貫き、巨人の硬皮を溶かし、その奥にある魔石を直撃した。

 

ゴライアスの全身に亀裂が走った。赤い瞳から光が消える。七メートルの巨体が、ゆっくりと後方に傾き――。

轟音と共に、嘆きの大壁の前に崩れ落ちた。

 

魔石が砕け散る音が、静寂の中に響いた。

アリーゼは、剣を握ったまま、肩で息をしていた。全身が炎の残熱で震えていた。

 

「……やった」

 

小さく呟いた。

 

「やったぁぁぁっ!!」

 

仲間たちの歓声が、嘆きの大壁に木霊した。

マリューが駆け寄り、回復魔法【レア・ヴィンデミア】を発動した。白い光が前衛を包み、傷が癒えていく。幸い、重傷者はいなかった。

アスタの盾と杏寿郎の前線での奮闘が、ファミリア全体を守り切った形だった。

セルティは、その場にへたり込んだ。膝が笑っている。全身の力が抜けて、立てなかった。

 

「大丈夫?」

 

リャーナが隣にしゃがみ、セルティの背中をさすった。

 

「……リャーナ、わたし、できました」

 

「ええ、できたわ。立派よ」

 

ゴライアスの亡骸からは、見事な『ゴライアスの硬皮』がドロップした。

 

そしてもうひとつ、大きな収穫があった――。

 

 

『星屑の庭』に帰還した夜。

アストレアがアリーゼのステイタスを更新した。

神血が、アリーゼの背中に触れた瞬間、文字が浮かび上がる。

 

アストレアは、その内容を読むと、柔らかく微笑んだ。

 

「アリーゼ――」

 

「……どうですか、アストレア様」

 

アリーゼの声が、わずかに震えていた。

期待と不安が入り混じった声だった。

 

「――ランクアップよ。これで、あなたもLv. 3ね」

 

アリーゼが振り向いた。碧い瞳が潤んでいた。

 

「本当に……?」

 

「ええ。しかも、新しいスキルが発現しているわ」

 

アストレアは紙にステイタスを書き写し、アリーゼに手渡した。

 

---

 

共闘正火(バトレアテ・アシラス)

・仲間と共闘する戦闘において、炎属性魔法の威力に高域補正

・共闘する仲間の数に応じて魔法の収束率と持続力が上昇

 

---

 

「共闘正火……」

 

アリーゼが呟いた。

 

「仲間とともに、あなたの正義を信じて戦うとき、あなたの魔法が大幅に強化されるスキルね」

 

アストレアが微笑んだ。

 

「あなたの本質が、そのまま力になったのよ、アリーゼ。一人で戦う時よりも、仲間と共にある時の方が強くなる。あなたらしいスキルだわ」

 

アリーゼは紙を胸に抱きしめた。

 

「……お兄様。輝夜。ライラ。みんな」

 

声が震えた。

 

「みんながいたから、ゴライアスを倒せた。このスキルは、みんながくれたものなんですね!」

 

アストレアが優しくアリーゼを抱きしめた。

 

「そうよ、アリーゼ。スキルは子どもの経験や思いが形になったものよ。だから、これからも、この調子で頑張ってね」

 

「はい!」

 

アリーゼはアストレアの双丘に顔を埋めて、思う存分、甘えた。

アストレアがゆっくりと頭を撫でてくれる。

その優しさに、身を委ねた。

 

 

 

それから、さらに二週間が経った。

ゴライアスの次産間隔は約二週間だ。リポップの時期が近づいていた。

 

杏寿郎は、この二週間を無駄にしなかった。

毎日の鍛錬に加え、中層での探索を繰り返し、ステイタスをさらに積み上げた。

 

出発の朝。

『星屑の庭』の門前に、ファミリアの全員が集まっていた。

 

「お兄様、本当に一人で行くの?」

 

アリーゼが心配そうに言った。

 

「ああ。単独での偉業でなければ、ランクアップの根拠として弱い」

 

杏寿郎は一度言葉を切り、仲間たちを見回した。

 

「だが、俺は、一人で戦うわけではない」

 

「え?」

 

「君たちが此処にいる。アストレア様がいる。たとえ距離が離れていても、この絆は消えない」

 

杏寿郎は拳を胸に当てた。

 

「俺の炎は、皆がくれたものだ」

 

アリーゼが目を潤ませた。

輝夜が無言で頷いた。

ライラが「かっこつけすぎだ」と言いながら、口元を綻ばせた。

 

「行ってまいります、アストレア様」

 

「必ず帰ってきてね、杏寿郎」

 

アストレアが祈るように両手を合わせた。

 

「はい。必ず」

 

杏寿郎は背を向け、ダンジョンへと歩き出した。

 

 

 

十七階層。嘆きの大壁。

杏寿郎は、一人でそこに立った。

 

前回とは違い、背後に仲間はいない。

周囲を固める盾役もいない。魔導士の支援もない。回復役もいない。

 

ただ、刀が一振り。

そして、燃え尽きることのない炎の意志だけだ。

 

壁が脈動した。

ひび割れが広がり、灰褐色の巨腕が壁を突き破った。

前回と同じ光景。だが、今回はそれを受け止めるのは杏寿郎一人だった。

 

ゴライアスが壁から這い出た。

全高七メートルの灰褐色の巨人が、眼前に聳え立つ。

赤い瞳が、ゆっくりと杏寿郎を見下ろした。

 

杏寿郎は、深く息を吸った。

遠くにいる仲間たちの顔が、脳裏に浮かんだ。

アリーゼの笑顔。輝夜の凛とした横顔。ライラの不敵な瞳。

ノイン、ネーゼ、イスカ、アスタ、リャーナ、セルティ、マリュー。

そしてアストレアの、慈愛に満ちた微笑み。

帰りを待ってくれる者たちがいる。

 

杏寿郎は刀を抜いた。

刃が深紅の炎に包まれる。

 

「――参る!」

 

ゴライアスが咆哮し、右の拳を振り下ろした。

石畳を粉砕する一撃。杏寿郎は横に跳んだ。

風圧だけで身体が流される。しかし、足は地面を離れなかった。

 

杏寿郎はゴライアスの右腕に沿って駆け上がった。

灰褐色の硬皮の上を、燃える足が焦がしながら走る。

肩に到達した杏寿郎は、全力で刀を振り下ろした。

 

炎を纏った斬撃が、ゴライアスの肩の付け根に食い込んだ。

前回、アリーゼたちと三人がかりでやっと傷をつけた硬皮を、杏寿郎は単独で深く切り裂いた。

 

ゴライアスが咆哮し、左手で肩の上の杏寿郎を叩き潰そうとした。

巨大な掌が迫る。

杏寿郎はその瞬間に跳躍し、宙で身を翻した。

 

空中で刀を構え直す。

全身の炎を、刀の一点に集束させた。

 

――炎の呼吸、壱ノ型・不知火。

 

集束した炎の爆発力と斬撃が、ゴライアスの胸元を切り裂き、燃やす。

灰褐色の硬皮が裂け、巨人の身体に深い亀裂が走る。

 

その隙に、ゴライアスの身体を切りながら、地上に着地する。

そのまま、全体重をかけて、巨人の右アキレス腱を抉り切る。

 

――炎の呼吸、伍の型・炎虎!!

 

ゴライオスが体勢を崩し、よろめいた。

右足の踏ん張りがほぼ効かなくなったはずだ。

 

だが、階層主は倒れなかった。

体勢を立て直し、怒りに燃える赤い瞳で杏寿郎を睨みつけた。

巨人が地面を踏みしめ、両拳を振り上げた。

 

全力の打ち下ろし。

大地そのものを砕く一撃が、杏寿郎に向かって降り注いだ。

 

杏寿郎は、地を蹴った。

全身の炎が、かつてないほどに膨れ上がった。

深紅の炎が白熱し、黄金色に変わる。

 

これまでの戦いの記憶が、炎に溶け込んだ。

闇派閥と戦い続けた日々。仲間たちの笑顔。アストレアの祈り。

 

想いを炎に乗せる。

 

「炎の呼吸――奥義」

 

――【煉獄】。

 

炎龍がゴライアスの腕に絡みつき、昇り、胸を貫いた。

硬皮が砕け、肉が裂け、炎が巨人の内部を焼き尽くす。

 

「はあああ!!!」

 

刃の先端が魔石に到達し、その核を砕いた。

ゴライアスの全身から、光が漏れ出した。

赤い瞳の光が消え、巨体が前のめりに傾いた。

 

杏寿郎は刀を引き抜き、跳び退いた。

七メートルの巨体が、嘆きの大壁の前に崩れ落ちた。

大地が揺れ、砂塵が舞い上がり、巨体が消えた。

 

そして、静寂が訪れる。

 

杏寿郎は、崩れ落ち、大壁の前に立っていた。

全身が傷だらけで、炎の残滓が肩から揺れていた。

息は荒く、刀を持つ手が震えていた。

 

だが、立っていた。

 

「……勝った」

 

杏寿郎は目を閉じた。

仲間たちの顔が浮かんだ。

アストレアの微笑みが浮かんだ。

 

杏寿郎は刀を鞘に収め、帰路についた。

嘆きの大壁を背にして、十八階層への通路を進む。

一歩ごとに身体が軋んだが、足取りは確かだった。

 

ゴライアスの硬皮を背負い、長い階段を上る。

地上の光が見えた時、杏寿郎は思わず微笑んだ。

 

空が、眩しかった。

 

 

 

『星屑の庭』の門が開いた時、全員が駆け寄った。

 

「お兄様!」

 

アリーゼが真っ先に飛びついた。

 

「帰ったぞ」

 

杏寿郎が笑った。回復薬でも直し切れなかった傷があちこちに残っており、装備はボロボロだった。

マリューがすぐに回復魔法をかけ始めた。

ノインが水を差し出し、アスタが椅子を運んできた。

ネーゼとイスカが背負っていた硬皮を受け取った。

 

「……無事で何よりだ」

 

輝夜が、静かに言った。

 

「やっぱりかっこつけすぎだよ、団長は」

 

ライラが鼻を鳴らした。しかし、声が少し掠れていた。

 

アストレアが杏寿郎の前に立った。

女神の瞳が潤んでいた。

 

「おかえりなさい、杏寿郎」

 

「ただいま帰りました、アストレア様」

 

「……約束、守ってくれたわね」

 

「はい。必ず帰ると言いましたから」

 

 

 

そのまま、アストレアは杏寿郎を伴って寝室の扉を開いた。

神血を垂らし、浮かび上がった文字を読むや、アストレアは喜びの声をあげた。

 

「杏寿郎、やったわね――」

 

杏寿郎は緊張の面持ちで、背中を晒していた。

 

「Lv. 4よ。ランクアップが成立したわ」

 

「――ありがとうございます!」

 

万感の想いをこめて、杏寿郎は礼を述べた。

 

アストレアは紙にステイタスを書き写しながら、話をつづけた。

 

「ねえ、杏寿郎」

 

「はい」

 

「レベルが上がるたびに思うことがあるの」

 

「何でしょうか」

 

「あなたの力が増すたびに、あなたが抱える重荷も増しているように見えるの。レベルが上がれば上がるほど、あなたは自分に多くのものを課してしまう」

 

杏寿郎は、何も言わなかった。否定することは、できなかった。

 

「それは、あなたの美徳だと思う。仲間思いで、責任感が強くて、自分を犠牲にすることを厭わない。団長として、これ以上ない資質よ」

 

「しかし――」

 

「でもね」

 

アストレアは、小さく息を吐いた。

 

「時々、思うの。あなたが、あなた自身のために喜ぶ姿を、もっと見たいと」

 

「俺自身のために……」

 

杏寿郎は目を伏せた。

 

母の教えに従い、弱き者を守ることが自分の責務だと信じてきた。強くなることは、目的ではなく手段だ。守るべきもののために、必要な力を得る。それだけのこと。

 

自分のために喜ぶ。

そのような発想は、杏寿郎の中にはほとんど存在しなかった。

 

「アストレア様は、いつも俺が見えていないものを見ていらっしゃる」

 

「そうかしら。わたしから見れば、あなたの方がずっと多くのものを見ているわ。仲間の成長、街の人々の暮らし、闇派閥の動向。常に、周囲を見渡している」

 

「それは、団長としての責務です」

 

「ほら。また、責務」

 

アストレアは、ふっと笑った。

その笑顔を、杏寿郎は正面から見た。

蝋燭と月光の二つの光源に照らされたアストレアの笑顔は、神としての荘厳さとも、主としての威厳とも異なる、もっと素朴で、もっと温かなものだった。

 

人間の女性の笑顔に、似ていた。

そう思ったことを、杏寿郎は自分でも意外に感じた。

アストレアは神だ。天界から降り立った正義の女神だ。

人間ではない。しかし今、目の前で笑っている彼女は、神というよりも、ただ一人の女性として、杏寿郎のことを気にかけてくれている。

 

その事実が、杏寿郎の胸に温もりを落とした。

 

「俺は――」

 

杏寿郎は、自分でも予期しない言葉を口にしていた。

 

「アストレア様と話している時が、一番、自分が自分でいられる気がします」

 

言ってから、杏寿郎は少し戸惑った。

それは、偽りのない感情だ。

――しかし、なぜ今、その言葉が出たのか。なぜ今夜に限って、そのようなことを口にしたのか。

 

自分でも、よく分からなかった。

 

アストレアは、瞬きをした。

そして、微笑んだ。

 

「嬉しいわ」

 

短い言葉だった。

 

しかし、その短い言葉の中に、杏寿郎には汲み取れないほどの感情が込められていることを、アストレアだけが知っていた。

 

 

いつの間にか、夜が更けていた。

窓の外では、月が天頂に近づきつつある。蝋燭はだいぶ短くなり、部屋の闇がほんの少しだけ深くなっていた。

 

「もう、遅いわね」

 

アストレアが、窓の外を見ながら言った。

 

「ええ。長話をしてしまいました。お休みのところを、申し訳ございません」

 

「謝らないで。わたしが引き止めたんだから」

 

アストレアは立ち上がり、杏寿郎を扉まで見送った。

 

二人は並んで、寝室の扉の前に立った。

杏寿郎の方が、頭二つ分ほど高い。見上げるアストレアの藍色の瞳と、見下ろす杏寿郎の琥珀色の瞳が、正面から交差した。

月光が、扉の隙間から差し込んで、二人の間の床を白く照らしていた。

 

「おやすみなさい、杏寿郎。レベル4、おめでとう」

 

「ありがとうございます。おやすみなさい、アストレア様」

 

杏寿郎は一礼した。

そして、扉の取っ手に手をかけた。

 

「杏寿郎」

 

背後から、もう一度、名前を呼ばれた。

振り返ると、アストレアが小さく何かを言いかけて、しかし言葉を呑み込んだのが見えた。

 

「いいえ。何でもないわ。おやすみ」

 

アストレアは首を振り、微笑んだ。

その微笑みの中に、杏寿郎が読み取れない感情が、確かにあった。

 

「おやすみなさい」

 

杏寿郎は繰り返し、静かに扉を閉めた。

 

廊下に出ると、月光が板張りの床を白く染めていた。静寂の中に、自分の足音だけが響く。

アストレアが触った背中には、不思議な温もりが残っていた。

杏寿郎は、その温もりに勇気づけられながら、自室の扉を開けた。

 

 

同じ頃、アストレアは閉じた扉の前に、まだ立っていた。

杏寿郎の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなるまで。

 

それから、自分の右手を見た。

杏寿郎の背中に触れていた手。指先に、まだ彼の肌の温度が残っているような気がした。

 

「……困ったわね」

 

アストレアは、誰にも聞こえない声で呟いた。

自分の心の奥底に芽生えたものの名前を、まだ口にしなかった。

 

口にしてしまえば、それは現実になる。

だから、今は、名前を与えない。与えないまま、蝋燭の残り火を吹き消し、月明かりだけが照らす寝台に横になった。

 

目を閉じて、背中に触れた時の感触を思い出す。あの筋肉の堅さ。傷跡の熱。衣を脱いだ時のほんの一瞬の躊躇い。そして、彼がこちらを見た時の、琥珀色の瞳の奥にあった、あの——

 

「寝よう」

 

アストレアは、自分に言い聞かせるように呟いて、毛布を引き上げた。

 

窓の外で、星が瞬いていた。

星屑の庭の名前の通り、夜空から零れ落ちた光の欠片が、静かに、静かに、降り注いでいた。

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