ネタ帳   作:タロットゼロ

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9月3日--ねむれぬ峯田と静かなる玄麗

寮生活にも、ようやく慣れてきた頃だった。

 ふと、目が覚めた。

 枕元の時計を見るまでもない。窓の外の闇と、静まり返った建物の気配が、今が深夜だと教えていた。

 ベッドの上で、孫玄麗はゆっくりと上体を起こす。

 喉が渇いた。

 寝ぼけた頭のまま、枕元に置いてあったマグカップを手に取る。もちろん空だ。

 小さく息をつきながらベッドの縁に腰掛けた。

 ――寮生活というのは、なかなか面倒なものだ。

 水を飲むだけでも、わざわざリビングまで行かなければならない。

 自室の洗面台の水でも良いと言えば良いのだが、どうせ飲むなら美味いのが飲みたい。とはいえこういう時は妙に遠く感じる。

 玄麗は立ち上がると、静かに部屋のドアを開けた。

 廊下は暗く、人気はない。

 二階右側、自分の部屋から中央ホールまでは、わずかな距離だ。

 足音を殺すでもなく、しかし自然と静かに歩く。

 中央に出ると、エレベーターの表示灯が目に入った。

 5階。

 玄麗は少しだけ眉を上げる。

 ――一階に降りるだけで、エレベーター待ちか。

 数秒の沈黙。

 そして小さく肩をすくめた。

 ――待つのも面倒だな。

 そのまま脇にある階段エリアへと足を向ける。

 階段の扉を押して中に入った、その瞬間だった。

 上から、がさごそと慌ただしい音。

 そして。

「ちっきしょー……どこに置いたっけかな……」

 聞き覚えのある声が、ぶつぶつと降りてくる。

 数秒後。

 階段を降りてきた小柄な影と、玄麗はばったり鉢合わせになった。

「峰田か。何やってんだい?」

「うわあっ!?」

 情けない悲鳴が、夜の階段に響いた。

 手すりにしがみつきながら、峰田実が目を見開く。

「そ、孫か……! 脅かすなよ!」

 玄麗は少しだけ首を傾げる。

「……どっちかというと、そっちのほうが脅かした側じゃないかと思うけどね」

 峰田は咳払いをして、平静を装った。

「ちょっと探し物してるんだよ」

「なんなら手伝ってやろうか?」

 玄麗の提案に、峰田は即座に手を振った。

「いやいや! 大したもんじゃないからいいよ!」

 玄麗は一瞬だけ沈黙し、峰田をじっと見る。

「大したものじゃないのを、今探すのかい?」

 峰田はニヤリと笑った。

「大したものじゃないから、今探すんだよ」

 そう言うなり、彼は玄麗の横をすり抜けるようにして階段を駆け上がっていった。

「じゃあな!」

 逃げるような足音が、上階へと遠ざかっていく。

 玄麗はしばらく階段の上を見上げていたが、

「……怪しいね」

 小さく呟くと、何事もなかったように下の階へと足を向けた。

 喉は、まだ渇いたままだった。

 

――まぁ、いいか。

 玄麗はそう小さく呟き、階段をそのまま一階まで降りた。

 深夜のリビングは静まり返っている。

 昼間は騒がしいこの場所も、今は別の建物のように静かだった。

 キッチンに向かい、マグカップに水を注ぐ。

 冷たい水を一口、二口。

 乾いていた喉がようやく落ち着いた。

 満足そうに小さく息を吐き、カップを軽く振る。

 さて、戻るか。

 そう思ってリビングを横切ろうとした時だった。

 テーブルの上に、何かが置かれているのが目に入った。

 新書サイズの本。

 この時間に、こんなところに。

 玄麗は歩み寄り、それを手に取る。

 ――置き忘れかな。

 何気なく表紙を見る。

 瞬間。

 玄麗の表情が、ほんのわずかだけ固まった。

 表紙には、なかなか可愛らしい女性のイラスト。

 そしてタイトル。

 『姉妹丼物語』

 数秒の沈黙。

 玄麗はゆっくりと顔を上げ、リビングの天井を見上げた。

 そして、呆れたように呟く。

「……バカなことを」

 静まり返った深夜のリビングに、その声だけが小さく響いた。

 視線を落とし、もう一度本を見る。

 ――なるほど。

 さっきの「探し物」とやらの正体は、これか。

 玄麗は軽く鼻を鳴らした。

 この程度のもののために、あんなに慌てていたのか。

 まったく。

 

 

玄麗はテーブルに戻しかけた本を、ふとした気まぐれでそのまま開いた。

 パラ、とページがめくられる。

 挿絵。

 文章。

 状況説明。

 玄麗の目が、静かに紙面を追っていく。

 ――速い。

 ぱら、ぱら、ぱら。

 流し読みというより、視線が滑るように文字を拾っていく。

「ほぉ」

 ソファーへ腰を下ろし、小さく、感心したような声が漏れた。

(小学生ながら、いや小学生だからこそか「結婚したいな」と純粋な好意を向ける男の子か)

 

 視線はまだ紙面の上

 

 

(そしてその思い出を大切に温め高1の主人公に好意を持つ、大学のお姉さんか)

 その瞬間だった。

「ぎゃあぁぁぁ――ッ!!」

 背後から上がった悲鳴が、慌てて途中で押し殺される。

 夜中だということを思い出したのだろう。

 叫びは途中でぐしゃりと潰れ、奇妙なうめき声へと変わった。

 振り向くまでもない。

「……峰田」

 名前を呼ぶより早く。

 小さな影が、必死の形相で飛びかかってきた。

「それオイラのだぁぁ!!」

 玄麗は本から目を離さない。

 ただ左手だけを、ひょいと横に出した。

 ぺし。

 軽い音。

 峰田の頭が、その手のひらにぴたりと止められる。

「ぐぬぬぬぬ……!」

 峰田は空中でもがく。

 手足をばたつかせ、必死に前へ進もうとする。

 だが――

 びくともしない。

 玄麗は片手で峰田の頭を押さえたまま、もう片方の手でページをめくる。

 ぱら。

 ぱら。

 ぱら。

「おや」

 また小さく声が漏れた。

「お姉さんの次は母親も参戦してくるのか

「やめろぉぉぉ!!」

 峰田の顔が真っ赤になる。

「ネタバレすんな! その作家のシリーズはオイラの魂の聖典(バイブル)なんだよぉ!!」

 玄麗は意に介さない。

 ぱら。

 ぱら。

 ぱら。

「ほう。此処で妹が乱入か」

「だぁぁぁぁ!!」

 峰田は涙目で叫ぶ。

「尊厳を破壊するなァ!!」

 玄麗は少しだけ眉を上げた。

「んで、挙句の果てには――」

 ページをめくりながら、淡々と読む。

「おいおいおいおい『パパになってね』と来たか」

 

 そして一言。

「……展開が急ぎすぎじゃないか?」

「やぁめぇろぉぉぉぉ!!」

 静まり返った深夜の寮に、峰田の魂の悲鳴が響いた。

 

本をぱたりと閉じる。

 その瞬間、玄麗の視線が一瞬だけ峰田に向いた。

 ほんのわずかな間。

 そして何事もなかったかのように、本をすっと自分の作務衣の懐へ滑り込ませる。

 峰田は一瞬、ぽかんとした。

 玄麗は立ち上がり、水の入ったマグカップを手に取る。

 まるで最初から何も起きていないかのように。

「……さて」

 くるりと峰田の方へ振り向く。

「峰田、暗いところで鉢合わせたからといって錯乱するとは、少々失礼じゃないかな」

「え?」

 峰田は間の抜けた声を出す。

「いや、え、ちょっと待っ――」

 その時だった。

 廊下の方から、ぱたぱたと足音。

「……ん?」

 リビングのドアが開く。

 顔を出したのは――

 八百万百だった。

「孫さん? どうかされましたか? 今、何か声が――」

 言葉が途中で止まる。

 リビング中央。

 深夜。

 玄麗と峰田。

 妙な距離感。

 床に膝をついたままの峰田。

 八百万の後ろから、もう一つ声がする。

「なんか騒がしくなかった?」

 耳郎響香が顔を覗かせる。

 状況を見る。

 一秒。

 二秒。

 沈黙。

 峰田の顔から血の気が引いた。

「ち、違う! これは違うんだ!」

 両手をぶんぶん振る。

「オイラ何もしてないから! 本当に! 何も!」

「……本?」

 耳郎の眉がぴくりと動く。

 峰田の顔がさらに青くなる。

「いや違う! 本じゃない! 本の話じゃない!」

 玄麗は静かにマグカップの水を一口飲んだ。

「大したことではないよ」

 落ち着いた声で言う。

「廊下で偶然会っただけだ」

 峰田が必死にうなずく。

「そ、そう! 偶然! 偶然だから!」

 耳郎は疑いの目。

 八百万は少し首を傾げる。

「ですが……先ほど『ぎゃあ』という声が」

 玄麗は少しだけ考える仕草をしてから言った。

「……暗がりで人に出くわしたら、驚くこともあるだろう」

 峰田を見る。

「そうだろう?」

「そ、そう! それ! それ!」

 峰田は人生最大レベルの勢いでうなずいた。

 耳郎はまだ疑っている。

「ふーん……」

 じっと峰田を見る。

 峰田の背中に冷や汗が流れる。

 だが。

 それ以上追及はなかった。

「まあいいけど」

 耳郎は肩をすくめた。

「夜中だし静かにしてよ」

「申し訳ありません、私たちも戻りましょう」

 八百万も軽く頭を下げる。

 二人が廊下へ戻る。

 ドアが閉まる。

 静寂。

 数秒後。

 峰田がその場に崩れ落ちた。

「……助かったぁぁぁ……」

 魂の抜けた声。

 玄麗はマグカップをテーブルに置きながら言う。

「峰田」

「は、はい」

「深夜に廊下をうろつくなら」

 一拍。

「もう少し心臓に優しい声量で頼む」

 峰田は何度もうなずいた。

「はい……本当に……すみませんでした……」

 玄麗は小さく肩をすくめる。

 

「さて、、と」

思い出したように呟き、作務衣の懐へ手を入れた。

 峰田の背筋が凍る。

 そして取り出されたのは――

 例の、新書サイズの本。

「ひっ……!」

 峰田の顔が引きつる。

 玄麗は特に気にする様子もなく、本を軽くぱらぱらとめくった。

 ページが風を切る音が、やけに大きく響く。

「ふむ」

 淡々と呟く。

「ラストシーンは幸せな家庭エンドか……姉妹丼というより親子丼だったな」

 ページを閉じる。

 黄金の瞳が峰田を見る。

「こういうハーレム物が趣味なのかい?」

「う、う、う……」

 峰田は何も言えない。

 玄麗は少し考えるように顎へ指を当てた。

「……まぁ」

 一拍置く。

「陵辱物よりは百倍くらい好感が持てるよ」

 さらっと言う。

 峰田の目がわずかに輝く。

 だが――

「元の好感が0.1なんで、百倍でも百点満点中10点だけど」

「ひどっ!」

 峰田は思わず叫んだ。

 玄麗は肩をすくめる。

 そして本を差し出した。

「ほら」

 峰田は慌てて受け取る。

 まるで命綱でも掴むかのように胸へ抱えた。

 玄麗はその様子を一瞬だけ眺めてから言った。

「ま、ほどほどにな」

 それだけ言うと、くるりと背を向ける。

 廊下へ歩き出す。

 マグカップを片手に。

 静かな足音が遠ざかっていく。

 残された峰田は――

 本を抱えたまま、その場にへたり込んだ。

「……助かった……のか?」

 誰もいないリビングに、かすれた声が落ちた。

 

「あっ、そうだ。多分だけど耳郎には全部聞かれてたと思うよ、言いふらされないことでも祈っとくんだね」

 

 

愕然とする峰田を置いてリビングから廊下の闇に消えていくのだった

 

 

峰田をリビングに残し、階段を上がる玄麗。踊り場で、壁に背を預けて立っている影を見つけ

玄麗は足を止め、手にしたマグカップを揺らさずに視線を向けた。

「耳郎か。……やっぱり、戻ってなかったんだね」

闇の中から、耳郎響香がジト目で顔を出す。耳のプラグが、微かに揺れていた。

「……アンタさ。わざとやったでしょ。あいつの絶叫、この距離なら耳を塞いでも聞こえるっつーの」

 

 

「全部、聞いてたたのかな?」

 

「あいつ、明日からどういう顔して……」と呆れ混じりに呟くのに対し、玄麗は足を止めずに答える。

「……僕は、言いふらす気はないよ」

耳郎が意外そうに顔を上げる。

「え? アンタ、あんなに弄んでたのに?」

玄麗は階段を一段登り、振り返らずに言った。

「自業自得といえばそれまでだけど。たかだかエロ小説を置き忘れただけの制裁としては、これ以上は重すぎる。……今夜は寝れないだろうけど、恐怖を味わわせただけで、十分だろう」

 

 

「まあ、確かにね。あいつが学校来なくなっても、それはそれで面倒だし」

耳のジャックを指先で弄りながら、少しバツが悪そうに視線を逸らしていた

「分かったよ。あたしも言いふらしたりはしない。……あんなバカげた内容、口にするのも恥ずかしいしね。アンタ、あれを平然と音読してたけど……心臓に毛でも生えてんじゃないの?」

 

「読書感想を言っただけさ」

さらりと、風が吹くような軽やかさで玄麗は言った。

そのまま彼女は、階段を登りきった二階のエントランスへと足を向ける。

「……感想って。あんなの、まともな神経じゃ読めないでしょ」

耳郎が背中に向けて投げた言葉にも、玄麗は歩みを止めない。

「ま、ほどほどにね。夜更かしはお肌に毒だよ」

ひらりと、空いた方の手を軽く振って。

玄麗は二階エントランスの重い扉を開き、静かにその向こう側――自室のある廊下へと消えていった。

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