励みぃになるねぇ
ゲートを抜けた瞬間、空気が変わった。
砂の匂いが消える。風の音も消える。代わりに、やけに静かな室内の気配が、すっと肌に張り付いた。
視界に入った光景を見た瞬間、俺は無意識に足を止めていた。
……ここ。
見覚えがある。
はっきりと……ではないが確かに覚えがある。
何度も見たわけじゃない。けれど確実に、ゲームの中で数回は見たことがある場所。しかも、かなり印象に残る形で。
事務所のような空間。整いすぎた机。無機質な棚。無駄のない配置。生活感が一切ないのに、なぜか「誰かがずっとここにいる」気配だけが濃く残っている。
そして何より。
あの有名な黒服のメモリアルロビー(存在しない記憶)で見た、あの部屋とほとんど同じだった。
俺はゆっくりと室内を見回す。記憶と現実が、ぴたりと重なる。
その視線の先で、すでに黒服はデスクに座っていた。
いつの間に、ではない。最初からそこにいたかのような自然さで、静かにこちらを見ている。
「どうぞ」
落ち着きすぎた声が響く。
「そこのソファにお座り下さい」
俺は数秒だけその姿を見つめてから、ふっと息を吐いた。
俺はソファに身体を預けながら、軽く息を吐いた。静かな部屋だが、さっき感じたような重さはない。ただ単純に、音がないだけの空間。整理されすぎた室内が、妙に落ち着く。
黒服はデスク越しにこちらを見ている。丁寧で、変に落ち着いている。けれど威圧感はない。ただ「人間かこいつ?」という印象だけが強い。
「黒服が俺をここに連れてきた理由は大体わかる」
自然にタメ口が出る。無理に丁寧にする理由もないし、この人はたぶんそのほうが会話しやすいタイプだ。
黒服はわずかに笑みを深めた。
「そうですか……私のことはどこで?」
「複雑なんですよねー、強いてゆうなら俺も観測者だからかな」
「なるほど……外から私たちを観察していた、ということですね……クックック面白い」
黒服は楽しそうに喉の奥で笑いながら、ゆっくりと背もたれに身体を預けた。こちらを試すような視線ではない。ただ純粋に興味を向けられているだけの目だ。そのことが、逆に妙に落ち着く。
この部屋は音が死んでいる。外の世界の気配が一切入ってこない。まるで切り離された場所みたいだ。けれど息苦しさはない。黒服のいる空間は、静かすぎるだけで、圧はない。
「でさ、俺をここに連れてきたのって多分勧誘するためでしょ? 実験の材料になれって言うさ」
黒服は指先を軽く組みながら、穏やかに首を傾げる。
「えぇ、それもありますが……それはついでに過ぎません」
「え? そうなの……恥ずかし」
黒服は口元にわずかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと視線をこちらに戻した。その表情には悪意も企みもなく、ただ「予想が外れた人を見る面白さ」みたいな、妙に人間味のある色だけが乗っている。
「じゃあ何しに連れてきたんだよ」
黒服は指を組んだまま、少しだけ考えるような仕草をする。
「確認です」
「何の?」
「あなたが、どのくらいこの世界を理解しているのか」
ああ、やっぱりそこか。
俺は天井を見上げたまま、小さく笑う。なるほどなと思う。勧誘でも実験でもなく、まずは様子見。観測者が中に入ったとき、どんな挙動をするのか。それを知りたいだけ。
「言うてそんなに知らないんだよなぁ……無名の司祭、名も無き王女、デカグラマトンの預言者」
黒服は穏やかに頷いた。
「想像以上ですよ」
その言い方に、妙な安心感がある。評価されているはずなのに、試験の空気がまるでない。
俺は視線を戻して、黒服を見る。
「実はさ、黒服に手伝ってもらいたいことがあるんだよねぇ〜」
黒服はわずかに首を傾げたまま、静かにこちらを見ている。表情は変わらないのに、視線だけがほんの少しだけ柔らかくなる。その変化が、やけにわかりやすい。
俺はソファの背に肘をかけながら、にやにやした顔のまま続けた。
「そんな身構えなくていいって。危ないお願いじゃない」
黒服は小さく頷く。
「お聞きしましょう」
この人、話を聞く姿勢が出来すぎている。だからこそ、逆にこちらも変なことを言えない空気になる。けれど今回は、わりと真面目なお願いだ。
「単刀直入に聞くけど、俺を女の子にすることってできる?」
「……クックック、何故???」
黒服は、ほんのわずかに目を細めた。
驚いた、というよりは、想定外の方向からボールが飛んできたときの顔だ。しかもそれを面白がっている。
「理由を、お聞きしても?」
俺はソファに深く沈みながら、天井を見上げたまま答える。
「いやさ、純粋にこの世界、美少女多すぎない? しかもみんな戦えるし、強いし、可愛いし、優しいし。あの中に男一人で混ざるの、わりと居心地悪いんだよね」
黒服は黙って聞いている。遮らない。この人は本当に聞き上手だ。
「それにどうせ転生したなら、美少女になって色々やりたいんだよ」
黒服の口元がわずかに緩む。
「なるほど……実に理解し難い理由ですね」
馬鹿にしてる感じはない。むしろ納得している。
「技術的にどうなの? いける?」
黒服は顎に指を当て、少しだけ考える素振りを見せる。
「不可能ではありません」
さらっと言うな。
俺は思わず体を起こしかけて、踏みとどまる。
「マジで?」
「ええ。ただし、それは『変える』というより、『書き換える』に近い」
書き換えるかぁ……男の体も残したいんだよねぇ、アビドスのみんなもいきなり俺がいなくなったら寂しいと思うし。
……そうだ!
「女の子になるのは置いといて。黒服、俺にヘイローをつけることってできる?」
「……難しい話になります。あなたは外の世界の住人、言うなれば部外者です。ヘイローを持つものは神秘と神話を持っている、あなたにはそれがない」
「まじか……神秘とヘイローって別々なのか、ヘイローがあるから神秘を扱えるのかと思っていたよ」
黒服は、組んでいた指をゆっくり解いた。
その仕草が、ほんの少しだけ「説明の姿勢」に切り替わった合図に見える。
「順序が逆なのです」
俺は軽く首を傾ける。
「逆?」
「ええ。ヘイローがあるから神秘を扱えるのではありません。神秘を内包している存在だから、結果としてヘイローが現れるのです」
ああ。
それは、なんというか、妙に納得できる言い方だった。
黒服は続ける。
「ヘイローは器官ではありません。証明に近い。存在証明、在り方の可視化。ゲームでの『ログイン状態の表示』のようなものです」
例えがわかりやすいなこいつ。
「つまり、俺にはログイン資格がないってことか」
「現時点では、ええ」
黒服は淡々としている。突き放しているわけでも、否定しているわけでもない。ただ事実を並べているだけ。
俺はソファに身体を預けたまま、天井を見つめる。
「じゃあさ、神秘を持てばヘイローも出るってこと?」
黒服の視線が、わずかに細くなる。
「理論上は」
理論上かぁー
「神秘を会得する方法は、主に二通りあります。一つは時間がかかりますが安全。もう一つはすぐに始められますが命の危険があります」
黒服の声は相変わらず落ち着いているのに、その内容だけが妙に物騒で、俺は天井を見つめたままゆっくり瞬きをした。命の危険。さらっと言うな。こっちはさっきまで教室の埃に感動してた一般人だぞ。スケールの振れ幅がおかしい。
俺は肘で身体を起こし、ようやくソファから腰を上げた。ずっと同じ姿勢で話していたせいか、視界の高さが変わるだけでこの部屋の空気が少し違って見える。棚の位置、机の角度、黒服との距離。静かな空間が、ようやく立体になる。
「安全なほうって、何するの?」
黒服は視線だけで俺の動きを追いながら答える。
「生活です」
「ざっくりだな」
思わず笑う。黒服もわずかに口元を緩めた。
「この世界で時間を過ごし、関わりを持ち、影響を受け、影響を与える。その過程であなたの存在がこの世界に馴染めば、いずれ神秘は宿るでしょう」
ああ、なるほど。転校生がクラスに溶け込むみたいな話を、やけに壮大なスケールで言っているだけか。つまりアビドスでわちゃわちゃしていればワンチャンあるということだ。急に親近感のある話になったな。
「じゃあ危ないほうは?」
黒服はほんのわずかに視線を細めた。
「私が直接、あなたに神秘を流し込みます」
「言い方」
医療行為なのか拷問なのか判断がつかない表現やめろ。
俺はゆっくり部屋を歩きながら考える。机の端に指を置き、棚をちらっと見て、また黒服を見る。この人は椅子から動かない。俺だけがこの部屋の中をうろうろしている。さっきまで固定されていた空間が、いまは妙に広く感じられる。
「成功率は?」
黒服は淡々と答える。
「極めて低いです」
「死ぬ?」
「高確率で」
さらっと言うな。
俺は思わず笑ってしまった。笑うところじゃないのに、あまりにも躊躇がない言い方で、逆におかしくなってくる。
「いやでもさ、俺いまアビドスに居場所もらって、部屋もらって、これからみんなで家具運んでもらう予定なんだよね」
黒服は黙って聞いている。
「その直後に実験で死にましたって、あまりにもコントだろ」
自分で言っていて、ちょっと面白い。アビドスの五人の顔が浮かんで、俺は小さく首を振る。
「さすがにそれは申し訳ないわ」
黒服は静かに頷いた。
「賢明な判断です」
俺は歩きながら、ゆっくりと息を吐く。
つまり選択肢はこうだ。アビドスでわちゃわちゃ生活して、いつか自然に神秘が宿るのを待つか。黒服に命を賭けて、ショートカットするか。
普通に考えたら前者一択だ。
けれど俺は、立ち止まって黒服を見る。
てか、今更気になったが時系列はどの辺なんだろうか? それでだいぶ変わる。対策委員会の面々が全員揃っているから2年前とかでは無いはずだけど。
「……そういえば、先生ってもういるの?」
「彼ですか、ええ。今はシャーレでお仕事中のようです……あくびをしていますねぇ」
サラッとキモイ事言ったなこいつ。監視してやがる。
黒服のその一言で、俺の頭の中にざっと年表が展開される。アビドスの対策委員会が五人揃っている。先生はもう来ている。シャーレも稼働中。つまり物語は、ゆっくり始まっていて、でも確実にあの加速区間へ向かっている途中だ。
のんびり生活していればそのうち神秘が宿ります、なんて悠長なルートを選んでいる時間が、実はあまり残されていない可能性がある。
エデン条約。
色彩の襲来。
あの一連の流れを、俺は知っている。知っているからこそ、妙に胃のあたりが重くなる。あれは、画面越しに見ている分にはスリリングで格好良くて、最高に盛り上がる展開だった。けれど当事者として巻き込まれるとしたら、たぶん笑っていられない。
ヘイローのない俺なんて、本当に一瞬で終わる。
黒服は黙ってこちらを見ている。俺が頭の中で勝手に焦り始めていることを、たぶんもう察している。説明も誘導もしてこない。ただ、待っている。この人は本当に、人の思考がまとまるのを待つのがうまい。
俺は軽く息を吐いた。
「先生はいいよなぁ……アロナちゃんいるし」
思わず口から漏れたその言葉に、黒服の目がわずかに細くなる。
「興味深い発言ですね」
「いや別に深い意味はないけどさ」
あるけど。
先生は、あの世界の特別枠だ。アロナがいる。守られている。導かれている。神秘も、物語も、あらゆる流れが先生を中心に回る。
俺は違う。
外から来ただけの、何も持っていない人間だ。
その差が、今さらながらじわじわ実感として湧いてくる。
「なあ黒服」
黒服は静かに視線を向ける。
「命の危険あるほうってさ、成功したらどのくらい神秘の量持てるの?」
黒服は一瞬だけ考える素振りを見せた。
「個人差はありますが……通常の学生と同等、あるいはそれ以上」
「それ以上もあるのか」
「理論上は」
理論上、ほんと便利な言葉だな。
俺は天井を見上げる。頭の中でアビドスの五人の顔が浮かぶ。借金に苦しんで、それでも笑って、必死に学校を守っている五人。あの中に、自分はこれから入っていく。
守られる側でいるのか。
並ぶ側に立つのか。
その差は、わりとデカい。
「さっきの発言さ」
「ええ」
「撤回していい?」
黒服の口元が、わずかに緩む。
「どうぞ」
俺はゆっくり息を吐く。
怖くないわけじゃない。むしろ、かなり怖い。けれど、それ以上に、何もできずに終わる未来のほうが、なんとなく嫌だった。
「やろうか、危ないほう」
黒服は、驚かない。
ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
「理由を、お聞きしても?」
「俺さ、ミステリアス美少女になりたかったんだよね」
「はい???」
自分で言っていて、妙にしっくりくる。
「あと、どうせ転生したならもうちょい派手なことしたいじゃん?」
黒服は静かに頷いた。
「よく分かりませんが、承知しました」
軽いな。
俺は思わず笑う。
「ちなみに、痛い?」
「非常に」
「最悪じゃん」
それでも、足は引かなかった。
この世界は、待ってくれない。なら、こっちから追いつくしかない。
俺は黒服を見る。
「死なないようによろしく」
「最善を尽くしましょう」
その言い方が妙に誠実で、俺は苦笑した。
ほんと、変な縁だ。
「では、場所を移しましょうか」
黒服がそういうと、先程のゲートが同じように現れる。そして、俺と黒服はその場から姿を消した。