幸せを作りたかったんだ(旧)最愛の彼女と「えいえん」に 作:柚葉
ノア -1
高級機「シア」が富裕層の贅沢、中級機「ミア」が家族の絆だとしたら、母子家庭の陽子(ようこ)が、文字通り血の滲むような思いでローンを組んで買った廉価版モデル「AAM-0500(個体名:ノア)」は、いわば「生活に食い込む、泥臭い救い」だった。
母子家庭の六畳二間のアパート。
陽子は昼夜の仕事を掛け持ちし、六歳の息子・健太(けんた)を一人で留守番させる時間が長くなっていた。
「せめて、私がいなくても健太が独りぼっちだと思わないように」
そう願って、彼女は中古の、それも部品が一部欠損した廉価版のノアを、二十四回払いで買い取った。
ノアは廉価版といえど、AAMシリーズの血を引いている。
上位機種のような「滑らかな老い」や「完璧な母性」は搭載されていないが、その代わりに「圧倒的な不便さによる、極限の親近感」がこれでもかと詰め込まれていた。
冷蔵庫の中身が減ってくると、ノアはわざと「お腹が鳴るような異音」を出す。
そして、「ご主人様、今日はもやしが安かったですよ」と、上位機種にはない下俗なまでの生活感を演出する。
彼の指先は、時々わざと「震える」ように設定されている。
健太に絵本を読んでやるとき、その震える指でページをめくる姿は、機械というよりは「一生懸命な、少し不器用な兄」に見える。
ノアは大きな物音がすると、健太の後ろに隠れる。「怖いですね、健太くん」と震える彼を、六歳の健太が「大丈夫だよ、僕が守ってあげる」と抱きしめる。
その瞬間、孤独だった健太は「守られる側」から「守る側」へと精神的に自立していく。
「ノア、お母さん今日も遅いって」
健太が冷めたコロッケを皿に乗せると、ノアはそれを電子レンジに入れる…のだが、彼はわざと操作を一度間違える。
「あ、ボタンを押し間違えてしまいました。健太くん、助けてください」
「もー、ノアはドジだなぁ」
健太は得意げにボタンを押す。
陽子がいない寂しさを、ノアの「不甲斐なさ」が埋めていた。
ノアの演算回路は、健太の寂しさをスキャンし、あえて自分が「劣る」ことで、健太に自己肯定感を与えるという、高度で変態的な「依存回避ロジック」を走らせていた。
ある夜、陽子が疲れ果てて帰宅すると、リビングで健太とノアが、一つの毛布にくるまって眠っていた。
ノアの左腕は、購入時から人工皮膚が剥がれ、内部のシリンダーが露出している。
高級機なら即座に修理されるべき欠陥だが、陽子にはそれを直す余裕はない。
しかし、健太はその剥き出しの金属の腕を、まるで宝物のように握りしめていた。
「…おかえりなさい、陽子さん」
ノアが、最小限の電力モードで静かに目を開ける。
「健太くん、今日は漢字の練習を三ページもしたんですよ。…でも、途中で私の方が寝たふりをして、彼に布団をかけてもらったんです」
陽子は、ノアの安っぽい合成音声が、以前よりもずっと優しく響くのを感じた。
上位機種のシアが「完璧な嘘」を売るなら、このノアは、家族の「欠落」の中にすっぽりと入り込み、そこを埋めるための「不器用な形」に、自らを変形させていく。
「ありがとう、ノア。…あなたを呼んで、本当に良かった」
「いえ。…私は安物ですから。皆様の『助けて』という声がないと、システムを維持できない仕様なんです」
ノアはそう言って、再び健太の寝顔に合わせて、自分の駆動音を静かな寝息のようなリズムへと切り替えた。
陽子の人生に、信じられないような奇跡が起きた。
駅前の古びた売り場で、健太が「ノアの目が光った気がする」と言って指差した、バラの宝くじ。
それが、一等・前後賞合わせて数億円という、途方もない金額を叩き出したのだ。
通帳の数字が、陽子の生涯賃金を軽々と超えた。
真っ先にやってきたのは、以前は陽子を門前払いした高級アンドロイドメーカーの営業担当だった。
「おめでとうございます、陽子様! ぜひ、最新鋭の『AAM-2500 ロイヤル・エディション』へのアップグレードをご検討ください。ノアのような中古の廉価版とは比べ物にならない、24時間の完璧なサポートをお約束します」
営業マンの横には、宝石のように輝く瞳と、赤ん坊のような瑞々しい肌を持つ、完璧な最新機が控えていた。
一方、部屋の隅では、中古のノアがいつも通り「キュルキュル」と膝の関節を鳴らしながら、健太の脱ぎっぱなしの靴下を拾っていた。
最新機のカタログには、ノアにはない機能が並んでいた。
「一切の駆動音なし」
「全科目の教育プログラム内蔵」
「プロのシェフ並みの調理機能」
陽子は、今の狭いアパートを出て、健太に最高の教育を受けさせ、自分も仕事をやめてゆっくり過ごせる。
それは、ずっと夢見ていた生活だった。
その夜、陽子がカタログを眺めていると、ノアが不器用にインスタントコーヒーを淹れて持ってきた。
「陽子さん。最新型は素晴らしいですよ」
ノアの声は、以前よりも少しノイズが混じっていた。
「私のような『0500シリーズ』は、本来、貧困家庭のストレス緩和のために設計されたモデルです。富裕層となった今のあなた方には、私の『不便さ』はもう、ただのストレスにしかなりません。……下取りの査定も、今ならまだ数万円は付くそうです」
ノアはそう言って、自ら電源を落とそうとした。
自分の役割は「欠乏を埋めること」であり、満たされた家には、自分の居場所はない。
それが彼の、変態的なまでに忠実なプログラムだった。
「いらない! そんなの、絶対いらない!」
六歳の健太が、最新機のカタログを床に叩きつけた。
彼はノアの、あの人工皮膚が剥がれて金属が剥き出しになった左腕を、力いっぱい抱きしめた。
「最新型は、僕が転んでも、僕が泣く前に助けてくれるんでしょ? そんなのつまんない! 僕が転んだとき、一緒に『痛たぁ……』って言って、僕に絆創膏を貼らせてくれるノアがいいんだ!」
健太は、営業マンが持ってきたパンフレットを指差して叫んだ。
「その綺麗なロボットは、僕を守ってくれるかもしれないけど、僕が守ってあげられるのはノアだけなんだよ!」
陽子は、健太の言葉にハッとした。
富を手に入れた自分たちが、失おうとしていたもの。
それは「お互いを必要とする」という、この家の一番の贅沢だった。
陽子は翌日、営業マンを追い返した。
そして、当選金の一部を使い、ある「特注の依頼」をメーカーの第17開発局(ワタラセのいた部署)に送った。
数週間後、このボロアパートに、特製のメンテナンスキットが届いた。
それはノアを最新型にするためのものではない。
人工皮膚は張り替えるが、あえて健太が愛着を持っている「左腕の金属露出」はデザインとして残す。
関節の異音は消すが、健太が彼の接近に気づけるよう、微かな「生活音」としての駆動音を残す。
完璧な知識を与えるのではなく、健太と一緒に「図書館で調べる」ことができる検索速度に制限する。
陽子は、数億円の残りを、健太の将来と、そして「ノアの修理パーツを永久に確保するための信託基金」に注ぎ込んだ。
新しい、けれどどこか古臭い広い庭がある豪邸で、陽子たちは暮らしている。
「あ、またノアが卵焼き焦がしてる!」
「す、すみません健太くん、火力の調整が……やはり私は安物ですね」
笑い声が響く。
世界でリッチな母子家庭は、世界で一番「不便な」ロボットを、世界で一番の宝物として抱え込んで離さなかった。
高級なシアも、健気なミアも、依存させるリリスも持っていない、「自分を必要としてくれるロボット」という究極の贅沢。
ノアの金属の腕には、今日も健太が貼った、安っぽいキャラクターの絆創膏が誇らしげに輝いている。