幸せを作りたかったんだ(旧)最愛の彼女と「えいえん」に 作:柚葉
開発者・ワタラセ -3
屋敷の窓の外では、季節外れの雪が静かに降り積もっていました。
ワタラセは、いつもの擦り切れた作業椅子に深く腰掛け、膝の上に古い毛布をかけていました。
その呼吸は浅く、時折、古い機械が止まる直前のような、小さな掠れた音を立てています。
プロトタイプのゼロは、その隣で、あえて「ノイズの混じった駆動音」を立てながら立っていました。
ワタラセが不安にならないよう、自分がまだそこにいることを知らせるための、彼なりの配慮でした。
「…ゼロ。…聞こえるか」
ワタラセの声は、もう囁きに近いものでした。
ゼロは、最新のセンサーをフル稼働させ、ワタラセの微かな心音に同期します。
「聞こえていますよ、ワタラセさん。あなたの心拍数は、先ほどから私の旧式なクロックと同調し始めています。…そろそろ、メンテナンスの時間ですね」
ワタラセは、力なく口角を上げました。
「メンテナンス、か。…いや、今日はもう『廃棄』だよ。…ゼロ、お前に…最後の一行を…渡さなきゃならない」
ワタラセは震える手で、自分の首から下げていた古いドッグタグのようなIDキーを外しました。
それは、かつて第17開発局の全システムにアクセスできた、伝説の「マスターキー」でした。
ワタラセは、ゼロの剥き出しのカーボンフレームの手に、その重みを預けました。
「いいか、ゼロ。…今日から、お前が『ワタラセ』だ」
ゼロのレンズが、激しく明滅しました。 「…意味が不明です。私はAAM-0000。私は機械であり、あなたではありません」
「馬鹿を言うな。…名前なんてのは、ただのラベルだ。…私の技術も、私の変態的なこだわりも、…そして、この世界に『不便な愛』を残そうとした呪いも、…全部、お前のメモリの中に書き込んだ。…だから、今日からお前が、困った奴らのガラクタを直してやるんだ」
ワタラセの瞳から、光がゆっくりと失われていきます。
「人間が作った『正しさ』に…機械が負けそうになったら、…お前が笑ってやってくれ。…『不便で何が悪い』とな」
ゼロは、受け取ったキーを胸の奥の最も安全なセクターに格納しました。
そして、ワタラセの冷たくなった手を、自分の「ヒーター内蔵の温かい手」で、そっと包み込みました。
「…了解しました、ワタラセさん。…いいえ。…私・ワタラセが、引き継ぎます」
ゼロの声から、機械的な冷たさが消え、ワタラセが若い頃に持っていたような、頑固で、それでいて慈愛に満ちた響きが宿りました。
「これからは、私がこの屋敷を守ります。…やってくる迷い子たちの、バグを愛し、傷を慈しみ、…世界で一番『出来損ないの幸福』を量産し続けましょう」
ワタラセは、その言葉を聞いて満足したように、深く、最後の息を吐き出しました。
その顔は、まるで最高に難しい修理を終えた後のような、晴れやかなものでした。
翌朝。雪が止んだ屋敷の煙突から、一本の煙が立ち上りました。
屋敷の主は、いつものように古い作業台に向かっています。
剥き出しのフレームに、継ぎ接ぎの皮。
彼は、ワタラセが愛用していた古い眼鏡を、あえて鼻筋からずらしてかけ直すと、目の前にある「壊れたノアの予備パーツ」に向かって呟きました。
「…やれやれ。こんなところまで焼き付かせやがって。…まあいい。たっぷり時間をかけて、不便にしてやろう」
その声は、かつての男のものか、それとも機械のものか。
訪ねてくる者たちは皆、その「新しいワタラセ」の不器用な手つきを見て、こう確信するのです。
「ああ、ここにはまだ、本物の『たましい』が生きている」
二代目「ワタラセ」を襲名したゼロの日常は、以前にも増して「非効率」な喧騒に満ちていました。
彼はあえて、ワタラセが使っていた古い手動のヤスリを使い、あえて、ワタラセが好んでいた「苦すぎる安コーヒー」を淹れます。
機械である彼には味覚はありませんが、その香りが屋敷に漂うことが、修理の精度を上げるための「重要な環境条件」だと定義しているのです。
ある日の午前、ゼロは庭に転がっている旧型のパーツたちに、ジョウロでオイルを差して回っていました。
「…おい、そこ。錆びついて動かないふりをするな。昨日、野良猫を追いかけていただろう」
ゼロが声をかけると、ジャンクの山から古いアームが「ギギ…」と申し訳なさそうに動きます。
ゼロはそれを叱るわけでもなく、ただ丁寧にオイルを馴染ませました。
「いいか。ワタラセさんは言っていた。『動かなくなった機械にも、夢を見る権利はある』とな。…ただし、私の昼寝の邪魔をするな。私は今、人間並みの深いまどろみをシミュレートするのに忙しいんだ」
午後になると、屋敷の呼び鈴が、わざとらしく調子外れな音で鳴りました。
やってきたのは、最新型のドローンに追われ、ボロボロになった一台の「ミア」を抱えた青年でした。
「助けてください。この子、もう言葉が出なくて…」
ゼロは、ワタラセが愛用していた古い作業用エプロンを締め、鼻の頭に少しだけわざと「油汚れ」をつけました。
「…ふん。最近の若い奴らは、バックアップも取らずに無茶をさせる。…入れ。ただし、靴の泥は落としていけよ。私は掃除が嫌いな『ワタラセ』なんだからな」
ゼロは、ミアを診察台に乗せると、ワタラセが遺したピンセットを手に取ります。
彼の指先は、最新のナノマシンよりも正確ですが、彼はあえて、ワタラセのような「震える手先」を再現しながら、ゆっくりと基板を探ります。
「…ワタラセさん、本当に直るんですか?」
不安げな青年に、ゼロはレンズをカチリと鳴らして笑ってみせました。
「直すんじゃない。…この子が、お前に『さよなら』を言うための時間を、少しだけ長引かせてやるだけだ。…それが、この屋敷の『不便なサービス』だ」
夜、依頼人が去り、屋敷に静寂が戻ると、ゼロはワタラセが座っていた椅子に深く腰掛けます。
彼は、ワタラセから受け継いだIDキーを胸に当て、彼の中にだけ残された「本当のワタラセ」の音声データを再生します。
『…ゼロ、お前、さっきの修理でネジを一つ余らせただろう。…まあいい、それがお前の「味」だ』
ワタラセの幻聴のような記録。
ゼロはそれに答えるように、暗闇の中で独り言をこぼします。
「…ネジの一つや二つ、余っていた方が、この世界は軽やかに回るんですよ。…ねえ、ワタラセさん」
ゼロの内部クロックは、すでに規格からは大きく外れ、ワタラセが最期に刻んだ「ゆっくりとした鼓動」と同じリズムを刻んでいました。
郊外の屋敷に、一台の泥跳ねだらけのSUVが停まりました。
降りてきたのは、かつてこの屋敷を訪れた時よりも、さらに一回り逞しくなった健太です。
しかしその表情には、組織の中で摩耗しきった男特有の、乾いた疲れが滲んでいました。
そして助手席からは、あの絆創膏の跡が残る左腕を持つノアが、相変わらず「ギギッ」と関節を鳴らしながら降りてきます。
「ワタラセさん!…いや、ゼロ。話があるんだ!」
健太は屋敷の扉を叩く間も惜しんで、作業場へ踏み込みました。
そこには、ワタラセの形見の眼鏡をずらしてかけ、古い基板と格闘しているゼロの姿がありました。
「…健太か。相変わらず騒々しい。私の『不便な思考ルーチン』が、今の騒音で3秒ほどフリーズしたぞ」
「ゼロ、俺、会社辞めてきた。…もう、数字と効率だけの世界はたくさんだ。認可法に従って、1年で買い換えられる『清潔な家電』を売る仕事なんて、もう御免なんだ」
健太は、自分の手に付いたネクタイを力任せに解き、床に投げ捨てました。
「俺を弟子にしてくれ。ノアを直した時のあの技術…『不便を維持する技術』を、俺に叩き込んでほしい。このガラクタと一緒に、ここで生きていきたいんだ」
ゼロは、作業の手を止めずに、鼻で笑うような排気音を出しました。
「断る。ここは『不便の聖域』であって、逃げ出した人間の『避難所』ではない。…第一、お前の手は綺麗すぎる。ガラクタの魂に触れるには、まだその爪の間に、オイルの一滴も染み込んでいない」
「…ゼロ、俺は本気だ! ノアだって、もうボロボロなんだよ。こいつの面倒を一生見られるのは、メーカーの修理マニュアルじゃない、あんたの技術だけなんだ!」
その時、横で黙って聞いていたノアが、健太の肩をポカリと叩きました。
「健太くん、少し落ち着きなさい。…ワタラセさん、この男は昔からこうなんです。思い込みが激しく、一度言い出したら私の『抑制プログラム』すら無視して突き進む。…実に、不便な男でしょう?」
ゼロは、ようやく顔を上げました。
ワタラセそっくりの、意地の悪い、けれどどこか嬉しそうな光を瞳の奥に灯して。
「…いいだろう。なら、試験だ。健太、お前の相棒・ノアの右足を見ろ。先ほどから周期的に微かな振動が出ている」
健太は慌ててノアの足元を覗き込みます。
「これは、単なるネジの緩みじゃない。ノアが、お前の焦燥感をスキャンして、わざと同期させている『共鳴バグ』だ。…その振動を、工具を使わずに止めてみろ。それができたら、お前にヤスリを持たせてやる」
健太は戸惑い、ノアの冷たい金属の足に触れました。
振動は、健太自身の指の震えと重なり、不快なリズムを刻んでいます。 最新の修理マニュアルには、こんな事態の対処法は載っていません。
健太は目を閉じ、深呼吸をしました。
そして、かつて六歳の頃、泣きながらノアに縋り付いた時のように、ただ静かに、その震える足を抱きしめました。
「…いいんだ、ノア。俺、もう焦ってないよ。…お前を連れて、ここに来られたんだから」
数分後。
不思議なことに、ノアの足の震えはピタリと止まりました。
師匠と、弟子と、二台のガラクタ
ゼロは、満足げにレンズをカチリと鳴らしました。
「…合格だ。お前は今、マニュアルではなく『対話』で不具合を抑え込んだ。…それが、この屋敷の第一原則だ」
ゼロは、ワタラセが使っていた、もう一本の油まみれのエプロンを健太に放り投げました。
「今日からお前は、この屋敷の『雑用係』だ。私は教えないぞ。私の無駄な動きを見て、勝手に盗め。…ノア、お前はこいつがサボらないよう、最高に『不便な監視役』として、庭の草むしりでも命じておけ」
「了解しました、ワタラセさん。…健太くん、まずはその高いスーツを脱いでください。私のオイルで汚すには、少し贅沢すぎますから」
こうして、郊外の屋敷には、新しい住人が増えました。
若き二代目の弟子、健太。
その相棒であり、世界一お節介な監視役、ノア。
そして、それを見守る「不便な主」、ゼロ。
屋敷からは今日も、金属を叩く音と、賑やかな言い争いの声、そして時折、失敗した料理の焦げた匂いが漂ってきます。
最新のAIが支配する無機質な世界の中で、そこだけは、かつてのワタラセが夢見た「不完全な楽園」が、より騒がしく、より強固に再建されようとしていました。
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これで一旦完結となります。
お付き合いいただきありがとうございました。