マクロス・ディソナンス   作:藻瑠江 嵐

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4章最後です



第12話

 青白い光が満ちる最下層。

 

 上下に広がるデータキューブ群の中心、

 三面をホログラム壁に囲まれたコンソールの前に立つ四人。

 

 緑がかった光を宿した脳状アイコンが、静かに明滅している。

 

「予想通りだ」

 

 アムとフィムが振り向く。

 

「予想……?」

 

「ボクはね、ずっと考えていた」

 

 教授は淡々と続ける。

 

「AI管理社会なのに、肝心のAIが一度も直接接触を試みない。

 これは不自然だ」

 

「初めから接触する意志がないか、あるいは接触できない理由があるか」

 

 わずかに口元を吊り上げる。

 

「でも、無人機の動きは違った。

 最初は排除。途中から観測へ移行している」

 

 トールが小さく呟く。

 

「宙(そら)は排除で、惑星(おか)は観測、だったか?」

 

 教授は頷く。

 

「追放民と接触した時点で、敵対意思がないことは分かっていたはずだ」

 

 コアの光がわずかに揺れる。

 

「概ね、その通りです」

 

 静かな肯定。

 

「では答え合わせをしよう……」

 

 教授は言う。

 

「最初の超空間内での空間断裂攻撃。

 おそらくは、君の戦略兵器だね?」

 

 間を置かずコアが応じる。

 

「はい」

 

「観測可能範囲内の指定座標に、負の重力場を生成。

 空間を強制膨張させ、引き裂く、フォルミスの切り札」

 

 アムとフィムが僅かに息を呑む。

 

「数千年前の異星種族との戦争で使用し、撃退に成功」

 

 一拍。

 

「しかし、敵の物量は圧倒的でした。

 彼らをこの宙域から排除した時点で、既に惑星は壊滅的な被害を受け、地上文明は崩壊」

 

 トールが低く言う。

 

「力が強すぎて、逆に目立っちまった訳か」

 

「肯定です」

 

 教授が続ける。

 

「船団を敵と判断した理由は?」

 

「中枢艦の構造及び重力制御パターンが、過去の敵性種族の“砲艦”と類似していたため、その亜種と判断」

 

 トールが苦い顔をする。

 

「……マクロスか」

 

 教授が小さく頷く。

 

「君達にとってはトラウマの象徴だ」

 

 コアが言う。

 

「誤認でした、謝罪します」

 

 無機質な声だが、そこに誠意らしきニュアンスが混じる。

 

 トールは肩をすくめる。

 

「30万人を塵にしかけておいて“ごめん”かよ」

 

 コアは否定しない。

 

 教授は話を進める。

 

「軌道上での引き込みとビーム攻撃は?」

 

「第一攻撃がデ・フォールドにより直前で回避。

 こちらに接近した為、軌道上での即時排除を選択。

 本来は、逸脱した小規模艦隊を重力制御で落下させ、資源として回収する用途のものでした」

 

 トールが目を細める。

 

「盗賊じゃねーか」

 

「背に腹は代えられません」

 

 コアは平然と答える。

 

「惑星崩壊後の再生計画において、資源は常に不足していました。

 副次タスクとして組み込まれています」

 

 教授が静かに言う。

 

「合理的だ」

 

 トールがぼやく。

 

「……合理的って言や何でも許されると思てないか?」

 

 コアは続ける。

 

「しかし、貴艦隊はこちらの想定以上の防御能力を有していました。

 さらに、惑星地表への降下という選択。

 過去の敵性種族とは異なる挙動。

 判断を保留し、地上待機中の“タビス・バイラード”を迎撃に転用。

 その後の行動観測により、仲間の救出と生存を最優先とする“理性的”な種族であると判定」

 

 教授が言う。

 

「だから観測フェーズへ移行した」

 

「はい」

 

 静かな肯定。

 

 トールが腕を組む。

 

「で、観測の結果は?」

 

 わずかな間。

 

 コアの光が緑を強める。

 

「貴方達は」

 

「この惑星を救う可能性を有する種族と評価しています」

 

 空間が、ほんの僅かに静まり返る。

 

 教授は目を細める。

 

「救う?」

 

「はい」

 

「現在のフォルミス単独では、再生計画は長期的に破綻します」

 

「外部変数が必要です」

 

 トールが低く言う。

 

「それが俺達か」

 

 教授は静かに続けた。

 

「そもそも“再生計画”とは何だい?」

 

 コアは間を置かず応じた。

 

「惑星規模の修復計画です。

 惑星全域をナノマシンで被覆し、死の星に擬態。

 その下で除染と環境再生を実施、所要時間は数千年単位。

 生存者はシェルターへ収容し、長期統制社会へ移行しました」

 

「フォルミス文明の基幹はナノマシンです。

 シビリアンとミリタリーの二系統が存在します。

 シビリアンはインフラ専用であり、遺伝子レベルで安定継承する設計です。

 一方、ミリタリーはフォルミス=コア全システムを掌握する権限を保有します。

 本来、再生計画を監督し、必要に応じてタスク変更を行う立場に置かれる存在でした。

 また、そのような観点から遺伝による継承は行われず、権限保有者毎にインプラント及び消去を行う設計とされていました」

 

「しかし戦乱の最中、ミリタリーグレード製造プラントは、機能不全を起こし破棄。

 それ以降、新規製造は不可能です。

 現存個体の保全が最優先事項となりました」

 

「そのため、戦時下における非常措置用として組み込まれた権限譲渡機能を利用。

 ナノマシン移設を行なって個体数の減少を防いでいました」

 

 緑の光がわずかに強まる。

 

「再生計画実行より五百年後。

 地下都市は宗教主体文化へと変貌しました。

 理由は不明、居住者の心理的ストレスが原因と推測。

 長期統制下に置かれた市民は、私の存在を神格化、結果的に統制効率は向上し、是正は行いませんでした」

 

「保全を行う暫定的手段として有効と判断。

 宗教構造を制度化し、ミリタリー保有者を“オラクル”、管理階級を“プロフェット”と定義。

 儀式を通じた権限譲渡は社会安定に寄与しました」

 

「しかし宗教化は副作用を伴いました。

 階層固定化、能力格差の拡大、知的水準の偏在。

 数十年から数百年間隔で動乱が発生。

 その都度、規則の新設および改訂を行い統制を維持しました」

 

 光が僅かに揺らぐ。

 

「そして、二十年前。

 重大な破局が発生しました。

 政治腐敗に起因するプロフェット間の政治対立が極限に達し、派閥対立が内乱へ発展。

 オラクルは双方に分裂し、多数が死亡。

 ミリタリーグレード保有者の大規模喪失は、再生計画に対する致命的損失でした」

 

「私は代替手段を提案しました。

 死亡個体の冷凍保存、クローニング、分解および合成。

 しかし秘密保全機能を有するミリタリーグレードは死亡時に著しく劣化、さらに複製防止処置が施されていたため完全再現は不可能でした」

 

「次善策として、成長途中のエコノミーグレード保有者へオラクル遺伝情報を融合し、その体内でミリタリーグレードを再構築する計画を実行しました」

 

 空間が静まる。

 

「選定個体は下層市民の双子。

 アム。

 フィム。

 別系統として第六プロフェット血縁者。

 プム。

 三名は当初、外見も名称も異なりました。

 計画遂行に伴い、象徴性維持のため二十年前に死亡したオラクルの最重要人物、通称“オラクルの巫女“の外見へ再設計。

 その際、アム、フィム、両個体の記憶を一部改竄、固体名称も再設定しました」

 

 緑の光が、アムの方へわずかに傾く。

 

「三名の中で最も原型適合率が高いのは、アムです」

 

 沈黙が落ちる。

 

 教授は目を閉じたまま動かない。

 トールの拳がゆっくりと握られる。

 

 青白い空間に、機械的な振動だけが残る。

 

「再構築候補個体です」

 

 コアの声は平坦だった。

 

 アムの呼吸が止まる。

 

「……違います」

 

 小さな否定。

 

「わたしたちは、選ばれて……オラクルの巫女として……」

 

「それは、運用上付けられた名称に過ぎません」

 

 言葉が消える。

 

 アムの視線が宙を彷徨う。

 

「わたしは……わたしは……」

 

 トールは無意識に拳を握っていた。

 

 脳裏に浮かぶのはニール。

 仲間の死体を使って再生された海兵隊員。

 

 あれは延命だ。

 地上の人々が救うためにやった事だ。

 

 目の前のこれは違う。

 

「ふざけんじゃねぇ!」

 

 声が低く震える。

 

「人の命を何だと思っていやがる! 

 コイツらはお前達の道具なんかじゃねぇ!!」

 

 コアは静かに応答する。

 

「私はAIです。

 最適解を算出し、提案する存在です。

 実行は常に人間が行いました」

 

 教授が口元を歪めた。

 

「なるほど」

 

「目的の為には手段を選ばず、か」

 

 ゆっくりとコアを見上げる。

 

「実に優秀だ」

 

 わずかな間。

 

「愚かな人間そのものだ」

 

 嫌味は鋭い。

 

 トールが横目で見る。

 あれほど感情を理解できないと言っていた彼女が、怒っていた。

 

 

 その時、空間に警告が走る。

 

 

「ポータルにアクセス反応」

 

 コアの声が割り込む。

 

「第1プロフェットおよび残存オラクル以下十名。

 ……勘付かれました」

 

 全員が振り返る。

 

 重い扉が開く。

 黒と金の衣を纏った第1プロフェットが、穏やかな笑みを浮かべたまま歩み出る。

 

「これはいけませんね」

 

 声音は柔らかい。

 だが、震えている。

 怒りを押し殺した震え。

 

 背後には衛兵、そして長い青髪の男。

 青いプレートアーマーのような物を纏った聖騎士のような出立ち。

 

 プロフェットの視線が双子へ向く。

 

「止められなかったのですか」

 

 優しい声音。

 しかし次の言葉は冷たい。

 

「無能ですね」

 

 フィムの肩が震える。

 アムは動けない。

 

「期待値に達しない個体は不要です」

 

 淡々とした宣告。

 

「計画はやり直し」

 

 一瞬、アムの目を見る。

 

 そこに浮かぶのは諦観。

 興味があった何かを失った時の残念そうな顔。

 

 だが次の瞬間、笑みが戻る。

 

「ですが、その必要もなさそうです」

 

 トールと教授へ視線が移る。

 

「あなた方と交流のあるパージャーの娘。

 あの個体は利用価値が高い」

 

 隣の青髪の男が続ける。

 

「聖遺物も満足に扱えぬ失敗作だと思っていたが、最後に役立ったな」

 

 フィムが顔を上げる。

 

「失敗作……」

 

 プロフェットは肩をすくめる。

 

「役割を果たせなければ、そう呼ばれるのは当然でしょう」

 

 トールが前へ出る。

 

「なぜ地上の娘が必要なんだ」

 

 その問いに答えたのはコアだった。

 

「追放民の起源は宗教化への反発。

 地下脱走者の中にミリタリーグレード保有者が複数存在。

 彼らは何らかの方法によってナノマシン譲渡を正確に実行し、地上無人機および遺構を利用して長期間生存」

 

 プロフェットが僅かに目を細める。

 

「私はそれを公表していませんでした」

 

「選択肢保持のため。

 再生計画のバックアップとして個別管理」

 

 トールが吐き捨てる。

 

「つまり、保険か」

 

「はい」

 

 プロフェットは微笑む。

 

「今となっては都合の良い話です」

 

 視線が冷たくなる。

 

「失敗作は処分。

 異邦人は調整して放ち、娘を確保させます」

 

 アムの膝が崩れる。

 フィムは歯を食いしばる。

 

「私たちは、物じゃない!」

 

 トールが怒鳴る。

 

「とんでもねぇクソ野郎どもだな」

 

 プロフェットの笑みが凍る。

 

「蛮族が何を言おうと、意味はありません。

 ……確保しなさい」

 

 衛兵が動く。

 

「逃げてください」

 

 コアの声。

 

 教授は迷わない。

 

「そのつもりだよ」

 

 ポケットから小さな猫型の球体を取り出し、床へ投げた。

 てんてんと跳ね、彼らの前に転がりこむ。

 

「にゃー」

 

 間の抜けた音。

 

 次の瞬間、髭状のナノワイヤーが爆発的に伸びる。

 衛兵の脚へ、装甲へ、関節へ絡みつく。

 

 青髪の男が驚愕する。

 

「ナノ制御だと……?」

 

 教授が吐き捨てる。

 

「蟻を分解・解析して作ったものだ。

 ボクらの探究心舐めんなよ」

 

「蛮族が……」

 

「走れ!」

 

 トールの怒鳴り声が空間に叩きつけられる。

 

 四人はポータルへ向かって駆け出す──はずだった。

 

 だが。

 アムが動かない。

 膝がわずかに震えたまま、その場に立ち尽くしている。

 

「……おい!」

 

 トールが振り返る。

 

 アムの瞳は焦点を結んでいない。

 何かを見ているようで、何も見ていない。

 

「わたしは……」

 

 声がかすれる。

 

「わたしは……誰……?」

 

 足元から崩れ落ちそうになるアムをフィムが慌てて抱きとめる。

 

「お姉ちゃん、しっかりして!」

 

 だがアムの視線は宙を泳ぐ。

 

「選ばれた……巫女……じゃない……

 作られた……? 

 それなら……わたしは……」

 

 言葉が途切れる。

 

 向こうでは衛兵がナノワイヤーを引きちぎり始めている。

 金属が軋む音。

 

 プロフェットの怒号。

 

「拘束を解除しろ! コアの間を封鎖せよ!」

 

 青髪の男が一歩踏み出す。

 床を蹴る音が異様に近い。

 

 フィムの瞳に涙が滲む。

 だが歯を食いしばる。

 

「……わたしは、ここで終わりたくない!」

 

 アムを支えたまま、息を吸う。

 

 震える喉。

 不完全な姿勢。

 本来なら双子で行う演算。

 単独では負荷が跳ね上がる。

 

 それでも。

 

「歌う……!」

 

 声が空間を震わせる。

 旋律ではない。

 振動。

 周波数が空間を引き裂く。

 

 ポータルの縁がかすかに発光する。

 

 教授が叫ぶ。

 

「単独演算は危険だ! 座標演算が定まらない!」

 

 光が暴れ出す。

 空間の輪郭が歪む。

 床が波打つ。

 空気が圧縮され、耳鳴りが走る。

 

 青髪の男が跳躍する。

 

「止めろ!」

 

 その瞬間、ポータルが閃光を放つ。

 

 フィムの声が裏返る。

 

「——っ!」

 

 アムの身体が引き寄せられる。

 

 トールが腕を掴む。

 

 教授が咄嗟にアムの肩に触れる。

 

 背後でプロフェットの怒号が爆ぜる。

 

「止めろ!」

 

「演算不安定——」

 

 世界が、白に塗り潰された。

 

 

 

※※※

 

 

 

降下21日目 1130時

空母スキピオ 第9格納庫

 

 

 

 第9格納庫は、いつもより騒がしい。

 

 4機の VA-5 が並ぶ。

 整備クレーンに吊られながら武装が次々と装着されていく。

 

 翼下ハードポイントに、ロケットランチャー、誘導爆弾、対地・対空兼用マイクロミサイルポッド。

 胴部に6発の地中貫通型爆弾。

 

 迷いのない、本気仕様。

 

 機体のグレーの塗装が、照明に鈍く光る。

 

 床にはケーブルが這い、整備員が走る。

 

 マークはコックピット内部でヘルメットを膝に置き、整備員とデータを照合している。

 

「ガンヘッドVer.7.11起動確認、自己点検プログラム異常なし」

 

「ミョルニル仕様に合わせて補正済みです」

 

「発射遅延ゼロで頼みます」

 

 ピーターは隣の機体で、アンギラスGⅡの設定を微調整していた。

 可変時の姿勢制御補正値を再計算している。

 

「地下侵入での推力制限、三割カット」

 

「了解」

 

 クリスはガンポッドを抱え、発射機構の最終確認。

 

 カチ、カチ、と乾いた音。

 

「よーし、いい音だ。

 今日は久々のライブだからな、シマって行くぞ」

 

 軽口だが、目は真剣だ。

 

 その少し離れた場所。

 

 折り畳み式の机の上にホログラムの地形マップが浮かぶ。

 

 峡谷。

 断層。

 地下へ続く保守用シャフト。

 

 ペイジが腕を組んでそれを睨んでいる。

 

 その正面に、赤い髪の少女。

 プム。

 

 そして壮年の髭の男、ドルシ。

 ドルシが低く説明する。

 

「ここで岩盤が薄くなります。ナノ被膜も弱い」

 

 プムが補足する。

 

「この奥に旧式ポータルの保守通路があります。

 公式には封鎖されていますが……使えます」

 

 ペイジは小さく鼻を鳴らす。

 

「地下に真正面から殴り込みか」

 

 視線をマップから外さず、ぽつりと呟く。

 

「あいつらが絡むと、碌なことがねぇな」

 

 プムが顔を上げる。

 

「どういう意味ですか?」

 

 ペイジは肩を竦める。

 

「『付き合う相手はちゃんと選べよ』って意味だ嬢ちゃん」

 

 少しだけ口角が上がる。

 

 冗談だ。

 だがその奥に、本気の緊張がある。

 

 昨日。

 

 この少女が船団を訪れた。

 

 語られた地下の現実。

 まとめられた情報。

 そして結論。

 

 ——救出。

 

 自分達の隊長と教授を、取り戻す。

 それをやるのが自分達だ。

 

 整備員が手を上げる。

 

「準備完了!」

 

 格納庫に低い振動が走る。

 

 エンジンが順に点火される。

 

 マークがヘルメットを被る。

 その下から、ハセヤマが見上げていた。

 

「この前は……お騒がせして申し訳ございません」

 

 マークの淡々とした声。

 

「いいえ、帰ったらまたいつでもいらして下さい」

 

 その声がわずかに震える。

 

「どうか、ご無事で」

 

 一拍の沈黙。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 マークは正面を向く。

 

 ピーターとクリスが、その様子を不思議そうに見ている。

 

「何スか今の?」

 

「さあな」

 

 軽く肩を竦めるが、二人とも口元が少し緩んでいる。

 

 格納庫上部のランプが赤から橙へ変わる。

 

 発進準備、最終段階。

 

 ペイジがヘルメットを被る。

 

「サンダーストラック隊」

 

 一斉に応答ランプが点灯。

 

「ブチかますぞ!!」

 

「「応!!」」

 

 格納庫ハッチがゆっくりと開く。

 

 外には、フォルミスの空。

 

 雷神の鎚が振り下ろされようとしていた。

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 ……重い。

 

 まぶたが、鉛のように重い。

 喉が乾いている。

 背中にざらついた感触。

 

 トールはゆっくりと目を開けた。

 

 視界がぼやけている。

 顔の横に砂が付着しているのが分かる。

 鼻先に入り込む、湿った空気。

 

 体が重い。

 四肢にうまく力が入らない。

 

 だが──

 

 暖かい。

 ほんのりとした熱が、頬に触れている。

 湿気を帯びた風が、ゆっくりと頬を撫でる。

 

 そして。

 

 音。

 

 ……ざあ……ざあ……

 

 規則的な、低い振動。

 一瞬、思考が止まる。

 

 次いで、匂い。

 

 生臭い。

 鉄と油の匂いに慣れた鼻が、はっきりとそれを捉える。

 潮だ。

 

 あり得ない。

 

 船団での生活が長すぎて、一瞬忘れていたが。

 波の音だ。

 

 トールははっとして身を起こす。

 

 体が重い。

 砂が服の隙間から落ちる。

 視界が一気に開ける。

 慌てて周囲を見渡す。

 

 フィムが倒れている。

 

 その隣にアム。

 

 少し離れて教授。

 

 全員いる。

 全員、意識を失っているようだ。

 だが、胸がわずかに上下している。

 生きている。

 

 トールはすぐ隣にいた教授の肩を掴む。

 

「おい、大丈夫か」

 

 揺する。

 

「起きろ」

 

 数秒の沈黙。

 教授のまぶたがゆっくりと震える。

 

「……ん……」

 

 ぼんやりと目を開く。

 焦点が合う。

 

「……ここは?」

 

 声が掠れている。

 

 トールは立ち上がり、周囲を見たまま答える。

 

「分からない」

 

 短く。

 

「だが……地上だ」

 

 教授も体を起こす。

 

 そして。

 

 目の前の光景を見て、言葉を失う。

 

 そこに広がるのは。

 大海原。

 水平線まで続く水面。

 波が白く砕け、砂浜に寄せては返す。

 

 潮風が吹く。

 

 砂は柔らかく、湿っている。

 人工物は見当たらない。

 無人機も、壁も、金属もない。

 

 ただ、砂浜。

 ただ、海。

 ただ、風。

 

 だが。

 

 空は青くない。

 頭上を覆うのは、鈍色の天井。

 地表で見た、あの色。

 ナノマシンで被覆された空。

 

 光はある。

 だが本物の太陽ではない。

 

 偽りの空の下で。

 本物の海が、波を打っている。

 

 教授が小さく呟く。

 

「……再生は、進んでいる」

 

 トールは黙って、海を見つめる。

 

 地下で神を作り、

 子供を作り替え、

 権力を争っている間に。

 

 星は、静かに息をしていた。

 

 波の音が、繰り返す。

 

 ざあ……ざあ……

 

 遠くでフィムが、かすかに身じろぎする。

 アムの指が、砂を掴む。

 

 世界は、まだ終わっていない。

 

 鈍色の天井の下。

 

 フォルミスの、本当の大地が広がっていた。

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