ダンジョンに炎柱がいるのは間違っているだろうか 作:kursk
ロキやアーディの態度など、たしかにそうかもしれないと一人納得していました。
きちんと修正したほうが良いのかもしれませんが、物語がひと段落するまでは、(破綻しすぎない範囲で)先に進めることを優先しようと思います。
至らぬ点が多いですが、今後ともどうぞよろしくお願いします<m(__)m>
ガネーシャ・ファミリアの本拠は、ひときわ目立つ形をしていた。
象神を象った巨大な建物は、神殿とファミリアの実務的な施設を兼ねた構造になっている。
その規模はオラリオでも最大級のファミリアにふさわしく、常に多くの団員が出入りしていた。
サーラから合同訓練と巡回のお誘いをうけた杏寿郎が正門をくぐると、広い訓練場が目に飛び込んできた。
朝の陽光のもと、白いアイマスクで顔を隠した数十人の団員たちが整然と訓練に励んでいる。
ある者は木剣を振り、ある者は組み手の稽古に汗を流している。
その統制のとれた動きには、日頃から鍛錬を欠かさない集団としての規律が見て取れた。
「先日以来だな、杏寿郎」
声をかけられて振り返ると、青い髪の女性が立っていた。
切れ長の青い瞳は鋭いが、どこか芯の通った温かみを湛えている。
身長は杏寿郎とほぼ同じで女性としては長身だったが、それ以上に、その存在感は並みの冒険者の比ではなかった。
鍛え抜かれた体躯には無駄がなく、腰に佩いた長剣の柄を自然に握る所作には、数多くの実戦を経た者特有の落ち着きがあった。
シャクティ・ヴァルマ。
ガネーシャ・ファミリアの団長にして、歴戦の第二級冒険者――。
「サーラの件では、本当に世話になった。改めて礼を言いたい。本当に助かった」
頭を下げるシャクティに対して、杏寿郎も一礼した。
「煉獄杏寿郎です。今日は、どうぞよろしくお願いいたします」
「話はサーラからも聞いている。今日からしばらく合同で巡回に参加したいとか。我々の仲間を救った正義の眷属だ、歓迎しよう」
シャクティは謹厳な表情に、微かな笑みを浮かべた。
「半年でレベル2に到達し、夜な夜な街を巡回して、闇派閥の構成員と渡り合っているそうだな」
「はい。しかし、力だけでは足りないと痛感しております。街を守る技術を、ぜひ教えていただきたい」
シャクティは、しばらく杏寿郎の顔を見つめていた。
その視線には、値踏みするような鋭さがあった。
ガネーシャ・ファミリアの最精鋭として、多くの冒険者を見てきたであろう彼女の目は、杏寿郎の内面を探るように動いた。
やがて、シャクティは小さく頷いた。
「いい目をしている。お前の心根は、嘘をつけない類のものだな」
「ありがとうございます」
「では、始めよう。まず、警邏の基本から叩き込む。いいか、煉獄。ダンジョンでモンスターを倒すのと、街で犯罪者を取り押さえるのは、根本的に違う。その違いを体で覚えてもらう」
杏寿郎は力強く頷いた。
「分かりました。心して学びます」
「よし。ではまず、捕縛術の基本から教える」
シャクティが訓練場に杏寿郎を招き入れようとすると――。
「その前に、私のことも紹介してよ、お姉ちゃん!」
まだ幼さを残しつつも、明るく活気に満ちた少女の声が横から響いた。
杏寿郎がそちらを向くと、10歳くらいの娘がニコニコしながら立っていた。
髪と目の色はシャクティと同じ青で、シャクティよりも目が大きく、人懐こい空気を漂わせていた。
「品行方正で、人懐こくて、シャクティお姉ちゃんの妹で、杏寿郎と同じころにレベル1になったアーディ・ヴァルマ11歳だよ!じゃじゃーん!」
アーディが浮かべる笑顔があまりにも愛くるしくて、杏寿郎も吾知れず表情筋を緩めた。
ボーイッシュで人を惹きつける魅力に満ちている。
きっと、この子はどんなに苦しいときでも、ファミリアの士気を高めてくれるだろう。
出会い頭に、杏寿郎にそう確信させるだけの心意気が、アーディにはたしかに存在した。
「俺は煉獄杏寿郎。よろしくな、アーディ!」
「うん。ねえねえ、レベル1でインファントドラゴンをソロで倒したんだって? すごいね! 物語の英雄みたい。いっぱいお話を聞きたいな!」
アーディは、初対面なのに物おじせずに、杏寿郎にぐいぐいと迫っていった。
「ああ、それは構わないが……別に英雄的なことは何もないぞ?」
杏寿郎が、アーディの熱意に少し圧されながら応えると。
「アーディにも基礎から指導をしているところだ。ちょうどよいから、アーディと一緒に軽く訓練を受けてから巡回に参加するとよい」
妹の興味を知ってか、シャクティがさりげなく助言した。
ガネーシャ・ファミリアでの指導は、徹底的なものだった。
ハシャーナという名の強面の教官は、まずは巡回に必要な最低限の動きを身に着けてもらうと言って、杏寿郎のみならず、サーラやアーディも徹底的にしごいた。
最初に教わったのは、相手を傷つけずに制圧する技術だった。関節を極めて動きを封じる技、急所を押さえて一時的に意識を奪う技、逃走する相手の動線を読んで先回りする技。いずれも、ダンジョンでの戦闘では使うことのないものばかりだった。
「力を入れすぎだ、杏寿郎。関節技は、相手の骨を折るためのものではない。動きを制限して、戦意を喪失させるためのものだ。加減を覚えろ」
ハシャーナの指摘は、常に的確だった。
「アーディは、まだ体格が出来上がっていないから無理はするな。いかに相手の力をうまく利用するかを考えろ。相手の重心を崩すんだ」
「「はい!」」
杏寿郎もアーディも素直にその指導を受け入れ、繰り返し練習した。
午後からは、巡回の基本を学んだ。
杏寿郎は、アーディやサーラとともに、引き続きハシャーナの班に配属された。
「巡回とは、ただ街を歩くことではない」
ハシャーナは、オラリオの地図を広げて説明した。
「まず、自分が担当する区画の地理を完全に把握しろ。どの路地がどこに繋がっているか。逃走経路になりやすい道はどこか。見通しの悪い場所はどこか。死角になる建物はどこか。それら全てを頭に入れた上で、効率的な巡回ルートを組み立てる」
ハシャーナの指が、地図上の路地を次々と辿っていく。
「次に、市民との関係構築だ。巡回中は、できる限り商店主や住民に声をかけろ。世間話でいい。そうすることで、信頼関係が生まれる。信頼関係があれば、情報が集まる。不審な人物を見かけた、変な物音がした、いつもと様子が違う。そういった些細な情報が、犯罪を未然に防ぐ鍵になる」
杏寿郎は、一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。
これまでの自分の巡回は、粗雑だったと思い知らされた。
ただ街を歩き回り、問題を見つけたら飛び込む。それだけだった。計画性もなければ、地域との繋がりもない。偶然の出会い頼みの、場当たり的な活動だった。
「最後に、最も重要なことだが――」
ハシャーナの表情が、一段と厳しくなった。
「巡回中に犯罪現場に遭遇した場合、まず考えるべきは市民の安全確保だ。犯人の確保は二の次でいい。市民が巻き込まれる可能性がある限り、追跡よりも避難誘導を優先しろ。これは、絶対に忘れるな」
「はい。肝に銘じます」
ハシャーナは頷き、地図を畳んだ。
「座学はここまでだ。一休みして夕食をとったら、実地での警邏訓練に入る。一緒に巡回し、実際の現場で動き方を学んでもらう」
ガネーシャ・ファミリアとともに歩く巡回は、杏寿郎にとって特に新鮮だった。
レベル3のハシャーナやレベル2のサーラはもとより、まだ幼いアーディでさえ行動は的確で、担当区画の隅々まで知り尽くしている様子だった。路地の角を曲がるたびに、彼らは自然と陣形を組み替え、死角を潰していく。その連携は、ダンジョンでのパーティ行動とは全く異質のものだった。
「杏寿郎、あの露天商の様子を見ろ」
巡回中、ハシャーナが小声で杏寿郎に指示した。
杏寿郎は、ハシャーナが視線で示した方向を見た。通りの端で、果物を並べた露天商が客と話をしている。一見、何の変哲もない日常の風景だ。
「何か、おかしいところがあるのですか」
「よく見ろ。あの商人の手元を」
杏寿郎は目を凝らした。
商人の手が、客に果物を渡す動作に紛れて、何かを受け取っていた。小さな紙片だ。客もまた、果物の代金を払う振りをしながら、自然な動きでそれを渡している。
「密書のやり取りですか!?」
「そうだ。あの二人は、以前から監視対象になっている。闇派閥との繋がりが疑われている商人と、その連絡役だ」
ハシャーナは、歩みを止めずに通り過ぎた。
「今は泳がせている。尻尾を掴むまでは手を出さない。こういう判断も、巡回には必要だ。見つけたからといって、すぐに飛びかかるのが正解とは限らない」
杏寿郎は、その金言を胸に刻み付けた。
以前の自分なら、疑わしい人物を見つけた瞬間に問い詰めていただろう。それが正義だと信じて。しかし、ハシャーナの言葉は、正義にも時宜があることを教えてくれた。
拙速な行動は、かえって大きな悪を見逃す結果を招く。忍耐もまた、正義の一部なのだった。
こうした日々を重ねるうちに、杏寿郎は少しずつ変わっていった。
捕縛術の腕前は着実に上達し、力の加減をコントロールできるようになった。
巡回中の所作も洗練され、周囲への警戒と市民への配慮を同時にこなせるようになってきた。
街のアイドルとなっているアーディの紹介で、商店主や住民とも顔見知りが増え、挨拶を交わし、ときには世間話に花を咲かせるようにもなった。
ガネーシャ・ファミリアの団員たちも、杏寿郎のことを認め始めた。
「杏寿郎は飲み込みが早いな」
「ああ。あの歳で、あれだけ素直に人の話を聞けるのは大したもんだ」
「しかも、教えたことをすぐに実践しようとする。昨日教えた捕縛術を、もう今日の実践で使いこなしていただろう」
「天才というより、努力の鬼だな。あれで、ダンジョンにもかなりの頻度で潜っているらしいぞ」
そんな声が、杏寿郎の耳に届くことがあった。
しかし、杏寿郎は慢心しなかった。自分にはまだ足りないものが多すぎることを、日々の訓練が嫌というほど教えてくれるからだ。
杏寿郎が市民やガネーシャ・ファミリアから少しずつ信頼を勝ち得るようになったころのこと。
その日は、いつもより蒸し暑い日だった。
夏の気配が近づきつつあるオラリオの午後。
石畳が熱を吸い込み、街全体がぼんやりと陽炎に霞んでいるような日だった。
杏寿郎は、ダンジョンでの冒険を終え、仮宿に戻る途中だった。
人気のしない裏路地――。
古い石壁に囲まれた細い道が続き、両脇には、住居の裏口や、使われなくなった倉庫の扉が並んでいた。
――突然。
杏寿郎の耳が、微かな物音を拾った。
足を止め、意識を集中させる。ハシャーナに教わった通り、まず音の方向と距離を見極める。
路地の奥、右に折れた先。何かが動いている気配。人の足音だ。しかし、大人の足音ではない。軽い。小さい。そして、どこか不安定だ。
杏寿郎は足音を殺しながら、慎重に路地を進んだ。
角を曲がった先に、一人の子供がいた。
小さな女の子だった。
年齢は十一、二歳といったところ。
赤というよりは紅の長髪をポニーテールでまとめ、華奢な体躯に市民の子女らしい衣服を纏っている。しかし、その服は泥と埃にまみれ、膝小僧には擦り傷ができていた。
小さな足が、石畳の上で心許なく佇んでいる。
少女は、路地の行き止まりの壁の前に立ち尽くしていた。
その背中は、小さく震えていた。
杏寿郎は、一呼吸置いてから、できる限り穏やかな声をかけた。
こういうときこそ、相手の警戒心を解いてくれるアーディがいてくれれば、と思いながら。
「大丈夫か」
少女の肩が、びくりと跳ねた。
振り返った顔には、涙の跡があった。大きな碧の瞳が、恐怖と警戒で見開かれている。
「怪我をしているな。ここで何をしている」
杏寿郎は、威圧感を与えないよう、膝を折って少女と目線の高さを合わせた。
アーディに教わった、子供や弱者に接する際の基本だ。上から見下ろさない。相手の目線に合わせる。それだけで、相手の警戒心は大きく和らぐ。
少女は、じっと杏寿郎の顔を見つめていた。
その瞳の奥に、恐怖とは別の何かが揺れていた。迷いのようなもの。何かを探し求めているような、しかし見つけられずにいるような、そんな不安定な光。
「分からないの。……自分では正しいことをしているつもりなのに、誰にも受け入れてもらえなくて」
少女が、かすれた声で呟いた。
「正しいこと?」
「うん。わたし、正しいことをしたつもりで知り合いを傷つけちゃって。訳が分からなくなって、お家を飛び出したの。でも、もう何も分からなくなって」
少女の声が、途切れた。唇を噛みしめ、俯く。
「まず、その怪我を手当てしよう。ここは危ないから、表通りに出よう」
杏寿郎は、右手を差し出した。
少女は、しばらく杏寿郎の手と顔を交互に見つめていた。やがて、おずおずと小さな手を伸ばし、杏寿郎の手に触れた。
その手は、驚くほど冷たかった。夏の暑さの中にあって、子供の手とは思えないほどに。長い時間、不安と恐怖の中を一人で歩いてきたのだろう。
杏寿郎は、その小さな手をそっと握り返した。
「大丈夫だ。俺が一緒にいる」
表通りに出ると、杏寿郎は近くの噴水の縁に少女を座らせ、携帯していた救急用品で膝の擦り傷を手当てした。
傷は浅いが、砂埃が入り込んでいた。丁寧に水で洗い、清潔な布で拭いてから、軟膏を塗り、包帯を巻く。ガネーシャ・ファミリアで教わった通りの手順だ。
「少し沁みるぞ。我慢できるか」
「うん」
少女は小さく頷き、唇を結んだ。痛みに耐える表情には、この年齢にしては芯の強さが窺えた。
手当てを終えると、杏寿郎は隣に腰を下ろした。
噴水の水音が、静かに二人の間を満たしている。通りを行き交う人々の姿が、夕日の中でゆらゆらと揺れていた。
「名前を聞いてもいいか」
「アリーゼ」
少女は、膝を抱えながら答えた。
「アリーゼ・ローヴェル」
「アリーゼか。さっき、家を飛び出したと言っていたが、ご両親も心配しているだろう。送っていくから、一緒に帰ろう」
アリーゼは、しばらく黙っていた。
噴水の水音だけが、時を刻んでいる。
やがて、アリーゼはぽつりと口を開いた。
「家はここにはないの。わたし、オラリオの生まれじゃない。でも、知りたかったからここまで来た」
「何を?」
「正義って、何なのか」
杏寿郎は、少女の横顔を見つめた。
アリーゼは、噴水の水面を見つめていた。その大きな碧の瞳には、子供には似つかわしくないほどの真剣さが宿っていた。
「私は、正しいことをするのが大事なんだって、ずっと思ってた。でも」
アリーゼの声が、震えた。
「正しいと思って街の子を傷つけちゃったの。正しいことをしたはずなのに、お父さんやお母さんからものすごく怒られた。周りの人たちも、私が悪いって」
アリーゼは膝を抱く腕に力を込めた。
「それで、もう訳が分からなくなっちゃって」
杏寿郎は、黙って聞いていた。
アリーゼの目から、涙がこぼれた。
「正義って、何なの?」
十二歳の少女が放った問いは、杏寿郎の胸を深く抉った。
それは、子供の単純な疑問ではなかった。正義を信じ、良かれと思って行動した末に正義を見失いかけた少女の、悲痛な叫びだった。
杏寿郎は、自分自身に問いかけた。
この問いに、自分は何と答えるべきか。
噴水の水音が、静かに流れている。
やがて、杏寿郎は口を開いた。
「アリーゼ。正義とは何か。俺も、絶対的な答えは持っていない。母からは、弱き者を助けることこそが強く生まれた者の責務だと教わった。だが、それが絶対の正義なのかは、俺にもまだ分からない」
杏寿郎は、小さく微笑んで、アリーゼの紅の髪を撫でた。
「お前の正義は、お前が自分で探すしかない。しかしな、アリーゼ、お前は正義が何なのか本気で考えて、誰に何を言われようとも答えを探すのを諦めていない。それは、とても尊いことだと思う」
アリーゼは、しばらく言葉を発することができなかった。
噴水の水音だけが、二人の間を静かに流れている。
やがて、アリーゼの口から、小さな声が漏れた。
「あなたは、誰」
「煉獄杏寿郎。アストレア・ファミリアの団長だ。と言っても、まだ俺一人だけのファミリアだがな」
杏寿郎は、明るく笑った。
「アストレア・ファミリア……」
「ああ。正義を司る女神アストレア様が作った小さなファミリアだ。だが、一人でも、やれることはある。一人でも、守れるものはある」
アリーゼは、杏寿郎の顔をじっと見つめた。
その瞳から、少しずつ恐怖と不安が消えていく。代わりに、何か新しい光が灯り始めているようだった。
それは、希望と呼ぶにはまだ幼い、小さな種のようなものだった。
「――私を」
夕日が消え、街灯が噴水に煌めきを与えるなか、アリーゼは顔をあげて杏寿郎をしっかりと見つめ返した。
「私を、アストレア・ファミリアに入れてください。アストレア様に会わせてください」
「なに?」
予期していなかった答えだったので、杏寿郎は驚きの声をあげた。
「私は――私も、アストレア様のところで、あなたと一緒に正義を探したい」
アリーゼは、声を絞り出した。
杏寿郎の目が、温かい光を帯びた。
「もちろんだ。まずはアストレア様に会おう」
杏寿郎は、アリーゼを仮住まいの粗末な宿に連れて帰った。
部屋の扉を開けると、温かい灯りが二人を迎えた。食卓には、アストレアが座っていた。
「お帰りなさい、杏寿郎。……あら」
アストレアの視線が、杏寿郎の背後に立つ少女に止まった。
赤い髪。碧い瞳。埃にまみれた旅装。
「アストレア様。路地裏でこの少女を保護しました。アリーゼ・ローヴェルといいます」
アリーゼは、アストレアの姿に息を呑んだ。
胡桃色の長い髪。穏やかで、どこか超然とした藍色の瞳。人間とは異なる、透明な気配。それまで会ってきた神々とは空気が違った。
「あなたが、アストレア様……」
「ええ。私がアストレアよ」
アストレアは、椅子から立ち上がり、アリーゼに歩み寄った。
そして、少女の顔をじっと見つめた。
アリーゼの魂は――燃えていた。
小さくて、まだ頼りなくて、風が吹けば消えてしまいそうなほど儚い。けれど、確かに燃えている。正義への渇望。不条理への怒り。それらが、深紅の炎となって、少女の内側で揺らめいているかのようだった。
杏寿郎とは違う色、けれども確かに炎だった。
「……あなたの名前は」
「アリーゼ・ローヴェルです」
「いくつ?」
「十二です」
「一人で、ここまで来たの?」
「はい」
アリーゼは、真っ直ぐにアストレアの目を見た。
「正義を探しに来ました。アストレア様の眷属にしてください!」
アストレアは、しばし沈黙した。それから、柔らかく微笑んだ。
「アリーゼ。あなたのご家族は、あなたがここにいることを知っているの?」
アリーゼの顔が、僅かに強張った。
「……知らない、と思う。手紙は置いてきたけど」
「手紙に、何と書いたの」
「正義を見つけに行く、って。心配しないで、って」
アストレアは、深い息を吐いた。
「アリーゼ。あなたのお父様やお母様は、今頃とても心配しているわ」
「……分かってる」
アリーゼの声が、小さくなった。
「でも、あのままじゃ嫌だった。あの街でじっとしてるなんて、耐えられなかった」
アリーゼの目から、涙が一筋こぼれ落ちた。
「わたしは、強くなりたい。わたしの正義を見つけたい」
アストレアは、しばらくアリーゼの顔を見つめていた。
嘘はない。衝動的な家出かもしれない。けれども、この少女の内には、確固たる意志がある。不器用で、まだ未熟。しかし、その根底にある想いは本物だ。
アストレアは、うつむくアリーゼの顎を右手で支え、碧色の瞳を優しく見つめた。
「アリーゼ。一つ、条件があるわ」
「条件?」
「ご家族に、手紙を書きなさい。今、自分がどこにいて、何をしようとしているのか。ちゃんと伝えなさい。それができるなら、あなたを私の眷属に迎え入れましょう」
アリーゼの目が、大きく見開かれた。
杏寿郎は、大きく笑った。
「仲間が増えるのは、いいことだ!」
アリーゼは、涙を拭った。
「はい……はい、お願いします。わたしを、仲間にしてください」
アリーゼは、テーブルに額をつけるほど深く頭を下げた。
「よろしくね、アリーゼ」
アストレアの声が、温かく、柔らかく、少女の上に降り注いだ。
その翌朝、杏寿郎が一時退室した後、アリーゼは恩恵を授かった。
アストレアの指から、血がアリーゼの背中に流れ落ちる。
それに合わせて、少女の肌に、神聖文字が一つずつ刻まれていく。温かい光が体を包み、体の芯から何かが湧き上がってくる感覚。
「アリーゼ・ローヴェル。レベル1」
アストレアは、浮かび上がったステイタスを読み上げた。
「力:I-0、耐久:I-0、器用:I-0、敏捷:I-0、魔力:I-0」
まっさらな状態。ここから、すべてが始まる。
「スキルは……」
アストレアが、目を細めた。
「一つ、発現しているわ」
恩恵付与直後のスキル発現は、極めて稀だ。
「名称は、『
アストレアは、その効果を読み取って息を呑んだ。
「戦闘時、力の高補正。逆境時、耐久・器用の高補正。大敵交戦時、敏捷・魔力の高補正。三条件達成時には継続時間に比例して力・敏捷・魔力にさらに補正がかかる」
まさに、正義を背負って、強敵と奮闘するためにあるようなスキルだった。
アリーゼ自身は、ぽかんとしていた。
「アストレア様、それって……強いんですか?」
「もちろん強いわよ。それに、スキルは、神血を媒介に、あなたのこれまでの経験を形にしたもの。あなたの人生そのものと言っても良いわ。これまで頑張ったのね、アリーゼ」
アストレアが後ろからアリーゼを優しく、包み込むように抱きしめた。
母の懐に帰ったかのような心地よさで、アリーゼは強張った肩の力が抜けていくのを感じた。
「わたし、頑張ります。頑張って、強くなります」
アストレアの柔らかい肉体に包まれながら、アリーゼは誓った。
正義の女神と、たった二人の眷属。
まだ小さな、しかし確かな光が、暗黒期のオラリオに灯されていた。