惑星フォルミス
聖都フォルミカナスト 中央寺院
地下都市・聖都の中心に位置する中央寺院。その最奥、円形の議事堂。
天井は高く、灰色の内壁の隙間から、青白い光が紋様のように走っている。
円卓を囲む七つの席。中央には都市全体を投影するホログラムが淡く浮かび上がっていた。
黒地に金装飾の法衣。
七人のプロフェットは等しくその衣を纏い、円卓に座す。
表面上は静謐。
聖職者同士の理性的な討論。
だが、議題は重い。
「……以上が、現状報告です」
銀色の長髪を背に流す、第1プロフェットが穏やかな声で言った。
慈悲深い司祭のような微笑を浮かべている。
「外交のために招いた異星人は、突如として暴力的行動に及びました。
オラクルの巫女二名を拉致し、現在も不当に拘束しています」
円卓の上に、歪曲された状況図が映し出される。
第3プロフェット──白髭を蓄えた穏健派の老人が、静かに問いかける。
「その件ですが。
記録映像は残ってはいないのですかな?」
「混乱の中、記録装置は破壊されたと報告を受けています」
第1は即座に答える。
声音は柔らかい。
「証言は?」
「現場に居合わせたオラクル上席の報告があります」
その名が出た瞬間、議事堂後方に控えていた三名のオラクルのうち、青い長髪の聖騎士が一歩前に出る。
青いプレートアーマーが静かに軋んだ。
彼こそが、事実上のオラクル最高責任者。
第1と二十年以上前から行動を共にする同志。
「確認済みです。
異星人は巫女を連行し、強制的に地上へと脱出しました」
その声に揺らぎはない。
第6プロフェット──赤い長髪の女性が、冷静に言う。
「拉致と断定するには、証拠が不足しているように思えます」
視線は穏やかだが、言葉は鋭い。
「外交使節として招いたのは、あなたです。
管理責任はどこに帰属しますか?」
議事堂にわずかな緊張が走る。
第1は微笑を崩さない。
「無論、私にあります」
即答。
「ゆえにこそ、私は責任を果たさねばならない。
巫女を救出し、民の不安を取り除く義務があります」
第7プロフェット──緑の短髪の女性が口を挟む。
「戦力を動かせば、資源は軍需へ回ります。
下層の生活はさらに厳しくなるでしょう」
「承知しております」
第1は穏やかに頷く。
「ですが、外敵を放置する方が、より大きな損失を招く事となりましょう」
第5プロフェット──黒い長髪の男が低く呟く。
「フォルミス=コアの定めた、防衛計画範疇外での軍事行動は、許可が必要です」
「ええ」
第1は中央ホログラムを見つめる。
「無人機群の指揮系統を書き換えるには、コアへの正式なアクセス申請が必要です」
「パージャーに被害が及ぶ可能性もあります」
第3が指摘する。
「予測段階です」
青髪の聖騎士が答える。
「被害は最小限に抑えます」
第6と第3の視線が一瞬だけ交差する。
言葉は交わさない。
公式の場では、それは許されない。
第4プロフェット──丸めた頭の恰幅の良い男が腕を組む。
「されど、巫女が拘束されている事実がある以上、対応は必要です」
第2プロフェットも頷く。
「民の不安は既に広がっております」
第1はゆっくりと立ち上がった。
「我々は侵略を望んでいるのではない」
柔らかな声。
「これは救出であり、防衛であるのです」
“吐き気を催すほど”慈悲深い言い回し。
「フォルミス=コアへの祈りの儀式を執り行い、
軍事システムの限定使用を申請する」
「……決議を」
第5が静かに言う。
円卓に光が走る。
七つの席の前に投票表示が浮かび上がる。
賛成。
第1。
第2。
第4。
第5。
反対。
第3。
第6。
第7。
四対三。
多数決により、地球人を外敵と定めた対処行動が可決された。
静かな沈黙。
第1は深く頭を垂れる。
「民の安寧のために」
その瞳の奥に、狂気は見えない。
完全に隠されたまま。
「決議案をもって、コアの間にて儀式を実行する」
青髪の聖騎士が一礼する。
議事堂の灯りが僅かに落ちる。
戦争は、祈りという名で承認された。
誰も声を荒げない。
誰も拳を振り上げない。
ただ、理性的な聖職者達の議論の末に。
地下都市は、外敵を定めた。
※※※
降下より35日目 1853時
空母スキピオ コミュニティエリア内
ダイニングバー YAMANE
カウンターの上に、琥珀色のライトが落ちていた。
艦内に居住する軍人、その家族が静かに食事をする場所。
喧噪はない。
グラスの氷が鳴る音と、遠くの食器の触れ合いだけが、夜の“普通”を作っている。
トールは背もたれに体重を預け、ふっと息を吐いた。
「毎日ニコラ・テスラまで通うの、地味に面倒だな……」
向かいに座る教授──アイは、グラスの水面を見つめたまま、さらりと言った。
「研究所は向こう側なんだから仕方ないだろう」
「言うと思ったよ」
「なら、サンダーストラック隊がニコラ・テスラに移ればいい」
トールは一拍止まり、すぐに突っ込む。
「わがまま言うんじゃありません」
アイはむっとした顔をするが、怒ってはいない。
むしろ、その反応を楽しんでいる節がある。
「合理的提案だ」
「移す理由がねぇ」
「ボクがいる」
「……そういうとこだよ」
トールが苦笑した。
アイは、ひとつだけ咳払いをして話題を切り替える。
「……ニコラ・テスラの話が出たついでなんだけど」
視線が少しだけ真面目になる。
「アムの事だ……」
トールの表情も、ほんのわずかに引き締まった。
「まだ、きついのか」
アイは頷く。
「解離性障害の症状が出ている。回復の兆候はあるが、波が大きい。
理屈で言えば、安心できる状態を積み上げ、否定せず、時間をかける──それが基本だ」
その言い方は、研究者の報告に近い。だが、言葉の奥に焦りが混ざっている。
「……ボクは協力したいと思っている」
トールは黙って聞いた。
アイは続ける。
「問題は、“彼女にとって安心できる状況”が何かだ。
それが分からない」
少し間が空く。
「トール、アイディアはないか」
トールが顎に手を当てる。
「要はリラックスさせたいってことだろ」
「そうだ」
「じゃあ逆に聞くけど、アイは何でリラックスする」
アイはまばたき一つせず答える。
「睡眠と、栄養と、作業効率の向上」
「……真顔で言うな」
「事実だ」
「もっとこう、気分の問題だ」
アイは少し考え込み、ふと訊き返した。
「では、トールがリラックスできるものは何だ」
トールは、口元だけで笑う。
「お前と一緒にいる時かな」
一瞬、固まった。
「ふざけないでくれ」
抗議の言葉なのに、声が微妙に弱い。
そして──目が、少し嬉しそうだ。
トールが肩をすくめる。
「冗談だよ。……半分は」
アイは言い返そうとして、やめた。
代わりに、少しだけ視線を逸らす。
「……冗談はさておき」
トールは本題に戻す。
「自室で一人の時とか、待機室で暇な時は、ヘッドホンでロックばっか聴いてる」
「ロック」
「爆音。ハードなのが多い。リラックスかは知らんけど」
アイが小さく頷いた。
「歌か」
「聴いたり歌ったりするのは、ストレス発散にもなる。交流にもなる。
いろんな曲、聞かせてみるのは悪くないんじゃねぇか」
アイの目が、ほんの少しだけ明るくなる。
研究者の目だ。閃きに近い。
「歌エネルギー……」
「ん?」
アイは独り言のように続ける。
「星間大戦を終結させたリン・ミンメイ。
バロータ戦役を終結させた熱気バサラ」
「どちらも、歌が持つエネルギーがきっかけだ。
何らかの手掛かりになるのかも知れない」
トールは軽く鼻を鳴らす。
「またそうやって、理屈でまとめようとする」
「理屈は必要だ」
アイは、でも少しだけ笑った。
「……ありがとう。明日、研究室に戻ったらすぐ試す」
トールが眉を上げる。
「明日? 今日は帰らんのか?」
アイは即答する。
「君の部屋に泊まる」
「……お前なぁ、そういうことは前もって言えよ」
トールは言いながら、文句の割に表情が柔らかい。
教授は涼しい顔で言った。
「恋人という関係なら、合理的だ。
遠慮する必要はない」
「合理的じゃなくて、言い方だ」
「言い方?」
「……もういい」
トールは片手を振った。
アイはその仕草を、どこか楽しそうに見つめた。
最初に“通勤が面倒だ”と溢した時点で、お互い“そのつもり”だった。
※※※
降下36日目 0948時
ニコラ・テスラ研究区画
ニールはセラに手を引かれ、休憩室へと入った。
カウンセリングを終えた直後だった。
トニーとの対話は、重くも軽くもない。
いつも通り。
それが今の彼の日常だ。
休憩室は穏やかな空気に満ちている。
給湯設備、コーヒーメーカー、壁掛けのモニタ。
大きな窓の向こうでは研究機器が静かに稼働していた。
アムは窓際の椅子に座っている。
姿勢は正しい。
視線は前方。
だが、その目はどこか空虚だ。
「今日は音楽を聴くんだって」
セラが嬉しそうに言う。
ニールは壁にもたれかかる。
「音楽?」
「うん。トール達も来るって」
その時、扉が開いた。
噂をすれば何とやら。
トールと教授が並んで入ってくる。
自然な距離。
歩幅も揃っている。
ニールは一瞬だけ目を細めた。
(……あれ?)
妙な違和感。
トールが軽く手を上げる。
「おはようございます」
教授が続く。
「ただいま」
ハンナが眉をひそめる。
「……え? ただいま?」
教授は首を傾げる。
「昨日トールの部屋に泊まっていたのだから、正しい表現だろう」
沈黙。
ハンナの口が半開きになる。
ハセヤマが固まる。
ニールも絶句する。
(マジか)
ハセヤマの視線が静かに刺さる。
目を逸らすトール。
教授は平然としている。
「恋人に頼るのは合理的判断だ」
追撃。
ハンナが小さく悲鳴を上げる。
「え、え、恋人!?」
空気が爆発寸前で──
コホン、と咳払い。
トニーだった。
彼はなんとも言えない表情でトールを見る。
(この場を納めるの私なんだから自重してよ)
言葉には出さない。
だが視線が語っている。
トールは察した。
(すみません本当にすみません)
トニーが静かに言う。
「……本題に入りましょう」
空気が切り替わる。
ハセヤマが深呼吸する。
ハンナはまだ顔が赤い。
「どうしたの、みんな?」
いい歳した大人達の、そんな様子を不思議がるセラ。
「な……
何なんだろうなぁ、ハハ」
ニールは誤魔化すしかなかった。
※※※
トニーの咳払いの後、空気はなんとか落ち着いた。
ハセヤマが深呼吸する。
「……本題に入りましょう。今日はアムちゃんのリハビリの一環です」
アムは窓際に座っている。
背筋は伸びている。
視線は前方。
返事もする。
「はい。アムは、ここにいます」
だがその声音には抑揚がない。
自分を“アムという存在”としてではなく、
“アムという役割”として認識している響き。
教授が淡々と説明する。
「精神的圧迫を減らす。否定しない。急がない。安心できる環境を作る」
トールが補足する。
「要はリラックスだ」
そう言ってオーディオプレイヤーを机に置く。
そのプレイヤーの見た目に衝撃を覚えるハンナ。
「……渋ッ!」
鈍く光るアルミのボディ。
直線主体の角張ったデザイン。
何よりもその大きさ。
端的に言って、80年前のクソデカラジカセである。
ニールが横から覗く。
「まだこんなの持ってる人いたんですね」
「俺のだ。
BIGターミナルの復刻モデル。
アンプは当時物。アナログ変換モジュールで当時の音を忠実に再現。
限定生産品だったんだぞ」
トールが胸を張る。
「旧時代のラジカセ感すごいですよ」
「分かって無ねなぁ。
音が良いんだよ、音が」
「いつに無く楽しそうだね、トール」
趣味の一品を嬉々として弄る30代男性。
その背中を見守る一同。
「それじゃぁ、
ミュージック、スタート」
アルミ削り出しのボタンがガチャリと深く押し込まれた。
音楽が流れ始める。
歪んだギターの音。
重いリフ。
エグい旋律のベースライン。
この世の不条理さ、社会の醜さを呪語の如く叫ぶ歌詞。
反骨精神の塊。
ハードロックである。
プムの瞳が輝く。
「これ、良いですね」
トールが満足げに頷く。
「分かるか」
フィムは少し戸惑いながらも身体を揺らす。
地下では、感情を外に出す文化はなかった。
ここでは音が感情を代弁している。
——ソフトを入れ替え、次の曲を流す。
軽快なビート。
眠らない都会の夜を想起させる旋律。
ありきたりな男女の関係に街の景色を重ね合わせた歌詞。
シティポップ。
フィムがぽつりと言う。
「……見たことないのに、懐かしい」
「それはな、想像力ってやつだ」
トールが答える。
フィムは少しだけ微笑んだ。
——その次。
一度聞いたら忘れない、キャッチーな旋律。
跳ねるようなリズム。
軽やかな声かだが、独特の歌い方。
個性的なシャウトやアドリブが存在感を主張する。
ポップス界の王様。
若者同士の抗争を歌っているが、軽やかでスタイリッシュな曲だ。
「これ、この前テレビで見た。
すごい人だよ」
そう言ってセラが徐に立ち上がる。
「POW!」
かの人物を真似て、月面歩行を試みて盛大に転ぶ。
ニールが即座に支える。
「あの技は、ちょっとやそっとじゃ真似できないぞ」
「ちぇー」
笑いが広がる。
それからも何度も曲を変え、ジャンルを変え、手元にあるソフトを片っ端から再生させる作業を続ける。
それでも、アムは無反応のままだった。
フィムの笑顔が少し曇る。
ハセヤマが小さく呟く。
「……やっぱり、まだ」
教授が腕を組む。
「地下では歌うだけで罰せられるくらいだからなぁ。
抑圧が習慣化しているのかもしれない」
トールが言う。
「そういえば、フォルミスの歌を試していないよな。
セラの村には歌とか無かったのか?」
ニールが思い出す。
「最初に目が覚めた時、誰かが歌っていたような記憶はあります。
意識して聞いてなかったので曖昧ですが」
セラが顔を上げる。
何かを思い出した表情。
「あ……お婆の歌」
プムが前のめりになる。
「地下にはありませんでした。聞きたいです」
少しの沈黙。
セラは恥ずかしそうに笑う。
「下手かもしれないよ?」
「お願いします」
トニーも静かに頷く。
「頑張れ」
ニールがそう言うとセラはコクンと頷いた。
セラは椅子に座り直す。
背筋を伸ば氏、目を閉じる。
最初は小さな声だった。
風のように細い。
だが、揺るがない。
羽化した蝶よ
光の丘を越えてゆけ
遠くへ
遠くへ
風はお前を忘れない
帰れ
帰れ
羽が砕けても
光は還る
単純な旋律。
同じフレーズの繰り返し。
だが。
徐々に、声に深みが増す。
セラの呼吸が変わる。
瞳が半開きになり、焦点が合わなくなる。
——喉元に淡い光。
回路とも血管ともつかぬ、ナノマシンの光。
トニーが一歩踏み出す。
「セラ?」
止めようとする。
その瞬間。
休憩室の空気が震えた。
ごく微細なフォールドウェーブ。
研究員の携帯端末が一斉に小さく震える。
「……?」
誰も解析していない。
ただ、異常値の通知が一瞬だけ表示される。
光はセラから広がる。
プム、フィム、アムへ。
共鳴。
アムの指先がぴくりと動く。
セラは歌い続ける。
まるで何かに取り憑かれてように。
峡谷で巨大な無人機を制した時のよう。
だがそれよりもさらに強い。
嫌な予感がする。
ニールは咄嗟に動いた。
「セラ!」
肩を掴もうと踏み出した。
その瞬間。
胸の奥が、掴まれる。
心臓が跳ねる。
呼吸が乱れる。
視界が狭まる。
(なんだよ……これ)
自分の身体が、自分のものではない感覚。
言葉の様なものが、頭の中に流れ込む
セラを守らなければ、という衝動が異様に強まる。
息ができない。
膝が折れる。
「ニール!」
トールが支える。
セラの歌声は頂点に達する。
最後のフレーズ。
歌が終わった。
瞳に焦点が戻る。
ニールは完全に意識を失っていた。
——静寂
トニーが冷静に診る。
「過呼吸による昏倒……
ですが、あまりも不自然です」
呼吸は安定している。
命に別状はない。
その時。
アムが、ゆっくりと顔を上げた。
瞳に光。
「……きれいな、歌でした」
生気の宿る声。
声音は柔らかい。
表情も穏やか。
だが。
フィムの背筋が震える。
(違う)
これは、知っている姉ではない。
アムは続ける。
「あなたは……光を呼ぶ者だったのですね」
誰に向けた言葉かは分からない。
視線はセラ。
しかし、その奥を見ているようでもある。
教授が低く呟く。
「ボクは奇跡は信じない主義だ」
胸の奥に、得体の知れない予感。
「……だろうな」
トールはアムを見つめる。
「出来すぎてる」
根拠はない。
だが、二人の勘は何かが大きく動いた事を感じていた。
——遠い場所。
誰も知り得ないフォルミス=コア最下層。
無数の青いデータキューブの森。
その最奥。
原初のプロトコルが眠る場所。
赤い光が、一瞬灯る。
誰も知らない。
気付かない。
だが。
世界は、わずかに軋んだ。
※※※
同日 1531時
ニコラ・テスラ 某所
端末の光は、夜の海のように冷たかった。
薄いガラス板の上に、二つの医療報告書が並ぶ。
どちらも同じ患者番号。
どちらも同じ名前。
ニール・トンプソン。
階級、上等兵。
一枚目は救助直後──再生処置が終わった直後のもの。
二枚目は、本日──セラの歌の最中に昏倒した後のもの。
トニーは無言で、二枚を交互に見比べていた。
まず、一枚目。
筋繊維密度、増加。
速筋比率、異常に高い。
骨密度、増加。
腱・靭帯の強度、平均値を大きく逸脱。
反射神経、短縮。
眼球運動と手指運動の同期精度、訓練された兵士の水準を越える。
記載は淡々としている。
だが、淡々としているがゆえに異様だった。
「……これは、訓練された若者の身体じゃ無い」
トニーは独り言のように言う。
再生医療で“元に戻す”なら説明はつく。
欠損を補い、正常値に復帰する。そこまでは理解できる。
だが、これは“正常”を越えている。
元のニールが平凡な兵士だったことを、トニーは知っている。
訓練と年齢相応。過剰な才能はなかった。
それが、今は違う。
身体が、すでに戦うために組み直されている。
そして二枚目。
全項目、ほぼ変化はない。
筋繊維も、骨も、反射も、同じように高い。
──ただ一つを除いて。
トニーは指先でその項目を拡大した。
脳。
前頭前野。
扁桃体。
その間を“橋”のように結ぶ、新規形成組織。
神経束と血管網が密に絡み合い、
既存の回路に後付けされたように接続されている。
器官。
臓器と呼ぶには小さい。
だが神経系にとっては、無視できない“増設”だ。
仮称が打ち込まれていた。
《レギュレーター・ノード》
──情動制御補助器官(推定)
情動反応と意思決定の間に割り込むように存在し、
恐怖・怒り・罪悪感といった過剰な反応を“鈍らせる”可能性がある。
PTSDの症状を抑圧する。
あるいは、戦闘に支障が出ないように調整する。
推定。推定。推定。
だが、推定という言葉の裏側に、確信に近い嫌悪が滲んでいた。
摘出は困難。
神経そのものに溶け込むように結びついている。
仮に切除できても、脳機能への影響は測定不能。
「……誰が、こんなものを」
答えは出ない。
ただ、“タイミング”だけが異常に正確だった。
セラの歌。
共鳴。
昏倒。
その直後の変化。
ただの偶然である筈が無い。
トニーは報告書を閉じ、送信履歴を確認した。
宛先:第3遠征海兵連隊長 ヴィクター・ロメロ大佐
備考:本人への告知は危険。精神状態を考慮し、保留。
送信。
それだけで、胸の奥が少し重くなる。
真実を知らせることが、必ずしも救いにならない。
この場合は特にそうだ。
トニーは端末の光を落とし、椅子に深く座り直した。
※※※
ロメロが報告書を読む速度は遅かった。
文字を追っているのではない。
文字の背後にいる“若者”を見ている。
完璧な肉体。
兵士として理想的な反射と筋力。
そして、感情を抑えるための新しい器官──レギュレーター・ノード。
ふと、息が止まる。
「……誰のためだ」
ロメロは小さく呟く。
ニールは志願兵だ。
覚悟を持って戦場に立った。
だが“これ”は、覚悟の範疇を超えている。
本人が望んだものではない。
本人が知らないところで、勝手に与えられた。
しかもその導火線に、セラがいる。
歌。
子供の声。
無邪気な時間。
それが兵器の起動条件のように扱われる世界。
吐き気がするほど、皮肉だった。
──偶然ではない。
ロメロはそう思った。
だが、確証はない。
確証がない以上、動けば泥沼になる。
船団の中は一枚岩ではない。
それは、誰よりロメロが知っている。
政治。
資本。
軍。
研究。
正義の皮を被った利得。
「欲しがる連中は……山ほどいる」
ロメロは報告書を閉じる。
フォルミスとの戦い。
その外側で、同胞同士の争いが必ず起こる。
理想的な兵士。
商品。
サンプル。
研究材料。
ニールは“人間”ではなく、“成果”として扱われる。
守れるだろうか。
この若者を。
ロメロは自分の肩書を思う。
大佐。
連隊長。
命令権限はある。
だが万能ではない。
全ての欲望から、誰かを守り切る権力など、この船団に存在しない。
──だから、せめて。
ロメロは椅子の背にもたれ、目を閉じた。
浮かぶのは、名前だった。
ニールの身体を作った五人の名前。
ティミー。
ベティ。
リック。
ジロー。
アフメド。
彼らの人生が、彼の中にある。
彼らの癖も、温度も、優しさも、乱暴さも。
「……すべては一人のために、か……」
小さな声だった。
祈りと呼ぶには短すぎる。
命令と呼ぶには弱すぎる。
それでも、ロメロは続けた。
彼らの魂が、ニールを守ってくれないか。
あの若者が、自分の身体に飲み込まれずにいられるように。
誰かの道具にならずに済むように。
守れないと分かっているからこそ、祈るしかなかった。
※※※
その頃。
別の端末で、同じ報告書が開かれていた。
閲覧する指先は、躊躇がない。
興奮すらある。
「いい」
低い声が漏れる。
戦闘適性の強化。
情動制御補助器官。
再現できれば、兵器市場は天井知らずだ。
異星技術研究所。
民間の皮を被った軍需の巣。
資本の匂いはいつも甘い。
「理想的な兵士──商品だ」
フォルミスの少女と、海兵隊の男。
妖精とゴーレムの共生。
物語としても、研究としても、金になる。
「職員が少し騒がしいのは……まぁ、許容範囲だ」
備品を自由にさせすぎた。
管理が甘かった。
性能低下もあるだろう。
だが成果が出たなら正義だ。
画面の光が、その人物の口元を照らす。
薄い笑み。
「続けろ。もっとだ」
誰に命じたのかは分からない。
だが命令は、静かに部屋に落ちた。
戦争が始まれば、研究は加速する。
戦争が始まれば、人は黙る。
だから──
「ちょうどいい」
その声は、誰にも聞かれないまま消えた。
※※※
降下37日目 0630時
アヴァロン 艦橋
夜の名残が薄れ、地平線が白み始めていた。
フォルミスの空は澄んでいる。
乾いた大地の向こうに、太陽がゆっくりと顔を出す。
艦橋は静かだった。
緊張はある。
だが、慌ただしさはない。
その時。
「全周波数帯に通信反応」
「……電文です」
オペレーターの声が響く。
「暗号化なし。通常文です」
グラント准将は視線を動かさない。
「受信。内容を」
数秒の沈黙。
翻訳が走る。
そして、読み上げが始まった。
「──フォルミス=コアの御心を、我らオラクルが代弁する」
艦橋の空気が変わる。
宗教的でありながら、どこまでも整然とした文面。
「異星より来たりし者よ。
汝らは聖域へ足を踏み入れ、
フォルミスの尊厳を穢した」
窓の向こうで、太陽が完全に昇る。
赤い光が艦橋の床を染める。
「汝らは、オラクルの巫女を拉致し、
その存在を弄んだ」
「聖域に侵入し、禁忌を犯した」
「フォルミス=コアは、これを侵略行為と認定する」
フォルミス=コア。
その名が、責任を背負うように置かれる。
だがそれは、どこか不自然だった。
判断主体が誰であるのかを曖昧にする言い回し。
「即時、巫女の返還と、
フォルミス星域からの完全撤退を要求する」
「応じぬ場合、
フォルミス=コアの防衛権限に基づき、
全面的排除行動を開始する」
排除。
殲滅とは言わない。
だが意味は同じだった。
「これは聖戦ではない。
秩序の回復である」
通信はそこで終わった。
静寂。
数秒後。
観測士が、低い声で言う。
「地上部隊……増大」
グラントは窓の外を見た。
朝日に照らされた地平線。
その向こうから、黒い帯が広がってくる。
フォルミス人が“タビス・バイラード”と呼称する、蟻型無人機。
ファランクスのように密集し、正確な間隔で整列している。
無数。
地表を埋め尽くす黒い格子。
その背後。
一機だけ、異様に大きい影。
甲虫型、“タキマ・バイラード”。
重厚な装甲。
鈍い光沢。
部隊の中核のように鎮座している。
空にも動きがある。
蜂型無人機。
制空戦ドローン、“チレン”。
巣を蹴られた群れのように、空を覆う。
規則性はある。
だが、その数が常軌を逸している。
「重力場、微増」
「フォールド波形、安定。妨害なし」
つまり──
これは、宣言通りの戦争。
グラントはゆっくりと息を吐いた。
想定していた。
避けられないと分かっていた。
だが、実際にこの光景を前にすると、
覚悟という言葉の重みが違う。
フォルミス=コアの名を出した。
責任を神に預けた。
撃ってくるのは、目の前の無人機。
そこに、人の姿は無い。
「……始まるな」
誰に向けた言葉でもない。
グラントは振り返る。
「総員、第一種戦闘配置」
声は落ち着いている。
「艦隊各艦へ。
迎撃準備を許可する」
オペレーターが一斉に動く。
警報が鳴り始める。
だがそれでも、艦橋は混乱しない。
太陽は完全に昇った。
黒い群れは止まらない。
静かな朝の光の中で、
戦争が、始まった。