ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか   作:kursk

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二人だけの灯火

オラリオの城門は、杏寿郎がこれまでに見たどんな建造物よりも巨大だった。

 

四年間の旅路で、杏寿郎は多くの街を見てきた。極東の城下町、大陸の交易都市、山岳地帯の要塞。しかし、そのいずれもが、目の前にそびえる城壁の前では玩具のように思えた。

 

灰色の石材で築かれた城壁は、天を衝くような高さで延々と続いている。その中央に穿たれた大門は、十人が横に並んで歩いても余りあるほどの幅があった。門の上部には複雑な紋章が刻まれた石版が掲げられ、陽光を受けて鈍い輝きを放っている。

 

「これが、迷宮都市オラリオ……」

杏寿郎は、自然と足を止めていた。

城壁の遥か向こうには、さらに巨大な建造物が聳えている。白亜の塔だ。その塔は街のどこからでも見えるほどの高さで、先端は霞んで見えなかった。まるで天界と地上を結ぶ柱のようだと、杏寿郎は思った。

 

「あれが、バベルよ」

隣を歩くアストレアが、杏寿郎の視線を追った。彼女の胡桃色の髪が、午後の風に緩やかに揺れている。

「ダンジョンの入り口を塞ぐように建てられた塔。あの地下深くに、迷宮が広がっている」

「ダンジョン……」

杏寿郎は、その言葉を胸の中で転がした。

旅の途中で何度も聞いた名前だ。無限に続く地下迷宮。モンスターが湧き出る異界。冒険者たちが命を懸けて探索し、時に帰らぬ者となる場所。そして同時に、強くなるための最も確実な道。

 

杏寿郎の拳に、無意識に力が入った。

 

「行きましょう」

アストレアが、静かに歩き出した。杏寿郎も、彼女の後に続いた。

 

 

 

城門をくぐると、別世界が広がっていた。

まず、人の多さに圧倒された。

メインストリートには、数え切れないほどの人々が行き交っている。商人が荷車を押し、冒険者たちが武装したまま歩き、子供たちが石畳の上を駆け回っている。喧噪が渦を巻くように街を包み込み、熱気が満ちていた。

 

しかし、杏寿郎の目を引いたのは、人の多さだけではなかった。

「様々な種族が……」

 

長く尖った耳を持つエルフ。小柄だが俊敏そうなパルゥム。獣の耳や尻尾を持つ獣人。筋骨隆々としたドワーフ。彼らが、当たり前のように肩を並べて歩いている。

極東では見たことのない光景だった。杏寿郎の故郷では、ヒューマン以外の種族はそれほど多くなかった。

 

「これが、神々が作った都なのですね」

「ええ。世界中から、冒険を求めて人が集まってくる街よ」

アストレアは、杏寿郎の反応を微笑ましげに見つめていた。

 

石造りの建物が立ち並び、店が軒を連ね、露店が道端に並んでいる。酒場からは陽気な歌声と笑い声が漏れ聞こえ、鍛冶屋からは金属を打つ音が響いてくる。どこを見ても、人がいて、音があって、動きがあった。

 

しかし、杏寿郎はすぐに気づいた。

この活気の中に、何か違うものが混じっていることに。

――人々の表情だ。

笑っている者もいる。楽しげに歩いている者もいる。しかし、一見、活気に満ちた表情のなかに、隠しようのない怯えが混じっているように感じられた。

しかも、何となしに路地裏を覗くと、うずくまっている人影がある。壁に寄りかかり、虚ろな目で空を見上げている男がいる。子供を抱きかかえ、足早に通り過ぎていく母親がいる。

 

そして、そんな人々を横目に、堂々と大通りを闊歩する集団がいた。

野卑な雰囲気。腰には武器。その顔には、傲慢さと残忍さが張り付いている。彼らが通ると、周囲の人々が道を開けた。避けるように、逃げるように。

 

杏寿郎の眉間に、深い皺が刻まれた。

「アストレア様」

「気づいたのね」

アストレアの声は、静かだった。しかし、その奥には、悲しみが滲んでいた。

「オラリオでは、暗黒の時代が、始まっているの。かつて最強と呼ばれたゼウスとヘラの眷属たちがいなくなって、悪党を抑えるだけの力がなくなってきている」

「暗黒の時代……」

杏寿郎はアストレアの言葉を噛み締めた。

「悪徳を生業にするファミリアが力を持ち、市民を苦しめている。善良なファミリアは弱体化し、街の治安は悪化する一方。ギルドも、闇派閥を完全には抑えられていない」

アストレアは、前を向いたまま続けた。

 

「もしかすると、あの者たちも、闇派閥の構成員ではないのかもしれない。大通りを歩いている以上、少なくとも尻尾は出していないのでしょう。でも、彼らには弱き者に暴力をふるう者たちに特有の嗜虐がある……。そして、きっと彼らの横暴を止められる者は少ない」

 

「……」

杏寿郎は、黙って拳を握りしめた。

母の教えが、胸の奥で熱く燃えた。

 

「だからこそ」

アストレアが、杏寿郎を見つめた。

「私たちが必要なの。正義を掲げ、弱き者を守るファミリアが」

「はい」

杏寿郎は、真っ直ぐにアストレアの目を見返した。

 

二人は、街を歩き続けた。

メインストリートを外れ、路地裏を抜け、中心部から離れる。大通りの喧噪は徐々に遠ざかり、代わりに薄暗い路地と、古びた建物が目立つようになった。

 

「ここは、あまり治安の良くない地域ね」

アストレアが、周囲を見回しながら言った。

「でも、だからこそ、最初はここを仮の住処にしましょう」

「ここに?」

「ええ。正義を必要としている人が、最も多い場所だから」

杏寿郎は、その言葉に頷いた。

なるほど、と思った。安全な場所に本拠を構えて、たまに巡回するだけでは、本当に困っている人を助けることはできない。彼らの近くにいてこそ、彼らを守ることができる。

 

アストレアの考えは、杏寿郎の信条と一致していた。

「あそこはどうかしら」

 

アストレアが指差した先に、一軒の建物があった。

三階建ての古びた安宿だ。外壁は煤けて汚れ、看板の文字は半分消えかけている。窓ガラスは曇り、戸は軋みそうな音を立てていた。

 

お世辞にも立派とは言えない。むしろ、みすぼらしいと言った方が正確だろう。

しかし、杏寿郎は微笑んだ。

「良い場所ですね。質素ですが、清潔そうです。窓からは通りが見えますし、非常口もある。何より……」

 

杏寿郎は、宿の前に立つ老婆に目を向けた。老婆は、箒を握りしめたまま、二人を眺めていた。その目には、疑念と警戒が浮かんでいたが、同時に、人の良さも隠しれていなかった。

「この宿の女将は、悪い人ではなさそうです」

「……ふふ」

アストレアは、小さく笑った。

「あなたは、人を見る目があるわね」

アストレアは、宿の前に歩み寄り、老婆に話しかけた。

 

交渉は、すぐに終わった。

老婆――宿の女将は、アストレアが「正義の女神」だと知ると、少し態度を軟化させた。そして、何かを思い出したように目を細めた。

「ハンっ、正義の神、ねえ……この街に、そんなもんの居場所なんざないよ。いや、なくなっちまったというのが正しいのか知らんがね」

女将は、煙管をふかしながら、鼻を鳴らした。

「三階の角部屋が空いてる。二人で使うなら、一晩3000ヴァリスだ」

「ありがとうございます」

アストレアが、丁寧に頭を下げた。

 

「ふん……神様なのに、腰が低いねえ。『ふひひ』とかいう気色の悪い笑い声もあげない。珍しいこった」

女将は、皮肉げに笑った。

「まあいい。変な騒ぎを起こさなけりゃ、好きにしな」

「はい。ご迷惑はおかけしません」

杏寿郎も、深く頭を下げた。

女将は、杏寿郎をじろじろと眺めた。

 

「あんた、その神様の眷属かい?」

「はい。俺は、煉獄杏寿郎と申します」

「レンゴク……極東の名前だね。若いのに、随分と真っ直ぐな目をしてるじゃあないか」

 

女将は、何かを思い出したように遠い目をした。

「……昔、あたしの息子も、そんな目をしてたっけね」

「息子さん?」

「ああ。冒険者になってね。ダンジョンに潜って……帰ってこなかった」

「……」

杏寿郎は、言葉を失った。

 

女将は、首を振った。

「まあ、昔の話さ。あんたは、死ぬんじゃないよ。せっかく、親からいい目をもらったんだ」

「はい。約束します」

杏寿郎は、真剣な顔で言った。

「俺は、必ず生きて帰ります。そして、この街を守ります」

 

女将は、しばらく杏寿郎の顔を見つめていた。そして、ふっと笑った。

「部屋はあっちだ。好きに使いな」

 

 

 

三階の屋根裏部屋は、質素だが清潔だった。

木製のベッドが二つ。小さな机と椅子。窓からは、街の一角が見渡せる。壁には染みがあり、床板は軋むが、埃はきちんと払われていた。

 

「ここが、俺たちの本拠ですね」

杏寿郎は、部屋を見回しながら言った。

「ええ。とりあえずは、ね」

アストレアは、窓辺に立った。夕日が、彼女の胡桃色の髪を橙に染めあげた。

「いずれは、きちんとした本拠を構えたいわ。でも、今はまだ……」

「俺たち二人だけですから」

「そうね」

アストレアは、微笑んだ。

「でも、いつか仲間が増えるわ。あなたの生き方に共感する者たちが、きっと現れる」

「俺も、そう願っています」

杏寿郎は、窓の外を見た。

オラリオの街が、夕闇に沈みつつある。遠くには、バベルの塔の影がそびえたっている。その向こうには、無限に広がる空があった。

 

 

翌朝、杏寿郎は日の出とともに目を覚ました。

宿の窓から差し込む朝日が、部屋を淡い金色に染めている。隣のベッドでは、アストレアがまだ眠っていた。胡桃色の髪が枕に広がり、穏やかな寝息が聞こえる。

杏寿郎は、音を立てないように起き上がった。

 

体を伸ばし、軽く屈伸をする。旅で鍛えた習慣だ。どんな状況でも、体を動かすことを忘れない。それが、生き残るための基本だと、四年間の放浪で学んだ。

 

窓を開けると、朝の冷たい空気が流れ込んできた。

オラリオの街は、まだ眠りから覚めきっていない。通りを歩く人はまばらで、露店もほとんどが閉まっている。しかし、バベルの塔の周辺には、すでに人の気配があった。

 

冒険者たちだ。

彼らは、夜明けとともにダンジョンに潜る。少しでも早く、少しでも深く。そうして、富と名声を求める。暗黒期でも変わらない冒険者の性が、そこにあった。

杏寿郎は、その光景を眺めながら、静かに拳を握った。

今日から、俺もあの中の一人になる。

 

「早いわね」

背後から、アストレアの声が聞こえた。

「おはようございます、アストレア様」

「おはよう、杏寿郎」

アストレアは、髪を整えながら杏寿郎の隣に立った。

「緊張している?」

「いいえ。むしろ、楽しみです」

杏寿郎は、にっこりと笑った。

 

 

朝食は、宿の一階で取った。

黒パンとスープ、干し肉という質素な食事だが、杏寿郎には十分だった。旅の間は、これよりもひどい食事を何度も経験してきた。温かいスープが出るだけでも、贅沢に感じる。

「うまい!」

杏寿郎は、スープを一口飲んで、満面の笑みを浮かべた。

「本当にうまい、このスープ!」

「……あんた、味覚が壊れてるんじゃないかい」

カウンターの向こうで、老婆が呆れた顔をしていた。

「そりゃ、残り物で作った適当なスープだよ。そんなにうまいもんじゃない」

「いいえ、うまいです! 温かいし、塩加減もちょうどいい!」

「……変な子だね」

女将は、首を振りながらも、どこか嬉しそうな顔をしていた。

 

アストレアは、そんなやり取りを微笑ましげに眺めていた。

杏寿郎の明るさは、周囲の人を自然と和ませる。それは、彼の生まれ持った才能なのだろう。剣の才とは、また別の、人を惹きつける力。

それはきっと、この暗黒期に何よりも求められている資質なのだろう。彼女は、彼と出会えた幸運に感謝せずにはいられなかった。

 

「さて」

朝食を終えると、アストレアは立ち上がった。

「ギルドに行きましょう。冒険者登録をしないとね」

「はい!」

杏寿郎も、勢いよく立ち上がった。

 

 

 

ギルドは、バベルの近くにあった。

大きな建物で、正面には「ギルド」と刻まれた看板が掲げられている。冒険者と思しき者たちが忙しなく出たり入ったりしていた。

 

「ここが、迷宮を管理するギルドよ」

アストレアが、建物を見上げながら言った。

「ダンジョン探索の許可を発行し、魔石の買い取りを行い、冒険者の情報を管理する場所。この街で冒険者として活動するには、ここに登録する必要があるの」

「分かりました」

杏寿郎は、深呼吸をして扉を開けた。

 

 

内部は、想像以上に広かった。

高い天井。磨かれた大理石の床。壁には、様々な掲示物が貼られている。

依頼書、警告、それに指名手配の似顔絵のようなものまで。そして、カウンターの前には、多くの冒険者たちが列を作っていた。

 

「受付は、あちらみたいね」

アストレアが、カウンターの一角を指差した。

二人は列に並び、順番を待った。

「いらっしゃいませ。今日はどういったご用件でしょうか」

職員は、丁寧な口調で言った。年齢は二十台半ばといったところだろうか。眼鏡をかけた、知的な雰囲気の女性だった。

 

「はじめまして、新規登録をお願いします」

アストレアが答えた。

「私はアストレア。正義を司る神よ。そして、この子は私の最初の眷属、煉獄杏寿郎」

 

「アストレア様」

職員の目が、わずかに見開かれた。

「正義の女神様ですね……お噂はかねがね」

「あら、私のことを知っているの?」

「はい。神々の中でも、特に正義に厳しい方だと聞いております」

 

職員は、頭を下げた。

「私は、エイラと申します。本日の新規登録を担当させていただきます」

「よろしくお願いします、エイラさん」

杏寿郎も、深く頭を下げた。

 

エイラは、杏寿郎を見つめた。

「極東の方ですか」

「はい」

「そうですか。極東から来た冒険者は、珍しいですが、ときおり見かけます。ようこそ、オラリオへ」

エイラは、書類を取り出した。

 

「では、登録を始めましょう。まず、お名前を」

「煉獄杏寿郎、こちら風に言えば、杏寿郎・レンゴクです」

「レンゴク……と。所属ファミリアはアストレア・ファミリアですね?」

エイラのペンが、一瞬止まった。

「団員は、あなただけですか?」

「はい。今のところは」

 

「そうですか」

エイラは、何かを考えるように眉をひそめた。しかし、すぐに表情を戻し、書類に記入を続けた。

「ファミリアとしてのランクは、最初はI(アイ)からのスタートになります。実績を積み、ギルドが認めれば、ランクが上がります」

「分かりました」

 

手続きを終えると、エイラは杏寿郎の目を見つめて言った。

「ダンジョンは、自己責任です。ギルドは、情報提供と魔石の買い取りを行いますが、探索中の事故については、一切の責任を負いません。それでよろしいですか」

「はい」

杏寿郎は、迷いなく答えた。

「これで登録は完了です。これが冒険証。それでは、頑張ってください」

彼女の声には、諦めと、かすかな期待が混じっていた。

きっと、何人もの新人に同じような言葉を送ってきたのだろう。そして、その多くが、帰ってこなかったのだろう。

杏寿郎は、改めて心の中で誓った。俺は、必ず帰ってくる、と。

 

 

ギルドを出ると、アストレアが微笑んだ。

「いよいよね」

「はい」

 

杏寿郎は、バベルを見上げた。

白亜の塔が、青空を背景にそびえている。その地下に、ダンジョンがある。モンスターがいる。そして、強くなるための道がある。

 

「行ってきます、アストレア様」

「ええ、気をつけてね」

 

アストレアは、杏寿郎の肩に手を置いた。

「無理はしないこと。危険を感じたら、すぐに逃げること。いい?」

「はい。約束します」

杏寿郎は、軽く頭を下げ、ダンジョンへの入り口に向かって歩き出した。

振り返ると、アストレアがこちらを見つめていた。胡桃色の髪が、朝の陽光を受けて輝いている。その姿は、まるで女神の彫像のように美しかった。

杏寿郎は、小さく手を振った。アストレアも、手を振り返した。

そして、杏寿郎はバベルの中に入り、迷宮に続く階段を下りた。

 

 

 

迷宮内に入ると、空気が変わった。

地上の澄んだ空気とは違う、重く湿った空気。肌にまとわりつくような、独特の圧迫感。石造りの壁が、松明の光を受けて不気味に揺らめいている。

そして、どこからともなく聞こえてくる、何かの唸り声。遠くで響く足音。壁を這う何かの気配。

 

ダンジョン一階層。

杏寿郎は、刀の柄に手をかけながら、慎重に歩を進めた。

通路は、思ったよりも広い。大人が数人並んでも余裕があるほどの幅だ。天井も高く、閉塞感はそれほどない。しかし、壁の向こうから何が出てくるか分からないという緊張感が、常に付きまとっていた。

 

一人だ。

杏寿郎は、改めてその事実を噛みしめた。

アストレア様はいない。助けてくれる仲間もまだいない。ここでは、全てを自分一人でやらなければならない。

しかし、不思議と恐怖はなかった。

四年間の旅で、杏寿郎は何度も一人で戦ってきた。盗賊に襲われた時も、野獣に遭遇した時も、常に一人だった。誰も助けてくれない状況で、自分の力だけで生き延びてきた。

ダンジョンも同じだ。

ただ、敵がより強大なモンスターに変わっただけ。戦い方は変わらない。

これまで磨いてきた剣の腕と炎の呼吸で切り抜ければよい。

決意を新たにして、杏寿郎は、五感を研ぎ澄ませた。

視覚。聴覚。嗅覚。触覚。そして、四年間の旅で培った第六感とも言える危機察知能力。全ての感覚を総動員して、周囲の状況を把握する。

 

すると、前方、約二十歩先。壁の向こうに異変を感じた。

 

壁が、蠢いていた。

正確には、壁の一部が盛り上がり、そこから何かが生まれようとしていた。灰色の表面がぶくぶくと泡立ち、やがて形を成していく。

 

これが、モンスターが生まれる瞬間か。

杏寿郎は、その光景を冷静に観察した。ギルドで聞いた説明通りだ。ダンジョンの壁から、モンスターは生み出される。まるで、ダンジョンそのものが生きているかのように。

 

小さな人型の生物が、壁から剥がれ落ちた。

緑がかった肌。尖った耳。濁った目。手には、錆びた短剣。

ゴブリンだ。

 

ダンジョン上層に出現する、最も弱いモンスター。しかし、その姿は、想像以上に醜悪だった。人に似ているが、人ではない。その不気味さが、本能的な嫌悪感を呼び起こす。

ゴブリンは、杏寿郎を認識すると、金切り声を上げた。

 

「ギャアアア!」

そして、短剣を振りかざし、襲いかかってきた。

杏寿郎は、動かなかった。

 

ゴブリンが近づく。三歩、二歩、一歩。

短剣が振り下ろされる。

その瞬間、杏寿郎の体が動いた。

 

一閃。

それ以外に、表現のしようがなかった。

杏寿郎の刀が鞘から抜かれ、弧を描き、再び鞘に収まる。その一連の動作は、瞬きよりも速かった。

 

ゴブリンは、何が起きたか理解する間もなく、首を跳ね飛ばされた。そして、体は灰となって崩れ落ち、後には小さな紫色の石だけが残った。

 

魔石だ。

杏寿郎は、刀を鞘に納めたまま、魔石を拾い上げた。

掌に収まるほどの大きさ。しかし、その中には、確かな魔力が宿っている。これがモンスターの核であり、冒険者の収入源となるもの。

 

「なるほど」

杏寿郎は、魔石を腰の袋に入れた。

一体目のモンスターを倒した。思ったよりも、あっけなかった。

しかし、油断はできない。ここは一階層。最も弱いモンスターしかいない場所だ。深くなれば、もっと強い敵が現れる。

 

「さて、次だ」

杏寿郎は、通路の奥へと歩を進めた。

 

 

 

一階層を探索しながら、杏寿郎は次々とモンスターを倒していった。

ゴブリン。また別のゴブリン。そしてまたゴブリン。上層に出現する最も弱いモンスターは、杏寿郎の敵ではなかった。すべて一撃で倒していく。

 

「壱ノ型、不知火!」

強い踏み込みから繰り出される、強烈な袈裟切り。ゴブリンを一刀両断にする。

 

「弐ノ型、昇り炎天」

下から上へと斬り上げる、素早い一撃。敵を両断し、空へと斬り飛ばす。

母の実家に伝わる「炎の呼吸」の型。四年間、奥義書を読み込み、独学で習得した技の数々。

恩恵を受けてからは、それが魔法として発動できるようになった。刀に炎を纏わせ、威力を増幅させる。

 

二階層に続く階段を下りると、空気がさらに重くなった。一階層より暗く、湿度も高い。光が届かない場所が増え、視界が悪くなる。

 

そして、モンスターの数も増えた。

通路の奥から、複数の気配が近づいてくる。

 

杏寿郎は、足を止めた。

三体。いや、四体か。

気配を探ると、ゴブリンが三体と、一回り大きな影が一つ。

 

「コボルトか……」

ギルドで見せてもらった資料を思い出す。犬の頭を持つ人型のモンスター。ゴブリンよりも一段階強い。

 

四対一。

 

普通の新人冒険者であれば、逃げることを考える数だ。しかし、杏寿郎の口元には、むしろ笑みが浮かんでいた。

 

「丁度いい」

彼は、刀の柄に手をかけた。

 

四体のモンスターが、杏寿郎を認識した。

金切り声が上がる。そして、一斉に襲いかかってきた。

杏寿郎は、一歩も動かなかった。

敵が近づく。五歩、四歩、三歩。

 

そして、最初のゴブリンが短剣を振りかぶろうとした瞬間、杏寿郎の体が弾けた。

 

一体目。

杏寿郎は、ゴブリンに先制するように、横薙ぎに刀を鋭く一閃する。たったそれだけのことで、あっけなくゴブリンの首が飛んだ。

 

二体目。

続けざまの斬撃。ゴブリンの胴が泣き別れた。

 

三体目。

杏寿郎は、一歩で距離を詰め、正面から袈裟に斬り伏せた。

 

残されたコボルトは、杏寿郎の強さを察したのか、安易に攻撃してこなかった。

棍棒を構え、じりじりと間合いを測っている。獣の本能で、目の前の人間が危険であることを理解しているのだろう。

 

杏寿郎も、すぐには動かなかった。

相手の出方を見る。隙を探る。そして、最小の動きで最大の効果を得る。それが、効率的な戦い方というものだった。

 

数秒間の睨み合い。

先に動いたのは、コボルトだった。

 

「ガウッ!」

吠えながら、棍棒を振りかぶる。渾身の一撃。当たれば、恩恵を得たばかりの人間の頭蓋骨など砕けるだろう。

 

杏寿郎は、その一撃を紙一重で躱した。

風が頬を撫でる。棍棒が空を切り、石畳を砕く。

 

そして、カウンターの一閃。

 

「心を燃やせ――【炎の呼吸】! 参ノ型、気炎万丈」

刀が閃く。今度は、刀身に炎が纏っていた。赤く輝く炎が、弧を描いてコボルトの胴を上から下に両断した。

コボルトは、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、真っ二つになった。そして、炎に焼かれながら灰と化した。

 

「よし」

四体のモンスターを倒した。傷一つない。

魔石を回収しながら、杏寿郎は自分の状態を確認した。体力はまだ十分にある。精神的な疲労もない。

 

まだまだ行ける。

杏寿郎は、自分の状態をチェックすると、さらに奥へと進んだ。

 

三階層。

モンスターの種類が増えた。ゴブリン、コボルトに加えて、ダンジョン・リザードという爬虫類型のモンスターが出現するようになった。

ダンジョン・リザードは、素早い動きが特徴だ。壁や天井を這い回り、不意打ちを仕掛けてくる。

 

杏寿郎は、最初の遭遇で危うく背後を取られかけた。

「油断した」

反省しながら、杏寿郎は警戒を強めた。

ここからは、前だけでなく、上も、横も、後ろも、常に注意を払わなければならない。一人で潜っている以上、死角をカバーしてくれる仲間はいない。

全方位に気を配りながら、杏寿郎は探索を続けた。

 

四階層。そして、五階層。

通路が複雑になり、迷いやすくなった。

モンスターの数も、さらに増えた。一度に五体、六体と遭遇することも珍しくない。

しかし、杏寿郎は止まらなかった。

 

「肆ノ型、盛炎のうねり」

炎を纏った刀を横薙ぎに振るう。炎の波が広がり、複数のモンスターを同時に焼き払う。

 

「伍ノ型、炎虎」

跳躍しながらの斬り下ろし。上から襲いかかるダンジョン・リザードを、空中で両断する。

型を一つずつ確認しながら、杏寿郎は戦い続けた。

 

「ふう」

しばらく探索を続けていると、連戦のせいか全身が汗で濡れてきた。呼吸も荒い。

体力は、まだ五割ほど残っている。しかし、これ以上消耗すれば、帰り道で危険になる可能性がある。五階層から地上まで、それなりの距離がある。その間にモンスターに遭遇する可能性も考慮しなければならない。

 

行くべきか、戻るべきか。

杏寿郎は、少し考えた。

アストレア様との約束を思い出す。無理はしないこと。危険を感じたら、すぐに逃げること。

 

「ここまでにしておこう」

杏寿郎は、決断した。

初日としては、十分すぎる成果だ。欲張って命を落としては、元も子もない。

杏寿郎は、来た道を引き返し始めた。

 

帰り道は、行きよりも時間がかかった。

疲労が蓄積している分、動きが鈍くなっている。モンスターとの遭遇も避けられず、何度か戦闘を強いられた。

 

地上に出ると、眩しい光が目を射した。

地下の暗闘から這い出てきた杏寿郎にとって、その光は救いのように感じられた。

「戻ってきた」

杏寿郎は、深く息を吐いた。

生きて帰ってきた。約束を守れた。

周囲を見回すと、太陽の位置から判断して、かなりの時間が経っていることが分かった。朝に潜って、今はもう夕方近い。

 

「杏寿郎!」

聞き覚えのある声が、喧噪を破って響き渡った。

振り返ると、アストレアが歩み寄ってきた。その顔には、安堵の表情が浮かんでいた。

「お帰りなさい。そろそろ帰ってくるころかと思って、様子を見に来たの」

「ただいま帰りました、アストレア様」

杏寿郎は、にっこりと笑った。

「お約束通り、帰ってきました」

 

 

アストレアは、杏寿郎の姿を隅々まで確認した。

服は汗と埃で汚れている。しかし、血の跡はない。傷も見当たらない。

 

「怪我は?」

「ありません。俺は無傷です」

「本当に?」

アストレアは、信じられないという顔をした。

初めてのダンジョン探索で、無傷で帰ってくる新人など、聞いたことがない。たいていは、自分の状態を把握できずに、どこかしら傷を負って戻ってくる。あるいは、そもそも戻ってこない。

 

「どこまで行ったの?」

「五階層までです」

「五階層……!」

アストレアの目が、大きく見開かれた。

「初日で、五階層まで?」

「はい。もっと行けたかもしれませんが、体力の限界を感じたので、引き返しました」

「……」

アストレアは、しばらく言葉を失っていた。

初日で五階層。しかも無傷。

アストレア自身、冒険者のことをそれほど知っているわけではない。

それでも、この少年は、やはり特別だと思った。

オラリオに来る道中、レベル1の杏寿郎と手合わせしたときも、彼の苛烈で正確な剣技には舌を巻く思いだった。

 

「杏寿郎」

アストレアは、微笑んだ。

「本当に、あなたは凄いわ。よく頑張ったのね。でも無茶はだめよ?」

「もちろんです、アストレア様。母との誓いを守るためにも、アストレア様のもとに帰ってくるためにも、無茶をするつもりはありません」

杏寿郎は決意を秘めた眼差しで、アストレアを見つめ返した。

 

 

ギルドで魔石を換金すると、予想以上の金額になった。

カウンターの職員は、杏寿郎が持ち込んだ魔石の量を見て、目を丸くした。

「初日で、これだけの量?」

職員は、信じられないという顔で魔石を数えた。

ゴブリン、コボルト、ダンジョン・リザード。様々なモンスターの魔石が、山のように積み上げられている。

 

換金額は、1万ヴァリスをゆうに超えていた。

新人冒険者の初日の稼ぎとしては、破格の金額だ。普通は、せいぜい数千ヴァリス程度。それを、杏寿郎は軽々と超えていた。

 

「やりましたね、アストレア様!」

杏寿郎は、嬉しそうに拳を握った。

「これで、数日は生活費に困りません!」

「ええ、本当にね」

アストレアは、苦笑しながら頷いた。この子は、本当に規格外だ。

 

 

宿に戻ると、杏寿郎は背中を見せた。

「アストレア様、ステイタスを確認してください」

「分かったわ」

 

アストレアは、杏寿郎の背中に手を当てて、神血をたらした。

背中のロックが外れ、神聖文字が浮かび上がる。

アストレアの目に、杏寿郎のステイタスが映し出された。

そして、彼女は息を呑んだ。

「これは……」

「どうしました?」

「あなたのステイタス、信じられないほど伸びているわ」

 

アストレアは、数値を書き写した。

力。耐久。器用。敏捷。魔力。

全ての数値が、たった一日で大幅に上昇していた。通常であれば、数週間から数か月かけて伸ばす量を、杏寿郎はたった一日で達成していた。

 

「これが【炎の誓い】のスキル効果」

それは、スキルの内容を知っているアストレアにとっても驚嘆すべき成長だった。

武家の生まれだからか、それとも母親との誓いのゆえにか、剣技は申し分なく、天賦の才と言えた。しかも、勇気も戦略眼も並外れて優れたものがある。

もちろん、ダンジョンはいつも牙をむく。将来のことは誰にも分からない。

それでも――この子は、これまでの記録を塗り替えるスピードで、次々にランクアップしていくだろう。アストレアは、そう確信した。

 

それから三ヶ月。

女神の勘は的中した。

杏寿郎は、毎日のようにダンジョンに潜った。

五階層に続き、六階層、七階層、八階層。そして今では、十一階層にまで到達するようになっていた。

上層の難関と言われるシルバーバックでさえ、杏寿郎の敵ではなかった。

大きく、トリッキーな動きで冒険者を翻弄する猿を、杏寿郎は炎虎で迎え撃ち、斬り落とした。

まだ見ぬインファントドラゴンを除き、上層で杏寿郎が手古摺る敵はほとんどいなかった。

 

ステイタスも驚異的な速度で上昇し続けた。

ふつう、いくら毎日ダンジョンに潜ろうとも、一日の上昇値は微々たるものである。本来、ステイタスを上げるには、血の滲むような努力を長い間する必要がある。

ところが、杏寿郎の場合は、そうではなかった。

 

アストレアは、毎晩のステイタス確認のたびに、驚きを隠せなかった。

 

「信じられない……」

アストレアは、神聖文字を見つめながら呟いた。

「全てのアビリティが、Cに達しているわ。力にいたってはB……まだダンジョンに潜って三か月なのよ」

「まだまだです」

杏寿郎は、上着を着ながら言った。

驚くアストレアに対して、彼は意外にも冷静だった。

そもそも杏寿郎にとって、レベルやステイタスはそれほど重要ではなかった。

もちろん、強くなる必要はある。不善をなす輩を取り締まり、弱きを助けるためには、何よりも基礎的な力が必要だった。

しかし、彼にとって「強さ」とは、単に肉体上の数値ではなく、訓練と実戦の果てにたどりつく剣の境地であり、心のありようであった。

ステイタスは重要だが、一喜一憂するようなものではない。

――人より早く成長するというのなら、それだけの責務を負っているからに他ならず、人よりも頑張らなければならない。

これこそが、母の教えであった。

 

「これからも、さらに精進します」

杏寿郎は、そう己を戒めた。

「……本当に、あなたは謙虚ね」

アストレアは、苦笑した。

その声には、己の眷属を誇らしく思う女神の思いが、にじんでいた。

 

 

その日の夜、杏寿郎は、初めて街の見回りに出た。

誰に言われたのでもなく、自分の意志で、ただ一人で。

レベル1で見回りに出たところで、レベル2の闇派閥には太刀打ちできない。

危険なだけでなく、報われないボランティアであった。

それでも、それは杏寿郎にとって、己の存在理由そのものであった。

 

夜のオラリオ。

昼間は賑やかな大通りも、夜になると人通りがまばらになる。そして、暗がりには、様々な危険が潜んでいた。

この街を守るためには、街を知らなければならない。どこに危険があり、どこに困っている人がいるのか。

そのためには、危険な夜に街を歩く必要があった。

 

北西区画の路地裏を歩いていると、杏寿郎は足を止めた。

 

何か、聞こえる。

女の悲鳴。そして、男の怒鳴り声。

杏寿郎は、音のする方へ走った。

 

薄暗い路地裏の奥で、それは起きていた。

五人の男が、一組の親子を囲んでいた。

母親が、幼い子供を庇うように抱きしめている。その顔は、恐怖で蒼白になっていた。

 

「金を出せって言ってんだろうが!」

男の一人が、母親の髪を掴んで引っ張った。

「お、お願いします、許してください……! 私たちは、何も持っていません……!」

「嘘つくんじゃねえ!」

 

別の男が、母親を蹴り飛ばそうとした。

 

その時だった。

 

「待て」

 

杏寿郎の声が、路地裏に響いた。

男たちが、振り返った。

暗がりの中から、一人の少年が現れた。腰には刀。目には、燃えるような光。

 

「なんだ、ガキが」

男の一人が、嘲笑した。

「何のつもりだ? 死にたくなければ引っ込んでろ」

「その親子から、離れろ」

杏寿郎は、有無を言わせぬ声で告げた。

 

「あ? 偉そうに言いやがって」

男たちが、杏寿郎を取り囲んだ。

 

「このガキ、調子に乗ってんな。教育してやれ」

五人の男が、一斉に杏寿郎に襲いかかった。

 

杏寿郎は、刀を抜かなかった。

その必要がなかったからだ。

 

一人目が斬りかかる。杏寿郎は、その一閃を軽く躱し、鳩尾に掌底を打ち込んだ。男は、声もなく崩れ落ちた。

二人目、三人目。同時に襲いかかってきたが、杏寿郎は二人の間をすり抜け、それぞれの首筋に手刀を叩き込んだ。

四人目が、槍で突いた。杏寿郎は、その槍を掴み、一瞬で奪い取ると、呆然と自分の手を見つめる男を殴り飛ばした。

五人目は、恐怖に顔を引きつらせ、逃げ出そうとした。杏寿郎は、その背中に追いつき、後頭部を叩いた。男は、白目を剥いて倒れた。

 

五人の男を制圧するのに、十秒とかからなかった。

杏寿郎は、倒れた男たちを一瞥すると、親子に近づいた。

 

「大丈夫ですか」

母親は、信じられないものを見るような目で杏寿郎を見つめていた。たった一人の少年が、五人の闇派閥の大人を瞬く間に倒した。それは、彼女の理解を超えていた。

 

「あ、ありがとうございます」

「怪我はありませんか」

「は、はい……私たちは大丈夫です……」

 

母親は、子供を強く抱きしめながら、何度も頭を下げた。

「本当に、ありがとうございます。あなたがいなかったら、私たちは……」

「礼には及びません」

杏寿郎は、朗らかに微笑んだ。

「俺は、煉獄杏寿郎。アストレア・ファミリアです。困ったことがあれば、いつでも頼ってください」

「アストレア・ファミリア……」

母親は、その名を繰り返した。

「正義の女神の……」

「はい。俺たちは、この街の味方です。弱き者を守るために、ここにいます」

 

杏寿郎は、子供の頭を優しく撫でた。

「怖かったな。でも、もう大丈夫だ」

子供は、杏寿郎を見上げた。その目には、恐怖ではなく、憧れのような光が浮かんでいた。

「お兄ちゃん、強いね」

「ああ。俺は強いぞ。だから、君たちを守れる」

 

その瞬間だった。

杏寿郎の胸の奥で、何かが目覚めたような気がした。

 

熱い血潮が、背中から湧き上がってくる。アストレアが毎晩垂らしてくれる神の血が熱を帯びているようだった。

それは、戦いのさなかの熱気とは違う感覚だった。もっと深い場所から、もっと根源的な力が解放されようとしている。

まるで、炎に包まれているかのような感覚。しかし、苦痛ではない。むしろ、力が湧き上がってくるような、心地よい熱さだった。

 

「これは……」

杏寿郎は、自分の胸に手を当てた。

心臓が、激しく脈打っている。新しいスキルが、発現しようとしているのでは――。

杏寿郎は、それを直感的に理解した。

 

 

 

親子を家まで送り届けた後、杏寿郎は急いで宿に戻った。

「アストレア様!」

部屋に飛び込むと、アストレアが驚いた顔で振り返った。

「どうしたの、そんなに慌てて」

「ステイタスを確認してください。何か、変化があったような気がします」

「変化?」

アストレアは、杏寿郎の真剣な表情を見て、すぐに頷いた。

「分かったわ。見せて」

 

杏寿郎が背中を見せると、アストレアは神血を垂らした。神聖文字が浮かび上がり、彼女の目に映し出される。

そして、アストレアは息を呑んだ。

 

「杏寿郎……」

「どうしました?」

「新しいスキルが、発現しているわ」

「やはり……」

杏寿郎は、自分の予感が正しかったことを知った。

 

「何というスキルですか?」

アストレアは、神聖文字を読み上げた。

「『守護炎心』」

「守護炎心……」

「効果は……『守護対象が一定範囲に存在するとき、全能力に超域補正。守護対象が危機に瀕しているとき、補正値が大幅上昇』」

 

杏寿郎は、アストレアの言葉に、改めて母の教えを思い出した。

誰かを守りたいという想いが、力になる。

それは、まさに己の存在理由そのものを反映したスキルだと感じた。

 

 

 

「杏寿郎」

アストレアが、杏寿郎の背中から手を離して言った。

「あなた、今夜、何があったの? ダンジョンに潜らずにスキルが生まれるなんて……」

杏寿郎は、今夜の出来事を話した。

路地裏で親子を助けたこと。男たちを倒したこと。そして、子供の目に浮かんでいた、憧れのような光のこと。

アストレアは、黙って聞いていた。そして、話が終わると、慈しみを込めてほほ笑んだ。

「そう……あなたが誰かを守りたいと強く願った瞬間、このスキルが発現したのね」

「はい。俺はあの親子を見た時、体が勝手に動いていました」

杏寿郎は、自分の手を見つめた。

「守らなければならない、と。この手で、彼らを守らなければならない、と。その想いが、形になったのでしょう」

「きっとそうね。『炎の誓い』に続いて、新しいスキル。あなたの心は、次々と力に変わっていく」

 

杏寿郎は、アストレアと言葉を交わしながら、これも全て母が授けてくれたものだと思いを深くした。

母が病床で教えてくれなかったら、きっとこれらのスキルは芽生えなかったし、これほど早く強くもなれなかった。そして、強くなればなるほど、責務も重くなる。

それは大変なことかもしれない。

――けれども。

杏寿郎は思う。優しくも正しいアストレア様のもとでなら、自分は何でも成し遂げられる、と。

窓の外で煌めく星々は、そんな杏寿郎を祝福するかのように輝いていた。

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