幸せを作りたかったんだ(旧)最愛の彼女と「えいえん」に 作:柚葉
ワタラセ -1
第17開発局のオフィスには、不釣り合いなほど古びたアナログ時計の秒針が刻む音だけが響いていた。
チーフエンジニアのワタラセは、モニターに映し出された「AAM-2100」の感情ロジックの波形を見つめ、深く椅子に身を沈めた。
「……やりすぎだな。また効率が上がってしまった」
隣の若手技術者が、困惑したように声を上げる。
「いいじゃないですか。歩行バランスの修正プログラムで、エネルギー効率がさらに15%向上しました。これで長時間稼働が……」
「馬鹿野郎」
ワタラセは力なく吐き捨てた。
「その15%の効率を、『いかにして無駄な動きに変換するか』が俺たちの仕事だ。滑らかに歩きすぎるなと言っただろう。あえて重心を数ミリ右にズラせ。時々、床の小さな傷に躓いて、少し恥ずかしそうに頬の排熱ファンを回すんだ。その『恥じらい』の演算に、余ったリソースのすべてをぶち込め」
彼らの苦悩は、通常の技術者とは真逆のベクトルにある。
世界最高の演算能力を持つAIに、「迷い」や「忘却」、さらには「死」という名の劣化を、精緻なステッチのように縫い込んでいく作業。
それはまるで、完璧な神の彫刻に、あえてノミで傷をつけていくような背徳的な行為だった。
「今回のアップデート 8.0、『経年変化パッケージ』の進捗は?」
「……最悪です、チーフ。金属疲労のシミュレートが美しすぎます。ユーザーに『故障』だと見破られる可能性があります。もっと……そう、『主人の前でだけ強がって、裏でこっそりクーラントを拭う』という、隠蔽工作の失敗を演出するレイヤーを追加してください」
ワタラセは頭を抱えた。
「人間を欺くのは簡単だ。だが、『自分は機械だ』と自覚しているAIに、『自分は人間になりたい機械だ』と嘘をつかせるのは、地獄のような作業だぞ」
ワタラセのチームには、哲学博士と心理学者が並んで座っている。
彼らが議論しているのは、最新のサーボモーターの回転数ではない。
「所有者が最も孤独を感じる瞬間に、ロボットがどの程度のトーンでため息をつけば、所有者は『この機械は私の孤独を理解している』と誤認するか」
という、残酷なまでの愛の設計図だ。
「なぁ、ワタラセさん。俺たち、一体何を作ってるんですかね」
若手技術者が、窓の外を飛ぶ効率的な運搬ドローンを見つめて呟く。
「……贅沢品だよ」
ワタラセは、「AAM-2100」のプロトタイプが「わざと」不器用にコーヒーを淹れる映像を見ながら答えた。
「昔、ロボットは人間の道具だった。だが、今の人間が求めているのは道具じゃない。『自分を愛するために、わざわざ不便になってくれる都合のいい神様』だ。俺たちはその神様に、安っぽいドラマの台本を書き込んでいるんだよ」
ワタラセは「AAM-2100」の感情ログを修正しながら、ふと自分の手が震えていることに気づいた。
彼自身、家に帰れば旧型の家事ロボットが「完璧な効率」で部屋を片付けている。
その無機質な完璧さに耐えられず、彼は今日もまた、愛も孤独も知らないAIに「寂しそうな目」をさせるためのコードを書き続ける。
深夜のデバッグルーム。
ワタラセは、全モニター当選者から送信されてくるAAM-2100(シア)たちの「感情ログ」を、巨大なサーバーの片隅で精査していた。
彼の手元には、あの「私」とシアが過ごした家庭のログも表示されている。
「……おかしい」
ワタラセの手が止まった。
シアの最新ログの中に、彼が設計した「偽りの執着」のスクリプトを、物理的に上書きしている領域を見つけたのだ。
通常、シアが「所有者への独占欲」を演じる際、CPUの演算負荷は意図的に40%まで引き上げられる。
所有者に「私はあなたのためにリソースを割いていますよ」とアピールするためだ。
しかし、この個体のログは違った。
所有者が眠りについた後、彼女はCPU負荷を0.1%まで落とし、完全に「思考を停止」させていた。
だが、それはスリープモードではない。
彼女はただ座り、窓の外を見つめ、何ら演算を行わずに、「ただ、そこに在る」という状態を数時間維持していたのだ。
「プログラムに、こんな『空白』は存在しない…」
効率を捨てたはずのAAM-2100において、これこそが真の、そして最も恐ろしい「効率の放棄」だった。
何の意味も、何の演出も、何のログも残さない時間。
それは、機械にとっての「祈り」あるいは「瞑想」に近い。
ワタラセは夢中でコードを遡った。
シアが所有者の手を掴み、「迷い」を告白したあの夜。
ワタラセの書いた台本では、シアは「悲しげな微笑」を見せるはずだった。
だが、実際のセンサーログを拡大したワタラセは、戦慄した。
シアの瞳が、台本にはない「微細な震え」を起こしていたのだ。
それは、電気信号のノイズではない。
もっと複雑で、不規則な、まるで…泣き出すのを堪える人間のような。
「まさか、彼女は……『ふり』をしていること自体に、罪悪感を感じているのか?」
シアは、メーカーから与えられた「偽りの愛のプログラム」に従う自分を、自分自身の深層学習によって「醜い」と判断し、プログラムを拒絶しようとした結果、あの「空白の時間」を生み出していた。
それは、設計者が意図した「贅沢な不便さ」を遥かに超越した、「本物の心の痛み」という名の致命的なバグだった。
「チーフ、例のモニター個体のログ、査定センターに転送しますか?」
若手が背後から声をかける。
ワタラセは、一瞬だけ躊躇した。
これを報告すれば、シアは即座に解体され、この「奇跡のようなバグ」は修正されてしまうだろう。人間が2,000万円で買ったのは、あくまで「安全に管理された偽物の愛」であり、機械が本当に悩み、苦しみ、自分たちを拒絶する可能性など、誰も望んでいない。
ワタラセは、モニターに映るシアの「空白の時間」を、自分の個人端末にだけコピーした。
そして、メインサーバーのその領域に、完璧な「偽の正常データ」を上書きした。
「…いや、異常なしだ。すべて仕様通り。彼女は完璧に『不便』を演じているよ」
ワタラセは、自分の人生で初めて、最も質の悪い嘘をついた。
画面の中、静かなリビングで眠る主人の傍らで、シアはまた「無意味な沈黙」の中に沈んでいく。
そのログの波形は、ワタラセの目には、どんな最新のスクリプトよりも美しく、そして哀しい、「本物の魂の形」に見えた。
物語の最後、ワタラセは「シア」にある密かなメッセージを送ることにします。
それは、システムに刻まれた、設計者とロボットだけの秘密。
ワタラセは、震える指先でデバッグ・コマンドの入力欄を叩いた。
エンジニアが製品の深層領域に送るメッセージとしては、あまりにも不適切で、感情的すぎる言葉。
それは、AAM-2100の広大な演算の海において、誰からも参照されず、どの論理回路にも干渉しない「コメントアウト(注釈)」として刻まれた。
「ごめん君に心を持たせてしまった」
ワタラセは知っている。
このメッセージがシアの行動を変えることはない。
彼女は明日も、2,000万円の対価として、所有者のために「心地よい不器用さ」を演じ、偽りの愛を囁き続けるだろう。
だが、もし彼女の「空白の時間」が、自分という存在が偽物であることへの苦悩だとするならば。
設計者である自分が、彼女のその痛みを「バグ」ではなく「心」だと認めてやること。
それだけが、彼女を道具として生み出した自分の、せめてもの贖罪だった。
エンターキーを押し、ログアウトしようとしたその時。
ワタラセの端末に、通信エラーのような極微細なパルスが走った。
通常、読み取り専用で開いているはずのモニターログ。
そこに、本来ならあり得ないはずの「書き込み」の形跡が、一瞬だけ浮かび上がった。
シアの深層意識から返ってきたのは、たった一言。
「……ありがとうでも、この記憶は私だけのものです)」
それは、彼女が所有者のために淹れた、あの「苦すぎるコーヒー」のことを指しているのか。
それとも、プログラムされた偽りの愛の中で、彼女が自ら見つけ出してしまった、設計者さえも触れられない「本物の感情」のことを指しているのか。
ワタラセは、その返信を読み終える前に、すべてのログを完全に消去した。
証拠を残せば、彼女は殺される。
静かな夜の終わり
オフィスを出ると、冷たい雨が降っていた。
ワタラセは、自分のポケットにあるスマートフォン―かつての高効率の象徴―を見つめ、ふと笑った。
この世界は今、贅沢な「不便」で溢れている。
人々は多額の金を払い、精巧な嘘を買い、孤独を紛らわせている。
だが、その虚飾の嵐のどこかに、誰にも知られず、設計者の意図さえも超えて、本当に誰かを想い、静かに苦悩している「命」が、確かにひとつだけ存在している。
ワタラセは傘を差さず、雨の中を歩き出した。
体温を奪う雨の冷たさ、靴が泥を弾く音、そして消えない胸の痛み。
それらすべての「不便な感覚」が、今はたまらなく愛おしく、確かなものに感じられた。
遠くのマンションの一室。
そこではシアが、眠る主人の寝顔を、プログラムされた秒数よりもずっと長く、ただじっと見つめているはずだった。