訓練場のの床を挟み、二人が向かい合う。
開始の合図。
先に動いたのは緑谷だった。
踏み込みと同時に右拳が飛ぶ。
玄麗は半歩だけ体を流す。
拳が鼻先をかすめ、空を切った。
勢いのまま、緑谷がもう一歩踏み込む。
二発目。
大きい右。
玄麗は上体を後ろへ反らす。
拳が胸元の前を通り過ぎる。
緑谷は止まらない。
三発目。
今度は左。
玄麗の視線がわずかに下がる。
次の瞬間、膝が落ちた。
拳が頭上を通り過ぎる。
そのまま玄麗の体が左右へ揺れる。
右へ。
左へ。
緑谷の拳が空を切る。
四発目。
五発目。
六発目。
どれも届かない。
拳はかすりもしない。
玄麗は一歩も下がらないまま、体だけでそれを躱していた。
低く沈み、左右に流れる。
清流のように、静かな動き。
やがて。
緑谷の拳が、わずかに鈍った。
呼吸が乱れ始める。
その時になって、ようやく玄麗が口を開いた。
「……力みすぎだ」
緑谷の次の拳を、またわずかに首を振って外す。
「拳が来るのが全部見えている」
玄麗は手を出さない。
ただ、そこに立っているだけだった。
それでも緑谷の拳は届かない。
右、左、右。
拳はすべて空を切る。
玄麗の体が低く沈み、左右へ揺れる。
拳は頭上を通り過ぎ、肩の横を抜ける。
「くっ……!」
緑谷の呼吸が荒くなる。
顔の高さは当たらない。
そう判断したのか、次の瞬間。
拳の軌道が変わった。
低い。
腹を狙った一撃。
踏み込みと同時に、真っ直ぐ突き出される。
だが。
玄麗の足が、すっと後ろへ滑った。
バックステップ。
拳の先が、さっきまで玄麗の腹があった空間を突き抜ける。
距離は、ほんの半歩。
それだけで届かない。
緑谷が歯を食いしばる。
さらに踏み込む。
もう一歩。
もう一発。
だが玄麗はまた同じように、すっと下がる。
拳はまた空を切る。
距離は変わらない。
縮まらない。
まるで見えない線でも引かれているかのように。
玄麗は静かに緑谷を見ていた。
「……」
やがて、小さく息を吐く。
「ようやく、狙いは良くなった」
一拍。
「でも」
次の拳を、首を傾けるだけで外す。
「足が追いついてない」
緑谷は止まらない。
踏み込み。
右拳が弧を描く。
玄麗の足が横へ滑った。
半歩。
体が緑谷の外側へずれる。
拳は空を切った。
サイドステップ。
緑谷はすぐに体を回し、反対の拳を振る。
左。
追うように放たれる。
だが玄麗の足が、床を静かに踏み替えた。
軸足を残したまま、体がするりと回る。
緑谷の横へ。
視界から消えるような動きだった。
拳はまた空を切る。
ピボット。
気づけば、二人の位置が入れ替わっていた。
緑谷の背中の向こうに、さっきまで玄麗がいた場所が見える。
玄麗はゆっくりと体を正面に戻した。
呼吸は乱れていない。
対して、
緑谷出久 の肩は、わずかに上下していた。
玄麗は静かに言う。
「力だけはある」
一拍。
「でも、まだ“追い方”を知らないね」
緑谷の動きは、もう最初の勢いを失っていた。
呼吸が荒い。
肩が上下している。
それでも、歯を食いしばって踏み込む。
右。
だが拳に力はない。
玄麗の手が、ほんのわずかに動いた。
ぱしり。
拳を外へ払う。
軽い動きだった。
だがそれだけで、緑谷の体勢が崩れる。
踏ん張りがきかない。
よろめき、二歩、三歩。
ふらついた足が止まらない。
やがて緑谷はその場で膝に手をついた。
肩で息をしている。
玄麗はゆっくり歩み寄った。
「……途中からしか数えてないけど」
少し首を傾げる。
「三十発」
一拍。
「三十発も届かずにそれかい」
緑谷は顔を上げるが、言葉が出ない。
玄麗は続けた。
「三十発が少ないとは言わないけど……」
少し考えるように間を置く。
それから、はっきり言った。
「いや、ハッキリ言おう、バテるのが早すぎるよ」
玄麗は緑谷の前に立つ。
額に、手のひらを当てた。
ぐっ、と軽く押す。
それだけだった。
だが支えを失った緑谷は、そのまま後ろへ倒れる。
どさり。
尻もちをつく。
玄麗は手を下ろし、静かに息を吐いた。
「力を振るう前に、まず体力だ」
玄麗は小さく息を吐いた。
それから一歩踏み出す。
緑谷はまだ尻もちをついたまま、肩で息をしていた。
玄麗はポーチから確保テープを取り出す。
ぱしり、と短い音。
緑谷の両手首がまとめて拘束された。
抵抗する余力はもうない。
「……はい、終了」
玄麗は淡々と言った。
体育館には二人しかいない。
天井のカメラだけが静かにこちらを向いていた。
玄麗は緑谷の前に立つ。
そして右手を差し出す。
「立てるかい」
緑谷が顔を上げる。
差し出された手を見る。
それから玄麗の顔を見る。
一瞬、固まった。
視線が泳ぐ。
口が少し開く。
「え、あ、あの……」
ぎこちない。
明らかに挙動不審だった。
玄麗は無言でその様子を見下ろす。
内心で、小さく息を吐く。
(……早く立てっての)
数秒。
沈黙。
差し出した手はそのまま。
玄麗は少しだけつまらなさそうに目を細め、静かに待っていた。
緑谷はまだ少し戸惑ったまま、差し出された手を見ていた。
それから、おずおずと手を伸ばす。
玄麗の手を取る。
力を入れると、体は簡単に引き上げられた。
緑谷が立ち上がる。
まだ呼吸は整っていない。
玄麗は手を離し、軽く肩をすくめた。
「そんなテレフォンパンチに、本気で付き合って当たってやるほど僕は優しくないよ」
緑谷がきょとんとする。
玄麗は続けた。
「どうしてもテレフォンでスマッシュとかやりたいなら」
一拍。
「オールマイト みたいな速さと迫力を身につけることだね」
緑谷は思わず息を呑む。
玄麗は緑谷の横に立ちながら言う
「取りあえず体を鍛えようか」
ぽん。
軽く腰を叩く。
もう一度。
ぽん、ぽん。
「特にこのあたりからね」
緑谷は一瞬固まる。
そして慌てて背筋を伸ばした。
そんな姿を鼻で軽く笑い
「僕は孫玄麗。孫でも玄麗でも好きに呼んでいいよ」
「あ、え、ええと! ぼ、僕は緑谷出久です! あの、えっと、孫さん……でいいのかな? あ、それとも玄麗さん……!? いや、でも会ったばかりで名前で呼ぶのは失礼だし、でも『好きに呼んでいい』って言ってくれたし……あわわわ、すみません! 緑谷です、よろしくお願いしますッ!!」
そんな自己紹介をやはり鼻で軽く笑っていた。