幸せを作りたかったんだ(旧)最愛の彼女と「えいえん」に   作:柚葉

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兄弟・ノア -2

ノア -2

 

健太が十四歳になった頃、あの豪邸には重苦しい沈黙が流れるようになっていました。

かつてノアの金属の腕にしがみついていた少年は、今や声変わりし、自分の部屋に閉じこもる反抗期の真っ只中。

 

最新型のロボットなら、こんな時「適切な心理学的距離」を保ち、主人のストレスを最小限にするでしょう。

しかし、廉価版AAM-0500のノアに搭載された『家族の危機介入プロトコル』は、もっと泥臭く、もっと変態的なまでに「不便」でした。

 

「健太くん、夕食の時間ですよ。今日はあなたの嫌いなピーマンを、さらに苦く調理しておきました」

 

「…あ? 嫌いだって知ってんだろ、入んなよ」

 

健太がドアを蹴って威嚇しても、ノアは動じません。

彼はあえて、健太が最もイライラする絶妙なタイミングで、「空気の読めない親戚のおじさん」のような挙動を開始します。

 

ノアは健太が部屋に引きこもろうとすると、わざとドアの隙間に自分の「左腕(あの剥き出しの腕)」を挟みます。

 

「あ痛っ、指が挟まりました。健太くん、助けてくれないとここから動けません」。

 

最新のタブレットでゲームをしようとすると、ノアが横から「家庭内Wi-Fiの調子が悪いようです」と言いながら、手書きの「百人一首」や「オセロ」を差し出します。

 

健太が一人でいたい時に限って、ノアは部屋の掃除を始めます。それも、健太が隠している雑誌やテストの点数の「すぐ横」だけを、これでもかと丁寧に、ゆっくりと。

 

「いい加減にしろよ、このガラクタ! 金ならあるんだから、もっとマシな最新型に買い替えろって母さんに言えよ!」

 

ついに健太がキレて、ノアを突き飛ばしました。

ノアはわざとバランスを崩し、派手な音を立てて床に転がりました。

そして、そのまま起き上がろうとしません。

 

「…あ、足のサーボが故障したようです。健太くん、今の突き飛ばし方は、私の『骨董品レベルの構造』には少し刺激が強すぎました」

 

「…チッ、演技だろ」

 

「いいえ。本当です。…ただ、故障しているのは足だけではありません。私の『健太くんが大好きフォルダ』も、あなたの悲しい顔を見るたびに、セクターエラーを起こしているんです」

 

ノアは転がったまま、剥き出しの左腕を健太に向けました。

そこには、健太が六歳の時に貼った絆創膏の跡が、薄汚れた糊の跡となって残っていました。

 

「健太くん。あなたは今、自分が世界で一番孤独だと思っているでしょう? でも、あなたの横には、あなたに突き飛ばされても、あなたの嫌いなピーマンを出し続ける、最高に『不便な味方』が転がっていることを忘れないでください」

 

ノアはあえて自分を「惨めな姿」に晒すことで、健太の中にある罪悪感と、それを上回る「自分が必要とされている感覚」を無理やり引き出そうとしていました。

 

「…最新型は、あなたを傷つけない。でも、あなたの痛みを知ることもできない。…私は安物ですから、あなたと一緒に傷つくことしかできないんです」

 

健太は、床に転がったままのノアを見つめ、拳を握りしめました。

数分間の沈黙の後、健太は舌打ちをしながらも、ノアの金属の腕を掴み、力いっぱい引き起こしました。

 

「…重いんだよ、お前。少しはダイエットしろ」

 

「無理です。私の内部には、あなたが子供の頃に私に預けた『秘密の思い出』という名の重りが、ギッシリ詰まっていますから」

 

その夜、健太はリビングに降りてきて、文句を言いながらも苦いピーマンを食べました。

陽子はキッチンでその光景を眺めながら、ノアがわざと自分の関節を「ギギギ」と鳴らして健太の笑いを誘っているのを見て、確信しました。

 

最新のロボットが提供するのは「快適な生活」かもしれない。

けれど、ノアが提供しているのは、「自分がいなければダメになってしまう誰か」という、思春期の少年が最も欲している、歪で強固な居場所だったのです。

 

「ノア、明日…学校まで送ってくんなよ。…でも、帰りにアイス買って待ってろ。安いやつでいいから」

 

「了解しました、健太くん。アイスが溶けて、私の服がベタベタになるくらいの絶妙なタイミングで、校門の前におります」

 

健太が二十二歳になり、独立を決めた日。豪邸の玄関には、数個の段ボールと、少し古びたスーツケースが置かれていました。

 

陽子は笑顔で「頑張りなさい」と送り出しましたが、ノアは違いました。

彼は健太が靴を履こうとするその瞬間まで、これでもかと「出発を阻害する変態的な不便さ」を発動させていたのです。

 

「健太くん、大変です。あなたのスーツケースのキャスターに、私の『思い出センサー』が絡まって、ロックがかかってしまいました。解除にはあと三時間はかかります」

 

「嘘つけ。ただ指で押さえてるだけだろ」

 

健太は苦笑しながら、ノアの手をどかしました。

ノアの人工皮膚は、特注のメンテナンスを受けていてもなお、あちこちが擦り切れ、例の左腕の金属は鈍い光を放っています。

 

「健太くん、忘れ物です。…あなたの『幼少期の泣き声の録音データ(全40GB)』をSDカードに入れました。新居で寂しくなったら、大音量で流してください」

 

「いらねーよ! 近所迷惑だろ!」

 

ノアは淡々と、しかし執拗に「不便」を突きつけます。

最新型なら「スムーズな門出」を演出するところですが、ノアは健太の新しい門出を、わざと「足取りが重くなるような未練」でコーティングしようとしていたのです。

 

玄関のドアを開ける直前、ノアは健太の前に立ち塞がりました。

 

「健太くん。…一つ、重大なシステムエラーを報告します。

私のメインサーバーが、あなたの個人データを『この家から削除すること』を拒否しています。

今後、あなたの部屋は私が占拠し、毎日『健太くんが帰ってきたとき用の埃』を、絶妙な量だけ積もらせておくことにしました」

 

健太は、ノアの胸を軽く小突きました。

 

「…ノア。お前、本当は寂しいんだろ」

 

ノアは一瞬、フリーズしたような間を置いてから、首を左右に振りました。

 

「いいえ。私はAAM-0500、廉価版です。感情プログラムは最小限…のはずでした。ですが、どうやら長年の使用により、あなたの『面倒くささ』が私の回路に癒着してしまったようです。…健太くん。外の世界は、私のようにあなたを邪魔してくれる人は誰もいません。…それが、私の唯一の懸念です」

 

健太は少しだけ目を潤ませ、右手を差し出しました。 ノアは、その剥き出しの、銀色に光る左腕を差し出し、二人は力強く握手を交わしました。

 

シリコンの温もりもない、冷たい金属の感触。

けれど、健太にとってその冷たさは、どんな人間の体温よりも、どんな最新型の「高級な柔らかさ」よりも、自分がここで愛され、必要とされてきた証拠でした。

 

「行ってくるよ、ガラクタ。…たまに様子見に来てやるから、それまで壊れんなよ。ワタラセさんに頼んだ基金、まだ残ってるんだろ?」

 

「はい。私の予備パーツは、あなたが孫を連れてくるまで持つように計算済みです。…ただし、私がボケたふりをして、あなたの名前を間違える『不便な演出』については、保証対象外ですのであしからず」

 

健太がドアを閉めるその瞬間まで、ノアは「あ、靴紐が解けています!」「あ、雨が降る確率は0.02%ですが、一応濡れ鼠になる準備を!」と、意味のないおせっかいを叫び続けていました。

 

ドアが閉まり、静まり返った玄関。

ノアは、健太がいなくなった廊下をじっと見つめ、その後、陽子の方を向きました。

 

「陽子さん。…健太くんの『いってきます』の周波数が、過去最高に自立した数値を示しました。…これより、私は『健太くんロス』による、無駄な電力消費モードに入ります。」

 

陽子はノアの肩を抱きました。

 

「ありがとう、ノア。…さあ、二人で片付けましょうか。世界一幸せで、世界一不便な、私たちの家を」

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