ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか 作:kursk
一月が経った。
その朝、ザルドは仁王立ちのまま、杏寿郎を見つめた。
冷たい瞳だった。
特訓を見守っていたときの穏やかさが、消え失せていた。
代わりに、武人の非情が宿っていた。
「一月経っても、モノにできないか」
ザルドの声は、平坦だった。
しかし、処刑宣告のような重みが籠っていた。
「お前は所詮、そこまでの男だったということだ」
杏寿郎の炎の瞳が、ザルドを見上げた。
言葉が、胸を抉った。
反論したかった。もっと時間があれば、と。
しかし、時間がないことは、杏寿郎自身が一番よく知っていた。
竜の群れが谷を飛び出す日は、段々と近づいていた。
ザルドが、大剣を抜いた。
いつもの訓練とは違う、威圧的な音が響いた。
それは、本物の殺気だった。
手合わせとは、まるで違う圧力が肌に重くのしかかった。
ザルドの灰色の瞳に、容赦の色はなかった。
「せめて、俺の手で冥界に送ってやろう」
ザルドの口元が、僅かに歪んだ。
慈悲とも残酷ともつかない笑みだった。
竜に食い殺されるくらいなら、俺が斬ってやる。そういう意味の笑みだった。
「ザルドっ!!」
アストレアの叫びが響いた。
ライラが身構え、アリーゼが剣を抜いた。
輝夜の手が、刀の柄に触れた。
しかし、ザルドの気配が、全員を金縛りにした。
Lv.7の殺気が、大気そのものを押し潰した。
アリーゼの脚が震え、ライラの顔から血の気が引いた。
輝夜でさえ、指先が動かなかった。
――この男が本気を出したら、全員が一瞬で死ぬ。
それを、身体が理解した。
「来い、杏寿郎」
ザルドが、大剣を構えた。
それは、正しく蹂躙だった。
やっていること自体は、それまでと変わらない。
剣での応酬が続くだけ。
しかし、今回は、ザルドが剣に込める力が段違いだった。
「炎の呼吸・壱の型――【不知火】!」
「遅い。その呼吸とやら、威力はあるが溜めがいるな」
ザルドは、不知火の技の起こりを捉えて、大剣で潰す。
杏寿郎は、技に入る前の無防備な一瞬に、怪力で吹き飛ばされた。
それでも、なんとか体勢を立て直そうとする杏寿郎を、無慈悲な剣の暴虐が襲う。
「くっ、肆の型――」
「だから、甘いと言っている」
炎をものともしない斬撃が頭上から振り落とされる。
杏寿郎の防御を一顧だにせずに、Lv.7の一撃が杏寿郎をふたたび吹き飛ばした。
まるで毬のように、杏寿郎の肉体が大地を転がる。
ザルドは、失望したように見下ろした。
「立て、杏寿郎――立てぬというなら――」
詠唱が始まった。
その間に距離を詰めて、詠唱を封じなければいけなかった。
だが、杏寿郎は一歩を踏み出すことすらできなかった。
膝に力を入れて、立ち上がるのがやっとだった。
「貪れ、炎獄の舌。喰らえ、灼熱の牙――【レーア・アムブロシア】」
ザルドの詠唱は短かった。
しかし、その短文詠唱が完成した瞬間、大剣が白銀の炎を帯びた。
大気が歪み、空間が軋んだ。
ザルドが、大剣を振り上げた。
たったそれだけの動作で、大気が悲鳴を上げた。
そして――振り下ろされた。
白銀のまばゆい炎の斬撃が、放たれた。
大地を裂き、空気を断ち、一直線に杏寿郎へ向かって突き進んだ。
その軌道上の地面が、溝のように抉れていった。
岩が、砂が、土が、斬撃の余波だけで吹き飛んだ。
直撃すれば、存在ごと消される。
そういう一撃だった。
迫り来る白銀の斬撃を、炎の瞳が捉えた。
時間が、引き延ばされた。
死が迫るとき、人間の知覚は限界を超えて加速するという。
杏寿郎の目には、白炎の斬撃がゆっくりと、しかし確実に近づいてくるのが見えていた。
不思議なくらい、恐怖はなかった。
あるのは、想いだけだった。
――嗚呼、ここで、終わるのか。
ふいに、母の顔が浮かんだ。
――強く優しい子の母になれて幸せでした。後を頼みます。
母から託された想いと責務があった。
それは、杏寿郎にとって始原の誓いだった。
両目に涙を浮かべながら、自分を見つめるアストレアの姿が目に入った。
これまで、自分を導いてくれた、唯一無二の正義の女神。
気が付けば、女神の神意に応えることは、母との誓いと同じくらい杏寿郎にとって大切なものになっていた。
アストレアに抱きしめられるとき、母の抱擁のように安らぎを覚えることができた。
女神のもとに帰る――それが今の自分にとっての日常であり、新たな誓いだった。
アリーゼの笑顔が浮かんだ。
自分を兄と慕ってくれる快活な少女。
この暗黒の時代に、心を傷つけられながらも、必死に立ち上がろうとする様は、大輪の花のように、誇り高く美しかった。
兄として、団長として、この才能溢れる妹に、消えることのない炎を継いでほしい――。
口には出さずとも、そう思っていた。
輝夜の横顔が浮かんだ。
一門の宿業に穢され、望まぬ人殺しを強いられ、絶望しながらも足掻き続ける孤高の魂。
オラリオに辿り着いてから、努力の果てに少しずつ生家の戒めから解き放たれ、花開いていった。
過去の汚泥に穢されながらも、なおも必死に足掻く心の在りようは、清冽で、鬼気迫るほどに美しかった。
二人だけではない。
ライラの不敵な笑みが浮かんだ。
リューの生真面目で寂しがりやの瞳が浮かんだ。
姉のように穏やかに見守ってくれるマリュー、辛い過去を持ちながらも明るいリャーナ。
仲間たちの顔が、一人一人、浮かんでは消えた。
誰もが、決して楽な人生を歩んでいなかった。
傷ついた流転の果てに正義の女神のもとに集い、自分を慕ってくれた。
――ああ、そうか。
すとんと、腑に落ちるものがあった。
これまで、母との誓いを胸に、やってきたつもりだった。
しかし、実際はそれだけではなかった。
もちろん、母との誓いは、決して揺らぐことのない己の礎。
同時に――。
人とは、過去のみならず、現在からも影響を受け、その環境で足掻くものだ。
己にとって、それはアストレアの星の導きであり、アリーゼたちの信頼や、苦悩に満ちた前進だった。
共に生きてきた歳月は、たったの3年だったが、気が付けば、欠くことのできない大切な仲間になっていた。
――炎は巡る。
父祖から受け継ぎ、母が灯した炎は、アリーゼたちに受け継がれ、その炎が今度は自分を支える光となる。
それは、アストレアの神血を媒介にした不朽の絆であり、魂の共鳴だった。
そのことに思い至ったとき――。
杏寿郎の内側で、何かが弾けた。
それは、やはり、炎だった。
ただ――これまでのものとは、質が違った。
身体の奥底の、さらに奥。魂の根源とでも呼ぶべき場所から、灼熱の奔流が湧き上がった。
ザルドが言った。
刃に乗せるのは、力ではない。意志だ、と。
その意味が、今、分かった。
斬撃を飛ばすとは、意志を飛ばすことだ。
――守りたいという意志。
――生かしたいという意志。
――
その意志を、炎に乗せる。
炎を、刀に凝縮し、意志とともに、解き放つ。
杏寿郎は、刀を構えた。
全集中の呼吸が、今までにない深さに達した。
肺が焼けるような熱さだった。血管が沸騰するような感覚だった。
それでも、呼吸は止めなかった。
むしろ、限界を超えた熱をすべて刀に注ぎ込んだ。
刀身が、赤く燃えた。
否――赤を超えた。
赫い光と熱が、刀身を包んだ。
刀の周囲の空気が歪み、陽炎のように揺らめいた。
杏寿郎は、意志を刀に乗せて、振った。
「炎の呼吸――
声が、大地を震わせた。
「【暁炎】」
炎の斬撃が、放たれた。
刀身に凝縮された炎が、剣気とともに射出された。
紅蓮の暁光が、夜明けの光のように大地を照らした。
炎の呼吸の使い手は、決して自分たちの呼吸を『火の呼吸』とは呼ばない。
また、太陽を連想させる技は禁忌だった。
その禁忌を敢えて破る――否、破らざるを得ないほどに、炎を超越して陽光に迫る一撃だった。
それは、暁の空に昇る曙光のように、真っ直ぐに、ザルドの白銀の斬撃に向かって飛んでいった。
二つの斬撃が、正面から激突した。
天地が裂けるような衝撃が、谷の麓を揺るがした。
衝撃波が円環状に広がり、野営の天幕を吹き飛ばし、遠方の飛竜さえ悲鳴を上げた。
アリーゼが風圧に煽られてよろめき、輝夜が咄嗟にアリーゼの腕を掴んで支えた。
ライラが身を低くし、リューが地を這った。
アストレアは、風の中で祈るように両手を合わせたまま、二つの光がぶつかり合う光景を凝視していた。
白光と暁が、鬩ぎ合い――一瞬、拮抗した。
そして、紅蓮が、押し負けた。
ザルドの白光が、杏寿郎の暁炎を食い破った。
紅蓮の光が砕け散り、残された白銀の斬撃が、威力を減じながらも杏寿郎に向かって突き進んだ。
杏寿郎は、とっさに刀を盾にした。
まだ死ねない。死ぬわけにはいかなかった。
アストレアが。アリーゼが。輝夜が。みんなが、待っていた。
その想いが高温の炎となって、杏寿郎の身体から噴き出した。
「俺は煉獄杏寿郎――絶対に生きて、己の責務を全うする!!!」
炎が雄たけびを上げた。
そこに――白銀の残滓が、激突した。
衝撃が全身を貫き、杏寿郎の身体が後方に吹き飛ばされた。
地面を何度も転がり、岩壁に叩きつけられて、ようやく止まった。
全身がひどく痛んだ。
腕が痺れ、刀を握る指が動かなかった。
視界が明滅し、意識が遠のきかけた。
口から血が溢れ、鎧の下では何本もの骨にひびが入っている感触があった。
しかし、杏寿郎は倒れなかった。
壁に背を預けたまま、膝を立て、刀を杖にして立ち上がった。
炎の瞳は、まだ燃えていた。
ザルドは、大剣を下ろした。
灰色の瞳が、見開かれていた。
初めて、この英雄の顔に、明確な驚きの表情が浮かんでいた。
ザルドの左腕が焼け爛れていた。
白い光に打ち砕かれたはずの暁の光が、ザルドの腕を掠めていた。
傷としては些細なものだった。
しかし、Lv.5の冒険者が、Lv.7の剣士に、確かな傷をつけた。
ザルドは、自分の腕の傷を見つめた。
驚愕。感嘆。そして――歓喜。
灰色の瞳が獰猛に輝いた。
「……見事だ」
ザルドの声は、低く、しかし確かに震えていた。
ザルドは杏寿郎から視線を外し、背後を振り返った。
マリューが、杖を握りしめ、蒼白な顔で立っていた。
ザルドは、マリューに向かって顎をしゃくった。
「治癒師、この男を治療してやれ」
マリューが、弾かれたように杏寿郎のもとへ駆けた。
ザルドは、再び杏寿郎を見た。
壁に背を預け、血塗れのまま立っている男を。
炎の瞳が、まだ燃えている男を。
「これは、間違いなく――英雄に至る」
ザルドの声は、静かだった。
しかし、その言葉の重みは、この英雄のすべてを賭けた保証だった。
幾多の冒険者を見てきた男が、その経験のすべてを以て断言した。
この男は、英雄になる、と。
杏寿郎は、血塗れの顔に、炎のような鮮烈な痣を浮かび上がらせながら、笑っていた。
太陽のような笑顔だった。
マリューの回復魔法の光が、杏寿郎を包んだ。
温かい光が、傷ついた身体を癒していった。
ライラは、腕を組んだまま、ふう、と大きく息を吐いた。
栗色の瞳が、天を仰いだ。
「……心臓に悪いぜ、まったく」
リューは、膝をついていた。
衝撃波で体勢を崩した後、立ち上がれなかった。
空色の瞳が、杏寿郎とザルドの立っていた場所を見つめていた。
「……あれが、第一級冒険者の戦い」
呟きは、畏怖に満ちていた。
自分がいつか辿り着くべき高みの、その遥か先にある光景を、リューは初めて目にした。
それは、これまで漠然と正義を唱えてきた幼い妖精が、生まれて初めて魂に刻んだ、果てしない憧憬だった。
アリーゼが駆けてきた。
碧い瞳から涙を溢れさせながら、杏寿郎にすがりついた。
「お兄様……! お兄様ぁ!! もう、無茶しないで……!」
「すまない、アリーゼ。だが、ようやく、掴んだぞ」
杏寿郎の声は掠れていたが、その中に、確かな手応えが響いていた。
杏寿郎の大きな手が、アリーゼの赤い髪をくしゃりと撫でた。
血に汚れた指だった。傷だらけの手だった。
その手が――あまりにも温かかった。
「お兄様!? いつもより、かなり熱いし、脈も速い。マリュー、本当に大丈夫なの!?」
アリーゼは、慌ててマリューのほうを振り向いた。
「さっき見た限り、肋骨の傷も癒えているし、治る……と思うわ。ただ、あれだけの戦闘だったから……」
マリューが、少し自信なさそうに診断結果を伝えた。
「ああ、俺も特に異常は感じない。たぶん、力を出し過ぎただけだろう」
杏寿郎は、アリーゼの頭を優しく撫でながら、告げた。
アリーゼは、その声に安堵したように、杏寿郎の胸に顔を埋めた。
血と汗と炎の残り香が、鼻腔を満たした。
いつもの匂いだった。
先ほどの光景が、脳裏に蘇った。
ザルドの白銀の斬撃が迫る中、杏寿郎は刀を構え――。
死の刃を前にして、一歩も退かず、むしろ踏み込んだ。
死中の生を掴んで、大きく羽ばたいた。
あの紅炎の残光を目の当たりにしたとき――。
闇派閥の陰謀も、ゲルトの裏切りも――すべてが塵芥のように霞んでしまった。
杏寿郎の魂を宿した炎の輝きは、地上のあらゆる闇を灼き尽くすほどに、圧倒的だった。
アリーゼの心臓が、痛いほどに鳴っていた。
杏寿郎の胸に顔を埋めたまま、碧い瞳を閉じた。
杏寿郎の激しい心臓の音が、自分の耳に直に届く。
その鼓動を聞きながら、アリーゼの中で、感情の最後の堤防が決壊した。
もう、誤魔化せなかった。誤魔化す気もなかった。
――私は、心の底から、この人の全てを愛している。
この人の隣に立ちたい。
この人に守られるだけではなく、この人を守りたい。
いつまでも、この人の炎に照らされ、温められ、ともに戦いたい。
そして――妹としてではなく、女として。抱きしめてほしい。愛してほしい。私の全てを受け止めてほしい。
それは狂おしいほどの情念であり、救済の光だった。
この一ヶ月、アルフィアに叩きのめされながら、杏寿郎のことだけを考えて立ち上がり続けた。
その日々が、アリーゼの中に、揺るぎない一本の芯を作り上げていた。
正義への信念と、杏寿郎への慕情が、撚り合わされて一本の芯となった。
――今はまだ、私は弱すぎる。想いを告げても、きっと邪魔になる。
だから――。
もっと強くなりたい。この背中を守れるように。
想いを受けとめてもらえるくらい、強くなろう。
炎の花となって、柱のように揺るぎない、この人の周りで舞えるように――。
「お兄様! 私も頑張る! きっと、お兄様と並ぶくらい強くなるから!! ずっと見ててね! 大好き!!」
炎のように熱い想いを込めて、アリーゼは強く誓った。
杏寿郎は、何か眩しいものでも見るように、アリーゼを見つめ返した。
「ああ、楽しみにしている。アリーゼ、お前なら必ずや成し遂げられる!」
輝夜は、少し離れた場所に佇んで、抱き合う兄妹を見つめていた。
切れ長の瞳が潤み、目尻からは涙が零れ落ちては、頬を伝って流れた。
唇を固く引き結び、杏寿郎の血塗れの笑顔を目に焼きつけていた。
輝夜の胸の中で、五条家の正義が、最後の灰になった瞬間だった。
この一ヶ月で、すでに生家の鎖は崩壊し始めていた。
アルフィアに叩きのめされるたびに、五条の暗殺剣の限界を思い知らされた。
血まみれになって戦う杏寿郎のことを考えるたびに、極東の正義がいかに空虚なものだったかを突きつけられた。
五条は、一族の血統を最上とし、神を模倣せんとし、他者を見下すことで成り立つ正義だった。
輝夜が一族から逃げ出したのは、その欺瞞に耐えられなかったからだ。
だが、杏寿郎は違う。
自分より遥かに強い者に、血塗れになりながら立ち向かう。
折れても、砕けても、這いつくばってでも立ち上がる。
あの炎は、安全圏から語られる正義ではない。
命を賭して初めて灯る、本物の炎だった。
――この男しかいない。
心臓から爪先まで、熱い波が駆け抜けた。
胸の奥で、五条の凍てついた血が、沸騰していた。
輝夜は、無意識に唇を噛んだ。
下腹部は甘く痺れ、息は上がり、頬は紅に染まっていた。
人形めいた美貌が、内側から燃えるような熱を帯びていた。
――いつか、この男の腕の中で、ただの一人の女として、溶けたい。
輝夜は、自分の手を見つめた。
白く細い指が、微かに震えていた。
いまいましい五条の毒を宿す手。愛する者を受け入れることすら許されない、穢れた血。
その事実が、狂おしいまでに輝夜の胸を灼いた。
――この男に、すべてを捧げたい。
身体を、心を、魂を。
五条の呪いすら踏み越えて、この男のものになりたい。
初めて経験する痛みも、女としての歓びも、すべてを消えない刻印として、この身体に刻んでほしい――。
仮面は、もうなかった。
あるのは、一人の男に魂を焼かれた女の、剥き出しの叫びだけだった。
――杏寿郎。
声には出さなかった。
ただ、情念に濡れた瞳で、血塗れの男を見つめ続けた。
アストレアは、両手を胸の前で組んでいた。
翠の瞳から、涙が頬を伝い落ちていた。
しかし、その唇には、微笑みが浮かんでいた。
――やはり、あなたは止められないわね、杏寿郎。
正義の女神は、眷属の血塗れの笑顔を見て、泣き笑いの顔をした。
同時に――泣き笑いの奥で、アストレアの心には、もう一つの感情が渦巻いていた。
二人の戦いを見ていた間、アストレアの心臓は一度も落ち着かなかった。
杏寿郎が吹き飛ばされたとき、胸が潰れるかと思った。
杏寿郎が立ち上がったとき、全身が震えた。
杏寿郎が紅蓮の斬撃を放ったとき――女神の魂は、歓喜した。
それは、慈愛や恐怖といったありきたりの感情ではなく、もっと根源的な、神としての本質に根ざした想いだった。
神は、英雄を求める。
天界では満たされなかった渇きを満たすために、神々は下界に降りた。
英雄譚を。闘争を。愛憎を。人間が紡ぐ物語の輝きを、間近で見たかった。
杏寿郎は、今日、アストレアの目の前で、英雄の物語を紡ぎ出した。
圧倒的な強者に立ち向かい、砕かれ、それでも立ち上がり、限界を超えた。
Lv.7の伝説の剣士に傷を負わせ、「英雄に至る」と言わしめた。
あの戦いの間、杏寿郎は、紛れもなくアストレアの英雄だった。
そして、正義の女神は、神が英雄を前にしたとき何を感じるか、長い生で初めて知った。
それは、胸の奥底から込み上げる、灼けつくような情念だった。
血塗れで立ち上がった杏寿郎が、壁に背を預けて、太陽のような笑顔を見せた瞬間――。
アストレアの身体の芯を、甘い稲妻が貫いた。
神の身体が、人間の男に反応した。
千年の矜持が、一瞬で揺らいだ。
身体の奥底で、熱が確かに脈を打った。
もし――もし、今この瞬間に、杏寿郎が戦闘の昂ぶりを鎮められないまま、自分の手を握り、燃えるような炎の瞳で、あの男らしい声で自分の名前を呼んだら――。
アストレアは、自分の胸の前で組んだ手を、きつく握りしめた。
指先が白くなるほどに。
星夜のような瞳を閉じ、深く息を吸った。
戦場の乾いた風が、熱くなった頬を撫でた。
――駄目よ。私はあの子たちの
そう言い聞かせた。
しかし、閉じた瞼の裏に浮かぶのは、杏寿郎の笑顔だった。
あの顔に、触れたいと思った。
あの頬の血を、指で拭ってあげたいと思った。
そこまで考えて、アストレアは自分の想いに絶句した。
思考を強引に断ち切り、瞼を開けた。
頬が、耳まで朱に染まっていた。
視線の先では、一人の男が、煌々と燃えていた。
かくして、戦いは終わった。
夕暮れの光が、荒涼とした大地に複雑な陰影を投げかけていた。
土埃と、炎の残り香が、焼け焦げた空気の中に溶けていた。
野営地の天幕は、あの衝撃波でいくつか吹き飛んでいた。
ライラが舌打ちしながら修復の指示を飛ばし、マリューが改めて杏寿郎を治療していた。
杏寿郎は、横になりながら、静かに呼吸していた。
全集中の呼吸で、乱れた気を整えている。
骨のひびは、マリューの回復魔法で塞がれていた。
しかし、深い疲労と、全力を出し尽くした筋肉の痛みは、回復魔法の届かない領域にある。
炎の瞳は、黒い雲に覆われた空を映していた。
――掴んだ。
心の中で、その確信が静かに燃えていた。
歴代の呼吸の使い手が、誰一人として生み出せなかった拾ノ型――。
名前をつけた技は、まだ荒削りだった。
ザルドの白銀の斬撃には押し負けた。
だが、Lv.7の剣士に傷をつけた。
――次は、負けない。
その熱い想いだけが、血塗れの身体の中で、消えずに燃えていた。
「杏寿郎」
アストレアの声だった。
杏寿郎は、身を起こして立ち上がった。
アストレアが、立っていた。
野営地の焚火が、深い碧の瞳を照らしていた。
その瞳が、ひどく揺れていた。
「アストレア様」
杏寿郎が、口を開こうとした。
それより先に、アストレアが動いた。
一歩、踏み出した。
もう一歩、踏み出した。
そして、杏寿郎の胸に飛び込み、両腕を回した。
杏寿郎の動きが、止まった。
アストレアの細い腕が、杏寿郎の背中に触れていた。
栗色の髪が、杏寿郎の胸元にふわりと広がった。
「……杏寿郎」
アストレアの声は、震えていた。
押し殺しても、声に滲み出してくる想いがあった。
杏寿郎は、動けなかった。
腕を、どこにやればいいか分からなかった。
しかし、アストレアの腕が、きつく背中に回っていた。
これほど力を込められたことは、なかった。
杏寿郎の胸の奥に、温かいものが広がっていった。
その想いのまま、壊れ物を触るように、そっとアストレアを抱きしめた。
言葉では説明のつかない、しかし確かな安らぎが、全身に染みていった。
帰ってきた。敬愛する女神のもとに。
「俺は帰ってきました、アストレア様」
杏寿郎が発した声は、当人としても意外なくらい静かだった。
「……ええ」
翠の瞳から、一筋の涙が伝い落ちた。
アストレアは、それを気づかれないように、杏寿郎の胸に顔を埋めた。
しばらくの間、二人は、そのままでいた。
夕風が吹いた。
炎のような髪と、栗色の髪が、風に巻かれて揺れ、混ざり合った。
やがて――。
アストレアが、ゆっくりと身を離した。
翠の瞳を細め、軽く咳払いをした。
頬が、かすかに赤かった。
「……さあ、ステイタスを更新しましょう。あなたが最初よ、杏寿郎」
普段通りの声だった。
だが、声の奥の揺れは、明らかだった。
アストレアは、野営地の一角に設けた小さな天幕に、一人ずつ呼んだ。
最初は、杏寿郎だった。
二人だけの小さな空間に、かがり火が一つ、静かに燃えていた。
杏寿郎が、服を脱いで、うつ伏せに横たわった。
広い背中だった。
傷跡がいくつもある。
修練の一ヶ月で、岩にぶつかり、ザルドの大剣の余波を受け続けた痕跡が、幾重にも皮膚に残っていた。
しかし、その傷跡ごと、この男の背中は美しかった。
鍛え続けた者だけが持つ、無駄のない肉体の美しさが、そこにあった。
アストレアは、その背中を前にして、一瞬、息を整えた。
それから、杏寿郎の背に、そっと神血で線を引いた。
数値が変わり、ステイタスが更新されていく。
そして――。
アストレアの瞳が、見開かれた。
「……これは」
声が、わずかに裂けた。
杏寿郎が、わずかに振り向いた。
「どうかしたのですか、アストレア様」
「新しいスキルが、発現しているわ。ただ……」
沈黙が、天幕の中に落ちた。
「【赫炎顕現】心拍数と体温が上限を超えたとき、全ての基本アビリティに超域補正がかかる。身体のどこかに、炎の痣が浮かび上がり、刀が赫く燃えるのが特徴のようね」
「痣が……」
杏寿郎は、静かに呟いた。
「そして、このときの刀が纏う熱は、魔法耐性や物理耐性を透過し、再生能力を一時的に封じるそうよ。竜の鱗も、魔物の不死身の再生も――この刃の前では意味をなさないわ」
かがり火が、ぱちりと音を立てた。
それは、下界の人間が宿すスキルとしては、あまりにも破格だった。
「ただし――」
アストレアの声が、低くなった。
「このスキルは、身体にとても大きな負担を強いるわ。使うだけで、寿命を削る可能性すらあるのよ」
沈黙が、重くなった。
アストレアは、杏寿郎の背中に触れたまま、続けた。
「第一級冒険者の身体は、文字通り人間離れしているわ。だから、ある程度の無茶は何とかなるでしょう。でも、乱用は、絶対に許さないわ。いいわね」
杏寿郎は、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。アストレア様のお言葉は守ります」
「本当に分かっているのかしら?」
「はい」
「……本当に?」
「俺は嘘をつきません」
天幕の中で、しばらく、二人だけの静寂が続いた。
アストレアは、杏寿郎の背から掌を離せないでいた。
「杏寿郎――」
女神は、静かに言った。
「約束よ」
「はい、約束します。俺は、必ず、アストレア様のもとに戻ってきます」
杏寿郎が服をまとって、立ち去った後も、アストレアは、一人残された天幕の中で、しばらく瞑目していた。
今夜だけは、この感情を、少しだけ許してもいいと思った。
次は、アリーゼだった。
小さな天幕に入ってきたアリーゼは、いつも以上に元気で、落ち着きがなかった。
無理もない、とアストレアは思う。
神である自分でさえ感情をかき乱されたのだ。
まだ15歳になったばかりの少女が、さきほどの死闘を受け止めるには、時間が必要だった。
手早く服を脱ぎ捨てたアリーゼの背中に、神血を垂らした。
そして――女神は、この日、何度目かの驚きを味わうことになった。
「アリーゼ、新しい魔法が発現しているわ」
アリーゼが、驚きを顔に張り付けて、振り向いた。
「魔法ですか」
「ええ。名は、【
アストレアは、神血の流れに記されたその魔法の性質を、丁寧に読み解いた。
「光と炎の複合魔法ね。使いこなせれば、魔導士の砲撃にも引けをとらない力になりそうよ」
アストレアは、娘を祝福するように、柔らかく微笑んだ。
「魔法やスキルは、経験や想いを形にしたものよ。良かったわね、アリーゼ」
アリーゼは、飛び跳ねんばかりに喜んだ。
愛する杏寿郎に置いて行かれそうになっていたところ、自分にも魔法が発現した。それも、兄への想いを形にした魔法が――。
アリーゼは、碧の瞳を、アストレアに向けた。
「きっと、お兄様への想いが、この魔法になったんですね! 嬉しいです!!」
アストレアは、微笑んだ。
「私、ずっと考えていました。アルフィアに毎日叩きのめされながら、ずっと。お兄様の役に立てる自分になりたいって。お兄様の隣で、胸を張って立てる自分になりたいって。その想いが……魔法になったなら」
アリーゼの声が、わずかに震えた。
「嬉しいです。この想いを貫いていい、って思えて」
アストレアは、後ろからそっとアリーゼを抱きしめてから、手を離した。
「早く杏寿郎に伝えてあげなさい」
「はい!!」
アリーゼが、勢いよく立ち上がって、天幕を飛び出した。
少し間があって、野営地の方から、「お兄様ーーーっ!!!!」という元気な声が聞こえた。
続いて、「私に魔法が出ました!!」という声が。
眷属たちの歓声とざわめきが、静かな天幕にも伝わってきた。
しばらくして、輝夜が天幕に入ってきた。
人形めいた美貌が、かがり火の光に照らされていた。
「アストレア様、お願いします」
輝夜は一礼して、うつ伏せになった。
「輝夜」
アストレアは、またしても驚きの声を上げた。
「あなたにも、新しいスキルが生まれているわ」
輝夜は、静かに頷いた。
「……そうですか」
輝夜の声が、かすかに揺れた。
「【月魄解咒】」
アストレアは、そのスキルの性質を読んだ。
読みながら、深い翠の瞳が、静かに細まった。
このスキルが生まれた経緯が、アストレアには理解できた。
五条の呪いが、ついに完全に昇華された証だった。
「スキルの効果を伝えるわ。……まず、想いが続く限り、器用と敏捷への超域補正。続いて、バッドステイタスの消失。そして――状態異常への高い耐性。毒、麻痺、呪い、魅了。あらゆる状態異常に対する高次の耐性が付与されているわ」
アストレアは、そこで言葉を区切った。
そして、静かに続けた。
「……私の直感だけれど、このバッドステイタスには、
天幕の中が、一瞬、静まり返った。
五条の毒。
その言葉を、アストレアは口にしなかった。
しかし、輝夜には、分かった。
輝夜は、しばらく動かなかった。
切れ長の瞳が、閉じていた。
白い指が、かすかに、地面の上で震えた。
「……そうでございますか」
一言だけ、呟いた。
それは、万感の想いと、狂おしいほどの情念が滲み出た、一言だった。
魂に刻まれた呪いが、今この瞬間に、最後の残滓まで灰となったことを、輝夜は確かに感じた。
――これで、あの男に、この身を捧げることができる。
それは、決して叶わぬ夢のはずだった。諦めていた希望だった。
「輝夜」
アストレアは、肩を震わせている輝夜を静かに見つめた。
「よかったわね」
「……何が、でございましょうか」
アストレアの声には、主神の温かな人柄が滲んだ。
「あなたの呪いが解けたことが、よ。あなたが、自分の手で、愛する誰かに触れることができるようになったことが」
輝夜は、沈黙した。
長い沈黙の後、掠れた声で言った。
「……ありがとうございます」
それだけだった。
かがり火が、ぱちりと音を立てた。
「アストレア様」
輝夜が、静かに口を開いた。
「念のために確認したいのですが――このスキルの補正条件は、想いの強さ、でしたね」
「ええ、そうよ」
「……つまり」
輝夜の唇が、微かに弧を描いた。
人形めいた美貌に、生身の女の表情が滲んだ。
「杏寿郎のことを想えば想うほど、このスキルは強くなる、ということですね」
アストレアは、静かに応じた。
「そうなるわね」
「ということは――」
輝夜は、切れ長の瞳をアストレアに向けた。
「――杏寿郎と夜を共にしても、何も問題はない、ということでよろしいでしょうか」
天幕の中が、静まり返った。
かがり火の炎が、ゆらりと揺れた。
アストレアは、瞳を細めた。
「輝夜」
アストレアは、穏やかに言った。
「私はアルテミスではないわ。眷属の恋愛を禁じる気はない。あなたの気持ちは、あなたのものよ」
輝夜が、静かに頷いた。
「ただ、節度はきちんと守ってね。そのうえでなら――ええ、神としての私の直感も、問題ないと言っているわ」
その言葉を紡いだとき、アストレアの瞳は微かに揺れた。
「……わかりました」
輝夜は、一礼した。
それから、ほんの僅かに口の端を持ち上げた。
「それにしても、アストレア様は、寛大ですね」
「輝夜?」
輝夜の切れ長の瞳が、真っ直ぐに、アストレアを見ていた。
「杏寿郎と男女の仲になる
天幕の空気が、固まった。
かがり火の炎が、一瞬止まったように見えた。
アストレアは、微笑みを浮かべたまま硬直した。
「……輝夜、あなたは何を――」
「事実を述べたまででございます」
輝夜は、涼しい顔をした。
「アストレア様の想いは、この一ヶ月で私にも分かりました。いえ、誰でも分かるでしょう。毎朝、岩場を見つめるアストレア様の瞳が、主神のそれなどではないことなど――」
「っ……」
「彼を、抱きしめた後の顔も」
「輝夜」
アストレアは、翠の瞳を細めた。
「何を言っているのか、私には分からないわ」
アストレアは、穏やかに言った。
「もう戻って――」
「アストレア様」
輝夜は、引かなかった。
「一つだけ言わせてください」
「……何かしら?」
「後悔は、取り返しがつきません」
輝夜の声が、低く、静かに響いた。
かがり火の音だけが、天幕の中に満ちていた。
「杏寿郎は、英雄に至る男です。英雄の命は、短いことも多い」
アストレアの翠の瞳が、揺れた。
「想いを内に秘めたまま、時が過ぎていくのを、黙って見ていられますか。失われた命は、決して戻りません。ましてや、神にとって、下界の眷属との愛など一瞬だと聞き及んでおります――」
それは、親しい者の命を奪ったことのある者が発する慟哭であり、助言だった。
長い沈黙が、落ちた。
アストレアは、瞳をかがり火に向けていた。
輝夜の言葉が、胸の奥の、深いところに届いていた。
あの戦いを思い出していた。
ザルドの白銀の斬撃が放たれた瞬間。
杏寿郎の存在が消されるかもしれないと思った、あの一瞬。
あのとき、胸の奥で何かが叫んだ。
失いたくない、と。
「……輝夜、あなたは……」
アストレアは、掠れた声で言った。
「……今夜は、もう戻りなさい。ゆっくり考えるわ」
「はい」
輝夜は、立ち上がった。
天幕を出る直前で、振り返らずに言った。
「アストレア様」
「何かしら……」
「後悔だけはしない選択を、してくださいませ」
それだけ言って、輝夜は静かに天幕を出た。