ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか 作:kursk
アストレア・ファミリアが闇派閥に対する攻勢を本格化させたのは、リューが加入して数か月が経った頃だった。
レベル4の杏寿郎、レベル3のアリーゼと輝夜を軸に、ライラ、ノイン、リューを含む他の団員の大半がレベル2に到達し、リューだけがまだレベル1――とはいえ、その実力はレベル2に匹敵するか、場面によっては凌駕していた。
ファミリア全体の戦力は、半年前とは比較にならない水準に達していた。
ライラがより積極的な攻勢に向けて動き出したのは、それだけ戦力が充実し、闇派閥主力と衝突しても十分に対処できると判断したからだった。
「団長。作戦会議をしたい」
ある夜、会議室に杏寿郎、アリーゼ、輝夜を集めたライラは、テーブルにオラリオの地図を広げて、口を開いた。
ランプの灯りが、地図に刺された赤い印を不吉に照らしている。
赤い印は、ライラの情報網が突き止めた、闇派閥の拠点の可能性のある場所だった。
「団長や輝夜はうすうす気が付いていたかもしれないが、これまでは、本当にやべーかもしれない拠点への踏み込みは、ガネーシャ・ファミリアに委ねてきた。正直に言って、戦力が足りなかったし、レベル1の団員が多いうちは、リスクが大きすぎた」
ライラの栗色の瞳が、地図の赤い点を一つずつ指で辿った。
ダイダロス通りの奥。廃倉庫群。地下水路の分岐点。
「でも今は違う。杏寿郎がレベル4、アリーゼと輝夜がレベル3。アタシも含めて、他もだいたいレベル2になった。今なら、危険なところにも、リスクをとって踏み込める。闇派閥の中規模拠点でさえ、制圧できるだけの力がある」
「……つまり、より積極的に闇派閥の本拠地への強制捜査をするってこと?」
アリーゼが確認した。碧い瞳が真剣だった。
「ああ、そうだ。情報の確度が高い場所から順に潰していく。ギルドやガネーシャ・ファミリアとの連携も取りつけてある。後ろ盾はあるぜ」
ライラはアリーゼを見つめ返しながら、淡々と続けた。
「ただし、覚悟はしておけ」
声のトーンが、一段落ちた。
「闇派閥の拠点ってのは、巡回で出くわすチンピラとは次元が違う。何が出てくるか分からねー。見たくないものを見ることになるかもしれない。正直、こんだけ戦力が充実してなかったら、アタシもやろうとは絶対に言わない。それくらい、やべーってことは肝に銘じておいてくれ」
短い沈黙があった。
会議室のランプの炎が、微かに揺れ、複雑な影を作った。
「やろう」
杏寿郎が言った。
迷いのない、明瞭な声だった。
炎の瞳が、地図の赤い点を見据えている。
「俺たちがここにいる理由は、弱き者を救け、正義を為すためだ。見たくないものから目を背けていては、守れるものも守れない」
輝夜が、無言で頷いた。
アリーゼも、拳を握り締めた。
こうして、アストレア・ファミリアの活動は、今まで以上に、暗黒期の闇に踏み込んでいった。
最初の数回は、空振りだった。
ライラの情報に基づいて踏み込んだ倉庫は、もぬけの殻だった。
闇派閥がいた気配――使い古された薬品の瓶、焦げた紙片、壁に刻まれた意味不明の印――は見つかるものの、人の姿はない。
情報が古すぎたのか、敵が先手を打って拠点を移動したのか。
「くそ、また空だ」
ライラが唇を噛んだ。
軍師としての矜持が、空振りのたびに軋んだ。
「焦るな、ライラ。情報を集めているのは、向こうも同じだ。根気比べだな!」
杏寿郎が励ました。
四度目の踏み込みも、結果は同じだった。
ダイダロス通りの奥深く、入り組んだ路地の果てにある廃屋。中は空っぽで、かすかに薬品の臭いだけが残っていた。
五度目。
北地区の外れの、地下水路へ続く隠し通路。
ライラの情報網の中でも、とりわけ確度の高い情報源から得た座標だった。
杏寿郎が先頭に立ち、炎を灯した刀で暗闇を裂いた。
石造りの階段を降りていく。水の匂い。黴の匂い。そして――もう一つ、別の匂いが混じっていた。
甘ったるい、鼻の奥に絡みつく、腐敗と薬品が混ざり合った臭気。
「……止まるな。進め」
杏寿郎の声が、低く響いた。
先頭を歩く杏寿郎の背中が、一瞬だけ強張った。
しかし、すぐに歩を進めた。止まれば、後ろの団員たちが不安になる。
団長が止まってはならない。
地下水路の一角に、粗末な木の扉があった。
扉の前で、杏寿郎は気配を探った。中に闇派閥の構成員がいるか。罠が仕掛けられていないか。
全集中の呼吸で感覚を研ぎ澄ませる。扉の向こうに、微かな呼吸音が――。
杏寿郎が蹴り開けた。
中を見た瞬間、アリーゼの呼吸が止まった。
部屋は狭かった。石壁に囲まれた、地下の一室。
湿った空気と、薬品と、血の匂いが充満していた。
部屋の隅に、小さな身体が横たわっていた。
幼い少女だった。
服は引き裂かれ、身体のあちこちに痣と傷が残っている。四肢は不自然な角度に折れ曲がり、爪の何枚かが剥がされていた。
瞳は半ば開いたまま、虚空を見つめていた。
もう、何も映していなかった。乾いた唇が、半ば開いている。
最期に何かを叫ぼうとしたのか。それとも、叫ぶ力すら残っていなかったのか。
石の床に広がった黒い染みは、かつて血だったものだ。すでに乾いて、壁の色に溶け込みかけていた。
アリーゼは、見なければよかったものを見てしまった。
少女の首に巻かれていた首輪の痕跡。繋いでいたのだ。まるで犬のように。
そして、少女の身体に残された痕跡の数々が、この子がどのような目に遭ったかを、残酷なまでに雄弁に物語っていた。
アリーゼの口から、声にならない声が漏れた。
碧い瞳が、限界まで見開かれている。
脚が震え、膝が笑った。
胃の中のものが、喉元までせり上がってきた。
壁に手をついて、必死に堪えた。
堪えなければならない。仲間の前で崩れるわけにはいかない。
でも、碧い瞳から零れ落ちる涙だけは止められなかった。
杏寿郎は、黙って少女の傍に跪き、自分の羽織をかぶせた。
せめて、これ以上誰の目にも触れさせないように。
それから、小さな身体を、丁寧に、壊れ物を扱うように抱き上げた。
炎の瞳は何も語らなかった。
ただ、きつく噛みしめられた唇からは、血が滲み出た。
別の部屋からは、麻薬漬けにされてぼろぼろになった母親と、その腕に抱かれた幼子が発見された。
母親の瞳の焦点は合わず、口元からは涎が垂れ、何を聞いても反応しなかった。
腕だけが幼子を抱き締め続けていた。意識がなくても、腕だけは子を放さなかった。
幼子だけが、細い声で泣いていた。
母に呼びかけるように。あるいは、応えてくれない母を責めるように。
その泣き声が、石壁に反響して、いつまでも消えなかった。
杏寿郎たちは、マリューによる簡単な治療の後に、少女の遺体と生きている親子を担いで、地下水路を後にした。
帰路、誰も口を開かなかった。
石畳を踏む足音だけが、夜のオラリオに響いていた。
それは、始まりに過ぎなかった。
ライラの情報をもとに、強制捜査を重ねるごとに、闇派閥の残した爪痕が次々と暴かれていった。
空振りは相変わらず多かったが、当たったときの光景は、そのたびに団員たちの心を削った。
ある突入では、闇派閥を掃討したあとで、鎖で壁に繋がれた子供たちを見つけた。
身寄りのない子供を攫い、闇市で売り捌くための「在庫」だった。
子供たちの目は、虚ろだった。助けに来た杏寿郎たちを見ても、怯えるだけで、声を上げることすらしなかった。
闇派閥に寝返った冒険者との戦闘も経験した。全員がレベル2の冒険者だった。
かつては、まっとうなファミリアに所属し、何らかの理由で道を踏み外した者たちだった。
「アストレア・ファミリアか……! 正義の味方気取りが!」
先頭の男が、短剣を抜いた。
目が血走っている。薬物の影響か、瞳孔が異様に開いていた。
杏寿郎は刀を抜かなかった。
レベル4の杏寿郎にとって、レベル2の敵は脅威ですらなかった。
「投降しろ。無駄な抵抗はやめろ。怪我をせずに済む」
杏寿郎の威圧が、廃倉庫の空気を震わせた。
しかし、男たちは投降の呼びかけに応じることなく、一斉に襲いかかってきた。
それは戦闘と呼べるようなものではなかった。
拳が振るわれるたびに、男たちの身体がくの字に折れ、次々に白目を剥いて崩れ落ちた。制圧は、十秒で終わった。
闇派閥との戦いの常として、戦闘そのものは問題にもならなかった。
しかし、倉庫の奥を調べたとき、アリーゼは膝から力が抜けそうになった。
奥の部屋には、大量の薬物と、それを精製する道具と、帳簿が残されていた。
帳簿には、取引の記録が克明に記されていた。
「少女 八歳 金髪 五十万ヴァリス」
「少年 六歳 褐色肌 三十万ヴァリス」
値段がつけられていた。子どもたちの命に――値段が。
アリーゼは帳簿を握りしめた。
紙が皺になるほど、強く。
碧い瞳に映った文字は、黒いインクのはずなのに、赤く見えた。
「アリーゼ。それはギルドに引き渡す証拠だぜ。……破るなよ」
ライラが、静かに声をかけた。
「……分かってるわ!」
アリーゼは帳簿をライラに渡した。
指が震えていた。
鎖で繋がれた子供たちが見つかった夜。
杏寿郎は団員を労い、温かい食事を用意させ、一人一人に声をかけてから、自室に戻った。
そして、誰にも見えない場所で、拳を壁に叩きつけた。
石壁に、赤い染みが滲んだ。
肉体の痛みなど、問題ではなかった。
耐えられないのは、救えなかった命の重さだった。
もっと早く動いていれば――。
あと一日早ければ――。
壁の染みを袖で拭い、何事もなかったかのように廊下に出た。
果てしない怒りを胸中に抑え込み、無理やりに笑顔を作った。団員たちの前では、常に笑顔でなければならない。
――だが。
杏寿郎が母との誓いや団長としての責任感をバネに、立ち直れたとしても、10代の多感な少女たちに、同じような対処ができるはずもなかった。
最も深く傷ついたのは、アリーゼだった。
あの幼い少女の遺体を見た夜から、アリーゼの笑顔が崩れた。
いつも通り笑おうとしても、笑顔から太陽のような明るい煌めきが消えた。
唇の形は同じなのに、碧い瞳の奥の光が、薄くなった。
それは、花が枯れる前に、まず色から褪せていくようなものだった。
実際――。
アリーゼは夜、眠れなくなった。
布団に入って目を閉じると、瞼の裏にあの少女の顔が浮かぶ。
半ば開いた瞳。乾いた唇。不自然に折れ曲がった指。首に巻かれた首輪の痕。
振り払おうとしても、映像は消えずにこびりつく。
朝が来ると、鏡の前に立って笑顔を作る練習をした。
碧い瞳を細めて、口角を上げて、いつもの明るい声を出す。
「おはよう!」と元気よく。「今日も頑張ろう!」と溌溂と。
鏡の中の自分の笑顔を見て、アリーゼは思った。
うまく笑えている、と。
しかし、それは笑顔ではなかった。笑顔の形をした、仮面だった。
夕食の席で、冗談を言わなくなった。
以前のアリーゼなら、輝夜とリューの口喧嘩に横から薪をくべて燃え上がらせ、笑いながら仲裁した。
輝夜の毒舌に笑い、リューの生真面目な怒りに同情しつつ、最後には全員を笑わせて有耶無耶にする。
それがアリーゼの役割だった。
ファミリアの太陽。みんなの気持ちを軽くする、碧い炎の明かり。
今は、輝夜とリューが喧嘩をしても、アリーゼは焦点の合わない目で虚ろに微笑むだけだった。
笑うことへの罪悪感が、喉元で声を押し殺していた。
正義を掲げながら、救えなかった。間に合わなかった。
笑うたびに、あの少女の虚ろな瞳が碧い瞳の裏側に張りつく。
――お前が笑っている間に、私は死んだ。
そう言われている気がした。
杏寿郎が心配して抱きしめてくれるときだけ、アリーゼは我に返ることができた。
今までなら、辛いことがあったら、遠慮なく自分から抱きついていた。兄の体温を感じながら、ぎゅっと抱きしめられることで、温かい気持ちになることができた。
けれども、今では、自分から抱きつくことにさえ、罪悪感を感じるようになっていた。
杏寿郎はスキンシップの機会を増やしてくれたが、それだけでは足りなかった。
アリーゼが落ち込むにつれ、ファミリアの空気は確実に重くなっていった。
輝夜は、別の形で蝕まれていた。
拠点を制圧し、闇派閥の残虐な痕跡を目の当たりにしても、輝夜の表情は変わらなかった。
切れ長の瞳は相変わらず凪いでいたし、状況分析は冷徹そのものだった。証拠の取り扱いも、被害者の搬送も、輝夜は淡々とこなした。
あの地下室で少女の遺体を見たときも、輝夜は眉一つ動かさなかった。
子供たちを鎖から解放するとき、手が震えることもなかった。
戦場では誰よりも冷静だった。
むしろ、冷静すぎた――。
五条家で育った輝夜は、こうした光景を知っていた。
知っているどころではなかった。
彼女の父は、暗殺、破壊工作、情報操作、脅迫、買収など、権力を維持するためのあらゆる汚れ仕事に手を染めていた。
政敵を消す。邪魔な商人を潰す。従わない者を無理やり調教する――。
それが、五条家の素顔だった。
輝夜は長女として、幼いころから、そうした光景を見せられ、ときには自分でも手を汚した。
最初に父に地下牢へ連れて行かれたのは、八歳のときだった。
「輝夜、こちらへ来なさい」
父の声は、いつも穏やかだった。
穏やかで、理知的で、品のある声。客間で茶を点てるときと、地下牢へ降りるときと、まったく同じ調子で話す人だった。
長身で、整った顔立ち。輝夜の美しい顔や切れ長の目は、この父から受け継いだものだった。
石段を降りると、地下牢は薄暗かった。
松明の灯りが石壁を照らしている。
奥に、一人の男が縛りつけられていた。
顔は腫れ上がり、元の顔立ちが分からない。
着物は血に濡れ、肩が不自然な角度に垂れている。脱臼しているのだろう。
男の口から、低い呻き声が漏れていた。
八歳の輝夜は、その光景を見て、身体が凍った。
声が出なかった。逃げたかった。父の着物の裾を掴んで、ここから出たいと懇願したかった。
しかし、足が動かなかった。恐怖で動かなかったのではない。
父の手が、輝夜の小さな肩に置かれていたからだ。
穏やかな、しかし逃げることを許さない重さで。
「この者は、五条の秘密を他家に売ろうとした」
父の声は、穏やかだった。
地下牢の悲惨な光景と、その穏やかさの落差が、幼い輝夜の心をひどく蝕んだ。
「裏切りには、代償が伴う。これが掟だ。輝夜、よく見ておきなさい」
「お父様……あの人は、死んでしまうのですか」
八歳の輝夜は、震える声で問うた。
父は微笑んだ。
賓客相手に茶を点てるときと同じ、穏やかな微笑みだった。
「死にはしないよ。死なせては意味がない。死は一度きりだが、痛みは何度でも与えられる。痛みにうめく姿が、他の者への見せしめになる」
輝夜は、吐きそうになった。
でも、吐かなかった。
五条の者は、吐いてはならない。弱さを見せてはならない。
八歳の少女は、唇を噛み、瞳を閉じず、父が見せるものを見た。
それからも、輝夜への教育は続いた。
十歳のとき、父は別のものを見せた。
ゴジョウノ家の裏庭には、表からは見えない離れがあった。
美しい庭園の奥に隠された、小さな棟。
窓には格子がはめられ、扉には内側から開けられない錠が下ろされていた。
中にいたのは、若い女だった。
かつては美しかったであろう顔は、もはや生気を失っていた。
ぼんやりと虚空を見つめ、涎を垂らし、時折うわ言のように何かを呟いている。
「この女は、五条の商売に横やりを入れようとした商家の娘だ」
父は説明した。相変わらず、穏やかな声で。
まるで庭の花の品種を説明するかのように。
「彼女の父親が我々に従わなかったので、娘を預かった。なに、彼は三日で屈服したよ。これが、人質の効果だ、輝夜」
父は耳元で囁くように説明した。
「お父様、この人はどうなるのですか?」
十歳の輝夜は、震える声で尋ねた。
父はにっこりと笑って、彼女の頭を優しく撫でた。
「こんなのでも、欲しいという物好きはいてね。商談の際に役にたってくれたよ」
その答えを聞いたとき、輝夜の心の中で何かが凍った。
感情の表面に薄い膜が形成されていく。自分を守るための氷の膜だった。
これ以上、感じないように。輝夜の冷静さの原型だった。
「人は壊れても、利用価値がある。覚えておきなさい」
「……はい、お父様」
輝夜は頷いた。
完璧に平坦な声、完璧な無表情で。
十歳にして、輝夜は五条の能面を完成させた。
十二歳のとき、輝夜はもう何を見ても動じなくなった。初めて人の命を奪ったのも、そのころだった。五条の女が使う最大の武器――毒の体液――を用いるまでもなく、普通の殺しだった。
輝夜は訓練通り、淡々と朝敵を暗殺した。
父はそれを「成長」と呼んだ。傑物の妹には劣るにしても、輝夜も成長している、と喜んでいた。
輝夜は、それを壊死だと思った。
心の一部が死んだのだ。感じなくなったのではない。感じる部分が、壊死したのだ。
そして――。
朝廷に対する革命が起きた夜、輝夜は出陣を命ぜられ、朦朧とする意識のなか、友を斬り捨てた。
意識を取り戻して、自分が仕出かしたことに気が付いたとき――。
枯れていたはずの輝夜に、最後の感情が灯った。
それは、輝夜が生まれつき持っていた善性の――最後の煌めきだった。
その光に導かれるまま、輝夜は刀を手に家を出た。
そして、今――。
闇派閥の拠点で、鎖に繋がれた子供たちを見たとき。
薬漬けにされた母親の虚ろな瞳を見たとき。
幼い少女の壊された身体を見たとき。
極東で毎日のように見てきた地下室の情景が、拷問される者たちの悲鳴が、洗っても洗っても消えない血の臭いが鮮やかに蘇った。
アストレア・ファミリアの明るい空気を吸うことで、忘れようとしてきた絶望が、ふたたび滲み出してきた。
輝夜は父に褒められる程度には、心を殺すことに長けていた。
だから、表面上は、いつもの仮面を完璧に維持していた。
ただ、夜の飲酒量が増えた。
眠る前の一刻だけ、あの地下牢の映像から逃れたかった。
父の穏やかな声から逃れたかった。
「これが五条家だ」という言葉から逃れたかったのだ。
けれども――どれほど酒に溺れようとも、悪夢からは逃れられなかった。
最初に気づいたのは、ライラだった。
小さな軍師の目は、絶望の臭いにひどく敏感だった。
きっかけは些細なことで、台所の酒瓶の減りが早いといった程度のものだった。
それから、輝夜から、時々、ひどい酒の臭いがした。
「輝夜。最近、飲みすぎじゃないか」
ある夜、ライラが輝夜の部屋を訪ねた。
輝夜は極東系ファミリアから買った畳の上に座り、月明りをアテに杯を傾けていた。
透明な液体が、杯の縁で揺れている。
「そうか?」
輝夜は涼しい顔で応じた。
「アタシの目を誤魔化せると思うなよ。酒瓶の減り方を確認してあんだよ」
ライラが輝夜を睨みつけた。
「さすがは軍師様だな。酒の消費量まで監視しているとは」
「当然だ。お前の影響は、お前が考えている以上に、大きいからな」
輝夜は、杯の中の酒を見つめた。
透明な液体に、自分の顔がぼんやりと映っている。
切れ長の瞳。整った顔立ち。五条の血が造り上げた、美しい仮面。
父によく似た顔だと、今更ながらに思った。
この顔で微笑めば、あの貴族的な笑みが再現できるだろう。
その事実が、何よりも気持ち悪かった。
「……勘のいい奴は嫌いだ、ライラ」
「見てりゃ分かるぜ。団長だって、たぶん気づいている。副団長は自分のことで手一杯みてーだが」
ライラは輝夜から視線を外さなかった。
「そうか……」
輝夜は杯を干した。
喉が鳴る。
空になった杯を畳の上に置いて、輝夜は言った。
「何、心配するな。少なくとも、ネンネなリオンや副団長よりは世間を知っているつもりだ」
「……そうか」
ライラはそれ以上は追及しなかった。
代わりに、懐から小さな包みを取り出した。
「チーズだ。つまみがないと胃を壊すぞ」
輝夜は、包みを見て、微かに目を細めた。
慇懃な仮面が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑みとは呼べない程度の、けれど確かな温度の変化。
「……世話焼きだな」
「これもアタシの仕事だよ。戦力の管理も含めてな」
ライラは、部屋を出た。
廊下で振り返ることはしなかった。
輝夜がどんな顔をしているか、見なくても分かっていた。
輝夜の飲酒量の変化は、ライラ以外の団員にも徐々に気づかれるようになった。
早朝の台所で、空の酒瓶を片付けるノインが首を傾げた。
リューですら、廊下ですれ違った輝夜からかすかに酒の残り香を嗅ぎ取って、空色の瞳を曇らせた。
リューは、喧嘩相手の輝夜にどう声をかければいいのか分からなかった。
この不器用なエルフは、人の心に踏み込むことが苦手だ。
正義の話なら正面からぶつかれる。鍛錬の話なら真剣に議論できる。
しかし、人の傷に触れる言葉は持ち合わせていなかった。
だから、黙って、輝夜の部屋の前にエルフの薬湯を置いて去った。
翌朝、杯が空になっていた。
それを見て、リューは少し安堵した。
それ以降、誰も、輝夜に直接は問わなかった。
杏寿郎だけが、堂々と話しかけた。
「輝夜。今度の非番の日に、市場に買い出しに行かないか。屋敷の酒が切れかけている」
「……わざわざ私を誘うのか」
「うむ。輝夜の好みは輝夜にしか分からんからな。酒の銘柄は、俺には区別がつかん!」
杏寿郎は、いつもどおり屈託のない笑みを浮かべた。
その笑みに、詮索の色は一切なかった。
「……そうだな。いい酒を探そう、杏寿郎」
輝夜の凍り付いた仮面の奥で、何かが微かに疼いた。
温かさなのか、痛みなのか、輝夜自身にも判然としなかった。
ただ、この男は眩しいくらい、いつも真っすぐで、何があろうと己の道を見失わなかった。
弱きを救け、強きを挫き、黙って耐え忍んで、仲間を勇気づけてきた。
その炎の光だけが、暗闇を彷徨う輝夜の道標となっていた。
非番の日は、珍しく穏やかな天気だった。
雲の薄い、水色の空がオラリオの街並みの上に広がっている。
風は乾いて、心地よかった。初夏の手前の、肌に馴染む風だった。
杏寿郎と輝夜は、並んで大市場に向かっていた。
非番とはいえ、杏寿郎も輝夜も刀を腰に佩いていた。
闇派閥の脅威がある以上、完全な無防備は許されない。
杏寿郎は、市場への道すがら、機嫌よく話していた。
「この間、マリューが鉢に花の種を蒔きたいと言うから、一緒に土を入れ替えたんだがな……。途中から、リオンも手伝ってくれたが、土をこねる力加減が分からなかったらしくて、鉢を三つも割ってしまった。エルフの森では、花の種など植えたことないから仕方ないのだろう」
「あのポンコツ妖精のことだ。鉢ではなく花壇ごと壊さなかっただけましだ」
「はっはっは! 厳しいな、輝夜は!」
杏寿郎が朗らかに笑った。
その笑い声が、朝の通りに響く。道行く人が振り返るほどの、大きくて真っ直ぐな笑い声だった。
輝夜は、その笑い声を浴びながら、仮面の奥で小さく息を吐いた。
この男と一緒にいると、いつもペースを乱され、封じ込めてきたはずの感情があふれ出そうになった。
大市場に着くと、輝夜は迷いなく酒屋に足を向けた。
極東の酒を扱う店は、大市場の中でも限られている。
その中でも、輝夜が選んだのは、路地裏に近い小さな店だった。
「この店は初めてだな」
杏寿郎が物珍しそうに店内を見回した。
微かに酒精の匂いが漂っている。
「ここの主人は極東の出だ。舌は確かだぞ」
輝夜は棚を物色しながら、手慣れた所作で瓶を手に取った。
酒を買い終え、二人は大通りを離れて、裏道を歩いた。
人通りは少なく、静かだった。
「輝夜」
杏寿郎が、不意に歩調を緩めた。
「少し、遠回りしていかないか」
輝夜は、杏寿郎の横顔を見た。
笑っていた。いつもの笑みだった。
しかし、その笑みの奥に、いつもとは微かに異なる気配があった。何かを伝えようとしている目だった。
「……構わないが」
輝夜は頷いた。
杏寿郎は、城壁沿いの小道に折れた。
オラリオの外壁近くの、さらに人気のない道だった。
しばらく、無言で歩いた。
杏寿郎の足音と、輝夜の足音が、交互に石畳を叩く。
「輝夜」
杏寿郎が口を開いた。
声のトーンが変わっていた。
朗らかさは残っている。しかし、その下に、真剣な気遣いが感じられた。
「最近の君のことが、気にかかっている」
輝夜の歩みが、少し乱れた。
「何のことだ。私は何も変わっていないが」
「ああ、変わっていない。それが気にかかる」
輝夜は、微かに目を細めた。
「あれだけの光景を見て、何も変わらない人間は、二種類しかいない。何も感じない者か、感じたものを全部閉じ込めている者か。君は前者ではなかろう」
「……買い被りだな」
「買い被りではない。俺は君をそれなりに見てきた」
杏寿郎の声は、穏やかだった。
穏やかだが、真っ直ぐだった。
逃げ道を塞ぐのではない。逃げる必要がないのだと、伝えるような声だった。
「酒の量が増えていることも、鍛錬で力が入りすぎていることも、俺は知っている」
沈黙が、二人の間に落ちた。
城壁の蔦が風に揺れている。
鳥の声が、どこか遠くで鳴いていた。
輝夜は立ち止まった。
杏寿郎も、立ち止まった。
「……私のことを見すぎでございますねぇ、団長殿。もしや私に欲情されたので?」
輝夜は、リューを揶揄うときのように、慇懃な言葉遣いをした。
本心を隠すための鎧だった。
リューだったら、気持ちの悪い話し方をするなと怒ったかもしれない。
しかし、杏寿郎はそんなことではペースを乱されなかった。
「団員のことをしっかり見るのも、俺の仕事だ」
杏寿郎は、輝夜の正面に立った。炎の瞳が、真っ直ぐに輝夜を見た。
輝夜は、その目から視線を外せなかった。
杏寿郎の瞳が、輝夜の仮面の奥を覗き込んでいた。
「なぜ――」
輝夜の唇が、問いを紡いだ。
紡ぐつもりはなかった。勝手に溢れ出した言葉だった。
「なぜ、そこまで私のことを気にかける。私は――」
言葉を探した。
自分を正しく表現する言葉を。
「――穢れた女だ」
声は、静かだった。
いつもの慇懃さも、からかいの余裕も、剥がれ落ちていた。
「五条の血が流れている。人を壊す術を知っている。人を操る術を知っている。この手は――」
輝夜は自分の右手を見つめた。
白い、細い、しなやかな手。
この手に何が染みついているか、輝夜はよく知っていた。
「――この手が清いはずがなかろう。なぜ、そんな女のことを気にかける、団長?」
杏寿郎は、黙って聞いていた。
そして、全部聞き終えてから、口を開いた。
「輝夜」
声は、静かだった。
「君は穢れてなどいない」
断言だった。
揺れも、迷いも一切なかった。
「過去に何があったか、俺は知らない。五条の家の暗い噂は、耳に入っている。だが――」
杏寿郎の炎の瞳が、午後の光を受けて琥珀に透けた。
「それでも、君ほど気高く美しい魂を、俺は知らない」
輝夜の呼吸が、止まった。
「……何を、言っている」
声が、掠れた。
美しいと言われたことは、生涯で数えきれないほどある。
五条の女は、端正な顔立ちで知られていた。
客人たちは輝夜を見て「なんと美しいお嬢さんだ」と言ったものだ。
けれども、杏寿郎は外見のことを言っているのではなかった。
よりにもよって、毒で薄汚れた心の内をさして、美しいといったのだ。
「美しさなど、表面的なことにすぎない。きっと、私の外見を見て、勘違いしただけだろう。男は女の顔と胸と腰しか見ないからな」
輝夜にとって、それは自嘲だった。
「輝夜、話を逸らすな」
杏寿郎の声が、輝夜を遮った。
「俺は君の外見を問題にしていない。君の心のありようが美しいと言っているのだ」
輝夜の切れ長の瞳が、揺れた。
「君の過去に何があったのかは知らない。たぶん、闇の中を生きてきて、ひどいことに手を染めることもあったのだろう。だがな、輝夜。それでも君は、今、正義の側に立っている。五条の血に飲まれず、暗い過去に膝を折らず、俺たちの仲間として、ここにいる。正義の旗の下で闇派閥と戦い、人を守り、仲間を導いている」
「……それは、ただ――」
輝夜は反論しようとした。
――ただ実家が嫌で逃げてきただけだ。正義に惹かれたのではない。消去法で選んだ道だ。崇高な動機などない。
そう言おうとした。
しかし、声が出なかった。
杏寿郎の瞳が、まっすぐに輝夜を見ていたからだ。
その瞳が、嘘を許さなかった。
杏寿郎は続けた。
「この暗い時代の絶望、君は、過去の記憶に苛まれ、闇派閥の拠点で見た人の醜さに苦しみ、夜ごとに酒で記憶を薄めながら――」
輝夜の肩が、微かに震えた。この男は、全部見抜いていた。詳しいところまでは知らないだろう。それでも、何かを察していた。
「――それでも朝になれば立ち上がって、完璧に鍛錬をこなし、市民と仲間を救ってきた。心のなかで泣きながらも、歯を食いしばって立ち続けている。その気高さに、君の人間としてのありように、俺は心打たれていると言っているのだ、輝夜」
城壁沿いの小道に、風が吹いた。
蔦が揺れ、輝夜の漆黒の髪が風に靡いた。
輝夜は、動けなかった。
ひた隠しにしてきた己の罪と弱さを、この男は見抜いた。そして、それを「気高い」と呼んでくれた。
「杏寿郎」
輝夜の声が、震えた。
「お前は……お前という男は……」
言葉が見つからなかった。
このファミリアに来てから、言葉には不自由しなかった。
慇懃な皮肉も、鋭い分析も、リューをからかう軽口も、自在に操れた。
なのに、今この瞬間、適切な言葉が一つも出てこなかった。
あとに残ったのは、ただの十五歳の少女だった。
父の影に怯え、過去の闇に苛まれ、それでも正義の光にしがみついている、一人の少女だった。
切れ長の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。
「――っ」
この顔を、涙を見せまいとして、慌てて顔を背けようとした。
――その瞬間、温もりが輝夜を包んだ。
杏寿郎の腕が、輝夜の肩を抱き寄せていた。
強い腕だった。炎の呼吸で鍛え上げられた、鋼のような腕。
その腕が、今は限りなく優しく、輝夜の身体を包んでいた。
「泣いていい」
杏寿郎の声が、頭の上から降ってきた。
低く、温かく、揺るがない声だった。
「俺は団長だ。団員が辛いときに支えるのは、俺の仕事だ。だから、辛くなったら頼れ。泣いたっていい――よく頑張ったな、輝夜」
輝夜の身体が、杏寿郎の胸に引き寄せられている。
杏寿郎の体温が伝わってきた。
熱かった。この男の身体は、炎のように熱い。
五条の屋敷では、こんな風に抱きしめられたことはなかった。
父の手は冷たかった。母の手は覚えていない。
人の体温で温められた記憶が、輝夜にはなかった。
「君は頑張りすぎだ、輝夜」
杏寿郎の手が、輝夜の漆黒の髪を撫でた。
大きく不器用な手だった。
その手が優しく頭を包んだ瞬間、輝夜の中で何かが決壊した。十年分の涙が、堰を切って溢れ出した。
嗚咽も、叫びも、なかった。
ただ、涙だけが、切れ長の目から止めどなく流れた。
輝夜は杏寿郎の胸に顔を埋めた。
白い指が、杏寿郎の羽織を掴んだ。
溺れる者が浮き木に縋るように、力を込めて。
「君は――」
杏寿郎の声が、なおも続いた。
輝夜の黒髪を撫でながら。
「強く、美しく、素晴らしい団員だ。かけがえのない仲間だ。君がいなければ、このファミリアは成り立たない。俺一人では、アリーゼも、リオンも、ライラも、誰も守れなかった。君が隣にいてくれたから、俺はここまで来られた。俺は――君のことを人として尊敬する」
輝夜の肩が震えた。
十年の悲しみと孤独が、涙となって杏寿郎の上着を濡らした。
すっぽりと包み込んでくれる杏寿郎の体温が、輝夜の仮面を崩し、精神を丸裸にした。
輝夜は声を上げて号泣した。
どれほどの時間が経ったか。
輝夜は、杏寿郎の胸から顔を上げた。
切れ長の瞳は赤く腫れ、涙の痕が頬に残っていた。
漆黒の髪が乱れ、仮面は完全に外れていた。
十五歳の少女の顔が、そこにあった。ただの輝夜がそこにいた。
「……杏寿郎」
声は、掠れていた。
「乙女の泣き顔を見たのだ」
輝夜は、杏寿郎の羽織を掴んだまま、見上げた。
腫れた瞳の奥に、新しい光が灯っていた。
「――責任は取ってくれるのだろうな?」
杏寿郎は、一瞬だけ、目を瞬かせた。
それから――太陽のような笑顔を浮かべた。
あらゆる闇を灼き尽くす、煉獄の炎のような笑顔だった。
「もちろんだ」
迷いのない声だった。
「ファミリアの団長なら、誰だってそうする。団員の涙に責任を持つのは、当然の務めだ。遠慮はするな、輝夜。いつでも、何度でも、俺の胸元で泣いていい。いつでも受け止めるぞ!」
胸を張って、堂々と、杏寿郎は言い切った。
輝夜は、くすりと笑った。
「……ああ、そうか」
輝夜は呟いた。
「団長の務め、か」
切れ長の瞳が、杏寿郎を見上げた。
涙で濡れた睫毛の奥で、情念が脈動しはじめた。
少女が、一人の男を見つめるときの、抑えきれない渇望の光だった。
「団長なら誰でもそうする、か。ふふ……そうだな。お前は、そういう男だ」
輝夜の唇が、弧を描いた。
泣いた後の赤い目と、その笑みの温度の落差が、えも言われぬ艶を生んでいた。
「ならば、遠慮なくたっぷりと甘えさせてもらうとしよう。――覚悟しておくことだな、団長殿」
杏寿郎は、その視線の意味に気づかなかった。
いや、半分は気づいていたかもしれない。
しかし、それが何を意味するのか、杏寿郎は考えないことにした。
「うむ。いつでも頼ってくれ!」
その返事を聞きながら、輝夜は、杏寿郎の胸元から離れた。
名残を惜しむように、ゆっくりと。
「さて。酒を持って帰らねばな。ぬるくなる」
輝夜は、何事もなかったかのように、路上に置いた酒の包みを拾い上げた。
しかし――。
その横顔は、ほんの僅かに紅かった。
輝夜の過去は全て創作です。