両側から肩を支えられたまま、俺はゆっくりと歩いていた。
片側はノノミ。もう片方はアヤネ。柔らかい腕に挟まれているせいで、さっきまでの行き倒れムーブが急にとんでもなく申し訳なく思えてくる。いや違うんだ。本当にちょっと疲れてただけなんだ。倒れたのは九割作戦で一割ガチだ。
「大丈夫ですか?歩けます?」
「……なんとか」
前を歩くセリカが何度もこちらを振り返ってくる。警戒半分、心配半分みたいな顔だ。シロコは無言で俺を見ている。たぶん、俺が突然暴れたりしないか警戒しているのだろう。正しい判断だと思う。ホシノは最後尾で欠伸をしながら歩いている。こう見えて一番警戒しているのは彼女だろう……。
「いやー、今日は運が良いねぇ?まさか新しい子がやってくるなんて〜」
「えっ、ホシノ先輩!?まさか……」
そんな会話を聞きながら、俺はアビドスの校舎を見上げた。画面越しに何度も見た建物が、いま目の前にある。胸の奥が妙にざわつく。ここで、この五人は毎日を回している。借金の利息を払いながら、学校を守りながら、笑いながら。
対策委員会の部室へ通されると、生活感の塊みたいな空気が迎えてくれた。古い机。書類の山。壁の地図。借金の返済方法を記したホワイトボード。ああ、間違いない。ここだ。
ノノミとアヤネがゆっくり肩から手を離す。俺は椅子に座らされる。
「お水、飲みますか?」
「いただきます……」
コップを受け取り、喉を鳴らして飲む。生き返る。五人の視線が、一斉に俺へ向いた。いよいよ、事情聴取の時間だ。
机越しに、まるで面接でも始まるみたいな空気になっていて、俺は思わず背筋を伸ばした。いや違う。これは事情聴取だ。しかも相手は対策委員会……いや、実質ホシノ一人だな。彼女の機嫌さえ損ねなければなんとかなる。
目の前にいるのは、画面越しに何度も見てきた五人だ。その中心に、俺が座っている。状況だけ見れば、最高に羨ましい。冷静に考えると、最高に危険だ。
「えーっと……男の人、ですよね?」
最初に口を開いたのはアヤネだった。やわらかい声なのに、言葉の運びはやけに慎重だ。ていうか見て分からないか!ち〇こ付いてるのが!
「え、はい」
俺が不思議そうにしていると、セリカが口を開く。
「女の子って言われればそう見えるし……男の人って言われれば……」
「そう見えますよね〜☆」
ノノミがふわっと笑いながら続ける。悪意は一切ない。ただ純粋な感想だ。それが一番刺さる。俺はコップを持ったまま固まった。
いや待て。もしかして俺、可愛いのか?股間しか見てないからわからん。
ここでようやく重大な事実に気付く。俺、自分の顔をまだ見ていない。冷静な自己確認どころではなかった。つまり俺はいま、他人の評価だけで自分の見た目を推測していることになる。
それ、めちゃくちゃ重要では?
ホシノが半目のままこちらを見ている。
「なんか変なこと考えてない?」
「いえ全然」
即答。反射。これは嘘だ。めちゃくちゃ考えている。
アヤネがメモを取りながら視線をこちらへ向ける。……なんのメモ?。
「もう一度聞きたいんですが……自分の名前がわからないんですよね?」
アヤネの声はやわらかいのに、言葉の置き方がやけに慎重で、俺は思わず姿勢を正した。責められているわけじゃないのに、なぜか「ちゃんと答えなければ」という気持ちになる。こういうところが、たぶん彼女が事務を任されている理由なんだろう。
「はい……わからないです」
自分で言っておいてなんだが意味がわからない。名前がわからないってなんだ、転生ってそこまで初期化されるものなのか。いや、違う。これは俺がテンパって考えていなかっただけだ。
もちろん前世の名前はある。しかし、せっかく転生したのに名前が同じなのは面白くない。そういう理由で俺は名前だけ失ったわけだ。
セリカが両手を机に叩きつける。
「いやいやいや!おかしいでしょそれ!名前忘れるって何!?そんなことある!?」
あるんだよなぁ。いま目の前で起きてるんだよなぁ。
「でもセリカちゃん、ほんとに困ってる顔してますよぉ?」
「ノノミ先輩は甘すぎますって!」
シロコは腕を組んだまま、じっと俺を見ている。観察されている。たぶん、呼吸のリズムとか目の動きとかそういうのを見られている。野生動物か何かだろうか。
ホシノが椅子にもたれたまま、言う。
「記憶喪失、ってやつかもねぇ」
その言葉が、部室の空気をすっと落ち着かせた。
ああ、なるほど。そういうことにしてくれるのか。
俺は内心で深々とホシノに土下座した。この人、ゆるい顔して場をまとめるのが異様にうまい。多分本人は真面目にそう思ったんだろうけど。
「記憶喪失……ですか」
アヤネがメモに何かを書き込む。ほんと何のメモだそれ。
「自分のこと、どこまで覚えていますか?」
「えっと……ここがキヴォトスだってことと……皆さんがアビドスの対策委員会ってことは、わかります」
「なんでそこはわかるのよ!?」
セリカのツッコミが鋭い。俺は一瞬言葉に詰まる。しまった。これは失言だ。完全に失言だ。
だがここで慌てると怪しい。
「聞いたんです、通りすがりの……怪しい人に」
よし、黒服のせいにしよう!。
すまんな、いつかこの身体実験に使わせてやるから!。
俺が怪しい人という単語を言った瞬間、ホシノの眉がぴくりと動く。
「怪しい人って何よ」
「いや……その……黒いスーツ着てて、なんかこう、やたら落ち着いてて……」
「ホントに怪しいじゃない!」
そうだね。俺もそう思う。
だがここで引き下がるわけにはいかない。俺は弱々しさを維持したまま、必死に言葉を継ぎ足す。
「でも、悪い人ではなさそうで……いろいろ教えてくれて、それで……」
ホシノが小さく「あー」と声を漏らした。
「都市伝説みたいなやつかなぁ。たまにいるよね、そういう変な大人」
「ぇ、そんな軽く流していい話!?」
セリカが頭を抱える。今日一番忙しいのはたぶんこの子だ。
シロコは相変わらず黙っているが、視線だけは外さない。俺の呼吸のタイミングに合わせて瞬きをしている気がして、なんだか余計に緊張する。
アヤネはメモを取り続けている。もうこの子のメモ帳が一冊埋まるんじゃないか。
ノノミが優しく微笑む。
「でも、そのおかげでここに来れたんですよねぇ?」
「はい……たぶん」
ここで肯定しておく。黒服、ありがとう。知らないところで俺の人生の整合性を取ってくれている。
部室の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。疑いはまだある。でも、敵意はない。これは大きい。
俺は静かに息を吐いた。
さっきからずっと、頭の片隅で考えていることがある。
俺は、いま、この五人の目の前に座っている。
ゲームで何度も見た光景の中に、自分が入り込んでいる。しかも、NPCではなく、完全に「イベントの中心」にいる。
転生者冥利に尽きるというやつだ。
そして同時に、これ以上一歩でも踏み外したらゲームオーバー……極限の綱渡りでもある。
「とりあえずさ」
ホシノが机に頬杖をついたまま言う。
「名前ないと不便だよね」
来た。
俺は内心で姿勢を正す。
「なんか、呼び名決めよっか。仮でいいし」
仮の名前。
この世界で、最初にもらう呼び名。
俺は一瞬だけ考える。ここで変なことを言えば終わる。かっこつけすぎても怪しい。地味すぎても覚えてもらえない。
セリカが腕を組んだまま言う。
「どうせ記憶喪失なら、私たちが決めちゃえばいいんじゃない?」
「セリカちゃん楽しそうですねぇ☆」
「別に楽しんでない!」
楽しんでる顔だ。
アヤネがこちらを見る。
「何か、呼ばれて違和感のない名前とか……ありますか?」
違和感のない名前。
俺の中に、ひとつだけ浮かんだ言葉があった。
太陽。
この砂漠の学校に、やたら似合う言葉。
けれど、それをそのまま言うのは、なんだか違う気がした。
俺は少しだけ考えてから、口を開く。
「……アテナ、とか」
言ってから、自分で少しだけ首を傾げる。あまりにも唐突だ。でも不思議と、しっくりきた。
「アテナ?」
「女の子の名前じゃない!」
セリカのツッコミが飛ぶ。正しい。完全に正しい。
ノノミが楽しそうに笑う。
「でも、似合ってますよぉ☆」
「え、似合ってるんですか?」
俺は自分の顔を見ていない。だから何もわからない。ただ、みんなの反応だけが材料だ。
ホシノがにやっと笑う。
「いいじゃん、アテナくん。なんか強そうだし」
くん、がついた。
男扱いだ。よかった。まだ大丈夫だ。
シロコが小さく頷く。
「ん、覚えやすい」
アヤネがメモに書き込む。
──アテナ(仮)
それを見た瞬間、俺は妙な実感を覚えた。
この世界での俺の名前が、いま決まった。
まだ仮だけど。
それでも、確かに俺は、この場所に存在している。