ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか   作:kursk

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英雄の洗礼

昼下がりの『星屑の庭』に、一人の来客があった。

 

 

玄関の扉を叩いたのは、羽根つきの帽子を被った青年の姿をした神だった。

柔和な笑みを浮かべ、片手を軽く上げて、出迎えたリューに挨拶をした。

 

「やあ、お邪魔するよ。アストレアはいるかな」

 

リューの空色の瞳が、警戒の色を帯びた。

エルフの本能で、この軽薄な男神が女の敵であることを見ぬいたからだった。

 

「……少々お待ちください。団長に取り次ぎます」

 

リューは凍てついた瞳で一礼すると、奥に引っ込んだ。

代わりに、杏寿郎が扉の前にやってきて、ヘルメスを真っ直ぐに見た。

 

「ようこそ、神ヘルメス。何のご用件でしょうか」

 

「堅いなあ。まあ、中に入れてくれないかな。ちょっと、込み入った話があってね。アストレアとも話し合いたいんだ」

 

ヘルメスの声は軽やかだった。

 

アストレアへの来客となれば、否やはない。

杏寿郎はヘルメスを案内して応接間に入った。

ヘルメスの向かいにアストレアが座り、杏寿郎がその隣に腰を下ろした。

ライラと輝夜が、壁際に控えている。

アリーゼは、杏寿郎のすぐ後ろに立った。

 

「それで、ヘルメス。私に話があるということだけれど、どんな内容かしら?」

 

マリューが注いでくれた紅茶が湯気を上げているなか、アストレアが切り出した。

ヘルメスは、軽薄な笑みを浮かべたまま、口を開いた。

 

「単刀直入に言うよ。――竜の谷で、異変が起きた」

 

部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。

 

――竜の谷。

その名を聞いただけで、アストレアの翠の瞳が鋭くなった。

 

三大冒険依頼の一角。オラリオの冒険者たちが千年にわたって挑み続け、いまだ達成されていない討伐依頼の対象――隻眼の黒竜が棲む、禁忌の地だった。

 

「竜の鼾、と呼ばれる現象が生じた可能性がある」

 

「竜の鼾……?」

 

アストレアが怪訝な顔で、おうむ返しに尋ねる。 

 

「鼾――つまり、黒竜が微睡みの中で身じろぎしたということなんだ。その余波で、谷に封じ込められていた竜種が何体か解き放たれようとしているかもしれない。これまでの例だと、推定レベルはLv.7相当かそれ以上のことが多い」

 

ヘルメスの説明を受けて、沈黙が部屋を支配した。

Lv.7相当かそれ以上。

 

その数字の重みを、この場にいる全員が理解していた。

オラリオの現在の最高位冒険者でさえ、その領域に届く者はいない。

 

ライラが、眉を顰めた。

 

「……それは、ロキ・ファミリアかフレイヤ・ファミリアの仕事じゃねえのか」

 

「本来はそうなんだけどね。ウラノスとしても、今、彼らを動かすわけにはいかないんだよ」

 

ヘルメスの声が、僅かに低くなった。

軽薄さが消え、裏の顔が滲んだ。

 

「このご時世だ。闇派閥の活動は依然として活発だ。オラリオの治安を維持するためには、ロキとフレイヤの両ファミリアは街に留め置く必要がある。オラリオの最高戦力が街を離れたら、闇派閥がここぞとばかりに動く。それは、ギルドも認められないということさ」

 

ヘルメスは、蜂蜜色の瞳で、杏寿郎を見た。

 

「そうなると――残りのファミリアの中で、最も高いレベルの冒険者を有しているのは、アストレア・ファミリアということになる」

 

間が、あった。

ヘルメスの視線が、杏寿郎の炎の瞳に注がれていた。

品定めをするような視線だった。

 

「もちろん、危険だ。Lv.7相当の竜種に、Lv.5の冒険者がぶつかる。普通に考えれば、無謀だ。けれど――」

 

ヘルメスは、肩をすくめた。

 

「弱き者を守るためなら、頑張ってもらうほかない。竜が谷を出れば、周辺の村々が焼かれる。自衛する力を持たない人々が、炎に呑まれる。それを防げる可能性があるのは、今のオラリオでは、君たちだけだ」

 

「ありえないわ」

 

最初に声を上げたのは、アストレアだった。

穏やかな女神の声に、鋼のような硬さが混ざっていた。

翠の瞳が、ヘルメスを射抜いた。

 

「ヘルメス。あなたの言っていることは分かるわ。でも、Lv.7相当の竜種に、私の眷属を向かわせるなんて、到底認められない。杏寿郎はLv.5になったばかりよ。二つもレベルが上の相手と戦わせるなんて、死にに行かせるようなものじゃない」

 

――大事な眷属たちを、そんな死地に追いやることはできない。

主神としての強い思いが籠った宣言だった。

ライラも、腕を組んで首を振った。

 

「アタシも反対だ。危険が大きすぎる。Lv.7相当の竜種ってのは、冗談じゃねぇ。アンフィスバエナとは桁が違う。仮に団長のスキルを最大限に活かしても、二レベル差は覆せねー。少なくとも、今のファミリアの戦力では、勝算が立たない」

 

ライラの栗色の瞳が、冷静に分析していた。

参謀として、感情ではなく数字で語っていた。

 

ヘルメスは、しばらく黙っていた。

それから、帽子のつばを指で弾いた。

軽い仕草だったが、その直後に放たれた言葉は、軽くはなかった。

 

「では――何もしないまま、みすみす周辺の村々を竜に捧げるのかい」

 

アストレアの翠の瞳が、揺れた。

 

「自衛する能力を持たない弱者を、見殺しにする。それが、正義の女神アストレアの選択なのかな」

 

ヘルメスの声は、あくまでも穏やかだった。

穏やかだからこそ、刃のように鋭かった。

 

「あの谷の周辺には、三つの村がある。住民は合わせて千人ほどだ。農民、羊飼い、子供、老人。冒険者なんて一人もいない。竜が谷を出れば、彼らは逃げる間もなく焼かれる。助けを求める声すら、誰にも届かない」

 

ヘルメスの蜂蜜色の瞳が、アストレアを見据えた。

 

「正義を掲げるファミリアが、力があるのに動かなかった。そう後世に語られることを、君は受け入れるのかい、アストレア」

 

アストレアの唇が、わなわなと震えた。

反論しようとした。しかし、言葉が出なかった。

ヘルメスの言葉は、正義の女神の急所を、正確に突いていた。

 

沈黙が、重く垂れ込めた。

その沈黙を、破ったのは杏寿郎だった。

 

「分かった。――俺が行く」

 

静かな声だった。

しかし、部屋中の全員の視線を、一身に集めた。

 

杏寿郎は、立ち上がった。

炎の瞳が、ヘルメスを見下ろした。

 

「神ヘルメス。あなたが何を目的としているのか、俺には分からない。この話の裏に何があるのかも、俺には読めない」

 

ヘルメスの笑みが、一瞬だけ固まった。

見抜かれているとまでは思わなかった。

だが、この男が単なる武闘派ではないことを、改めて認識した。

 

「だが、一つだけ確かなことがある」

 

杏寿郎の声が、部屋に響いた。

 

「もし俺が出なければ、弱い者が踏みにじられる。自分の力で自分を守れない人々が、炎に焼かれ、命を奪われる。それを知っていながら動かないのは――俺には出来ない。それは、誓いに反する」

 

炎の瞳に、迷いはなかった。

 

「これは勝算の問題ではない」

 

杏寿郎は、拳を握った。

 

「俺の誓いだ。俺が俺であるために、しなければならない責務だ。弱き者を助け、強き者に立ち向かう。そのために俺は恩恵を受け、この剣を振るっている。もし、ここで退くのなら――俺は、俺でなくなる」

 

杏寿郎は、アストレアに向き直った。

膝をつき、頭を下げた。

 

「アストレア様。貴女の意志に反する私を、お許しください。どうか出陣の許可を、いただきたい」

 

アストレアの翠の瞳から、涙が一筋、零れた。

分かっていた。この男が、こう言うであろうことは。

止められないことも、分かっていた。

この炎を止めることは、正義の女神にもできない。

 

「……杏寿郎」

 

アストレアは、涙を拭って見つめた。

 

「私も一緒に行くわ。いいえ――総出で行きましょう」

 

アストレアの言葉に、杏寿郎は驚いたように見つめ返した。

 

「アストレア様もですか!?」

 

「ええ、ダンジョン以外なら神も一緒に歩くことができるわ。ギルドの許可が必要だけれど、ヘルメスならもう根回ししていることでしょう」

 

ヘルメスは降参とでも言うように、両手を上げた。

 

「さすがはアストレア、その通りさ。ウラノスも反対していない。ガネーシャ・ファミリアも、テイムした飛竜を提供してくれるそうだ」

 

「そう――杏寿郎、約束して。無理をするなとは言えないわ。でも、絶対に生きて私のもとに帰ってきてね」

 

「はい、アストレア様。約束します!」 

 

杏寿郎は顔を上げ、笑った。

太陽のような笑顔だった。

 

ライラが、大きく舌打ちをした。

 

「チッ……分かったよ。行くんなら全員で行く。どうせ止められねぇんだ。なら、最善の作戦を立てて、一人も死なせずに帰ってくる。それがアタシの仕事だ」

 

輝夜が、壁から背を離した。

切れ長の瞳に、凪いだ覚悟が宿っていた。

 

「当然、私も行く。杏寿郎の影は、私の居場所だ」

 

アリーゼが、杏寿郎の隣に立った。

碧い瞳が、真っ直ぐに前を向いていた。

 

「お兄様の行くところが、私の行くところよ」

 

ヘルメスは、その光景を見ていた。

 

――なるほど。このファミリアの強さの源は、これか。

 

ヘルメスは立ち上がり、帽子のつばに手をかけた。

 

「話は決まったようだね。――ギルドとウラノスには、話を通しておくよ。出発の手はずも整える」

 

そう言って、ヘルメスは踵を返した。

玄関に向かう足取りは軽かった。

 

応接間を出る間際に、ヘルメスは一度だけ振り返った。

蜂蜜色の瞳が、杏寿郎を映した。

 

――さあ、見せてもらおうか、杏寿郎。君が本物かどうかを。

 

伝令の神は、思いを声にすることなく、そのまま姿を消した。

 

 

ウラノスは、黙認した。

ギルドの最深部、祈りの間で、老神は重い沈黙の末に、ただ一言だけ告げた。

 

「行かせるがよい」

 

それ以上の言葉は、なかった。

 

出立は、翌々日の早朝だった。

アストレア・ファミリアは総出で、ガネーシャ・ファミリアが調教した飛竜にのってオラリオを出た。

 

朝靄のなか、オラリオの城壁が、背後で小さくなっていった。

 

北上を続けた一行は、幾度かの野営を挟んで、ついに人類の生存圏の最後の守りたる『大防壁』を超えた。

 

 

その先には、荒涼とした大地が広がっていた。

ここから先は、文字通り、人が住めない死地。

草木はまばらで、風に吹かれた砂礫が地面を舐めていた。

 

襲い掛かってくる飛竜をリャーナたちの魔法で撃ち落としながら、進むことしばし――。

 

ついに、巨大な黒ずんだ竜巻が現れた。

周囲の空気を巻き込みながら、とぐろを巻いていた。

 

「あれが、竜の谷……」

 

誰かが呟いた。

 

「飛竜が怯えている。ここからは徒歩で行こう」

 

杏寿郎が飛竜の恐怖を察知して、皆に告げた。

 

「……すごい、ね」

 

飛竜から降りたアリーゼが、谷を見上げながら呟いた。

声には、意識して威勢をつけようとした跡があったが、そこに混じる微かな緊張は隠しきれていなかった。

 

「怖いか」

 

隣に立った杏寿郎が、竜巻を見据えたまま言った。

 

「怖くない、とは言わないわ」

 

アリーゼは、碧い瞳で杏寿郎の横顔を見た。

 

「でも、お兄様が一緒だから、大丈夫」

 

杏寿郎は、少しだけ目を細めた。それから、アリーゼの頭にぽんと手を置いた。

 

「俺も、皆がいるから戦える」

 

その一言が、アリーゼの胸の奥で、甘く、静かに響いた。

 

 

飛竜を近くの木につなぎ止め、歩くことしばし――。

杏寿郎は気配を感じた。

 

全集中の呼吸で研ぎ澄ませた感覚が、東の岩場の影に、巨大な存在を捉えた。

 

途轍もない気配だった。

杏寿郎がこれまでに感じたどの気配よりも、重く、深く、圧倒的だった。

闇派閥の眼帯の男も、アンフィスバエナも、この気配の前では児戯に等しかった。

 

身体の奥底から、本能的な警鐘が鳴り響いた。

 

――だが、敵意はない。

 

杏寿郎は、そう判断した。

殺気はない。

ただ、そこに在るだけで周囲を圧する、途方もない存在感があった。

 

「……誰かいるのか」

 

杏寿郎が、刀の柄に手をかけたまま、岩場に向かって声をかけた。

 

 

岩の影から、人影が現れた。

 

巨漢だった。

杏寿郎よりも頭二つ分は高い。

鍛え上げられた肉体は、岩のように隆々として、薄手の外套の下からでもその厚みが分かった。

刈り込まれた赤銅の髪。

腰には、杏寿郎の刀とは比較にならないほど大きな大剣を佩いていた。

 

鋭い眼光を放つ瞳は、灰色だった。

その奥には、病んでなお衰えぬ武人の炎が宿っていた。

幾千の戦場を越え、幾万の敵を屠り、そのすべてを糧として喰らい、なおも剣を握り続ける者だけが持つ、枯淡にして猛烈な光だった。

 

杏寿郎の背筋に、稲妻のような感覚が走った。

 

これは――本物だ。

 

自分がこれまで出会ったどの武人とも、次元が違う。

 

「お前が、レンゴク・杏寿郎か」

 

男の声は、低く、地鳴りのように重かった。

 

「いかにも。――失礼だが、貴殿は?」

 

「ザルド」

 

男は、名だけを告げた。

しかし、その一言で、杏寿郎の背後にいたライラが息を呑んだ。

 

暴喰のザルド――。

ゼウス・ファミリアの生き残り。

かつて、ゼウスとヘラの両ファミリアが全盛を誇った時代に、第一級冒険者として数々の偉業を成し遂げた伝説の剣士。

 

両ファミリアが壊滅した後も生き延び、今もなお、どこかで剣を振るい続けているという噂だけが残っていた。

 

ライラの顔が、蒼白になった。

 

「ゼウス・ファミリアの……」

 

「元、だがな」

 

ザルドは、無造作に言った。

灰色の瞳が、杏寿郎を値踏みするように見つめた。

 

「神ヘルメスから聞いた。竜の鼾で解き放たれる竜を、討ちに来たと」

 

「そうだ」

 

杏寿郎は、真っ直ぐに答えた。

ザルドの気配に圧されることなく、炎の瞳で正面から見返した。

 

ザルドの灰色の瞳が、微かに細まった。

興味、だった。

圧倒的な気配を前にしても怯まない若者を、ザルドは久しぶりに見た。

 

「Lv.5になるのに、恩恵を得てから三年だったか」

 

「そうなる」

 

「とんでもないな」

 

ザルドの口元が、僅かに歪んだ。

笑みとも、感嘆ともつかない表情だった。

 

「だが――」

 

ザルドの気配が、変わった。

それまでの穏やかな佇まいが消え、代わりに、剥き出しの殺気が大気に滲んだ。

周囲の岩が、軋むような音を立てた。

虫の音が消えた。

世界が、この巨漢の存在に押し黙った。

 

「本当に竜と戦える力量があるのか。試させてもらう」

 

ザルドの手が、大剣の柄に伸びた。

 

杏寿郎の全身が、瞬時に臨戦態勢に入った。

全集中の呼吸が、自動的に最大出力まで引き上げられた。

本能が告げていた。

今まで対峙したどんな敵とも、比較にならない。

 

「杏寿郎!」

 

アストレアの声が、背後から聞こえた。

しかし、杏寿郎は振り返らなかった。

炎の瞳は、ザルドだけを見ていた。

 

「――望むところだ」

 

杏寿郎が、刀を抜いた。

 

炎が、刀身に宿った。

夕闘の薄暗い大地の上で、その炎は鮮烈に燃え盛った。

 

ザルドの灰色の瞳に、微かな光が灯った。

好敵手を前にした武人の高揚だった。

 

「来い」

 

ザルドの大剣が、鞘から抜き放たれた。

それだけで、空気が裂けた。

抜刀の風圧が、周囲の砂礫を吹き飛ばし、杏寿郎の髪を激しく揺らした。

大剣は、杏寿郎の身の丈を超える長さだった。

刀身は灰色で、無数の傷と修復の痕がある。

何年もの歳月を、主とともに戦い続けてきた剣だった。

 

杏寿郎は、踏み込んだ。

 

「全集中・炎の呼吸。壱ノ型――【不知火】」

 

初手から全力だった。

格上の相手に、手加減をする余裕はない。

炎を纏った斬撃が、ザルドの胴を目掛けて奔った。

 

ザルドは、動かなかった。

大剣を片手で持ち上げ、杏寿郎の斬撃を受けた。

金属と金属が激突する轟音が響き渡った。

 

衝撃波が大地を揺るがし、二人の足元の岩盤に亀裂が走った。

 

――硬い。

 

杏寿郎の腕が痺れた。

全力の不知火が、片手で受け止められた。

スキルの恩恵を受けた、Lv.5のステイタスを超える一撃が、だ。

 

ザルドが、大剣を振った。

片手の横薙ぎ。

単純な一撃だった。技も何もない、ただの横振り。

しかし、その一撃に込められた力は、杏寿郎がこれまで経験したすべての攻撃を凌駕していた。

 

肆ノ型――【盛炎のうねり】。

 

杏寿郎は咄嗟に肆の型で、ザルドの大剣を脇に流そうとした。

けれども、受け止めきれなかった。

炎の壁が、紙のように破られた。

大剣の余波が杏寿郎の身体を捉え、横に吹き飛ばした。

地面を三度跳ね、岩に背中をぶつけて止まった。

 

口から血が出た。

肋骨が、二本は折れている感触があった。

 

――これが。

 

杏寿郎は、血を拭いながら立ち上がった。

 

――これが、Lv.7か。

 

次元が違った。

速さではない。技術でもない。

純粋な力の密度が、隔絶していた。

ステイタスの数値で二つ上ということが、実戦においてどれほどの絶望的な差を意味するか、杏寿郎は身をもって理解した。

 

だが、恐れなかった。

 

杏寿郎は、再び構えた。

全集中の呼吸を、さらに深く、さらに熱く練り上げた。

身体が悲鳴を上げていた。折れた肋骨が肺を圧迫し、呼吸のたびに鋭い痛みが走った。

それでも、炎は消えなかった。

 

弐ノ型――【昇り炎天】。

 

参ノ型――【気炎万象】。

 

壱ノ型――【不知火】。

 

伍ノ型――【炎虎】。

 

 

連撃を放った。

炎の斬撃が、次々にザルドに襲いかかった。

 

ザルドは、大剣を構えたまま、連撃すべてを軽々と捌いた。

一撃目を刀身で弾き、二撃目を柄で逸らし、三撃目を半歩の足捌きで躱し、四撃目を真正面から受け止めた。

無駄のない、しかし圧倒的な技量だった。

 

そして、ザルドの反撃が来た。

大剣が、上段から振り下ろされた。

杏寿郎は横に跳んで避けた。大剣が地面を叩いた。

岩盤が砕け、クレーターが穿たれた。直撃していれば、骨ごと断たれていた。

 

その隙に、杏寿郎は奥義を放った。

 

玖ノ型――【煉獄】。

 

全身全霊の一撃。

これまで、数々の格上を両断した、最強の斬撃が、ザルドに向かって放たれた。

 

炎の柱が、夕暮れの大地を昼のように照らした。

ザルドは――大剣を正面に構え、その炎の柱を受けた。

 

轟音。

炎と鋼がぶつかり合い、衝撃波が同心円状に広がった。

杏寿郎の足が、後方に滑った。

 

炎が晴れたとき、ザルドは立っていた。

大剣を構えたまま、微動だにしていなかった。

外套の裾が焦げていた。頬に、薄い切り傷が一筋。

しかし、それだけだった。

 

奥義・煉獄が――頬を掠めただけ。

 

奥義を出し切って硬直した杏寿郎を、ザルドは拳の一撃で吹き飛ばした。

杏寿郎の身体は宙を舞い、荒れ果てた地面を二転、三転した。

 

「お兄様!!」

 

アリーゼの悲鳴が、ひどく遠くから響いた。

 

杏寿郎は、立ち上がろうとしたが、果たせなかった。

限界を超えて力を出し切った身体が、これ以上の戦闘を拒否していた。

全身の筋肉が痙攣し、刀を握る指が痺れていた。

 

ザルドが、大剣を下ろした。

灰色の瞳が、跪く杏寿郎を見下ろした。

 

「Lv.5なりたてにしては――悪くない」

 

声は、静かだった。

賞賛が含まれていた。

 

「だが、足りない。圧倒的にな――」

 

ザルドは、大剣を肩に担いだ。

巨体が、杏寿郎の前に歩み寄った。

 

「お前の剣は、至近距離でしか威力を発揮できない。あの炎の斬撃は見事だが、所詮は刀の届く範囲だ。竜を相手にするなら、それでは話にならない。竜の間合いの外から、致命傷を与えられる手段が要る」

 

杏寿郎は、膝をついたまま、ザルドを見上げた。

炎の瞳に、敗北の悔しさと、学びへの渇望が同居していた。

 

「Lv.5なら――斬撃を飛ばして見せろ」

 

ザルドの声が、低く響いた。

 

「刃の延長線上に、力を凝縮し、射出する。それができれば、要塞とてバターのように切り裂き、吹き飛ばすことができる。距離は関係ない。剣の間合いは、お前の意志の届く限り、無限に伸びる」

 

杏寿郎の瞳が、見開かれた。

 

「お前は、武人として至高の領域に近い。あの猪より、遥かに剣の才に満ちている」

 

あの猪。

ザルドが誰を指しているのか、杏寿郎には分からなかった。

しかし、その言葉に込められた確信の重さだけは、はっきりと伝わった。

 

「きっと習得できるだろう」

 

ザルドは、杏寿郎から離れた。

広い場所を確保するように、十歩ほど歩いた。

そして、振り返った。

 

「手本を見せてやる」

 

ザルドが、大剣を構えた。

 

「父神よ、許せ、神々の晩餐をも平らげることを――」

 

「詠唱……?」

 

それは、巨躯の武人に似合わない魔法だった。

 

詠唱をつづけながら、ザルドは正眼に構えた。

巨体に似合わぬ、端正な構えだった。

 

灰色の瞳が、遠くの丘を見据えた。

数百メートル先にある岩だらけの丘。

 

「貪れ、炎獄の舌。喰らえ、灼熱の牙――【レーア・アムブロシア】」

 

詠唱を終えたザルドが、巨大な炎を纏った大剣を振った。

 

――横一文字。

 

ただそれだけだった。

白炎の光が槍のごとく伸びて、丘を抉り切り――。 

 

一拍遅れて、轟音が響いた。

 

杏寿郎の目の前で、信じがたいことが起きた。

数百メートル先の岩山が――斜めに吹き飛んだ。

 

杏寿郎は、声を失っていた。

瞳が限界まで見開かれ、崩れ落ちた丘を凝視していた。

刀を握る手が、無意識に震えていた。

 

――Lv.7とは。

 

心の中で、呟いた。

 

――かくも、はるかな高みなのか。

 

見上げるなどという表現では足りなかった。

天を仰ぎ見るような、途方もない距離だった。

自分が三年かけて登った高さが、この男の足元にも届いていないことを、突きつけられた。

 

ザルドが、大剣を下ろして振り返った。

灰色の瞳が、呆然とする杏寿郎を見据えた。

 

「Lv.5で自己強化スキルがあれば、あとは気合と根性で何とかなる」

 

信じられない言葉だった。

気合と根性で、今の光景を再現しろと言うのか。

 

しかし、ザルドの瞳は真剣だった。

冗談でも、からかいでもなかった。

この男は本気で、杏寿郎にそれができると信じていた。

 

「やってみろ」

 

修練が始まった。

 

 

 

竜の谷の麓で、アストレア・ファミリアは野営を張った。

竜の出現に備えながら、同時に、杏寿郎の修練のための時間を確保した。

 

ライラが、スケジュールを組んだ。

昼間は杏寿郎の修練。夜は交代で見張り。

竜の動きに変化があれば、即座に対応できる態勢を維持しつつ、杏寿郎に可能な限りの時間を与えた。

 

ザルドは、谷の近くの小屋に寝泊まりしつつ、杏寿郎をぼろぼろになるまで打ち据えた。

 

「カハぁ……」

 

杏寿郎が血を吐きながら吹き飛ぶたびに、マリューが駆け寄った

 

「【レア・ヴィンデミア】!」

 

温かい光が疲れ果てた身体を包むたびに、杏寿郎は短く礼を言った。

 

「ありがとう、マリュー」

 

「無茶しないでください、団長……」

 

マリューは見ていられないという表情で、縋りつくように言った。

 

「まだできる」

 

杏寿郎は、その一言しか言わなかった。

 

ザルドは、細かい指導はしなかった。

時折、短い言葉を投げるだけだった。

 

「力んでいる。脱力しろ」

 

「身体で覚えろ。頭で考えるな」

 

杏寿郎は、朝から日暮れまで、ひたすら刀を振るい、ザルドに滅多打ちにされた。

 

ザルドが来ない日は、朝から晩まで、斬撃を飛ばすために素振りをつづけた。

 

斬撃を飛ばす――。

言葉にすれば単純だが、実現は途方もなく難しかった。

刀を振る。炎が弧を描く。しかし、炎は刀身の周囲で散り、遠くまで届かない。

 

もう一度振る。今度は意識を集中し、炎を刀の先端に凝縮させようとする。しかし、凝縮した瞬間に制御を失い、炎が暴発する。

 

「あんなお兄様、見たことない。あんなに追い込まれて、ボロボロになって――」

 

アリーゼは、杏寿郎の背中をひたすら追い続けてきた。

それだけに、ザルドに手も足も出ずに、ひたすら訓練に励む杏寿郎の姿は衝撃的だった。

大好きな杏寿郎が傷つくたびに、胸が辛くなった。

 

――同時に、思った。

杏寿郎が日夜、限界まで訓練をしているのに、自分は見ているだけなのか。

きっと、この訓練で兄は一皮剥けて成長する。ますます置いて行かれる。

とはいえ、ザルドと杏寿郎の闘いに割って入ることもできない――。

 

焦燥感に胸を焦がしていたのは、アリーゼだけではなかった。

 

輝夜が、リューが、イスカが、ネーゼが――。

何もせずに止まっている状況に焦りを感じ始めたころ。

 

 

野営地の外れに、一人の人影が立っていた。

擦り切れた外套を纏い、銀灰色の髪が風に靡いている。

顔の半分を髪が覆い、露出した片方の淡い紫の瞳が、冷たく、アリーゼたちを見下ろしていた。

 

美しい女だった。

病に蝕まれていることが一目で分かる蒼白な肌の下に、なお輝く凄絶な美貌。

近づく者を拒絶するような、冷たい美しさだった。

 

輝夜が、最初に気づいた。

切れ長の瞳が鋭くなり、反射的に刀の柄に手をかけた。

 

女の気配は、異質だった。

ザルドとはまた違う種類の圧倒的な存在感。

ザルドが岩山のような重厚さだとすれば、この女は、空気そのものが凍りつくような、静謐にして絶対的な圧を持っていた。

 

「……何者だ」

 

輝夜が、低く問うた。

女は、答えなかった。

 

淡い紫の瞳が、アリーゼを見た。輝夜を見た。リューを見た。

一人一人を、品定めするように、冷たく見渡した。

 

「お前たちが、アストレア・ファミリアか」

 

抑揚のない静かな声だった。

 

「お前たちの団長が、ザルド相手にあれほどの特訓をしている」

 

瞳が、遠くの岩場で刀を振り続ける杏寿郎の姿を映した。

 

「それを見ながら――お前たちは、何もしないのか」

 

沈黙が、朝の空気を満たした。

アリーゼの碧い瞳が、見開かれた。

何もしないのか。その言葉が、胸に刺さった。

杏寿郎が血豆だらけの手で刀を振り続けている間、自分たちは見張りと炊事をしているだけだった。

 

もちろん、それも必要な役割だ。だが――。

 

「……あなたは、誰」

 

アリーゼが、立ち上がった。

碧い瞳が、女を真っ直ぐに見つめた。

 

女は、一瞬だけ、アリーゼの瞳を見返した。

それから、薄い唇を僅かに歪めた。

 

「名乗るほどの者ではない。――だが、お前たちを鍛えてやることはできる」

 

女が、外套の裾を翻した。

痩せ細った身体が、しかし、戦闘態勢に入った瞬間、別の存在に変わった。

病を押してなお、この女の身のこなしは、常人の域を遥かに超えていた。

 

「全員で来い――相手をしてやろう」

 

その声が響いた瞬間、ライラの顔が蒼白になった。

栗色の瞳が見開かれ、唇が震えた。

二大派閥の生き残りが二人いるという噂は、耳に入っていた。

ザルドが一人なら、もう一人は――。

 

「……まさか」

 

ライラの呟きは、誰にも聞こえなかった。

なぜなら、その瞬間、女が動いたからだ。

 

最初に反応したのは輝夜だった。

居合の構えから、一閃。

 

五条家が培った暗殺剣の極致。初撃で仕留める、最速の一刀。

女は、右手を挙げた。

 

手刀だった。

ただの手刀が、輝夜の居合を――受けた。

 

金属と肉がぶつかる音が響いた。

だが、金属が斬った音ではなかった。

輝夜の刀が、女の手刀に弾かれた音だった。

 

「……は」

 

輝夜の切れ長の瞳が、驚愕に見開かれた。

素手で、刀を弾いた。それも、Lv.4の前衛の居合を。

あのゴライオスを両断した刃を、素肌の手が止めた。

 

「遅い」

 

女の声が、耳元で響いた。

次の瞬間、輝夜の身体が宙を舞った。

何が起きたか分からなかった。

気づいたときには、背中から地面に叩きつけられていた。

衝撃で肺の空気が押し出され、視界が白く弾けた。

 

「輝夜!」

 

アリーゼが叫び、剣を抜いて突撃した。

【アガリス・アルヴェシンス】が発動し、炎を纏った剣が、女に向かって振り下ろされた。

 

女は、左手の手刀で、アリーゼの剣を逸らした。

柳のような動きだった。力で受けるのではなく、軌道を僅かにずらすだけで、全力の斬撃を無力化した。

返す手で、アリーゼの腹に掌底を叩き込んだ。

 

「かはっ……!」

 

アリーゼの身体が、くの字に折れた。

三メートルほど後方に吹き飛び、地面を転がった。

 

リューが、側面から仕掛けた。

木刀が唸り、女の側頭部を狙った。

杏寿郎との訓練で磨き上げた、恐るべき速さの一撃だった。

 

女は、振り返りもしなかった。

首を僅かに傾けるだけで、木刀を躱した。

そして、リューの腕を掴み、そのまま地面に叩きつけた。

 

「脆い。このレベルで前線に立っているのか。呆れるほかない」

 

女の声は、平坦だった。

感情がなかった。怒りも、嘲りも、愉悦もなかった。

 

「くそっ……!」

 

セルティとリャーナが、後方から砲撃魔法を準備した。

女の色違いの瞳が、詠唱する二人を一瞥した。

 

女が、手を伸ばし口を開いた。

 

「【魂の平静】」

 

短い詠唱。たった一節。

Lv.3の砲撃が二発、女の前で音もなく消えた。

そして――。

 

「【福音】」

 

音そのものが、攻撃になった。

見えない衝撃波が、セルティ、リャーナと周囲の団員を同時に打ち据えた。

 

「これほどかよ――【静寂】は」

 

ライラが、歯を食いしばった。

 

「【静寂】とは、まさか、あのヘラ・ファミリアの――」

 

輝夜が起き上がりながら、驚愕の声を上げた。

 

「【静寂】のアルフィア!?」

 

アリーゼが絶句した。

 

「雑音がうるさい」

 

音が波状に襲い掛かった。

 

それは、杏寿郎とザルドの闘い以上に、一方的だった。

アストレア・ファミリアの団員が、杏寿郎を除く全員で襲いかかっても、アルフィアは汗一つかかなかった。

 

近接戦闘では手刀だけで剣を弾き、魔法戦では一節の詠唱で全員を吹き飛ばす。

病に冒された身体でありながら、その戦闘能力は、今のオラリオにはあり得ないほどに、隔絶していた。

 

三十分の戦闘で、全員が地面に転がっていた。

アリーゼは腹を押さえて蹲り、輝夜は仰向けに大の字で倒れ、リューは木刀を吹き飛ばされて膝をついていた。

ネーゼは気絶し、セルティとリャーナは砲撃を無効化されたうえで制圧された。

 

マリューだけが無傷だった。回復役には手を出さない、という最低限の配慮がアルフィアにはあった。

 

「……弱い」

 

アルフィアは、外套の裾を払いながら、呟いた。

色違いの瞳に、落胆の色はなかった。

最初から期待していなかったからだ。

 

「お前たちの団長は、二つもレベルが上の相手に食らいついている。なのに、お前たちはこのザマでよいのか」

 

アルフィアは、背を向けた。

 

「明日も来る。あの男の傍にいたいと望むのなら――立て」

 

それだけ言って、アルフィアは谷の方へ消えていった。

 

 

 

翌朝。

アルフィアは、言った通りに来た。

 

誰もがボロボロだった。

マリューの回復魔法で致命傷は癒えていたが、筋肉の深部に残る疲労と、打撲の鈍痛は消えていなかった。

 

それでも、全員が立った。

 

アリーゼが、最初に剣を構えた。

碧い瞳に、昨日とは違う光が宿っていた。

杏寿郎のことを考えていた。

あの岩場で、血豆だらけの手で、一日中刀を振り続けている男のことを。

ザルドに吹き飛ばされても、骨を折られても、立ち上がり続ける男のことを。

 

――あの人の隣に立ちたい。

 

それは、女心と不可分に結びついた、根源的な渇望だった。

あの男の隣で、同じ高さで、同じ方向を見て戦いたい。

守られるだけの存在ではなく、背中を預けてもらえる存在になりたい。

 

――そのためには、強くならなければならない。

アルフィアに叩きのめされるだけの自分では、杏寿郎の隣には立てない。

 

「小娘ども、死ぬ気で来い」

 

アルフィアがアリーゼに告げた。

 

「私たちは、負けないわ! 絶対に土をつけてやるんだから!!」

 

碧い瞳が、燃えていた。

アルフィアの瞳が、微かに動いた。

 

 

それから、地獄のような日々が続いた。

毎朝、アルフィアが現れた。

毎朝、全員が叩きのめされた。

それでも、全員が立ち上がり続けた。

 

アルフィアの戦闘訓練は、ザルド以上に容赦がなかった。

手加減はしていた。全力を出せば、全員が即死する。

しかし、手加減の中にも、確かな厳しさがあった。

弱点を的確に突き、甘い部分を容赦なく叩く。

言葉は少なかったが、その少ない言葉が、すべて急所を穿っていた。

 

「エルフ。足が遅い。速さに頼るなら、もっと速くなれ」

 

「東方の女。居合に固執しすぎだ。初太刀を外した後の二の太刀が遅い」

 

「赤毛。力任せに振るな。剣に意志を乗せろ。お前の団長を見習え」

 

その指摘は、遥かな高みに昇った英雄からの贈り物だった。

 

 

二週間が過ぎた頃、変化が現れ始めた。

最初に変わったのは、杏寿郎だった。

 

刀から放たれた炎が、初めて、それまでの間合いを大きく超えて飛んだ。

距離も威力も、ザルドの手本とは比較にならない。

しかし、確実に、斬撃が飛んだ。

 

 

杏寿郎の炎の瞳に、光が灯った。

そこからは、斬光の習得が加速した。

飛距離は伸び、威力も少しずつ上がっていった。

 

「遅い、甘い、温い。そんなのでは雑魚の竜さえ倒せない」

 

少しでも上達を見せるたびに、ザルドの打ち込みは厳しさを増した。

それは、己の全てを若き俊英に託そうとするかのような、容赦のない特訓だった。

 

 

同時に、アルフィアに鍛えられるアストレア・ファミリアの面々にも、変化が生じていた。

 

リューの速度が、目に見えて上がった。

アルフィアの手刀を完全に躱すことはできなくとも、掠める程度にまで距離を詰められるようになった。

 

セルティとリャーナの砲撃魔法の詠唱速度が向上した。

完璧とは言えないものの、少しずつ並行詠唱ができるようになった。

アルフィアに封じられる前に、一発でも撃ち込もうと必死に詠唱を練り上げた結果だった。

 

ライラは、戦闘そのものよりも、アルフィアの動きを観察し続けた。

参謀の目が、【才禍の怪物】の戦闘を分析し、対策を練り上げていった。

とくに【魂の平静】という詠唱から発動される魔法無効化に注目していた。

魔法の強さに比して短すぎる詠唱、なぜかアリーゼの剣のエンチャントだけが消える現象――。

答えは目前にあった。

 

 

そして――アリーゼと輝夜。

この二人の成長は、目覚ましかった。

 

アリーゼは、杏寿郎のことを考えるたびに、身体の底から力が湧いた。

あの岩場で刀を振り続ける男の姿が、瞼の裏に焼きついていた。

夜、天幕の中で横になると、杏寿郎の横顔が浮かんだ。

汗にまみれ、血豆だらけの手で刀を握り、ザルドにボロボロになるまで倒され――。

それでも、瞳から炎が消えることはなかった。

 

力の差をものともせずに挑み続ける、あの炎の色を思い出すたびに、胸の奥が、きゅっと締まった。

甘く、苦しく、切ない。

 

――私は、この人を愛している。

 

その自覚が、アリーゼの戦い方を変えた。

杏寿郎の隣に立つためには、強くなければならない。

想いを貫くためには、身体を鍛え、剣を磨き、心を燃やし続けなければならない。

 

杏寿郎を想うたびに、剣が冴えた。

杏寿郎の笑顔を思い出すたびに、身体が軽くなった。

 

想いそのものが、ステイタスを底上げしているかのようだった。

「傍にいたい」という想いが、女の深い情念に変わったことで、スキルの根源がより深く、より熱く燃え始めていた。

 

 

アルフィアの手刀が迫る。

アリーゼは、それを紙一重で躱した。

返す剣で、アルフィアの外套の裾を掠めた。

昨日までは届かなかった距離だった。

炎のエンチャントが、アリーゼの身体能力を大きく底上げしていた。

 

「……少しは、マシになったか」

 

アルフィアの呟きは、賞賛でも嘲りでもなかった。

ただの事実の確認だった。

しかし、アリーゼにとっては、それだけで十分だった。

 

 

輝夜の変化は、アリーゼとは異なる形で現れた。

輝夜にとって、杏寿郎への想いは、心の暗い場所を燃やし尽くしていた。

五条の闇の中で凍えていた心を、杏寿郎の炎が溶かした。

それは、圧倒的な炎の熱量による、魂の救済だった。

 

修練の合間に、遠くの岩場を見ると、杏寿郎が刀を振っている。

汗が飛び散り、炎が弧を描く。

鍛え上げられた身体が、炎に照らされて、影を落とす。

その影の形を、輝夜の切れ長の瞳は、無意識に追っていた。

 

人形めいた美貌の下で、生の女の心が、叫んでいた。

 

あの広い背中を、感じたい。

あの腕に、抱かれたい。

 

――あの炎で、焼かれたい。

 

その渇望が、輝夜の刀に、新たな切れ味を与えた。

杏寿郎を想うたびに、斬撃が鋭くなった。

 

杏寿郎に捧げたいと願うたびに、五条の闇に穢された太刀筋が、本来の輝きを取り戻していった。 

 

アルフィアの手刀を受け流し、返す太刀を放つ。

三日前には完全に弾かれていた一撃が、今日は、アルフィアの手首を僅かに逸れて、外套の袖を裂いた。

 

「ほう」

 

アルフィアの色違いの瞳が、初めて、微かな興味を帯びた。

 

 

アストレアは、二人の変化を、静かに見ていた。

アリーゼが杏寿郎を想うとき、その剣が冴えることを、アストレアは知っていた。

輝夜が杏寿郎に焦がれるとき、その刀が鋭くなることを、アストレアは感じていた。

 

主神には、眷属の心がうっすらと見える。

そして、二人の心に宿る感情が、アストレアの胸を、複雑に揺らした。

 

――では、自分はどうなのか。

 

それは、傷ついてぼろぼろになる杏寿郎やアリーゼたちを見ながら、何度も自問した問いだった。

 

アストレアにとって、杏寿郎たちが全力で戦うさまを見る初めての機会だった。

神はダンジョンに入れないし、闇派閥との戦いのときも、アストレアは本拠で留守番をしていた。

 

それだけに――。

自らの眷属たちが傷つきながらも、心を燃やして、かつての英雄に挑み続ける様は、アストレアの心を揺さぶった。

特に、杏寿郎が大きな壁を前に苦悩しつつも前進し続ける様に、強く魅せられた。

それは、まさに英雄の(きざはし)を上る青年の姿だった。

 

 

アストレアの悩みをよそに、杏寿郎は成長を続けた。

斬撃が飛ぶ距離は伸び、威力も増した。

 

しかし――。

 

「……足りない」

 

杏寿郎は、夕暮れの岩場で、膝をついて呟いた。

汗が顎から滴り、地面に染みを作った。

 

一見すると飛ぶ斬撃に見えなくもないが、ザルドの見せた斬撃とは決定的に違った。

 

――最後の一線を越えられない。

それが何なのかすら、杏寿郎にはまだ掴めなかった。

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