誤字報告ありがとうございます!・・・毎回1回読み直してはいるんですけどねぇざっとだから普通に見逃しちゃう。
ついでに、評価が赤色になりましたァ!かんしゃ!
追いかけ始めて数分。アテナくんが、ふいに足を止めた。
歩幅が変わったわけでも、きょろきょろしたわけでもない。ただ、流れの中にほんの僅かな「間」が生まれただけ。それなのに、私は無意識にその背中を凝視していた。なんでだろうって自分でも思うけど、こういうときの勘はだいたい当たるから困る。
あれ、って思った時には、もう遅い。
さっきまで砂を踏む音に溶け込んでいた存在感が、急に輪郭を持ったみたいに感じられた。アテナはゆっくりと後ろを振り返る。こっちじゃない。私が隠れている場所じゃない。もっと手前、通りの角のほう。
そして、口が動いた。
声は聞こえない。距離があるから、当たり前だ。でも、独り言にしては妙に自然な間だった。誰かに話しかける時の、あの呼吸の取り方。
──誰に?
そう思った瞬間、答えが視界に現れる。
アテナが見ている方向、その一つ手前の角から、黒いスーツの男がゆっくり姿を現した。足音も気配もなく、まるで最初からそこに立っていたみたいな顔で、当たり前のように出てくる。
「……」
思わず、心の中でため息が出た。
黒服だ。
間違えようがない。あの整いすぎた立ち姿。無駄のない動き。見ているだけで、昔の嫌な記憶を引っ張り出してくる存在感。
アテナは驚かない。
むしろ、自然だった。
待ち合わせしていた人と合流するみたいな顔をして、視線を向けている。
さっき部室で聞いた話が、ゆっくり頭の中で繋がっていく。黒いスーツの男。妙に落ち着いた口調。噂話をしている感じじゃなかった。実際に会っている人の声だった。
「……そっか、やっぱり」
小さく呟いた声は、砂に吸われて消える。
黒服がゆっくりと手を上げる。何かを示す仕草。その瞬間、空間が歪んだ。
恐らく黒服の使う技術のひとつだ、ゲートのようなものが現れ黒服は先にその中に入っていく。
そしてアテナくんも止まらない。
黒服のあとを、迷いなく歩いていく。引きずられているわけじゃない。自分の足で、自分の意思で、その歪みの中に入っていく。
……やだなぁ。
止めようと思えば、間に合ったと思う。声をかければ、振り返ったはずだ。でも、足が出なかった。あの顔を見ちゃったからだ。
怖がってる顔じゃなかった。覚悟決めた顔だった。
ああいう顔の子を、無理やり引き戻すのは、たぶん違う。
ゲートが閉じる。歪んでいた空間がすっと元に戻って、通りにはまた砂の匂いと風の音だけが残る。何事もなかったみたいな顔をしているのが、余計に腹立たしい。
私はしばらく、その場所をじっと見ていた。
黒服が関わると、ろくなことにならない。これは経験則。あいつの話はいつも現実味がなくて、でも妙に具体的で、だから質が悪い。
アテナくんは、多分あいつを知っている。
しかもだいぶ踏み込んだ距離で。
胸の奥が、じわっと重くなる。
あの子は、まだ来たばかりだ。アビドスの事情も、借金も、何も背負ってない。それなのに、あんな顔であそこに入っていった。
恩も義理も、何もないはずなのに。
「……何を考えてるのかなぁ」
砂を踏みながら、ゆっくり考える。
行き先なんて、ひとつしか思いつかない。黒服の拠点。あの趣味の悪い研究室みたいな場所。前に見せられたことがある、あれ。
私の神秘を欲しがってた。実験に使いたいって言ってた。報酬は借金の肩代わり。
アテナくんに、その話をしてないわけがない。
そして、あの顔だ。
……あーあ、これは厄介だ。
「……とりあえず、帰ろっかね」
ぽつりと呟いて歩き出す。
けど、足取りはやけに重いままだった。胸のざわつきが、なかなか消えてくれなかった。
■
《アテナ視点》
意識を取り戻して最初に戻ってきたのは、痛みだった。
視界でも、音でもなく、まず痛み。身体の内側から何かで掻き回されたみたいな、説明のしようがない鈍痛が、遅れてゆっくり輪郭を持つ。呼吸をしようとすると胸の奥が焼けるように熱くて、喉の奥に鉄の味が残っている。
ああ、生きてる。
最初に浮かんだのがそれだったのは、自分でもちょっとどうかと思うけど、仕方ない。あの状況でまだ意識があるってことは、たぶん失敗ではない。
ゆっくり目を開ける。
視界はぼやけていて、天井の輪郭が滲んで見える。焦点が合うまで数秒かかる。その間に、鼻に入ってきた匂いで状況を思い出す。薬品と金属と、あと血の匂い。
……血?
ゆっくり首を横に動かす。
床が、赤い。
点々じゃない。広がってる。べったりと、ちゃんと「流れた」形で床に残っている。
あ、これ俺のやつだ。
妙に冷静な感想が浮かぶ。たぶん、痛みのせいで思考の優先順位がおかしくなっている。怖いより先に、客観視が来ている。
身体を起こそうとした瞬間、全身に電気が走ったみたいな痛みが広がって、思わず息が詰まる。
「っ……!」
やばい。これはやばい。たぶん普通に重傷だ。
でも、生きてる。
それだけで、十分だった。
視線を横にやると、黒服がいつもの姿勢でこちらを見ていた。白衣でもなく、血相を変えるでもなく、いつも通りの黒服のまま、ただ静かに観察している。
その顔を見て、妙に安心する。
あ、この人落ち着いてるってことは、想定内なんだなって。
「……成功?」
声が、掠れている。喉が痛い。
黒服は答えない。
代わりに、ゆっくりと何かをこちらに差し出してきた。
鏡。
は?
いや、は? じゃないんだけど。いや、状況的にそれ出てくるタイミングおかしくない?
俺は痛みで震える腕を無理やり動かして、鏡を受け取る。手が血で滑る。鏡の縁に赤い指紋がつく。
ゆっくり、視線を落とす。
そこに映っていた顔を見た瞬間、痛みも、床の血も、全部すっ飛んだ。
「……え」
声が漏れる。
誰だこれ。
いや、俺なんだけど。
でも俺じゃない。
そこに映っていたのは、前世で見慣れた男の顔じゃなかった。輪郭が細くなっている。目が大きい。まつ毛長くない? え、なにこれ。鼻筋通ってない? 口元柔らかくない?
え、ちょっと待って。
「……かわい」
思わず口から出た。
鏡を持つ手が震えてるのは痛みのせいじゃない。純粋にテンションのせいだ。
「え、なにこれ。え、俺? これ俺? マジで?」
黒服は黙っている。
俺は鏡をぐっと顔に近づける。角度変えてみる。横から見る。目をぱちぱちさせてみる。あ、まつ毛やっぱ長い。なんだこれ。めっちゃ美少女じゃん。
「やば、え、ちょっと待って。想像以上なんだけど」
痛みどこいった。
いや痛い。めちゃくちゃ痛いけど、それより感動が勝つ。
黒服が、そこで初めて口を開いた。
「……あなたは元からその顔でしたが? 。ヘイローが無いことには、驚かれないのですか?」
俺は鏡から目を離さずに答える。
「ん?」
あ、そういえば。
頭の上、何もない。
けど。
「いや……それどころじゃない」
だって可愛いし。
マジで。
想定より三段階くらい可愛い。
「いや、え、すご。黒服すご。天才じゃん。ありがとう」
感謝が先に出る。
「? 私は何も……」
黒服はわずかに目を細める。
「神秘の定着は確認できました。しかし、ヘイローは発現していない」
淡々とした声。
でも俺はまだ鏡の中の自分から目が離せない。
「いやもうちょいこの顔堪能させてくれない?」
黒服が、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……実験の結果はよろしいのですか?」
だって仕方ないだろ。
死にかけて、血だらけで、身体ボロボロなのに、鏡の中の自分が理想の美少女なんだぞ? いや多分転生してからずっとこの顔だったんだろうけど! 。
テンション上がるに決まってるだろ。
俺がそう言った瞬間、胸の奥がズキンと痛んで、現実が戻ってきた。あ、痛い。普通に痛い。テンションで誤魔化してただけで、身体はちゃんと限界を訴えてる。頭の芯が熱い。手足が重い。喉の鉄の味が消えない。俺の体内、いま絶対に治安が悪い。
黒服は鏡ではなく、俺の頭上あたりを見ている。そこには何もない。何もないから、視線だけが気持ち悪い。
「ヘイローの件ですが……」
「あー、うん……それね」
正直、今の俺の優先順位は「可愛い」なんだけど状況が状況なのでちゃんと切り替える。可愛いはあとで何万回でも味わえる。生きて帰ったら、な。
「驚かないの? って言われてもさ……驚くタイミング逃したっていうか」
俺は自分の頭の上に手を伸ばしてみる。何かに触れる感触はない。空気しか掴めない。見えないヘイローでもあるのかと思ったけど、そういうロマンは無かった。
「……ないね。うん、ない」
黒服は小さく頷く。
「神秘は定着しました。しかし、あなたの在り方がまだ“物語”になっていない。ヘイローは証明です。証明するための、物語が足りない」
出た、物語。
こいつの口から出る単語って、どれも説明は分かるのに、背景が重い。軽く返せない。軽く返すと死ぬやつ。いやもう十分死にかけてるけど。
「じゃあ、神秘だけ手に入れて、ヘイローは保留って感じ?」
「簡潔に言えば、ええ、そうなります」
「最悪じゃないけど、最高でもないなぁ」
俺は鏡をちらっと見る。可愛い。うん。可愛い。最高。……いや違う、今は真面目に。
「ヘイローないと、やっぱり色々まずいよね。色彩が来たら即死って話じゃん」
黒服は少しだけ間を置いて答えた。
「“即死”は言い過ぎですが、致命的な状況になり得ます」
言い過ぎじゃないと思うけどな。あれ、画面越しでも怖かったし。現地で食らったら俺なんて背景のモブみたいに消える未来しか見えない。
「どうにかして“それっぽく”できない? 偽装とか。飾りでもいいから」
黒服は首を傾げる。
「可能です。ただしおすすめはしません」
「なんで?」
「不自然なヘイローは、目立ちます。あなたが隠れていたいのなら逆効果ですし、あなたが強くなりたいのなら遠回りです」
遠回り。つまり、正攻法は“物語を作れ”ってことだ。要するに生き様で証明しろっていう、いちばん面倒なやつ。
「……俺、今日だけで結構生き様したと思うけど」
「本日は“痛みに耐えた”だけです。物語とは、他者に語られるものです」
なるほど。自分で「俺ヤバいことした」って言っても物語にならない。誰かが「アイツやばいことした」って言い始めたら物語になる。つまり俺は、今から“噂にならないといけない”。何そのRPGの実績解除。
俺が頭を抱えようとして、途中でやめた。痛い。動かすと痛い。
「うわ、痛……え、これさ、帰れる? 歩ける?」
黒服は淡く光る器具を置き、こちらへ一歩だけ近づいた。今さら優しくされると逆に怖い。
「歩けます。ただし、転倒すると危険です」
「転倒しなくても危険だろ。床見てみろよ。俺の血の存在感がすごい」
黒服は俺の言葉をスルーして、手際よく布と何かの薬を用意し始めた。手当て、というより最低限の“保全”に近い。雑じゃないけど、優しさとも違う。壊れ物を梱包する手つきだ。
「あなたは戻るべきです。早く。周囲に不審を抱かせないために」
「だよねぇ……」
アビドスに戻って、普通の顔して「おはよー」って言わなきゃいけないんだろ? 床が血だらけの後に? 無理だろ。俺のメンタルが演技派俳優じゃない。
「……ホシノとか、絶対勘いいじゃん。バレない?」
黒服は、ほんの少しだけ目を細めた。
「“勘”は、時に記録より強い。あなたが無理をすれば、気づかれます」
うわ、それ嫌だ。ホシノ先輩に「何したの?」って柔らかく聞かれて、誤魔化しきれずに詰む未来が見える。詰むし、多分心配される。心配されるのが一番刺さる。罪悪感って、銃弾より痛いんだよな。
「じゃあさ、どうすりゃいい」
黒服は淡々と、でもどこか“助言”の温度で言った。
「クックック……痛みを我慢すれば良いだけの事ですよ」
……それ、助言っていうか根性論っていうか、今の俺に一番刺さるやつなんだよな。言ってること自体は間違ってない。間違ってないけど、俺は今、床に自分の血で地図を描けるくらい流してるんだぞ。痛みを我慢って、レベルが違う。『眠いのを我慢して宿題やる』のテンションで言うな。
「それだけで済むなら、こんなに世の中楽じゃねぇよ……」
声に出したつもりが、掠れてほとんど息みたいな音になった。喉の奥がひりつく。呼吸するだけで胸の奥が熱い。あ、これ本当に身体がキレてるやつだ。俺の内臓、今どこかで会議してる。議題は『こいつを生かす価値があるか』だ。頼む、可愛いは正義だから生かしてくれ。
黒服は俺のぼやきに付き合うでも笑うでもなく、必要な道具を必要な順番で片付けていく。あまりに手際がいいせいで、逆に腹が立つ。慣れてるってことだろ。こういう“後始末”に。俺が聞きたくないタイプの慣れ方。
「無理をするな、という意味です」
「いや、それを今言う?」
思わず口が滑った。言った瞬間に胸がズキンと痛んで、俺は顔をしかめる。あーあ、ツッコミに体力使うな。ツッコミってコスパ悪い娯楽だったんだな。知らなかった。
黒服は淡く頷く。
「あなたが倒れた場合、アビドス側は不審を抱きます。あなたの“変化”は記録に溶け込みましたが、あなたの“損傷”は溶け込みません」
「記録と損傷を分けて考えるな……こっちはワンセットだよ……」
俺は鏡を握り直す。血で滑って、指先が冷たい。鏡の中の顔が、さっきより少し青白い。それでも可愛い。いや、可愛いけど青白いのはやめろ。美少女が青白いのは物語的に死亡フラグなんだよ。物語は足りないけどフラグは立つな。
「じゃあ……寝込む演技でいくか」
「演技ではありません。事実です」
「うるせぇ、そういうのは優しさで流してくれ」
黒服はほんの少しだけ口元を緩めた。今の、笑った判定でいい? いいな。あいつの笑いって希少種だから、見れたら幸運ポイント入るタイプだろ。
「アビドスへ戻り、休息を取ってください。あなたがここに来たことは、あなたと私の間の記録に留めるべきです」
「それ、ホシノの勘に勝てる?」
黒服は即答しない。視線がわずかに動く。俺の頭上、何もない場所をもう一度見て、次に俺の目を見る。こいつ、答えを出す時に微妙に“間”を作るのが上手い。嫌な間じゃない。こっちに飲み込ませる間。……なのに言う内容はいつも物騒。
「勝てません」
「だろうな」
俺は笑いそうになって、痛みで咳き込みそうになってやめた。勝てません、をこんな落ち着いた声で言えるの、逆に誠実すぎる。誠実な悪役みたいなやつだな。悪役かどうかはまだ保留だけど。
「だからこそ、“何かあった”程度にしてください。“黒服に会った”まで辿り着かせてはいけない」
なるほど。隠すなら全部じゃなくて、段階を用意する。ホシノに気づかれたら「体調が悪い」で止める。追及されたら「どこかで転んだ」くらいで止める。核心は飲み込んでおけ、と。俺はそういう小賢しい立ち回り、嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、今の俺は小賢しくする体力がない。
「……俺、喋り方でバレそう」
「なら、喋らないことです」
「うわ、最適解が雑」
俺は身体を動かそうとして、ほんの少しだけ身を起こした。全身が抗議する。視界が一瞬白くなる。やばい、これ本当に転倒したら終わるやつだ。俺は踏みとどまって、ゆっくり呼吸を整えた。こんな時に“落ち着きすぎた黒服の空気”が、ちょっとだけ役に立つのが腹立つ。
黒服は俺の様子を見て、淡々と結論を出す。
「……今、戻します」
「え、いま? 心の準備とか……」
「必要ありません。あなたは既に耐えました」
いや、耐えたのは“実験”であって、“帰宅”じゃないんだよ。帰宅って地味にしんどいんだぞ。特に血だらけの帰宅は。
俺が文句を言おうとした、その前に。
黒服がゆっくりと手を上げた。
「あ、その前に服洗濯しない? 血だらけなんだけど……」