ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか   作:kursk

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正花の再起

アリーゼには、大好きなパン屋があった。

北のメインストリートから一本入った路地に、その店はあった。

朝になると焼きたてのパンの匂いが路地いっぱいに広がって、その匂いだけで、ここが温かい場所なのだと気づいた。

 

 

店主は、初老の男だった。

がっしりとした体格に、日焼けした顔、深い皺の刻まれた額。

手は大きく、指は太く、爪の間に小麦粉が入り込んで白くなっている。その手で、毎朝、生地をこね、窯に入れ、焼き上がったパンを棚に並べる。

名前はゲルト。妻に先立たれ、子もなく、この小さな店を一人で切り盛りしていた。

 

 

アリーゼがこの店を見つけたのは、アストレア・ファミリアに入ってまだ間もない頃だった。

巡回の帰り道、ふとパンを焼き上げる香ばしい匂いに足を止めた。路地裏の薄暗い空気の中で、その匂いだけが不思議と印象に残った。

店に入ると、ゲルトが無愛想な顔で振り返った。

 

「いらっしゃい。何がいい」

 

「おじさん、おすすめはある?」

 

「うちのは全部うまい」

 

その一言を聞いて、アリーゼは笑った。

 

「じゃあ、いっぱい買って試さないとね!」

 

太陽のような笑顔が、薄暗い店内を照らした。ゲルトは面食らった顔をして、それから、口元を少しだけ緩めた。

 

以来、アリーゼはほぼ毎日のようにその店に通った。

早朝にわざわざ買いに来ることもあれば、夕方の帰りに立ち寄ることもあった。

パンを買うだけではなく、カウンター越しに他愛のない話もした。

今日の天気のこと。最近のオラリオの噂。窯の調子が悪いこと、新しく試した生地の配合のこと。

ゲルトは口数の少ない男だったが、アリーゼの笑顔の前では、少しずつ言葉が増えた。

 

 

ある日、アリーゼがいつものように店に顔を出すと、ゲルトの表情がいつもと違った。

目が泳ぎ、額に汗が滲んでいた。

 

「どうしたの、おじさん。顔色悪いよ?」

 

「……いや、なんでもない」

 

ゲルトは、視線を逸らした。

その夜、アリーゼはライラからの報告で知った。

ゲルトの店に、闇派閥の構成員が「みかじめ料」を取り立てに来ていた、と。

 

翌日、アリーゼは杏寿郎と輝夜を伴って、ゲルトの店を訪ねた。

闇派閥の取り立て屋が現れた瞬間、杏寿郎が立ちはだかり、一瞬で制圧した。

 

「さすがはお兄様! おじさん、もう大丈夫だよ、私たちが守るから!」

 

アリーゼが笑って言ったとき、ゲルトの目が潤んだ。

太い指で目元を拭いながら、ゲルトは何度も頭を下げた。

 

「ありがとう……ありがとうよ、嬢ちゃん。こんな年寄りのために……」

 

「ふふん、私はアリーゼよ! ア・リ・ー・ゼ! 美しい私に相応しい名前だから、よく覚えておいてね」

 

アリーゼは自信満々に笑い、ゲルトも、皺だらけの顔をくしゃくしゃにした。

 

それ以来、ゲルトはアリーゼが来るたびに、焼きたてのパンをひとつ余分に包んでくれるようになった。

 

「礼なんていらないよ、おじさん」とアリーゼは言ったが、ゲルトは「礼じゃないさ。お嬢ちゃ……アリーゼが来てくれるのが嬉しいだけだ」と、照れくさそうに言った。

 

アリーゼにとって、ゲルトの存在は、正義が報われることの証だった。

自分たちが守ったことで、この人は安心してパンを焼ける。

 

朝になれば、路地に甘い匂いが広がる。

それは、小さくて、ささやかで、けれど確かに温かい、正義の成果だった。

碧い瞳の中に、パン屋の暖色の灯りが映るたびに、アリーゼは自分の道が間違っていないと信じることができた。

 

 

だから――。

 

 

その日の突入は、これまでとは規模が違った。

ライラの情報網が、ついに闇派閥の中規模拠点の位置を特定した。

ダイダロス通りの最深部、迷宮のような路地が折り重なる区画の地下に隠された地下施設。

情報の確度は極めて高く、複数の独立した情報源が同じ場所を指し示していた。

 

「間違いない、ここに何かある。でけーヤマになるぜ、団長」

 

ライラが地図を叩いた。

杏寿郎が頷いた。

アリーゼが拳を握った。

輝夜が、無言で刀の柄に手を添えた。

 

 

夜陰に紛れて、アストレア・ファミリアは総出で地下施設への突入を敢行した。

杏寿郎を先頭に、石段を駆け降りる。松明の灯りが石壁に揺れ、長い影が伸びた。

地下への通路は狭く、湿った空気が肌に張り付いた。

 

 

異変に気づいたのは、杏寿郎だった。

全集中の呼吸で研ぎ澄ませた感覚が、空間の奥に蠢く複数の気配を捉えた。

これまでとは桁違いに多い。しかも、その中に、明らかに格の違う気配が混じっていた。

 

「待ち伏せだ!」

 

杏寿郎が叫んだ瞬間、地下の広間に火が灯った。

松明が一斉に点火され、暗闇が剥がれ落ちるように退いた。

 

そこにいたのは、三十人近い闇派閥の構成員だった。

広間の四方に、武装した男たちが整然と配置されている。

最初から、こちらが来ることを知っていなければ出来ないような、完璧な待ち伏せだった。

 

 

中央に、一人の男が立っていた。

長身で、引き締まった体躯。

片目は革の眼帯で覆われていた。露出した片方の目が、爬虫類のように冷たく光っていた。

腰には大振りの曲刀を佩いている。纏う気配の重さが、これまでの雑魚とは一線を画すことを暗に語っていた。

闇派閥の中堅派閥を束ねる指揮官に間違いなかった。

 

「ようこそ、正義の味方さんたち」

 

男が、薄い笑みを浮かべた。

 

「待ちくたびれたぜ」

 

杏寿郎の炎の瞳が、広間を一瞬で走査した。

明らかに上級冒険者と思われる者が五人以上。とくに目の前の独眼の男は自分と同じくらいの強者だと思われた。

 

不利な状況だった。狭い地下の広間で、不意を突かれ、数の上でも押されている。

 

――だが。

 

杏寿郎は、恐れなかった。

恐れは思考を鈍らせる。恐れは刃を鈍らせる。

母の言葉が、胸の奥で燃えていた。

 

「構えろ! 全員、俺の背後につけ! アリーゼは右側、輝夜は左側、ライラたちは後ろに備えろ。魔法は詠唱待機、機会を見て撃て!」

 

杏寿郎の声が、地下の広間に雷鳴のように轟いた。

刀を抜く。炎が刀身に宿る。

 

全集中――炎の呼吸。

 

その瞬間、杏寿郎という存在そのものが、暗い地下に降り立った太陽になった。

 

「やれ」

 

眼帯の男が、無感動に命じた。

三十人が一斉に動いた。

 

四方から、刃と矢と魔法が押し寄せる。

 

肆ノ型――【盛炎のうねり】。

 

杏寿郎の刀が閃いた。

炎が弧を描き、迫り来る三方向からの斬撃と砲撃を同時に弾いた。

衝撃波が広間を揺るがし、前列の五人が吹き飛んだ。

 

圧倒的だった。

もともとレベル5への昇格が近づいているうえ、スキルや日々の鍛錬の恩恵で、ステイタスの数値だけでは測れないほどに、力量と剣気は練り上げられていた。

 

――至高の領域に近い。

 

武人であれば、そう悟らざるをえないほどに、杏寿郎の技量は超人めいていた。

 

 

その杏寿郎の動きを支えるように、輝夜が動いた。

杏寿郎が正面を引き受けた瞬間に、側面へ回り込む。

 

先日の散歩以来、輝夜の戦闘スタイルは少しずつ変わっていた。

杏寿郎の炎に寄り添うように立ち、その炎が生み出す影の中で自在に刃を振るう。

杏寿郎が創り出す炎の領域を信じ、その信頼を基盤に自身の技をさらに磨いていた。

 

傍に杏寿郎がいるというだけで、輝夜の刃から余分な力が抜け、恐ろしいほどに冴えわたる切れ味だけが残った。

 

 

切れ長の瞳が敵を捉えた。

上級冒険者クラスが2人、雑魚が5人。

 

輝夜の剣技は、極東の五条家が培った暗殺剣の系譜を引いている。

華麗さはない。ただ、恐ろしく速く、正確に、急所を捉える。

 

「居合の太刀――【三断】」

 

居合の一閃が、三つに分かたれ、同時に白銀を煌めかせる。

その瞬間、上級冒険者を含む三人の男は、胴から血を噴き出しながら崩れ落ちた。意識を刈り取られたことすら認識できなかったろう。

 

 

リューは、反対側の側面にいた。

レベルはようやく2になったばかり。ステイタスだけを見れば、この場で最も脆い存在のはずだった。

しかし、空色の瞳に恐怖はなかった。

 

エルフの森で培われた剣術を、杏寿郎との訓練で昇華させ、恐るべき速さで敵を攪乱していた。ファミリアの末妹として、周りから多くを吸収した妖精は、止まることを知らなかった。

 

木刀が唸った。

男の側頭部を正確に打ち抜き、続く一撃で次の男の膝裏を砕いた。

素早さで相手を翻弄しながら、一対一の局面を連続して創り出し、各個撃破する。

リューの戦い方は、まさにお手本のようだった。

5人を倒すのに、リューが費やした時間は三十秒に満たなかった。

 

 

もちろん、アリーゼも負けていなかった。

精神的な不調があっても、杏寿郎を戦場をともにしている限り、スキルの相乗効果が恐るべき威力を発揮する。万が一があるはずもなかった。

 

【アガリス・アルヴェシンス】!

 

スキルにより著しく上昇したステイタスを遺憾なく発揮して、切り裂き、燃やした。

 

 

戦闘は、十分足らずで決着した。

杏寿郎が眼帯の男を制圧したのが、転換点だった。

 

炎の呼吸・壱ノ型――不知火。

渾身の一撃が眼帯の男の曲刀を叩き折り、その身体を壁に叩きつけた。

意識は残っている。残っているからこそ、絶望の色が爬虫類じみた片目に浮かんでいた。

 

 

指揮官が倒れたことで、残りの構成員の士気が崩壊した。

ライラ、ネーゼ、ノインをはじめとする団員たちが、逃げ出そうとする者たちを次々と制圧していった。

 

不利な戦いのはずだった。

情報戦で遅れをとり、敵の罠のなかに飛び込んだ。

ステイタス上は対等に近い敵が、3倍近い兵力を揃えて待ち伏せていた。

 

だというのに、蓋を開けてみれば、戦いはあまりにも一方的だった。

セルティやリャーナは砲撃を使う必要すらなく、マリューは一度も回復魔法を唱えなかった。

 

これが、わずか3年前に、主神と杏寿郎の二人で始めた零細ファミリアの現在だった。

構成上は、Lv.4を中心とした普通の中堅ファミリアだが、特に総出で出陣したときの強さは表面的なレベルだけでは測り切れなかった。

 

今回の闇派閥も、その点を見誤った。

表面上の戦力からすれば、Lv.4の指揮官を中心に、3倍の戦力を揃えており、まず負けないはずの戦だった。

誤算があったとすれば――アストレア・ファミリアの成長速度とスキルの相乗効果、さらにはステイタス外の連携と練度を見誤った。その点に尽きた。

 

 

 

静けさを取り戻した広間には、血と汗の匂いが漂っていた。

呻き声が、あちこちから上がっている。制圧された闇派閥の構成員たちが、床に転がっていた。

 

アリーゼは、敵を手早く縛り上げていた。 

 

――その時だった。

 

壁に叩きつけられた眼帯の男が、血を吐きながら笑った。

折れた歯の隙間から、粘つく笑い声が漏れた。

 

「はっ……はははっ……正義の味方さんたちよ」

 

杏寿郎が、男を見下ろした。

炎の瞳は冷静だった。

 

「なぜ俺たちが待ち伏せできたか、不思議に思わなかったか?」

 

沈黙が、広間に落ちた。

杏寿郎の瞳が、微かに細まった。

 

ライラが、眉をひそめて吐き捨てた。

 

「はっ、馬鹿馬鹿しい。アタシたちの中にスパイがいるとでも言いてえのか?」

 

「……安心しな。協力者を探し出せるほど、俺はお前たちのことを知らねえよ」

 

男は、アリーゼに視線を向けた。

爬虫類のような片目が、アリーゼを射抜いた。

 

「なあ、赤毛のお嬢ちゃん。お前、北の通りのパン屋に毎日通ってるだろう?」

 

アリーゼの心臓が、一拍、止まった。

 

「そうさ。あのパン屋のジジイが――俺たちにタレこんだんだよ。お前らの様子が慌ただしい、何か大きなことをやろうとしてるんじゃないかってな」

 

碧い瞳が、見開かれた。

呼吸が、止まった。身体中の血液が一瞬で冷えたような感覚が走った。

 

「嘘……」

 

アリーゼの唇が、掠れた声を漏らした。

 

「嘘じゃないさ。あのジジイは、お前がいつ店に来るか、何を話すか、ファミリアの巡回ルートがどうなっているか、全部こっちに流してたんだ」

 

男は、血に染まった唇を歪めて笑った。

 

「もっとも――あのジジイの役割は、それだけじゃない」

 

男の声が、下卑た色を帯びた。

 

「俺たちの商売を知ってるか? 女子供を攫って、売りさばくのさ。特に、見目麗しい女はいい値がつく。人族、エルフ、小人族……種族は問わない。若くて美しければ美しいほど、高く売れる」

 

アリーゼの碧い瞳が、瞠目した。

背筋を這い上がる寒気が、指先まで届いた。

 

「当然、品揃えを良くするためには、仕入れの情報が要る。どこに美しい女がいるか。どんな生活をしているか。いつ一人になるか。そういう情報を集めてくれる、街の中の目と耳が必要だ。――パン屋のジジイは、その協力者のひとりだったのさ」

 

広間の空気が、凍った。

アリーゼだけではなかった。杏寿郎の炎の瞳にも、鋭い光が走った。

 

「あのジジイは、うちの情報網の中でも優秀な部類だった。あのジジイが流してきた情報で、何人の女が攫われたか……数えきれねえよ」

 

アリーゼの膝が、震え始めた。

 

「しかもな――」

 

男は、愉悦を隠そうともしなかった。

 

「あのジジイが闇派閥に脅されていた、なんて思ってるだろう? あのみかじめ料の取り立て――あれは芝居だぜ。全部仕込みだ」

 

「仕込み……?」

 

杏寿郎の声が、低く響いた。

 

「ああ。ジジイのほうから相談してきやがったんだ。『正義の眷属に信用されるために、一芝居打ってくれ』ってな。脅されているところをお前らに助けさせて、ジジイを被害者に仕立て上げる。そうすれば、あの赤毛の嬢ちゃんはますますジジイを信用して、何でも話すようになるだろう、って」

 

アリーゼの顔から、血の気が引いた。

あのとき、ゲルトの目に浮かんでいた涙。「ありがとう」と繰り返した声。震える太い指。

――全部、演技だったのか。最初から、全部。

 

「まだ信じられねえって顔してるな。なら、直接ジジイに聞きに行きゃいいさ。あいつの店の奥にある箪笥の底を見てみな。『納品書』が入ってるはずだ。攫う対象の女の名前と、容姿と、生活パターンを書き込んだ報告書だ。あのジジイの字で、びっしり書いてあるぜ」

 

男は、最後にもう一度、粘ついた笑いを漏らした。

 

「どいつもこいつも、表向きは正義の眷属アストレア・ファミリアに感謝しながら、裏ではお前らのことを売って金をもらっているわけだ。アストレアの小娘どもを騙して得た金で飲む酒は美味いってよ!! 良かったなあぁぁ」

 

男の言葉が、石壁に反響した。

反響のたびに、アリーゼの胸が抉られた。

 

「黙れ」

 

杏寿郎の声が、低く響いた。

男の首元に、刀の切っ先が突きつけられた。

炎を纏った刃の熱が、男の肌を焦がした。

杏寿郎の炎の瞳に、普段は見せない冷たい怒りが宿っていた。

 

ライラが、歯を食いしばりながら、冷静に言った。

 

「……確認する必要がある。団長、こいつの引き渡しはノインたちに任せて、先にパン屋を抑えよう。証拠が消される前に」

 

杏寿郎は、一拍の間を置いてから、頷いた。

 

「そうだな。――アリーゼ」

 

アリーゼは、石壁に手をついて立っていた。

碧い瞳は開いているのに、何も見ていなかった。

杏寿郎が名前を呼んでも、反応するまでに、三秒を要した。

 

「……行くわ。私も……行く」

 

かすれた声だった。震えていた。

しかし、アリーゼは拳を握りしめて、一歩を踏み出した。

確かめなければならなかった。自分の目で。

 

 

ゲルトのパン屋に着いたのは、夜半過ぎだった。

店は閉まっていた。路地は暗く、焼きたてのパンの匂いはしなかった。

代わりに、冷えた石畳の湿った臭いだけが漂っていた。

 

杏寿郎が、裏口を叩いた。

返事はなかった。三度叩いて、ようやく奥から、足を引きずるような音が聞こえた。

 

扉が開いた。

ゲルトが立っていた。

寝巻き姿で、白髪交じりの頭が乱れていた。

杏寿郎の顔を見て、次にアリーゼの顔を見て、その後ろに立つ輝夜とライラを見て――ゲルトの顔から、ゆっくりと表情が抜け落ちた。

 

「……そうか。バレたか」

 

それが、ゲルトの第一声だった。

驚きも、動揺もなかった。

ただ、長い間隠してきたものが、ついに露見した者の、疲弊した諦めだけがあった。

 

杏寿郎が、静かに言った。

 

「中に入らせてもらう」

 

ゲルトは抗わなかった。

無言で道を空け、四人を店の奥へ通した。

居住スペースは狭かった。質素な寝台と、古い箪笥。壁にかかった色褪せた女の肖像画。

 

ライラが箪笥に向かった。底板を外すと、その下から、数十枚の紙束が出てきた。

ライラが紙束を広げた瞬間、輝夜の切れ長の瞳が、微かに細まった。

記されていたのは、女たちの名前と、住所と、年齢と、容姿の詳細な記述だった。

 

「金髪、碧眼、十六歳。母親と二人暮らし。朝は市場に買い出し、昼は洗濯のため東門の井戸へ。一人になる時間帯は午後二時頃」

 

「黒髪、切れ長の目、十四歳。孤児院の子。夕方になると一人で薬草を摘みに外壁沿いを歩く」

 

几帳面な字で、びっしりと。何十人分もの、女たちの情報が。

その一枚一枚が、人身売買のための仕入れ帳だった。

 

ライラの手が、微かに震えた。

 

「……いくつか見覚えのある名前がある。行方不明になった女の名前だ」

 

ライラの声は、低く、抑えられていた。

しかし、その低さの中に、炎にも似た怒りが煮えていた。

 

 

輝夜は無言で紙束の一枚を取り上げた。

日付を確認した。

最も古いものは、数年前のものだった。

最も新しいものは――つい先月の日付だった。

 

「長いこと、やっていたようだな」

 

輝夜の声は、平坦だった。

 

ゲルトは、椅子に座っていた。

太い手を膝の上に置き、俯いていた。

杏寿郎が、ゲルトの正面に立った。

 

「なぜ、こんなことをした」

 

杏寿郎の声には、怒りがあった。

 

ゲルトは、しばらく黙っていた。

沈黙が長く続いた。

やがて、ゲルトが口を開いた。

声は掠れ、低く、地面を這うようだった。

 

「……女房が、病気になった」

 

アリーゼが、ピクリと反応した。

 

「もう十年も前のことだ。難病でな。治療には金がかかった。普通の治癒魔法じゃ治らない。特殊な薬と、高度な治癒師が必要だった。パン屋の稼ぎじゃ、到底足りなかった」

 

ゲルトの太い指が、膝の上で握りしめられた。

 

「あちこちに頭を下げた。金を借りた。それでも足りなかった。そのとき――闇派閥の連中が、声をかけてきた。金を貸してやる代わりに、ちょっとした情報を提供しろ、とな」

 

「最初は、些細なことだった。近所にどんな家族がいるか。誰が美しい娘を持っているか。ただそれだけだ。それだけで、信じられないほどの金をくれた」

 

ゲルトの声が、低くなった。

 

「……その情報のせいで、女たちが攫われているんだと、気づかないほど馬鹿じゃなかった。分かっていた。分かっていて、続けた。女房を助けるためだった。女房さえ助かれば、あとはどうなってもよかった」

 

沈黙が、部屋に落ちた。

色褪せた女の肖像画が、壁の上から、四人を見下ろしていた。

 

「――だが、間に合わなかった」

 

ゲルトの声が、途切れた。

太い指が、強く握りしめられて、白くなった。

 

「金を集めて、治癒師を見つけて、もう少しだったのに。女房は、間に合わなかった。俺の腕の中で死んだ。最後まで、俺に礼を言いながら死んだ。……お前のおかげで幸せだった、ってな」

 

ゲルトの肩が、一度だけ、大きく震えた。

しかし、涙は流さなかった。もう枯れ果てていたのかもしれなかった。

 

「女房が死んでから、闇派閥との縁を切ろうと思った。もう金は必要ない。パン屋に戻って、静かに暮らそうと思った」

 

ゲルトは、顔を上げた。

皺だらけの顔に、暗い感情が浮かんでいた。

 

「だが――街を歩くと、幸せそうな顔をした人間がいっぱいいるんだよ」

 

ゲルトの声が、変わった。

低く、粘ついた声だった。

 

「手を繋いで笑っている夫婦。子供を抱いて歩いている母親。何の苦労も知らないような顔で、幸せを享受している奴らが。――俺は、女房を助けるために、他人の幸福を踏みにじった。罪を犯した。それなのに、女房は死んだ。俺の手には何も残らなかった。それなのに、どうして、こいつらはこんなに幸せそうなんだ」

 

ゲルトの目が、据わっていた。

その目は、もはやアリーゼが知っていた温かいパン屋の主人のものではなかった。

長い年月をかけて煮詰められた、純度の高い悪意の目だった。

 

「許せなかった。幸せそうに笑っている人間が、許せなかった。こいつらも、俺と同じ地獄に落ちればいいと思った。この街の、幸せ面をしている連中が、ある日突然、大事な女を奪われて、二度と戻ってこないと知ったとき、どんな顔をするのか。それを想像するだけで、胸がすっとした」

 

杏寿郎の拳が、握りしめられた。

 

「だから、闇派閥との縁を切るどころか、もっと深く関わるようになった。自分から情報を集めた。パン屋は便利でなあ。客の話を聞くだけで、いくらでも情報が集まった。美しい娘がいると聞けば、わざわざ確認しに出かけることもあった。そうして俺が報告した情報をもとに、女たちが消えていった。消えるたびに、その家族の味わった絶望を想像して、俺は溜飲を下げた」

 

アリーゼは、立っていられなかった。

壁に手をついて、辛うじて身体を支えていた。

碧い瞳は見開かれたまま、ゲルトの顔を見つめていた。信じられないものを見るように。

 

ゲルトは、アリーゼに視線を向けた。

皺だらけの顔に、笑みが浮かんだ。

それは、あの日、パンを包んでくれたときの笑みとは、まったく別のものだった。

暗く、冷たく、残酷な笑みだった。

 

「嬢ちゃん――いや、アリーゼ。お前が毎日パンを買いに来るたびに、俺はお前の顔をよく見ていたよ。正義、正義と、きらきらした目で語るお前の顔を。あの幸せそうな、何も知らない、無邪気な笑顔を」

 

ゲルトの声が、低く、粘りつくようになった。

 

「あの笑顔を見るたびに、思っていたんだぜ。こいつが絶望の底に沈む顔が見たいと。こいつの、馬鹿みたいに真っ直ぐな目が、光を失って、ぐしゃぐしゃに歪む瞬間が見たいと。正義を信じている人間ほど、裏切られたときの顔は見ごたえがあるんだよ」

 

ゲルトは、アリーゼの碧い瞳を、正面から覗き込んだ。

 

「――なあ、アリーゼ。今、どんな気持ちだ? 冥途の土産に、聞かせてくれよ」

 

声は、鳥肌が立つほどに、ねっとりとした悪意に満ちていた。

普段の話し方とあまりにも違う声色に、アリーゼの胸は鋭く抉られた。

 

「俺はな――お前のそんな顔を見ることができて、最高に痛快だよ。死ぬ前に、いいもんが見られたぜ!」

 

ゲルトが笑った。

皺だらけの顔を歪めて、声を出して笑った。

穏やかだったパン屋の主人と同じ顔の奥から、まったく別の人間の笑い声が聞こえた。

それは人間の底にある、最も暗い場所から湧き上がった哄笑だった。

 

 

アリーゼは、一言も発せなかった。

口が動かなかった。声が出なかった。

碧い瞳だけが、限界まで見開かれて、ゲルトの笑顔を映していた。

その瞳の中で、何かが、音を立てて砕けた。

 

 

杏寿郎が、動いた。

ゲルトの前に立ちはだかり、アリーゼの視界からゲルトを遮った。

 

「もういい」

 

杏寿郎の声は、低く、静かだった。

しかし、その静かさは、巨大な怒りを制御している者だけが発する、危険な静けさだった。

 

「ライラ。こいつの身柄の確保と証拠の保全を頼む。ガネーシャ・ファミリアとギルドへの報告も。この男は、人身売買の共犯として引き渡す」

 

「了解だ」

 

ライラの声にも、押し殺した怒りが滲んでいた。

 

 

輝夜は、無言だった。

切れ長の瞳でゲルトを一瞥しただけだった。

しかし、その一瞥の中に込められた感情は、もし視線で人が殺せるなら、ゲルトはその場で息絶えていただろう。

 

杏寿郎は、アリーゼの肩に手を置いた。

 

「帰ろう、アリーゼ」

 

アリーゼは、杏寿郎に促されるままに、パン屋を出た。

歩きながら、一度だけ振り返った。

路地の奥に、パン屋の看板が見えた。

毎朝、甘い匂いが漂っていた店。ゲルトの笑顔が待っていた店。正義の成果だと信じていた、温かい場所。

 

それが今、ただの暗い路地裏の、ただの古い建物にしか見えなかった。

アリーゼは、前を向いた。何も言わなかった。

 

 

本拠に戻っても、アリーゼは自室に直行し、扉を閉めた。

靴も脱がず、鎧も解かず、ベッドの上に倒れ込んだ。

 

 

思い出すのは、ゲルトの顔だった。

 

二つの顔があった。

皺だらけの笑顔で焼きたてのパンを包んでくれた顔と、「最高に痛快だ」と嗤った顔。

その二つが、同じ人間の同じ顔だった。

 

 

守った相手は、被害者ではなかった。

最初から加害者だった。女子供を攫う手引きをしていた犯罪者だった。

助けを求めるふりをして近づき、アリーゼの信頼を利用し、その情報を基に、何人もの女が闇に消えた。

 

あの笑顔は全部、釣り針だった。

「アリーゼが来てくれるのが嬉しい」という言葉は、獲物を逃がさないための餌だった。

 

――正義とは何だったのだろう。

弱者を守るとは、一体――。

 

守った相手が、他の弱者を食い物にしていた。

ゲルトを信じて通い続けたことで、ファミリアの情報が漏れ、仲間が危険にさらされた。

攫われた女たちのことを思えば、アリーゼの正義は、間接的に彼女たちを地獄に送る手助けをしていたことになる。

 

その事実が、アリーゼの心の底を、根こそぎ抉った。

あの少女の遺体を見たとき、アリーゼの心にはまだ怒りがあった。怒りがあるうちは、まだ戦える。許せないという感情は、正義の原動力になる。

 

 

しかし、今、アリーゼの心に渦巻いているのは、怒りですらなかった。

もっと深い、もっと暗い、名前のつけようのない感情だった。

自分の存在そのものが汚れてしまったような、取り返しのつかない穢れの感覚だった。

 

アリーゼの中で、正義という言葉そのものが灰になった。

つぶやいても、何の味もしなかった。

 

 

アリーゼは横向きに丸まって、膝を抱えた。

涙は出なかった。泣くだけの力すら、残っていなかった。

瞼の裏に、ゲルトの笑顔と、あの少女の虚ろな瞳と、「最高に痛快だ」という声が交互に明滅して、アリーゼの意識を暗い淵へと引きずり込んでいった。

 

眠れぬ夜が、また一つ、増えた。

 

 

 

輝夜が動いたのは、その翌朝だった。

ライラの部屋の扉を、二度叩いた。

 

ライラが開けると、輝夜が無表情で立っていた。

いつもの慇懃な笑みも、からかいの気配もなかった。

 

「話がある。入るぞ」

 

「おう」

 

ライラは輝夜を部屋に招き入れた。

小さな部屋には書類と地図が散乱している。

ライラがベッドの端に腰を下ろし、輝夜は壁に背を預けた。

 

「アリーゼのことだ」

 

「ああ、わかっている。あの状態はまずい」

 

ライラの栗色の瞳は、険しかった。

 

「まずい、では済まない」

 

輝夜の声は、氷のように平坦だった。

 

「アリーゼは、あれでもこのファミリアの要だ。杏寿郎が炎なら、アリーゼは光だ。光が消えれば、全員の士気が折れる。このファミリアは団長と副団長の二人がいるから、成り立っている」

 

「そんなことは今更だ。問題は――どうするかだ」

 

「焚きつけるしかない」

 

輝夜は、端的に言った。

 

「は?」

 

「あの女を焚きつけて、杏寿郎に抱かせるしかない」

 

ライラは、目を瞬かせた。

それから、眉を顰めた。

 

「……何を言い出すかと思えば、誰もがお前のように色ぼけてるわけじゃねーぞ」

 

「今のアリーゼに必要なのは、正義の言葉ではない。団長がどれだけ正しいことを言っても、正義そのものへの信頼が揺らいでいるのだから、正義の言葉は届かない。届くのは、もっと根源的な――人と人との繋がりだ」

 

輝夜は、腕を組んだ。

 

「兄と妹の関係でも、ある程度は支えになる。現にこれまではそうだった。だが、今の状況には足りない。アリーゼが落ちた穴は、兄の手では引き上げられないほど深い。必要なのは、男と女の情だ。情に塗れれば、人は変わる。理屈では動かない心が、情念では動く。アリーゼが杏寿郎を男として欲するようになれば、それが再起の足がかりになる」

 

ライラは、しばらく黙っていた。

それから、低い声で言った。

 

「……お前はそれでもいいのか? お前とて、団長のことを好ましく思っているだろ」

 

輝夜の切れ長の瞳が、一瞬だけ揺れた。

しかし、すぐに凪いだ。

 

「それがどうした」

 

「それでいいのか、と聞いている。アタシは一族の勇者狙いだから関係ないが……お前の気持ちはどうなる」

 

輝夜は、壁に預けた背中を起こした。

腕を組んだまま、天井を見上げた。

 

「己の感情など、大した問題ではない」

 

声は、静かだった。

自分に言い聞かせているようでも、本心を語っているようでもあった。

その境界は、輝夜自身にも判然としなかったかもしれない。

 

「そもそも、杏寿郎ほどの男であれば、複数の女を侍らせて当然だ。極東では珍しいことではない。正室と側室が共存するのが、武門の家の常だった」

 

ライラが、露骨に顔を顰めた。

 

「それに――」

 

輝夜は、自分の右手を見つめた。

白く細い指。しなやかで、美しい手。

その血管に宿る毒のことを、輝夜は誰よりもよく知っていた。

 

「私には、毒の体液がある。一族以外の男と褥を共にすれば、確実に相手を死に至らしめる。『神秘』を持つ治癒師なら何とかできるかもしれないが……いずれにせよ、本当の意味で、杏寿郎に触れることはできないだろう」

 

指を、ゆっくりと握った。

 

「だから、アリーゼがその役目を果たしても、何の問題もない」

 

それは、自分に言い聞かせるような話し方だった。

ライラは、大きく息を吐いた。

 

「お前な、そういう極東風の男女感を何とかしたほうがいいぞ。オラリオも大概だが。間違いなく、団長はそういう発想はしない。正室だの側室だの、あの男の頭には欠片もないだろうよ。アストレア様も喜びはしないぜ」

 

「別に、表立って言うわけではない」

 

輝夜の唇が、淡い弧を描いた。

仮面の笑みだったが、その下に、微かな寂しさが透けていた。

 

「アリーゼが己の恋心に気づけば、自然とそうなる。素直な性質だからな。気づいた瞬間に、隠しきれなくなる。そうなれば、杏寿郎も無関心ではいられまい。あの男は鈍いが、人の気持ちに応えようとする温かさは本物だ」

 

輝夜は、視線をライラに戻した。

 

「団長と副団長には、表で正義を堂々と貫いてもらいたい。炎と太陽が、このファミリアの看板だ。汚れ役は――」

 

輝夜は、自分を指し、次にライラを指した。

 

「――二人で引き受ける。お前と私で、影を引き受ける。それが私たちの正義の形だろう、軍師」

 

ライラは、長い沈黙の後に、唸った。

 

「……気は進まねぇ」

 

「だろうな」

 

「だが――」

 

ライラは、頭を掻いた。

桃色の髪がくしゃりと乱れた。

 

「今のファミリアの状況を考えると、やむを得ねーか。アリーゼが折れたら、このファミリアは終わりだ」

 

ライラは、立ち上がった。

 

「……これも正義の形か。分かった」

 

 

その夜、輝夜は、アリーゼの部屋を訪ねた。

扉を叩いても返事がなかったので、無断で入った。

 

部屋は暗かった。

ランプも灯されず、窓から差し込む月明りだけが、室内を青白く染めている。

アリーゼは、ベッドの上に座っていた。膝を抱え、壁に背を預けて、虚空を見つめている。

月光が碧い瞳を照らしていたが、そこに宿る光は、かつてのアリーゼのそれではなかった。

空虚で、何も映していない目だった。

 

「アリーゼ」

 

輝夜は、ベッドの端に腰を下ろした。

アリーゼは、ゆっくりと視線を動かした。

輝夜を認識するまでに、数秒かかった。

 

「……輝夜」

 

声が、掠れていた。

 

「お前に聞きたいことがある」

 

輝夜は、前置きをしなかった。

回りくどい慰めは、今のアリーゼには届かないと分かっていた。

 

「これからも、正義を掲げる以上は、こんなことは何度でも起きる」

 

アリーゼの身体が、微かに震えた。

輝夜は、容赦なく続けた。

 

「信じた者に裏切られる。守った者に利用される。間に合わなかった命を悔やみ、間に合っても報われない。その程度は、日常茶飯事だ。本当の闇は、これからやってくる。きっと、もっと辛いものを見ることになるだろう」

 

アリーゼの碧い瞳に、絶望の色が滲んだ。

輝夜は、それを正面から見つめた。

 

「それが耐えきれないというのなら――ファミリアを出て行ったほうが良い」

 

アリーゼの碧い瞳が、揺れた。

 

「今のお前は、足手まといだ」

 

輝夜の声は、容赦がなかった。

いつもの慇懃な皮肉ですらない。

ただ、事実を述べるような淡々とした声だった。

 

「副団長が抜け殻のまま前線に立てば、お前自身だけでなく、周りが死ぬ。巡回も、強制捜査も、ダンジョンも。判断が鈍った副団長は、味方にとって最大の危険因子だ。闇派閥にやられるより先に、お前の迷いが仲間を殺す」

 

アリーゼの目が、見開かれた。

虚ろだった碧い瞳に、初めて、鮮明な感情が戻った。

痛みだった。切りつけられたような、鋭い痛みだった。

 

「正義が信じられなくなった。守った人に裏切られた。辛い。それは、分かる。だが、閉じこもるくらい辛いのなら、正義のファミリアを出ろ。ギルドにでも移ればいい。それなら、誰も死なせずに済む」

 

「……やめて」

 

アリーゼの声が、震えた。

 

「お前はもともと、そこらの善良な町娘と大差ない女だ。たまたま杏寿郎と出会い、恩恵を受けて、たまたま正義に憧れただけだ。正義を掲げる覚悟がないなら、無理に掲げる必要は――」

 

「やめてよ……輝夜!」

 

アリーゼの声が、大きくなった。

膝を抱えていた腕が解け、シーツを握りしめた。

碧い瞳に、涙が浮かんでいた。

 

「私は……私だって……!」

 

「私だって何だ。泣くだけなら赤子にもできる」

 

輝夜の瞳は、凪いでいた。

表情一つ変えず、アリーゼの涙を見ていた。

 

アリーゼの拳が、シーツの上で震えていた。

唇を噛みしめ、涙を流しながら、輝夜を睨んだ。

碧い瞳に、微かな炎が灯っていた。

 

怒りだった。

輝夜の言葉への怒りであり、同時に、何も言い返せない自分への怒りだった。

 

輝夜は、その炎を見て、心の中で少し安堵した。

まだ消えていない。まだ折れていない。

それだけで充分だった。

本当に折れた人間は、怒ることすらできない。

怒れるうちは、まだ戻ってこられる。

 

 

輝夜は、声のトーンを変えなかった。

しかし、言葉の刃を、ほんの少しだけ引いた。

 

「出ていく気はないのか?」

 

「……ない。私は絶対に出て行かない!」

 

アリーゼは、唇を噛んだまま、輝夜を睨んで答えた。涙混じりのかすれた声だったが、たしかにアリーゼの意志だった。

怒りと悔しさと、それでも手放せない何かへの執着が、その短い言葉に詰まっていた。

それは正義という言葉に対する想いだったのかもしれないし、それ以外の何かだったのかもしれない。

 

「そうか……。このままとどまるというのなら、話がある」

 

輝夜の声の温度が、微かに変わった。

冷徹さの下から、何か別のものが覗いた。経験者だけが持つ、静かな確信だった。

 

「アリーゼ、副団長として、これ以上、団員にひどい顔を見せるわけにはいかない。それは分かるな?」

 

アリーゼが頷いた。 

 

「ならば、聞け。人間は誰しも、一人では限界がある。特に、こういう闇の深い戦いの中では、支えが要る。抽象的な理屈ではなく、もっと根源的な感情の錨が必要だ」

 

輝夜は、月明りの中で、自分の手を見つめた。

白い指が、青白い光に照らされている。

 

「私は――杏寿郎に救われた」

 

その声には、仄かに色艶の響きがあった。

アリーゼの瞳が、微かに動いた。

 

「五条の闇に沈んでいた私を、杏寿郎は引き上げてくれた。こういうものは、理屈ではない。杏寿郎の炎が、私の凍りついた心を溶かした。城壁沿いの道で、あのどっしりとした胸に抱きしめられたとき――私は初めて、泣くことができた。十年分の涙を、杏寿郎の胸で流した」

 

輝夜の声は、淡々としていた。

しかし、そのなかには、押し殺した情念の熱が潜んでいた。

 

「私は杏寿郎のことを――一人の男として、慕っている」

 

アリーゼの目が、見開かれた。

碧い瞳に、初めて、空虚以外の感情が灯った。

 

「今は、五条の罪業のゆえに、褥を共にすることはできない。この身体には毒が仕込まれている。一族以外の男を確実に死に至らしめる猛毒だ。だから、どれほど望んでも、抱かれるわけにはいかない。だが、もし毒の対処法が見つかったら――」

 

輝夜は、アリーゼに向き直った。

切れ長の瞳が、月光の中で澄み渡っていた。

人形めいた美しい顔が、ほんのりと紅に染まっていた。

一人の男に救われ、恋焦がれる乙女の素顔だった。

 

「杏寿郎という正義の影で、その炎が燃え盛るのを助け、その炎で温めてもらう。それが、私が辿り着いた正義の形だ。正面に立つだけが正義ではない。影から支える正義もある。私の正義は、あの男の炎を守り、あの男の炎に照らされて生きることだ」

 

沈黙が、部屋に満ちた。

月光だけが、二人の間を青白く照らしている。

 

 

アリーゼは、呆然としていた。

輝夜の言葉を理解するのに、時間がかかった。

いや、言葉の意味は分かっていた。分かっていたが、受け止めきれなかった。

輝夜が――あの、鉄壁の仮面を被った輝夜が――杏寿郎に恋をしている。

 

「いきなり……何を言っているの……!?」

 

ようやく出たのは、それだけだった。

声が裏返っていた。

 

輝夜は、薄く笑った。

仮面の笑みではなかった。

それは、不器用な、しかし確かに温かみのある笑みだった。

 

「お前にとっての正義とは何だ? いや、そもそも、お前はどうしたい、アリーゼ?」

 

輝夜の声が、静かにアリーゼを射抜いた。

 

「今のまま、妹として兄の背中を追うだけか」

 

アリーゼの心臓が、跳ねた。

 

「本当に、お前にとって、杏寿郎は唯の兄なのか?」

 

碧い瞳が、揺れた。

 

「団長と二人きりのとき――」

 

輝夜の声が、耳元に刺さるように響いた。

 

「抱きしめられたとき。あの大きな胸に顔を埋めたとき。感じるのは、兄妹の愛情だけか?」

 

アリーゼの呼吸が浅くなった。

 

「――それとも、女が男に向ける、情念か」

 

 

月が、雲に隠れた。

部屋が、一瞬だけ暗くなった。

 

その暗闇の中で、アリーゼの心の奥底で、何かが脈を打った。

名前をつけるのが怖い、熱い脈動だった。

 

「わ……私は……」

 

言葉が出なかった。

口を開いたが、声にならなかった。

心臓が早鐘のように打っている。

頬が、耳まで赤く染まっているのが分かった。暗くてよかった、と思った。

 

輝夜は、それ以上は問わなかった。

答えは、アリーゼの反応の中に、十分すぎるほど顕れていた。

 

話を切り上げるために、輝夜は立ち上がった。

 

「よく考えておくんだ、アリーゼ。自分に嘘はつくなよ。私のようになるぞ」

 

それだけ言って、輝夜は部屋を出た。

月が再び雲間から顔を出し、廊下を青白く照らした。

輝夜の影が長く伸びて、壁に溶けた。

 

 

 

部屋を出た輝夜は、そのまま廊下を歩いて、杏寿郎の部屋を訪ねた。

 

「入るぞ」

 

扉を叩くと、杏寿郎はすぐに開けてくれた。

室内は質素だった。簡素なベッドと机。壁に掛けられた刀。

杏寿郎は、書き物をしていたらしい。机の上に、報告書の下書きが広がっていた。

 

「輝夜か。どうした」

 

「アリーゼのことだ」

 

輝夜は、単刀直入に切り出した。

 

「杏寿郎、お前は、彼女のことをもっと気にかけるべきだ」

 

杏寿郎の炎の瞳が、真剣になった。 

 

「もちろん、気にかけている。だが、今のアリーゼにどう声をかけるか、少し迷いもあってな」

 

「抱きしめてやれ」

 

輝夜は、迷いなく言った。

 

「今夜、お前の部屋に呼べ。話を聞いてやれ。泣きたいだけ泣かせてやれ。そして――」

 

輝夜は、一瞬だけ目を伏せた。

 

「必要なら、添い寝してやれ。一人で夜を越えさせるな」

 

杏寿郎が、僅かに目を見開いた。

 

「アリーゼは、お前が考えている以上に脆い状態にある。正義を信じて疑わなかった人間が、自分の根幹を揺さぶられたんだ。幼い少女の遺体を見たときよりも、今のほうが深刻だ。あのときはまだ怒りがあった。今は――虚しさが強い。虚しさは、怒りよりも遥かに厄介だ」

 

輝夜の声は、経験者の声だった。

虚しさの深淵を知っている者の声だった。

 

「しかも、今回はそれだけではない。あのパン屋の男は、アリーゼが絶望する顔を見て愉しんでいた。正義そのものを嗤った。あれは……裏切りよりも深い傷を残す。自分の存在が、悪意の道具にされていたと知ることは――耐え難いものだ」

 

輝夜の声が、微かに揺れた。

五条の闇を知る者として、その種の痛みが、骨の髄まで理解できたからだろう。

 

「兄なら、そうしろ。妹が壊れかけているのに、礼儀正しく距離を取っている場合ではない」

 

杏寿郎は、しばらく黙っていた。

それから、深く頷いた。

 

「……分かった。ありがとう、輝夜」

 

「礼は不要だ」

 

輝夜は踵を返し、部屋を出た。

廊下に出て、数歩歩いてから、立ち止まった。

壁に手をついた。

 

「私は、何をやっているのだろうな。……ここでアリーゼを蹴落として、杏寿郎の女になる道もあったというのに」

 

「それができねーから、家を出て、ここまで来たんだろ」

 

横から、声が聞こえた。

振り向くと、ライラが壁に寄りかかって、腕を組んでいた。

 

「お前、口であれこれ言う割には、尽くす女だよな……。嫌いじゃないぜ、そういうの」

 

「うるさい。フィンの尻ばかり追いかけているお前に、言われたくない」

 

「アタシのは、そんなにピュアなもんじゃないからなー。大事にしろよ、その感情」

 

ライラの言葉には、万感の思いが籠っていた。

 

「ふん」

 

「まあ、酒なら付き合うぜ」

 

二人は静かに輝夜の部屋へと消えていった。

 

 

夜が更けていった。

屋敷は静まり返り、廊下には月明りだけが差し込んでいる。

アリーゼは、ベッドの上で膝を抱えたまま、輝夜の言葉を反芻していた。

 

――本当に、お前にとって、杏寿郎は唯の兄なのか?

 

考えまいとしても、その問いが碧い瞳の裏側にこびりついて離れなかった。

杏寿郎の笑顔が浮かぶ。大きな手。温かい胸。炎のような瞳。

抱きしめられたときの安心感。あの体温。あの匂い。

 

――それは、兄妹の情か? それとも――

 

そのとき、扉が叩かれた。

 

「アリーゼ。起きているか」

 

杏寿郎の声だった。

低く、温かい声。その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。

いつもとは違う跳ね方だった。

 

「……起きているわ」

 

掠れた声で答えると、扉が静かに開いた。

杏寿郎が入ってきた。

寝支度をした姿だった。上衣を脱ぎ、薄手の襦袢だけを纏っている。

ランプの灯りが消えた部屋の中で、月明りに照らされた杏寿郎の姿は、いつもよりも大きく見えた。

 

「少し、話をしないか」

 

杏寿郎は、ベッドの傍に膝をついた。

アリーゼと同じ目線になるように。

 

アリーゼは、膝を抱えたまま、杏寿郎を見た。

炎の瞳が、月光を受けて琥珀色に輝いている。

その瞳の中に、自分の顔が映っていた。

疲弊した、憔悴しきった、十五歳の少女の顔が。

 

「……お兄さま」

 

アリーゼの唇が、震えた。

抑えていたものが、杏寿郎の顔を見た瞬間に、決壊した。

 

「私は、リオン達の前では、虚勢でも間抜けでも、笑ってなきゃいけない。みんなに、迷いを抱かせてはいけない。副団長なんだから……もっと頑張らないといけないなのに……。でも、私……もう、分からないの」

 

涙が、碧い瞳から溢れた。

堰を切ったように、止めどなく。

 

「正義って……何なの。守るって……何なの」

 

声が震え、途切れ、嗚咽に変わった。

 

「あのおじさんは……私、信じてた。助けてよかったって……思ってた。なのに……最初から全部嘘で……芝居で……あの涙も、あの笑顔も、全部……」

 

言葉が、途切れ途切れに零れ落ちた。

 

「あの人が……女の子たちを売るための情報を集めてた。私がパンを買いに行ってる間にも、あの人は……誰かの娘を、誰かの姉を……攫わせるために……」

 

アリーゼの声が、悲鳴のように裏返った。

 

「私のせいよ……! 私が、通い続けたから……私が……私の正義が……誰かを地獄に送る手伝いをしていたの……!」

 

嗚咽が、言葉を呑み込んだ。

 

「それで……最後に……あの人は、私に言ったの。お前のそんな顔が見たかったって。最高に痛快だって……。私が笑えば笑うほど、あの人は嬉しかったの。私が絶望する顔を見るために……ずっと待ってたの……」

 

アリーゼは、膝に顔を埋めた。

肩が激しく震えていた。

押し殺そうとしても、嗚咽が胸の奥から込み上げてきて、止められなかった。

 

「もう……心が……ぼろぼろなの……どうしたらいいか……分からない……」

 

その瞬間、温もりが、アリーゼを包んだ。

杏寿郎の腕が、膝を抱えたままのアリーゼを、丸ごと抱きしめていた。

大きな腕だった。この腕に何度抱きしめられてきたか分からない。

けれども今夜の温もりは、これまでのどの時よりも深く、アリーゼの身体の芯まで沁みた。

 

杏寿郎は、アリーゼの赤い髪を撫でながら、静かに語り始めた。

 

「正義とは、報われるものではない」

 

声は、柔らかかった。

しかし、その柔らかさの奥に、無数の夜を耐えてきた者の重みがあった。

 

「特に、このような時代では、救えない命は多い。間に合わない夜は多い。救った者に裏切られることもある」

 

アリーゼの嗚咽が、杏寿郎の胸元を濡らしていた。

杏寿郎は、構わず続けた。

 

「だがな――あのパン屋の男が何人の女を売ろうとも、それはあの男の罪だ。お前の罪ではない。お前は信じただけだ。人を信じることは罪ではない。信じた者を裏切ることが罪なのだ」

 

アリーゼが、顔を上げた。

涙に濡れた碧い瞳が、杏寿郎を見上げていた。

 

「あの男は、お前の正義を嗤った。お前が絶望する顔を見て愉しんだ。だが――」

 

杏寿郎の炎の瞳が、月光の中で輝いた。

その瞳に、迷いはなかった。一片の曇りもなかった。

 

「そんなことは、どうでもいい」

 

アリーゼの碧い瞳が、見開かれた。

 

「どうでもいいんだよ、アリーゼ。他人が何を企んでいようと、どんな悪意を持っていようと、大事なのは、自分自身に恥じない生き方を貫けるかどうか――それだけだ。他人が善であるか悪であるかは、俺たちの正義の条件ではない。俺たちが正しくあろうとするかどうか。それだけが、俺たちに問われていることだ」

 

杏寿郎の手が、アリーゼの背中をゆっくりとさすった。

 

「あの男は、お前の顔を見て歪んだ愉悦を感じていた。だが、俺はこう思う。お前の笑顔に救われた者は、あの男の何百倍もいる。お前の笑顔で安心した子供がいる。お前の笑顔で勇気をもらった商人がいる。お前の笑顔で、もう一日頑張ろうと思えた仲間がいる」

 

杏寿郎の声が、ふっと柔らかくなった。

笑みが浮かんでいた。優しい笑みだった。

 

「それにな――。確かに、今回、俺たちは出遅れた。助けられなかった命があった。だが、その責任はお前ひとりが負うものではない。何より団長たる俺と、参謀のライラの責任が重い。その点は反省しているし、善後策をライラとも相談している。一人で背負いこむ必要はないんだ、アリーゼ」

 

杏寿郎はゆっくりとアリーゼの赤い髪を撫で続けた。

 

「一人の悪人がお前の笑顔を利用したからといって、お前の笑顔の価値が消えるわけではない。そもそも――俺自身が、お前の笑顔に何度も救われている」

 

アリーゼの心臓が、大きく脈打った。

 

「とはいえ」

 

杏寿郎の声が、再び柔らかくなった。

 

「辛いことも多いだろう。辛くて当然だ。お前は、たくさんの辛いものを見てきた。見なくてよいものまで見てきた。だから――」

 

杏寿郎の腕に、わずかに力がこもった。

 

「辛いときは、遠慮なく俺に抱きつけばいい。何度でもいい。泣いたっていい。休んだっていい。我々には我々の人生を楽しむ権利と、義務がある」

 

「……楽しむ義務?」

 

アリーゼが、涙声で聞き返した。

杏寿郎は、笑った。

 

「ああ、義務だ」

 

「お前は、死にそうな顔をしている正義の味方に助けられたいか?」

 

アリーゼは、一瞬、言葉を失った。

 

「助けられる側から見れば、助けに来た者が死にそうな顔をしていたら、不安になるだろう。安心できないだろう。他人を助けるなら、まずは自分を助ける必要がある。自分が幸せでなければ、誰かを幸せにすることはできない」

 

杏寿郎は、アリーゼの涙を指で拭った。

大きな指だった。荒れた指先が、アリーゼの頬に触れた。

不器用に――けれど、この上なく優しく。

 

「しょせん、我々は神ならぬ人間だ。おとぎ話の英雄ではない。ならば、できる範囲で、できることをやって、その結果、少しでも世界がましになれば――それはそれで立派なことだと、俺は思う」

 

アリーゼは、杏寿郎の手を見つめていた。

自分の頬に触れている、大きくて、温かい手だった。

この手が、涙を拭ってくれた。

そのことを意識したとき、心臓が、痛いほど脈打った。

 

「今日は、久しぶりに一緒に寝よう」

 

杏寿郎が言った。

何の含みもない、真っ直ぐな声だった。

 

「昔、アリーゼがまだファミリアに入りたての頃、よく一緒に寝ただろう。あの頃と同じだ。俺が隣にいれば、少しは安心できるだろう」

 

アリーゼは、頷いた。

声が出なかった。頷くのが精一杯だった。

そのまま、アリーゼは杏寿郎に抱きかかえられるようにして、ベッドに横たわった。

狭いベッドに、二人分の身体が収まった。

 

杏寿郎がアリーゼの肩を抱き、アリーゼが杏寿郎の胸に顔を埋めた。

毛布が二人を覆った。

 

アリーゼは、何日ぶりかに深く安心した。

杏寿郎の体温が、全身を包んでいた。

炎の呼吸を使う者の体温は常人より高い。

その熱が、凍えていたアリーゼの身体を、少しずつ溶かしていった。

杏寿郎の規則正しい呼吸音が、子守歌のように耳に届いた。

 

昔と同じだ。何も変わらない。

 

――そのはずだった。

 

それなのに、ふと杏寿郎の胸板の硬さを意識した。

薄い襦袢の下にある、筋肉の厚み。呼吸するたびに微かに上下する、鍛え上げられた胸の筋肉。

 

腕が、アリーゼの肩を抱いている。

男の腕だった。

 

杏寿郎の匂いが、鼻腔に届いた。

汗と炎の残り香。これまでも嗅ぎなれた匂いだった。

 

けれども今夜は、その匂いが、いつもとは違う場所に――胸の奥の、名前のない場所に――届いた。

 

心臓が、再び速くなった。

頬が熱くなった。

 

――輝夜に、あてられたのかもしれない。

 

アリーゼは、そう思った。

あの女の言葉のせいで、意識してしまっている。

杏寿郎は兄だ。大好きな、大切な、兄のような存在だ。

そのはずなのに――。

 

――女が男に向ける、情念か。

 

輝夜の声が、暗闇の中で蘇った。

 

アリーゼは、目を閉じた。

今は、このどちらとも分からない感情に、名前をつけたくなかった。

兄妹の愛情なのか、それとも、もっと別の何かなのか。

今は分からなくていい。分からないまま、この温もりを感じていたい。

 

アリーゼはゆっくりと瞼を閉じた。

何日ぶりかの、穏やかな眠りが訪れた。

悪夢は、見なかった。

 

 

 

朝の光が、窓から差し込んだ。

柔らかな、澄んだ光だった。

 

アリーゼは、目を開けた。

最初に見えたのは、杏寿郎の寝顔だった。

普段の朗らかな笑みはなく、ただ穏やかな、無防備な顔だった。

睫毛が長い、とアリーゼは思った。今まで気づかなかった。

 

身体がすっきりと軽かった。

何日ぶりだろう。この軽さは。

悪夢に蝕まれず、泣き疲れて意識を失うのでもなく、自然に眠り、自然に目覚めた。

それだけのことが、こんなにも身体を楽にするのだと、アリーゼは改めて知った。

 

そっと身を起こすと、杏寿郎が目を開けた。

炎の瞳が、朝の光を受けて、琥珀に透けた。

 

「おはよう、アリーゼ」

 

朝一番の声が、低く、少しだけ掠れていた。

寝起きの声だった。

その声を聞いた瞬間、胸の奥が、きゅっと締まった。

 

「……おはよう、お兄様」

 

アリーゼは笑った。

久しぶりの自然な笑顔だった。

 

「よく眠れたか?」

 

「うん……久しぶりに、よく眠れたよ」

 

アリーゼは頷いた。

碧い瞳に、微かに光が戻っていた。

本調子とは程遠いかもしれない。

それでも――。

昨夜のような事態を少しでも減らすために、前を向こう。

杏寿郎に包まれて安らかに眠ったことで、一歩、踏み出すことができそうだった。

 

 

朝食の席に、二人は揃って現れた。

アリーゼの表情が変わっていることに、真っ先に気づいたのはライラだった。

栗色の瞳が、ちらりとアリーゼを見て、次に杏寿郎を見て、最後に輝夜を見た。

 

輝夜は涼しい顔で味噌汁を啜っていた。視線すら向けなかった。

しかし、その口元が、ごく僅かに緩んでいたことに、ライラだけが気づいていた。

 

リューが、嬉しそうに声をかけた。

 

「アリーゼ。顔色が良くなりましたね」

 

「リオン……うん、いろいろあったけれど、もう大丈夫よ!」

 

アリーゼは笑顔で答えた。

リューは安堵したように頷き、しかし何を言えばいいか分からず、黙ってスープを飲んだ。その不器用さが、逆にアリーゼの口元を緩ませた。

 

 

 

それからも、闇派閥との戦いは続いた。

暗黒期の闇は依然として深く、強制捜査のたびに、目を覆いたくなるような光景に出くわした。

 

しかし、アリーゼは立っていた。

心はいつも傷だらけだった。碧い瞳の奥には、消えない痛みがあった。

それでも、杏寿郎の胸に抱かれながら眠れば、朝には気力を取り戻していた。

 

同時に、緩やかに、アリーゼの杏寿郎に対する態度に、変化の兆しが生まれていた。

以前のアリーゼは、辛いことがあると、子供のように杏寿郎に抱きついていた。

頭を胸に押しつけて、ぎゅっとしがみついて、兄の体温に安心する。そういう、幼い妹のスキンシップだった。

 

それが、少しずつ変わった。

以前は、杏寿郎の上衣をぎゅっと掴むだけだった。

 

今は――。

杏寿郎の背中に回した手が、そのまま背中をゆっくりと、愛しむように撫でていた。

鍛え上げられた背筋を、指先でなぞるように。

広い背中の温もりを、しっかりと掌で確かめるように。

 

自分の手つきに気づいたとき、アリーゼは自分の手を見つめた。

杏寿郎の背中から離したばかりの、まだ熱を帯びた手を。

頬が、耳の先まで赤くなった。

 

――私、何をしていたの。

 

心臓が、痛いほどに跳ねていた。

杏寿郎は、気づいていないようだった。

あるいは、気づいていても、妹の甘えだと思っているのかもしれない。

その鈍さが、今のアリーゼには、ありがたくもあり、もどかしくもあった。

 

なぜ、もどかしいかといえば――。

 

――いや。

 

アリーゼは、頭を振った。

碧い瞳を閉じ、大きく息を吐いた。

まだ、その感情に名前をつけるのが怖かった。

名前をつけてしまえば、もう兄妹には戻れない。

今の曖昧な温もりが壊れてしまうかもしれない。

 

――でも。

 

胸の奥で、炎が揺れていた。

杏寿郎の炎ではない。

アリーゼ自身に新しく灯った、小さな炎だった。

その正体が何であるのか、アリーゼには、もう分かりかけていた。




煉獄さんが主人公なのに、あまりに超然としすぎていて、心の迷いや恋愛シーンを描けないという難しさ。
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