ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか   作:kursk

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旅立ち

迷宮都市オラリオを揺るがした『大抗争』と呼ばれる熾烈な戦い。

時は、その10年前にさかのぼる――。

 

極東の島国の山間に、煉獄という名の家があった。

代々、炎のように苛烈な剣術を伝えてきた武家の血筋である。「炎の呼吸」と呼ばれるその剣技は、一子相伝の秘奥として、父から子へ、子から孫へと受け継がれてきた。

 

その現当主、煉獄槇寿郎は、当代随一の剣士として名を馳せていた。

彼の剣は、まさに炎そのものだった。一振りすれば火花が散り、一閃すれば業火が舞うかのような勢い。その圧倒的な強さは、極東の地において並ぶ者がないと言われていた。

 

そんな槇寿郎のもとに嫁いできたのが、瑠火という女性である。

瑠火は生まれつき身体が弱かった。激しい運動はおろか、長時間の外出さえままならない。しかし、その心は誰よりも強く、その紅の瞳は常に真っ直ぐだった。

 

槇寿郎が瑠火に惹かれたのは、その心の強さゆえだった。

そして二人の間に生まれたのが、杏寿郎である。

煉獄家は嫡子を得てますます安泰に見えた。

 

しかし、その名家に暗雲が立ち込めるまで、そう長い時間は必要なかった。

 

杏寿郎が十歳の頃のことだった。

夏の盛り。蝉の声が響く屋敷の一室で、瑠火は床に伏していた。

病がまた悪化したのだ。医師は首を横に振り、槇寿郎は拳を握りしめた。しかし、瑠火自身は穏やかな表情を崩さなかった。

 

「杏寿郎」

瑠火は、布団の傍らに座る息子の名を呼んだ。

「はい、母上」

杏寿郎は、母の手を握った。その手は、驚くほど細く、冷たかった。

「今日は、大切なお話があります」

「大切なお話……」

「ええ。あなたに、どうしても伝えておきたいことがあるの」

 

瑠火は、ゆっくりと身体を起こした。杏寿郎が慌てて支えようとするが、瑠火は微笑んで首を横に振った。

「大丈夫よ」

彼女は起き上がると、その紅の瞳を杏寿郎へ向けた。

「杏寿郎。あなたは、なぜ自分が人よりも強く生まれたのか分かりますか」

「え……」

 

突然の問いに、杏寿郎は戸惑った。

考えたこともなかった。父が強い剣士だから。煉獄の家に生まれたから。それ以上の理由など、考える必要すらなかった。

瑠火は、困惑する息子を見て、教え諭すように言葉をつづけた。

 

「弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」

「責務……」

「どうか、その力を、正しいことのために使いなさい。弱き者を守り、虐げられた人々の盾となるのです」

 

杏寿郎は、母の言葉を一言一言、心に刻んだ。

「はい、母上」

「約束してくれますか」

 

瑠火の紅い瞳が、真っ直ぐに杏寿郎を見つめていた。その瞳には、母としての愛情と、一人の人間としての信念が宿っていた。

「約束します」

杏寿郎は、頷いた。

「俺は、弱き者を守ります。母上の教えを、一生守り続けます」

瑠火は、その言葉を聞いて、安堵したように微笑んだ。

 

 

 

その日の夜。

杏寿郎は、父の書斎を訪れた。

「父上」

「なんだ」

槇寿郎は、書物から目を上げずに答えた。その声には、どこか疲れたような響きがあった。

「父上。俺に、炎の呼吸を教えてください」

「……」

槇寿郎の手が、止まった。

「お前はまだ幼い。本格的な修行は、もう少し大きくなってからだ」

「でも、俺は早く強くなりたいのです」

「なぜだ」

 

槇寿郎は、ようやく顔を上げた。その目が、杏寿郎を射抜く。

「弱き者を守るためです」

「……なんだと」

「母上が教えてくれました。弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務だと」

 

槇寿郎は、しばらく黙っていた。

そして、深い溜息をついた。

「……瑠火らしいな」

「父上?」

「いいだろう」

 

槇寿郎は立ち上がり、書棚から一冊の古い巻物を取り出した。

「これは、煉獄家に代々伝わる奥義書だ。『炎の呼吸』の全ての型が記されている」

「奥義書……」

「まだお前には早いが、預けておく。いつか、この技を全て習得する日が来るだろう」

 

槇寿郎は、書物を杏寿郎の前に広げた。

そこには、様々な剣技が図解と共に記されていた。壱ノ型、弐ノ型、参ノ型から玖ノ型まで、九つの型が描かれている。

「炎の呼吸は、心を燃やすことで真の力を発揮する」

 

槇寿郎の声は、教師のそれだった。

「心が折れれば、炎は消える。心が燃え続ける限り、炎は決して消えない」

「心を、燃やす……」

「そうだ。お前の母が言った通り、強さとは誰かを守るためにある。守りたいという想いが強ければ強いほど、炎は激しく燃える」

 

杏寿郎は、奥義書を食い入るように見つめた。

「父上。俺は、必ずこの技を習得します」

「……ああ」

 

槇寿郎は、息子の目を見た。そこには、かつての自分と同じ炎が宿っていた。

「お前なら、できるだろう。アマテラス様の眷属にならない限り、煉獄の炎は出せないが、まずは技を磨け」

 

 

 

それから、杏寿郎の修行が始まった。

毎朝、日が昇る前に起き、庭で素振りを千回。日中は父の指導の下、基礎の型を繰り返す。夕方には走り込み、夜は奥義書を読んで技を頭に叩き込む。

過酷な日々だった。しかし、杏寿郎は一度も音を上げなかった。

 

母の言葉が、彼を支えていた。

弱き者を守る。それが、俺の生きる理由だ。

そう心に刻んで、杏寿郎は剣を振り続けた。

 

 

 

瑠火が息を引き取ったのは、その年の冬のことだった。

雪が静かに降る夜だった。杏寿郎は、母の枕元で手を握っていた。

「杏寿郎……」

瑠火の声は、もう囁きのように小さかった。

「はい、母上。ここにいます」

「最後に……言わせて……」

 

瑠火は、最後の力を振り絞るように、息子の手を握りしめた。

「心を燃やしなさい……それこそが、煉獄家の嫡子としてのあなたの定め」

「母上……」

「どんなに苦しいことがあろうとも、心の炎を消してはなりません」

 

涙が、杏寿郎の頬を伝った。

「あなたなら、できる……。愛しています、杏寿郎」

瑠火の目が、ゆっくりと閉じていく。

「母上……! 母上……!」

杏寿郎の叫びが、雪の夜に響いた。

しかし、答えはなかった。

穏やかな表情で、まるで眠っているように、瑠火は息を引き取った。

「母上……っ……!」

杏寿郎は、母の手を握りしめたまま、声を殺して泣いた。

十歳の少年には、あまりにも重い別れだった。

 

 

 

瑠火の死は、煉獄家に大きな影を落とした。

特に、槇寿郎の変貌は著しかった。

妻の葬儀が終わった日から、彼は酒を飲むようになった。最初は夜だけだったが、やがて昼間から杯を傾けるようになり、ついには朝から酔っているようになった。

 

剣を握ることも、なくなった。

かつて極東随一と謳われた剣士の面影は、もはやどこにもなかった。

そこにいるのは、妻を亡くし、酒に溺れ、髭を剃ることすら忘れ、虚ろな目をした中年の男だった。

彼は、深い悲しみに囚われ、己を見失っていた。

 

「父上」

ある日、見かねた杏寿郎は父に声をかけた。

「なんだ」

槇寿郎は、酒杯を傾けながら、息子を見ようともしなかった。

「修行を、続けさせてください」

「……」

「俺は、母上との約束を守りたいのです」

「……くだらん」

 

槇寿郎の声は、冷たかった。

「剣など、無意味だ」

「父上……」

「どれだけ強くなっても、守りたいものは守れん」

 

槇寿郎の手が、震えていた。

「強さなど、何の役にも立たん。お前も、いつか分かる」

声には、深い絶望が滲んでいた。

 

「俺は、そうは思いません」

杏寿郎の声は、静かだが、確かだった。

「母上は言いました。心を燃やして生きなさい、と。俺は、その教えを守ります」

「……」

「父上が教えてくれないなら、俺は一人で学びます。奥義書を読んで、独学で習得します」

 

槇寿郎は、何も答えなかった。

ただ、お猪口に酒を注いでは、飲み続けるだけだった。

杏寿郎は、それ以上何も言わず、酒の匂いが染みついた部屋を出た。

 

 

 

その日から、杏寿郎は一人で修行を始めた。

父の書斎から奥義書を借り出し、庭で毎日素振りを続けた。型の形を覚え、身体に叩き込む。分からないことがあれば、奥義書を何度も読み返した。

 

誰に教わるでもなく、ただひたすらに剣を振った。

雨の日も、風の日も、雪の日も――。

杏寿郎は、一日たりとも修行を休まなかった。

 

 

母の墓は、屋敷の裏手にある小高い丘の上にあった。

杏寿郎は、毎日欠かさず墓参りをした。修行の前と後、必ず母の墓に手を合わせた。

「母上、今日も修行しました」

「母上、壱ノ型が、少し分かってきました」

「母上、弐ノ型が、もう少しで習得できそうです」

返事はない。しかし、杏寿郎は語り続けた。

まるで、母がまだそこにいるかのように。

 

 

 

二年が過ぎた。

杏寿郎は十二歳になっていた。

その間に、彼は壱ノ型と弐ノ型を独学で習得した。もちろん、完璧とは程遠い。かつて父に教わった者には遠く及ばないだろう。

しかし、一人で学んだにしては、十分な出来だった。

剣士としての杏寿郎の天稟が遺憾なく発揮されていた。

 

 

「母上」

その日も、杏寿郎は墓前に跪いていた。

「俺は、決めました」

風が、杏寿郎の黄金色の炎髪を揺らした。

「この村を出ます。旅に出て、もっと強くなります」

杏寿郎は、静かに語り続けた。

「この村には、守るべき人がいません。父上は……俺を見てくれません。でも、この世界のどこかには、俺の力を必要としている人がいるはずです」

墓石は、何も答えない。しかし、杏寿郎には、母が微笑んでいるような気がした。

杏寿郎は、深く頭を下げた。

「行ってきます、母上」

 

 

 

旅立ちの日。

杏寿郎は、父の部屋を訪れた。

「父上、俺は旅に出ます」

槇寿郎は、相変わらず酒を飲んでいた。息子の言葉に、顔を上げようともしない。

「勝手にしろ」

「……はい」

 

杏寿郎は、それ以上何も言わなかった。

言いたいことは、たくさんあった。もう一度、剣を教えてほしい。父の技を、この目で見たい。身体を大事にしてほしい。

でも、今の父には、何を言っても無駄だと分かっていた。

「父上」

杏寿郎は、背を向けたままの父に向けて誓った。

「俺は、煉獄の名を汚しません。母上の教えを守り、正しく生きます」

「……」

「いつか……いつか、俺が強くなったら、また会いに来ます」

返事はなかった。

杏寿郎も、返事を期待していたわけではなかった。

それでも、かつてはあれほど己を律していた父が、息子の門出にも反応しないことに、失望を押さえることはできなかった。

それ以上、言葉を紡ぐこともせずに、杏寿郎は静かに部屋を出た。

 

玄関で草履を履こうとしたとき、一振りの刀が置かれていた。槇寿郎が現役時代に使っていた愛刀だった。

いつもは奥の間に置かれているあるはずのそれが、磨かれて玄関に置かれている。

杏寿郎はその意味を悟り、

「父上……」

と思わず振り返った。

生まれ育った家。母と過ごした思い出。父に剣を教わった日々。

全てが、この場所にあった。

 

「……行ってきます」

杏寿郎は、小さく呟いた。

そして、前を向いて歩き出した。

背中には、奥義書を入れた袋。腰には父の刀。それだけが、彼の全財産だった。

十二歳の少年は、まだ見ぬ世界へと旅立った。

母の教えを胸に。心に炎を燃やして。

 

 

 

旅は、過酷だった。

十二歳の少年が一人で生きていくには、世界はあまりにも厳しかった。

最初の数ヶ月は、飢えとの戦いだった。

食べ物を得る術を知らない杏寿郎は、ときに野草を食べ、川の水を飲んで飢えを凌いだ。

農家の手伝いをして、わずかな食事にありついたこともあった。

冬は、さらに厳しかった。寒さで凍え、何度も死にかけた。洞穴で夜を明かし、焚火の火で暖を取った。

それでも、杏寿郎は歩みを止めなかった。

 

旅を始めてしばらくしたころ、杏寿郎は最初の「戦い」を経験した。

極東の山道を歩いていた時のこと。見通しが悪く、曲がりくねった斜面の先から、悲鳴が聞こえた。

「助けて……!」

杏寿郎は、声のする方へ走った。そこには、三人の武装した男に囲まれた旅の商人がいた。

「死にたくなかったら、さっさと有り金を全部だせ!」

男たちが、だみ声で商人に要求していた。

「お、お願いです、許してください……!」

 

賊は三人。全員が刀を持っている。対する杏寿郎は、一人。しかも、まだ十三歳の少年だ。

普通なら、逃げるべき状況だった。

しかし、杏寿郎の足は、前に向かって動いていた。

「待て」

 

山賊たちが、振り返る。

「なんだ、ガキか」

「その人を、放せ」

「ああ? 何言ってんだ、このガキ」

 

山賊の一人が、杏寿郎に近づいてきた。

「邪魔すんなら、お前から殺してやるよ」

 

刀が振り下ろされる。

まともに訓練をした形跡もない、雑な太刀筋。

齢十三といえど、一日たりとて修行を休まなかった杏寿郎には、あまりにも無駄の多い動きに見えた。

この程度、避けるまでもない。杏寿郎は、大振りの太刀筋が下りてくる前に、裂ぱくの気合とともに一気に踏み込み、賊の急所を次々に切り裂いた。

訓練し続けた炎の呼吸は、少年の太刀筋に確かに宿っていた。

 

一瞬にして物言わぬ躯に変わり果てた賊を見ながら、杏寿郎が荒い呼吸を整えていると。

「あ、ありがとうございます……」

旅の商人の震え声が耳に入った。

 

「大丈夫ですか」

杏寿郎は、血を拭って納刀すると、行商人のような身なりで震えている男に手を差し伸べた。

彼は、杏寿郎の顔を見て、目を丸くした。

「あなた、まだ子供じゃないですか……なのに、こんなにお強いとは……」

「俺は、ただ……」

杏寿郎は、言葉を探した。

「母に誓っただけです」

 

それが、杏寿郎の「正義」の始まりだった。

旅を続ける中で、彼は何度も同じような場面に遭遇した。

モンスターに襲われる村。野盗に絡まれる旅人。悪党に虐げられる人々。

そのたびに、杏寿郎は剣を振るった。

報酬を求めたことは、一度もない。ただ、母と交わした約束を守ろうとしてのことだった。彼にとって、亡き母との誓いは決して破ってはならない神聖なものだった。

 

 

それから1年。十三歳の時、杏寿郎は大きな壁にぶつかった。

炎の呼吸の奥義が、どうしても習得できないのだ。

奥義書には、型の動きが記されている。しかし、それを読んだだけでは、真の威力を発揮できない。

 

「やはり、アマテラス様に忠誠を誓い、神血を授けていただかなくては、ダメなのか……」

ただ、この身は煉獄家を出奔している。

家制度の発達したこの地で、浪人が眷属に取り立ててもらうには、並大抵のことではダメである。

 

失望が胸のうちからこみあげてきたとき、杏寿郎は迷宮都市の噂を耳にした。

遥か西の果てに、「オラリオ」という都市がある。そこでは多くの神々が地上に降り、人間に『神の恩恵』を与えているという。恩恵を受けた者は、迷宮に潜り、敵と戦い続けるなかで、オラリオの外とは比べものにならないくらい、人間の限界を超えた力を得られる。

 

「オラリオ」

杏寿郎の心に、一つの目標が生まれた。

アマテラス神以外の恩恵にすがって炎の呼吸を修めるのは、他力本願かもしれない。けれど、オラリオにいる数多の神々のなかには、自分の誓いを受け入れてくれるものもいるかもしれない。

藁にもすがる思いで、杏寿郎は極東の島を出た。

海を渡り、大陸へ。見知らぬ土地。聞いたことのない種族。全てが新鮮で、困難だった。

しかし、杏寿郎は歩みを止めなかった。

 

大陸でも、彼は変わらなかった。

弱き者を見れば助け、悪しき者を見れば立ち向かう。報酬を求めず、名を残すこともなく、ただ正しいと思うことをする。

 

実家を出て3年。杏寿郎は、十五歳になっていた。

見通しの悪い森が鬱蒼と続く。

そのなかを、杏寿郎はひたすら歩いていた。オラリオに続く最後の道程であった。

彼はもう幼い少年ではなかった。背は伸び、身体は鍛え上げられ、目には確かな意志の光が宿っていた。

腰には、父の刀。背には、家の奥義書。そして胸には、母の教え。

 

「もう少しだ」

杏寿郎は、前を見据えた。

 

「もう少しで、オラリオに着く」

 

その時だった。

前方から、悲鳴が聞こえた。

街道の先で、乗り合い馬車が脱輪して横倒しになっていた。

その周りを、十人ほどの男たちが囲んでいる。全員が武器を持ち、明らかに堅気ではない。盗賊だ。

「おい、金目のものを出せ! ぶっ殺すぞ!」

相変らずワンパターンな賊の脅し。

外には、馬車から放り出されたのだろうか、赤子を抱えた女性が横たわっていた。その手前には、一人の若い女性が剣を抜いて、彼女を守るように立ちはだかっている。

 

その女性を見たとき、杏寿郎は衝撃のあまり呼吸をするのを忘れてしまった。

凄絶なまでに美しい女だった。胡桃色の長い髪。女性らしい豊かな胸。身を包む穢れなき純白の衣。

しかし、何よりも杏寿郎の目を引いたのは、その瞳だった。

星空のような藍色の瞳は、恐怖に震えているわけでもなく、怒りに燃えているわけでもなかった。ただ静かに、盗賊たちを見つめていた。

まるで、この状況を冷静に観察して裁きを下そうとしているかのようだった。

 

「おい、聞いてんのか!」

盗賊の一人が、馬車に近づいた。

その時、杏寿郎は動いた。

「待て」

声変わりしたばかりの彼の声が、街道に響いた。

盗賊たちが、ギョッとしたように振り返る。

自分たちを討伐する傭兵が現れたのかと思ったのだ。

 

しかし、そこにいたのは見慣れない衣装に身を包んだ青年ただ一人だった。

「なんだ、ガキか」

賊の声に安堵が混じる。若造一人なら何とでもなる。邪魔をするようなら、さっさと殺してしまえばよい。

そんな思いが透けて見えた。

 

「その馬車から、離れろ」

そんな賊の心中を気にすることなく、杏寿郎は腰の刀に手をかけた。

 

「へっ、ガキが! 一人で何ができる。見ろ、こっちは十人だぞ」

「数は関係ない」

杏寿郎は、一歩前に出た。

「弱き者を虐げる者を、俺は見過ごせない」

 

「なんだと?」

盗賊のリーダーらしき男が、顔を歪めた。

「面白いことを言うガキだな。おい、囲んで殺してしまえ!」

盗賊たちが、一斉に杏寿郎に襲いかかった。

杏寿郎は、刀を抜いた。

三年間の旅で、彼の剣技は研ぎ澄まされていた。

いまだ神の恩恵はない。炎を纏うこともできない。しかし、純粋な剣技だけなら、並の大人には負けない自信があった。

 

一人目。横から差し込まれる遅い斬撃。それが届くよりも先に、一瞬で踏み込み逆袈裟に切り捨てる。

二人目。上からの振り下ろしを受け流し、そのまま首を切り裂く。

三人目、四人目。同時に襲ってきた二人の間をすり抜けながら、打ち据える。

五人目、六人目、七人目。

杏寿郎は、流れるような動きで盗賊たちを倒していった。

 

「な、なんだこのガキは……!」

残った三人が、恐怖に顔を引きつらせる。

動きを止めた三人に対し、杏寿郎は裂ぱくの気合とともに襲い掛かった。

 

煉獄は武門の名家。治安を担う町奉行ではない。

当然、敵に対して容赦をするという発想はなかった。

ましてや、相手は卑劣にも女性に襲い掛かろうとする賊の集団。ここで下手に手加減したら、馬車の中や、外で息を殺している乗客に余計な犠牲がでる。そうなっては、母との誓いを守ることはできない――。

杏寿郎は一切躊躇うことなく、炎のような気合のまま三人を斬り捨てた。

 

杏寿郎が一息ついて、刀の血を拭っていると、涼やかな女性の声が鼓膜を震わせた。

「ありがとうございます、助けていただいて」

振り向けば、馬車の外で剣を構えていた女性が、構えを解いてゆっくりと歩み寄ってきた。

間近で見ると、その美しさは際立っていた。

しかし、それ以上に杏寿郎を惹きつけたのは、彼女の纏う雰囲気だった。

穏やかで、優しくて、それでいてどこか超然としている。

人間とは、何かが決定的に違っていた。

 

「お強いのですね」

女性は、穏やかな声で言った。

「いえ、当然のことをしたまでです」

杏寿郎はきっぱりと応じた。助けた者から、このように言われることは慣れていた。

「当然のこと?」

「はい。弱き者を助けることは、強く生まれた者の責務です」

 

女性の目が、わずかに見開かれた。

「……それは、誰かに教わったのですか」

「俺の母です」

杏寿郎は、真っ直ぐに答えた。

「母は、俺が幼い頃に亡くなりました。でも、その教えだけは、ずっと守り続けています」

「……そう」

 

女性は、しばらく杏寿郎を見つめていた。

その目には、何か深い感慨のようなものが浮かんでいた。

「あなた、名は」

「杏寿郎です。煉獄杏寿郎」

「杏寿郎……」

 

女性は、その名を噛みしめるように呟いた。

「私は、アストレア」

「アストレア……様?」

「ええ。正義と秩序を司る女神よ」

 

女神。

その言葉を聞いた瞬間、杏寿郎は全てを理解した。

そうか、この人が神だ。

旅の途中で何度も聞いた、放浪する神々の一柱。

 

「女神様……」

杏寿郎は、思わず跪こうとした。しかし、アストレアはそれを手で制した。

「そんな必要はないわ。私は今、一人の旅人に過ぎないの」

「しかし」

「あなたも、オラリオへ向かっているの?」

アストレアは問いかけた。

 

「はい。母の教えを守れるくらい強くなれるように」

「そう……」

 

アストレアは、何かを考えるように、杏寿郎を見つめた。

その視線は、まるで杏寿郎の心の奥底まで見透かしているようだった。

 

「杏寿郎。あなたは、なぜ強くなりたいの?」

「弱き者を守るためです」

杏寿郎は迷わずに答えた。実際、それは、もはや彼にとってただ一つの生きる意味となっていた。

 

「それは、お母様の教えだから?」

「はい。でも、それだけではありません」

杏寿郎は、言葉を選びながら続けた。

 

「旅をする中で、たくさんの人を見ました。虐げられている人、苦しんでいる人、助けを求めている人。俺は、そういう人たちを見過ごすことができません」

「……」

「強くなって、もっとたくさんの人を守りたい。それが、それだけが俺の願いです」

そこには、単に母の教えだからというだけではない、経験に基づいた、地に足の着いた重い決意があった。

「たとえ、そのために他の誰かを斬らなければいけないとしても? あなたの正義が、他の誰かを傷つけるとしても?」

アストレアは、試すように問いかけた。それは、正しくもあり、意地が悪くもある質問だった。

「はい。この手は小さく、全てを救うことはできません。それでも、自分の目に留まる範囲の人々の小さな幸せを守りたいのです。たとえ誰かを守るために人を斬り、他の誰かを傷つけることがあったとしても、それで多くの者が笑顔で暮らせるのだとしたら――。独りよがりと罵られようと、私はその道を歩みます」

 

それは、極東で争乱を目撃し、野に晒された多くの屍を見てきた若き侍の、燃えるような誓いであり、決意だった。

その露悪的なまでに苛烈な答えに、アストレアはしばし沈黙した。

 

「そう……。それが、あなたの『正義』なのね」

「はい」

 

しばし瞑目したのち、アストレアは続けた。

「いいでしょう。私は今、オラリオでファミリアを立ち上げようとしているの。正義を掲げ、弱き者を守るファミリアを」

「正義のファミリア……」

「でも、なかなか眷属が見つからなかった。私が求めているのは、ただ強い者ではない。真に正義の心を持つ者なの」

 

アストレアは、杏寿郎の目を真っ直ぐに見つめた。

「あなたの言葉を聞いて、確信したわ。あなたこそ、私が探していた者だ、と」

「俺が……? ですが、アストレア様は俺の『正義』に納得しておられなかったのでは……?」

杏寿郎は目を見開いた。

 

「いいえ、そんなことはないわ。『正義』は人の数だけ存在する。大事なのは、迷いながらも己の『正義』を貫くこと。あなたの剣には、たしかに『正義』が宿っていた。――杏寿郎、私の眷属になりませんか」

 

杏寿郎は、アストレアを見つめた。

眷属。神の恩恵を受ける者。それは、杏寿郎がオラリオを目指していた理由の一つだった。

しかも、正義を掲げる女神。弱き者を守るファミリア。

これ以上ないほど、自分の想いと合致している。

 

「俺で、いいのですか」

「いいえ、違うわ」

アストレアは、穏やかに微笑んだ。

「あなたが良いの――。あなたの言葉には、嘘がない。あなたの目には、真っ直ぐな、燃えるような想いがある。そういう人を、私はずっと探していた」

「……」

「もちろん、強制はしないわ。他のファミリアに入りたいなら、それでもいい。でも、もし良ければ――」

「お願いします」

 

杏寿郎は、アストレアの言葉を遮った。

「俺を、あなたの眷属にしてください」

その答えに、アストレアは見るからに安堵していた。

その藍色の瞳には、喜びと、安堵と、そして何か温かい思いが浮かんでいた。

「嬉しいわ、杏寿郎。ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございます」

杏寿郎は、深く頭を下げた。

「俺は、あなたと共に正義を貫きます。この命が尽きるまで」

それは、終生変わることのない厳かな誓いだった。

 

 

その夜。

星々が夜空に瞬くなか、街道沿いの野営地で、アストレアは杏寿郎に恩恵を授けた。

「上着を脱いで、背中を見せて」

「はい」

杏寿郎は言われた通りにした。

アストレアが、彼の背中に手を当てて、神の血を垂らす。

温かな熱が、杏寿郎の背中に宿った。

自分が生まれかわるという確かな感触が、感じられた。

 

「これで、あなたは私の眷属よ」

「……」

それは不思議な感覚だった。身体の奥底から、力が湧き上がってくるような。

 

「ステイタスを確認するわね」

アストレアが、杏寿郎の背中を見つめる。

その目が、驚きで見開かれた。

 

「これは……」

「どうしました、アストレア様」

「杏寿郎……魔法とスキルが発現しているわ」

「魔法と、スキル……?」

「普通、魔法やスキルは、ある程度経験を積んでから発現するものなの。恩恵を授けた瞬間に発現するなんて、エルフでもなければあまり聞かないことよ」

 

アストレアは、杏寿郎の背中に浮かぶ神聖文字を読み上げた。

「魔法、『炎の呼吸』。全身と武器に炎を纏う強化魔法。詠唱は『心を燃やせ――炎の呼吸』。持続中、剣技として型を発動可能」

 

「炎の呼吸……!」

杏寿郎は、思わず声を上げた。

「父の、煉獄家の剣術が、魔法に……」

「三年間、この技を求めて鍛錬してきたのね。その想いが、その努力が、魔法として結実したのよ」

 

アストレアは、続けてスキルを読み上げた。

「スキル、『炎の誓い』。効果は……『早熟する。誓いを守る限り効果持続。誓いの丈により効果上昇』」

「炎の誓い……」

「きっと、これはあなたのお母様への誓い。弱き者を守るという誓い。その想いの強さが、スキルを生み出したのかもしれない」

 

聞いたことのないスキルだとアストレアは思う。

これが他の神に知れたら、争奪戦が起きるかもしれない。それくらい危うい効果を持ったスキルだった。本来であれば、眷属にも伝えないほうがよいくらいのもの。

それでも、とアストレアは思う。杏寿郎であれば大丈夫であろう。むしろ、母との誓いがスキルとして形をなしたことで気持ちを新たにして、励むであろう。

女神の直感がそう告げていた。

 

一方の杏寿郎は、自分の手を見つめた。

母の教え。父の剣術。それらが全て、この身に宿った。

「母上……」

目頭が、熱くなった。

「俺の想いは、届いていたんですね……」

 

「ええ」

アストレアは、優しく微笑んだ。

「あなたの想いは、本物よ。だからこそ、これだけの力が発現した」

「……ありがとうございます、アストレア様」

杏寿郎は、深く頭を下げた。

「俺は、この力で、母との約束を果たします。弱き者を守り、正義を貫きます」

「ええ」

アストレアは、杏寿郎の手を握った。

 

「私たちの旅は、これからよ」

夜が更けていく。

焚火の明かりが、二人の姿を照らした。

杏寿郎の新たな物語が始まろうとしていた。

正義の女神と歩む、眷属の物語が――。

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