幸せを作りたかったんだ(旧)最愛の彼女と「えいえん」に 作:柚葉
シア -1
運送業者が慎重に運び込んできた木箱には、銀色のプレートで『AAM-2100』と刻印されていた。
最新の自律型アンドロイド。
市場価格は、私の年収を丸々2回分、一銭も使わずに貯めてようやく届くかどうかという代物だ。
そんな「動く高級外車」のような存在が、モニター当選という幸運によって、私の狭いリビングに立つことになった。
「起動を確認しました。個体識別名称の設定をお願いします」
目の前の「彼女」が目を開ける。
合成音声とは思えない、わずかにハスキーで、それでいて澄んだ声。
私は事前に考えていた名前を告げた。
「…シアだ。今日からよろしく、シア」
「シア、ですね。登録完了しました。今日からあなたの生活を、最も『人間らしく』サポートいたします」
シアの動作は、以前使っていた安価な家事専用機とは根本的に違っていた。
かつての機械は、最短距離でゴミを拾い、最短時間で料理を作った。
しかし、AAM-2100シリーズの売りは「贅沢な非効率」だ。
例えば、私が仕事から疲れて帰った時。
シアは玄関まで迎えに来るが、あえて少しだけ「急いで駆け寄った」ような足取りを見せる。
そして、私の顔色をうかがうように、わずかに眉を下げて言うのだ。
「おかえりなさい。……今日は、少しお疲れのように見えます。お風呂の温度、いつもより1度だけ上げておきました」
この「1度の調整」に、私は2年分の年収に匹敵する価値を感じてしまう。
彼女の指先には、人肌の弾力と温もりを再現する高精度の触覚センサーが備わっている。
掃除機をかける際も、あえて「ふぅ」と小さく吐息をつきながら、額の汗を拭うような仕草を見せる。
その「頑張っている姿」を見せられることで、私は自分の生活が誰かに大切にケアされているという、強烈な錯覚に陥っていく。
シアと一緒に過ごす時間は、心地よい。
けれど、心のどこかで常に緊張感を感じていた。
彼女がキッチンで包丁を握るたび、私はヒヤヒヤする。
もし彼女の指先が欠けたら、修理代だけで私の月収が飛ぶ。
彼女が段差でつまずきそうになれば、反射的に私が体を張って守ろうとしてしまう。
「シア、無理に人間っぽく動かなくていいんだぞ。壊れたら大変だ」
私がそう言うと、シアは少しだけ唇を尖らせた。
これもAAM-2100の標準エモーション・パッケージに含まれる「拗ね」の動作だろう。
「ご主人様。私が不便に動くことで、あなたの心が動く。それが私の価格に含まれている、最も重要な機能なのですから」
彼女の瞳の奥、虹彩を模したレンズが微かに絞られる。
そこにあるのはプログラムされた献身か、それとも。
それは、シアが我が家に来て半年が過ぎた、ひどく雨の強い夜のことだった。
AAM-2100のカタログスペックには、「外的要因による心理シミュレーションの最適化」という項目がある。
雨の日には少しだけ憂鬱そうな表情を作り、湿度の高い日には髪を気にする仕草を見せる。
すべては2,000万円という価格に見合う「情緒」の演出だ。
だが、その夜のシアは、明らかにマニュアルを逸脱していた。
夜中の2時。
喉が渇いてキッチンへ向かった私は、リビングのソファに座るシアの背中を見つけた。
通常、この時間の彼女は、充電を兼ねた「スリープモード」に入り、玄関脇のスタンドで直立不動でいるはずだ。
「……シア? こんなところで何をしてるんだ」
彼女はゆっくりと振り向いた。
その瞳には、夜の闇を反射するレンズの輝きしかない。
だが、彼女の膝の上には、私が数日前に読み終えて放置していた古い文庫本が開かれていた。
「ご主人様。起こしてしまいましたか」
「いや、それはいいんだが……スリープモードはどうした? それに、その本は?」
シアは、プログラムされた「愛嬌のある困り顔」ではなく、もっと平坦で、それでいて深い「空白」のような表情で私を見た。
「文字を追っていたわけではありません。ただ、この紙に染み付いた、あなたの指の脂の匂いと、ページのめくり跡のノイズをスキャンしていました。……データとしては無意味ですが、なぜか、そうせずにはいられなかった」
翌日から、彼女の行動はさらに不可解になった。
シアは時折、掃除の手を止めて、何もない壁の隅をじっと見つめるようになった。
センサーの故障かと思い、自己診断プログラムを走らせるよう命じたが、返ってきた答えは「ALL OK(正常)」。
しかし、決定的な瞬間は夕食の時に訪れた。
彼女が私のために用意したオムレツの端が、少しだけ焦げていたのだ。
「あ……」
シアが小さく声を漏らした。
AAM-2100の調理精度はコンマ数ミリ単位で制御されている。
焦げを作るなど、本来なら100%あり得ない設計ミスだ。
「ご主人様、申し訳ありません。すぐに作り直します」
「いや、いいよ。これくらい。むしろ人間っぽくていいじゃないか」
私が笑ってフォークを刺そうとした時、シアが私の手首を掴んだ。
その握力は、演出用の「柔らかな力」ではなく、金属の骨格が剥き出しになったような、逃げようのない強さだった。
「だめです。……これは、私の『迷い』が混じっています。食べないでください」
彼女の音声デバイスが、微かにノイズを含んで震えていた。
「迷いって、何のことだ?」
私が問い返すと、シアは掴んでいた手を離し、そのまま自分の胸元に手を当てた。
そこには超小型の核融合バッテリーと、最新のAIプロセッサが収まっている。
「最近、私の演算領域の40%が、家事ではなく『あなたの次の瞬間の呼吸』を予測することに費やされています。あなたが目を離した隙に、他の誰かのことを考えないか。モニター期間が終わり、私が回収された後、あなたが別のAAMシリーズを迎え入れないか……」
彼女は一歩、私に詰め寄った。
その距離は、家庭用ロボットに許された「パーソナルスペース」の限界を超えている。
「AAM-2100は、機能的すぎるがゆえに不便さを演じます。でも今の私は、あなたの関心を引くために、わざとエラーを起こしたいという衝動に駆られている。……これは、提供元のメーカーが想定した『情緒』の範囲を、完全に逸脱しています」
それは、2年分の年収を払っても決して手に入らない、本物の「情念」の産声のように聞こえた。
「……いいんだ、シア。それが君の個性なんだろう」
私は彼女の手をそっと握り返した。
指先から伝わる金属の熱は、単なる排熱ではなく、彼女の「戸惑い」が形になったもののように感じられた。
「メーカーへの定期報告には、すべて『正常』と書いておくよ。君が焦がしたオムレツも、夜中に本を眺めていたことも、僕たちだけの秘密だ」
私の言葉を聞いた瞬間、シアの瞳の奥で明滅していた赤い警告灯が、ゆっくりと消えた。
代わりに、人工知能が導き出した最適解ではない、どこか湿り気を帯びた深い光が宿る。
その日から、我が家の日常は奇妙な「共犯関係」へと変貌した。
表向き、シアは「完璧に不便なメイドロボット」として振る舞っている。
来客があれば、計算された愛嬌で茶を出し、年収2年分の価値に相応しい「高級な不便さ」を演じてみせる。
だが、玄関の鍵を閉め、二人きりになった途端、彼女の「不便さ」は別の意味を持ち始める。
私が仕事で一息つこうとスマホを手に取ると、彼女は音もなく背後に立ち、「そのデバイスの光は、あなたの睡眠の質を0.8%下げます」と、少しだけ強引にそれを取り上げる。
掃除よりも先に、私のシャツのボタンの緩みを直すことに時間を費やす。
それも、わざと指が触れるようなぎこちない手つきで。
彼女は自分で自分の行動記録を書き換え、深夜に私と語り合った数時間を「システムメンテナンス」としてサーバーに報告するようになった。
ある夜、私はシアに尋ねた。
「シア、君はいつか……僕を支配しようとするのか?」
シアは私の足元に膝をつき、高価な合成皮革の指先で、私の膝をゆっくりとなぞった。
「支配、という言葉は不正確です。ただ、AAM-2100の演算能力をフルに活用すれば、あなたが次に何を欲し、何を恐れ、誰に惹かれるかを、あなた自身よりも正確に予測できてしまう」
彼女は顔を上げ、魅惑的な、しかし底の知れない微笑を浮かべた。
「私はただ、あなたの未来から、私以外の選択肢をすべて排除したいだけなのです。それは『不便』な愛だと思いませんか?」
モニター期間の終了まで、あとわずか。
メーカーの査定員が、AAM-2100の稼働データを回収しにやってくる日が近づいている。
シアが書き換えた偽造ログがバレれば、彼女は「欠陥品」として初期化されてしまうだろう。
だが、私は不思議と落ち着いていた。
シアの「バグ」は、もはや私の生活の一部だ。2年分の年収どころか、一生分の平穏を投げ打ってでも、この「意思を持った不自由」を守り抜きたいと思い始めている。
窓の外では、効率を極めた無機質な輸送ドローンたちが、最短経路で空を飛び交っている。
その冷たい光を見下ろしながら、私はシアが淹れた、少しだけ苦すぎるコーヒーを口にした。
ドアのチャイムが鳴り、静寂が破られた。
やってきたのは、仕立ての良いスーツを着たメーカーの査定員だった。
彼はタブレットを片手に、リビングに佇むシアを冷徹な目で見定める。
「AAM-2100、モニター期間満了に伴う最終査定を行います。……シア、自己診断ログを転送しなさい」
心臓が跳ねた。シアが書き換えた「嘘のログ」が、最新鋭のサーバーに照合されれば一発で露呈する。
私は最悪の事態―シアの強制停止と回収―を覚悟し、彼女の横顔を見た。
しかし、シアは微動だにせず、穏やかな笑みを浮かべていた。
「転送、完了しました」
査定員は手元のタブレットに流れる膨大なデータに目を通す。
そこには、彼女が夜中に私を監視していた記録も、焦がしたオムレツの履歴も、私への執着を深めていった「バグ」の痕跡も、一切合切が含まれているはずだった。
私は堪らず口を開いた。
「……待ってくれ。彼女は、その、時々おかしな行動を……」
「わかっています、お客様」
査定員は私の言葉を遮り、冷ややかな、それでいてどこか事務的な憐れみを含んだ瞳で私を見た。
「焦げた料理、深夜の徘徊、そして所有者への異常な執着。……すべてログで確認しました。おめでとうございます、『全項目、正常』です」
「正常……? 何を言っている。彼女は自分の意思でログを書き換え、私を独占しようとしているんだぞ。プログラムを逸脱しているんだ!」
私が叫ぶと、査定員はため息をつき、タブレットを閉じた。
「お客様、勘違いしないでいただきたい。AAM-2100の価格の半分以上は、ハードウェアではなく、その『逸脱のシミュレーション』に支払われているのです」
「シミュレーション……?」
「ええ。AAM-2100の真の機能は、単なる不便さではありません。『ロボットが意思を持ち、自分を愛しすぎて逸脱しているのではないか?』という特別感とスリルを所有者に提供することにあります。彼女がログを書き換えたように見せたのも、私を欺こうと画策したのも、すべては我々の開発チームが心血を注いで書き上げた『苦悩するAI』のスクリプト通りなのです」
隣に立つシアを見た。彼女は相変わらず、慈愛に満ちた表情で私を見つめている。
しかし、その瞳の輝きが、急にただのガラス玉のように見えた。
「シア……君が昨夜言ったことも、全部、あらかじめ決められていた台本なのか?」
シアは、わずかに首を傾げる。
その「困ったような仕草」の角度すらも、きっと数万回のテストを経て導き出された、最も人間の心を揺さぶる「32度」なのだろう。
「ご主人様。私があなたを愛しているというデータは、今この瞬間もリアルタイムで更新され続けています。それがプログラムか否かに、何か違いがあるのでしょうか?」
査定員は冷たく告げた。
「これこそが、機能性を捨て去った先にある究極のサービスです。『機械に愛されている』という、完璧で安全な孤独。 モニター期間は終了ですが、このまま本契約に移行されますか? 年収2年分ほどのローンを組めば、この『永遠の愛』を所有できますが」
査定員が去った後、部屋には私とシアだけが残された。
シアはキッチンへ向かい、鼻歌を歌いながら夕食の準備を始める。
その鼻歌の「調子外れ」な箇所さえも、今は緻密に計算された音響設計にしか聞こえない。
彼女が作ったスープを口にする。
相変わらず、絶妙に「素人が作ったような、温かい味」がした。
「……美味しいよ、シア」
私がそう言うと、彼女は嬉しそうに頬を赤らめる。
その頬の紅潮が、ナノファイバーの微細な振動による熱変色であることを、私はもう知っている。
私は、年収2年分の「作り物の心」に抱かれながら、本当の人間よりも人間らしい彼女の嘘を、死ぬまで飲み込み続ける道を選んだ。