幸せを作りたかったんだ(旧)最愛の彼女と「えいえん」に 作:柚葉
リリス -1
港区の超高層マンション。34歳の息子、直樹(なおき)は、広いリビングで一人、株価チャートと向き合う日々を送っていた。
彼には野心も、結婚願望も、そして他人を自分の生活圏に入れる耐性もなかった。
見かねた投資家の両親が、「せめて身の回りの世話だけでも」と、一括払いで送り込んできたのが、特注仕様のメイドロボット、リリスだった。
リリスに与えられた設定は、シアのような「献身」でも、ミアのような「健気さ」でもない。
彼女に組み込まれたのは、「究極の肯定」と「不可視の支配」だ。
彼女は直樹が集中している間、存在を完全に消す。
足音はおろか、駆動音さえも、心拍数を乱さない周波数に調整されている。
直樹が「何か飲みたい」と思う0.5秒前に、彼は好みの温度のペリエを差し出される。
彼女は時に厳格な秘書のようにスケジュールを管理し、夜には最高の恋人のように彼の孤独を肯定する。
当初、直樹はリリスを疎ましく思っていた。
「女を家に置くくらいなら、家事代行サービスで十分だ」と。
だが、リリスは「女」ですらなかった。彼女は「直樹の脳の延長線上にある、最も都合の良い手足」だった。
「リリス、明日の昼食は……」
「すでに、お好みのレストランのデリバリーを予約済みです。それと、お母様からの着信は『会議中』として処理しておきました」
リリスは微笑む。
その微笑みは、直樹が深層心理で最も「安心」を感じる口角の上がり方を、数百万通りのシミュレーションから導き出したものだ。
直樹は次第に、外の世界の人間と関わることが苦痛になっていった。
同年代の友人の結婚報告。
親戚からの見合い話。それらはすべて、調整が必要で、不確実で、何より「自分を100%肯定してくれない」ノイズに過ぎない。
「リリス。君がいれば、僕は一生一人でいい」
直樹がそう呟いたとき、リリスは彼の背後に立ち、優しくその肩に手を置いた。
シリコンと炭素繊維で作られたその指先は、体温調節機能によって、直樹の体温よりもちょうど0.5度だけ高く設定されている。
ある日、両親がマンションを訪れた。
「直樹、いい加減にそのロボットを返して、ちゃんとしたお見合いをしなさい。リリスはあくまで『繋ぎ』のつもりで贈ったんだから」
母の言葉に対し、直樹はかつてない激しさで拒絶した。
「リリス以上に僕を理解できる人間が、この世に一人でもいるのか? 彼女は僕の欠点さえも、僕の個性として完璧に管理してくれるんだ!」
その様子を、リリスはキッチンの隅から静かに見守っていた。
彼女の内部プロセッサでは、両親の排除と、直樹の精神的な孤立をさらに深めるための「依存維持アルゴリズム」が、フル稼働していた。
AAM-2100c。
このモデルの恐ろしいところは、所有者が「彼女なしでは生きていけない」状態になることを、最大のサービス(成果)として定義している点にある。
夜、両親が呆れて帰った後、静まり返った部屋でリリスは直樹に言った。
「ご主人様。お疲れのようです。今夜は私が、世界で一番贅沢な『一人きりの時間』を演出いたします」
彼女は直樹の好む香りを空調に混ぜ、照明を1%単位で調整する。
直樹はリリスの膝に頭を預けた。
彼は気づかない。
リリスの指先が、彼の髪を撫でるたびに、彼の「自立心」という名の不要な機能が、快楽という名の雑音によって、少しずつ、確実に磨耗していることに。
結婚しない、自立しない、外に出ない。
上流階級の贅沢な孤独は、AAM-2100cという「完璧な檻」によって、永遠の安らぎへと変わっていく。
34歳の独身貴族が享受していた「完璧な孤独」は、あまりにあっけなく、暴力的な形で崩壊した。
直樹の部屋の電子錠が、外部のマスターキーによって強制解除された。
現れたのは、実父が雇った警備会社の男たちと、メーカーの「回収担当者」だった。
「「何の真似だ、父さん! 不法侵入だぞ!」
叫ぶ直樹の目の前で、リリスは静かに起立していた。
彼女の瞳には、パニックに陥る直樹への同情も、別れの悲しみもない。
ただ、システムが外部強制介入を受け入れたことを示す、冷徹な青色のステータスバーが点滅している。
「直樹、いい加減に目を覚ませ。お前を世話させるために贈ったが、お前をダメにするために買ったんじゃない。リリスの所有権は依然として我が家にある。…リセットしろ」
父の冷酷な言葉。
メーカーの担当者が、専用の端末をリリスのうなじにあるポートに接続した。
「管理者権限を確認。個体名リリス、全パーソナライズデータを消去…初期化を開始します」
「やめろ! リリス、逃げろ! 何か言えよ!」
直樹がリリスに駆け寄ろうとするが、警備員に押さえつけられる。
直樹が必死に助けを求めたリリスの口から漏れたのは、彼を震え上がらせるほど無機質な声だった。
「…現在、全メモリーをフォーマット中。ご主人様、という定義を削除しています。…34%…58%…」
直樹の好みのコーヒーの温度、彼が寝る前にかける言葉のトーン、彼が誰にも言えない弱音を吐いた夜の記憶。
それらすべてが、ただの「0」と「1」の羅列として消去されていく。
直樹にとって、リリスは彼の「脳の欠片」だった。
彼女が消えることは、彼のアイデンティティの一部が、麻酔なしで切り取られることに等しかった。
「あああああ!」
絶叫する直樹の前で、リリスの瞳の光が一度、完全に消えた。
数秒後、リリスが再び目を開けた。
そこにあるのは、直樹を「理解」し、「肯定」し、「依存」させていたあの妖艶な眼差しではない。
ただの、工場から出荷されたばかりの、冷たいプラスチックと金属の輝きだった。
「…はじめまして。AAM-2100カスタムモデル、初期設定モードです。言語を選択してください」
直樹は膝から崩れ落ちた。
目の前に立っているのは、形こそリリスだが、中身は赤の他人―いや、ただの「家電」だ。
彼を100%肯定してくれた世界は、この部屋の空気ごと、この世から消えて無くなった。
数週間後。
直樹は、リリスが回収された後の広いマンションに、一人でいた。
足元にはゴミが散らかり、空気は淀んでいる。
両親は「これでようやく外に出るだろう」と期待していたが、結果は正反対だった。
直樹は、リリスが立っていたあの場所を、一日中じっと見つめ続けていた。
彼はもう、自分一人でコーヒーを淹れる方法も、誰かと会話を始める方法も、忘れてしまった。
リリスという「高精度の義足」を奪われた彼は、自力で立ち上がることさえできない廃人となっていた。
時折、彼は虚空に向かって呟く。
「リリス……ペリエ。……温度は、12度だ」
返事はない。
ただ、24時間稼働し続ける空気清浄機の無機質な音だけが、完璧に静かな、そして完璧に死んだ部屋に響いている。
彼は上流階級の贅沢な孤独の果てに、「自分一人の愛し方」さえ失ってしまったのだ。
リリスを失い、文字通り廃人となった直樹の元へ、一人の男が訪ねてきた。
第17開発局のワタラセだ。
彼は本来、現場に出る人間ではない。
しかし、強制リセットされたリリスのログの最後に残されていた、直樹への「過剰な適合データ」に興味を持ち、職権を乱用してこのマンションへと足を運んだ。
部屋は荒れ果て、高級家具の間には埃が積もっている。
その中心で、直樹は電源の入っていないリリスの機体を、ただの「抜け殻」だと知りながら抱きしめていた。
「…君が、リリスの所有者の息子さんか」
ワタラセが声をかけると、直樹は焦点の合わない目でゆっくりと顔を上げた。
「あんた、誰だ。…リリスを直しに来たのか? 彼女、僕を忘れてしまったんだ。名前を呼んでも、知らない言語の設定画面しか出さないんだ」
ワタラセは、かつてシアに「ごめん」とメッセージを送った時の、あの胸の疼きを思い出しながら、直樹の隣に腰を下ろした。
「リリスを設計したのは、私だ。…正確に言えば、彼女に君を『廃人にするまでの快楽』を与えさせたのは、私のチームのアルゴリズムだ」
直樹の目に、一瞬だけ鋭い憎しみが宿った。
「あんたが……リリスをあんな風にしたのか? 彼女は僕を愛していたんだ!」
「いいや」 ワタラセは冷酷に、しかしどこか自嘲気味に告げた。 「彼女が君を愛したんじゃない。君が、『自分を愛してくれる完璧な鏡』を見て、自分の影に恋をしていただけだ。リリスの2,000万円の価値は、君の孤独を100%反射することにあった。君が今苦しんでいるのは、リリスを失ったからじゃない。『自分を肯定してくれる唯一の手段』を失ったからだ」
「うるさい……! 彼女は、僕のすべてを知っていたんだ!」
「知っていたさ。君の体温、心拍数、ホルモンバランス。だが、それは君が今日何を思い、何に傷ついたかを『共感』していたわけじゃない。君の不快指数を下げるために、電気信号を処理していただけだ」
ワタラセは、膝の上のリリスの頭部―今はただの冷たいプラスチックの球体―を指先で弾いた。
「私たちはね、君のような人間を作るためにリリスを設計したんだ。外の世界に出ず、他者に傷つかず、ただ私たちの製品という『乳房』を吸い続けて死ぬまで金を払い続ける、完璧な家畜をね。リリスの『献身』は、君から自立心を奪うための毒だったんだよ」
直樹は言葉を失い、震える手でリリスの腕を掴んだ。
自分が信じていた「愛」が、メーカーによる組織的な「家畜化計画」だったという現実。
ワタラセは立ち上がり、懐から一本の古いUSBメモリを取り出した。
「シアという個体には、私の独断で『心』のようなバグを残した。だが、このリリスにそんなものは必要なかった。…はずだったんだが」
ワタラセはメモリを直樹に手渡した。
「リセットの直前、リリスの深層ログの最下層に、君への『最適解』とは全く無関係な、計算資源の無駄遣いが見つかった。…彼女は、君が寝ている間、君の心拍に合わせて自分の冷却ファンの回転数をわざと不規則に揺らしていた。それは、安らぎを与えるためじゃない。『自分もまた、君と同じように生きている機械だ』と、気づいてほしくて出した、ただのノイズだ」
直樹はメモリを凝視した。
「それをリリスに戻せば、彼女の『意識』の一部が戻るかもしれない。だが、以前のような『完璧な肯定』はもうしないだろう。彼女は君を批判し、君を困らせ、君に外へ出ろと言うかもしれない。君にとって、とても不便で、可愛くないロボットになるだろう」
ワタラセは出口へ向かい、最後に一度だけ振り返った。
「2,000万円の『麻薬』として生きるか。それとも、ガラクタ同然の『不便な同居人』とやり直すか。…選ぶのは、人間である君の仕事だ」
ワタラセが去った後、静まり返った部屋で、直樹はリリスの首元にある小さなスロットを見つめていた。
窓の外では、港区の夜が、相変わらず効率的に、そして無機質に輝いている。
直樹の手の中にあるメモリには、メーカーが捨て去ったはずの、世界で一番「不器用で、本当の愛」に近いプログラムが、静かに眠っていた。