アビドスに入学することが決まり、九億という現実を聞かされ、それでもなおこの場所に居たいと思ってしまった俺に対し対策委員会は「じゃあ次は住む場所だね」という、ごく自然な流れで話を進めてきた。
流れがあまりにも生活寄りで、俺は内心かなり戸惑っているのに、周囲はすでに「新入りの生活準備」という段階に入っている。この温度差がいかにもアビドスらしくて、妙に可笑しい。
「では、アテナくんのお部屋になりそうな場所に案内しますね」
そう言って立ち上がったのはアヤネだった。部室の扉を開けながら振り返る仕草がいちいち丁寧で、俺は思わず背筋を伸ばしてしまう。別に怒られているわけでもないのに、この子の前だと「ちゃんとしなければ」という気持ちになるから不思議だ。
廊下に出ると、校舎の静けさが一気に広がった。さっきまで五人に囲まれていたせいか、足音がやけに大きく聞こえる。窓の外には砂色の街並みが広がっていて、遠くの景色が陽炎にゆらゆらと揺れて見える。人の気配が薄い。生徒がほとんどいない学校というのは、こういう空気になるのかと、妙な実感が湧いてくる。
「空いている教室がたくさんあるので、その一つを使ってもらおうと思ってます」
歩きながら、アヤネが説明してくれる。
「本当は寮みたいな設備があればいいんですけど、そこまで手が回らなくて……」
「いえ、むしろ助かります。屋根と壁があるだけで十分です」
本音だった。数時間前まで砂の上に倒れていた男にとって、文明はそれだけでありがたい。
階段を上がり、人気のない廊下を進み、突き当たりでアヤネが立ち止まる。
「ここです」
鍵を回して扉を開けると、少しだけ埃の匂いが漂ってきた。
中は、何もない教室だった。
机も椅子もなく、黒板だけが残っている。窓から差し込む光が床を長く照らしていて、静まり返った空間がそこにあった。
「ここを、アテナくんの部屋として使ってもらおうと思って」
申し訳なさそうに、でもどこか嬉しそうにアヤネが言う。
俺はしばらく、その光景を眺めていた。
教室だ。俺の部屋が、教室だ。
普通ならもう少し何か思うのかもしれない。けれど俺は、この何もなさを見た瞬間、妙な安心感を覚えてしまった。ああ、ここで生活するんだなと、すっと胸に落ちる。
「ベッドとか必要なものは、あとでみんなで運びますね」
「みんなで、ですか?」
「はい、アテナさんの入居祝いです」
アヤネのその言い方が、少しだけ誇らしげで、俺は思わず笑ってしまう。
俺はゆっくりと教室の中に足を踏み入れた。靴底が床を擦る音がやけに響く。窓から入る風が、頬を撫でる。
ここが、俺の部屋〜! 空気が美味いぜ! 。
と、心の中で叫んだ瞬間、俺は自分でも引くくらいテンションが上がっていることに気付いて、慌てて表情を引き締めた。いまここでニヤけたら終わる。完全に変な人だ。すでに十分変な経緯でここにいるのに、これ以上変人ポイントを重ねる必要はない。
それでも、抑えきれない。
教室の中央に立ちながら、俺はゆっくりと周囲を見回す。がらんどうの空間。黒板。窓。光。何もない床。何もないという事実が、むしろ俺を落ち着かせる。ここにはまだ誰の生活も染みついていない。これから染みつくのは、俺の生活だ。
そして、その生活には毎日、あの五人が関わってくる。
それを想像した瞬間、頭の奥がじわっと熱くなる。
やばい。
やばいぞこれ。
俺は今、人生で一番「環境ガチャ」に成功しているのではないだろうか。トラックに撥ねられた瞬間の願いが、まさかこんな形で部分的に叶うとは思わなかった。美少女にはなれていない。だが、美少女に囲まれて生活するという部分は満点どころか過剰摂取だ。
「どうですか?」
アヤネの声に、俺ははっと我に返る。
「いえ、その……想像以上にちゃんとしてて」
ちゃんとしてるの基準がバグっている気がするが、嘘ではない。俺の中ではこれは立派な個室だ。砂の上と比較しているから基準がおかしくなっているのは自覚している。
アヤネは少しだけ安心したように微笑んだ。
「よかったです。正直、もう少し掃除してから案内しようと思ってたんですけど……」
その言葉を聞いた瞬間、俺はとんでもないことに気付く。
これから、みんなで掃除して、みんなで家具を運んで、みんなでこの部屋を整えてくれるということは。
ここに、美少女たちが、出入りする。
俺の部屋に。
俺の部屋にだ。
だめだ。
うるさい。
俺はとっさに窓のほうを向いた。アヤネに顔を見られたらまずい。絶対いま、変な顔をしている。もっとポーカーフェイスを鍛えないと……! 。
「アテナさん?」
「風通しがいいなと!」
何を言っているんだ俺は。
アヤネは不思議そうにしながらも、小さく頷いた。
「この校舎、風だけは気持ちいいんです」
その言い方が、なんだかこの学校らしくて俺は少しだけ笑った。
風だけは、って何だ。九億の借金を抱えた学校の長所が風通しって、いろいろおかしい。嫌いじゃないぜ。
俺はゆっくりと黒板に近づいて、手でそっと触れた。粉っぽい感触が指に残る。ここに、俺の生活が刻まれていくのかと思うと、不思議な感慨が湧いてくる。
転生して、行き倒れて、拾われて、名前をもらって、入学して、そしていま、部屋まで与えられている。
あまりにも展開が早すぎるのに、なぜか一つ一つがちゃんと胸に残る。
「今日はもうゆっくり休んでくださいね」
アヤネがそう言ってくれる。
「はい、ありがとうございます!」
俺がそう言うと、アヤネは対策委員会の部室へと戻って行った。
扉が閉まって足音が遠ざかると、教室は驚くほど静かになった。さっきまであの五人に囲まれていたせいで、この静けさがやけに広く感じられる。一人になるのは、これが初めてじゃない。キヴォトスに来てからむしろ一人の時間のほうが長かったはずなのに、いまのこの静寂だけは妙に質が違って思えた。
さっきまで確かに「居場所」の中にいて、そこから急に外へ戻されたみたいな、そんな感覚だった。
俺は教室の中央に立ったまま、しばらく動けずにいた。何もない空間。黒板。窓。光。そこに俺しかいないという事実が、妙にくっきりと輪郭を持って胸に落ちてくる。ほんの数分前まであの五人が俺の周りにいて、言葉をかけてくれて、居てもいいと笑ってくれていた。その熱がまだ体の内側に残っているせいで、いまの静けさが余計に際立つ。
深く息を吐いて、俺はゆっくりと窓のほうへ歩いた。砂色の街が広がっている。人の気配は薄い。風だけが動いている。この街の空気は、どこか時間の流れが緩い。焦る理由がない。急ぐ必要もない。ただ、そこに在るだけの空間。
そして、俺の頭にふと黒服という名前が浮かび上がる。
さっき俺が冤罪をかけた相手の名前だ。多分放っておいても、いずれ向こうから接触してくるであろう存在。
なら、探す必要はないのかもしれない。
けれど、何もせずにこの部屋でじっとしているのも落ち着かなかった。さっきまで濃すぎる密度の中にいたせいで、急に与えられた自由時間の扱い方がわからない。身体は休んでいいはずなのに、頭だけが妙に冴えている。
俺はゆっくりと踵を返し、教室の扉へ向かった。
とりあえず、外を歩こう。
黒服を探す、というよりは、黒服に見つかりに行くような感覚だ。ああいうタイプは、こちらが動けば勝手に現れる。妙にタイミングが良いのだ。気持ち悪いくらいに。
廊下に出ると、またあの静けさが広がる。階段を下り、昇降口を抜け、校舎の外へ出る。日差しが強い。砂の匂いがする。アビドスの町は相変わらず人の気配が薄く、建物だけがそこに並んでいる。
俺はあてもなく歩き出した。
砂を踏む音だけが、規則正しく続く。
黒服のことを考えながら、俺はゆっくりと町のほうへ足を向けた。あの気持ち悪い男なら、きっとすぐに接触してくる。俺がここにいることも、もう把握している気がしてならない。
だからこれは、散歩だ。
ついでに、餌をぶら下げて歩いているようなものだ。
来るなら来い。
俺は、ほんの少しだけ口元を緩めながら、砂色の街へと歩いていった。
■
砂を踏むたびに、靴底が乾いた音を立てる。アビドスの街は相変わらず静かで、建物だけが整然と並び、そこに生活の気配がほとんどない。遠くで風が砂を撫でている音だけが聞こえる。この町はどこを歩いても広すぎる。人が少なすぎる、というかいない。だからこそ、自分の存在がやけにくっきりと感じられる。
俺はあてもなく通りを歩きながら、頭の中でさっきまでの出来事を何度も反芻していた。入学。部屋。九億。アビドスの一員。言葉にすれば簡単なのに、その一つ一つが妙に重い。それを軽い顔で受け止めているあの五人の強さを、いまさらながら思い知る。
俺は、通りの真ん中でふと立ち止まった。
風が、横から吹き抜ける。
なんとなく、ほんの出来心だった。何の根拠もない。けれど、この空気の中に、妙な視線の気配を感じた気がして、俺はゆっくりと口を開いた。
「そこにいるのは、わかってますよ」
少し間を置いてから、俺は肩をすくめる。
「なーんて」
自分で言っておいて、馬鹿みたいだと思う。完全に独り言だ。俺は苦笑しながら前を向き直ろうとした。
その瞬間。
「……クックック」
すぐ後ろから、落ち着きすぎた声が聞こえた。
「気付かれていましたか」
背筋に、ぞわりと何かが走る。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは、見覚えのある黒いスーツ姿だった。砂の街並みにあまりにも不釣り合いな、妙に整ったシルエット。表情の読めない穏やかな笑み。まるで最初からそこに立っていたかのような自然さで、黒服は俺を見ていた。
俺は数秒、言葉を失う。
冗談のつもりだった。
本当に出てくるとは思っていなかった。
「……うわぁ」
思わず、そんな間抜けな声が漏れる。
黒服は軽く首を傾げる。
「何か不都合でもありましたか?」
不都合どころの話ではない。怖い。タイミングが完璧すぎて怖い。俺はいま、軽率にホラー映画のフラグを踏み抜いた気分だ。
「いや、ちょっと冗談のつもりだったんですけどねー」
「そうでしたか。しかし、私としては非常に助かりました。声をかける手間が省けましたので」
さらっと言うな。こいつ、本当にずっと見てたな。
俺は思わず周囲を見回す。さっきまで何もなかった通りに、この男がいるという事実が、現実感をじわじわ侵食してくる。
「いつからいたんだよ、お前」
「……? クックック、口調が先程と違いますねぇ」
笑って誤魔化すな。絶対かなり前からいたやつだ。
黒服はゆっくりと一歩近づく。足音が、ほとんどしない。きっしょ。
「アビドスに入学されたようですね、アテナさん」
名前を呼ばれた瞬間、俺は内心で小さく舌打ちする。やっぱり把握してる。
「もしかしてあれ、聞いてました? (焦)」
「なんのことがわかりませんが、私とあなたは今しがた初対面のはず。どこで私の存在を知ったのか……気になりますねぇ」
黒服は、わずかに顎を引いてこちらを見ている。穏やかな笑み。けれど目だけが、妙にこちらの反応を楽しんでいる気配を隠そうともしない。俺はその視線を受け止めながら、いったん深く息を吸った。
すぅ────
落ち着こう。相手は先生好きの変人だぞ? 。
「……とりあえず、場所変えましょうか」
俺がそう言うと、黒服はほんのわずかに首を傾げ、すぐに頷いた。
「そうですねぇ。立ち話というのも風情に欠けます」
風情とか言うな。お前が言うと何かの儀式みたいになる。
黒服は、ゆっくりと片手を上げる。指先の動きがやけに滑らかで、無駄がない。その手の軌跡をなぞるように、空間がゆらりと歪んだ。
空気が、捻れる。
砂色の街の風景が、その一点を中心に波打つように揺らぐ。俺は思わず目を細める。
そこに、黒い縁取りの楕円が現れる。
奥は、見えない。
見えないのに、奥行きだけがはっきりと感じられる。まるで夜そのものを切り取って穴にしたみたいな、不気味なゲートだった。
「では、こちらへ」
黒服が、当たり前のように一歩その闇へ踏み込む。体が吸い込まれるように消えていく様子を見て、俺はほんの一瞬だけ足を止めた。
ついさっきまで、俺は自分の部屋が教室であることにテンションを上げていたはずなのに、いまは異空間の入り口の前に立っている。
落差がすごい。
「……ここで帰ったらどんな反応するかな」
誰に言うでもなく呟いて、俺は一歩前へ出る。
ゲートの縁を越える瞬間、肌にひんやりとした感触が走った。空気の密度が変わる。砂の匂いが消える。
視界が、黒に塗りつぶされる。