目が覚めた。
枕元のスマートフォンを手に取り、画面を見る。
5:38
まだ外は、うっすらと夜の気配を残している時間だった。
孫玄麗は静かに上体を起こす。
同じ部屋の畳の上には、まだ二つの布団が並んでいた。
規則正しい寝息。
麗日お茶子 と
葉隠透 だ。
起こさないように、ゆっくりと布団から出る。
音を立てないように布団を畳む。
動きは静かで、ほとんど音がしない。
畳み終えたところで、机の上のメモ帳を手に取る。
ペンを走らせる。
短い文章。
畑の手伝い行ってくる。
7時半には戻るよ。
メモを机の上に置き、玄麗は立ち上がった。
甚平を整え、静かに部屋の戸を開ける。
廊下もまだ静まり返っている。
玄関で草履を履き、外へ出た。
朝の那歩島は、空気が少し冷たい。
玄麗はそのまま歩き出す。
目的地は、昨日約束した畑。
山田という島の老人の畑だった。
海沿いの道を抜け、坂を上る。
畑が見えてきた頃、スマホを見る。
5:50
玄麗は畑の端で立ち止まり、軽く伸びをした。
その二分後。
畑の向こうから、ゆっくり歩いてくる影が見えた。
帽子を被った老人。
「おや、もう来てたのか」
山田の爺さんだった。
玄麗は軽く頭を下げる。
「おはようございます」
老人は笑う。
「来てくれてありがとう」
玄麗は鍬を手に取りながら答えた。
「そういう約束だったし」
一拍置く。
「ただ、緊急の仕事の連絡が来たら行くことになるけど」
老人が頷く。
「そりゃヒーローの仕事だ。構わんよ」
「なら良かった」
玄麗は鍬を畝に入れる。
土が返る。
それからは、ほとんど会話はなかった。
土起こし。
雑草抜き。
黙々と手を動かす。
朝日が少しずつ畑を照らしていく。
一方その頃。
宿舎の部屋では。
6:30
布団の中で、もぞりと動く影。
「んん……」
お茶子が目をこすりながら起き上がる。
「ふぁ……」
葉隠も布団の中で伸びをした。
「孫さん……もう起きてる?」
部屋を見回す。
布団が綺麗に畳まれている。
机の上に、紙が一枚。
お茶子が手に取る。
書き置き。
それを読み上げる。
「畑の手伝い行ってくる。七時半には戻るよ」
葉隠が笑う。
「朝から働き者だねぇ」
お茶子も苦笑する。
「ほんとに」
畑。
太陽はすっかり上がっていた。
玄麗は最後の雑草を抜き、立ち上がる。
その時。
スマートフォンから電子音が鳴った。
7:20
アラーム。
玄麗は画面を見て、鍬を置いた。
「ほんじゃ僕はこれで」
山田の爺さんが顔を上げる。
「もう帰るのか?」
「七時半までに戻る約束なんだ」
玄麗は軽く手を振る。
「続きは正式に依頼されたらってことで」
老人が笑った。
「はは、そうか」
玄麗は畑を後にした。
8:20
宿舎の食堂。
A組の面々が朝食を食べている頃。
玄関の戸が叩かれた。
「すみません」
入ってきたのは、山田の爺さんだった。
「ヒーローさんにお願いがあってな」
玄麗は椅子に座っていたが、その声を聞いて小さく息をつく。
「……やっぱり来たか」
ゆっくり席を立つ。
肩を軽く回す。
「やれやれだね。」
そう言いながら、玄麗は玄関の方へ歩いていった。
那歩島の臨時ヒーロー事務所は、元は小さな集会所だった。
壁には簡単な地図。机がいくつか並べられ、そこが「受付」になっている。
13時20分
「はいはーい、次の人どうぞ!」
元気な声が室内に響いた。
机の向こうで手を振っているのは、
芦戸三奈 だ。
島の人たちの相談を聞く係になってからというもの、彼女はすっかり受付係が板についていた。
「えっとねぇ、うちの屋根なんだけどさ」
目の前の島民が申し訳なさそうに言う。
「昨日の風で瓦がずれちゃってね……」
「屋根修理ね、オッケー!」
芦戸は手元のメモにさらさらと書き込む。
「場所はー……港のとこの白い家?」
「そうそう」
「了解!」
メモを書き終え、顔を上げたところで――
「それなら」
後ろから静かな声がした。
振り返ると、孫玄麗が立っていた。
作務衣のコスチューム姿で、腕を軽く組んでいる。
「僕が行こう」
芦戸が目をぱちくりさせる。
「え、今?」
「大した作業じゃなさそうだ」
玄麗はそう言って、メモをちらりと見た。
「港の白い家だね」
「う、うん」
「すぐ戻るよ」
それだけ言って、玄麗はくるりと踵を返した。
芦戸は慌てて声をかける。
「ちょ、待って! 誰かもう一人――」
しかし。
玄関の外で、ふわりと白い雲が浮かび上がるのが見えた。
觔斗雲。
次の瞬間には、玄麗の姿はもう屋根の高さへと上がっていた。
「……」
芦戸はぽかんと口を開けた。
「いや早いって!」
思わず突っ込む。
しかし受付は忙しい。
すぐに次の島民がやって来た。
「すみません、畑の柵が――」
「あ、はいはい! どうしました?」
芦戸はまたメモを取り始める。
相談を聞き、場所を書き、対応を考える。
十分ほど経った頃だった。
がらり。
事務所の扉が開いた。
芦戸が顔を上げる。
そこに立っていたのは――
玄麗だった。
作務衣の袖を軽く払っている。
「終わったよ」
芦戸は数秒固まった。
「……は?」
玄麗はメモの紙を机に置く。
「瓦が三枚ずれていただけだった。直しておいた」
「え」
「問題ないと思う」
静かな口調。
芦戸の目が見開く。
時計を見る。
まだ十分くらいしか経っていない。
「……」
そして一言。
「はや!」
思わず声が出た。
玄麗は首を少し傾げる。
「そうかい?」
「そうかいじゃないよ! だって今行ったばっかじゃん!」
芦戸が机をばんばん叩く。
「普通もっとかかるでしょ!」
「まぁ」
玄麗は肩をすくめた。
「屋根までの移動時間がほとんどなかったからね」
芦戸は数秒、じっと玄麗を見つめる。
そして。
「……便利すぎるでしょ、その雲」
玄麗は少しだけ笑った。
「そうかもしれないね」
その時。
また事務所の扉が開いた。
さっきの屋根の家の島民が、少し息を弾ませながら入ってくる。
「あの!」
芦戸が顔を上げる。
「どうしました?」
島民は玄麗を見ると、慌てて頭を下げた。
「もう直してくれてて驚いたよ!」
芦戸が玄麗を見る。
玄麗は静かに頷いた。
「問題なさそうでしたか?」
「完璧だったよ!」
島民は笑いながら帰っていく。
扉が閉まる。
しばらく沈黙。
そして芦戸は、ゆっくり椅子にもたれた。
「……」
一言。
「いやマジではやいって!」
海風が涼しくなり、子供たちが浜辺へ集まっていた。
その前には作務衣のコスチューム姿の玄麗
「ヒーロー! なんか教えて!」
数人の子供が玄麗の前に並ぶ。
玄麗は少し考えるように顎へ指を当てた。
「戦い方を教えるのは、まだ早いかな」
子供たちががっかりした顔をする。
玄麗は続けた。
「でも、転び方なら教えられる」
「転び方?」
砂浜に立ち、玄麗は軽く膝を曲げた。
「例えばね」
そのまま、すっと前に倒れる。
くるり、と体が回り、砂の上へ滑るように受け身を取る。
子供たちの目が丸くなる。
「おおー!」
「今のやつ!」
玄麗は立ち上がり、手を払う。
「転ぶときに怪我をしない技術だ。これが出来ると、だいぶ安全になる」
子供たちは真似を始める。
どすん。
「いたっ!」
「背中からじゃない。丸くなる」
玄麗が手で形を示す。
波の音の中で、小さな修行が始まった。
「転ぶときはね、手を突くんじゃない。背中を丸める」
そう言いながら、実際に体を倒す。
前へ。
くるり、と滑るように回転し、砂の上へ柔らかく着地する。
砂がふわりと舞う。
「おおー!」
子供たちから歓声が上がる。
「すげー!」
「もう一回!」
玄麗は立ち上がり、目の前の子供へ軽く頷く。
「じゃあやってみよう」
少年が真似をする。
どすん。
「いたっ!」
「丸くなるって言っただろう」
玄麗が手で背中の形を作る。
「こう。背中を丸めて転がる」
「こう?」
「そうそう」
ようやく綺麗に回れると、周りから拍手が起きた。
だが。
「次! 次わたし!」
「オレまだ!」
「早く!」
子供たちが一斉に前へ出る。
玄麗は少しだけ目を瞬いた。
「ええと……順番に」
「次ぼく!」
「違う! あたし!」
子供たちはどんどんヒートアップしていく。
砂浜の列が崩れ、前へ前へ押し寄せる。
玄麗は小さく息をついた。
「落ち着いて。ちゃんと全員――」
「次! 早く!」
「やらせて!」
ぐいぐいと袖を引かれる。
玄麗の眉がわずかに困ったように寄る。
「……順番、という概念はないのかな君たち」
小さく呟く。
その時だった。
「孫さん」
背後から声がした。
振り返ると、砂浜を歩いてくる人影が一つ。
尾白猿夫 だった。
夕日の中で、尾白が軽く手を挙げる。
「俺も手伝おう」
玄麗が一瞬だけ目を細める。
「助かるよ」
尾白は子供たちの前にしゃがみこんだ。
「よし、じゃあ二列に並ぼう!」
元気な声。
「俺の列と、孫さんの列だ!」
「おおー!」
子供たちがわっと動く。
砂浜に、二つの列が出来た。
玄麗は少し肩の力を抜いた。
「なるほど」
尾白が笑う。
「人数多いときは分担したほうが早い」
玄麗は小さく頷いた。
「合理的だね」
そこからは、流れが早かった。
「よし、次!」
尾白が見本を見せる。
尾を使って、綺麗な受け身を取る。
「おおー!」
子供たちが真似をする。
玄麗の方でも、一人ずつ動きを直していく。
「そう、背中を丸める」
「腕はこう」
「いいね」
砂の上で転がる音と、子供の笑い声。
波の音が混ざる。
夕日が少しずつ沈んでいく。
気がつけば、一時間ほど経っていた。
最後の子供が受け身を終えると、浜辺は拍手でいっぱいになった。
「できた!」
「転べる!」
「ヒーローありがとー!」
子供たちが手を振りながら帰っていく。
浜辺に静けさが戻る。
尾白が伸びをした。
「元気ですねがあって良いな」
玄麗は海を見ながら小さく笑った。
「うん」
一拍。
「正直、少し圧倒されていた」
尾白が思わず吹き出す。
「孫さんでも子ども相手ではタジタジなんだな」
「人数が想定外だった」
砂浜に残った足跡を見ながら、玄麗は静かに言う。
「でも、楽しかったよ」
海風が二人の間を通り抜けた。
海の向こうで、太陽がゆっくり沈みかけていた。空は橙から群青へと変わり始めている。
砂浜からの帰り道を、二人組が並んで歩いていた。
孫玄麗と、
尾白猿夫 だ。
「いやー、子供って元気だな」
尾白が苦笑する。
「一時間ずっと転がってたよ」
玄麗は小さく頷く。
「楽しそうだった」
「孫さんも結構楽しそうだったよ」
「そう見えたかい?」
そんな話をしながら、二人は宿舎へ向かう坂道を上っていた。
その途中。
一軒の家の前を通りかかる。
縁側に、二人の老人が座っていた。
盤の上に将棋駒が並んでいる。
藤崎の爺さんと、瓜生の爺さんだった。
「ん?」
瓜生の爺さんが顔を上げる。
「おや、ヒーローさん」
玄麗が軽く頭を下げる。
「こんばんは」
盤の前に座っていた瓜生の爺さんは、少し困ったように笑った。
「ちょうどいいところに来た」
ちらりと盤を見る。
どうやら、かなり追い詰められている。
「ヒーローさん、一つやらないかい?」
にやりと笑う。
「今日こそ勝たせてもらうよ」
玄麗は盤を見て、少しだけ肩をすくめた。
「やれやれ」
そして隣の尾白を見る。
「尾白、悪いけど先に帰ってて」
「え?」
「十分くらいで戻ると思う」
尾白は苦笑する。
「将棋?」
「ちょっとした付き合いだよ」
「分かったお先に、夕飯に遅れるなよ」
尾白は軽く手を振って坂を上っていった。
玄麗はブーツを脱ぎ、縁側へ上がる。
盤の前に座る。
駒を軽く整えながら言った。
「三分の早指しでいいかな?」
瓜生の爺さんが目を細める。
「ほう、強気だね」
「時間も遅いし」
盤の横に時計が置かれる。
対局が始まった。
駒の音が、夕闇の中に響く。
ぱち。
ぱち。
手は速い。
互いにほとんど考えずに指していく。
夜風が縁側を通り抜ける。
そして――
五分四十秒後。
玄麗の手が止まった。
盤を静かに見つめる。
「……これで」
一拍。
「多分、五手詰めかな」
瓜生の爺さんが目を細める。
「ほう?」
玄麗の指が動く。
桂馬打ち。
「王手」
瓜生の爺さんが逃げを受つ。
玄麗の指がまた駒を取る。
銀、ならず。
「王手」
藤崎の爺さんが横から盤を覗き込む。
「おお……」
瓜生の爺さんは逃げの一手。
玄麗の手が、最後の駒を持つ。
金打ち。
「王手」
盤が静まる。
瓜生の爺さんが盤を見つめる。
そして、ふっと笑った。
「……詰みだな」
玄麗は軽く頭を下げた。
「ありがとうございました」
立ち上がり、ブーツを履く。
縁側から降りる。
「ほんじゃまた」
手を軽く振る。
老人たちが笑う。
「次こそ勝つぞ」
「楽しみにしてるよ」
玄麗は小走りで坂を上り始めた。
夜の帳が、島へゆっくり降りてくる。
その中を、玄麗は軽い足取りで宿舎へ戻って行く
島民の皆さんに差し入れられた豪勢な夕食の後。
那歩島の宿舎では、食器の音がまだキッチンに残っていた。
大皿や鍋はみんなで片付けているが、各自の皿はそれぞれが洗うことになっている。
甚平姿の孫玄麗は、流し台の前で静かに手を動かしていた。
スポンジで皿をなぞり、水で流す。
拭き布で軽く水気を取る。
それだけの作業を、淡々と終える。
皿を棚に戻し、甚平の袖を軽く整えた。
「さて」
小さく呟く。
玄関で草履を履き、外へ出る。
夜の那歩島は静かだった。
遠くで波の音がする。
潮の匂いが、夜風に混じっている。
玄麗はゆっくりと歩いた。
特に目的地があるわけでもない、短い散歩だ。
昼間の騒がしさが嘘のように、島は落ち着いている。
数分ほど海沿いを歩き、玄麗は宿舎へ戻った。
塀を抜けた
その時。
横から、かすかな風切り音が聞こえた。
――訓練。
玄麗はそちらへ視線を向ける。
庭の端で、一人の少年が動いていた。
右、左、右。とゆっくりと正確な軌道の蹴りを行なっていた。
緑谷出久 だ。
呼吸は少し荒いが、動きは真剣だ。
玄麗は少しだけ眺めてから声をかけた。
「緑谷」
緑谷が振り向く。
「孫さん?」
玄麗は庭へ歩き出る。
軽く肩を回しながら、数歩進む。
そして。
すっと足を開き、腰を落とした。
軽い戦闘姿勢。
右手の指を、くいくいと曲げる。
「少し付き合ってくれるかい」
緑谷の目が一瞬丸くなる。
玄麗は続けた。
「個性使用は一切無し」
一拍。
「単純な身体能力だけね」
緑谷の顔が引き締まる。
「……はい!」
すぐに構えた。
砂利の上で、二人が向き合う。
夜風が通る。
最初に動いたのは緑谷だった。
踏み込み、拳を突き出す。
玄麗は半歩だけずれる。
拳が空を切る。
そのまま腕を軽く払う。
「いい踏み込みだね」
緑谷はすぐに体勢を戻す。
今度は回り込み、蹴り。
玄麗が腕で受ける。
鈍い音。
互いに距離を取る。
また踏み込み。
攻防は数分続いた。
緑谷の動きは、少しずつ速くなる。
フェイント。
踏み込み。
連続の拳。
玄麗がかわす。
しかし。
次の瞬間。
緑谷の足が玄麗の重心を崩した。
「おっ?」
くるり、と体が回る。
玄麗が背中から地面へ倒れる。
砂利がわずかに鳴った。
そのまま。
緑谷の拳が、玄麗の鼻先で止まる。
寸止め。
ほんの数センチ。
夜が静まる。
数秒。
玄麗が小さく息を吐いた。
「……降参だよ」
緑谷が慌てて手を引く。
「す、すみません!」
「謝る必要はないさ」
玄麗は差し出された手を取って立ち上がる。
軽く肩を払う。
「いい動きだったよ」
緑谷は少し照れたように笑う。
「ありがとうございます!孫さんにそう言われると自信になります。」
「うん」
玄麗は玄関の方へ歩き出した。
「んじゃ僕はもう寝るよ」
振り返らずに手を軽く振る。
「おやすみ」
「おやすみなさい!」
玄関の引き戸を開ける。
その瞬間。
奥から曲がってきた人影と、ちょうど鉢合わせた。
コスチューム姿の爆豪勝己 だった。
一瞬、視線が合う。
玄麗は特に気にした様子もなく言う。
「おやすみ」
爆豪は数秒黙った。
そして、少しだけ視線を逸らす。
「……おう」
短い返事。
玄麗はそのまま廊下の奥へ歩いていく。
夜の宿舎は、もう静かだった。