アヴァロン艦橋は静かだった。
静かと言っても、戦闘中の艦橋に沈黙があるわけではない。
通信士の報告、戦術士官の短い応答、オペレーターがホログラムを操作する微かな機械音。
それらは絶え間なく続いている。
それでも、そこには混乱はなく、統制された緊張だけが漂っていた。
中央のホログラムには、フォルミス上空と地上の戦況図が立体的に展開されている。
無数の光点が絶えず動き、消え、新しい信号が追加される。
空域の迎撃線、地上の防衛線、航空支援の軌跡。それらが複雑に絡み合いながら、どうにか均衡を保っていた。
「空域状況」
グラントの声は落ち着いていた。
「チレン群は依然多数。迎撃継続中です。VF部隊損耗は増加傾向」
戦術士官が続ける。
「ゴースト3000E、9iEともに投入済み。ソード隊は遊撃行動を継続」
ホログラムの上空では、白い光点が高速で動き回っている。アーサーたちの部隊だ。
グラントは短く頷いた。
「地上」
「タビス密度、増加。タキマ個体確認数も増えています。デストロイド部隊は防衛線を維持」
別の光点が地表付近で広がっていた。そこにはサンダーストラック隊の軌跡も重なっている。
「航空支援」
「サンダーストラック隊、低空火力支援継続。ステッペンウルフ隊、対地レーザー掃射。VA部隊、爆撃任務継続」
ホログラムの上では、戦闘は成立していた。
防衛線はまだ崩れていない。
しかし。
グラントはその戦況図を見ながら理解していた。
消耗戦だ。
そしてこのまま戦いが続けば、先に削り切られるのは自分たちの側だ。
それも分かっている。
だからこそ。
彼は、すでに次の手を考えていた。
その手段が何を意味するのかも、理解していた。
「准将」
通信士が振り向いた。
「ハンニバルより回線。クロウフォード大佐です」
グラントは視線を上げた。
「繋げ」
ホログラムの一角に新しい映像が浮かび上がる。
ダニエル・クロウフォード。
ハンニバル艦長にして、航空団司令。
画面の向こうの男は、戦況を一瞥しただけで言った。
「見ての通りですが」
声は落ち着いている。
「このままでは消耗が早すぎます」
艦橋の誰も反論しなかった。
それは全員が理解している事実だった。
クロウフォードは続けた。
「提案があります」
ほんの一瞬の間。
「戦術反応弾の使用です」
その言葉が出た瞬間だった。
艦橋の空気が止まった。
誰も声を出さない。
ただ沈黙だけが落ちる。
最初に口を開いたのは、グラントの隣に立つ女性だった。
副官、ミルズ。
「……正気ですか」
低い声だった。
クロウフォードは表情を変えない。
ミルズは続けた。
「地上には我々の部隊が展開しています」
「海兵隊、デストロイド、航空支援部隊」
視線が鋭くなる。
「それを犠牲にするつもりですか?」
クロウフォードは淡々と答えた。
「ですが、被害は限定されます」
「限定?」
ミルズの声が少し強くなる。
「表層に住むフォルミス人はどうするつもりです」
フォルミスの地表には、地下社会から追放された者たちが暮らしている。
いわゆる追放民。
反応弾を使用すれば、彼らは確実に巻き込まれる。
クロウフォードは沈黙したままだった。
ミルズはさらに言う。
「それだけじゃない」
視線が戦況図へ向く。
「この世界は天蓋構造だ」
「衝撃次第では天蓋層が崩れる」
天蓋の下には、地下と表層の間に存在する中層がある。
そこにも人々が住んでいる。
もし天蓋が崩落すれば。
それは単なる戦術被害ではない。
大規模災害になる。
艦橋の誰もがその意味を理解していた。
クロウフォードはそれでも落ち着いたままだった。
グラントはその男を見つめていた。
クロウフォードは愚かではない。
この提案の意味も、結果も、すべて理解した上で言っている。
そして。
おそらく、この艦橋にいる誰よりも正確に状況を見ている。
グラントは静かに言った。
「却下する」
短い言葉だった。
「理由は三つ」
視線は戦況図へ向いたまま。
「地上部隊の壊滅」
「表層住民への直接被害」
「天蓋崩落による中層被害」
少しだけ間を置く。
「それだけではない」
グラントはゆっくり言った。
「ここで大量破壊兵器を使えば、フォルミス側にさらなる正当性を与える」
地下社会はすでに地球人を侵略者として扱っている。
もし反応弾が使われれば。
その主張は決定的になる。
クロウフォードは数秒だけ黙った。
やがて、わずかに肩をすくめる。
「了解しました」
反論はしない。
ただ。
「戦況がさらに悪化した場合」
視線がグラントへ向く。
「再度考慮されたい」
それだけ言うと、通信は切れた。
ホログラムからクロウフォードの姿が消える。
艦橋は再び通常の戦闘空気へ戻った。
報告が続く。
通信が飛び交う。
戦いはまだ続いている。
グラントは黙って戦況図を見ていた。
拒否した理由は、すべて事実だ。
しかし。
彼は知っている。
この戦闘が続けば、消耗するのはこちらだ。
敗北すれば、移民船団、三十万人の命が危険に晒される。
反応弾はすでに。
天秤の上に置かれていた。
※※※
ニコラ・テスラの研究区画は静まり返っていた。
非常事態宣言を示す警告表示が、壁面モニターの隅で赤く点滅している。
艦内放送は一定間隔で同じ文面を繰り返し、非戦闘員の避難区画と警戒レベルの維持を告げていた。
だがこの区画では、誰もそれに反応して動く者はいない。
研究機材が整然と並ぶ室内には、むしろ戦闘の外側に取り残されたような奇妙な静けさが漂っていた。
そこに残っているのは五人だけだった。
教授。
アムの身体を借りて存在しているリーテ。
セラ。
そしてフィムとプム。
ハセヤマ、ハンナ、トニーの三人はすでにこの区画を離れている。
非常事態宣言の発令と同時に、両親や妻子のいる区画へ移動したためだ。
教授はしばらく黙っていた。
腕を組み、視線を床の一点に落としたまま、思考を整理している。
彼女がこうして沈黙する時は、感情ではなく論理を積み上げている時だった。
やがて顔を上げる。
「……まず整理しよう」
落ち着いた声だった。
「君はリーテ。二十年前に死亡したオラクルの巫女」
リーテは小さく頷いた。
「はい」
教授は続ける。
「死亡原因は、“当時”の第1プロフェット達による殺害」
「そうです」
「そして現在地下社会を支配している連中とも面識があった」
リーテは肯定した。
教授は顎に指を当てたまま言葉を継ぐ。
「アムの記憶を見た限り、地下社会はかなり歪んでいる。
統治というより、抑圧に近い。
君はそう分析している」
リーテはわずかに目を伏せた。
「……そうですね」
数秒の沈黙が落ちる。
教授はその沈黙を崩すように視線を上げた。
「じゃあ聞く」
言葉は簡潔だった。
「“現在”の第1プロフェット。彼は一体何者だい?」
「彼の当時の名前はセントラ」
即答だった。
教授の表情がわずかに動く。
「オラクル上席は」
「ソレノ……
私の兄でした」
リーテは、わずかに目を伏せた。
教授はゆっくり頷いた。
「なるほど」
そして少しだけ視線を細める。
「その二人と、君」
「同じ側だったのか」
リーテは迷わず答えた。
「はい」
「私たちは改革派でした」
教授は黙って続きを待つ。
「当時のプロフェット政治は、現在よりさらに腐敗していました。
権力闘争、利権の独占、情報の封鎖……フォルミス社会が衰退している事実から目を逸らし続けていた」
リーテの声は穏やかだったが、その内容は重かった。
「だから変えようとしたわけだ」
教授が言う。
「セントラとソレノと、君で」
「はい」
リーテは静かに答えた。
「しかし、その直前で」
一瞬、言葉が止まる。
「私は殺されました」
教授は黙って聞いている。
「敵対するオラクルによって。地下社会の秩序を乱す存在として」
研究区画の空気がわずかに重くなる。
教授は短く息を吐いた。
「それでセントラは壊れた」
リーテはゆっくり顔を上げた。
「……はい」
そして、少し間を置いて続ける。
「セントラと私は、愛し合っていました」
セラが小さく目を見開く。
フィムとプムも、わずかに視線を交わした。
リーテの声は落ち着いている。
「しかしフォルミスの社会は、それを許さなかった」
「オラクルは制度の一部であり、個人ではない」
「それが彼らの“建前”でした」
リーテはわずかに息を吐いた。
「私の死で、セントラも兄も変わってしまった……」
教授が言葉を継ぐ。
「フォルミス=コアも、地下社会も」
「全部憎むようになった」
「はい」
リーテは静かに頷いた。
「彼はすべてを憎んでいます」
教授は腕を組んだまま天井を見上げた。しばらく何も言わず、頭の中で情報を整理する。
やがて小さく頷いた。
「なるほど。
……辛い話をさせてしまって申し訳ない」
教授——アイは目を伏せながらそういった。
人を愛すること。
非合理と非論理の局地に存在する感情。
その感情が彼女に共感性を与えていた。
……もしトールが死んでしまったら。
自分は今まで通り、アイ・トクタカとして居られるのだろうか?
仕方の無かった事と納得することができるのだろうか。
その要因となった世界や人々を憎まない保証が何処にあるだろうか。
そこまで考え、教授は頭を振る。
今は余計なことを考えてはいけない。
やるべきことを続けるしかない。
頭を切り替え、視線を戻す。
「……次の問題だ」
視線がセラに向いた。
「ニールについて」
セラは少し緊張した様子で教授を見た。
教授は言葉を選びながら話す。
「ニールが再生した時に使われたのは、フォルミスの集落にあった医療用ナノマシンだ」
リーテも頷く。
「はい」
教授は指を一本立てた。
「でも、それはおかしい」
「君が教えてくれた話だと、地下都市の医療用ナノマシンの性能では、瀕死の人間を蘇生させることは出来ないそうだね」
「はい。
もしそれが可能ならば、私が死ぬことは無かったでしょう」
リーテがそう答えると、その場の誰もが沈黙した。
教授は続ける。
「つまり、何かが起きている」
「しかもかなり異常なことが」
リーテも同意した。
「私もそう思います」
教授はさらに言う。
「つまりだ……」
「フォルミスのナノマシンと、セラの集落のナノマシン」
「同一技術ではない可能性が高い」
セラが首を傾げた。
「違う?」
「微妙にね」
教授は肩をすくめた。
「同じ文明の技術なのに、構造が少し違う」
「別系統の技術みたいな感じだ」
それから視線をセラへ向ける。
「そして君」
「セラ」
セラは少し身を縮めた。
教授は続ける。
「君の能力は、ナノマシンを操作しているわけじゃない」
リーテが静かに補足する。
「命令ではありません。
書き換えです」
教授は頷いた。
「そう」
「ナノマシン構造そのものを書き換えている」
セラは困ったように言った。
「……わからない」
教授は小さく笑った。
「まあそうだろうね」
それから質問を変える。
「ニールに使った装置、あれはどういう物なんだ?」
セラは少し考えてから答えた。
「お父さんが言ってた。
これは戦士しか使っちゃいけないものだって」
教授の眉がわずかに動く。
「戦士?」
セラは頷いた。
「だからニールに使ったのかなって。
ニールは、よその星の戦士だったから」
教授は黙り込んだ。
数秒の沈黙。
やがて腕を組み直す。
「……なるほど」
「戦士、か」
視線を床に落としたまま言う。
「多分それは、兵士とは別の意味だ」
セラが不思議そうに首を傾げる。
教授は続けた。
「ニールは偶然あそこにいたわけじゃない」
「何かに選ばれた可能性がある」
リーテも静かに頷く。
教授はゆっくり天井を見上げた。
「そしてセラの集落」
少し思案する。
「本来なら、もう一度調べるべき場所だ」
リーテも同意した。
「はい」
しかし、その直後。
艦内放送が再び響く。
非常事態の警告。
教授は小さく息を吐いた。
「……いまはそれどころじゃないな」
その時だった。
リーテが静かに言った。
「なら」
「外の争いを止めましょう」
教授の視線が戻る。
「方法は?」
「私たちの力を乗せる必要があります」
「ナノマシンによる体内フォールド通信を利用する、
という認識で良いのかい?」
「そうです。できる限り強力なものが必要です」
教授は少し考えた。
「船団で一番強力な通信設備……」
答えはすぐに出る。
そして言う。
「それを持ってる船は中枢艦のアヴァロンだ」
しかし次の瞬間、顔をしかめた。
「ただし問題がある」
「非常事態宣言中だ。今そこへ行くのは簡単じゃない」
リーテは静かに答えた。
「心配はいりません」
教授は数秒、彼女を見つめた。
リーテは微笑んむ。
そして、少女たちの方を向く。
「フィム、プム、そして、セラ」
三人が顔を上げる。
「あなた達の力が必要です。
手伝って下さい」
顔を見合わせる三人。
だがすぐに決心する。
「わかった、どうすればいい?」
リーテに問いかけるセラの表情はいつになく真剣だった。
何かが、静かに動き始めた。
※※※
鈍色の床が、どこまでも続いていた。
磨かれたように平滑な地面。
その上には何もない。壁も柱もなく、白い空間だけが広がっている。
天井も境界も見えない。
どこまで続いているのかも分からない、静かな広がりだった。
その中央に、ニールは一人で立っていた。
ここがどこなのか、分からない。
何が起きたのかも分からない。
ついさっきまで戦っていたはずだという感覚だけが、ぼんやりと残っている。
タビスの群れ、崩れかけた陣地、仲間の怒号。
だがそれらの記憶は、霧の向こうの出来事のように輪郭を失っていた。
「……なんだ、ここ」
口に出した言葉は、白い空間に吸い込まれるように消えた。
返事はない。
その静寂の中で、不意に声がした。
「ニール」
ニールは振り向いた。
だが、そこには誰もいない。
白い空間と、鈍色の床が広がっているだけだ。
「……誰だ」
返答の代わりに、声が言った。
「足元を見ろ」
眉をひそめながらも、ニールは視線を落とした。
足元の床の上に、小さな黒い点があった。
よく見ると、それは一匹の蟻だった。
ありふれた、どこにでもいるような蟻だ。
ニールがそれを見つめていると、蟻が口を開いた。
「そんなに驚くことか?」
ニールの思考が一瞬止まった。
数秒ほどの沈黙のあと、ようやく言葉が出る。
「……は?」
蟻は不満そうに顎を動かした。
「失礼な奴だな。お前、俺に何度も会ってるだろ」
「……会った覚えはない」
ニールが答えると、蟻は触角を揺らして小さくため息をついた。
「まあいい。覚えてなくても困りはしない」
そして、あっさりと言った。
「俺はお前だ」
ニールはしばらく黙って蟻を見下ろしていた。意味が分からない。
「……何を言ってる」
「そのままだよ」
蟻は平然と続けた。
「俺はお前だ。お前のことなら全部知っている。
生まれてから今まで、何を考えて、何をしてきたかもな」
触角がわずかに動く。
「お前は親を知らない。生まれた時からいなかった。船団の福祉施設で育った」
ニールは何も言わない。
「自分が何者なのか、考えたことはない。
考えたところで答えが出るとも思っていない。だから知ろうともしない。
ただ、目の前の生活を続ける。それだけだ」
蟻は淡々と語る。
「だから海兵隊に入った。大した理由はない。食い扶持だ」
ニールの顔に、かすかに苛立ちが浮かぶ。
「仲間には恵まれた。やりがいもあった。
悪い人生じゃない。……だが、それだけだ」
蟻は言葉を切り、ニールを見上げた。
「巣に餌を運ぶ」
顎がわずかに鳴る。
「働き蟻。それだけの生き物だ」
ニールの表情が硬くなる。
「お前の人生と、何が違う?」
「違う」
ニールは短く言った。
蟻は即座に首を振る。
「違わない」
触角がゆっくり動く。
「今お前を食ってる奴らと同じだ」
ニールの視線が鋭くなる。
「働き蟻。タビス。そしてお前。全部同じだ」
空間の空気が、ほんのわずかに重くなった。
蟻は続ける。
「アルバトロスが撃墜された時。お前は死んだ」
その言葉と同時に、ニールの脳裏に炎の残像がよぎる。
「その瞬間、お前は思った。死にたくない」
蟻は静かに言った。
「なぜだ?」
ニールは答えない。
「何者でもない。何者にもなろうとしていない。
ただ流されて生きているだけの男が、なぜ死にたくない?」
沈黙が続いた。
やがてニールは、小さく言った。
「……分からない」
蟻は頷いた。
「そうだろうな」
そして続ける。
「だが、転機は来た。仲間の血肉を使って、お前は生き返った。
そして──セラだ」
ニールの目がわずかに動く。
「お前はあの少女を守ろうとする。なぜだ?」
蟻は問いを並べる。
「海兵隊の使命か? 違う。
体を作り替えられたからか? 違う。
異性として惹かれたのか? ……それも違う」
ニールは吐き捨てるように言った。
「……分からない」
蟻はそれを聞いて、静かに言った。
「だろうな」
それから、ゆっくりと続けた。
「お前は蟻だ。自分の知らない運命に従う、ただの働き蟻だ」
ニールは蟻を睨みつける。
「……運命?」
「そうだ」
「その運命ってのは何だ」
蟻は少しだけ黙った。
「いずれ分かる」
その瞬間、空間に亀裂が走った。
白い空間が、静かに崩れ始める。
蟻は消えかけながら言った。
「従うか。抗うか。決めるのはお前だ」
触角が最後に揺れる。
「もっとも」
「お前に“決める”なんて出来るならだがな」
蟻は消えた。
空間の崩壊は続く。
どこからか、不快な音が聞こえてくる。
ギチ。
ギチギチ。
顎が擦れる音。
タビスだ。
ニールはその場に立っていた。
自分の心を見透かされ、言うだけ言って消えた蟻の言葉が、頭の中でくすぶっている。
「……理由?」
ニールは低く呟いた。
「セラを守るのに、理由がいるのか」
胸の奥で、何かが煮え始める。
「俺が生きるのに、理由がいるのか」
黒い感情が広がる。
だがそれは、邪悪なものではなかった。
誰かに決められた理屈でもない。ただ、自分の内側から湧き上がる、抗いようのない意志だった。
何ものにも染まらない色。
「……何様だ」
ニールは吐き捨てた。
「ぶっ壊してやる」
次の瞬間、視界が黒く染まった。
それはタビスだった。無数の蟻が積み重なり、波のようにニールを覆い尽くしていく。
だがニールは動じない。
拳をゆっくりと振り上げる。
「邪魔だ!」
その拳が振り下ろされた。
※※※
黒い山だった。
タビスの群れが幾重にも折り重なり、一つの塊になっている。蠢く外殻が重なり合い、顎が擦れ合う音が絶え間なく鳴り続けていた。まるで生きた蟻塚だ。
その中心に、ニールが飲み込まれている。
オズボーン軍曹はそれを見ていた。
助けることはできない。助けられる状況ではなかった。
タビスの密度が濃すぎる。近づいた瞬間、同じように飲み込まれるのは目に見えていた。
他の海兵隊員たちも、同じだった。
軍曹の肩には、カートの体がかかっている。
右足は膝の下から消えていた。応急止血はされているが、顔は土気色。
意識はない。
本来なら、ここにいるはずではなかった。
ニールが瓦礫の陰から引きずり出し、必死にここまで運んできたのだ。
その途中で、タビスの群れに飲み込まれた。
だから今、カートは軍曹の背中にいる。
「……くそ」
軍曹は歯を食いしばり、体勢を整えた。
「後退するぞ」
分隊はゆっくりと後ろへ下がり始めた。
だが、数歩も進まないうちに、それが無意味であることを理解する。
前方にもタビスがいた。
退路を塞がれている。
どこを見ても、黒い外殻が地面を埋め尽くしていた。
顎が擦れ合う音が、耳障りなほど近くから聞こえてくる。
弾薬は残り少ない。
デストロイドもこの密度には近づけない。
航空支援が入ったところで焼け石に水だ。
全員が理解していた。
ここまでだ。
誰も声には出さなかったが、分隊の空気が静かに変わる。
死を覚悟した時の、奇妙に落ち着いた空気だった。
その時だった。
黒い山が──
爆ぜた。
乾いた破裂音とともに、タビスの塊が内側から弾け飛ぶ。
外殻が砕け、脚が千切れ、破片が四方へと飛び散った。
オズボーンは思わず身を屈めた。破片が頭上を掠めていく。
何が起きた。
空を見上げる。
航空攻撃ではない。爆撃の音も、レーザーの軌跡も見えない。
デストロイドの砲撃でもない。
では、何だ。
タビスの残骸が崩れ落ちる。その中心から、何かが立ち上がった。
オズボーンは言葉を失った。
海兵隊員たちも、同じだった。
誰も動かない。ただ、それを見ている。
ようやく軍曹の口から言葉が漏れた。
「……何だ……あれ」
それは黒かった。
全身が黒一色だった。装甲のような硬質の表皮が身体を覆っている。
その隙間から、細い光が走っていた。まるで内部で何かが脈動しているかのように。
身体の各所から、不恰好な突起が突き出している。
棘──そう呼ぶしかない形だった。
そして顔。
それは人の顔ではなかった。
鋭利な顎。節のある外殻。昆虫を思わせる形状。
人間の輪郭を残しながらも、明らかに異質なものだった。
人の形をしたタビス。
そうとしか言いようがなかった。
その異形が、動いた。
次の瞬間、近くにいたタビスの一体が吹き飛ぶ。
拳だった。
黒い腕が振るわれ、外殻が砕ける。タビスの身体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
異形は止まらない。
怒り狂った獣のように、タビスへと飛び込んでいく。
殴る。掴む。引き裂く。脚をもぎ取る。
外殻の破片が飛び散る。
もぎ取ったタビスの脚を、そのまま振り回す。
鈍器のように叩きつけられたタビスが、まとめて粉砕された。
海兵隊員たちはただ見ていた。
タビスも反撃する。
複数の個体が同時にビーム砲を撃った。
白い閃光が集中し、爆炎が周囲を包み込む。
煙が立ち込める。
黒い影は消えたように見えた。
だが。
煙がゆっくりと流れる。
その中から、影が現れた。
異形は立っていた。
破壊されたタビスの残骸を盾のように構え、集中砲火を受け流していた。
黒い装甲の表面には、ほとんど損傷がない。
そして、何事もなかったかのように。
再びタビスの群れへと突っ込んでいった。
殴る。
引き裂く。
投げ飛ばす。
外殻が砕ける音が続く。
化け物が、化け物を喰らっている。
そんな光景だった。
オズボーン軍曹は動けなかった。
背中では、カートが微かに揺れている。
だが、目を覚ます気配はない。
軍曹はただ黙って、そのおぞましい戦いを見ていた。
※※※
低空を裂くように、五機のミョルニルが戦場を横切った。
地面との距離はわずかだった。
砕けた岩盤と黒い残骸の海が機体の下を流れていく。
トールは操縦桿を握る手に力を込めた。
腕が重い。
長時間の機動で肩が固まり、首の奥が鈍く痛む。
HUDの端で警告が点滅していた。
弾薬残量。
エンジン温度。
装甲損傷。
どれも、戦闘が続きすぎている証拠だった。
「ロケット、残り二斉射」
マークの声が入る。
短い報告だったが、息が少し荒い。
トールは応答した。
「了解。地上優先」
本来の編成はもう意味を失っていた。
サンダーストラック隊は五機。
トールとマークが近接航空支援。
ペイジ、ピーター、クリスがタキマ排除。
そのはずだった。
だが戦場は、そんな都合のいい形では動いていない。
地上の海兵隊が持たない。
それだけだった。
「左前方、タビス密集!」
クリスの声。
トールは機首をわずかに振る。
視界の先、黒い群れが地表を覆っていた。
タビス。
数が減らない。
むしろ増えている。
トールはトリガーを引いた。
翼下のロケットポッドから弾群が吐き出される。
白い煙の尾を引きながら地面へ落ちていった。
爆発。
連続する閃光。
タビスの群れが吹き飛ぶ。
破片が空中に散り、黒い身体が砕けて転がる。
だが。
爆煙の奥から、また別の個体が現れる。
数が変わらない。
「……くそ」
ピーターの声が低く漏れた。
「減らねえ」
トールは返事をしなかった。
言葉は必要なかった。
機体が揺れる。
遠くから伸びてきたビームが空を掠めた。
トールは反射的に機体を横に滑らせた。
回避は遅い。
自分でも分かる。
反応が鈍っている。
長時間の戦闘で、身体の感覚が鈍くなってきていた。
「タキマ確認」
ペイジが言った。
視線を向ける。
岩稜の上に、巨大な影がいた。
甲虫のような胴体。
厚い装甲に覆われた鈍重な体躯。
その背中から砲塔がゆっくり持ち上がる。
次の瞬間。
強烈なビームが空へ放たれた。
光線がミョルニルの間を横切る。
トールは舌打ちした。
タキマ。
鈍重だが、火力は重い。
しかも砲撃だけではない。
あの個体がいる限り、タビスの群れは統制を失わない。
「落とせるか」
トールが言う。
「やる」
ペイジが答える。
三機が機体を傾け、タキマの方向へ突入していく。
だがその瞬間だった。
「海兵隊後退!」
マークの声。
トールは下を見る。
瓦礫の間を海兵隊の分隊が移動していた。
負傷兵を背負い、必死に後退している。
その背後。
タビスの群れが迫っていた。
波のように。
黒い海のように。
トールは短く言った。
「全機、地上優先」
数秒の沈黙。
そしてペイジが答える。
「……了解」
三機のミョルニルが機首を下げる。
タキマ排除は後回しになった。
地上が先に壊れる。
それが理由だった。
トールは機体をさらに低く落とした。
地面が近づく。
振動が強くなる。
ミョルニルの装甲が細かく軋んだ。
トリガーを引く。
最後のロケット斉射。
爆発帯が地表を走る。
タビスが吹き飛ぶ。
黒い破片が空中を舞う。
だが。
爆煙の奥から、また群れが這い出してくる。
「……まだいる」
クリスの声が掠れた。
トールは黙っていた。
戦場を見下ろす。
海兵隊。
タビス。
そして遠く。
タビスの山があった。
黒い塊。
その中心が、突然爆ぜた。
破片が四方に飛び散る。
トールは目を細めた。
煙の中で、何かが動いている。
黒い影。
人の形に見えた。
だが。
違う。
タビスを掴み、投げ飛ばしている。
まるで素手で引き裂くように。
ビームが集中する。
爆炎が包む。
煙が晴れる。
黒い影はまだ動いていた。
タビスを叩き潰し、投げ、砕く。
「……なんだ、あれ」
マークが呟く。
トールは答えない。
煙と爆炎の中ではよく見えない。
だが分かることが一つある。
あの場所だけ、タビスの群れが崩れている。
トールは視線を切った。
今はそれを見る余裕はない。
HUDの数字が点滅していた。
弾薬残量。
残りわずか。
トールは息を吐いた。
地上を見下ろす。
黒い群れ。
海兵隊。
そして空では。
五機のミョルニルが、限界に近い操縦で飛び続けていた。
※※※
中央のホログラムでは、フォルミス上空と地上の戦況が立体的に展開されている。
無数の光点が動き、消え、また新たな信号が生まれていた。
その均衡が、崩れ始めている。
「地上防衛線、後退を継続」
戦術士官が言った。
「海兵隊損耗増大。航空支援部隊、弾薬残量低下」
別の声。
「タキマ砲撃、継続中。タビス群増勢」
ホログラムの光点が、じわじわと地表側へ押し込まれていく。
グラントはその様子を黙って見ていた。
理解している。
この戦いは消耗戦だ。
そしてこのまま続けば、先に尽きるのは自分たちの側だ。
沈黙が落ちる。
艦橋の誰もが同じことを考えていた。
反応弾。
その言葉を口に出す者はいない。
だが、すでに全員の頭の中には存在している。
グラントはゆっくりと息を吐いた。
決断の瞬間が近い。
その時だった。
「フォールド反応を検知」
通信席のオペレーターが言った。
艦橋の空気が一瞬止まる。
グラントは視線を上げた。
「……どこだ」
オペレーターは眉を寄せたまま答える。
「……艦内座標を示しています」
艦橋の何人かが顔を見合わせた。
「艦内?」
「そんなはずは──」
あり得ない。
だが次の瞬間。
艦橋中央の空間が、歪んだ。
空気が波打つように揺れる。
小規模なフォールド現象。
誰も動けない。
やがて歪みが収束する。
そこに、二人の人影が立っていた。
一人は見覚えのある白衣の女。
もう一人は、青い髪の少女。
最初に動いたのはミルズだった。
「……トクタカ教授?」
驚きの声だった。
グラントも同時に理解する。
どうやってここに現れたのかは分からない。
だが。
この人物がこの場所に現れたということは。
何かを持ってきた。
戦況を覆す何かを。
教授は周囲の警戒や混乱を完全に無視していた。
「准将!」
グラントを見て言う。
「説明している時間は無い」
言葉は簡潔だった。
艦橋の空気を押しのけるように続ける。
「彼女が戦いを止める」
視線が少女へ向く。
リーテ。
艦橋の視線が一斉に集まった。
少女は静かに立っている。
そして言った。
「争いを止めます」
断言だった。
迷いもためらいもない。
一瞬、誰も言葉を返せない。
教授がすぐに続ける。
「彼女の声をフォールド通信で増幅する」
艦橋を見回す。
「準備を」
命令口調だった。
オペレーターたちは互いの顔を見た。
理解は出来ていない。
だが、グラントが短く言う。
「やれ」
その一言で艦橋は動き出した。
「フォールド通信回線、接続準備」
「主通信設備起動」
「アンテナ展開開始」
コンソールの光が一斉に点灯する。
その時だった。
センサー席のオペレーターが顔を上げる。
「……また、フォールド波?」
別のモニターでも波形が立ち上がる。
「増大しています」
誰も操作していない。
艦橋の通信設備が次々と起動していく。
ホログラムが揺れる。
モニターの一部が自動的にフォールド波形を表示する。
教授はそれを見て、小さく言った。
「始まった」
その瞬間。
リーテの身体から光が漏れた。
最初は微かな光だった。
依代であるアムの身体の奥から滲み出すような輝き。
次第に強くなる。
艦橋の床に立っていた足が、ゆっくりと浮いた。
誰かが息を呑む。
背中の光が広がる。
そしてそこから現れた。
透明な薄い膜。
幾枚もの光の翼。
蜻蛉の羽のような、繊細な形。
淡い光の粒子がその表面を流れている。
アムの少女の身体。
その背から生えた翼。
それはまるで、妖精のように見えた。
艦橋の誰もが動けなかった。
兵士も、オペレーターも、技術士官も。
全員が、ただその光景を見ている。
センサーはフォールド波を検知し続けている。
通信設備は自動的に動作を拡大していた。
リーテは空中に浮かび、静かに目を閉じている。
翼がわずかに震えた。
淡い光が艦橋を満たしていく。
その中心に、少女が浮かんでいた。