ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか 作:kursk
ステイタスの更新が終わって、数日後のことだった。
竜の谷から、竜の咆哮がこだました。
ライラが、立ち上がった。
「とうとう来たか……」
杏寿郎が、刀の柄に手をかけた。
炎の瞳が、谷の方向を見た。
音は一つではなかった。
次々と重なっては連鎖する咆哮が、荒野を震わせた。
「竜の群れが来る」
ザルドの声が、野営地に響いた。
巨漢は、岩の上に立っていた。
灰色の瞳が、谷の入り口を見据えていた。
「奴らが、『谷』から出てきた。雑魚を除いても、二十は下らない」
ザルドは、目を細めた。
「そして、先頭に大物がいる」
野営地全体が、緊張に包まれた。
アルフィアが、いつの間にか傍に立っていた。
病に蝕まれた白い肌。しかし、閉じた両目は、冷静に谷を向いていた。
「白霜竜か。白竜の中でも最上位の種で、強さはLv.8相当だろう」
アルフィアが、呟いた。
――Lv.8。
その言葉は、野営地に静かな衝撃を走らせた。
ライラの顔が、蒼白になった。
リューの空色の瞳が、動揺した。
アリーゼが、剣の柄を握りしめた。
ザルドは、大剣を肩に担いだ。
「Lv.8の竜に、お前たちが当たる必要はない。あの白竜は、俺たちが仕留める。その代わり、残りの竜は、お前たちが処理しろ」
「承知した」
杏寿郎は、緊張を含んだ声で答えた。
「ただし――」
ザルドの灰色の瞳が、杏寿郎に向いた。
「余波に巻き込まれるなよ。俺たちも本気を出す。範囲内にいると死ぬぞ」
「…………それほどか!」
「Lv.7とLv.8の戦いとは、そういうものだ」
ザルドは、端的に言って、谷の方向に歩き始めた。
アルフィアが、静かにその後に続いた。
「小娘ども」
アルフィアが、振り向かずに言った。
「英雄の作法を見せてやろう――今日見るものを、目に焼きつけておくがいい。お前たちが、いつか辿り着くべき頂の形だ」
それだけ言って、アルフィアは前を向いた。
最初の竜が、谷の入り口に現れたのは、それから少しして後のことだった。
暗黒の乱雲から、巨大な白翼が広がった。
続いて二体目、三体目――最初の竜よりは小型だが、十分に大きな竜が続々と姿を現した。
大地には、地竜が地響きを立て、土埃を上げながら走ってくる。
竜の咆哮が断続的に空気を裂き、大地が鳴動した。
「散開!」
ライラが叫んだ。
杏寿郎は、刀を抜いた。
鞘走りの音と同時に、炎が刀身に宿った。
【暁炎】の習得を経て、杏寿郎の炎の呼吸は、一段階上の次元に達していた。
その炎は今、竜の群れを前にして、静かに、しかし確実に燃え盛った。
「行くぞ!!」
「はいっ、お兄様!!」
「ああ、準備はできている」
「はい!」
アリーゼと輝夜とリューが、それぞれの武器を構えて続いた。
ライラが中衛に回り、セルティとリャーナが詠唱を始めた。
竜が、群れを成して迫ってきた。
ザルドから雑魚扱いされた地竜だけで、二十、いや、三十体。
それぞれが巨大な体躯を持ち、炎のブレスを吐きながら大地を走った。
弱い個体であってもLv.4程度の強さを誇る、屈強なモンスターだった。
杏寿郎は、先頭の竜に向かって真っ直ぐに走った。
炎の呼吸・壱ノ型――不知火。
深紅の斬撃が閃き、先頭の竜の首を断った。
着地と同時に、次の竜へ。
弐ノ型――昇り炎天。
下から斬り上げる一閃が、竜の顎を砕いた。
身体が軽かった。
ザルドとの訓練は、斬光を飛ばすだけではなく、基礎的な能力や技術を大幅に向上させていた。
竜の群れは止まらない。
Lv.5相当の個体も混じっている。
しかし、不思議と苦戦する未来が見えなかった。
型すら使わずに、呼吸を深くし、足裏に灯した炎を爆発させて距離を詰める。
地竜相手なら、一匹につき一振りで十分だった。
上空で羽ばたく竜が目に飛び込んできた。
首領の白竜やその取り巻きは、アルフィアとザルドが抑えていたが、それ以外のLv.6相当の飛竜は敢えて素通りさせていた。
そのため、今の杏寿郎にとっても格上の竜たちが次々に巨体を下降させてくる。
――来い。
杏寿郎は、大きく、深く息を吸った。
これは、いわばザルドとアルフィアに課された試験――。
あの日、岩壁に背を預けながら「掴んだ」と確信したものが、今、全身に満ちていた。
歴代の使い手が誰一人として生み出せなかった拾ノ型――。
それは、杏寿郎という一人の剣士が、己の全てを懸けて刻んだ技だった。
「炎の呼吸――拾ノ型」
全身の炎が、刀の一点に収束し始めた。
竜たちが、その輝きに気づき、焦ったように突っ込んでくる。
「【暁炎】!!」
旭のように紅い炎の光が、暗雲めがけて飛翔し、進路上の地竜を飲み込み――。
ことごとく焼き尽くした。
群れの中央に、帯状にぽっかりと穴が開く。
リャーナは、短杖を握ったまま、硬直した。
隣で戦場を見ていたセルティが、眼鏡の奥の瞳を見開いていた。
「あれが……団長の新しい型……」
リャーナが、掠れた声で言った。
これまで杏寿郎は、ひたすらザルドを相手に技を放っていた。
そのため、モンスターを相手にしたときに、この型がどれほど凶悪な威力を発揮するのかを、誰も十分に理解できていなかった。
それが、格上の竜の群れを鎧袖一触に焼き尽くしたとき、だれもが鳥肌が立つような感覚に襲われた。
しかも、この型は一発限りの隠し玉ではない。
残りの飛竜めがけて、次々に暁の曙光が大地から天を目指して伸び、飛竜どころか黒雲に穴をあける。
その杏寿郎の圧倒的な強さを見ながら、輝夜は静かに動いた。
五条の暗殺術には、毒から刀術まで様々なものがある。
けれども、その核にあるのは、相手を惑わせ、相手の意識外から命を刈り取るという外法。
その特徴は、体術や足運びにも表れていた。
それは、要するに、緩急をつけることで相手を惑わせるフェイントにすぎない。
ただし、輝夜は、この一か月間、アルフィアに徹底的に鍛えられ、着実に第一級冒険者への道を歩んでいた。
それだけの経験を積んだ今の輝夜が、敏捷と器用さを極めるスキルのサポートを受けながら、幻惑の歩法と気配殺しの技を使うとどうなるか――。
輝夜は、足の裏に魔力の薄い膜を作り、緩急をつけながら地表を滑るように走った。
輝夜の残像のような気配があちこちに生まれては、消える。
まるで朝靄のなかを走る人影のように、輪郭が揺らぎ、実と虚の境が曖昧になった。
アリーゼが目を丸くした。
「え……? 輝夜――!?」
竜が、輝夜を捉えようとした。
しかし、竜の目が追ったのは、残像だった。
顎を突き出して喰らいついても、歯は空しく大気を噛むだけだった。
霞のような足運びだった。
もっとも――それは、杏寿郎と違って希少な呼吸法などではなかった。
極東に伝わる、ふつうの忍術であり、暗殺の術だった。
自身の存在感を薄め、相手の意識を誘導することで惑わせるだけの薄汚い技。
輝夜と相対している竜からすると、目の前にいるはずなのに、別の場所にいるようにも感じられて戸惑いが生まれた。
そして、輝夜は、その隙を見逃すほど甘くはなかった。
「――遅い」
静かな声が、先頭の竜の横から響いた。
アリーゼが見ると、輝夜は無防備に居合の構えをとったところだった。
「禍つ彼岸花――【ゴコウ】」
そして――輝夜の右手が微かにぶれたと思った瞬間、紅の斬線が五本、走った。
一体目は頸動脈を裂かれ。二体目は頭蓋骨を両断され。三体目は延髄を断たれ――竜が次々に崩れ落ちた。
五体とも、自分が切られたことを理解するまえに、大地に倒れ伏した。
はるか先で、「一閃」という呟きがかすかに響いた。
竜に気を取られたアリーゼが視線を戻すと、輝夜は元の場所にはおらず、納刀したままの姿勢で、別の竜の近くに立っていた。
「……っ」
アリーゼが、声にならない声を漏らした。
輝夜の動きを追おうとして、追えなかった。
もともと輝夜の剣は速かった。
しかし今は、速さの質が違った。
敏捷と器用を極限まで上昇させるスキルが、輝夜のしなやかで虚実入り交じった戦闘技法の切れ味を、新たな領域まで引き上げていた。
輝夜の切れ長の瞳には、確かな熱があった。
――杏寿郎への想いが、スキルの出力に直結する。
その意味を、輝夜は今、身体の奥底で理解した。
胸の奥にある炎が――五条の呪いを焼き尽くして生まれたその炎が――刀を通して、世界を斬る。
今の時点でさえ、これほどまでの威力を誇るスキルだ。
杏寿郎と肌を重ね、身体の奥を逞しい物で何度も貫かれ、さらに想いが極まったら、一体どうなってしまうのか――。
戦闘の興奮と、スキルで高まった情念が絡み合い、輝夜は我知らず、チロリと唇を舐めていた。
「【シカイ】」
竜が、突如として横に現れた人間の気配に動揺して、噛みつこうとするなか、輝夜は、静かに呟いた。
呆気にとられたネーゼが、輝夜がまた消えたと思った瞬間、あちこちで白銀の斬線が走り、竜が倒れる音が連鎖した。
まるで月の光が地上を撫でるように――静かで、冷たく、無慈悲で、絶対的な刃の光だった。
アリーゼは、別の方角から迫る飛竜の一群に目を向けた。
巨竜はザルドたちが引き付けていた。中央の飛竜は杏寿郎が受け持っている。
ならば――自分の役目は、あちこちから飛び込んでくる竜を少しでも減らすことだった。
五体が同時に空から急降下し、迫ってくる。
炎のブレスが、三方から交差した。
「【アガリス・アルヴェシンス】!」
杏寿郎や仲間とともに戦うだけで、【正炎継子】と【共闘正火】の補正が、相乗効果をもたらす。
身体の奥底から、力が湧いた。
アリーゼは、炎をまとって左右に跳び、ブレスの隙間を縫った。
足裏に炎を集めて、その爆発力で一気に飛翔し、竜の一体に急接近し――。
炎をまとった剣で貫く。
「【アルヴェリア】!!」
Lv.5相当の竜を吹き飛ばし、次の竜に向かう。
そこに、すかさず杏寿郎の暁炎が飛来し、アリーゼを攻撃しようとした竜を燃やし尽くす。
後方からは、リャーナとセルティの砲撃が続く。
砲撃を避けようとして勢いを失った竜を、アリーゼは余力をもって撃破し続けた。
「アリーゼ!」
杏寿郎の声が届いた。
「大丈夫よ、お兄様!!」
アリーゼは、地上に降り立つと、剣を両手で握った。
深く、息を吸う。
最前線で魔法を使うというのに、並行詠唱はまだうまくできない。
本来ならば、使うのを躊躇う状況――。
けれども、今日このとき、この戦場なら――失敗する気はしなかった。
「【花は焔、焔は花。先ゆく焔に憧れ、我が手で育てし花の焔】」
朗々とした声が、戦場に響いた。
炎が、アリーゼの剣の周囲に集い始めた。
「【そは千の花弁、万の煌めき、すなわち正義の継炎】」
深紅と金色と白銀が混ざり合った、色とりどりの万華鏡のような炎だった。
ライラの目が、細まった。
飛び道具で竜を妨害しながら、アリーゼを見ていた。
竜たちが、詠唱の気配に反応した。
五体が同時に、リャーナたちの砲撃をものともせずに、アリーゼに突進した。
アリーゼは、一歩も退かなかった。
「【紅髪に誓いし我が命よ――咲き誇れ】」
炎が臨界まで膨れ上がった。
剣の周囲で、千の花弁が渦を巻いた。
「【散れ、炎花】――【エリシア・フロレアリス】」
アリーゼは溜めに溜めた魔力を一気に解放した。
それは花の嵐だった。
無数の炎の花弁が、扇状に舞い、空を覆った。
リューの【ルミノス・ウィンド】が緑光の散弾だとしたら、アリーゼの魔法は、炎が象る桜吹雪だった。
舞い散った花弁の一枚一枚が一斉にモンスターに集まり、群がり、切り刻み――弾けた。
耳を弄するような爆発とともに、白銀と深紅と金色の炎が、戦場を染めあげた。
五体が、耳障りな悲鳴を上げながら、ボロボロに焼けこげ、大地に沈んだ。
沈黙が、一瞬、戦場に落ちた。
それから、アリーゼは「できたーーーぁ!!」と満面の笑みで笑った。
「見てましたか!! お兄様!! できました!!」
「見ていた!! アリーゼ、見事だ!!」
「えへへへへ!!」
「浮かれるな、まだ戦闘中だ」
ライラが、容赦なく割って入った。
しかし、その口元は――わずかに、緩んでいた。
後衛では、リャーナとセルティが動いていた。
二人の連携は、一ヶ月の特訓を経て、さらに研ぎ澄まされていた。
「リャーナ――」
「分かってる」
アルフィアは、二人に後衛の心得を徹底的に叩き込んでいた。
「並行詠唱を確実にものにして、最適のタイミングで放て。ランクアップすればするほど、後衛の長文詠唱が格上を滅ぼす際の切り札となる」
その言葉を、二人とも身体に刻んでいた。
リャーナが、魔炎の詠唱を始めた。
「【腐蝕の業火、断罪の烙印、滅却の熾火よ】」
声が、凛と戦場に響いた。
アルテナで学び、追われ、絶望し、それでも炎を正義のために使うと誓った。
その歳月が、一節一節に込められていた。
「【刻印をここに。甲冑の腐融、護りの瓦解。堅固は彼方に、焦熱の淵へ。炎の戒律の名をもって、私は刻む】――【イリヴュード】!」
赤黒い炎が次々に竜の鱗を焼いた。
それも、ただ焼くのではない。
鱗の隙間から染み込んで、内側から焦がし、モンスターの魔力と魔法抵抗を減らす、腐蝕の炎だった。
魔炎が触れた場所に、炎痕が浮かぶ。
「今よ」
リャーナが言った。
「分かってる」
セルティは、既に照準を定めていた。
雷砲が、正確に炎痕を貫いた。
射線上の竜が数体、まとめて崩れ落ちた。
アルフィアの特訓が、二人の連携と魔法行使を根本から改善していた。
「次は、あっちに行くよ!!」
「分かった!」
連携した砲撃が、戦場を正確に制圧し続けた。
狼人のネーゼとアマゾネスのイスカも、連携しながら数体の竜を翻弄し、トリッキーな連続技で次々に仕留めた。
ライラは全体を見渡しながら、的確な指示を飛ばし続けた。
マリューの回復魔法が、傷ついた者に光を届けた。
リューは前衛が討ち漏らした竜を、魔力の籠った木刀で叩きのめし、並行詠唱で唱えた魔法で、前線を支援し続けた。
アルフィア相手に生死を彷徨い続けた一ヶ月間の成果が、戦場に咲いていた。
――一方。
竜の群れの一部を引き受けたアルフィアの前に、Lv.7相当の大型竜が迫っていた。
アストレア・ファミリアでは、相手にならないほどの恐るべき強敵だった。
それが三体も、病魔に侵された女に襲い掛かった。
アルフィアは、目を閉ざしたまま、微動だにしなかった。
「煩わしい雑音だ――【福音】」
ただ、それだけの詠唱だった。
しかし、その言葉が紡がれた瞬間、大気が凍り、音がはじけた。
サタナス・ヴェーリオン――【静寂】のアルフィアが奏でる規格外の超短文詠唱だった。
音の衝撃波が広がり――。
三体の大型竜の鱗が剥がれ、目が潰れ、翼がねじれ――頭蓋骨から血が噴き出た。
少し遅れて、重量物が落ちる轟音が大地に響いた。
一撃だった。
たった一発の超短文詠唱で――しかも、【静寂の園】をまとったままの一撃で――今のオラリオには倒せる者がいないほどの難敵を、あっけなく沈黙させた。
リャーナは、その光景を、後衛の位置から見ていた。
杖を握る手が、震えていた。
理解が、追いつかなかった。
アルテナで学んだ魔法の知識。何年もかけて磨いた詠唱技術。それらの全てが、今見たものの前に、霞んでいた。
たった一言で、大型竜を三体。
「……いつか」
隣にいたセルティが、呟いた。
「いつか、私も、あんな魔法を」
声が震えていた。
リャーナは、そっと頷いた。
谷の入り口では、ザルドと白竜の戦いが始まっていた。
白竜の全長は三十メートルを超えた。
鱗は白銀で、雲間から差し込む朝陽を受けて眩く輝いた。
赤い目が、竜の知性と残虐を宿していた。
Lv.8が大地に降り立った瞬間、空気の密度が変わった。
圧迫感が、物理的に大気を押し潰した。
ザルドは、大剣を構えていた。
Lv.8の白竜と正面から向き合いながら、灰色の瞳には、余裕があった。
白竜が、咆哮した。
氷のブレスが、吹き荒れた。
進路上の岩が、瞬く間に凍りついた。
ザルドは、魔力を込めた大剣でブレスを縦に割り、白竜の鼻先から血が噴き出した。
白竜が怒り狂ったように、高々と咆哮した。
「来い」
ザルドが、一言だけ言った。
白竜が、地面を蹴り、爪が閃いた。
ザルドは、その一撃を大剣で弾いた。
戦闘のたびに、大地に亀裂が走った。
白竜の巨体から繰り出される一撃を、ザルドは見事にいなし、反撃の一撃を白銀の鱗に叩き込んだ。
白竜はますます怒り、全力で爪を振り下ろし、尾をしならせ、小癪な小男にブレスを叩きつけようとした。
しかし、怒りで動きが雑になればなるほど、ザルドの一撃は勢いを増し、白竜の傷は増えた。
その死闘を、ライラは遠くから見ていた。
声が、震えた。
「……あれが、Lv.7の、ザルドたちの本気か」
そう、杏寿郎たちとの一ヶ月間、この巨漢は一度も本気を出していなかった。
杏寿郎は、呼吸を整えながら、谷の入り口を見ていた。
この一ヶ月間、絶えず山のような重圧を感じていた。
しかし、この瞬間のザルドはその遥か上をいっていた。
背筋に、冷たいものが走った。
それは、あまりにも圧倒的なものを前にしたときに感じる畏怖の情だった。
「……っ」
その光景を見ていた杏寿郎が、息を詰めた。
ブレスを吐こうとして溜めを作った白竜の翼めがけて、英雄の斬光が駆け抜けた。
白竜の右翼がはじけ飛び、白竜は声にならない悲鳴を上げた。
その成果を見届けるや、ザルドは白竜から距離をとった。
杏寿郎たちが、ザルドの後方に目を転じると――。
アルフィアが、立っていた。
病に蝕まれた蒼白な身体が、戦場の中心のように圧倒的な存在感を放って佇んでいた。
白竜がザルド相手に猛っていた間、アルフィアは詠唱を続けていた。
「【禊はなく。浄化はなく。救いはなく。鳴り響く天の音色こそ私の罪】」
声が、戦場を変えた。
それは、ふつうの詠唱文ではなかった。
呪詛のような、祈りのような、魂の慟哭のような――あまりにも悲痛な宣言だった。
一人の人間が、全ての罪と呪いを引き受けて、世界そのものを書き換えようとしていた。
「【箱庭に愛されし我が運命よ砕け散れ。私は貴様を憎んでいる】」
白竜が、動きを止めた。
本能が、逃げろと叫んでいた。
リャーナは、震えのあまり、膝をつきそうになった。
――これはもはや魔法の詠唱ではない。
一人の人間の、生涯が言葉になった絶滅の誓いだった。
自らの命と魂を対価にして、世界に言葉を刻むのが――魔法か。
セルティは、詠唱を聞きながら、我知らず涙を流していた。
白竜が、怖れをなしたかのように、飛び立とうとした。
しかし、ザルドに片翼を吹き飛ばされたため、思うように動けない。
「【代償はここに。罪の証をもって万物を滅す】」
アルフィアの痩躯から立ち上る魔力が、灰色の雪となって荒野に降り注いだ。
彼女が片手を天に掲げると、その先に白銀の巨大な鐘が浮かび上がった。
あまりの光景に、杏寿郎たちは、畏怖の念を込めて見つめるほかなかった。
アストレアは、野営地の外れで、静かに立っていた。
深い藍色の瞳が、アルフィアを見ていた。
神として、千年の歳月の中で、数えきれないほどの英雄を見てきた。
その女神でさえ――息をするのを、忘れていた。
アルフィアの紫の瞳が、開いた。
ほとんど開けることのなかった、その目が。
「【哭け、聖鐘楼】――【ジェノス・アンジェラス】」
アルフィアが、宣告するように、詠唱を結んだ。
アルフィアから立ち上っていた魔力が、臨界を迎え――。
大鐘楼が灰色の魔力とともに砕けた。
大地が剥がれ飛び、黒雲が蒸発した。
余波だけで、100M以上離れていた杏寿郎たちは頭を揺さぶられ、吹き飛ばされ、膝をついた。
それは、ただしく世界を滅ぼす崩壊の音だった。
Lv.8の白竜が、衝撃波に呑まれた。
白銀の鱗が、一瞬にして剥がれ、肉が裂け、骨が砕けた。
咆哮を上げる間もなく、肉体そのものが破滅の音のなかで消失した。
大地から空高く舞い上がった石や砂が、雨となって降り注ぐ。
ようやく、音が戻ってきた。
しかし――。
音が戻ったとき、アルフィアの身体が、揺れた。
アルフィアの膝が、折れた。
蒼白だった肌が、さらに白くなっていた。
唇の端から、赤い筋が一本、流れた。
彼女の第三魔法は、世界を振動させ崩壊に至らせる、呪われた神技。それは、当然、術者自身の身体にも、大きな爪痕を残さずにはいられなかった。
ザルドは後ろからアルフィアに歩み寄り、大きな手を差し出した。
アルフィアは、その手を取り、口元の血を袖で拭った。
その間、アストレア・ファミリアの面々は微動だに出来なかった。
あまりにも次元が違い過ぎた。
ザルドとアルフィアに揉まれて、誰もが成長したという実感を持っていた。
実際、深層で出てくるような竜にも対処できた。
これからも経験を積めば、どんどんランクアップできるだろうし、正義の炎を広めることができるだろう――。
そう高揚していた。
それだけに、たった今見せつけられた光景を前に、言葉を失った。
「あんだけの魔法があってなお――黒竜相手には通用しなかったのかよ……」
絶望したようなライラの声が、団員たちの気持ちを代弁していた。
「あんな……あんなの……あれで無理なら、どうしようもないではないですか」
リューは、魔法の余波で吹き飛ばされたまま、うずくまり涙を流した。
「リオンが心を折られたか……。無理もない。私とて、どうすればよいか分からん」
輝夜が、のろのろと立ち上がった。
杏寿郎は、刀を鞘に収めた。
他の団員よりも近くで魔法の余波を浴びたため、全身が痛んだ。
「全員、無事――とは言えないか」
「お兄様……!」
アリーゼも立ち上がりながら、杏寿郎を見上げた。
「何という声を出している、アリーゼ! リオンも、涙を拭って立つんだ!」
「ですが……」
杏寿郎は、自分自身を奮い立たせるように、腹から大きな声を出した。
そして、腰が抜けたようにうずくまるリューの手をとって、抱き起すように、無理やり立たせた。
潔癖症のエルフが、顔を赤らめることすら忘れて、茫洋と立ち上がった。
「皆、聞いてほしい――。この一か月、皆は本当に頑張って、アルフィアたちに食らいついてきた。さっきの戦闘でも、見違えるように成長していた。見事だった」
杏寿郎は、のろのろと集まってきた団員に向かって、声を張り上げた。
「正直、俺とて悔しい。ザルドから習ったものが形になったと思った瞬間に、自分がいかに未熟であるかを突き付けられたのだからな――」
遠く離れていたアストレアがゆっくりと団員に近づき、順々に優しく抱きしめていた。
「だがな――なぜアルフィアがあの魔法を使ったのか、少し考えてほしい。どうだ、リャーナ、アルフィアはあの魔法なしでは勝てなかったと思うか?」
杏寿郎は、年上の魔導士を見つめた。
「いいえ、そうは思わないわ。おそらく、あの超短文詠唱だけでも、削り切れたはずよ」
「ならば、なぜアルフィアは、あれだけ負担のかかる魔法を使った?」
「――ッ。それは、私たちに見せるため……」
リャーナはハッとしたように、目を見開いた。
「俺もそう思う。最初に、アルフィアは言っていた。英雄の作法を見せてやる、と。だからこそ――血を吐きながら、敢えて俺たちに見せてくれたのだろう。本来であれば、使う必要のない魔法を、な」
「……そういえば、アルフィアは言っていました――お前たちが、いつか辿り着くべき頂の形だ、と」
セルティが涙に濡れた瞳で、杏寿郎を見上げた。
杏寿郎は大きく頷いた。
「ああ。あれは、ゼウスとヘラの英雄たちからの、俺たちへのメッセージだったのだろう。人類の到達点を示すことで、その先へ行けという」
「……まったく、英雄様は……。あれを見せられた人間が、勇気づけられるとでも思ったのでしょうか……」
輝夜は、ふつうは心を折られるでしょうに、と呟きながら、己を奮い立たせた。
杏寿郎は輝夜の愚痴を聞いて、破顔した。
「獅子は我が子を千尋の谷に落とすというが、アルフィアは獅子などとは比較にならない高みにいる。尺度が違うのも仕方ないだろう」
「要するに、アタシらはまだまだで、もっと頑張って強くなれってことだよな。やれやれ、嫌になるぜ」
ライラが無理やりに笑みを作った。
「そうだな。今はまだ、弱くても良い。泣いても良い。折れても良い。だが――あの頂の形を忘れるな。こういうときこそ、心を燃やすんだ!」
「お兄様、皆でアレをやりましょう! 今日見た光景に誓うんです!」
復活したアリーゼが快活に叫んだ。
「まじかよ、ザルドとアルフィアの前であれやんのかよ……。アタシ、こっぱずかしくて嫌なんだけど」
「安心しろ、私もだ」
「わ、私は恥ずかしくなどないぞ、輝夜っ」
リューはそう言いつつも、しっかり顔を赤らめていた。
何人かが、疲れた笑いを漏らした。
「うむ、やろうか」
杏寿郎を中心に、十一人の乙女たちが輪になった。
「「「使命を果たせ! 天秤を正せ! いつか星となるその日まで! 天空を駆けるがごとく、この大地に星の足跡を綴る! 正義の剣と翼に誓って!」」」
アストレアは、奮起しようとする眷属たちを優しく見守った。
少し離れたところでは、ザルドが「若いな」と生温い眼差しを向けた。
その隣で、アルフィアが呆れたように顔をしかめた。
「あれに何の意味がある? ひどい雑音だ」
しかし、付き合いの長いザルドは気づいた。
――いつもより微妙に声色が柔らかかったことに。
しばしの沈黙の後、ザルドが口を開いた。
「どう思った、あいつらの動き――」
アルフィアが、掠れた声で答えた。
「まだまだ雛だ。しかし――」
ザルドは、岩の上に腰を下ろし、大剣を脇に置いた。
「一ヶ月で、あれだけ化けた。次代の英雄が、育ってきているのかもしれんな」
アルフィアは、空を見上げた。
魔法が吹き飛ばした暗雲の裂け目から、陽光が降り注いでいた。
「次代の英雄が育ってきている今、無理に踏み台になって経験値を吸わせる必要は……ないか」
声は、意外なほど静かだった。
「ならば、私は――
ザルドが、目を細めた。
「そうだな。俺の舎弟の子でもあるし、見に行こう」
大きな手が、大剣の柄を握り直した。
「とはいえ、俺たちにできることはまだまだ多い。ひと段落したら――俺はオラリオで杏寿郎をさらに鍛えるとしよう」
アルフィアは、わずかに視線をザルドに向けた。
「ならば、私は――あの子が望むのであれば、次の英雄となれるよう、特訓を施すとしよう」
掠れた声の中に、確かな熱があった。
「何度でも限界を超えられるように――」
ザルドが、笑った。
「あいつらの子が倒れるぞ」
「倒れても立てばいい」
「……そうだな」
ザルドは、立ち上がった。
風が、二人の間を通り過ぎた。
「それが、英雄の作法だ」
アルフィアは、何も答えなかった。
妹の顔を、思い出した。
その妹が遺した子の顔を、まだ見たことがなかった。
詠唱文は適当です。