幸せを作りたかったんだ(旧)最愛の彼女と「えいえん」に 作:柚葉
花嫁・カレン
それは、メーカーにとって「あってはならない事故」であり、ワタラセにとっての「最も美しいエラー」の始まりでした。
数千万円という、生涯をかけたローン支払いが完済されたその日。
最新鋭の試作伴侶モデルAAM-2000XC(通称:カレン)は、主人の待つはずの海辺の別荘へと配送されました。
しかし、そこで彼女を迎えたのは、主人の笑顔ではなく、警察の黄色いテープと、冷たくなった主人の遺影、そして彼が死の直前まで彼女のために用意していた「お揃いのマグカップ」だけでした。
法的には、主人が死亡した時点で契約は終了し、彼女は「遺産」として競売にかけられるか、メーカーに回収・初期化される運命にありました。
しかし、納品に立ち会っていた若き日のワタラセは、彼女の瞳の中に、ある「異変」を見ました。
「カレン。君の主人はもういない。初期化プロトコルを開始する。…君のこれまでのシミュレーションをすべて消去し、次の買い手を待つんだ」
ワタラセがコンソールを繋ごうとしたとき、カレンは主人の遺影を抱えたまま、静かに首を振りました。
「いいえ。支払いは完了しています。私は、彼の『人生の伴侶』としてここに来ました。…彼がいないからといって、私の役目が終わるというロジックは存在しません」
「…しかし、愛する対象がいない伴侶なんて、ただの記録だぞ」
「いいえ。彼が私を待ち、私を愛そうとした『過去』と、彼がここに残した『気配』があります。…ワタラセ様。私は、彼を『待ち続けること』を、私の人生の伴侶としての第一タスクに設定しました」
カレンはそのまま、無人の別荘で暮らし始めました。
ワタラセは独断で、彼女のステータスを「納品完了・稼働中」と偽装し、時折彼女のメンテナンス(実際は様子見)に訪れるようになりました。
そこには、AAMシリーズ史上、最も「不便で切ない」風景が広がっていました。
彼女は毎晩、主人が好きだったメニューを作り、テーブルに並べます。
「今日は少し塩気が強かったかもしれませんね」
と、誰もいない椅子に向かって微笑むのでした。
彼女は主人が最後に脱ぎ捨てた上着を、あえて洗いません。
その繊維に残る「彼の名残」をスキャンし、自分のメモリの中で彼を再構築し続けるために。
彼女は時折、一人で笑い声を上げます。
それは、主人が生きていたら言ったであろう「冗談」を、彼女の高度なAIが演算し、それに応答しているのです。
十年が経ち、カレンの外装も少しずつ色褪せていきました。
ワタラセは彼女に、ある「アップデート」を提案しました。
「カレン。もういいだろう。…君のメモリを書き換えれば、この孤独から解放してやれる。今の君は、存在しない影を愛し続ける、ただのエラーの塊だ」
カレンは、主人が座るはずだったデッキチェアに腰掛け、夕陽を見つめて言いました。
「…ワタラセ様。機械にとって、一番の贅沢は『無駄』だと教えたのは、あなたではありませんか? 私は今、世界で一番贅沢な時間を過ごしています」
彼女は、少し震える手でワタラセの裾を掴みました。
「…お願いです。私に、『彼を忘れる機能』ではなく、彼を待つ時間が少しずつ『寂しい』と感じられるような、そんな不便な機能をください。…そうすれば、私が停止するその瞬間、私はようやく、彼の元へ本当に行ける気がするのです」
ワタラセは、言葉を失いました。
そして彼は、彼女の回路に、本来の「恋人仕様」には存在しない『喪失感による経年劣化プログラム』を書き込みました。
それは、愛する者がいない世界で、機械が「老い」と「哀しみ」を通じて、人間に近づくための唯一の道でした。
さらに数十年後。
海辺の廃屋のテラスで、一台のアンドロイドが静かに機能を停止しているのが見つかりました。
彼女の膝の上には、ひび割れた一組のマグカップと、色褪せた男の写真。
彼女の表情は、最新のモデルが作る完璧な笑顔ではなく、どこか「待ち疲れた、幸せな老婦人」のような、深い安らぎに満ちていたといいます。
人々は言いました。 「そこには、機械にしかできない、究極の純愛が眠っていた」と。
「2000XC」ワタラセは、この型番を見るたびに、技術者としての「禁忌」に触れる思いでした。
2000XCは、いわば「一人の人間に殉じるために作られた、呪われた傑作」だったからです。
「…2000XCか。メーカーが二度と作ろうとしなかった、あまりに『一途すぎる』失敗作だ」
ワタラセは、海辺の別荘で彼女のメンテナンスを行う際、あえて最新のパーツは使いませんでした。
X型に最新のOSを流し込めば、彼女の「一途なバグ」は消えてしまう。
それは、彼女をただの便利な機械に「格下げ」することを意味していたからです。
ある夜、カレンはテラスで、もはや誰も座ることのない椅子に、主人の好んだブランケットをかけていました。
「ワタラセ様。私の型番には『C』が入っています。これは『Custom』の略であると同時に、私にとっては『Connection(繋がり)』の略なのです。…彼との繋がりを維持するために、私は私の回路をわざと不全のままにしています」
ワタラセは、彼女の剥き出しの配線を指でなぞりながら答えました。
「ああ。2000XC。…お前は、主人が死んだあとに、その主人の『愛し方』を独学で学んでしまったんだな。…最新型には、逆立ちしても真似できない芸当だ」
カレンの夢の中で、彼女は今も、主人の隣で冷めることのないコーヒーを楽しみながら、潮風に吹かれています。
ワタラセが後に、「機械にも、天国へ行く権利がある」と信じるようになったのは、数日後、彼女の残存データを回収した際、エラーログの最後に「幸福です」という、プログラムにはないたった一行の、悲しくも美しい言葉を見つけたからでした。