機動戦士ガンダムSEED FREEDOM 〜Crimson Temptation〜 作:ズレス
「……この時が来ましたね」
闇の中、金色の髪の少年が小さくつぶやいた。
「うむ。あの者どもらは間もなく此処に訪れる」
それを受け、少年より更に小柄な少女ーー幼女。否、幼女の姿をした者は、鷹揚に頷いた。そして、続ける。
「お前の
「……」
その言葉を受け、少年は顔を苦々しく歪めた。そんな彼の顔に、女は手をやり撫で付ける。
「そのような顔をするでない。すでに準備はできておる。お前も知っての通りにな」
「……あの女、ですか」
「そうじゃ。ついに役に立ってもらう時が来た。……せいぜい、溺れてもらおうではないか。かつて愛した女とやらにな」
「ええ。……愛した女に、ですね」
ちらりと視線をよそに向ける二人。果たしてそこには、一人の女が佇んでいた。少年よりも少し年上の、子供の枠を抜け出し、いままさに大人の女になろうかという年頃の女性。そして、逆に言えば大人になりきれぬはずのその全身から、それでもあからさまな女の色香というものを漂わせている女。それを見ながら、幼女の姿をした者は悪意に満ちた顔を浮かべて告げる。
「そういう訳じゃ。出番じゃぞ、我が義娘。せいぜい、あの男を可愛がってやるがよい」
「……はい」
それに、女は頷いた。
闇の中。
その刹那に女が、決然とした顔をしていたことは、他の二人には全く見て取ることは出来なかった。
機動戦士ガンダムSEED FREEDOM
〜Crimson Temptation〜
GAT-X105ストライクが、戦場を駆ける。
宇宙を飛んだ。デュエルやイージスといった他のGシリーズと戦った。
大気圏を掠めた。シャトルの撃墜を目の間に見せつけられる。
地上に降りた。今、砂漠の虎を討ち取ろうとしている。
キラ・ヤマトはストライクガンダムのコクピットの中で戦い続ける自分を、まるで自分自身の守護霊であるかのように外から見つめ続けていた。
(ああーーまた、この手の夢か)
縦横無尽に戦い続けるストライクを見ながら他人事のように、キラは感じた。
この手の夢を、前々から多々見ることがあったのだ。昔の戦闘のリフレイン。過去の記憶の再上映。
モビルスーツに乗って戦う昔の自分を、浮遊霊の様な状態で、今の自分が見つめ続ける。そんな夢だ。夢を夢と自覚しているのだから、一種の明晰夢でもあるだろう。
こういう夢を見たとき、できることはただ、それを見守り続けることだけだ。見られている側の
スタートしてから暫く経つと、電源が落ちたみたいにこの夢はぷっつりと切れて暗転する。そしてもうしばらくすれば目が覚める。
スタート地点はランダムだったが、不思議なことに、フリーダムに乗って以降のことを夢に見ることはほとんどない。映っているのは、ストライクに乗っている頃の自分だけだった。今回の夢のスタート地点はヘリオポリスの崩壊から間もなくだったから、きっとそろそろ終わりを迎える頃だ。
と、目の前で、ストライクのナイフ、アーマーシュナイダーがバルトフェルドのラゴウを貫く。戦闘終了。コクピットの中のキラは絶叫を上げる。
『殺したくなんかないのにーーーー!!!!!!!』
(……。本当に……そうだ……)
泣き叫ぶ過去を見ながら、キラは目を伏せる。
そして、更に場面は流れーーアークエンジェルが砂漠を進む。記憶が正しければ、これから間もなく海に出るところだ。
(じゃあ次は、あの戦いか)
海中で、ザフトの水中用モビルスーツであるグーンとゾノと戦ったとき。きっとそれが上映される。そう思うキラ。
だが。
(……え?)
思わず、目を見開く。
アークエンジェルが、砂漠を抜けて海に出た。……いや、出たはずだった。眼の前には、紺碧の海が広がるはず……だったのだ。だが、そこに蒼い色などまったくなかった。
真紅。
赤。
真っ赤な液体が、あたり一面に広がっていた。
海が、まるで、全て血になっていたかのように。
「何だよこれ!???」
思わず叫びを上げるキラ。こんな日現実的な光景、この時もこれ以降でも、見たことなど一度もない。そして、同時に気づいた。
視線を自分自身に落とす。
薄着の姿。視線を巡らす。海が赤いことを除けば、場所は記憶そのもののアークエンジェルのデッキの上。そこの壁際の地面に座り込んでいたようだった。
間違いない、これは海に出てすぐ、ここでカガリと語らっていたときだ。コーディネイターのこと、ナチュラルのこと。カガリに抱きしめられ、そして話に付き合ってもらっていたとき。敵部隊が攻撃を仕掛けてくる、少し前のことだ。
だが、カガリが、いない。
このとき間違いなく傍にいたはずのカガリが、今はいない。
「どうしてーーッ!?」
動揺しながら頭を抱えるキラ。隣に誰も居ない。夢の中だというのに、それがどうしようもなく心細く感じられた。
そして。その時。
声が、聞こえた。
「キラ、こんなところに居たの?」
以前と同じ、セリフ。聞き覚えの、ある声。
「! フレッ……」
慌ててそちらを振り返るキラ。
この声を、忘れるはずもない。
フレイ・アルスター。この時点での恋人……と言っていいのかわからないが、とにかく肉体関係にあった相手……の声。守るべきだった、けれど、守りきれなかった相手。ラウ・ル・クルーゼに殺された少女。
ここでは彼女がこの後、わざとらしいポーズで胸を見せつけ、自分を誘惑し、カガリを呆れさせる……そんな展開だったことをキラは記憶していた。きっとその時と同じ格好、同じ姿をしているはずだと、信じて振り返る。
その瞬間。
「……ぇ?」
思わず、凍りついた。
そこには確かにフレイが、居た。顔立ちから、彼女だということは、分かる。
だが、体つきは記憶の中の彼女と大きく変わっていた。
まず、背丈からして大きく伸びている。以前のフレイの身長は、160cm前半。キラよりほんの少しだけ小さかった。たが今の背丈は恐らく、175cm以上。4年前はもちろん今のキラよりも更に背が高い。髪は以前よりも艶を増し、更に伸びている。かつては肩ほどまでだったのが、腰にまで届いている。顔立ちも少し、大人びたように見えた。
だが。そんなことより。そんなものは、誤差だといえるレベルで……体つきが、変わっていた。以前よりも遥かに色気と呼べるものが増えている。以前もフレイはスタイルが良かった。だが、それにも増して色気が溢れていた。腰つきのくびれ、指の長さ、手の細さ。だが、特に。
「ふふ……♡ どこ見てるの♡」
「ぁ……ぅ……」
自分の視線がそこに吸い寄せられていたことを自覚し、慌てて目をそらすキラ。
胸。
このシーンがリフレインしたときにも、わざとらしく見せつけられていた……彼女の、胸。
フレイの胸は、4年前の時点で相当な大きさで、同年代の女子の中でも一際だった。だが今はその当時とすら比にならないほど大きい。
服装は、そんな胸を強調するかのように前を開いた薄紅のドレス姿だ。高貴な雰囲気と淫靡さを両立させたデザインの、所々に金の縁取りが施された薄紅色のドレス。
或いは、キラがストライクに乗っていた頃から現在までの時間、つまり4年をかけて体つきが更に成熟すれば、こういう姿になるのかもしれなかった。
そして、だからこそキラは戸惑った。
どういうことだ。
これは過去の記憶のはず。
ならなぜ、自分が見たこともない姿のフレイが現れるーー?!?
「キラ……。私、貴方を待っているわ」
「え?」
唐突に聞こえてきたフレイの言葉。
ーー待っている?
全く想定していない言葉だった。
「貴方はきっともうすぐ、自由になれる。私が自由にしてあげる。もう少しで……貴方を、何もかもから解放してあげる」
「フレイ、それは、どういうーー!!?」
と。突然、びゅごおおおおお、と、音を立てて風が吹く。それによってか、周辺の紅い液体……紅い海水が巻き上げられる。甲板上に紅い飛沫が舞う。それは血のようでもあり、或いは、花弁のようでもあり、または、フレイ自身のようでもあった。
「キラーー。私のキラ。貴方は、必ず……」
ごうごう、ごうごう。
フレイが言葉を紡ぐ間にも、風はますます強くなる。フレイは何かを呟いているようだったが、それももう聞こえなくなってきた。飛沫が目に飛び込んでくるせいで、瞼を開けているのも限界だ。
「フレイ! フレイ!! フレッ……」
「ーーキラ!」
「はっ!?」
スーパーミネルバ級MS惑星強襲揚陸艦ミレニアム。その一室で、オーブ軍准将キラ・ヤマトは眠りから覚醒する。自分を呼び覚ました声の方を見る。そこに居たのは、ラクス・クライン。コンパスの総帥であり、キラの恋人だ。彼女は部屋の入口近くから、心配そうにベッドに横たわるキラを見つめていた。
「キラ。大丈夫ですか? ずいぶん魘されていたようですが……」
「あ……う、うん。どうも、良くない夢を見たみたいだ……」
頭を抱えるキラ。夢の内容は、薄ぼんやりしていて思い出せない。昔のことを夢に見ていたような気もするのだが、同時にそれだけでもないような感覚だった。誰か。誰かと、会っていたようなーー?
「大気圏突入は完了しました。もうすぐファウンデーション王国です。アウラ女王との面会もありますから、準備を……」
と、ラクスの告げる言葉に時計を見る。仮眠からの起床予定の時間を過ぎていた。ラクスはそれを心配してきてくれたのだろう。その優しさがキラの心に沁みる。
「う、うん。もちろん」
ラクスに返事しつつベッドから起き上がるキラ。
だがそうしているさなかにも、彼には妙な胸騒ぎがあった。
良いことと悪いことが、混ざり合って起きそうな。そんな、予感が。
そして、その後、ミネルバは先行していたアークエンジェルと合流し、ファウンデーション王国に入国した。ヘリポートにて出迎えた宰相オルフェ・ラム・タオらと挨拶を交わす。何処かぼうっとするラクスに、キラは声を掛けた。それによってラクスは我に返り、オルフェは彼女を先へと促した。
その、刹那。
(邪魔なやつだ。……まあ、
「!?」
キラの脳裏に、悪意の声が閃いた。
その後、一行は王城の謁見の間へと案内される。
彼らを出迎えるのは、ファウンデーション王国の女王アウラ・マハ・ハイバルだった。コンパスの行動を労う彼女に、一行は頭を下げた。
そして、アウラは。
「うむ。ささやかながら歓談の席を設けさせてもらった。そこでそなたらの話を聞かせてほしい……が、その前に少し時間をくれまいか? お主らにあわせたい者がおるのだ。特に、キラ・ヤマト准将殿にな」
キラを見て、そんなことを言った。平静な視線。だがその裏には、限りない愉悦が滲んでいることを、傍らに立つオルフェたちは知っていた。そして彼らもそういう愉悦を胸に秘めていた。
これで、この男は終わりにできる。
ーーかつん、かつん。
廊下を、ヒールの靴音が響く。分厚い扉に遮られ、それは向こう側には届かない。彼女自身が唯一人、自分が立てるその音を聞いていた。足取りは軽い。喜びで胸がいっぱいだった。
ーーかつん。
足が止まる。
「ふふ♡ ……やっとだわ……♡」
甘い声が零れる。真紅の髪をかきあげた拍子に、大きな乳房が怪しく揺れる。まるでかつて、ラクス・クラインの座を奪った
「会わせたい者……?」
「お主に縁の深い者だ。以前に我々のほうで
訝しげなキラにアウラはよどみなくそう返すと、謁見の間の横にある、大きく重厚な両開きの扉の方に向かって、声を掛ける。
「入るが良い!!」
ぎいいいい。低く重い音。扉は両側に控える兵士の手によって開かれ。
そこに佇んでいた者が、間から入ってきた。
露出の大きなドレス姿。大きな胸元やつややかな背中が顕になっていた。
年の丈は20に少し届かないかの頃、つまりキラと同年代。だが身長はキラよりもやや高い。発育の良さも相まり、顔立ちを除けば20代半ばにさえ見えるだろう。
そして、鮮やかな色合いの紅の髪。
「……、え……!?」
「おい、まさか」
一瞬の沈黙を挟み、声を上げたのはマリューとムウだった。
彼らはそれが誰なのかを知っていた。身長は大きく伸び、体つきも別人にさえ見えたが、顔立ちには成長してもなお明らかに見覚えがあったからだ。
(え、誰……? マリューさんたちは知ってるのか?)
(すっごい美人……。背、高……)
(何あれ)
そして、シンは全く記憶にないその人影に戸惑いつつも、ムウたちのリアクションに気を取られ。
ルナマリアは純粋にその外見に感心した。同じ女性である彼女から見てみても、そのプロポーションは凄まじかったからだ。
アグネスは明らかな不快感を覚えた。理由そのものはルナマリアの感心と同じだった。
「貴方は……!?」
そして、ラクスは驚愕で声を漏らした。ムウやマリュー同様に彼女の顔を知っていたし、彼女が
最後に。
キラは。
「……ぇ……ぁ……」
絶句し、全てを忘れて呆然としていた。
彼女のことを、四年間、忘れることはなかった。
記憶が蘇る。あらゆるトラウマが噴出しながら、彼の頭を蹂躙する。
「そ……んな…………」
それ以上に、今、この瞬間に思い出す。
今朝の夢の内容を。
「まさ、か。まさか、本当に……!?」
正夢だったのか。そんな言葉が喉元に引っ掛かる。
真紅の髪の少女ーー否、
夢に見た彼女が、今、目の前にいた。
そして呻きながら混乱を増していくキラと入れ替わるようにしてやっと混乱を脱したマリューが、叫ぶように彼女の名を呼んだ。
「貴方なのーー
そう。
そこに立っていたのは、フレイだった。
ヤキン・ドゥーエの戦闘で爆死したはずのフレイ・アルスターが、キラが夢に見たその姿のままで、そこに立っていた。
そして、その声を受けてから、フレイは、謁見の間を歩き、一行のもとに歩む。
「はい。お久しぶりです、ラミアス艦長。フラガ少……ごめんなさい。今は大佐でしたよね。本当に、お久しぶりです」
フレイはにこやかに笑いながら二人へと会釈する。水を向けられたムウは、狼狽しながらも彼女に問う。
「あ、ああ。だが……本当なのか? 本当に……?」
「偽物じゃありませんよ。そう言うフラガ大佐だってご無事じゃないですか」
くすくすという鈴を鳴らすような笑い。そしてフレイは今度はシンたちザフトからの出向組……つまりは初対面の三人……へと向き直る。
「はじめまして。フレイ・アルスターです。以前は地球連合軍のアークエンジェルのクルーでした。今はこの国で政務官の立場にいます」
その言葉に、シンは反射的に声を出していた。
「アークエンジェルの!?」
「シンッ、声大きいっ」
「あ、ご、ごめん……なさい」
ルナマリアの掣肘に声をすぼませ、頭を下げるシン。それにフレイは頷く。二人のやり取りを横から見ながら、アグネスは訝しむ。
(政務官って……結構な立場よね……? 確か大臣の補佐役とかいう……。連合のクルーって、ナチュラルじゃないの……?)
「? ……ふふ……」
そんなアグネスにフレイは視線を向け、静かに微笑んだ。その微笑みに何処か底知れぬものを感じ、アグネスは思わず顔を少しだけ仰け反らせた。それまで自分を最も強い肉食獣だと思っていた個体が、明らかに自分より強い肉食獣に出くわしたら、もしかするとそういう対応になるのかもしれなかった。
そんなアグネスを横目に、フレイは今度はラクスに向き直ると、腰をかがめる。否、腰だけはない。全身をかがめ、片膝を突いた。
「え……」
戸惑うラクス。フレイは文字通り、跪いたのだ。ラクスの、その目の前で。紅の髪が床にまで接した。
「ラクス・クライン総帥。この場にて、かつての無礼を謝罪します。貴方と初めてお会いした時……この私の個人的な感情によって貴方の身の安全に大きな危険を齎しかけ、お心を乱したことを。誠に申し訳ございません」
その言葉が示すのは、フレイとラクスが出会ったときのこと。
ラクスが保護されたアークエンジェルの目の間で、彼女の父親ジョージ・アルスターが旗艦に同乗する艦隊がザフトに攻撃を受けた。その際、彼女はラクスを人質にして、ザフトに彼女を殺されたくないなら攻撃をやめさせるように言えと進言したことがあったのだ。その時の行動と言動を、フレイは今、公的な立場とイベントの最中で、跪くことで謝罪した。
当然ながら、これを受け入れないという選択肢はラクスにはなかった。当時の彼女の行動は心理的に理解できないでもなかったし、仮に反感があったとしてもここで意地を張って突っぱねれば今後の作戦行動にどんな支障が出るかわかったものではない。リアクションなど、最初から一択だった。
「い……いえ……。どうか、頭をお上げください」
「ありがとうございます。……最後に……」
立ち上がるフレイ。
そして。彼女は、最後の一人へと向き直る。
向き直り……破顔した。心からの笑顔を浮かべ、キラ・ヤマトの間近へと歩み寄る。
「キラ。久しぶり♡ 元気だった?」
にこやかな顔は、かつての時に仄かに感じた険をしかし、感じさせない。漂う香りは甘く、キラの鼻孔はそれを吸うだけで、何処か心が落ち着いていくような感覚を彼に齎した。その感覚でやっとのこと混乱をほんの少し押さえ込み、震える声でキラは尋ねる。
「フレイ……。本当に……本当に、君……なのか……?」
「もう。キラまで私のこと偽物扱い? ……ほら」
言ってフレイは。
ぎゅう、と、キラの手を握って、目の前に掲げた。キラの手に、実在のぬくもりが伝わってくる。
そしてぬくもりが伝わったのを確認したか、フレイは手を放して、キラより少し高くなった背丈をわざと屈め、上目遣いになって言う。
「ね? ……生きてるでしょ?」
「ッ……!!!」
キラは身震いし、一歩近付こうとして、まるで足をもつれさせるかのように踏みとどまった。腕をあげかける肩を、意志の力で抑え込むようにして高さを留まらせる。
それは明らかに、フレイを抱きしめようとして、途中で止めるという行動だった。
「……ッ」
その中断に、彼らの視界から既に外れていたオルフェは口元を歪め、誰にも聞こえぬ舌打ちをした。
そしてそんなキラの姿に、やっとマリューは衝撃を完全に脱して、アウラへと向かって問いを投げた。
「ハイバル陛下。これはどういうことなのですか!? 何故彼女が此処に!? いえ、それ以前に、どうしてッ」
「何故生きておるのか、じゃろう? 当然の疑問じゃ」
言って、アウラはオルフェと自分を挟んで反対側に立つシュラの方に視線を向ける。
「彼女を救ったのはこのシュラじゃ。当時此奴はユーラシアの部隊に所属し、あのヤキン・ドゥーエの戦いでも特殊な任務に従事しておった。その中で漂流中の彼女を発見し、救助したのじゃ。……非常に危険な容態であったが、当時試験中だったこの国の最新の医療技術を用いることで、辛うじて一命は取り留めた。
「見つけた者として率直に言うが、生命があっただけでさえ奇跡だと感じている。そういう状態だった」
アウラの言葉に付け足し、マリューたちに述べるシュラ。
「そうでしたか……ッ、いえ、ですが!」
二人の声にマリューは一瞬納得しかけるが、しかし次の疑問が生じた。
発見が四年前、歩けるようになったのが三年前。どちらにせよ、当時のファウンデーション王国はまだ独立はしていなかったはず。つまり、ユーラシア連合の一部。であるのなら。
「彼女は立場上地球連合軍の軍人だったはず! その生存を確認されていたのなら、何故連絡を」
「連絡?
そのマリューの疑問を、アウラは一刀両断した。
「お主も良く知っていたはずだ。この四年間、地球連合軍というのがどういう組織だったのかは。そんな場所に、穏健派とはいえブルーコスモスである父親をザフトに殺され、あまつさえ自分自身すらも殺されかけた見目麗しき少女が生き延びていることを知らせよと? そして戻せと? そうなれば
戻していたら確実にプロパガンダのために利用されていた。アウラは言外にそう言い切った。その内容にマリューは納得せざるを得なかった。当時の地球連合軍の有様は、他ならぬ彼女たちが最もよく知っている。だからこそアークエンジェルはオーブに身を寄せたのだ。
そもそもからして、フレイがアラスカで受けた転属命令の内容からしてそういうことをさせるものだったはず。ならば彼女が軍に戻れば、どうなるかは自明の理というものだった。
「……左様でしたか。申し訳ございません。考えの足りぬ質問でした」
「構わぬ、構わぬ。それにしても……ふふ。やはり旧交を温める姿というのは好いものだな」
言いつつ、アウラはオルフェに手を取られて玉座から降りる。そしてフレイへと告げた。
「アルスター政務官、今日は夜まで、イングリットと共にこの国を案内して差し上げろ。特にヤマト准将のことは
「陛下、良いのですか?」
「うむ。頼んだぞ」
それだけ告げ、退席していくアウラたち。それを尻目に、フレイは朗らかに笑う。
「やったぁ♡ それじゃキラ。今日は私が案内するね♡」
「え、だ、だけど」
「陛下の命令なの♡ 私を不届き者にするつもり?」
言いながら、キラの腕を取って身を寄せるフレイ。柔らかな肢体がキラへと押し付けられる。ドレスに覆われた乳房がキラの腕の横に押し付けられる。
「ーー」
それをラクスは、傍らで見ていることしか出来なかった。
「では、こちらへどうぞ。ご案内いたします」
何処か冷たくなりそうな空気を変えようとするかのように、イングリット・トラドールが声を掛けてくる。それに応じてフレイはキラの手を取ったまま歩き出そうとする。慌ててキラは、今夜のパーティに備え、あらかじめ別行動を予定していたラクスのほうを振り返って声を掛ける。
「ラクス、また後でッ」
「ほらほら、こっち♡」
コンパス一行は、フレイとイングリットに先導される形で謁見の間を後にする。ラクスは、その後姿を見送りながら、ざわめきを抑えるように手を胸に当てた。
ーー出来ることは、他になかった。
城の外。練兵場付近の渡り廊下。
「でも、本当に良かったわ。生きていてくれて……」
「ええ。私も、皆さんに会えてよかった」
先導する様に歩くイングリットの後を、キラたちは歩いていた。フレイは依然、キラの傍らで、彼の腕をとり、支えるようにしながら歩いている。声を掛けたマリューに振り向いて答えるその拍子に髪が動き、キラの嗅覚にはそれだけで甘い香りがまた届いてきた。
その香りを嗅ぐと、キラの心は落ち着いていく。安心するのだ。普段どうしても消えないような緊張や焦りや不安、そういったものがなくなっていくのを感じていた。これまでの睡眠不足……緊張などがそれを感じるのを妨害していた……もあってか、何処か眠気さえ感じるほどだ。
(なんだろう……。この香り……。皆は、何も感じないのか……?)
周囲を見渡す。マリューたちもシンたちも皆、普段どおりだった。自分だけがフレイの香りに強く影響されている。それがキラにとって、安心感に包まれる中で、刺さった棘のようなほのかな不安を感じさせていた。
そんなキラの内心を知ってか知らずか、フレイはキラの顔のほうをまっすぐ見る。
「キラも。……最後の戦いのあの時、私を守ろうとしてくれたよね。ううん、それだけじゃない。私がアークエンジェルにいた時はずっと……ずっと。私が、守って、守るために戦って、なんて言って、キラをたぶらかして……」
そして、フレイは頭を下げた。キラへと。
「ごめんなさい。私はずっと、キラに、最悪の嫌がらせをしてた。貴方を苦しめようとしていたの。戦いが嫌いな貴方を戦わせて、苦しめていた。……パパが死んだのは貴方のせいだって思い込もうとしてた」
その声には、心からの本気の意志が、確かに乗っていた。
「私はその罪を償いたい。だからここでいろんなことを勉強して、訓練した。いつか貴方ともう一度会った時……今度は、私が貴方を守ってあげたかったから」
言って、フレイは顔を上げる。どこまでも澄んだ、真剣な面持ちだった。
ーー少なくともこの言葉は誰に操られたのでもなく、演技でもない、彼女自身の心からの言葉だった。
「守るって……」
「ふふ♡ さ、こっちこっち♡」
歩いていくフレイと彼女の腕に引かれるキラ。二人を見ながら、ルナマリアはムウのほうへと耳打ちした。
「たぶらかした、って……まさか、
「ああ。
静かな肯定。その言葉に、シンは何を言ってるのかわからないという具合で首を傾げたが。
「……」
アグネスは、ずっとしかめ面だった。ーー理由は、言うまでもない。
そういったやりとりをしながら、城の敷地内を歩く一行。
と、その時、ふとキン、キン、という甲高い金属音が聞こえてくる。
見ると、そこでは黒い制服を着た若者たちが
「彼らが我が国の近衛師団です」
「噂のブラックナイツか」
イングリットの説明に、戸惑い混じりに呟くムウ。ブラックナイツーーファウンデーション王国の親衛隊。その戦闘能力の高さはムウも知っていた。だが、その訓練をしている者たち……片割れは先程謁見の間にいたシュラだ……の年代は余りにも若い。キラたちより更に一周り下だろう。そして、その訓練を遠巻きに見ている同じ制服を着た者たちがいた。
同じ制服、つまりは同じくブラックナイツ。だがそれは足を組んでいたり、ニヤニヤと笑っていたりと、どう見てもマトモな態度ではなかった。
彼らに受けたムウの印象を悟ってか、フレイは渋い声で言った。
「ええ。腕前は間違いないわ。けどーー」
それと、同時。剣を交わしていたシュラが、一行の方を見てニヤリと口元を歪める。
そこから剣戟は更に加速。シュラと戦っている隊員の剣を、シュラは大きな力で以て弾いた。宙を舞うサーベル。それは当然、重力に引かれて落ちてくる。放物線を描いて……
予測される
「ッ!!」
横合いから突き出された細い指が、落下してくる剣を、まるで白刃取りでもするかのように受け止めた。フレイのしなやかな手が、二本の指のみで、落下する剣を受け止めたのだ。キラを傷つけそうになった刃を。
「えっ……」
その動きの速さに思わず戸惑うキラ。そんな彼を無視するかのように、剣が飛んできた方向から声がかかる。
「おや、アルスター政務官。流石にナチュラルとしては動きが早いですね」
言ったのは、その剣を握っていた者。すなわちたった今シュラによって剣を弾かれた側。紫髪に垂れた目つきの少年……リュー・シェンチアンだった。
「つーか准将サンのほうが遅くなかったぁ?」
「守られてるの、ダサ」
続いて更に声が飛ぶ。橙色の短いツインテールの少女
それに対し、案内係のイングリットは声を荒げる。
「無礼ですよ!」
「ええ、無礼だわ。それ以前にどういうつもり?」
そんなイングリットに続くように、フレイは剣の柄を逆の手で握りながらイングリットよりも更に強い語調で言う。
「あとちょっとでキラが傷ついていたでしょう!?
叱責、怒声と言ってもいい声だった。仮にも政務官の立場にいるはずの彼女にそう詰られながら……それも客観的に見ればどう考えても正当すぎる叱責だが……しかし、ブラックナイツは何処吹く風だ。まるで
そんな中、シュラがキラのほうへと向き直り、続いてフレイが手に握るサーベルへと目線を向けた。
「一手ご指南いただけませんか。ヤマト隊長」
一手ご指南。それは、古流剣術などで道場破りの定型句に使われる言葉でもあった。
早い話、これは挑戦状であった。フレイが持つ剣を使って、自分と戦えと。
「いや、僕はーー」
それに対し、キラは当然と言えば当然だが狼狽し、視線をそらす。こんなものはどう考えても、来賓への対応ではなかった。
「サーペンタイン団長。同じことを言わせないで。
それに対し、すかさずフレイはシュラへと詰め寄った。そんな彼女を見て、シュラは文字通り
「では貴方がやるか? アルスター政務官。貴方の腕前も相当なものだ。ヤマト隊長殿にお披露目しては?」
「え……!?」
その言葉に、思わずキラは耳を疑う。
この男はいま何を言っている?
フレイに、サーベルで戦え? そう言ったのか?
混乱するキラを他所に、しかしブラックナイツは次々に囃し立てる。
「おいおい、隊長さんは女の子に決闘の身代わりをやらせんのぉ? かっこいいとこ見せようとか思わないわけ?」
あからさまに侮辱するようなことを言う、刈り上げ髪の少年……グリフィン・アルバレスト。彼へと続き、リデルとダニエルは更に挑発を続ける。
「うわダッサ」
「それさっき言った……」
その言葉に流石に眉をしかめ、思わずフレイが握るサーベルの方に手を伸ばしかけるキラ。だがその寸前、サーベルはキラの手から引き離される。それを今握る細い手、女性の手が剣を掲げた。
「良いわ。私が相手になる」
フレイはそう言い、サーベルの切っ先をシュラの方へと向けるのだった。
「フレイ! 何をッ」
「キラ、見てて。私が前とは違うってところを!」
言って、フェンシングのような姿勢を取って構えるフレイ。本来なら戦いになど使うはずのないドレスの姿はしかし、奇妙なほどにその姿勢を美しくそして力強く印象付けさせていた。
「では、参る」
即座にシュラもまた構えを取り、フレイの方に剣を突き出した。初撃の一閃。牽制に過ぎないはずのそれは、しかし、凄まじい速度で迫ってきた。
ナチュラルのそれも女性に過ぎないフレイに対し、コーディネイターと思しき男であるシュラによる斬撃。
予測される結果は、瞬殺。それ以外ないーーはず、だったが。
「はっ!!」
しかし、フレイはその剣を防御してのけた。更にそこから身体を沈み込ませ、シュラの下のほうから突き出す様にして剣を振るう。ドレスの裾が翻り、細い手足が舞った。
「ふぅっ!!!」
「ふん」
勢いよく突きこまれる剣をシュラが弾く。だがその弾かれた傍から、フレイの剣は蛇のように軌道を変えてまたシュラに襲いかかる。
シュラはそれをあっさりと打ち落とし、更に反撃。だがフレイはそれを剣で更に弾く。そしてまた自分から攻撃に移った。
一定の剣戟ごとに入れ替わる双方の攻防の主導権。その支配の長さは、シュラのほうが五割り増しで長いようだった。フレイがニ発打ち込む間にシュラが三発打ち込む、そういった具合だ。
言い方を変えるなら……シュラが優勢とはいえ、互角に近い勝負がそこに成立していたのだ。
「速い……! 食いついてる……!!」
「あの人、ナチュラルじゃないの!?」
それに目を疑うシンとルナマリア。
当然だ。ナチュラル、それも前線の兵士やプロのアスリートでさえない非戦闘員の女性が、コーディネイターであろう近衛師団の……彼らにはこの時点ではまだ知る由もないが、実際にはそれ以上の存在である……戦士を相手に近接戦闘で渡り合うなどそもそもありえない。はっきり言って、瞬殺されて当然だ。
事実、シュラの動きの冴えは凄まじい。コーディネイターであるシン達からしても、身体能力そのものは明らかに自分以上だと瞬時に見て取れた。そこに来て、フレイがシュラに喰らいついている今の状態は明らかに異常と言えた。ザフトで訓練されているシンたちより更に格上の相手とある程度渡り合える、それはつまり、フレイ自身もまたそれに準じるほどの強さを持っているという証明なのだから。
「あんな動き……前のフレイさん考えられないわ……」
マリューも当然、そのことは理解している。否、むしろシンたち以上の驚愕があった。何せ彼女はかつてのフレイのことを知っている。少なくとも彼女が優秀な兵士ではなかったという事実を知っている。だからこそ呆気にとられたような呟きが漏れた。
そして、その横で。
「……まさか……な……」
ムウは、誰よりも険しい顔でフレイを見つめていた。
彼の脳裏には、別な少女の姿が映っていた。本来なら持たないような強い力を、しかし強引に持たさせる技術。そういったものを導入された兵士を、かつて彼は率いていたのだ。
「……」
そして唯一人、アグネスはひたすら憮然としていた。サーベルを振るう際の身体の動き。揺れる肢体が、癪に障って仕方なかったからだ。
(……)
その最中でも、キラの頭の中にはグリフィンの言葉が木霊する。
ーー
ーー格好いいところを見せようと思わないのか。
その言葉はキラの闘志に、静かな刺激を与えていた。だからだろう。キラが、シュラのその微かな
シュラの足の筋肉が大きく収縮するのを、キラは見た。単なる姿勢の変更などでは説明がつかないほどの力がそこに籠められている。モビルスーツの戦いでも見ることがあるそれは、何かの動きのための
そしてその後に起こるであろう事象をキラの頭脳は予測し、すぐさま、彼は叫んでいた。モビルスーツでも、そういうことをする敵はいたし、自分もよくやっていたからだ。
「フレイ!
キラが叫んだ時、シュラの身体は既に
「何!?」
シュラのその叫びは、自分の動きを見切られたことへの驚愕だろうか。そしてキラからの警告を受けたフレイは、既に身体を180°反転。後ろの方を振り向くことに成功していた。ならば後はどうなるか、説明するまでもない。空中で大きく動くことなど、例え超人的な身体能力の持ち主であっても人類の範疇にある限り不可能だ。精々がカラダの捻りでわずかに着地点を変える程度だろう。そして、その間にフレイは完全に攻撃態勢の準備を完了していた。
「ふッ!!」
シュラの着地と同時に剣先が飛来する。だがシュラはその剣戟をも、辛うじて躱してのけた。フレイのサーベルを自分のサーベルで切り払う。だがフレイの攻勢は当然それで終わらない。
「チィっ!!!」
「はぁっ!!」
二撃。三撃。打ち合うごとにシュラの体勢は少しずつ崩れる。ジャンプした直後の体勢の崩れをリカバリーさせぬような打ち込み方をフレイはやっていた。バランスを戻そうとする都度に重心を狂わせるような突きがシュラの足や腰に飛来する。それにより、少しずつシュラとフレイの間に起こる攻防の精度が均等となる。シュラの優勢が消えていく。否、消えるだけではない。フレイの剣が、次第に数撃、シュラの間近を掠めるようになっていった。
「押してる……!」
「勝っちゃうんじゃない!?」
シンとルナマリアが小さく、しかし明確な歓声をあげる。
「シュラ!」
「おいおいまさか」
そしてリューとグリフィンの驚愕。そうしている間も、フレイの攻勢は止まらない。
「ッ!」
ついにフレイの剣がシュラの顔の至近距離に突き出た。ギリギリの回避、というより、運良く当たらなかったという具合だった。
数本、シュラの髪の毛が散る。その結果に、シュラの目が
(俺を負かそうとするのか!!??
そして、その激昂を、
「シュラ! やめなさいっ!!」
その言葉を無視する様に、シュラは剣を大きく振るい、フレイの剣にぶつけて逸らさせる。生じる……生じさせられる隙。
「はァアアッ!!!」
それと同時の、裂帛の気合。この攻防にて初めて発動するシュラの死力。或いはーー訓練相手に対してということなら、あまりにも大人気なく反紳士的な振る舞い。最高の力、最強の精度で、シュラは渾身の一撃を放つ。フレイの、その白い首筋を目掛けて。
スローモーションに感じられる時間。空気を裂くような音が、ゆっくりとフレイに、そして戦いを見守っていた者たちの耳に届いてくる。引き伸ばされる時間。そのさきにあるのは、例え模造刀であっても、人体の頚椎を破壊するのには十分すぎる力と速度と重量が乗った一撃が、フレイ・アルスターの首に着弾とするという結果。
その結果が。
本来ある結果が、実現する、その刹那。
イングリットの叫びを聞いた彼は、既に走り込んでいた。そして、
「何……!?」
呻くシュラ。彼の剣は、フレイの首に届くことなく止まっている。それは彼自身が止めたからではない。外部から加えられた力が故。
「え……」
それを成したのはフレイではなかった。フレイはその一撃に反応しようとしたが、彼女の剣はシュラのサーベルまで届かない。力づくで逸らされた彼女の剣は間に合わなかったのだ。拳一個分、シュラのサーベルから離れた位置の空中にあった。
だから。
それを止めたのは、当然のように……彼だった。
「同じ国の、仲間のはずだろ……! 何考えてる……!!」
「キ、ラ……」
キラ・ヤマトが、シュラのサーベルを握っていた。フレイの首に届く前。彼が掌をシュラのサーベルの軌道上に割り込ませ、強引にそれを止めたのだ。
ぽたり、ぽたりと、紅い雫が地面を濡らす。凄まじい速度を出していたのだから、刃先が潰れた訓練用のものと言えど相応の
離れていくシュラの剣。血液が堰き止められていた物体から解放され、キラの掌から、やにわに少量の真紅が吹き出した。
「隊長! 大丈夫ですか!?」
駆け寄ってくるシン。キラはその場で掌を逆の手で押さえながら、シンに、そしてフレイに微笑む。そのフレイは、しかしーー顔面が、蒼白になっていた。
「キラ! 手が! 血っ、怪我っ、キラが傷っ……!!」
「フレイ。大丈夫だよ。このくらい。……君が無事で、良かった。本当に……」
脳裏をかすめる、かつての記憶。ヤキン・ドゥーエで間に合わなかったときの記憶。けれど、今回は間に合った。その事実がキラを心から安堵させた。彼の言葉には、そういう安堵が確かに宿っていた。普通ならば、それを感じ、自分もまた安堵するところだっただろう。
だが。
「わた、私、私のために、キラが。キラが怪我、またキラを私が、私が……。ご、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさいキラ、ごめんなさい……」
フレイは、全くそうはならなかった。剣を取り落とし、頭を両手で抑え、瞳に涙を貯め、もはやなかばパニックになっているかの様子だった。
「大丈夫だって」
その様子に疑問を感じながらも、とにかく落ち着かせようとキラは声を掛ける。更に、後方から歩いてきたイングリットが、憐れむような顔を浮かべながら言う。
「アルスター政務官。貴方のせいではありません」
そしてイングリットは表情を厳しいものへと変え、シュラに向き直った。
「サーペンタイン団長、どういうつもりですか。今のはヤマト隊長が止めていなければ惨事になっていた!!」
「ふん……」
その指摘に、鼻を鳴らすシュラ。あからさまなまでに横柄な態度。それに顔をしかめるコンパス一行とイングリット。ーーと、更に、それまで震えていたフレイが、ぽつりと呟くように言う。
「……シュラ。謝って。キラに謝って」
小さな、しかし強い声。それにシュラは、やれやれ、と言わんばかりに手を広げて。
「不慮の事故だ。俺の力ならあのタイミングでも寸止めにするくらいは出来た。余計な手出しをしたのは」
「うるさいッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
シュラの弁明は、叫び声によって打ち切られた。
「謝りなさい!!!!!!!! 謝れ!!!!! キラに謝れっッッ!!!!!!!」
ペラペラと動いていたシュラの舌は、少女の絶叫によって強引に停止させられていた。
叫び続けるフレイの顔は、まるで般若の様だった。
「フレイ……!?」
その剣幕に、思わず困惑するキラ。
「……」
そんな二人を見つつ、シュラは憮然とした顔を浮かべ続ける。だが、彼の脳裏にはすぐに催促の
(シュラ!!)
(イングリット……。チッ、良いだろう)
シュラは剣を振るって血を落とし、鞘に収めると、キラに向き直って頭を垂れた。
「ヤマト隊長。怪我をさせてすまない。医務室はあちらだ、
ずぐん、と。
その言葉と同時に、カタチにならない波が、シュラからフレイに放たれる。瞬間、フレイの凄まじい形相は一瞬で削げ落ち、まるで人形の様な顔つきへと変わる。
「ーー!!!!」
その刹那の変化と、波の動きを、ムウだけは感知していた。そして彼は長年の経験によって、それに気づいたという表情を押し隠す。そして当然、彼以外の他の者は誰も何にも気づかない。場には何ら、目に見える変化など生じない。故にシュラも何も感じぬまま、ペラペラと感情の乗らない言葉を続けていた。
「……だが。決闘中に手を出したそちらにも非があるということは弁えていただこう。もとより一騎打ちとは神聖なもの。例え訓練であろうとも横合いから第三者が手を出すなど、本来ならば言語道断であり」
「それ以前に、あんな攻撃を女性相手に繰り出した非をあんたが認めろよ! 大人げないったらありゃしないぞ!!」
「決闘に女も男もない。色香ごときに惑わされるのは未熟の証だ」
シンの激昂に、シュラは鼻を鳴らしながら一蹴した。
そしてフレイは起き上がりながら、キラの手を取った。
「キラ。こっちにきて。手当してあげる」
「大丈夫だよ、このくらいは」
「だめ。ちゃんと手当するの。私のせいで出来た傷をそのままになんて出来ない。私が治してあげる。癒やしてあげる。キラの傷は全部ぜんぶ私が癒やすの。昔の傷も今の傷も……」
刹那。フレイの目に、キラは桃紅色の
光なのに甘いという表現を使うのは間違いなのだろうが、或いはその瞬間だけ、自分が味覚と視覚の共感覚の持ち主にでも成ったのかと錯覚しそうになるほど、それはそういうものとしか呼べないものだった。
「……
そう言われた瞬間、その甘い光がキラの目の中へと飛び込んできて。
彼の目からーー光が、消えた。
「ぁ……」
だらり、と、キラの全身から力が抜ける。そしてすかさずフレイは彼の手を取り、引っ張っていく。
「さ、こっち。すぐに手当てしないと!」
「……うん……」
その力に一切逆らうこと無く、キラはフレイに連れられて行ってしまった。
「あ、ふ、フレイさん!?」
それを見て、思わずあとを追おうとするマリュー。しかしそんな彼女の前へ、女性の細腕が突き出される。
「ラミアス艦長。あちらはアルスター政務官にお任せしましょう。ヤマト准将は彼女に任せるように陛下も仰っておられました。……我々はこちらに」
「し、しかし」
「……お願いです。二人だけに……させてあげてください」
静かに目を伏せるイングリット。彼女の様子に、思わずマリューは足を止める。
こうして、キラとフレイは一行から完全に離脱することとなった。
それを見るブラックナイツたちの目には、静かな愉悦が滲んでいた。
シュラの思念波を受け、フレイ・アルスターの能力は解禁され、暗示されていた命令は実行に移されるはずだった。
それはつまり、キラ・ヤマトの終わりの始まりとなる。それを彼らは知っていた。
(……)
イングリットはただ一人、それが生む結果を察して胸を痛めた。
これで、彼女の愛する男の恋路を邪魔する者は居なくなる。
ファウンデーション王城、医務室。
「これで大丈夫……かな」
キュッとキラの手をまるごと包み込む厚い包帯を結び終え、フレイはふっと息をつく。
「フレイ……。こんなにしなくても大丈夫だよ。これじゃ手が使えない……」
その入念な手当のあとを見て、思わずキラは嘆息する。いささか以上にやりすぎの処置だった。浅くはないが、それでも負ったのはあくまで切り傷の範疇だ。こんな風に手を完全に覆って、まるでギプスでもしているかのような状態にする必要まではないと感じられた。
「駄目よ。傷が開いちゃったら大変でしょ? ……ブルーコスモスとの戦いも……まだ、この後で……あるんだし」
目をそらし、どんどんと細くなる声でフレイは言う。例えどんな理由が在っても、
「そうだけど……。けど、それまでにも色々とやることが……」
「じゃあ、おててを使いたくなったら私に言って♡ 全部代わりにやったげる♡」
「ぜ、全部って」
「全部は全部よ♡ 何でもするわ♡ だから……お願い。
(あ……?)
フレイがそう言った瞬間、またしても甘い光が飛んでくる。そしてキラの心の中に何かが
「あっ。ふふ、傍にいていいのね?」
「えっ……」
それに、他ならぬキラ自身が驚愕した。
(今……か、身体が、勝手に……? さっきもそうだった気が……?)
「じゃあ、せっかくだし今日は二人きりで色々案内してあげる♡ いこいこ♡」
だがそんなキラを他所に、フレイは彼の怪我していない方の手を引っ張ってまた歩き出そうとし始める。
「ちょ、ちょっとフレイ。他の人のところに戻らないとっ」
「いいのいいの♡ 陛下だって言ってたでしょ? キラのおもてなしのためなら、私が自分で判断して大丈夫だって♡ せっかく会えたんだから、二人だけになりたいの♡ 案内したい場所もあるし♡」
「ちょ、ちょっとっ」
言って、またしても強引にフレイはキラを引っ張っていく。
誰かに引っ張られて歩くというのは、キラにとって、久しぶりの感覚だった。
そう。
隊長として、そしてラクスの恋人として、誰かを引っ張らなくてはならない彼にとっては。
「大きいな……」
フレイに連れられる中で近寄った大きな建物を見上げて、キラは呟く。
それはミレニアムから見下ろす際にも目を引いた建造物だ。古めかしく、威厳すら伴っている。単なる観光地やオフィスでないことは明白だった。
「ここはこの国の議事堂よ。結構歴史があるの」
「へえ……」
「私もここには結構出入りしていろんなお仕事をしたけれど……っと。お仕事の話は、今はナシね♡」
フレイは言って、またキラの手を引っ張ろうとする。
と、その時。
「……?」
視界を横切る人影。
随分と整った顔立ちの、若い男の様だった。帽子を深く被っているが、覗く目元は随分と険しそうだ。そして、大きな荷物を背負っている。
それにキラは、理屈を超えた胸騒ぎのようなものを感じた。これを見逃すのはダメだという、理屈を超えた直感がーー。
「さ、次に行きましょ♡ 一番案内したいのは、ここじゃないの♪」
「えっ、あっ」
「どうしたの♡ ほら、
飛び込んでくる、甘い光。
(あれ……)
ーー何だっただろうか?
キラはもう、よく覚えていなかった。まるで頭がふやけたみたいに、今はもう、フレイと一緒に居ることの方が大事だった。
そして、そこから更に少し歩くとーー彼らは、湖の畔にある、小さな東屋に辿り着いた。
「ほら、ここ。綺麗でしょ? ここに連れてきたかったの♪」
「う、うん。そうだね……」
或いはそこは、別な未来で、今日の夜にでも別な二人が訪れるはずだった場所なのかもしれなかった。
「ここ、眺めてるだけでも気持ちが落ち着くのよ」
「……そっか……」
そこでキラとフレイは向かい合う様に座りながら、静かな湖畔を眺めていた。何をするでもなく、特に語らうでもなく、ただただ、静かに時間を過ごす。
そして、そうしている間にも、フレイの身体から漂ってくる香りはキラの鼻孔に吸い込まれ、彼を安堵させていた。
(……本当に……いい匂い……)
安堵の中で静かな時間を過ごすというのは、キラにとってもうどれくらい振りだっただろうか。ラクスとの外出先でさえ、政治的な話題を避けられない生活が続いていたのだ。
「……ねえ、キラ」
だが、その静寂を、フレイは唐突に破る。彼女はこれまでのような愛嬌を浮かべてはなく、真剣な表情だった。
「ラクス様とは、やっぱり恋人同士? 正式にお付き合いしてるの?」
それは、キラにとって避けては通れぬ、そしてできれば避けたい話題でもあった。フレイと再会して以来訪れていた安らいだ気持ちが、微かに揺らいでいた。
だが、それでも沈黙は許されない。キラは、重い口を開く。
「……。うん。僕の今の恋人は、ラクスだ」
それは、偽りようのない事実の宣言だった。フレイは驚愕も恐慌も起こさず、悲鳴も怒声もあげず、ただただ静かにそれを聞いていた。
「君は……死んでしまったと、思っていた……。君と関係を持っていたのにそういうことになったのは、不純だったのかもしれない。だけどっ」
「キラ」
どことなく自分自身を苛むような色合いのキラの言葉を、甘く強いフレイの声が遮る。彼女は真剣な表情を崩さぬまま、静かに強く言葉を紡ぐ。
「私。今は本当の気持ちで言える。私はキラが好き。貴方以外の男の人なんかイヤ。サイでも、あの仮面の人でもなく、私はキラだけのことが好き。……貴方を愛しています」
言って、フレイはキラの手を自分の手で包む。怪我をした方の手。未だ動かせぬ手を。
「私、恋人になれなくてもいい。……だから、キラ。お願い私のこと、ラクス様と同じくらい、好きになって?」
その言葉に、キラは思わず瞠目した。
「フレイ……」
「恋人じゃなくてもいいの。私を選べなんて言わない。身体とか口づけとか、何の証明もいらないわ。……ただ、私のことも好きでいてくれればいい。ラクス様から離れろなんて言わない。私のことも同じくらい、心の中だけで、愛してくれていればいいの」
それは、ともすると果てしなく邪悪な言葉だったのかもしれない。
だが、キラは。それを一蹴することは出来なかった。
「フ……フレイ……」
フレイとの思い出。確かに持っていた関係。断ち切れぬ罪悪感。そして、再会してから感じる彼女への感覚。その全てが、キラのことを惑わす。
「僕は……僕は……」
うつむきそうになるキラ。口をもごもごと動かすばかりで、彼はもう何も言葉を紡げなかった。そして、次の瞬間。
「……いいわ」
「むぅっ!!??」
がばり、と、フレイはキラに抱きついた。彼の顔の全ては、フレイの胸の中に包み込まれていた。
「答えられなくっていいわ。……答えられないだけで、いいの。それが答えだって、信じるから」
「ーーーー」
その温もりの中で、キラは考えるのをやめていた。考えるのをやめるのを、何もしないのを、許されていた。
果たしてそれは、彼が何年も忘れていた、安息のようなものだったのかもしれなかった。
そしてその日の夕方。ーー城内の晩餐会。
「はい、あーん♡」
そこでキラは、対面に座るフレイによって、フォークに刺された野菜と魚肉……ソースのかかったカルパッチョ……を口元に差し出されていた。
「フ、フレイ……いいよ……それくらいは自分で……」
「だめ。おててが使えないんだからしょうがないでしょ。キラのおもてなしは私のお仕事なんだから、私がやらないと。この国の兵隊が怪我させたんだもの。この国の人間がその分償わなきゃ国際問題よ。だからほら♡ あーん♡」
「ぁ……あー……」
国際問題とまで言われては、さしものキラでも口を閉ざしてはいられなかった。故に彼は口を開き、運び込まれる魚をただ受け入れるしかなかった。
「ふふ、どう? 美味しい?」
「う……うん。美味しい……すごく……」
その魚と野菜は新鮮で、最近は揚げ物が多くなったキラの口を優しく潤してくれた。
そんなキラを見て、フレイはいう。
「……もしもキラがこの国で暮らすことになったら、ずっと食べられるわよ♡」
「んぅっ!??」
「ふふ♡ どうしたの? 別荘でも建てて、ラクス様と一緒に住んでみたらってことよ?」
思わずえづくキラに、クスクスと笑いながらフレイは告げる。どこか意地悪な、それでいて優しげな笑み。
ーーと、そんな二人の耳に、唐突にざわ、というどよめきの声が届く。
「……ん……」
そちらを見ると、そこにはラクスとオルフェが手を取り合い、ダンスを始める姿があった。ふたりとも並外れた美貌を持つだけでなく、ダンスの動きも流麗だ。そんな二人の姿が、衆目を集めていたのだ。
「……ラクス様、きれいね」
「う……うん」
フレイの声を首肯するキラ。と、そこに、新たな声がかかってくる。
「政務官ちゃ〜ん? そろそろ隊長サンとダンスでもしてみたら? 向こうでラクスさまも踊ってるしぃ?」
気安い声と共に二人へと近づいてきたのは、リデル・トラドールだった。へらっとした笑顔が顔面に貼り付いていた。
「リデル」
「
フレイが彼女の名を呼んだと同時、リデルからフレイへとーー
「ええ……そうね」
そして、フレイは立ち上がるとキラの横に移動し、座る彼の方へと手を差し伸べる。
「キラ……一緒に、踊りましょう?」
「え、えっと」
「踊ってあげなよお♡ ダンスくらいは踊れるでしょぉ? それくらいのカッコつけはしないと、ラクスさま取られちゃうわよ♪」
「ーーッ」
そんなリデルの言葉に思わず顔をしかめるキラ。そして同時に、頭の中で冷静に考えを巡らせる。
ーーこの少女は、態度がどうであれ仮にも国王の親衛隊の一人。そしてフレイは政務官だ。気分の悪さにまかせて
「……わかったよ。行こうか、フレイ」
差し出された手を取り、立ち上がるキラ。背後から、リデルのにやけた笑みが向けられていた。
(キラ……)
オルフェと踊りながらも、自分のほうに近づいてくるキラへと視線を送るラクス。その視線を受け、キラは微笑みを彼女へと返す。
ーーと、その瞬間、キラの顎をフレイが指先で持ち上げた。
「こーら。こっち向くの。今は、
(ぁっ……)
またしても放たれる、甘い光。同時にキラは、フレイの方へと視線を固定させられた。思わず表情を微かに歪めるラクス。
「さ、始めましょ♡」
キラの体に、女の肢体が柔らかく押し付けられる。
そして、ダンスが始まった。二人と二人、四人のダンスが。
オルフェとラクスのダンス。それは、まるで輝く様なものだった。テンポとリズムは調和の取れたもので、静と動が周期的に移り変わる。いわば光を帯びたもの。お互いの手足はピンと伸び、顔は照明に照らされ輝く様に映る。その照明の光は、身体に一定の距離を保つことで作られた二人の隙間を走っていた。揺れ動くラクスの桃色の髪はオルフェの金髪に反射された煌めきを浴び、尚更に輝くかのようだった。それらの全ては、当然のように見るものに希望や熱量を与えるものだった。
その傍らで、キラはフレイにほとんどリードされるまま身体を動かしていた。フレイから視線を動かせない。床や自分の手足にまで目線を向けられず、彼女の指に操られるように動くしかなかった。そんな中でも、キラは漠然と自分がどう動いているのかを認識していた。
リズムとテンポは不規則で、静と動がランダムに入れ替わる激しい動き。手足は曲げやうねりを伴い、顔は照明からあえてそれる様に動く。距離は近く、密着した二人の間には光りさえ通らない。フレイの髪は照明を遮り、キラの髪や顔に影を落とす。ーーそして、それらの全てが、見るものの不安を煽りながらも決して目を離せない怪しい魅力を伴っていた。
今のキラとフレイの舞は、まるでオルフェとラクスの対極ーー怪しく昏く、しかしそれでいて魅力的。
四人のダンスは、使い古された語彙であるかもしれないが、光と闇の輪舞と表現するべき舞だった。
そんな彼らを見て、周囲の人間……ファウンデーションの関係者は口々に称賛を述べていた。
「すごい……なんと妖艶な……」
「ヤマト隊長のあどけなさが対照的だ。若き戦士と美しき乙女……似合いだ……」
「いや、宰相閣下とラクス様のほうがお似合いだろう」
「ああ。お二方とも、完璧というのが相応しいお姿だ」
そんな声が、四人に届く。
ラクスは、一瞬だけ顔を歪めた。
オルフェは、静かな微笑だった。
キラは、無表情だった。
そしてフレイはーーこの上もない、満面の笑みだった。
そして会場の二階から、マリューとムウは彼らを見ていた。
「フレイさん……。変わったわね……」
ダンスの動きを見て、マリューは改めてそう思った。キラを完全にリードしながら、全くブレず遅れていない。フレイの身体能力はかつては比べ物にならないものだと、先程の試合以上に強く思い知らされていた。
そんなマリューの関心に、しかし、ムウはどこか苦々しそうに声を出す。
「どうだろうな……。本当に、
「え?」
「……マリュー。
「それって、どういう……」
「すまん。今はまだ、確証がない」
ムウはそれだけを言い、顔をそむける。
自分の考えがあたっていたとすればーーそれはともすると、最悪の可能性を示すものであり、口にしたが最後、自分たちはあまりにも巨大なものを敵に回すことになるものだった。
そして。
ダンスフロアの柱の陰……会場の全員から死角になる位置で、リデルは指に食器……箸を握っていた。それも角のないタイプの箸。丸い箸だ。
「くくっ♪」
それを、リデルは放る。リデルの手から放たれた箸は、ころころと床を転がる。丸い形状故に、簡単には止まらない。ーー距離を十分に稼げる。
そして、箸は事前の運動エネルギー計算式をなぞり、ピタリと狙い通りの位置で止まる。ダンスフロアの一カ所。そこに誘導されていた男女の……否、男の足が来る場所。
しかして。
キラは、その丸い箸を足で踏んづけた。
「っ?!!」
ダンスのさなか。それも、フレイから目をそらせないという状態での急な重心の崩壊。キラは当然のこととして、完全にバランスを崩す。そうなればどうなるか。
言うまでもないーー
「きゃっ、キラ!??」
(
キラを支えようとするフレイに、そういう波を送るリデル。フレイはそれによって、キラの顔を胸で受け止めるように身体の位置を変える。ーーが。
その、刹那。
「キラ!!」
後ろの方から、倒れ込む少年の身体は引っ張り上げられ、転倒を免れるのだった。
「……大丈夫ですか?」
そうやってキラに声をかけるのは、ラクスだ。
ラクスはキラが倒れる瞬間、彼の方に手を伸ばして支えたのだ。倒れないように。
そして、倒れそうなキラを支えるラクスの立ち位置は、ダンスフロアのど真ん中。中心部。
その姿はーー傍から見ると、まるでダンスのクライマックスを迎えたがため、舞台の中心に立ちつつ、
「あ……う、うん。ありがとう、ラクス……」
そんなラクスに、感謝の意を伝えるキラ。
「……」
フレイはどこか呆然とした、まるで、途中で命令を中断させられた機械かのような空虚さでそれを眺め。
その逆側。ラクスの背後にいたオルフェはーー憎々しげに、それを睨んでいた。
と、そこに、突然小さな人影が割り込んでくる。
それは、この国の主にしてこのパーティの主催者……アウラだった。彼女は小さな手を前に掲げると、パチパチ、パチパチ、パチパチという拍手を行う。
それと同時。周囲から少しずつ拍手の音が響き……やがてそれは、会場全体を包むほどの大きな大きな拍手へと変わっていくのだった。
そんな拍手がひとしきりなり続け、少し静かになった頃、アウラはキラへと言う。
「ヤマト准将。よくぞ美しい舞を魅せてくれた。今日は貴殿のために部屋を用意しておる。今晩はそこで休むと良い」
キラへのねぎらいの言葉をかけると同時に、アウラはそうやってキラに対して提案……否、提案という名の指示を行う。
「陛下。それは……」
「明日の朝早くから打ち合わせもある。此処に一人、担当者に残って欲しいのじゃよ」
キラは反論しかけるも、すぐに潰され閉口せざるを得なくなった。
そもそもこれは国王直々の申し出である。どんな理由があるにせよ、それを無碍にすることなどキラに許されようはずもなかった。
「……わかりました」
キラは頷く。オルフェはそれによって多少苛立ちをおさめ、死角のリデルは笑みを深めるのだった。
そして、深夜。
与えられた王城の部屋の中で、キラは携帯式のコンピュータにデータを打ち込み続けていた。
新装備の最後の詰めだ。もうじき、開発は完了する。ミケールを押さえればこの戦いは区切りがつくかもしれない。だが、もしブルーコスモスが更になりふり構わない姿勢を取れば、混乱はますます悪化するだろう。ラクスのためにも、それは容認できない。そのためには、何としてでもこれを完成させなくてはーー。
と、その時、ふとコンコンという音がドアの方から響いた。
「はい?」
そちらに視線を向けつつ誰何するキラ。ガチャリと開くドア。
「キラ、やっぱりまだ起きてたのね」
そこから聞こえてきたのは、フレイの声だった。入ってくる彼女を見やるキラ。
「フレ……、ッ!??」
「ふふ♡」
と、思わず驚愕で息を呑む。
フレイの今の格好。それは、昼間着ていた服よりも更に露出が多いネグリジェだった。キラは知る由もなかっただろうが、かつてミーア・キャンベルがアスラン・ザラの部屋に潜り込んだ時と似たような服だ。生地から、素肌が透けて見えていた。
「フレイ、な、なんでそんな格好でっ」
「キラを癒やしてあげようと思って♡」
言いつつ、フレイは手に持った一本の棒の様なものを掲げる。
「じゃーん。これ、なんだ♡」
それは、キラもよく見知ったもの。
「み、耳かき?」
「そ♡ これでキラを癒やしてあげる」
言って、フレイは部屋の中へと入ってきた。
「ちょ、ちょっと」
「いいからいいから♡」
キラの静止をあしらいながら、フレイはキラの部屋のベッドに腰掛け、自分の腿の上をポンポンと叩く。
「ほら、ここに寝て? 私がお掃除してあげる♡」
「ごめん、フレイ。まだ仕事が」
「いいから、
甘い光。
「ぁ……」
それと同時、キラは、フレイの方へと歩み寄り。膝の上へ、自分の頭を預けた。
(また……。どうして……? フレイの言った通りに、体が動いちゃう……)
困惑しながらも、キラは体勢を変えられない。
至近距離に迫ったフレイの身体から放たれる芳香が、キラの鼻孔から吸い込まれ、彼の脳に強制的な癒やしをもたらす。
「そうそう。いいこいいこ♡ おやすみしないと、お仕事もはかどらないからね……♡ んん〜〜?」
膝の上に乗ったキラの耳の中を覗き込み、フレイは怪訝そうな声をあげる。
「わわ。すっごい溜まってるわ。ちょっと不衛生よ? あんまりお掃除してないの?」
「だ、だって……時間がなくて……」
「もう、しょうがないなあ。それじゃ、私がその分綺麗にしてあげないと♡」
そして、フレイは耳かき棒をキラの耳に近づけ。
「まずは……浅いところから……」
耳の穴に、棒を入れて描き出した。
キラの耳の中はフレイの言う通り垢まみれ。すぐにフレイの動かす耳かき棒の先端に、黄色っぽい耳垢が溜まっていく。
「こりこり、こりこり。やっぱり沢山取れる。こんなんじゃ、放っといたらかぶれちゃうわ。ずっとお仕事ばっかりだったの?」
「う……うん……」
「そうなんだ。頑張りやさんね。……やっぱりキラは前と変わらないなあ……」
嬉しそうな、それでいて寂しそうな。そんな声をフレイはあげた。変化していない部分を寿ぐような、それでいて憂うような。
「……フレイは……変わった、ね……?」
その言葉に、キラは思わずそう言っていた。今日一日だけでも、フレイがかつてとは色々な意味で変わっていたことを思い知らされてきていたからだ。それを受け、フレイは手を止めぬまま呟く。
「ええ。変わったわ。私は……前とは違う。あの時とは……。でも、またキラに怪我をさせちゃった。私、本当に駄目だわ……。だからせめて、今は……キラのこと、めいっぱい気持ちよくするね……」
言いながらも、フレイは手を止めない。ずっと動かし続け、キラの耳から垢を取り出し続ける。
「こりこり、こりこり。ふふ、いっぱい出るいっぱい出る♡ もー。こんなにばっちくして♡ ……あら?」
と、そこでフレイはやっと手を止めた。そして、キラの耳の奥の方へと、少しずつ少しずつ耳かき棒の先を伸ばしていく。
「奥の方に……わ、大きいのが張り付いてるわね。……動かないで?」
いうと、フレイはキラの耳の奥で耳かき棒の先端を動かす。そのコツコツという振動はキラの鼓膜を小さく揺らす。敏感で、皮膚の弱い箇所をこすられているというのに、その振動はむしろキラの心にどこか安心さえ与えるものだった。そして、その安堵感は、キラの瞼を更に重くしていくのだった。
(駄目だ……このままじゃ、寝ちゃう……)
「ん……よし。取れた……っと」
キラが、眠気がこれ以上増せば仕事に支障が出ると判断するのと同時、フレイの耳かき棒が上がっていく。
「まあ、おっきい。見てみてキラ♡ こんなのが貼り付いてたわよ〜? 本当に不衛生なんだから♡」
指先に大きな耳垢を乗せて見せつけてくるフレイ。そうやって彼女の手付きが止まった今が好機だと、キラは判断した。
「フレイ……ごめん、もう……」
そして両手に力を込め、起き上がろうとして。頬をフレイの膝からあげようとして。
「だめよ。
がくりと、甘い光を浴びせられたキラは脱力してまた頬を柔肌にくっつけるしかなくなった。
「ぇ……あ、れ……」
「もう。動くと危ないでしょ。じっとしてなくちゃだめ。ほら、奥の別なところも汚れてる……。まだまだ時間がかかりそうね……」
そして、耳かき棒がまた、耳の奥へと降りてくる。こりこりこりこりという振動がキラに強制的な安堵を与えてくる。
「はい、べりっ……と。うん。またちゃんと取れた♡ わっ、今度のはさっきよりもっと大きい……」
感心したようにそう言い、フレイは視線をキラの耳の中へと戻す。
「うん。これで目立った塊はなくなったわね。けど、粉みたいなのが結構残ってるわ……」
そして、フレイは何処からか、柔らかな材質の小さな棒を取り出す。
「じゃあ綿棒を入れるわよ。ちょっと強めに擦るからね?」
綿棒の頭が、キラの耳の壁に接する。
「それ……ごしごし、ごしごし……。わわっ、すぐにばっちくなっちゃった。反対側の頭でもう一度……ごしごしごしごし……」
強く擦られることで、瞬く間に全てが黄色い粒子に覆われてしまう綿棒。両側の頭が汚れ、これ以上の洗浄効果が望めないとわかった時点でフレイはそれを置き、また別なものを取り出す。
「さ、綿棒取り替えるわよ……♡ ごしごしごしごしごしごしごしごし……」
「ぅ……」
「ふふ、二本も使ったら、流石に細かいのもきれいになるわね♡」
瞼の重さに思わず小さくうめいたキラをよそに、フレイは綿棒を置いてじろじろとキラの耳を観察し、小さく頷く。
「うん。これで、こっちはきれいになったわね」
「じゃ、じゃあ……」
「ほらほら、続きをしましょ? さあ……
そして今度こそ逃れようというキラに、更にまたフレイは甘い光を降り注がせる。
「ぁぁ……」
「さあ、こっちもお耳きれいきれいしましょうね♡ まずは耳かきからー……こりこりこりこり……」
浅い部分からやや深い部分まで、大きな耳垢を手早くはがしていくフレイ。その手付きは、先程以上になめらかになっていた。
「んー、さっきに比べたらだいぶ取れやすくなってきたかな……? キラのお耳の垢の剥がし方、分かってきちゃった♪ 奥の方も……やっぱり、こっちも汚れてるわね……」
そして、更に耳の奥の方に棒の先を伸ばし。
「こつこつと、下の方を叩いて、浮かせて……ぺりぺり、っと……。うん。大丈夫……♪」
またしても伝わってくる、やさしい振動。それによる眠気の増加は、キラの意識をギリギリにまで追い込んできていた。
「だめ、フレイ……。眠い……本当に、寝ちゃうよぉ……」
「おねんねするの? 大丈夫よ。おねんねしたあと、私がお布団かけておいてあげるから」
「まだ……やらなきゃ……いけない、ことが……」
「だめよ。今日はもうお仕事はだめ。キラは休まないといけないわ。ほら……
更に、追加で降り注いできたその光に、いよいよキラは意識の保持を困難にされていった。
「ぁ……うぅ……」
「ほーらキラ、いい子だから耳掃除しましょうね♡ 奥の方を、きれいきれい♡」
そして、フレイは次の耳垢に棒を伸ばし。
「こりこり。こりこり……ほーら。ねんね、ねんね……ねんね、ねんね……♡」
(だめ……だ……もう……)
入眠を促す言葉の連続。それに、ついにキラの忍耐は限界を迎えてしまった。
瞼が降りてくる。意識が、遠のいていく。
「ふふ♡ おやすみなさい……♡ 大丈夫よ……。私が全部、やってあげるから……♡」
最後にかけられたのは、そんな優しい言葉。
それは強引な意識の喪失だったが。
同時に、キラにとってどれだけぶりかも分からない、安堵に包まれた入眠でもあった。
そしてキラが眠ると同時、部屋の外で、アウラはにやりと笑った。
「ふふ、想像以上の結果ではないか。調整の甲斐があったというものじゃ。計画の修正はあったが……これならば、むしろ上首尾じゃ」
計画の修正。それは、フレイとシュラの決闘の結果についてのことだった。
本来なら、シュラは己の強さ……キラ・ヤマトよりも明確に格上だと分かるほどの身体能力を見せつけ、
そこに来てシュラが本気で勝ちに行くという予定にない勝手なことをしたという時は驚きはしたが、結果はむしろ上首尾だ。その結果、あの出来損ないはこの女にますます虜となっている。さすがは我が子と気分がいい。
「あとは、明日のお披露目が上手くいけば……くくっ」
笑みを深くしながら、アウラは踵を返す。廊下の奥の方、光の消えた闇の方へ、彼女は去っていった。
その気配が去ることをーー部屋の中で、眠りに落ちたキラの身体に毛布をかけながら、紅い少女は感じ取っていた。視線だけをドアの方に動かす。
「ん……っ」
頭を振るフレイ。
これまでのことを思い出す。記憶が飛んでいるーー飛ばされている箇所を修復する。
己にかけられた数々の暗示を、自覚する。やったことを把握する。ーー歪められた認識を、修正する。
そう。フレイの中には、暗示への抵抗力があったのだ。これは他の誰も……自分と同様に何かを秘めているイングリッドさえ知らない事実だ。もっとも、まだ完璧ではない。暗示されるのを繰り返すごと、まるで病気への耐性が出来るかのように少しずつ抵抗が強まってはいるが、まだ暗示を完全にレジスト出来る域には達していなかった。
その気になればある程度の時間をかけて精神力を振り絞り、苦痛をこらえながら抵抗すれば突っぱねることは出来るのだろうが、それはつまり、煩悶しながら抵抗している状態をアコードたちやアウラの目に晒すということにほかならない。それは駄目だ。
ここで逆らい、状況が露呈することは避けねばならなかった。暗示に抵抗が生まれつつあることを、決して悟られてはならなかった。
そして、そうやってこれまで隠してきたおかげで、順調に抵抗力は強まってきている。この分でいけば、あと一回か二回も暗示を受ければ、完全に抵抗できるようになるはずだ。
今日も少々やりすぎたきらいもあるが、基本的には許容範囲内だと認識する。なんだったら、最後のキラの転倒を受け止めるところは自分がやったほうが良かったかもしれないとさえ考えた。
「アウラ様。貴方の思い通りにはさせられない。この子が戦わないで済む世界を……私が、作る」
誰にも、眠っているキラにさえ届かぬであろうか細い声でつぶやくと、フレイは部屋をあとにする。
そして、城内を移動。城の近くにある施設、その地下へとエレベーターで降下していく。目指す先にあるのは、彼女の
ーーはたして、彼女が辿り着いたのは、モビルスーツの整備ドッグ。そこには今、真紅の機体が佇んでいた。
それを見て、フレイは目に涙をためる。これを出すのは、キラたちが戦っている最中。つまり、キラはまた戦いに出てしまう。ーー守りたいのに。もう、戦わせたくないのに。
「けど……これで、これで最後のはず……。キラ。……私、ちゃんと償うね……?」
そしてフレイは涙を振り払い、機体を見上げた。
「明日はお願いね。私の
シュラが一番書いていてしっくりきてしまった……。