『1km』
休日のミレニアム自治区。待ち合わせ場所であるカフェのテラス席で、ヒマリは優雅に紅茶を嗜んでいた。
私が最寄り駅から歩いてきた旨を示すスマートウォッチの画面を無言で見せると、彼女は手元のティーカップをソーサーへそっと置いた。
「あら、先生。少し息が上がっていると思ったら……はぁ」
画面を一瞥し、ヒマリは呆れたように小さくため息をつく。
「1km、ですか。現代社会において、わざわざ自らの二本の足で重力を感じながら1000メートルも移動するなど、私のような超天才清楚系病弱美少女には到底理解し難い蛮行ですね」
車椅子のひじ掛けに頬杖をつき、彼女はクスッと可笑しそうに微笑んだ。
「文明の利器を使えば数分の距離を、無駄なカロリーを消費して移動する……ふふっ、先生のその原始的なバイタリティには、ある種の愛らしさすら感じますよ。さあ、冷たいお水でも飲んで、早くその野蛮な心拍数を落ち着かせてくださいな」
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『10km』
別の日。ミレニアムの郊外にある研究所での待ち合わせ。
少し汗を滲ませながら到着した私は、タブレットを操作しているヒマリに対し、シャーレのある隣の自治区から10kmほど歩いてきたという移動ログを提示した。
「お待ちしておりましたよ、先生。……なんだか、前回よりもさらに疲労困憊といったご様子ですが? まさかまた、奇妙な運動でも……」
言葉の途中で私の提示したログを見た瞬間、ヒマリのタブレットを打つ指がピタリと止まる。
「……はい? 10km? 冗談ですよね?」
ヒマリの切れ長の目が、信じられないものを見るようにスッと細められた。
「それは人類が『車輪』という偉大な発明をする以前の移動距離ですよ? 先生はご自身の肉体を何だと思っているのですか? わざわざアスファルトの熱射を浴びながら10キロも歩行するなんて……正気の沙汰とは思えません」
彼女は手元のタブレットを置き、私の足元をジッと観察してから首を振った。
「とりあえず、私の車椅子の後ろに掴まってください。そのまま引きずって救護室まで連行してあげますから」
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『42.195km』
さらに別の日。私はボロボロの靴を引きずりながら、指定された待ち合わせ場所であるミレニアム中央広場に現れた。
そして、フルマラソンに相当する42キロという道のりを踏破してきた証拠として、再び無言でスマートウォッチの記録をヒマリの目の前に突きつけた。
「先生……? あの、どうしてそのような、遭難者のような風貌で現れたのですか? 服は泥だらけですし、足元が完全に生まれたての子鹿のようですが……」
訝しげに眉をひそめていたヒマリだったが、画面の恐ろしい数字を見た瞬間、ウィーンとモーター音を鳴らして車椅子を数メートル後退させた。
「……42キロ。もはや狂気ですね」
彼女の顔には、もういつもの余裕のある微笑みは微塵もない。明確な「引き」の感情が浮かんでいた。
「先生は古代ギリシャの伝令兵か何かなのですか? それとも、シャーレはついに交通費の支給すら打ち切るほどの深刻な財政難に陥ったとでも? もしそうなら、この私がミレニアムの予算から先生専用のセグウェイを支給して差し上げますから、今すぐその無意味な苦行をやめてください。見てるだけでこちらの関節まで痛くなってきそうです……!」
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『100km』
数日後。私は山を越え、谷を越え、ボロボロのサバイバル装備でヒマリの待つ廃墟へと辿り着いた。
挨拶もそこそこに、キヴォトスの端から100km以上の険しい道のりを徒歩で踏破してきた手書きのルートマップを渡す。
「……100km?」
ヒマリは手渡されたマップの数字と、私のボロボロの姿を交互に見比べた。その口元が、微かにひきつっている。
「100? 100、ですか? 10の間違いではなく? ゼロが二つ? 百キロメートル? 約10万メートル? それを、徒歩で?」
壊れたレコードのように連呼して確認したあと。ヒマリの顔から、一切の表情がスッと消え失せた。
「……ドン引きです」
冷や汗を流しながら、彼女は車椅子のレバーを倒し、私からさらに大きく距離を取る。
「ええ、比喩表現でも何でもなく、物理的かつ精神的に引かせていただきました。なぜですか? なぜ文明を捨てたのですか? その距離を歩いて私に会いに来て、私が『まあ、情熱的!』とでも喜ぶとでも?」
ヒマリは胸の前で両腕を交差させ、自分を守るような姿勢をとった。
「いえ、微塵も思いません。ただただ怖いです。純粋な狂気です。距離感がバグっているにも程があります。少しあちらへ行ってください、汗の匂い以前に、あなたのその底知れぬ狂気が恐ろしいです」
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『500km』
──そして現在。
私はついに、キヴォトス外縁部から大陸を横断するレベルの距離、およそ500kmを「ただの徒歩」で踏破し、ヒマリのいる部屋へと帰還した。
靴底は完全に消滅し、裸足である。満身創痍のまま、私は長旅でひび割れ、カンストしてしまった万歩計をそっと彼女のデスクに置いた。
万歩計のバグった数字を見たヒマリは、もはや悲鳴すら上げなかった。
「…………」
ただ静かに、深々と、この世の終わりのようなため息をつく。
「……先生。お願いですから、もう帰ってください」
声のトーンは完全に冷え切っていた。彼女は私と目を合わせようともしない。
「いえ、帰りの交通機関も使わずにまた歩くつもりなら、ここで警備ロボットを呼んで強制的に車両に押し込みます」
ヒマリは静かに車椅子を反転させ、完全に私へ背を向けた。
「……完全にドン引きしました。あなたへの好感度とか信頼とか、そういう次元の話ではなく、一つの知的な生命体として、本能があなたを激しく拒絶しています。人間の尊厳を捨ててまで歩行に執着するその姿、同じ二足歩行の霊長類として恐怖すら覚えます」
背を向けたまま、ヒマリはポツリとこぼした。
「二度と私の前で『歩いた』という事実を突きつけないでください。私の天才的な頭脳が『キヴォトスの交通機関は不要』というバグった結論を出してしまいそうですから……夢に出そうです、本当に」
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終わり
「ん、先生が最近痩せた」
「お金が無くて食事制限も必要だし、運動もしたからね」
「ん、私ともキヴォトス横断をするべき」
「しょーがないなぁシロコはぁ」