ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか   作:kursk

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※今さらですが、後半に著しいキャラ崩壊がありますので、原作のイメージを壊したくない方は読み飛ばしてください。


エピローグ

白竜を倒した翌日の夕方のことだった。

ザルドが、突然、杏寿郎を呼び出した。

 

「おい、杏寿郎。ちょっと来い」

 

巌のような巨漢が、野営地の外れに設えた即席の竈の前に、杏寿郎を連れて行った。

傍らには、新鮮な鹿肉と、様々な香辛料や野草が積まれていた。

その量は、団員が三日は食いつなげそうだった。

 

「今日の晩飯は、お前が作れ」

 

「俺がですか!」

 

杏寿郎は元気に答えたが、内心は困惑していた。

料理は、不得意ではないが、得意でもない。

アストレアが作る温かい食事に甘えてきたのが実情だった。

団員のなかでは、マリューやリャーナが交代で台所に立つことが多く、杏寿郎が調理する機会は限られていた。

 

「まず、火を起こせ。炭だ。炭火のほうが熱が安定する。肉を焼くなら、炭火に限る」

 

ザルドは、大きな手で炭を竈に並べながら、杏寿郎に指示を出した。

その手つきは、大剣を振るうときの豪快さとはまるで違う、繊細で手慣れたものだった。

 

「ザルドは、料理が得意なのですか」

 

「得意というか、必要に迫られてな」

 

ザルドは、炭に火を移しながら答えた。

 

「それに――」

 

ザルドは、鹿の腿肉を大きな刃で手際よく切り分けながら、続けた。

 

「男にとって、料理の腕は重要だぞ」

 

「重要、ですか」

 

「ああ。女を守るだけが男の仕事じゃない。腹を満たしてやるのも、男の矜持だ」

 

ザルドは、切り分けた肉の筋を切り、粗塩と香辛料を揉み込んだ。

大きな掌が、丁寧に肉の繊維に沿って調味料をなじませていく。

 

「どんなに強い男でも、飯がまずけりゃ人は離れる。逆に、飯がうまい男には、自然と人が集まる。これは、冒険者だろうが何だろうが変わらん」

 

「た、たしかに……。アストレア様が作ってくださる食事は、本当に美味しい」

 

「主神に飯を作らせている時点で、お前はまだ半人前だ」

 

ザルドの声は容赦がなかった。

杏寿郎は、ぐうの音も出なかった。

 

「いいか。肉は、焼く前に常温に戻せ。冷たいまま焼くと、外だけ焦げて中に火が通りにくい。表面を強火で焼き固めてから、炭の端に移して、じっくり余熱で火を通す。焦るな。肉に聞け」

 

「肉に……聞く……」

 

杏寿郎は、戸惑いながらも、ザルドの言葉に従った。

肉を炭火の上に置く。ジュウッという音とともに、香ばしい煙が立ち上った。

 

「そうだ。焼き色がついたら裏返せ。何度もひっくり返すな。肉が泣く」

 

ザルドは、茹で上がった根菜の皮を剥きながら、杏寿郎の手元を見ていた。

 

「こういう根菜はな、茹でたあとで、軽く炙るのがうまい。火で水分を飛ばすと、甘みが増す」

 

ザルドが、茹でた根菜を切って炭火の上に載せた。

じわりと水気が抜け、根菜がに鮮やかな焦げ目がつく。

 

「いい匂いだ……」

 

杏寿郎の目が輝いた。

 

「杏寿郎。お前のファミリアには、女しかいないだろう」

 

唐突に、ザルドが言った。

 

「はい。団員は全員、女性です」

 

「ならば、なおさら、飯くらい作れるようになっておけ。女に飯を作ってやれる男は、それだけで信頼される。お前が守りたい者たちの腹を、お前の手で満たしてやれ。それも、守りの一つの形だ」

 

説教めいた調子ではなく、年長者が年少者に当たり前のことを伝える、淡々とした口調だった。

 

「帰ったら、料理の修行もします!」

 

「ああ。まずは焦がさず焼けるようになれ。話はそれからだ」

 

杏寿郎は力強く頷いた。

そして、炭火の上の肉を、真剣な目で見守った。

 

「杏寿郎」

 

ザルドが、肉を見守りながら、不意に口を開いた。

 

「もう一つ、言っておくことがある」

 

杏寿郎は、竈に炭を入れながら、ザルドを見上げた。

ザルドは、太い腕を組んで、堂々と告げた。

 

「後悔のないように生きろ」

 

その言葉は、あまりにも素朴だった。

人生の指針としては、ありふれていた。

しかし、ザルドの口から紡がれると、陳腐な言葉が、まるで別の重さを帯びた。

それは、無数の死線をくぐり、仲間の屍を越えた者が辿り着いた言葉の重みだった。

 

「……今回、お前は竜の討伐を目にした」

 

杏寿郎は頷いた。

あの白竜の圧倒的な威容と、アルフィアたちの戦いぶりは、まぶたの裏に焼き付いていた。

 

「だが、あんなものは序の口だ」

 

ザルドの声が、一段低くなった。

 

「あの程度の竜なら、俺とアルフィアで何とでもなる。問題は、その先だ。――黒竜」

 

竈の炎が、ざわりと揺れた。

 

「隻眼の黒竜。かつて三大冒険譚の一つとして、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアが総力を挙げて挑んだ。結果は――惨敗だ」

 

ザルドの口元が、苦く歪んだ。

 

「神時代最強と呼ばれた二つのファミリア。Lv.7を何人も抱え、Lv.8やLv.9すらいた。俺やアルフィアがいてなお、歯が立たなかった。勝てなかったんじゃない。戦いにすらならなかった」

 

杏寿郎の瞳が、わずかに見開かれた。

 

「最強を謳った英雄たちが――ただ逃げ惑うだけだった。俺もだ。全力で逃げた。仲間が目の前で死んでいくのを見ながら、な」

 

ザルドは火を見守りながら、杯に安酒を注ぎ、一息で飲み干した。

空になった杯を、しばらく手の中で転がしていた。

 

「あの瞬間、俺は知ったよ。どれほど修練を積もうが、どれほど覚悟を決めようが、どうしようもなく圧倒的な相手の前では、安っぽい決意など一瞬で蒸発するということをな」

 

火が、ぱちりと爆ぜた。

火の粉が夜空に舞い上がり、星の中に溶けた。

 

「鍛え抜いた技も、磨き上げた信念も、英雄としての矜持も、何もかもが無意味になる瞬間がある。膝が笑い、歯の根が合わず、自分が自分でなくなる瞬間が必ず来る。その瞬間に、何が人を支え、生き延びる意志になるか――」

 

ザルドは、少しだけ間を置き、杏寿郎の顔を見つめた。

 

「案外、身近なところにある、陳腐な愛情だったりする」

 

杏寿郎は、無言で、ザルドの顔を見つめた。

ザルドの声は穏やかだった。

けれども、その穏やかさの底に、途方もない苦渋の記憶が横たわっていることを、杏寿郎は感じ取った。

 

「英雄も人間だ、杏寿郎。抽象的な理想だけでは、身が持たない」

 

灰色の瞳は、真っ直ぐなままだった。

 

「人間にとって根源的な情を、軽視するな。母君の教え、仲間への責任、正義の志――お前を突き動かすものは、確かにある。だが、それだけでは足りん。いつか、本当に折れそうになったとき、お前の魂を最後に繋ぎ止めるのは――もっと人間くさい、泥臭い想いだ」

 

ザルドは、空になった杯を地面に置いた。

 

「意中の人がいるなら、逢瀬に誘え。二人きりの時間を作ってみろ」

 

杏寿郎の瞳が、揺れた。

紅と金の炎が、焚き火の光を受けて、複雑に揺らめいた。

 

ザルドの口元に、初めて見る種類の笑みが浮かんだ。

それは、厳しい武人のものでも、非情な師のものでもなかった。

人生の先達が、不器用な若者に手を差し伸べるような、穏やかで温かい笑みだった。

 

「女神アストレアや団員たちから向けられる想いには――気づいているんだろう?」

 

杏寿郎は、答えなかった。

 

「ただし――」

 

ザルドは、それまでの穏やかな口ぶりを一転させた。

レベル7の巌のような眼光が、真正面から杏寿郎を射抜いた。

 

「避妊だけは、確実にするんだぞ」

 

話の内容のあまりの落差に、杏寿郎は、思わず手を滑らせた。

竈にくべるはずだった炭が、ころころと手から零れ落ちた。

 

「ザルド!? 一体、何を?」

 

「俺の弟分に、どうしようもない馬鹿がいた」

 

ザルドの声に、遠い過去を懐かしむような響きが混じった。

 

「そいつは、ヘラ・ファミリアの女と付き合い始めた。アルフィアの双子の妹でな。メーテリアという、身体が弱いが芯の強い女だった」

 

杏寿郎は黙って聞いていた。

 

「付き合うのは構わん。いや、それも大問題だが……お互いに好き合っていたのだから、まあ良い。だが――あの馬鹿は、メーテリアを妊娠させた」

 

ザルドの眉間に、深い皺が刻まれた。

 

「ヘラもアルフィアも激怒した。マキシムが頭を下げ、最終的に落とし前をつけるための交渉役が、なぜか俺に回ってきた」

 

「なぜ、ザルドに……」

 

「あのファミリアでは、俺が一番、マシだったからだろう。だが、それでも、あれは地獄だった」

 

ザルドの顔が、苦虫を嚙み潰したように歪んだ。

その表情は、黒竜と戦ったときよりも辛そうに見えた。

 

杏寿郎は、何と言えばいいのか分からなかった。

 

「だから、杏寿郎。避妊だけはしろ」

 

ザルドは、太い指で杏寿郎の肩を掴んだ。

万力のような握力だった。

 

「ザルド……いや、俺は、そういうことは、まだ……。あと、その理屈だと、同じファミリアなら問題ないのでは……?」

 

杏寿郎は動揺のあまり、自分でも何を口走っているのか、よく理解していなかった。

 

「まだ、というのは、いつか来るということだ。あと、同じファミリアでも修羅場は起こる。男だけのゼウス・ファミリアではなかったが、その手の話はよく聞く」

 

ザルドは、ほどよく火が通った肉を次々に皿に移すと、立ち上がった。

 

「以上だ。さあ、飯を持っていくぞ。アルフィアたちが待っている」

 

そう言い残して、ザルドは野営地の外へ歩いていった。

 

杏寿郎は、炭火の前に一人残された。

穏やかな風が、赤く燃える炭の上を吹き抜けていった。

 

「……避妊……」

 

呆然と呟いた杏寿郎の声は、誰にも聞こえなかった。

――はずだった。

 

 

 

その翌日――。

杏寿郎が、ザルドとアルフィアとの最後の訓練に出かけている間に。

 

アリーゼが、全団員を集めた。

杏寿郎を除く、全員である。

 

アストレアも、その輪の中にいた。

主神は少し離れた切り株に腰を下ろし、胡桃色の髪を風に遊ばせながら、「何の話かしら?」と穏やかに微笑んでいた。

まだ何も知らない、平和な笑顔だった。

 

「緊急集会を開くわ」

 

アリーゼの声は、いつになく真剣だった。

碧い瞳が、全員を見回す。

野営地の端、木立の陰に円座を組んだ乙女たちは、副団長の深刻な表情に、何事かと身構えた。

 

「何があったんだ、アリーゼ」

 

ライラが、水筒に手を伸ばしながら問うた。

 

「昨日、ザルドがお兄様に、避妊の重要性を説いていたわ!」

 

完璧な沈黙が訪れた。

それは、アルフィアの二つ名と同じくらい、見事な静寂だった。

鳥の声が、やけにはっきりと聞こえた。

 

「は?」

 

最初に反応したのはライラだった。水筒を取り損ね、膝の上に落とした。

 

「ひ、避妊……!?」

 

リューの声が、いきなり裏返った。

空色の瞳がこれ以上ないほど見開かれ、エルフの長い耳が、先端から根元まで、見事なまでに一瞬で真紅に染まった。

顔面に至っては、茹で蛸のようだった。

 

「あらあら」

 

マリューが、口元を両手で覆った。

 

「避妊って、要するに、その……そういうことの……?」

 

ネーゼが、耳をぴくぴくさせながら確認した。

 

「そういう意味よ。他にどういう意味があるの」

 

アリーゼは、何でもないことのように答えた。

 

そして、アストレア。

正義の女神は、笑顔のまま固まっていた。

口元は微笑みの形を保っていたが、藍色の瞳が完全に停止していた。

女神の思考が、処理落ちを起こしていた。

 

「……え?」

 

三秒ほどの沈黙の後、アストレアが小さく声を漏らした。

 

「ちょ、ちょっと待って。今、あなた、何と言ったの、アリーゼ?」

 

「ザルドがお兄様に、避妊の重要性を――」

 

「いえ、聞こえていたわ。聞こえていたけれど、もう一度確認したかったの。……いえ、やっぱり聞きたくなかったわ」

 

アストレアが額に手を当てた。

正義の女神が、下界に来て初めて、正義とは無関係な理由で頭を抱えた。

 

「で、なんでそれが緊急集会になるんだよ?」

 

ライラが、膝から水筒を拾い上げた。

 

「重要な問題だからよ!」

 

アリーゼは、真顔だった。

巡回前のブリーフィングと同じ、真剣な目つきだった。

 

「いざという時に、どうするか。備えは、必要でしょう?」

 

「いざという時って何だよ。お前の言う『いざ』が、どういう状況を指してんのか、はっきりさせてくれ」

 

ライラの声は、すでに呆れの色を帯びていた。

 

「つまり、その……お兄様と、私たちの誰かが、そういうことになったとき、ファミリアとしてどう対処するか、という話よ」

 

アリーゼの頬が微かに赤くなっていたが、声は揺るがなかった。

 

「なんつーことで集会してんだよ……」

 

ライラが、額に手を当てた。

 

「その前に――」

 

輝夜が、木に背を預けたまま、涼しい声で口を挟んだ。

切れ長の瞳には、朝の木漏れ日が映っていた。

 

「副団長様は、どのように考えておられるのでございますかぁ?」

 

アリーゼは、一拍だけ間を置いた。

それから、薄い胸を堂々と張った。

 

「清く正しく美しい私には、恥ずかしいところなど何一つないわ! 私は、お兄様を愛している!!」

 

それは、宣言だった。

もはや避妊の話ですらなく、高らかな愛の宣誓だった。

ライラは、またしても水筒を取り落とした。

 

「お前はいま何を聞かれたか覚えてるか!? 避妊の話だぞ!?」

 

「分かっているわ! だから言っているの。お兄様のことを愛しているし、お兄様との子どもなら嬉しい。つまり、避妊など不要! バチコーン☆」

 

アリーゼは碧い瞳をきらきらと輝かせながら、両手を腰に当てて、太陽のように断言した。

清々しいほどに堂々とした宣言だった。

 

アストレアの笑顔が、二度目の処理落ちを起こした。

口が半開きになっていた。

何かを言おうとして、しかし、何を言えばいいのかまったく分からないという表情だった。

 

リューが顔を真っ赤にして、わなわなと震えていた。

 

「な、ななななななぁ!? アリーゼ……アストレア様の前で、何を……」

 

「違うわ、リオン。アストレア様の前だからこそ、堂々と申し上げるのよ! 私のお兄様への愛は、正義に恥じない、正真正銘の本物だと!」

 

「いえ、正義は関係ないんじゃないかしら……」

 

アストレアの声が、珍しく上ずった。

正義の女神の処理能力を超える事態が、目の前で展開されていた。

 

「同感だ」

 

輝夜が、即座に頷いた。

腕を組み、瞑目したまま、実に落ち着いた声で続けた。

 

「杏寿郎との間に無粋なものは不要だ。ナマで致せばよい」

 

そこで、輝夜は目を開けた。

切れ長の瞳が、澄んでいた。

 

「私も、杏寿郎に抱かれたいし、杏寿郎の子を産みたい。ヤればデキる。それが太古より続く自然界の法則というものだろう」

 

あまりにあけすけで下品な物言いに、三度目の沈黙が落ちた。

今度は、鳥すら鳴かなかった。

ライラは水筒を拾う気力を失い、地面に置いた。

 

リューは、椅子代わりの丸太から転げ落ちた。

地面に手をついて四つん這いになりながら、信じられないものを見る目で輝夜を見上げていた。

空色の瞳が限界を超えて開かれ、顔面から首筋まで、エルフの白い肌が見事に紅に染まっていた。

 

「か、かかかかかか――!!」

 

リューの口から、言語として成立しない音が漏れた。

 

「か、輝夜!! 何ということを言うのですか!!」

 

「聞こえなかったか? 杏寿郎の子を産みたいと言ったんだ」

 

輝夜は、茶でも啜るような口調で繰り返した。

 

「二度も言わせるな、ポンコツ妖精」

 

「子を産む!? ふたりで!? 団長と!?」

 

「二人でなければ子はできんだろうが。どういう作法でできるかは、さすがにお前も知っておろう?」

 

「知って……!! いえ、ある程度は知識として!! ですが、それを!! こんな白昼堂々と!!」

 

リューは四つん這いのまま後退し、木の幹に背中をぶつけた。

それでも後退しようとして、木を押していた。

木は動かなかった。

 

「あらあら」

 

マリューが、頬を染めながら、瞳を輝かせた。

 

「すごいわ、輝夜ちゃん。はっきり言うのね……」

 

「当然だ。言葉を濁しても意味はない。欲しいものは欲しいと言う。それが、大和撫子の流儀というものだ」

 

輝夜の声には、微塵の動揺もなかった。

この女の面の皮は、ゴライアスの硬皮より厚いのではないかとライラは思った。

 

「お前らな……」

 

ライラが、額にしわをよせながら、呆れたように首を振った。

 

「ザルドが苦労して教えた内容を、二人がかりで一瞬で無に帰すなよ……」

 

「ザルドには感謝しているわよ。おかげで、こうして皆で前向きに議論できているのだから」

 

アリーゼがにっこり笑った。

 

「これのどこが前向きなんだ!! 方向性がおかしいだろ!!」

 

ライラの叫びは、木立に吸い込まれて消えた。

 

「でも、重要な問題よ、ライラ」

 

アリーゼは、突然、副団長の顔に戻った。

切り替えの速さが、ライラには怖かった。

 

「このファミリアには、お兄様しか男がいない」

 

全員が、黙った。

 

「外で男を探すとしても、政治的に難しいわ。他のファミリアの団員と関係を持てば、ファミリア間の力関係に影響が出る。ライラが一番よく分かっているでしょう?」

 

ライラは、反論できなかった。

実際、その通りだった。

暗黒期のオラリオでは、ファミリア間の関係は繊細だ。恋愛ごときで同盟や敵対の構図が変わることすらある。

フィンを落とすにあたって、第一の障害になる問題だった。

 

「それに――」

 

アリーゼは、一度、言葉を切った。

全員を見回す碧い瞳に、少しだけ熱が宿った。

 

「正直な話。お兄様を毎日見ていたら――よほどの男でなければ、満足できないでしょう?」

 

沈黙が舞い降りた。

誰も、否定しなかった。

 

ネーゼの尻尾が同意するように忙しなく揺れた。

イスカが、うっすらと頬を染めながら、唇を舐めた。

リャーナとマリューの年長組も微笑んでいたが、目が誰よりも真剣だった。

そして――アストレアが目を逸らした。

 

「あ、アストレア様!?」

 

リューが絶望したように叫んだ。

 

「な、何でもないわ、リュー。主神として、眷属の議論を見守っているだけよ」

 

アストレアの声は、微妙に上ずり、頬がほんのりと桜色に染まっていた。

 

「別に、あたしは構わないぜ」

 

ネーゼは、尻尾をパタパタと振った。

 

「狼人の群れだと、強い雄が何人もの雌を率いるのが当たり前だ。団長くらい強けりゃ、雌が集まるのは自然なことだろ」

 

「ネーゼ……あんたは話が早いわね」

 

アリーゼが、妙に感心した声を出した。

 

「なら、答えは一つよ」

 

アリーゼは、微笑んだ。

太陽のような笑みだった。

 

「皆で仲良く、お兄様の妻になればいいの!」

 

アリーゼの声は野営地の木立に朗々と響き渡り、遠くで鹿が驚いて逃げた。

 

「おいおい……」

 

ライラが疲れたような声をあげた。

 

「それ以外はないでしょうね」

 

輝夜が、涼しい声で同意した。

 

「ちょ、ちょちょちょちょっと待ってください!!!!」

 

リューが、ついに壊れた。

木の根元から跳ね起き、仁王立ちになった。

金髪が逆立ち、空色の瞳はもはや視点が合っておらず、顔面は耳の先端から顎の先まで一分の隙もなく真紅に染まっていた。

 

「な、な、なんということを言っているのですかあなたたちはッ!!」

 

「リオン、声が大きいわよ」

 

「大きくて結構です!!!」

 

リューは両手を振り回した。

 

「そもそも、愛とはッ!! 月下の森のなかで誓いを交わした二人がッ!! 静かに!! 慎ましく!! 育むものです!!」

 

静かに慎ましく育むべき愛を、野営地に響き渡る絶叫で訴えるという矛盾を、本人はまったく自覚していなかった。

 

「聖なる月光の下で、二つの魂が寄り添い合い、互いの存在を認め合う! それが! あるべき! 愛の形です!!」

 

「おやおや。これだから、お堅いエルフ様は」

 

輝夜が、切れ長の瞳を半月に細めた。

 

「では、貴様は、月下の森で誓いを交わす相手を、永遠に探し続けるがよい。見つかるといいですねえ」

 

「なっ……!」

 

リューが絶句した。

口をぱくぱくさせたが、言葉が出てこなかった。

 

「それに、リオン」

 

輝夜は追撃の手を緩めなかった。

 

「お前、団長に手を取られたとき、拒絶しなかっただろう。エルフが、男の手を払わなかった。それがどういう意味か、自分の胸に聞いてみろ」

 

リューの口が開き、閉じ、また開き、閉じた。

金魚のようだった。

 

「あ……あれは……その……団長は……正義の人で……私は……ただ……不意を突かれて……」

 

まったく弁明になっていなかった。

 

「わ、私の話はしていません!! 今は!! ファミリアの風紀の問題を!!」

 

「はいはい、リオンの件は保留にして――」

 

アリーゼは、リューと輝夜の言い合いを華麗にスルーした。

 

「現実的な話をしましょう。幸い、このファミリアは女ばかりだし、もし誰かに子どもができても、育てる人手には困らない。皆で育てればいいわ」

 

「まあ、アリーゼと輝夜はそれでいいとして」

 

ライラが、ようやく冷静さを取り戻し、全員を見回した。

 

「他はどう考えてんだ? マリューやリャーナは?」

 

マリューは、頬を紅潮させつつも、真剣な声色で応じた。

 

「わたしは、団長に求められたら応じるわ」

 

「マリューまで……」

 

リューが、天を仰いだ。

 

「リャーナはどうだ。お前は冷静だろ。冷静でいてくれ。頼む」

 

ライラの声には、もはや祈りに近い響きがあった。

亜麻色の髪を編み込んだ元エリート魔導士は、腕を組んだまま、静かに考えていた。

 

「論理的に考えると、答えは一つなのよ」

 

リャーナは、いつもの落ち着いた声で話し始めた。

よし、と、ライラは思った。この女は冷静だ。

 

「仮に、団長以外に相手を探すとするでしょう? でも――誰を探すにしても、私たちが男に求める基準が、もう高くなりすぎているのよ」

 

ライラの祈りは、二行で砕け散った。

 

「アルテナを追放されて、行き場を失ったとき、団長が手を差し伸べてくれた。このファミリアで、自分の魔法を正義のために使えるようになった。そんな男を毎日見ていたら――正直、他の誰を見ても、物足りなく感じてしまうわ」

 

年長組として婚期を意識しているからこそ、これまで何度もこの問題を考えていたのだろう。

リャーナは、神々が言うところの婚活女子に近いくらい、終始落ち着いていた。

 

「それに、別のファミリアの団員と付き合うとなると、政治的にも面倒くさい。相手のファミリアとの関係、情報漏洩のリスク、子どもができたときの所属の問題……。考えるだけで頭が痛くなるわ」

 

「だな。そこは……アタシも……同意する……」

 

ライラの声から、力が抜けた。

 

「結局のところ――」

 

リャーナは、淡々と結論を述べた。

 

「選択肢は三つ。一生独身でいるか。妥協して満足できない相手を探すか。団長の妻の一人になって、皆で一人の男を囲うか……。私は、三番目を選ぶことに、特に不満はないわ」

 

アルテナの元エリート魔導士のパートナー探しの理屈は、恐ろしいほどに筋が通っていた。

 

「……なんということ……」

 

リューは、木の根元にしゃがみ込んでいた。

もはや立っている気力がなかった。

空色の瞳が、信じられないものを見るように、全員を順番に見回していた。

アリーゼ。輝夜。マリュー。リャーナ。ネーゼ。

 

「このファミリアは、正義を掲げているのではなかったのですか……?」

 

「正義を掲げているわよ?」

 

アリーゼが、にっこりと笑った。

 

「正義と恋愛は、両立するの。むしろ、愛する人がいるからこそ、守りたいものが増えて、正義の炎はもっと強く燃えるのよ!」

 

「それは詭弁です……!!」

 

「詭弁じゃないわ。真理よ。むしろ、この気持ちを隠すほうが、正義に反するわ!」

 

「正義をこういうことにに使うんじゃねぇ!!」

 

ライラの魂の叫びが木立に吸い込まれた。

 

 

そして――。

その一部始終を見守っていた女神が、ゆっくりと立ち上がった。

 

「皆」

 

アストレアの声は、静かだった。

喧騒が、一瞬で収まった。

女神の声には、そういう力がある。

 

全員が、アストレアを見た。

 

正義の女神は、切り株の前に立っていた。

胡桃色の長い髪が、木漏れ日に照らされていた。

藍色の瞳には、困惑と慈愛と、それから何か名状しがたい感情が、代わる代わる明滅していた。

 

アストレアは、一度、深く息を吸った。

明らかに、気持ちの整理に苦戦していた。

 

「……正直に言うわね」

 

アストレアは、茫洋とした瞳のまま、全員を見た。

 

「私は今、下界に降りてから、最も動揺しているわ」

 

「「「「「「「すみません、アストレア様」」」」」」」

 

全員が謝った。

リューだけは、謝りながら泣いていた。

 

「いいのよ。あなたたちの気持ちは、よく分かったわ。よく分かりすぎて、少し目眩がしているけれど」

 

アストレアは、こめかみを押さえた。

 

「一つ、女神として言わせてもらうわね」

 

全員が、背筋を正した。

 

「神と人の間には、子は生まれない。それが、天界の理よ」

 

アストレアの声は、穏やかだった。

しかし、その穏やかさの奥に、ほんの一瞬だけ、痛みが過ぎった。

 

「私は杏寿郎にとって主神であり、どれだけ……大切に思っていても、子を残すことはできない」

 

アストレアの頬が再びほんのりと染まった。

誰もが、その意味を正確に読み取った。

ライラだけは、正義の処女神までが色ぼけたら、下界は終わりではないか、と考えていた。

そんな眷属たちの視線をよそに、アストレアは続けた。

 

「だから――」

 

女神は、全員を見た。

 

「あなたたちが杏寿郎の傍で笑い、泣き、愛し合い、そして、子を産み育てたいというのなら――。それは、私にとっても、大きな喜びになるわ」

 

アストレアは微笑んだ。

 

「あなたたちの子どもは、私の子どもと同じよ。ファミリアとは、本来、そういうものだもの。だから――遠慮はいらないわ」

 

アリーゼの碧い瞳が、潤んだ。

 

「アストレア様……」

 

「ただね、アリーゼ。あと――とくに、輝夜」

 

アストレアの声が、不意に跳ね上がった。

 

「杏寿郎には、ちゃんと順序を踏んで告白するのよ。いきなり既成事実を作るなんてことは、正義の女神として絶対に認められないわ。そんな、ヘラの眷属みたいなことは、断固禁止よ。これだけは、絶対に譲れないわ」

 

アストレアは、強い口調で、絶対に、と二度も口にした。

 

「「「「「はい、アストレア様!!」」」」」

 

全員が、反射的に返事をした。

輝夜は、やり方はいくらでもあると言わんばかりに、微笑んだ。

リューだけが、木の根元でうずくまったまま、小さな声で呟いていた。

 

「アストレア様まで……このファミリアは……もうお終いだ……」

 

「リューも、いつか分かるわ」

 

アストレアが、優しく微笑んだ。

 

 

 

なお、この緊急集会の内容が杏寿郎の耳に入ることは、終ぞなかった。

アストレアが、女神の権限で、全員に箝口令を敷いたからである。

 

「杏寿郎には、まだ内緒にしておきましょうね。あの子は、こういう話を聞いたら、きっと真面目に全員と向き合おうとして、混乱してしまうわ」

 

それが、正義の女神の裁定だった。

そして、その裁定の裏に、「もう少しだけ、私だけの杏寿郎でいてほしい」という我が儘が混じっていたことに、ライラは気づいた。

 

――女神も、女なんだな。

 

桃色の髪のパルゥムは、水筒の蓋を閉めながら、小さく笑った。

 

 

 

 

かくして、アストレア・ファミリアの遠征は終わった。

オラリオへの帰路は、穏やかだった。

竜の谷での死闘が嘘のように、空は晴れ渡り、街道沿いの草原には春の花が咲いていた。

風が吹くたびに、白や薄紫の花弁が舞い上がり、飛竜で行軍する一行の目を楽しませた。

 

アストレア・ファミリアの面々は、久々に平穏な帰路にリラックスしていた。

途中の野営では、アリーゼが声高に武勇伝を語り、ネーゼが尾を振って合いの手を入れ、ライラが「盛りすぎだろ」と突っ込む。リューは黙って聞いていたが、その耳はときおりぴくりと動き、仲間の会話を聞いていた。

 

マリューは後方で荷車の整理をしながら、微笑んでいた。リャーナはセルティと並んで、魔法の話をしていた。

 

帰路のあいだ、アストレアは、杏寿郎と同じ飛竜にのって移動を続けた。

 

「良い天気ですね、アストレア様」

 

「ええ。本当に」

 

アストレアの胡桃色の髪が、春風に揺れていた。

翠の瞳が、遠くに霞むオラリオの城壁を映していた。

 

杏寿郎は、飛竜のうえで、女神の温もりを感じていた。

四年間――朝の食卓で、ダンジョンの帰路で、夜の星空の下で、いつもこの人が隣にいた。

いつも、このひとの笑顔が、杏寿郎のすぐ傍にあった。

 

それが、今日は、少しだけ違って感じられた。

ザルドの言葉が、胸の奥で静かに燻っていた。

 

――意中の人がいるなら、逢瀬に誘え。

 

春風が、アストレアの髪を攫って、杏寿郎の頬をくすぐった。

花の香りがした。

 

そういえば、アリーゼが加入する前、主神と二人きりだったころは、いつも一緒に街を歩き、ともに眠った。

 

――今度、久しぶりにアストレア様を街歩きやディナーに誘おう。

 

世間でそれが何と呼ばれているか理解することなく、杏寿郎は思った。

眼前では、オラリオの白い城壁が、陽光に輝いていた。




以上で、大抗争前のお話は終わりです。
皆様、拙い物語にお付き合いくださり、どうもありがとうございました。
書き溜めた分が尽きたので、しばらくは書くほうに専念しようと思います。
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