ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか   作:kursk

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疾風のような少女

 

杏寿郎がレベル4に到達してから数日が経った。

ゴライアス単独撃破は、レベル4へのランクアップの手段としては、それほど珍しくない。それでも、いよいよ下層に進出できる体制を備えつつある新興ファミリアとして、アストレア・ファミリアの名声は高まった。

 

だが、正義の眷属にとってのランクアップの意味は、名声とは別のところにあった。

レベル4に上昇した杏寿郎のステイタスをベースに、スキルで全眷属へのアビリティ加算効果を増やし、ファミリア全体の底上げと早期ランクアップを図る――。

ライラが立案した成長戦略は、見事に結実した。

これで、レベル1のメンバーが何人かレベル2になれば、いよいよ下層へ降りる準備が整う。

 

その展望を胸に、一同は新しい本拠への引っ越しに精を出した。

北地区の屋敷を1億ヴァリスで購入した借金はまだ重く、日々のダンジョン収入で返済していかねばならない。

おまけに、資材の買い出し、改修作業の段取り、団員の部屋割り――瑣末だが欠かせない実務が山積みだった。

 

 

その日、杏寿郎とアリーゼは市場を歩いていた。

改修に必要な布地や金具を買い揃える、ごく普通の買い出しだった。

アリーゼは、久しぶりに杏寿郎と二人きりで買い物に行けることに浮かれていた。

ファミリアの拡大は嬉しいこと。しかし、それは同時に、杏寿郎と二人きりでいる時間が減ることも意味した。

 

杏寿郎の左腕に抱き着きながら、大市場を巡り歩く。

ただそれだけのことが、上級冒険者になったばかりのアリーゼにとって何よりもうれしかった。

 

オラリオの大市場は、昼下がりの喧騒に包まれていた。

露天商の呼び声、荷車の軋み、冒険者たちの笑い声が入り混じり、雑多な活気が通りを満たしていた。

 

「お兄様、この布地どう思う? みんなの部屋のカーテンにしたいの」

 

アリーゼが、染料で深い藍色に染められた布を手に取って翻した。

光の当たり具合で微かに色が変わる、なかなか上質な布だった。

 

「おお、いい色だな! 朝の光が柔らかく通りそうだ!」

 

杏寿郎が元気よく応じた。

布地屋の老店主が、二人を見て人好きのする笑みを浮かべた。

 

「あんたら、アストレア・ファミリアの団長さんと副団長さんだろ? 仲がいいねぇ」

 

「そうでしょ? お兄様と私の絆は永遠よ!」

 

アリーゼは鼻高々に笑った。

布地を買い込み、金具の店で古くなった蝶番の代わりになりそうなものをまとめ買いし、二人は大通りから裏道に折れた。

北地区に帰る近道だった。人通りが減り、建物の影が濃くなる。

とはいえ、二人にとっては、巡回などで見慣れた光景だった。

 

「でね、輝夜ったら、お風呂上りに、ほとんど裸みたいな恰好でふらふらしているのよ! いくら同じファミリアといっても、最低限の慎みは淑女のたしなみだと思うのよ」

 

アリーゼが杏寿郎に寄り添いながら、雑談に花を咲かせていたとき――。

路地の奥から、声が聞こえた。

 

「下郎、離しなさい!」

 

若い女の声だった。

嫌悪と怒りが入り混じった、切羽詰まった響き。

 

杏寿郎とアリーゼは顔を見合わせた。

言葉は不要だった。荷物を足元に置き、同時に駆け出す。

 

路地の突き当たりに、三人の男がいた。

冒険者崩れだろう。安物の革鎧を着て、腰に手入れのされていない短剣を下げている。

 

三人が取り囲んでいるのは、一人の少女だった。

 

杏寿郎は、一目で彼女の種族を見て取った。

エルフだった。

金色の長い髪が、午後の光を受けて淡く輝いている。

 

空色の瞳は大きく開かれ、強い嫌悪感を湛えていた。

 

顔立ちはエルフらしく整っていたが、まだ幼さが残る。年齢はアリーゼと同じくらいか、やや下か。

スリムで背は高く、手足が長い。

服装は質素な旅装で、腰には木刀をさしていたが、長旅の疲れが色濃く滲んでいるようだった。

 

「へへ、エルフの嬢ちゃん、オラリオに来たばかりなんだろ? 一人だと危ないぜぇ? 俺たちが案内してやるからよ」

 

先頭の男が、下卑た笑いを浮かべて手を伸ばした。

 

「触らないでください。穢らわしい」

 

少女が男の手を払おうとした。

だが、恩恵を持たない少女の腕力では、大人の男を振り払えなかった。

手首を掴まれる。少女の身体が強張った。

エルフにとって、認めていない者からの肌の接触は、ほとんど暴力に等しい。

 

「穢らわしいだぁ? エルフってのはいつもそうだ、偉そうにしやがって――」

 

男の手が、さらに力を込めて少女の腕を引いた。

 

その瞬間――。 

 

「――そこまでだ」

 

杏寿郎の声は、静かだった。

怒鳴るのではない。脅すのでもない。

ただ、そこに立っているだけで、レベル4の冒険者が放つ威圧が空間を塗り替えていた。

 

男たちは、凍りついた。

恩恵を持っているといっても、レベル1の雑魚ばかりだ。

彼らにとって、上級冒険者から放たれる威圧は、生死を分ける暴風に等しい。

呼吸が止まる。脚が竦む。視界の端が暗くなる。

目の前の男が自分を焼き殺せることを、本能が理解していた。

 

「なっ……【正炎】!」

 

「【紅の正花】もいるぞ!」

 

「アストレア・ファミリアか…。悪かったって……! ちょっと声かけただけだろ……!」

 

男たちが、引き攣った声を絞り出した。

 

「声をかけるだけなら、腕を掴む必要はなかろう」

 

杏寿郎の声は穏やかだった。

だが、瞳は笑っていなかった。

煉獄の瞳。炎の奥に宿る、静かで揺るぎない意志。

正義の怒りを抑え込んだ沈黙。

 

「次はないぞ。――行け」

 

男たちは、転がるようにして逃げ出した。

足がもつれ、互いにぶつかりながら路地の向こうに消えていく。

その背中を見送ることもなく、杏寿郎は少女に手を差し出した。 

 

「大丈夫か?」

 

屈託のない、陽だまりのような笑み。

先ほどまでの威圧が嘘のような、温かい声だった。

 

差し出された手が、倒れ込んだ少女を助け起こす。

大きな手だった。剣だこが幾重にも重なった、武人の手。

 

――そんな……。

 

エルフの血は、他者への接触を拒絶する……はずだった。

けれども、リューは杏寿郎を跳ねのけようとはしなかった。

 

「えっ……?」

 

リューは思わず、動揺した声を上げた。

 

杏寿郎は、すぐに気づいた。

手を引っ込め、一歩下がった。

 

「すまない。無闇に触れるつもりはなかった。――怪我はないか?」

 

押しつけがましさのない、自然な距離の取り方だった。

少女は、その所作に瞠目した。

 

他の種族の――とりわけ男性の無神経さには、森を出てから嫌というほど触れてきた。

エルフの習性を知ってか知らずか、平気で触れてくる者ばかりだった。

この男は違った。一瞬で察し、一瞬で退いた。

 

「はい。大丈夫です。助けていただいて、ありがとうございます」

 

少女は姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。

声は硬かったが、礼儀正しかった。

生真面目で実直な口調な性格が良く分かる話し方だった。

 

「あんた、一人でオラリオに来たの?」

 

アリーゼが、杏寿郎の横から顔を覗き込んだ。

碧い瞳が、少女の空色の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 

少女は一瞬戸惑い、それから小さく頷いた。

 

「はい。故郷の森を出て来ました。冒険者になるために、この街に来たのですが……来たばかりで、次々に男たちに絡まれて……本当に不潔です」

 

「故郷って、エルフの森?」

 

「リュミルアの森です」

 

リュミルア。

杏寿郎は聞き覚えがあった。

大聖樹を守護する「守り人」の一族が住まう、エルフの名門の森。

排他的で、他種族との交流を極端に嫌うことで知られる、閉じた共同体だという噂だ。

 

「守り人の一族に生まれましたが、私には……あの場所は窮屈でした」

 

少女の空色の瞳に、苦い光が宿った。

故郷を語る声は淡々としていたが、その淡々さの底に、押し殺した感情が沈んでいた。

 

「他の種族を見下し、自分たちだけが正しいと信じて疑わない。同胞の選民意識に、嫌気がさしたのです。――あの森にいる限り、私は何も知らないまま、何も見えないまま、一生を終えてしまう。そう思って、飛び出しました」

 

路地に風が吹き抜けていく。少女の金髪が揺れた。

 

「でも、こうして一人でオラリオに来てみたら、右も左も分からなくて。情けないかぎりです」

 

「あたしはアリーゼ・ローヴェル。アストレア・ファミリアの団員よ。で、こっちがうちの団長のレンゴク・杏寿郎」

 

「あ……私はリュー・リオンと申します。よろしくお願いします」

 

少女は丁寧に名乗った。

 

背筋を伸ばし、視線を真っ直ぐに合わせる。

 

「リュー?」

 

アリーゼが首を傾げた。

 

「んー、ちょっと言いにくいわね。リオンって呼んでいい?」

 

「え?」

 

少女の空色の瞳が丸くなった。

 

「……はあ、構いませんが」

 

初対面なのに、親しげに、何の躊躇いもなく距離を詰めてくるこの少女には、押しつけがましさとは違う、天然の温かさがあった。

 

「じゃ、リオン! もしまだファミリアが決まってないなら、うちに来ない?」

 

「は?」

 

唐突すぎる申し出に、リューは言葉を失った。

 

「アリーゼ。少し落ち着け」

 

杏寿郎が苦笑した。

 

「だって、一人でオラリオにいるエルフの女の子を放っておけないでしょ! それに、正義の冒険者になりたいって言ってるんだから、うちにぴったりじゃない!」

 

アリーゼは一片の迷いもなく言い切った。

杏寿郎は苦笑を深めたが、止めはしなかった。

アリーゼのこういうところが好ましかった。損得ではなく、目の前の人間を見て動く。

自分と同じ種類の炎を持つ少女だった。

 

「正義のため、とは言っていませんが……」

 

リューが控えめに訂正した。

 

「まあまあ、リオン。とにかく、まずはうちに来なよ。ご飯を食べて、ゆっくり考えればいいわ」

 

アリーゼが笑った。

リューは迷った。

 

数秒の逡巡があった。

――それから、小さく、しかし確かに頷いた。

 

こうして、リュー・リオンは『星屑の庭』の門をくぐった。

それが、アストレア・ファミリア最後の眷属誕生の瞬間だった。

 

 

リューがアストレアから恩恵を授かったのは、その翌日の朝だった。

神の恩恵を背中に刻む儀式は、厳粛なものだ。

受ける者は上衣を脱いで伏せ、神が指先から血を垂らして、己の神の力の一片を注ぎ込む。

エルフにとっては、肌を他者に晒すこと自体がかなりの負担だったが、相手は女神だ。それも正義の女神だ。不浄はない。

 

アストレアの指先が、リューの背に触れた。

温かい光が広がり、神聖文字が浮かび上がる。

ステイタスが刻まれていく。基本アビリティの数値が次々と確定される。

 

そのとき、アストレアの指が止まった。

 

「……これは」

 

女神の声が、微かに変わった。

驚きというほどではないが、それでも声をあげるくらいには素晴らしいスキルと魔法が並んでいた。

 

「どうかされましたか、アストレア様」

 

リューが、伏せたまま問うた。

 

「【ルミノス・ウィンド】。風属性の全体攻撃魔法が発現しているわ」

 

恩恵を受けた時点で魔法が発現する。

それは、並外れた魔法の素養を持つ者にしか起こらない現象だった。

通常、冒険者が魔法を獲得するのは、ステイタスが一定以上に成長した後だ。最初から魔法を持って生まれてくる眷属は稀だった。

 

「恩恵を授かった時点で魔法が使えるなんて……さすがはエルフね」

 

アストレアは微笑んだ。

 

「しかも、スキルが二つも発現している。【妖精星唱】と【精神装填】。魔法効果を増幅する効果と、精神力で力を強化する効果を持っているそうよ。詳しくはこちらを見てね」

 

アストレアはステイタスを写し取って、リューに手渡した。

 

――この子は、化ける。

杏寿郎の【守護炎心】から全眷属に流れ込む力と耐久の加算効果。レベル4に到達した今、その恩恵は以前とは比較にならない。

加えて、杏寿郎の【全集中】による基礎ステイタスの底上げが、リンクを通じて全員に波及する。

この環境の中に、生まれながらの魔法の才を持つエルフが放り込まれたら。

成長速度は、杏寿郎やアリーゼに匹敵するかもしれない――。

 

 

アストレアの予感は、的中した。

リューは、初日の鍛錬で輝夜を驚かせた。

守り人の一族は、幼い頃から戦士としての教育を受ける。

リューもまた、物心つく前から剣と弓を握っていた。

恩恵こそ持っていなかったが、身体に刻まれた戦闘技術は本物だった。

それが、恩恵によって底上げされた途端に花開いた。

 

中庭での組み手。相手はアリーゼだった。

恩恵を受けたばかりのレベル1と、レベル3のアリーゼ。

本来なら、手合わせにすらならない組み合わせだ。

 

だが――。

 

「速い……!」

 

アリーゼが目を見開いた。

リューの動きは、レベル1とは思えなかった。

恩恵の身体強化に頼るのではなく、技術で効率を極限まで高めている。素早く相手の動きを読み、最小限の動きで攻撃を捌き、相手の力を利用して反撃する。

守り人の一族が千年以上かけて磨き上げた、無駄のない戦闘体系だった。

 

もちろん、レベル差は絶対だ。

ステイタスの暴力の前には、技術だけでは覆しきれない。

アリーゼが本気を出せば、一瞬で制することができた。

 

しかし、この新入りは、恩恵を受けてたった数時間でこの動きを見せている。

数週間後、数ヶ月後には――。

 

 

輝夜が、中庭の端で腕を組んだまま、黙ってリューの動きを観察していた。

切れ長の瞳が、冷徹に少女を分析している。

 

「……才能は本物だな」

 

小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。

 

 

だが、リューが真に周囲を驚かせたのは、ダンジョンだった。

リューを中衛に据え、杏寿郎とアリーゼが前衛兼サポート、マリューが万が一の回復役という万全の布陣で、上層の浅い階層から始めた。

慣らしのつもりだった。

 

ところが、リューは上層の攻略を一日で十階層まで辿り着いてしまった。

とくに集団戦時のルミノス・ウィンドの威力は、ステイタスがオール0のレベル1とは思えないほどだった。

 

 

ファミリアで中層に出稼ぎに出たときも、リューは存在感を発揮した。

ミノタウロスの大群を前に、杏寿郎とアリーゼが適度に間引きつつ、それ以外のメンバーに戦闘経験を積ませている。

 

そのとき、エルフの清涼感に満ちた声が洞窟を駆け抜けた。

 

「今は遠き森の空。無窮の夜天に(ちりば)む無限の星々――」

 

ステイタスが急上昇しているとはいえ、まだレベル1。

前衛は無理だったが、魔法は別だった。

リューの口が、詠唱を紡ぎ始めた。

 

「何物よりも疾く走れ――星屑の光を宿し敵を討て」

 

風の魔力が凝縮し、渦を巻き、少女の周囲で収束していく。

空気が震える。回廊を吹き抜ける風が、リューを中心にして逆流を始めた。

 

「【ルミノス・ウィンド】!」

 

緑光の疾風が放たれた。

それは風を宿した光の強襲だった。

通路全体を覆い尽くす全体魔法。

向かってくるミノタウロスだけでなく、その背後に控えていたインプの群れ、壁から湧き出しかけていたマッドビートル、通路を塞いでいたキラーアントの集団――視界に入るすべてのモンスターが、緑光の暴風に呑まれた。

 

切り裂かれ、吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。

さすがに、モンスターの大群を一掃するのは無理だった。

それでも、すでに前衛との死闘で傷ついていた何体かは風の刃に全身を刻まれて膝をつき、魔石へと還っていった。

 

「……凄まじいな」

 

杏寿郎が、純粋な感嘆の声を漏らした。

レベル1の新人が放つ魔法の威力ではなかった。

全体魔法という希少性に加えて、その出力。エルフの種族としての魔法適性が、恩恵と合わさって爆発的な火力を生み出していた。

 

「エルフの森の守り人ってのは、伊達じゃないんだな」

 

ライラが後方で小さく呟いた。

栗色の瞳が、リューの背中を射抜くように見つめている。

その灰色の頭脳は、すでに計算を始めていた。

 

――この戦力が、レベル2か3まで成長したら。

 

ファミリア全体の火力は、また大幅に底上げされる。

 

リューのステイタスの伸びは、杏寿郎やアリーゼが見せた急激な成長曲線に匹敵した。

レベル4の杏寿郎から流れ込む力と耐久の加算は、以前とは桁が違う。その恩恵を受けて、リューの基礎ステイタスは日を追うごとに跳ね上がっていった。

ランクアップの条件となる偉業の経験値も、中層での死闘や闇派閥との戦いが続く限り、事欠かない。

 

――【疾風】。

後にその名で畏怖されることになるエルフの少女は、杏寿郎と同じ速度で、階段を駆け上がり始めた。

 

 

 

同時に、生真面目で潔癖症のエルフはファミリア内での摩擦も引き起こした。

 

ある夜のこと。

引っ越したばかりの新しい本拠の食堂で、夕食後の雑談が続いていた。

 

話題は、最近の闇派閥の動向と、それへの対処方針だった。

ライラの情報網が捉えた新たな敵対組織の影。それにどう対応するかを、団員たちが議論していた。

 

リューが、口を開いた。

 

「正義とは、揺るがぬものです」

 

声は静かだったが、確信に満ちていた。

空色の瞳が、食堂の全員を見渡す。

 

「正しいことは正しい。間違っていることは間違っている。そこに妥協は不要です。闇派閥に対しても、中途半端な対応ではなく、全力で排除すべきです」

 

正論だった。

 

「それは理想論だ」

 

輝夜が、冷ややかに切り返した。

切れ長の瞳が、リューを正面から射る。

湯呑みを口元に運びながら、凪いだ声で続けた。

 

「現実には、正義と正義がぶつかることもある。どちらかを選べば、どちらかが傷つく。妥協なしに全員を救えるほど、この世は甘くない」

 

「だからといって、最初から妥協することを前提にするのは怠慢です」

 

リューの声に、熱が籠った。

 

「怠慢?」

 

輝夜の眉が、微かに動いた。

 

「馬鹿め、現実を見ろと言っているんだ、このポンコツ妖精」

 

リューの動きが止まった。

 

「ぽ……ポンコツ……!?」

 

リューの空色の瞳が、限界まで見開かれた。

エルフの誇りを侮辱された怒り――ではなかった。

あまりに予想外の呼称に、純粋に頭が追いつかなかったのだ。

正義と理想と現実についての真剣な議論をしていたはずなのに、いきなり「ポンコツ妖精」と呼ばれて、反論の言葉が行方不明になった。

 

「いつも作戦を無視して突っ込むだろうがっ! この前もそうだ、事前の打ち合わせでは、闇派閥が全員揃うまで待つ手はずだったのに、一人で突っ込んだだろうが! その尻ぬぐいを誰がすると思っているんだ! 私だ! 脳みそが足りない潔癖症のクソエルフではないっ!!」

 

輝夜は、欝憤をぶちまけた。

 

「し、しかし……あの場には奴隷にされかけた少女もいました! 一刻も早く救わなくては――」

 

リューが狼狽えたように反論する。

 

「で、その結果として、闇派閥の残党を逃して――同じような犠牲者を出すおつもりですかぁ? さすがは高潔なエルフ様は仰ることが違いますなぁ」

 

輝夜が嫌味たっぷりにリューの顔を覗き込んだ。

 

「くっ――輝夜、その話し方はやめなさい」

 

「まあまあ、輝夜! これがリオンなんだから、あまりいじめないで!」

 

アリーゼが仲裁に飛び込んだ。

 

「いじめてはいない。事実を述べただけだ」

 

「事実でも言い方ってものがあるでしょ!」

 

「ポンコツという表現以外に、あの惨状を的確に表す言葉があるなら教えてくれ」

 

「……う」

 

アリーゼは言葉に詰まった。

正直なところ、闇派閥との一件を除いても、リューが戦闘以外の日常生活でやらかす数々の失態は、確かに壊滅的だった。

料理を焦がす。洗濯物を風で飛ばす。少し触られただけで、同性異性関係なく投げ飛ばす。

戦場では凄まじい集中力を発揮するのに、日常に戻った途端、恐ろしいほどの不器用さが全開になる。

真面目すぎるがゆえに、力の加減を知らない。やり過ぎるか、足りないかの両極端で、中間がないのだ。

 

「だから訂正しなさい、輝夜! 私はポンコツではありません!」

 

リューが、頬を赤くして抗議した。

声が微かに震えている。怒りなのか悔しさなのか、本人にも判然としていなかった。

 

「理想を語るのは結構だが、地に足をつけろ」

 

輝夜の声から、からかいの色が消えた。

低く、硬くなった。

 

「正義を振りかざすだけでは人は救えない。手を汚すことも、目を逸らしたい現実を見ることも、時には必要だ」

 

「……手を汚す? それは正義ではありません」

 

「正義のために手を汚すことすらできない者が、本当に誰かを守れるのか?」

 

二人の視線がぶつかった。

空色と漆黒。理想と現実。清廉と泥臭さ。

水と油のような二人だった。

 

いつもの喧嘩が延々と続き、周りがうんざりし始めたころ、杏寿郎が朗らかな声で割って入った。

 

「どちらの言い分にも道理がある。大事なのは、意見が違っても同じ方向を向いていることだ」

 

杏寿郎はリューと輝夜を交互に見て、笑った。

 

「リオンの理想は、我々の星だ。空を見上げれば、どこへ行くべきかを教えてくれる。輝夜の現実主義は、我々の地図だ。足元の道を照らしてくれる。星と地図の両方がなければ、正しい道は歩めない」

 

リューと輝夜が、同時に杏寿郎を見た。

そして、同時に目を逸らした。

 

ライラがテーブルの隅で、茶を啜りながら事の成り行きを眺めていた。

 

「ほんと、二人ともよく飽きないよなー」

 

「賑やかでいいじゃない」

 

ノインが微笑んだ。

 

「あれは、そういう域を超えてるけどな」

 

ライラはそう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。

少し前までは、考えられないような穏やかなひと時だった。

 

 

 

ファミリア内の摩擦はそれだけではなかった。

新しい『星屑の庭』は、以前とは比べものにならない広さだった。

 

団員それぞれに個室が与えられ、広い中庭は、杏寿郎の発案で訓練場に整備された。

中庭に面した応接間には、緑の草木を通って柔らかな陽光が降り注ぐ。

団員がリラックスできる間取りになっていた。

 

そして、杏寿郎と輝夜の要望で、一度に何人も入れるような、大きな極東風の浴場が新たに作られた。

アリーゼもこれを支持した。ダンジョンから帰還した後に、全員で汗を流せる場所が欲しいというのが、その理由だった。 

 

そのことが新たな問題を引き起こしたのは、引っ越しから一週間ほどたった夜のことだった。

 

 

杏寿郎は自室で刀の手入れをしていた。

夜の鍛錬を終えて汗を流し、あとは寝るだけの時間だった。

行灯の灯りの中、打粉を叩き、柔らかい布で刀身を拭う。

 

静かな、杏寿郎が好む時間だった。

刀は、手入れを怠ると微細な罅が入る。毎晩の手入れは、呼吸の鍛錬と同じくらい大切な日課だった。

 

部屋の戸が、ぱたりと開いた。

 

「団長」

 

輝夜だった。

杏寿郎は手を止めず、声で応じようとした。

そして、目の端に映った光景に、一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、手入れの手が止まった。

 

風呂上がりだった。

極東風の薄い浴衣を肩に羽織っているだけで、帯は結んでいなかった。前が大きく開いている。

その下は、白い下着一枚だった。

濡れた黒髪が肩にかかり、湯気がうっすらと立ちのぼっている。

 

浴衣の隙間から覗く鎖骨のあたりが、行灯の光に照らされて白く浮かび上がり、浴衣ごしにも胸の膨らみがはっきりと分かった。

 

「輝夜、まずは服をちゃんと着ろ! うら若き乙女が、そんな恰好をするんじゃない!!」

 

杏寿郎は叱りつけた。

 

「なに、同じファミリアの仲間だ。今さら素肌を晒したくらいで、どうという話でもないだろう――それとも、もしや団長様は私の裸を見て、童貞の少年のように興奮しておられるのですかぁ?」

 

輝夜は思いっきり下種な笑みを浮かべながら、杏寿郎の向かいに腰を下ろした。

その動作は完璧に美しかったが、帯を結んでいない浴衣がさらに開いて、胸元から腹のあたりまでの白い肌が、灯の光の中で無防備に曝された。

 

「そういう問題ではない、輝夜。もっとお前自身を大事にしろと言っているのだ」

 

杏寿郎は輝夜を窘めた。

 

「十分に大事にしておりますので、ご安心くださいませ。それに、こんな姿を殿方にお見せするのは、あなたの前だけですわぁ、団長様」

 

そう言いながら、輝夜はさりげなく身を乗り出した。

浴衣が、さらにずれた。白い肩がむき出しになった。

 

「だから、それが大事にしているとは言わないんだ、輝夜」

 

杏寿郎が頭痛をこらえるように頭を振ったとき――。

廊下からパタパタと足音が近づいた。

 

「お兄様、明日の――」

 

アリーゼが部屋の前に来て、中を見て――固まった。

 

灯の中、浴衣をはだけた輝夜が杏寿郎の至近距離に座って、迫っている。

部屋に漂う湯の香。輝夜の濡れた黒髪。半ば落ちかけた浴衣の肩。

 

「……輝夜、あんたお兄様になにしてんの?」

 

普段は快活なアリーゼの声が、平板になった。

碧い瞳から、いつもの輝きが消えた。

代わりに、死んだ魚のような光が眼に宿っていた。

 

「なに、ちょっとした相談事だが」

 

輝夜は涼しい顔で答えた。

 

「その格好で?」

 

「風呂上がりで、着替えるのが面倒だった」

 

「面倒だったってレベルじゃないでしょ! もうちょっと服着なさいよ!」

 

「何が問題だ。杏寿郎は団長だぞ。団長と打ち合わせをして何が悪い」

 

「その格好が悪いって言ってるの!」

 

アリーゼは大股で部屋に入ると、輝夜の肩を掴み、浴衣の前を合わせて帯を結ぼうとした。

輝夜はされるがままにしていた。抵抗もしない。帯を結ばれながら、涼しい顔をしていた。

 

「そう目くじらを立てるな、副団長」

 

帯を結ばれ終えた輝夜が、淡々と口を開いた。

 

「杏寿郎とて男だ。色々と溜まるものもあろう」

 

空気が、凍った。

 

「は……はぁ!?」

 

アリーゼの碧い瞳が点になった。

 

「極東では、武人の傍に女が侍って、戦で猛った男を鎮めるのは当然のことだ。むしろ、いないほうが不自然だろう」

 

輝夜は立ち上がりながら、何でもないことのように続けた。

 

「ここは極東じゃないし、そもそも、お兄様はそんなことはしないわ! というか、酒臭っ! 輝夜、あんたお風呂で月見酒とかいうのをしていたでしょ!?」

 

アリーゼは、顔をしかめて、部屋から輝夜を追い出そうとした。

 

「こわい、こわい」

 

輝夜が、ふっと笑った。

切れ長の瞳に、妖しい光が灯る。

 

「でも、アリーゼ、もしかしたら、私はあなたの義理の姉になるかもしれないわぁ。姉妹として仲良くしようてはありませんか」

 

「義……姉……?」

 

「私が杏寿郎の妾になれば、そうなる。家族が増えて、めでたいですねぇ」

 

輝夜はくすくすと笑いながら、アリーゼの目を覗き込むように眺めた。

どこか楽しげだった。

毒を含みながらも、その毒が致死量に達しない絶妙な匙加減。

本気で言っているのか、アリーゼの反応を楽しんでいるのか、あるいはその両方か。

 

「いい加減にしろ、輝夜。酔っ払っているなら、部屋で寝るんだ。アリーゼ、輝夜を連れて行ってくれ」

 

杏寿郎は話を終わらせようとして、ぴしゃりと言い含めた。

 

「分かったわ! ほら、輝夜!」

 

アリーゼは、部屋から輝夜を押し出しながら、胸の奥にちくりと刺さる棘を感じていた。

 

――妹でいいと、ずっと思ってきた。

 

血のつながらない兄。頼れる人。強くて、優しくて、いつも正しくて、いつも守ってくれる人。

杏寿郎の妹という立場は、アリーゼにとって何よりも心地よいものだった。

妹であれば、甘えられる。頼れる。わがままも言える。

「お兄様」と呼ぶたびに、杏寿郎が嬉しそうに笑ってくれる。

あの笑顔が、アリーゼの世界の中心だった。

 

でも――。

もし、自分より杏寿郎に近い女が現れたら?

 

ある意味で、アストレア様は兄にとって、そういう存在だ。

でも、あの方は女神だ。神と人の間には、どうしても超えられない壁がある。

単純に次元が違う。

 

でも、輝夜は同じ人間で、同じファミリアの仲間。年も近く、毎日一緒に鍛錬して、一緒にダンジョンに潜って、一緒に飯を食べている。

あの美しい漆黒の髪と、切れ長の瞳と、しなやかな女性らしい身体。

あの女が、杏寿郎の隣に――自分がいた場所に――収まったとしたら。

 

――嫌だ。

 

その感情が、唐突に、鮮明に、胸の中で弾けた。

怒りではない。悲しみでもない。

もっと熱くて、もっと苦しい、名前のない感情だった。

 

――奪われたくない。

 

そう思いながら、廊下に出たところで、悲鳴のような声が聞こえた。

 

「輝夜……? な、なんて格好をしているんですか!? 破廉恥ですッ!!」

 

リューだった。

就寝の支度をしていたところ、妙な騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたのだ。

寝間着の上に羽織物を急いで引っ掛けた恰好で、金髪が乱れている。

空色の瞳は限界まで見開かれ、顔が耳の先まで真っ赤に染まっていた。

 

「輝夜! なぜそのような格好で団長の部屋にいたのですか!」

 

リューの声は裏返っていた。

エルフの潔癖が、この状況を全力で拒絶していた。

 

「殿方の前で、そのような……あ、あまつさえ、妾だのと……!!」

 

「ポンコツ妖精。お前には関係なかろう」

 

輝夜が、涼しい顔で返した。

 

「関係あります! 風紀の問題です!」

 

リューは震える声で、しかし毅然と言い切った。

 

「正義を掲げるファミリアの一員が、そのようなに淫らな振る舞いをするなど、断じて許されません!」

 

「淫ら……?」

 

輝夜が、心底呆れたような顔をした。

 

「下着姿で相談しただけで淫らとは。さすがはエルフの潔癖症だな。肌を見せただけで発狂するな、生娘が」

 

「な、なにを言っているのですか! 恥を知りなさい、輝夜!」

 

二人がまたしても言い争いをしたところで、アリーゼが割って入った。

 

「はいはい、二人とも!! もう寝なさい!!」

 

「輝夜は服を着る! リオンは落ち着く! お兄様はとにかくおやすみ!!」

 

廊下を、三つの声が遠ざかっていく。

 

 

 

その翌朝。

中庭での朝の鍛錬は、いつも通り始まった。

 

しかし、空気が微妙だった。

輝夜はいつもと変わらぬ涼しい顔で太刀を振っていたが、その一振り一振りに、どこか上機嫌な切れ味があった。

鍛錬の相手をする団員たちが、微妙に距離を取っている。上機嫌な輝夜は、不機嫌な輝夜よりも怖い、というのが最近の共通認識だった。

 

リューは顔を真っ赤にしたまま、木剣を振るっていた。

打ち込みの激しさが、いつもの三割増しになっている。

木剣を叩きつけるたびに「破廉恥」、「信じられない」といった単語が、呪詛のように口からこぼれていた。

 

杏寿郎はいつも通り元気に号令をかけていた。

何があろうとも、相手は年少の少女たちだ。女性というより手のかかる妹を見ているようなものだった。

 

そして、アリーゼは――。

 

「アリーゼ、顔色が悪いぞ。体調でも悪いのか?」

 

杏寿郎が心配そうに声をかけた。

 

「ううん、大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」

 

アリーゼは笑顔を作った。

嘘ではなかった。昨夜は、ほとんど眠れなかったのだ。

 

――杏寿郎を、奪われるのが嫌だった。

 

その感情に名前をつけることを、アリーゼはまだできなかった。

嫉妬、独占欲、そして――もしかしたら。

 

鍛錬が終わり、汗を拭いていると、ライラがいつの間にか隣にいた。

小さなパルゥムの少女は、壁に背を預け、水筒の蓋を開けながら、何でもないような顔でアリーゼを見ていた。

 

「アリーゼ。昨夜、何かあったか? お前も輝夜もリオンも何か変だぞ」

 

「……聞こえてたの?」

 

「いや、あたしは何も聞いてない。けどまあ、困ったことがあったらいつでも相談しな。情報分析はあたしの仕事だからね。人の心の分析は専門外だけど」

 

「ありがとう、ライラ」

 

アリーゼは小さく笑った。

 

「もっとも、色恋沙汰は管轄外だがなー」

 

ライラの小さな呟きが朝の陽光に溶けた。

北地区の新しい屋敷は今日も賑やかだった。

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