『一旦守る』
給食部の厨房。私はフウカの指導のもと、鍋で煮込んでいるスープの味付けを手伝っていた。
「はい、先生。そこでお塩を小さじ一杯、ちょうどすり切りで入れてくださいね」
私はフウカの指示通り、計量スプーンを使って正確に小さじ一杯の塩をすくい、丁寧に鍋へと入れた。
「完璧です! 先生、案外手先が器用なんですね。この調子なら、美味しいスープができそうです」
フウカは嬉しそうに微笑み、お玉でスープをかき混ぜながら味見をして、満足げに頷いた。
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『ちょっとはみ出ちゃう』
次の工程。今度は炒め物の味付けだ。
「次は、お醤油を大さじ二杯です。こぼさないように気をつけてくださいね」
私は慎重に醤油瓶を傾け、大さじスプーンに注いでいく。しかし、最後の一滴で手が僅かにブレてしまい、スプーンの縁からタラリと醤油がこぼれ落ち、そのままフライパンの中へ入ってしまった。
大さじ二杯と、ほんの少しの超過。
「ああっ、先生! 少しこぼれちゃいましたよ!」
フウカが慌てて火を弱め、木べらで全体を素早く混ぜ合わせる。
「……まぁ、これくらいなら許容範囲内です。少し味が濃くなるくらいですから、ご飯が進むおかずだと思えば……。次からはもう少しだけ、慎重にお願いしますね」
フウカは少しだけ眉を下げながらも、優しいフォローを入れてくれた。
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『一杯分多く入れてみる』
さらに別の料理。大きなボウルでハンバーグのタネを捏ねているフウカの横で、私はスパイスの調合を任されていた。
「先生、そこにおろしニンニクを小さじ一杯入れてもらえますか? 隠し味なので、入れすぎると風味が強くなりすぎちゃうんです」
私は小さじでニンニクをすくう。しかし、なぜか私の手は止まらず、無言のまま「小さじ二杯目」をボウルへと投下した。
「えっ……? せ、先生? 今、二杯入れませんでしたか?」
フウカの手がピタリと止まる。
「気のせい……じゃないですよね。思い切り二杯目を入れてましたよね? どうしてですか? 私の『小さじ一杯』という日本語が、先生の脳内で『大さじ一杯』くらいに変換されたんですか?」
私は無言で、ボウルの中のタネを指さす。
「指さしてもダメです! さては先生がニンニク好きなだけですね!?」
ニンニク美味しいじゃん……。
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『瓶のふたが外れて多く入っちゃう』
そして仕上げの特製スープ。味を調えるため、フウカから粗挽きコショウの小瓶を渡された。
「最後に、コショウを『三振り』だけお願いします。風味が強いので、絶対に入れすぎないでくださいね」
私は真剣な表情で頷き、鍋の上で瓶を傾け、慎重に振った。
──一振り。二振り。
そして三振り目。軽く手首をスナップさせた瞬間。
無情にもコショウの中蓋が外れ、小瓶の中身がどんどんあふれてしまう。
私は急いで小瓶を垂直に戻し、中身の流出を抑える。その小瓶を持ったまま、完全にフリーズする。
「────────ッ!!??」
フウカは顔面蒼白になり、悲鳴すら上げられずに目を見開いていた。
「ま、混ぜないで!! 先生ストップ!! そのまま!!」
私が咄嗟にお玉でかき混ぜて誤魔化そうとするのを、フウカが半泣きの凄い剣幕で必死に押さえ込む。
「なんで三振り目で中蓋が取れるんですか!? ああっ、スープに溶けちゃう! 早く上の部分だけすくわないと!!」
フウカは慌ててスプーンを何本も持ち出し、沈みゆく黒い山を必死に救出し始めた。
「先生、今わざと混ぜようとしませんでした!?」
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『It's My……』
気を取り直して、最後のメニュー。大鍋で煮込まれた大量のミートソースだ。
「……先生。最後は、コク出しのために粉チーズを少しだけ入れます。……いいですか、少しだけですよ? 今度は中蓋もちゃんと確認しましたからね」
警戒度MAXのフウカから、大容量の粉チーズのボトルを手渡される。
その瞬間。私のスマートフォンから、突如としてそこそこなテンポのロック楽曲を爆音で流し始めた。
「えっ? 先生、急に何ですかこの音楽……」
私はフウカの戸惑いを無視し、厨房のど真ん中で無言のまま大胸筋をピクつかせ、力強い「サイドチェスト」のポーズを決めた。
「せ、先生!? なんで急にボディビルダーみたいなポーズを……!?」
フウカは筋肉に驚いている。この日のために鍛えた甲斐があった。
続けて「フロントダブルバイセップス」で上腕二頭筋をアピールする。
腹を揺らすようなドラムの音が鳴り響く中、私は粉チーズのボトルを握りしめたまま、曲が一番の盛り上がりを見せる『サビ』の直前で動きを止めた。
そして、サビへの突入と同時。
「ヤァァァァァァァァァァァァァァァイッ!!!!」
私は裂帛の気合とともにボトルのフタを丸ごと外し、ボトルの口を鍋に向けて全力で振り下ろした。
ドバサァァァァァァァァァッッ!!!!
一瞬にして、鍋の中に大容量の粉チーズの全量が迷いなくぶち込まれ、赤いミートソースの上に巨大な黄色い山脈が形成される。
「…………」
フウカは絶句した。
カランッ……。
彼女の力ない手からお玉が滑り落ち、床に虚しい金属音を響かせる。
私は粉チーズの空容器を真っ逆さまにしたポーズのまま、筋肉を硬直させて微動だにしない。
音楽のサビだけが陽気に響き渡る中、チーズの粉塵が舞う厨房には、ただただ重く冷たい、完全な沈黙の空気が流れていた。
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終わり
「珍しいですね、先生からトレーニングのコーチをお願いされるなんて」
「短時間でパンプアップするなんて、スミレにしかお願いできないからね」
「食事の栄養バランスが絶望的です……」
「それは言わないで、お金ないの……」