ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか   作:kursk

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正義の雄飛

傷つきながらも、アストレア・ファミリアの躍進は止まらなかった。 

巡回の合間を縫って、ギルドの強制任務を果たすために、ダンジョン探索を続けていた結果、ファミリア全体の戦力は、もはや中堅の域を完全に超えていた。

 

その原動力は、杏寿郎のスキルだったが、ファミリアのメンバーの努力と才能も際立っていた。神アストレアの眷属を見る目は確かだった。

結果として、団員のステイタスは上昇を続け、本拠は相次ぐランクアップに沸いた。

 

ライラの『偉業』量産計画に基づいて、ノイン、ネーゼ、リャーナをはじめとする団員たちが次々とレベル3に達し、リューも恐るべき勢いでランクアップ目前に迫った。

 

アリーゼと輝夜も、レベル3のステイタス上限に到達しようとしていた。

 

そして、杏寿郎自身――レベル4に到達してから僅か半年で、基本アビリティの大半がSに迫っていた。

全集中の呼吸・常中による身体強化と、ダンジョン下層での実戦が、尋常ではない速度でステイタスを押し上げていた。

 

ライラは、杏寿郎のランクアップが近づいているのを察知すると、一計を案じた。

 

「杏寿郎には、二十七階層でアンフィスバエナを、ほぼ一対一で倒してもらいてえ」

 

ある日の夕食のあと、彼女は食堂で切り出した。

 

沈黙が落ちた。

蝋燭の炎が、微かに揺れた。

杏寿郎は、ライラの目を見つめ返した。

 

「アンフィスバエナは水中にいる階層主だ。さすがに水中戦は分が悪い。勝算はあるのか、ライラ」

 

「ある。でなきゃ提案しねえぜ」

 

ライラは走り書きのような地図を広げ、団員を模した小さな駒を並べ始めた。

 

「まず前提を整理しとく。アンフィスバエナの強さは、巨体を使った物理攻撃と、二つのブレスだ。前者は分かりやすいんだが、ブレスには癖がある。炎のブレスは消えずに燃え続ける」

 

「炎が消えないの?」

 

アリーゼが目をしばたかせた。

 

「ああ、そうだ。水面でも燃え続ける。もう一つの魔法減衰のブレスは、魔法による攻撃や強化の威力を大幅に小さくさせるミストだ。この二つの攻撃を同時に使い分けることで、相手に遠距離からの砲撃をさせずに、接近戦や水中戦を強いる。これが奴の強みってことだ」

 

「それは面倒だな」

 

輝夜が眉をひそめた。

 

「けどな――」とライラは指を一本立てた。

 

「杏寿郎には、二つの有利な条件がある。一つ目の炎のブレスだが、おそらく杏寿郎の炎の呼吸でかなりの程度、相殺できる」

 

「なるほど、さすがはお兄様! というか、それなら私でもできそうね。つまり、さすがは私、フフン!」

 

アリーゼが薄い胸を張った。

 

「だなー。まあ、続けるぞー」

 

いつものことなので、ライラは適当にあしらった。

 

「二つ目の魔法減衰ブレスだが、たしかに炎の呼吸も分類上は魔法なので、減衰効果を受ける」

 

「ダメじゃない!」

 

まったくダメだと思っていないような快活な声。

 

「そうでもねえ。減衰効果は、たぶん距離に比例する。遠距離からの砲撃だと、ミストの粒子が舞っている空間を突破するうちに影響を受けて消える。けど、至近距離から魔法を叩きこむ分には、減衰幅はたかが知れているハズだ。しかも、仮に魔法が消えたとしても、杏寿郎には、呼吸で強化された斬撃がある」

 

輝夜が、目を細めた。

 

「……なるほど。杏寿郎の戦闘スタイルそのものが、アンフィスバエナに対する天敵に近いということか」

 

「その通り。ただし――」

 

ライラの声が、低くなった。

 

「ステイタスの差は埋めがたい。Lv. 4とLv. 5の間には、絶対的な壁がある。純粋な数値で、杏寿郎は劣る。だからこそ、スキルを最大限に活かす」

 

ライラの駒が、地図上で杏寿郎を示す赤い駒の周囲に、小さな駒を配置していった。

 

「おめーらも知ってるように、杏寿郎のスキルは、守るべき仲間が近くにいるとき、全アビリティに補正がかかる。今回、杏寿郎はほぼ一対一でアンフィスバエナと戦う。だが、『ほぼ』だ。完全な一対一ではない」

 

「つまり、美しい私たちが近くで応援するってことね!!」

 

アリーゼが叫んだ。

ライラは、にやりと笑った。

 

「その通り。杏寿郎がアンフィスバエナと戦っている間、団員は少し離れた位置で待機する。戦闘には直接参加しない。だが、杏寿郎のスキルの効果範囲内にいる」

 

「守るべき仲間が背後にいる状態で戦う――」

 

輝夜が呟いた。

 

「杏寿郎にとっては、最も力を発揮できる状況だ」

 

「そうだ。もちろん、状況次第では、マリューの回復支援もできるし、リャーナの砲撃でヤツの魔法力や魔法耐性を下げてもよい。だから、実質的に一対一だが、完全にそうではない。これが作戦の肝だ」

 

アリーゼの碧い瞳が、ライラと杏寿郎を交互に見つめていた。

不安はあった。Lv. 5の階層主を、事実上一人で倒すなど――。

しかし同時に、ライラの作戦は妥当だった。何より、杏寿郎の炎の瞳には、微塵の迷いもなかった。

 

「ただし、戦場の準備が要る。アンフィスバエナは通常、二十七階層の大瀑布の中央を周回している。広大な水辺で戦うのは不利だ。足場が悪いし、遠距離からブレスを撃たれる。だから――」

 

ライラは地図の一角を指した。

大瀑布の裏側――滝壺の背後に広がる岩窟の空間。

 

「ここに、アンフィスバエナを誘引する。滝の裏側まで引きずり込めば、空間が限定される。遠距離からのブレスを防ぎやすくなるし、巨体が不利に働く。杏寿郎が得意とする至近距離の斬り合いに持ち込める」

 

「誘引する方法は?」

 

杏寿郎が聞いた。

 

「リャーナ、セルティ、リューの三人の魔法で釣る。遠距離からの魔法攻撃でアンフィスバエナの注意を引き、滝裏の空間まで誘導する。魔法が当たらなくても構わねー。ダメージを与えることが目的じゃなく、あくまで誘引だ。ついでに、リャーナの魔法でヤツの魔法耐性を下げられれば万々歳って寸法さ」

 

ライラはそこまで一気に説明すると、息を吐いた。

 

杏寿郎は、説明を聞くと、立ち上がった。

居間の全員に、視線を向けた。

炎の瞳が、一人一人の顔を照らすように見つめた。

 

「――やろう」

 

その声には、煌々たる炎が宿っていた。

 

「俺は、皆を守るために、さらに強くならなければならない。ランクアップは、そのための通過点だ。アンフィスバエナを討つ――必ずだ!」

 

「……お兄様!」

 

アリーゼが立ち上がった。碧い瞳に光が戻っていた。

不安はある。けれど、この人の決意に、異を唱えるつもりはなかった。

 

「私も行くわ! 何かあったら任せて!」

 

「アリーゼ」

 

杏寿郎が笑った。太陽のように。

 

「ありがとう。頼りにしている」

 

「私も行くに決まっている」

 

輝夜が立ち上がった。腕を組んだまま、しかし口元には薄い笑みが浮かんでいた。

 

「団長の晴れ舞台を、見届けないわけにはいかないだろう」

 

「団長。私も、必ずお役に立ちます」

 

リューが、真っ直ぐな声で言った。

空色の瞳に、生真面目な決意が灯っている。

 

「おう。頼むぞ、リオン」

 

ライラは、腕を組んで団員を見渡した。

 

「出発は三日後。準備期間は十分に取る。下層への遠征だ、装備と物資の確認を怠るなよ」

 

 

 

 

三日後。

アストレア・ファミリアは、総勢でダンジョンへと降りた。

二十七階層は、巨大な大瀑布の水が流れ落ちる最下層。

 

天井は遥か高みにあり、蒼白い光を放つ結晶が、星のように散りばめられている。

空間の中央を、圧倒的な水量の瀑布が貫いていた。

水飛沫が霧となって空間全体に漂い、肌を濡らした。

滝壺は巨大な湖のように広がり、そのほとりの岩場に立つと、水の轟音が鼓膜を揺さぶった。

 

そして、滝の中ほど――水煙の奥に、影が見えた。

 

二つの長い頸が、ゆったりと蠢いている。

鱗は白い光沢を放ち、長い頸の背びれは、それぞれ赤銅色と蒼灰色に覆われていた。

アンフィスバエナ――二十七階層を中心に巨蒼の滝を遊弋する恐るべき巨竜だった。

 

 

ネーゼの耳が、本能的に伏せられた。

イスカの肌に鳥肌が走った。

ノインが、無意識に剣の柄を握り締めた。

 

レベル3になったばかりの彼女たちにとって、目の前の存在はあまりにも巨大で、あまりにも圧倒的だった。

 

「落ち着け」

 

杏寿郎の声が、静かに響いた。

振り返った炎の瞳が、全員を見渡した。

穏やかで、力強い光を湛えた瞳だった。

 

その瞳を見た瞬間、団員たちの呼吸が自然と落ち着いた。

恐怖が消えたわけではない。ただ、この人がいるなら大丈夫だと、身体の芯が信じたのだ。

 

「作戦通りだ。リャーナ、セルティ、リュー。頼む」

 

三人が、前に出た。

リャーナが亜麻色の髪を風になびかせ、杖を構えた。

セルティが眼鏡の奥の瞳を鋭くし、杖を掲げた。

リューが木刀を携えたまま、軽やかに岩場を駆け、射線の通る位置へ移動した。

 

「距離を保て。魔法減衰ブレスの射程に入るな。当てなくていい、奴の気を引けばいい」

 

ライラの指示が飛んだ。

 

リャーナが、最初に詠唱を完成させた。

冷静な声が、瀑布の轟音の中でも明瞭に響いた。

 

「穿て――【イリヴュード】!」

 

魔炎の槍が、アンフィスバエナの胴体目がけて放たれた。

二十七階層の水煙を裂いて飛翔した魔炎は、アンフィスバエナの鱗に命中し――炎痕を残した。

 

二つの首が、同時にリャーナの方を向いた。

赤銅色の首が、威嚇するように咆哮を上げた。

 

続けて、セルティの炎雷魔法が炸裂した。

炎雷弾が、アンフィスバエナの青灰色の首にあたって、小規模な爆発を起こした。

 

今度は灰白色の首が反応した。大顎が開き、炎のブレスが放たれた。

粘性を帯びて、水上でも消えることのない炎――。

 

しかし、セルティとリャーナは十分な距離を取っていた。ブレスは途中で通路や水面を燃やすにとどまり、二人には届かなかった。

 

「おー、怒ってる、怒ってる。こっちに来んぞー」

 

ライラが確認した。

 

アンフィスバエナが、ゆっくりと動き始めた。

巨体が水面を割り、波が岩壁にぶつかって飛沫を上げた。

 

リューが動いた。

岩場を疾風のように駆け、アンフィスバエナの側面に回り込む。

 

「【ルミノス・ウィンド】!」

 

緑の光をまとった風魔法が、アンフィスバエナの横腹を連続して叩いた。

ダメージはほとんどないが、注意を引くには十分だった。

 

アンフィスバエナの赤銅色の首が、リューに向かってミストを吐いた。

しかし、エルフの敏捷性と、杏寿郎仕込みの足運びのおかげで、リューは早くも圏外へと逃れていた。

 

三人の連携による誘導は、見事に機能した。

リャーナとセルティが遠方から注意を引き、リューが側面から挑発する。

アンフィスバエナは、魔法の発射源を追って、滝の裏側へと移動していった。

 

滝裏の大広間――それは、巨体のアンフィスバエナにとっては窮屈な空間だった。

本領を発揮できる水中ではなく、動きにくい陸地。それも、縦横無人に暴れるには、やや狭かった。

とくに、二つの首の動きが制限され、ブレスの射角が限定される。

 

「誘引完了。杏寿郎、行け」

 

ライラの声が響いた。

 

杏寿郎は、刀を抜いた。

刀身が、炎の呼吸によって赤々と輝いた。

水飛沫を浴びた鋼の表面に、陽炎のように炎が揺れた。

 

後ろを振り返ると、岩壁の影に、団員たちがいた。

十一人の二十二の瞳が、信頼の念を込めて杏寿郎を見つめていた。

皆、杏寿郎の【守護炎心】の効果範囲にいる。

杏寿郎が守るべき、大切な仲間たちだ。

 

――身体の奥底から、灼熱が湧き上がった。

 

彼らは守るべき者だ。

自分が倒れれば、仲間が危機に晒される。

だから、倒れるわけにはいかない。

 

だが、それだけではない――。

彼らは共に戦場を駆ける仲間であり、神アストレアの掲げる正義に惹かれた同志だった。

 

――自分のためにも、母との誓いのためにも、そして何より彼女たちのためにも、負けるわけにはいかない。

 

その思いが、杏寿郎の力を根底から押し上げた。

すべてのアビリティが、Lv. 4の上限を遥かに超えて跳ね上がった。

さらに【全集中】の呼吸が、全身の細胞を活性化させた。

杏寿郎は、岩窟の中へと踏み込んだ。

 

 

アンフィスバエナの四つの瞳が、杏寿郎を捉えた。

 

赤銅色の首と、青灰色の首。

二つの巨大な竜の頭部が、同時に一人の人間を見下ろした。

 

さきほどから、羽虫のように付きまとって魔法を打ってきた小癪な人間の仲間だった。

 

すでに怒り狂っていた蒼灰色の首が、真っ先に動いた。

大顎が開き、粘り気のある蒼炎を一気に吐き出した。

 

岩窟の空間を、青い高熱が塗りつぶした。

ブルーナパーム――常人なら、骨まで焼かれる灼熱だ。

 

杏寿郎は、その熱を真正面から受けた。

 

――消えない炎であろうと、それ以上の熱で焼き切れば、脅威にはならない。

 

肆ノ型――【盛炎のうねり】

 

炎の呼吸の使い手は、もともと炎に対する耐性が強い。

そこに、ブレスに合わせて、炎の壁を作り、ナパームを上回る灼熱で炎風のブレスを焼き切る。

炎の呼吸を極めた者にとって、炎は敵ではなかった。

 

杏寿郎は、炎のブレスの中を、前に出た。

アンフィスバエナの蒼灰色の首が、一瞬、動きを止めた。

炎を吐いたのに、相手が倒れないどころか、前進してきた。

そのことに、階層主の本能が、困惑したのだ。

 

その隙を、杏寿郎は見逃さなかった。

 

伍ノ型――【炎虎】。

下方から斬り上げる一閃が、胴体からうねるように揺れ続ける蒼灰色の首の喉元を深く抉り焼いた。

 

体液が噴出し、アンフィスバエナが絶叫した。

その音で岩窟が震え、天井から礫が降り注いだ。

 

それでも、アンフィスバエナは倒れなかった。

 

赤銅色の首が、即座に反撃した。

大顎が開き、赤濁した息――魔法を減衰させるミストが放たれた。

 

杏寿郎は、避けずに突っ込んだ。

そのまま、絶叫を上げ続ける蒼灰色の首に向かって飛び上がり――。

 

弐ノ型――【昇り炎天】。

喉を抉られた激痛のあまり、ブレスすら吐けずに暴れる蒼灰色の首を、下から勢いをつけて、一気に焼き切った。

 

残る赤銅食の首が、もだえ苦しんだ。

巨体が暴れ、岩壁を砕く。尾が振り回され、岩窟の空間が揺れた。

 

杏寿郎は、跳んだ。

巨大な尾を飛び越え、着地と同時に体勢を整えた。

全集中の呼吸が、肺腑を満たしている。心臓が力強く鼓動し、全身に炎が行き渡っている。

 

疲労はあった。二つの首を相手にし続ける消耗は、決して軽くはなかった。

 

だが――。

背後に、仲間がいる。

振り返らずとも、感じ取れた。

 

アリーゼと輝夜の信頼に満ちた眼差し。リューの英雄を仰ぐかのような真剣な瞳。マリューの暖かな気配。ライラの冷静な視線。リャーナとセルティの詠唱待機の緊張感。ネーゼとノインの静かな呼吸。イスカの拳を握る音。盾を構えて飛び出す準備をするアスタの姿勢。

 

十一人が、杏寿郎を信じて待っていた。

 

 

スキルに煽られて、炎がさらに燃え盛った。

限界を超えた力が、全身に滾った。

 

「はあぁぁぁっ!!」

 

咆哮が、岩窟に轟いた。

赤銅色の首がめちゃくちゃに魔法減衰のブレスを吐き、巨体をミストで覆い隠そうとする。

 

杏寿郎は、それを意にも介さずに、ミストのなかを突進した。

 

奥義――玖ノ型【煉獄】。

杏寿郎の刀が、渦を巻く炎龍を纏う。

炎は魔法減衰の効果で、見る間に縮んでいった。

しかし、そんなことは問題ではなかった。

もともと、呼吸法とは、身体能力を著しく向上させることが最大の目的。

炎や水や風のエフェクトは付随効果にすぎなかった。

 

たとえ炎が消されても、勢いを乗せた一撃で抉り切る――。

螺旋状の斬撃が、赤銅色の首の付け根を穿った。

紫色の鮮血が噴出し、赤銅色の首が――痙攣した。

 

杏寿郎は、そのまま飛び上がり、最後の一撃を放った。

 

参ノ型――【気炎万丈】。

 

灼熱の斬撃が、ミストの及ばない上空から、一気に赤銅の首を断った。

 

アンフィスバエナの巨体が、痙攣した。

 

二つの首を失った胴体が、最後の抵抗を見せるように暴れ、水晶が飛び散るような音とともに、白い霧となった。

瀑布の水音だけが、遠くから聞こえていた。

 

 

杏寿郎は、刀を鞘に納め、真っ直ぐに立ったまま、深く息を吐いた。

 

全身が蒸気を上げていた。

炎のブレスを受けた箇所は赤く腫れ、衣服はところどころ焦げて穴が空いていた。

だが、両足はしっかりと地面を踏みしめていた。

 

自然と、太陽のような笑みが、浮かんだ。

振り返ると、固まったままの二十二の瞳が、杏寿郎を見つめていた。

 

「――終わったぞ」

 

一瞬の沈黙ののち、歓声が爆発した。

アリーゼが真っ先に駆け寄った。

碧い瞳から涙が溢れていた。歓喜と安堵と誇らしさと、言葉にならない感情が入り混じった涙だった。

 

「お兄様ぁっ……!!」

 

杏寿郎の胸に飛び込んだ。

杏寿郎は、アリーゼの赤い髪をぽんと撫でた。

 

「約束しただろう。必ずやり遂げると」

 

「すごかった! 本当にすごかった! お兄様、大好き!!」

 

アリーゼは、杏寿郎の焦げた上衣に顔を埋めた。

 

輝夜は、少し離れた場所に立ったまま、腕を組んでいた。

口元に薄い笑みを浮かべていたが、その切れ長の瞳が微かに潤んでいたことに、ライラだけが気づいた。

 

「……見事だ、杏寿郎」

 

ぽつりと呟いた。

 

リューは、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

目の前で繰り広げられた戦いは、これまでの自分の常識を遥かに超えていた。

20Mはある巨大階層主と一対一で渡り合い、真正面からブレスを受け止め、二つの首を次々と斬り落とす。

 

これが、自分の団長なのだと――リューは改めて、打ち震えるような思いで杏寿郎の背中を見つめた。

 

「【レア・ヴィンデミア】」

 

マリューが駆け寄り、回復魔法を唱えた。

温かな光が、杏寿郎の火傷と打撲を一気に癒していった。

 

「団長、お疲れさまです。少し休んでくださいね」

 

「ありがとう、マリュー。しかし、これくらいは大したことはない」

 

「大したことあります!」

 

マリューが、珍しく声を荒らげた。

 

「全身火傷と小さな傷だらけだったじゃないですか……」

 

杏寿郎は、申し訳なさそうに笑った。

マリューはファミリア最年長ということもあり、いつもは全員の姉として優しく振る舞っていたが、治癒師として仕事をしているときは、厳しかった。

 

「マリューはお兄様にも厳しいわね。愛の叱責という感じがして、嫌いじゃないわ! バチコーン☆!」

 

アリーゼが、抱擁を解いて、笑った。

 

「お、アンフィスバエナの肝があるぜー。これは本拠の借金を返す足しになりそーだ」

 

ただ一人、杏寿郎を囲む輪に加わらなかったライラが、ドロップアイテムを探しながら叫んだ。

いつも通りのライラの声に、ファミリアの全員が笑い声をあげた。

 

 

遠征から帰還すると、バベルの周辺はすでに暗くなっていた。

全員で、いつまでたっても新妻のように初々しいアストレアの歓待を楽しんだあと――杏寿郎は主神の部屋を訪れた。

ステイタスの更新のためだった。

 

「失礼します、アストレア様」

 

「入って」

 

アストレアの声は、穏やかだった。

 

「お願いします!」

 

杏寿郎は寝台の端に腰を下ろし、上衣を脱いだ。

鍛え上げられた上半身が露わになった。

マリューの回復魔法でほぼ完治していたが、まだ薄い火傷の跡が、肩から胸にかけて残っていた。

それは、アンフィスバエナの炎を正面から受けた証だった。

 

アストレアの指先が、微かに震えた。

 

「……傷だらけね」

 

「はい。ですが、すぐに治るでしょう!」

 

杏寿郎は、真っ直ぐに前を向いたまま言った。

 

アストレアは、杏寿郎の背中に指を触れ、神血を一滴、垂らした。

背中に刻まれた神文字が、蒼白く浮かび上がった。

アストレアの口元に、緩やかな笑みが浮かんだ。

 

「杏寿郎――」

 

喜びと、言いようのない感情が混じった声だった。

 

「ランクアップが成立したわ。Lv. 5よ、杏寿郎。あなたは、第一級冒険者になったの」

 

「――ありがとうございます」

 

杏寿郎の声は、静かだった。

Lv. 4へのランクアップのときと同じように、自分のための喜びよりも、これでさらに仲間を守れるという安堵の方が勝っていた。

 

アストレアは、ステイタスを紙に写し取った。

紙を机に置いたアストレアは、杏寿郎の背中を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 

火傷の跡。

古い傷痕の上に新しい傷が重なり、鍛え抜かれた筋肉の上を走っている。

一つ一つの傷が、杏寿郎が仲間のために身を挺してきた証だった。

 

「杏寿郎」

 

「はい」

 

「お願いだから――無茶はしないでね」

 

その声に、杏寿郎は振り返ろうとした。

その前に、アストレアの腕が、背後から杏寿郎の胸に回された。

上半身裸の杏寿郎の背中に、アストレアの額が、そっと触れた。

 

温かい肌と、ひんやりとした神の額。

鍛え抜かれた背筋に、胡桃色の長い髪が流れ落ちた。

 

「あなたがアンフィスバエナと戦っている間――私は、祈ることしかできなかった」

 

アストレアの声が、杏寿郎の背中越しに、直接肌に伝わった。

 

「あなたは、私が下界に降りて出会った中で、最も私の想いに近い子よ。あなたほど、私のために尽くしてくれる子は、他にいないわ」

 

声には、歓喜と同時に不安が滲んでいた。

 

「だからこそ、少し怖いの。あなたは、正しいことをするためなら、自分を省みないわ。仲間のためなら、命を賭ける。それは、あなたの尊い美徳だけれど――」

 

アストレアの腕に、力がこもった。

背中から、杏寿郎を包み込むように。

しなやかな腕が、鍛え抜かれた肉体を、愛しむように抱きしめていた。

 

「あなたが傷つくたびに、私の心も傷つくの。あなたが無事に帰ってきたとき、この胸がどれほど安堵するか、あなたは知らないでしょうね」

 

「アストレア様……」

 

杏寿郎の声が、僅かに揺れた。

普段は揺るがない声が、主神の温もりに触れて、人間らしく揺れた。

 

「だから、約束してね。どうか、何があっても生きて帰ってきて。どんなときも。これからも、ずっと」

 

正義の女神が、たった一人の男のために捧げる、神として最も人間に近い祈りだった。

杏寿郎は、背中に触れるアストレアの腕にそっと手を添えた。

大きな手が、女神の細い腕を、優しく包んだ。

 

「約束します。俺は必ず、アストレア様の元に帰ります。いつも、必ず」

 

背中に触れたアストレアの額が、微かに震えた。

しばらくの間、二人は動かなかった。

瀑布の轟音も、闇派閥の脅威も、この部屋には届かなかった。

ただ、正義の女神と炎の眷属がいた。

 

言葉にしない想いが、背中と腕の温もりを通して、静かに伝わっていた。

 

 

二人が食堂に戻ると、ファミリア全員がまだ座っていた。

団員が振り向くなか、杏寿郎は皆に告げた。

 

「無事にランクアップできた。これも、全員の協力のおかげだ。ありがとう!」

 

食堂が、一瞬で沸騰した。

 

「お兄様!!! やったわぁぁぁぁ!!!」

 

アリーゼが椅子から跳び上がって、杏寿郎に抱きついた。

碧い瞳がきらきらと輝いていた。

あのアンフィスバエナとの死闘を目の当たりにした後だからこそ、喜びもひとしおだった。

 

「さすがはお兄様! Lv. 5、第一級冒険者! もうオラリオ全体でも屈指の実力者よ!!」

 

「ありがとう、アリーゼ!」

 

「私も、もっともっと頑張る! 早くLv. 4にランクアップして、お兄様に追いつくわ!」

 

アリーゼの碧い瞳は、真っ直ぐな決意に燃えていた。

兄への憧れ――そして、もう一つの名前のつかない感情が、アリーゼの背中を押していた。

 

輝夜は、茶碗を置いて、杏寿郎を見つめた。

切れ長の瞳に、複雑な光が揺れていた。

歓喜と、焦燥と、そして――。

 

「見事だ、杏寿郎。本当にめでたい」

 

「ありがとう、輝夜」

 

「私も、いつまでも置いていかれるわけにはいかないな――。ライラ」

 

「ん?」

 

「私とアリーゼのランクアップだ。もうステイタスは十分だろう。次の『偉業』を達成するための作戦を立てろ」

 

輝夜の声には、有無を言わせぬ迫力があった。

杏寿郎に追いつきたい。いや、追いつくだけでは足りない。隣に並んで、共に前を歩きたい。

その思いが、輝夜の瞳の奥で激しく燃えていた。

 

ライラは、にやりと笑った。

実のところ、すでに次の一手は用意していた。

 

「話が早いね。ちょうど、あたしも考えていたところだ」

 

ライラは、立ち上がった。

 

「アリーゼと輝夜は、団長のときと同じく、ゴライアスの単独討伐でLv. 4にランクアップできるぜ」

 

アリーゼの碧い瞳が、見開かれた。

 

「私たちも、お兄様と同じく、ゴライアスを一人で?」

 

「ああ、二人ともスキルもステイタスも十分に育っている。ゴライアスの単独討伐は十分に射程圏内だと思うぜー」

 

ライラは、全員を見渡した。

 

「ランクアップの対象は、アリーゼと輝夜だけじゃない」

 

ライラの視線が、リューに向いた。

 

「リオン、お前の成長速度は、杏寿郎に近い。Lv. 3へのランクアップも、そう遠くないと思うぜ」

 

リューは、目を瞬かせた。

自分が、杏寿郎並みの速度で成長しているなど、考えたこともなかった。

ただ、毎日必死に訓練し、杏寿郎の背中を追いかけていただけだった。

 

「まだ私には早いのでは……」

 

「データは嘘をつかねーぜ。お前は謙虚すぎんだよ、リオン」

 

ライラが、肩を竦めた。

 

「よし。次はアリーゼ、輝夜、リューのランクアップだ。今度は、俺がお前たちを全力で支える。仲間が強くなることが、俺の喜びだ」

 

「「「はい!」」」

 

元気な声が、食堂に響いた。

 

 

それから一か月の間に、アストレア・ファミリアは飛躍的に成長した。

 

最初に動いたのは、アリーゼだった。

リヴィラの街でゴライアスの討伐権を購入し、十七階層に降りた。

 

杏寿郎と団員たちは、ゴライアスの出現地点から少し離れた場所に待機した。アンフィスバエナのときと同じ布陣だった。杏寿郎のスキルの加算効果が、Lv. 5の恩恵でアリーゼのステイタスを大幅に底上げしていた。

 

ゴライアスとの戦いは、壮絶だった。

灰褐色の巨人が、拳を振り下ろすたびに、地面が砕けた。

 

しかし、アリーゼはかつての杏寿郎と同じように、階層主の猛攻を捌き続けた。

碧い瞳に迷いはなかった。

 

最後の一撃は、ゴライアスの胸元への全力の突進だった。

 

「【アルヴェリア】!!!」

 

炎を纏った剣が巨人の心臓を貫いて吹き飛ばしたとき、アリーゼは歓喜の涙を流した。

 

「お兄様……私、やったよ!」

 

――【紅の正花】、Lv. 4。ランクアップ。

 

 

二週間後、ゴライアスがリポップした。

今度は、輝夜の番だった。

輝夜のゴライアス討伐は、アリーゼとはまったく異なる展開を見せた。

初手から、居合の一閃でゴライアスの右腕を斬り落とした。

 

五条の暗殺剣は、斬り裂くことに特化している。華麗さはないが、斬ったものは確実に断てる。

 

片腕を失ったゴライアスが怒りに任せて突進してきたところを、冷静に見切り、三度の斬撃で両膝の腱を断った。

 

 

「禍つ彼岸の花――【五光】」

 

崩れ落ちたゴライアスの頭上に跳躍し、同時に放たれた五つの赤い閃光で首を両断した。

 

所要時間は、アリーゼの半分以下だった。

ゴライアスの巨体が崩れ去るのを見下ろしながら、輝夜は刀を鞘に納めた。

杏寿郎に向かって、薄い笑みを浮かべた。

 

「これで、少しは追いついた」

 

――【大和竜胆】、Lv. 4。ランクアップ。

 

そして、【疾風】。

リュー・リオンのLv. 3へのランクアップは、ファミリア内でも特に衝撃を与えた。

 

恩恵を受けてから、わずか一年と数か月。

杏寿郎の最速記録に並ぶランクアップ速度だった。

 

『偉業』は、中層で遭遇した想定外の強敵――レアモンスターとの戦闘だった。

杏寿郎との厳しい訓練で鍛え抜かれたリューは、生真面目なエルフとしての矜持と、仲間を守りたいという一途な思いを力に変え、格上の敵を圧倒した。

 

「リュー」

 

ステイタスを更新したアストレアが、温かく微笑んだ。

 

「Lv. 3よ。あなたの成長は、本当にすごいわ」

 

リューは、目を伏せた。

耳の先が、赤くなっていた。

 

「……団長のおかげです。私一人の力では、ありません」

 

「そうね。でも、杏寿郎の力を受け止め、それを自分の成長に変えられるのは、あなた自身の才能と努力よ」

 

リューは、アストレアの言葉を噛みしめるように頷いた。

――まだまだだ。まだまだ、あの背中は遠い。

 

だが、確実に、一歩ずつ、前に進んでいる。

杏寿郎の背中が、少しだけ近くなった気がした。

 

 

こうして、アストレア・ファミリアの戦力は、一か月で激変した。

 

杏寿郎がLv. 5。

アリーゼと輝夜がLv. 4。

リューがLv. 3。

他の団員も、軒並みLv. 3に到達していたため、ライラも含めて、Lv. 2以下の団員はいなくなった。

 

団員わずか十二名の小規模ファミリアが、Lv. 5を頂点にLv. 3以上で固められた精鋭集団に変貌したのである。

 

単純なレベル合計値では、ロキ・ファミリアやフレイヤ・ファミリアには遠く及ばない。

しかし、杏寿郎のスキルによる相乗効果と、日々の訓練で培った連携の精度を加味すれば、実戦における戦闘力は、額面上の数字をはるかに超えていた。

 

 

一斉ランクアップが発表された直後の神会は、荒れに荒れた。

 

「結成してたった三年のファミリアが、Lv. 5を擁してるんやで? フィンたちのレベルに追いつきつつあるやないか」

 

ロキが、渋い顔で呟いた。

腕を組み、細い目を更に細めて、不満を隠さなかった。

 

「しかもな。あの連中、普通の探索系ファミリアと違って、ダンジョン潜りは週の半分もやっとらん。残りは街の巡回と闇派閥の掃討に費やしてる。にもかかわらず、この成長速度――どないなっとんねん!」

 

「ロキ、嫉妬は見苦しいわよ」

 

フレイヤが、優雅に酒杯を傾けながら、からかうように言った。

 

「嫉妬ちゃう! 純粋な疑問や! うちのフィンたちかて、頑張っとる。それなのに、どんどん追いつかれるとるんやで?」

 

「まあまあ――」

 

ヘルメスが、取り繕うように帽子の鍔を弄った。

 

「不正の可能性は? 神威を使ってステイタスを水増ししている、とか」

 

その一言に、複数の神々が同時に首を振った。

 

「ありえへん」

 

真っ先に断言したのは、意外にもロキだった。

 

「あのアストレアやぞ。正義の女神が不正をするなんて、天地がひっくり返ってもありえへん。そもそも神威でステイタスを弄ったら、すぐにバレるわ」

 

「同感だ」

 

ガネーシャが、象の仮面の奥から声を轟かせた。

 

「俺はガネーシャだ! そして、アストレアの誠実さを保証する! 彼女の眷属たちの成長は、純粋な努力と才能の結果だ!!」

 

「うるさいが、今回は同意や」

 

ロキが、こめかみを押さえた。

 

「不正がないんやから、何かカラクリがあるはずなんや。レンゴク・杏寿郎の周囲にいると成長が加速する……眷属同士が共鳴するタイプの発展アビリティか、あるいは、特殊なスキルか」

 

ロキの推理は、核心に近かった。

 

しかし、問い詰める神々を前に、アストレアは何も語らなかった。

不正がないことは、神々とて認めざるを得ない。

あとはすべて、いずれは収まる雑音にすぎなかった。

 

「――まあ、悔しいけどな」

 

ロキは、ふうっと息を吐いた。

 

「あの男のおかげで、街の治安が良くなったのは事実や。闇派閥も、レンゴクを恐れて動きが鈍くなっとる。うちのフィンも、あいつのことは認めとる」

 

「認めざるを得ないでしょう」

 

フレイヤが、紫水晶の瞳を細めた。

 

「それにしても、面白いわね。たった三年で、ここまでのファミリアを作り上げるなんて。しかも団員は全員女性で、団長だけが男。なのに、誰一人として脱落しない。むしろ、全員が団長を中心に結束を強めている」

 

フレイヤの熱っぽい視線が、アストレアに向いた。

 

「あなたの眷属は、本当に特別ね、アストレア」

 

アストレアは、静かに微笑んだ。

藍色の瞳に、深い慈しみが宿っていた。

 

「特別なのは、杏寿郎よ。私は、ただ見守っているだけ。あの子が――あの子たち全員が、自分の力で強くなっているの」

 

アストレアの声は、穏やかだったが、その奥には、言葉にし尽くせない誇りがあった。

 

杏寿郎が、仲間を守るために強くなり、仲間が、杏寿郎に導かれてさらに強くなる。

その循環こそが、アストレア・ファミリアの本質。

それは、正義を信じる者たちの、炎の連鎖だった。

 

 

当然ながら、アストレア・ファミリアの飛躍は、酒場で格好の話題になった。

 

「聞いたか? アストレア・ファミリアの団長がLv. 5になったらしい」

 

「それだけじゃねえ。副団長と、あの極東の女剣士もLv. 4だと」

 

「しかも、リオンって新入りのエルフが、もうLv. 3だとよ。入団してまだ一年ちょっとらしいぞ?」

 

「おかしいだろ。一人や二人じゃない。全員の成長速度が異常すぎる」

 

「何か裏があるんじゃないか? 神威でステイタスをいじってるとか……」

 

「馬鹿言え。主神はアストレアだぞ。正義の女神が、そんな不正をするわけがないだろう」

 

「それもそうか……。でもよ、普通じゃ説明がつかねえ」

 

その喧騒から少し離れた酒場の奥、壁際の薄暗い席に、二人の人影があった。

 

一人は、青年の姿をした神だった。

羽根つきの帽子を目深に被り、テーブルに肘をついている。

柔和な笑みを浮かべているが、帽子の陰から覗く瞳は、笑ってはいなかった。

蜂蜜色の瞳が、酒場の喧騒を泳ぐ情報を、一つ残らず掬い取っていた。

 

伝令の神、ヘルメス。

オラリオに蠢くあらゆる情報を掌握する、神々の間でも屈指の策士だった。

 

向かいに座るのは、蒼い髪をショートに纏めた若い女だった。

眼鏡の奥の瞳は冷静で、知性の光を湛えている。

ヘルメス・ファミリアの副団長、アスフィ・アル・アンドロメダ。

万能者(ペルセウス)】の二つ名を持つ、オラリオきっての魔道具作成者だった。

 

ヘルメスが、葡萄酒のグラスを傾けながら、口を開いた。

声は低く、周囲の喧騒に紛れるように調節されていた。

 

「恩恵を得て三年でLv.5の第一級冒険者か。――どう思う、アスフィ」

 

アスフィは、自分のグラスには手をつけず、眼鏡の位置を直した。

端正な顔に、困惑に近い感情が滲んでいた。

 

「とても信じられません。通常、Lv.5に到達するまでには、最低でも七年から十年はかかります。才能に恵まれた冒険者でも、五年は必要です。それを三年で……」

 

アスフィは、一度言葉を切った。

眼鏡の奥の瞳が、鋭くなった。

 

「もしこのまま同じ速度で成長が続くのであれば、四年でLv.6、五年でLv.7に到達したとしても不思議ではありません」

 

ヘルメスの指が、グラスの縁で止まった。

 

「その速度は――あのヘラ・ファミリアの【才禍の怪物】をも上回ります」

 

酒場の喧騒が、一瞬だけ遠のいたように感じた。

ヘルメスの蜂蜜色の瞳が、細まった。

 

【才禍の怪物】――その名は、オラリオの歴史において、最も輝かしい冒険者の一人を指していた。

 

「そうなんだ。そうなんだよ、アスフィ」

 

ヘルメスは、グラスを置いた。

指先で、テーブルの木目をなぞった。考えを整理するときの癖だった。

 

「もちろん、神威を利用して強引に眷属のランクアップを図る手がないわけではない。恩恵の更新に際して、主神が自らの神威を注ぎ込めば、ステイタスの成長を不自然に加速させることは可能だ。禁じ手だけどね」

 

ヘルメスの声が、わずかに真剣味を帯びた。

 

「だが、主神はあのアストレアだ。そういう不正は、絶対にしない。他の神なら疑う余地もあるが、アストレアに関しては、僕が保証する」

 

ヘルメスは、帽子のつばを指で持ち上げた。

蜂蜜色の瞳が、酒場の天井を見上げた。

 

「となると――」

 

「本人が、英雄としての資質を持ち合わせている、と?」

 

アスフィが、ヘルメスの思考を先読みして言った。

 

ヘルメスは、にっと笑った。

副団長の聡明さに対する、素直な賞賛の笑みだった。

 

「その可能性はある。いや……可能性どころじゃないかもしれない」

 

ヘルメスは、身を乗り出した。

声をさらに落とした。

 

「だから――確かめさせてもらう」

 

アスフィの眉が、ぴくりと動いた。

ヘルメスの声に、あの厄介な色が混ざり始めたことを、長年の経験から察知したのだ。

何か、大きなことを企んでいるときの声だった。

たいての場合、アスフィがロクでもないことに巻き込まれ、胃の痛くなるような思いをする前触れだ。

 

「ちょうどね、竜の谷で竜の鼾に似た現象が生じたらしい」

 

アスフィの手が、テーブルの上で止まった。

竜の谷。

その名を聞いただけで、背筋に冷たいものが走った。

千年にわたってオラリオの冒険者たちが挑み続け、いまだ達成されていない究極の敵。

 

「鼾ということは……まさか!?」

 

「今はまだ兆候にすぎない。ただ、竜の谷の周辺は騒がしくなるだろう。そして、この間、アスフィが探ってくれたように、あそこにはあの二人がいる」

 

あの二人――。

ヘルメスは、固有名詞を避けた。

しかし、アスフィには、それが誰を指しているか即座に分かった。

分かった瞬間、アスフィの表情が、明確に強張った。

 

「もちろん、あの二人なら何があっても問題ないだろう。竜の谷の周辺程度で、あの化け物たちが苦戦するはずがない。だが――これを利用したい」

 

「まさか――」

 

アスフィの声に、鋭い警戒の色が滲んだ。

 

ヘルメスは、にこりと笑った。

人好きのする笑顔だったが、その裏側に、底の見えない計算が渦巻いていた。

 

「そう。この『異変』を使ってウラノスを焚きつけて、強制任務を出すこともできる。そうすれば、あの二人に『最後の英雄』かもしれない人物を、見定めてもらえる」

 

ヘルメスは、指でグラスの縁をなぞった。

澄んだ音が、微かに響いた。

 

「もし本当にあの男が英雄の器であるなら、あの二人の目に適う。もしそうでなければ――まあ、それはそれで、別の手を考えればいい」

 

ヘルメスの蜂蜜色の瞳が、酒場の灯りを反射して、金色に光った。

 

アスフィは絶句した。

長い沈黙の後に、口を開いたが、眼鏡を押し上げる指先が、いつもより力が入っていた。

 

「本気ですか、ヘルメス様――。アストレア・ファミリアがひどい痛手を被る可能性もあります。そうなっては、少しはマシになってきた闇派閥の動きも活発化するかもしれません」

 

アスフィの声には、次第に恐怖の色が強くなった。 

 

「それに、そもそも、あの【静寂】相手に、駆け引きは通用しませんよ」

 

ヘルメスの笑顔が、一瞬、引きつった。

 

「とくにヘルメス様のような胡散臭い神の場合――話しかけた瞬間に、一発で天に召還される可能性があります」

 

アスフィの声には、一分の容赦もなかった。

事実を述べているだけの、淡々とした口調だった。

それがかえって、言葉の破壊力を際立たせていた。

 

ヘルメスの笑顔が、崩れた。

帽子の陰から覗く瞳に、初めて動揺の色が浮かんだ。

 

「だ、大丈夫だよ。いくらヘラ・ファミリアの一員とて、問答無用でそこまではしない……はずだ」

 

語尾が萎んだ。

自信のなさが、露骨に声に出ていた。

 

「……はず、って何ですか」

 

「いやいや、ほら、彼女だってオラリオの秩序を守る側の人間だったわけだし、神を召還するなんて穏やかじゃないことは――」

 

「ヘルメス様。あの方が、穏やかな人間だと、本気で思っていらっしゃるんですか」

 

アスフィの眼鏡が、酒場の灯りを反射して白く光った。

その奥の瞳は、氷のように冷たかった。

 

ヘルメスは、口をつぐんだ。

葡萄酒を一口飲んだ。二口飲んだ。

それから、咳払いをした。

 

「ま、まあ、とにかくだね。連絡を取る手段は僕のほうで確保するから、あとは――」

 

「絶対に反対です。私は行きませんので!」

 

アスフィが、きっぱりと言い切った。

一片の迷いもなかった。

 

「ヘルメス様お一人で交渉してください。私は留守番をしています」

 

「え? ちょっと、アスフィ?」

 

「お一人で、と申し上げました」

 

アスフィは、眼鏡を押し上げ、席を立った。

短い蒼髪が揺れた。

 

テーブルの上のグラスに一度も口をつけないまま、酒場の喧騒の中に背を向けた。

 

「あ、ちょ……待って、アスフィ! せめて手紙の文面だけでも一緒に……!」

 

ヘルメスの声が、酒場の喧騒に呑まれた。

伝令の神は、一人残されたテーブルで、帽子を深く被り直した。

蜂蜜色の瞳が、天井を見上げた。

 

「……やっぱり、手紙にしようかな」

 

誰にも聞こえない小さな呟きが、葡萄酒の水面に落ちた。

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